●3:浪漫飛行へ


「そんなわけないじゃん」「どうしてわかったの」――どっちの言葉を言うのが正解?

 ●

 中間テストが終わって、なんだかんだとしていれば、もう『そろそろ期末テスト』な時期だ。
 梅雨も明けて夏らしくなってきた――生徒達の制服も、学ランや長袖から白い半袖へ。まだセミが鳴くにはちょっとだけ早い季節。

「あっつぅ」

 下敷きをペラペラ団扇かわりに、ノバラは下校時刻になってもまだ青い空を見上げていた。日が長い。暑さも増して、登下校の歩きがしんどいシーズンだ。
「なんかさぁ、毎年『今年は冷夏になる』とか言っといてガッツリ猛暑じゃない?」
「冷夏だとお米が不作になるからな、暑いのもお米の為と思って耐えるしかないさ」
 サダヒロはお店に行くともらえたりする本当の団扇で顔を扇いでいる。もう片方の手には割って分けるタイプのチューブアイス。最近はよくドーナツの代わりにアイスをノバラと半分こしていた。
 手や首や額をひんやり冷やしつつ、ノバラはコーヒー牛乳味の氷菓を口に含む。
「お米の為かあ……背に腹は代えらんないもんね……ていうか七月でこの暑さって、八月どうなんの? 死ぬの?」
「八月は夏休みだ幸いにして……」
「ほんとだ……ラッキー……」
 うだうだしつつ、いつもの駅だ。ホームのゴミ箱に、食べ終わったなまぬるいチュープを捨てて。
「日曜、何時に集合にする?」
 サダヒロが問う。「んー」とノバラは少し考えてから。
「九時四五分ぐらいにいつもの駅の改札で」
「わかった」
 今日は金曜日だった。そして日曜日、二人は一緒に勉強をすることにしていた。

(……今度はいい点とれそう)
 自宅の自室にただいま。ノバラはドアを閉め、鞄を置いて、制服から部屋着になるべく手をかける。
 中間テストの件があったから、両親からは「次はこんな点数取らないようにちゃんと勉強しなさいよ」と言われている。なので「まあ見ててよ。今度はすっごい良い点数とるから」と自分を奮い立たせる為にも啖呵を切った。
 放課後の時間をサダヒロとの勉強に注力するようになってから、おかげさまで授業に追い付けているし、今のところつまずきも感じていない。いい感じだ。
 それにもう一つ、「いい感じ」なことがある。ここ最近、感情が昂って竜になることが起きていないのだ。勉強に追い付けているという安心感、サダヒロという友人として大きな存在、それがノバラを支えているからだろうか。
 それから、「サダヒロくんとつきあってるの?」にも「友達だから」を延々と返し続けて――その甲斐あってか、最近はもう「つきあってるの?」と聞かれることはほぼないと言ってもよくなった。まあ、噂好きの子なんかは目を光らせているようだが、もうノバラはそういった目にいちいち気を尖らせるのは止めようと決めたのだ。

 そんな日々の中――サダヒロを見ていて、分かったことがある。
 自分のしたいことに素直になること。それが結局、一番心が落ち着くことだった。

(冷静に、落ち着いて、ちゃんとしなきゃ、甘えちゃダメ……そんなふうに自分を『すべき』で抑えつけすぎてたのかも)
 だから、余計に気が立っていたのかもしれない。
 というわけで、だ。
(……思い切って買っちゃったよね)
 着替えの済んだノバラは、ちらりと洋服タンスを開けてみる。そこにはデニムのスキニーが納められていた。
 ノバラの私服はいつもスカートだ。ズボンは、尻尾が生えたら破れてしまうから。変身の制御が今より下手糞だった幼少期からずっとスカートで……だからこそ、ノバラにとってズボンとは憧れの象徴だった。
 髪が短いのも似たような理由だ。髪が長いとヘアアレンジしたくなったり、かわいいアクセサリーを着けたくなる。だが竜になり、髪が全てたてがみへと変貌すれば、髪飾りなんて全部とれてしまう。ヘアゴムが千切れたり、アクセサリーが壊れたりもする。だから、そういうオシャレをしたい気持ちが湧かないように、ノバラは髪を短く切り揃えていたのだ。
 ……だけど最近は、ちょっと伸ばそうかな、なんて思っているし、ヘアピンも買ってしまった。シルバーカラーの、連なった小さな花モチーフ。花の真ん中にはマゼンタピンクのビーズが埋め込まれ、きらきらしていた。一目惚れだった。今までだったら、「でも竜に変身したら取れちゃうし壊れるかもだし」で諦めていただろうに。
「竜になってしまったらどうしよう」のせいで抑圧されていたけれど、本当はノバラは同年代の女の子のようにオシャレを謳歌したかった。ずっと、ずっと。
(へへ……楽しみだな)
 オシャレができる日。思い描くと、わくわくする。……もちろん、ちゃんと勉強もするけれど。

