●2:レッドドラゴン(赤点的な意味で)
「サダヒロくんには本当に申し訳ないんだけど、……しばらく、お弁当一緒に食べるのやめない?」
●
校内の桜はすっかり青々とした若葉となり、薫風漂う初夏となった。
四月の騒々しさもすっかり抜けた五月。ありふれた授業中。開け放たれた窓からは、運動場から体育の授業の音が聞こえていた。窓際の席、ノバラはなんとはなしに運動場の方を見やる。
どうやらサダヒロのクラスの授業だったようだ。目を凝らせば……いた。サダヒロだ。走り幅跳びの測定のようで――走って、跳ぶ、ものすごい距離を。
(メチャクチャ跳ぶじゃん、すご……)
竜に変身できない代わり……なのかはわからないが、サダヒロの身体能力は折り紙付きだ。その飛距離に「おお~~」と運動場の他の生徒や先生も感心している。サダヒロのガッツポーズ。
――と、彼は運動場を見下ろしているノバラに気付いたのか、彼女の方へと手を振った。表情まではノバラからは見えなかったが、多分、あれは、笑顔だと思う。
(なんで私が見てるの気付いてんの、視力ヤバ……)
見えてるかわからないけど、ノバラも小さく手を振っておいた。
ちなみに――ノバラは体育は苦手だ。
サダヒロとは真逆で、彼女は人間の姿だとまあ運動神経がよろしくない。走れば遅く、跳べば短く、ボールは明後日の方向に飛んでいく。
だが竜になると……他の生徒より一回り大きく、その辺の男子よりゴツくて厳めしく、その上、なぜか人間の姿だとダメダメな身体能力がこれでもかと向上した。
さっきサダヒロを見ていた時から場面は変わり、今はノバラ達が体育の授業で、竜に変身して行う授業内容だった。運動場には竜に変身した生徒達。今は竜状態での200メートル走。ノバラのタイムはぶっちぎりだった。
「わー……ノバラちゃんすごいね!」
いつもの前後の席の女子生徒が目を点にして、ノバラを見上げている。二人とも竜に変身していた。華奢で細身な竜、ふさふさとした飾り毛が可愛らしい四つ足の獣のような竜、いずれもノバラが「いいなぁ」と思うようなかわいらしい外見で。
「偶然だって。それに人間の時はほんとダメだから……」
ノバラは苦笑の代わりに首をかしげて見せる。辺りではざわざわと、「ノバラさんすごい……」「速……」「ヤバ……」と声が聞こえた。
(ううーー変に注目されるの嫌なんだよなぁ、手抜きすればよかった……次の競技は手抜きしよっと……)
強いとか、凄いとか。そういうことは極力思われたくない。
ノバラは――「強い人には何をしてもいい」、という空気が嫌いだ。勝手にメンタルや責任感が強くリーダーシップがあると思われ、あれやこれやを押し付けられて期待されて。
「私達はあなたと違って弱いんだから当然でしょ」――そんな目を思い出すと、溜息が込み上げる。
(あーダメだダメだ、思い出すな落ち着け落ち着け……深呼吸、深呼吸――)
すう――はあ。
嫌な感情を吐き出して忘れるように。
……したのだけれど。
「うわあ」
そうだ。今はブレスの練習だった。たいていの竜は口から火を吐ける。遠くの的を狙って火を吐くつもりだったのに――ノバラが吐き出した火焔は、的ごと周囲を焦土に変えていた。
「なんだあの火力」
「運動場の砂が硝子になってる……」
「やべえ……あんなの初めて見た……」
ざわつく生徒、ポカーンとする教師。
「……火加減、まちがえた……」
ノバラは静かに天を仰いだ。
●
人間は竜に変身する為、一般に更衣室とはとても広い場所である。
生徒らは竜から人へ戻ると、脱いでおいた制服を身に着ける。
「ノバラちゃんすごいね! 竜道部に入ったらエースになれるんじゃない?」
いつもの前後の女子生徒が話しかけてくる。ノバラは靴下を履きながら困ったように笑った。
「あははーありがとう……でも格闘技って怖いじゃん? むりむり」
「えーもったいない」
「私より強い人なんていっぱいいるって……あ、そーいえば」
ノバラははたと気付く。
「サダヒロくんいるじゃない? 竜になれない子。あのこ、体育どうしてるの? 竜になってやるやつの場合」
「流石に見学してるっぽいよ? まあ、なれないもんはしょうがないよねえ」
「ふぅん……そーなんだ」
相槌を打ちつつ。「成績どーつけてんだろ、特例すぎて先生も大変だろーなー」……なんてノバラは内心で思った。
「サダヒロくんといえばさ!」
今度は前後コンビからの話題振り。
「ノバラちゃん、つきあってるの?」
「え? 誰と」
「サダヒロくんと!」
「……なんで?」
「だっていっつも一緒にいるじゃない?」
二人して顔を寄せる、その目はキラッキラ。あまりにもキラッキラしているから、ノバラは気圧されてしまった。
「た、確かによく一緒にいるけど……でもその理屈で言ったら、マコとウコだってつきあってることになるんじゃないの?」
本気で首を傾げるノバラに、前後コンビ――前のマコと後ろのウコ――は「そうじゃなくて~~」と声を揃えた。
――サダヒロとつるみ始めて、分かったことがある。
男女でつるむと「つきあってるの?」と言われるのだ。「違う」と言えば「またまた~」と返ってくる。そして質問者の目に悪意はないが、暗に「つきあっててほしい」という一方的な期待のようなものが確かにあって……。
……男の子と女の子は、恋をしなくちゃいけないのだろうか?