 ●

 かくして、日曜日である。
 自室の鏡の前、ノバラは自分の姿を映している。ふんわりした白いブラウスに、デニムのスキニー。黒髪を飾るのは花のヘアピン。唇にはほんのりと色付きのリップ。薬局で買えるような安物だけど、華やかな香りの練り香水も少しだけ。鞄は……問題集やノートなどを入れる兼ね合いから、いつもの学生鞄だけど。
「……よし」
 いいんじゃないか、なかなか。ノバラは腕時計をちらと見てから、自室を後にする。いつものローファーではなく、洒落たスニーカーを履いた。
「いってきまーす」
 母親に呼びかける。「デート?」なんて茶化されたけど、「友達と勉強するだけだし」とすげなく答えた。
 オシャレしたけれど、それは他人の為ではなく、自分の気分を上げる為。モテたいとか、ましてやこれから会うサダヒロに異性アピールをしたいとか、そんなのではなくて。むしろサダヒロだからこそこうやって好きなオシャレができていた。これが中途半端に恋愛脳の男と会うとなったら、絶対にこんなことしようとは思わなかった。
「あっつぅ」
 外に出るなり、ぎらんと七月の日差し。流石にこのオシャレな格好で下敷きを団扇にするのはいただけない、ので、母親の扇子を勝手に借りてきた。今日、自分用の扇子を買おうかなぁ……なんて思いながら駅へと向かう。

 ノバラとサダヒロの『いつもの駅』には二種類ある。今回の『いつもの』は、二人が出会って別れる方の駅だ。たくさんの乗り換えができるその駅周辺は栄えており、いろいろな店があるのである。
 今日は登校日ではないので、いつものホームではなく、改札口での待ち合わせ。少し早く到着したからまだサダヒロは来ていないようだ。辺りを見渡してから、ノバラは目印になるようコンビニの近くでスマホを開く。
『到着コンビニ前』
『了解0941着』
 ノバラとサダヒロのやりとりはいつもこんな感じだ。ちなみにスタンプも絵文字も一切使わない。味気ないが相手がどうでもいいからではなく、二人とも「こういう気質」なのである。おかげさまで、ノバラは前後コンビを始めクラスメイトと連絡先を交換したけれど、アプリ上の会話が盛り上がることはほとんどなかった。
 ――さて、そろそろかな。改札前、行き交う人々を眺めながら、その中からサダヒロを探す。そうしてほどなくのことだった。
「おーい」
 彼が早足にやって来る。白シャツに黒チノパンと、学ランの上着を脱いだだけみたいなシンプルな姿で、「らしいなぁ」とノバラは思った。
「おはよ、サダヒロくん」
「おはようノバラさん。……おしゃれさんだな!」
 サダヒロは快活に笑った。その言葉からは、女子同士によくある「エ~カワイイ~」的お世辞とか、下心のある男の「とりあえず女を褒めときゃヤれる」といったモノは一切感じられず。だからノバラも安心して、素直にその言葉を受け取ることができるのだ。……少し照れ臭いことは確かだけれど。
「ありがと」
 そんなことないよ、とか、そういう自虐や卑下の言葉は、サダヒロが好きじゃないことをノバラは知っている。だから感謝を返しておく。
「似合ってる」
「ふふ」
「……あ、角が微妙に出てる」
「うるさいなあサダヒロくんのせいでしょ」
 あんまり褒められると心が「ぶわ~」っとして角がちょっとだけ出る。くしゃりとからかうような含み笑いだけをして、ノバラは逃げるように改札へ足を向けた。角を抑えつけるように自分の頭を撫でて、伸びかけた赤い角を引っ込めた。
 サダヒロはそれについていきつつ。

 ――「すぐ竜になっちゃうから、かわいい服だって『どうせ破いちゃうし』って着れないし」
 ――「尻尾で破れちゃうから、いっつもズボンじゃなくてスカートだし」

 そんな、ノバラの言葉を思い出していた。
 サダヒロはノバラが体操服のジャージ以外でズボンをはいているのを初めて見た。……信頼してくれているのだろうか、なんて考える。自分といたら感情が暴走して竜になることはないだろう、と。
 それが少し――いや結構、かなり、嬉しい。もう一歩深く、友達と仲良くなれた気がして。

 ●

 駅前の商店街にある、レトロでオシャレな喫茶店。
 隅っこの方の席で、二人はノートを見返したり、問題集を解いたりしている。オトモはノバラがロイヤルミルクティー、サダヒロはウインナーコーヒー。特に会話もなく――時折ノバラが「ここどうしたらいい?」とサダヒロに聞く程度――黙々と、店内の静かなジャズを環境音に、二人は勉強に励んでいた。
 ノバラはこの時間が好きだ。周りにはノバラとサダヒロのことなんて知らない人だけで、誰にも何にも干渉されることなく、まったりできるから。……中学まで、お小遣いの使い先なんてほとんどなかったから、こうしてお小遣いを使うという行為もなんだか新鮮だ。
 真っ白なカップの、ロイヤルミルクティーを一口。濃厚で深い味わい。お砂糖はナシで、ミルクだけのコクのある甘み。
(……おいし)
 ふう、と一息。空っぽになったカップを置いて、さて――勉強も進んだ。「ここまでできたらいいな」という目標もクリアした。集中もちょっと切れてきた。あとお腹もすいてきた。
「……そろそろ、ごはんにしない?」
 サダヒロは未だ集中していた――彼は一度スイッチオンになるとものすごいゾーンになる――ノバラが呼びかけると、彼はハッとした顔を上げた。相変わらずすごい集中だったようだ。
「ああ……もうこんな時間か。うん、何か食べようか。どれにする?」
「このサンドイッチ盛り合わせ、気にならない? 二~三人でシェアしてください、だって。すご」
 メニューを開いて指で差すのは、ミニサイズのサンドイッチがお皿にこれでもかと敷き詰められた一品だ。いろんな味があるようで、お値段も二人でシェアするとなるとリーズナブルではなかろうか。
 じゃあそれで。そういうわけで注文をすれば――ほどなく、やってきましたサンドイッチ。「シェフは空腹にトラウマでもあるのか」と言わんばかりの大盛りぎっしり。
「おー……」
「なんか写真のイメージよりおっきいね……?」
「すごいな……いろんな味がよりどりみどりだ……」
「うん、ピッタリ半分こだと私食べきれないなこれ! サダヒロくん、あんまりはんぶんことか気にせず食べていいからね」
「いいのか!?」
「いいよいいよ」
 では、いつものお弁当の時のように手を合わせる。
「いただきまーす」

 サンドイッチの中身は様々だった。
 スタンダードなキュウリとハム、スクランブルエッグ、トマト、レタスといったものから、デザート系の生クリーム&イチゴ、チョコレートソース&バナナまで。

「やーそれにしてもほんと助かるよ、ありがとう」
 ぽりぽり、キュウリとハムの王道的サンドイッチを頬張りつつ、ノバラは正面の席のサダヒロに言う。勉強につきあってもらっていることについてだ。
「こちらこそ、やる気になってる」
 やっぱり食べる速度はサダヒロの方が早い。一口がでかい。見ていると楽しいぐらいだ。
「そういえば……」
 水を一口、サダヒロが少し声をひそめた。
「気になっていることなんだが……いいか?」
「ん、なに?」
 真面目な質問かな、とノバラは食べかけのサンドイッチを一度取り皿に置いた。サダヒロは真っ直ぐに問いかけてくる。
「どうして君は、強いと言われることが好きじゃないんだ? 貶してるつもりではなくて……かつ、俺個人の感性になるが……強いこと、って決して悪いことではないように感じるんだが」
「……それはサダヒロくんは男の子だから」
 ノバラは小さく苦笑した。
「強い、っていうのにも……まあ、いろいろ種類はあるんだろうけど……少なくとも私が感じたのは、『強いと守ってもらえない』ってこと。強いと、誰も手を差し伸べてくれない……身勝手な『あの子は強いから大丈夫でしょ』信仰をぶつけてきて……みんなの信仰に反することをしたら『らしくない』って勝手に言われて……目立てば目立つほど、みんなの『あなたはこうだよね?』を押し付けられるんだ、疲れちゃうよ。全然楽しくないし、嬉しくない」
 ノバラは目を細めて、窓の外の夏を見た。