「なんか、そーゆーのしんどい」
お昼休み、いつもの中庭。プチトマトを頬張って、ノバラは重く呟いた。
「私達、恋愛する為に一緒にいるんじゃないのにさ」
サダヒロからの視線を感じ、ちらと彼の方を見る。唐突なノバラからの切り出しに、彼は白米を大きな口で頬張らんとしている寸前のまま動作を止めていた。
「サダヒロくんも言われたりしてない? 私とつきあってるのか、って」
「そうだなあ……友人関係だ、と都度返答しているが」
一度白米を下ろしてサダヒロは答える。ノバラの幾度目かの溜息。
「ごめんね、私のせい」
「いやそんな。誰も悪くないじゃないか。迷惑だなんて思ってないし」
「てゆーかさ、そもそも……私達って高校生じゃない? 未成年。自分で自分の面倒も見れない子供に、そんな、恋愛なんて本当にできると思う? 理想が上滑りしてるだけじゃない。みんな、夢見過ぎだと思うんだよね。恋愛恋愛って。高校って勉強しにくるとこだよね? マッチング会場じゃないっての」
「……ノバラさんは大人びているなあ……」
俺はそういうの考えたこともなかった、とサダヒロは素直に感心している。
「とりあえずさ……サダヒロくんには本当に申し訳ないんだけど、……しばらく、お弁当一緒に食べるのやめない? できれば……学校でもあんまり、話しかけたりとか、そういうのも控えよう」
決してサダヒロが嫌になったわけではない、と何度も念を押す。同時に申し訳ないとも思っていた。
「……身勝手でごめん」
それでも、ノバラにとって、ここ連日の「つきあってるの?」という無言の「恋愛をしろ」重圧は苦しかったのだ。周りからの変な期待で変な勘違いが起きて、変なフィルターでサダヒロを見るのも彼に対してとても不誠実だと感じた。そうやって精神がささくれだてば、「また竜になってしまうかもしれない」という不安がやってきて、気が気でなくなってしまうのだ。
「謝ることなんてないさ。……わかった。君の精神衛生が一番だ」
サダヒロは快活に笑った。「少し距離をとれば件の噂も消えるだろうよ」とノバラを励ます。少女は少し顔を上げ、「ありがとう」とどうにか小さく笑った。
「……また君とお弁当を食べられるようになったらいいな」
なんてことないようにサダヒロは言うけれど、少しだけ寂しそうだった。今度はノバラが励ます番だった。
「サダヒロくんさ、いつも私とお弁当食べてるじゃない? だからたまには教室でさ、クラスメイトと食べてみなよ。新しい友達を作るいい機会かもよ?」
「たしかに……それもそうかもしれないな」
「ね? 別に私達も絶交とかじゃないんだしさ。話したいことがあればメッセージアプリ使えばいいじゃん」
「……そういえば放課後はどうする?」
「そろそろ中間テストだし、しばらくは私すぐ家に帰ることにする。テスト勉強しないと」
「そうか」
「……もうすぐチャイム鳴るね。私、教室戻るね。それじゃ!」
ノバラは立ち上がり、スカートを払って、サダヒロに微笑んで、少し早足に教室へ戻っていった。サダヒロはその背を、見えなくなるまで見つめていた。
「……、」
ぼうっと、少年は空のお弁当も広げたままだ。
思い返してみれば。ずっと給食制度の学校にいたので、誰かと恒常的にお弁当を食べるというのは彼の人生において『珍事』であった。だが人間とは逞しいもので、一か月もあればそんな珍事にも慣れてくるらしい。
(明日からしばらく独りか……いや、ノバラさんが言ってたじゃないか。違う友達を作るいい機会かも、しれないし……)
――竜になれないのがうつるぞ!