 ――「ねえ、ノバラさん強いでしょ。アイツのことどうにかしてよ」
 ――「ノバラさんはいいよね、私達と違って頭がいいからさ」
 ――「ノバラさん、これ頼める? いいでしょ? 君はリーダーシップがありますし 断る? そんな無責任なことを言われても困ります」
 ――「ねえ……ノバラさん、ちょっと助けて欲しいことがあるんだけど……見捨てたりしないよね? あなた強いもんね? やってくれるよね? 私達弱いんだもん、助けてくれるよね?」

 思い出してしまう言葉達を、深い瞬きで暗転させて。
「それにね、強い女の子は女の子扱いしてもらえないの。……チヤホヤされて人気者なのは、優しくしてもらえるのは、いつだってか弱い女の子。お姫様みたいな女の子。護ってあげないと、って思わせるような可愛げのある子。欠点や失敗すらも愛嬌に見えるような……、ね」
 そう言ってから、ノバラは肩を竦めて笑った。
「あはは、こーゆーとこだよね私の可愛いげがないの、ごめんね、なんか」
 水に流すように、食べかけだったサンドイッチを頬張った。一方でサダヒロは――じっと、ノバラを見つめていて。
「そうか……、君はすごく寂しかったんだな」
「……は、」
 ――「そんなわけないじゃん」「どうしてわかったの」。
 二つの相反する気持ちが、同時にノバラの心に渦巻いた。
 なにか、深いところでじんと響いた言葉。ノバラは思わず俯いてしまう。「そんなわけないじゃん」「どうしてわかったの」――どっちの言葉を言うのが正解? それとも、やはり沈黙が金なのか? 分からないけど、なんだか不意に泣きそうになった。変に喋ると言葉とか感情とかが漏れ出して、また角が生えてしまいそうな気配がした。
 ……「あなたは強いから」を盾にする人々とサダヒロは、大違いだった。
「今は俺がいるぞ」
 ノバラが静かなので、サダヒロが言葉を重ねる。少女はどうにか顔を上げて、笑ってみせた。
「ほんとだ。……ありがとね。嬉しい」
 あなたに会えて良かった、っていう言葉は、重たいかな。そう思って、水を飲んで、なんてことない顔をする。

 ●

 サダヒロは毎度「奢るよ」と言うが、ノバラは「いいよ別に」といつも会計は分けている。もしくはキッチリ割り勘だ。
 喫茶店を出て、商店街を歩く。適当に街並みを眺めながら、他愛もない会話と共に、メインはほとんど散歩だ。期末テストも近いし、ほどほどの時間で解散するつもりではあった。
「ああ――そういえば扇子ほしいんだよね」
 桜柄の扇子をひらひらさせながらノバラが言う。「これ母さんの勝手に持って来ちゃったんだ」と付け加えた。
「……でも扇子ってどこに売ってるんだろ? 普通に服屋じゃ見かけないし」
「呉服屋……?」
「そういうとこのって高そう……。まあショッピングモールのどっかにあるでしょ」
「行く?」
「そうだね」
 近くにちょうどいいショッピングモールがある。ならばと二人はそちらを目指して歩き始めた。
「テストが終わったら夏休みだね」
「早いものだなぁ。……ノバラさん、夏休みはどうすごすんだ?」
「特に……まあ……ぐうたらしたり図書館行ったり……あー、あと博物館とか水族館とか好きかな……」
「へー。なかなかアクティブじゃないか」
「うん、お出かけするのは好きだからね」
 一間。横断歩道の前で待機の赤信号。はたはた、顔を扇子で扇ぎつつ、ノバラはサダヒロの横顔を見た。
「……。よかったらさ……一緒に行く? いろいろ」
「!! いいのか!?」
「あ、でも竜になる修行とかあるならそっち優先してもらっていいよ。……ていうか四月に私に決闘申し込んできたけどさ、アレからああいうことまだしてるの? 竜になるべくの限界突破的な」
「いや、してない」
「いいの?」
 青信号。ぴっぽー、ぴっぽー、と例の音。先に歩き出したサダヒロが、少し照れ臭そうに振り返った。
「……君と遊んだり勉強してる方が楽しくて……」
「あはは――そっか。いいね」
 サダヒロくんもそんな顔するんだなあ、なんて思いながら、ノバラもまた歩き出した。サダヒロが言う。
「それにこの一五年間、身体を虐め抜く方法でアプローチして竜になれていないのだ。そろそろ違う方法に舵きりしてもいいんじゃないか……とか思っていたりする」
「ストイックだなぁ。身体を虐めぬくってそんな……何してたの?」
「ありとあらゆる格闘技系の夏季合宿に参加させまくってもらったり……炎天下をひたすらマラソンしたり……山登りとか無限遠泳とか……」
「うわ怖、ていうか普通に後半は危険行為じゃん?」
「……そういうことをしても竜になれなかったワケだがな。だからもう今年は遊んじゃおうかなって……」
「いいんじゃないかな。じゃあさ、海にでも行く?」
「海――……」
 横断歩道を渡り終える。別の商店街の屋根の下、太陽がさえぎられる。
「行きたい!」
 サダヒロが声を弾ませた。
「いいねえ。じゃあ今度スケジュール決めよ」
 そういえば海に行くのは久々だなぁとノバラは思った。最後に行ったのは小学生の時?
(……あ。水着買いにいかないと)
 学校指定のスクール水着しか持っていない。流石に高校生にもなって水遊びにスクール水着はちょっと。折角だし今から水着を買うか……とは思うが。
(いや、でも、男子の目の前で水着を選んで買うのは……ハードルが高いな……)
 こう思うと。スクール水着以外の水着を身に着けるのって、生まれて初めてでは?
(水着っていくらぐらいするんだろ……)
 ……後でお小遣いと相談だ。

 ●

「じゃあさ、海にでも行く?」
「海――……行きたい!」

 ノバラとすれ違った少女は、驚いた顔で後ろを振り返った。
「――……、え?」
 目が離せない、あれは、やっぱり、見間違いではなかった。ノバラだ。
(なに、あいつ)
 目を見開いて、ノバラと――そして、彼女がつれている男とを見比べている。
(なんで、あんな)
 ノバラの楽しそうな笑顔。弾んだ声音。洒落た服。――少女の知っている、ノバラではない。
 少女はノバラの中学生時代の同級生だった。
 通り過ぎたショーウィンドウのガラスに一瞬映った姿――ばさばさに傷んだ根元が黒い金髪、くたびれた灰色のスウェット、擦り切れたサンダル――その見た目から連想される情報の通り、彼女は不良と呼ばれるグループに属していた。中学生の時から、だ。

 ――そして彼女は、ノバラのことが大嫌いだった。

 強くて。勉強ができて。生意気で。こっちの行動にあれこれ文句を言って否定してきて。先生や大人どもに気に入られて。まるで「あんたには何もないでしょ」と言わんばかりで。
 でも強いから。頭がいいから。逆らうことはできなかった。少女はまだ覚えている……脚を引っかけてノバラを泥だらけの水たまりへ転倒させて、皆でゲラゲラ笑っていたら。振り返ったノバラは――恐ろしい眼光をして、おぞましい牙を剥いて、ぞっとするような咆哮と共に、巨大な竜と化して。
 やばい、まずい、咄嗟に竜になって迎え撃ったけれど。喉首を噛まれて、地面に引きずり倒されて、顔を恐ろしい鉤爪で踏みつけられて。逃げようとする他の生徒も尻尾の一撃で薙ぎ払い、その麻痺毒で逃げられなくして。

「二度とあんなことしないで、次同じことされたら、私、自分で何するか分かんない。それから、授業中は静かにして。廊下で煙草吸うのもやめて。煙草のポイ捨てもしないで」

 奇しくも、少女が抑え込まれたのは、ノバラを転倒させた泥の水たまりの上だった。
 その日から少女の肩書はこう。「北中の魔王に喧嘩を売って、あっけなくシメられた無様な雑魚A」。他の『同類』からナメられる日々が始まった。
 ……ノバラが嫌いだ。大嫌いだ。だけど彼女を上回れる手段を、少女は何一つ持っていなかった。強くもなければ、賢くもない。つまるところ、少女には何もないから妬ましい。鬱陶しい。
 きっとノバラは、今すれ違った自分のことを覚えてもいないのだろう。その証拠に、彼氏と遊びに行く約束を楽しそうにしていた。ああ気に食わない。このあたりでは有名な進学校に行ったことも。気に食わない。気に食わない。ノバラが自分だけ、青春をキラキラ謳歌していることを。弱い奴らのことなんて、忘れた顔をして。気に食わない、気に食わない、気に食わない。

 ――ちょっとぐらい嫌なことがあってもいいじゃないか。なんでも持ってる強い子なんだから。多少傷ついても平気だろうが!

 少女は早足に、自分と共に歩いていた一団――少女は最後尾だった――の先頭へと合流する。一団はいわゆる不良グループだった。周りは少女と似たような女子ばかりで、先頭にいたのが彼女らのボスである『先輩』で。
「ね……ねえ先輩、『北中の魔王』ってご存知っすか?」
 媚びるようなワントーン高い声、顔には緊張。この『ハーレム』のボスの御機嫌取りは、少女にとって毎日の命懸けだった。そうやって命懸けで媚びてこのボスの身内になることが、彼女にとっての生存戦略だった。
「あ?」
 じろりと、眉毛のない面長の少年が、暴力的な眼差しを『奴隷』に向けた。
「そいつが先輩のことナメてたっすよ。マジ、女の癖にイキってるんで……わからせてやってくださいよ。今、通り過ぎた男女の女の方っす。先輩のほう振り返って笑ってたっすよ」
「……は? なんでそもそも俺に指図するわけ?」
「へ」
 理不尽。それがこの少女らを縛り付ける鉄則で。凍り付く少女が見たのは、振り上げられる少年の手。
「調子こいてんじゃねえブス!」

 ●

 この商店街を抜ければショッピングモールだ。大型ショッピングモールができたおかげで商店街は閑古鳥、ややシャッターが目立つ、古くて寂れた場所である。
「すいませーん」
 ノバラとサダヒロを呼び止めたのは、知らない少年の声。
 自分達のことだろうか? ノバラが振り返れば、そこにはくたびれたスウェット姿の面長の少年がいて――柄が悪そうなひとだな、と思った瞬間――彼は何の迷いもなく、ノバラの胸に手を伸ばしていて――
(え、?)
 少女は思考まで凍り付いた。彼の行動のなにもかもが意味不明で――何もできないでいると――その手がノバラの身体に触れる寸前に、少年の手首を掴んだのはサダヒロだった。割り入り、手は離さず、少年を見上げる。
「……失礼ですよ」
 サダヒロの声に、眉のない少年は無視をしたまま身体を傾け、その後ろのノバラを不躾なほど見た。
「うわ! ぶっさ! 北中の魔王ってお前?」
「――っッ!」
 どうして、知ってる? それに、この意味不明な行動は、何? ノバラは脳が冷たくなるような心地を覚えて半歩下がる。
「きもっ」
 サダヒロの手を振りほどいて、少年は嗤う。その遠巻き、取り巻きの少女らが「きっも、ウケる」と囃し立ててスマホを向けていた。彼女らの奥には、鼻血を出している少女がじとりとノバラを睨んでいた。
「う……」
 露骨な敵意と悪意に晒され、ノバラは意識がぐるぐる渦巻くのを感じた。『危機』によって沸き上がるのは激情。自己防衛本能。それがいけないことだとは分かっている、落ち着いて、冷静に、そう繰り返そうにも混乱して。怖い。怖いのは嫌。嫌だから、目の前から消えて欲しい。
 かしゃん、と髪飾りが落ちて、転がった。きらきらの、花のヘアピン。頭を押さえても角が生えるのは止められず。駄目、そう思って焦るほどに――少女の目は真っ赤に、爪は鋭く。竜になってしまう。そうしたらきっと、キモイキモイと嗤われる――

「不細工じゃない、気持ち悪くもない、ノバラさんは綺麗だ」

 ノバラの感情の渦を止めたのは、そんなサダヒロの声だった。
「さっきからなんなんだ君達は。迷惑だ。寄って集って、恥ずかしくないのか! 正直ダサいぞ!」
「は? きも」
 語彙力がないのか、少年は同じ貶し文句ばかりを繰り返す。だが行動は衝動的で、サダヒロへいきなり前蹴りを繰り出していた。それは彼の腹部に直撃する。どふ、と鈍い音がした。
 眼前で起きた暴力に、ノバラはゾッとする。
「サダヒロく、――」
「効かんわ!」
 彼は攻撃を喰らったのではない、真っ向から受け止めてみせたのだ。竜になるべくと鍛えたサダヒロの身体は鋼のごとくであった。
「そして正当防衛成立ッ!」
 言葉終わりには、目で追うこともできないほどのフックパンチが、ガラの悪い少年の顎先をかすめていて。……見た目だけならなんてことない、外したのかと思うほどの映えない一撃――だがそれは『顎先をかすめる』という『致命的一撃(クリティカルヒット)』で、少年の頭蓋骨の中身を恐ろしく揺さぶっていたのだ。ボクシングにおいて用いられるパンチ術である。
「か――」
 少年はぐりんと白目を剥いて倒れ込む。取り巻きの女子らが悲鳴を上げた。サダヒロは彼女らを睨む。
「……君達も、俺やノバラさんに暴力をふるうのか?」
 問いに彼女らが返すのは変わらずの悲鳴。我先にと仲間を押しのけ逃げていく……誰も『ボス』を助けようともしなかった。
 だが、ただ一人、残った少女がいる。件の、鼻血を出している――ノバラと同級生だった少女であった。彼女は涙で真っ赤な目をして、ノバラに対して怒鳴り散らす。
「なんであんたは、なんであんただけ! ちょっとぐらい嫌な目に遭えよ! ずるいだろ!」
 どうせ私のことなんて覚えていない。そう思っていたけれど。
「……アザミちゃん……?」
 半ば竜となってしまったノバラの背中から、ぶちぶちとブラウスを引き裂いて深紅の翼が生えた。ノバラは顔を歪め、同級生を――アザミを見る。アザミは予想外に名前を呼ばれてぎょっとしていた。ノバラは唇をきつく噛み締めてから、どうにか感情を抑えた声でこういった。
「……嫌な目になら遭ってるよ。遭ってきたよ。……私、アンタ達が思ってるほど、強くも賢くもない。今だってビビってなんにもできなかった。テストだってこないだ赤点だった。いいこと尽くしじゃないよ」
 びき、と音を立ててまた竜化が進む。その進行を抑えながら、苦しそうに、ノバラは続けた。
「だから――私のことは放っておいて。私が嫌なら関わらないで。私に関わってしんどいだけなら、関わらない方がお互い幸せでしょ」
「っッ……ふ、ふざけんなよ! 意味わかんねーよ!」
「意味わかんねーならなんで泣いてんだっつーの! 馬鹿か! わかってんのにわかんねーって言ってんじゃあねえッ!」
 その声は半ば咆哮。叫びと共に口から火花が散った。ビリビリと空気を震わせ、アザミを竦み上がらせ黙らせる。
「ふーッ、……もう懲りたろ、その鼻血、どうせこの男にやられたんだろ。ねえ、アザミちゃん、つるむ相手は選びなよ。私とか、コイツとか、アンタにとってしんどい人に近づいてばっかりだとさ、最後に不幸になるのはアンタだよ」
「う……ぅ、ううぅうううぅうう~~~~ッ……!」
 アザミはがくがく震えると、泣きながら走り去っていった。
「……ノバラさん」
 静かになった。疎らな店の店員や、通りすがりの者が、呆然とざわついてこっちを見ている。誰も彼もが「誰かが少年少女の喧嘩をどうにかするだろう」と思っていたのか、結局、誰も通報をはじめ干渉をする者はいなかった。ある意味、それがノバラ達には救いになった。
「行こう、こっち」
 サダヒロは少女の手を引き、その場を早急に後にする。
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