過去に聞いた、子供の残酷な嗤い声が心を過ぎった。いやいや、もう高校生なんだ、そんな不理解極まりないことを言ってくる者なんて流石にいないだろう。大丈夫だ、教室でも疎外されたりしてないじゃないか。
だけどどうして、「疎外されないだけ」ではしっくりこないのは……、もう「拒絶されないだけ」では満足できない心になってしまったのは……、「すごいね」、と彼女に言われたから、だろう。多分。
(あんなこと、人生で初めて言われた)
おっと、そろそろ弁当箱をしまって教室に戻らねば。サダヒロは支度をして立ち上がり――もう一度、ノバラが去っていった方向を見た。翻るスカートや、黒髪のなめらかな動きを思い出していた。
(……絶交というわけではないんだし)
サダヒロからしても、友人関係を恋愛関係なのかと詰め寄られることは不本意だった。ましてやそれに感情がほだされてしまうことも嫌だった。ノバラの提案は、それでいいとは思っている。
(だけど……もしノバラさんが男の子だったら……もし俺が女の子だったら……)
こんな、「つきあってるの?」という言葉もなかったのだろうか?
(そうか……俺は今、『寂しい』のか……)
今までの人生、そして現在の高校生活で、仲のいい者はゼロではなかったが、それは友達というよりもクラスメイトの延長といった浅く広い印象のものではあった。こうも毎日一緒にいるような相手は本当に初めてで。
そう、だからこそ大切にしたい。変に周りに流されて、この関係が台無しになる事態だけは避けたかった。だからこの孤独も、今はやむなしと受け入れよう。
……そうは思えど。
放課後、サダヒロが図書室へ足を運んだのは、「もしかしたらノバラさんに会えるかも」という気持ちに由来しないと言えば嘘になる。
テストが近いからか、普段はあまりひとけのない図書室は、そこそこの数の生徒達が自習に使っていた。サダヒロはそうっとひとりひとりを見渡してみるが、そこにノバラの姿はなく。
そりゃそうだろうな……とは思っている。自分も帰ろうか、少し図書室で勉強していこうか、それとも読書でも。なんて思いつつ、特に考えもなしに古っぽいにおいがする本棚の間を適当に歩く。
――「なあ、あの一組の女子とつきあってんの?」
本棚の影を踏む中、クラスメイトの男子からの言葉を思い出す。「いや、ただの友達」と答えたら、「ははーんキープしてるのか」としたり顔で言われたので、「キープって?」と返したものだ。それから……「こいつマジか」「ガチのガチじゃん」と返ってきて……「脱童貞したら教えてくれよな」、と冗句っぽく肩をポンポンされた。
「違う、俺は性的な目的でノバラさんに近付いたわけじゃ」……そうは言ったけれど、なんだか真面目に取り合ってもらえなかった。「男が女に近付くなんて、まあ目的は一つじゃん?」――そんな空気だった。
正直、そういう空気が快くはなかった。詳細を話すとあまりにノバラにとって不愉快だろうし、「私のせいで」と言わせてしまうだろうから、彼女に打ち明けず胸に秘めているつもりだけれど。
(そもそも、周りはああ言うが、俺に恋愛など無理なのだ)
サダヒロは竜になれない。それは、この世界において異端も異端。『ありえない』ことなのだ。この学校では幸いにして平和に過ごせているけれど、幼少期は「自分達と違う」というその理由だけで、これでもかと迫害を受けたものだ。
そんな致命的欠陥を抱えた自分と恋をしてくれる存在などいるのか? それにもし、恋の果てに結ばれたとして、だ。……産まれた子供が、竜になれない子だったら? 自分のような、迫害と偏見に満ちた苦労の人生を背負わせてしまったら? 配偶者にまで、その苦難が及んだら?
そういったことを思うと、サダヒロはこう結論付けてしまったのだ。「俺は、今のままでは恋をする資格などない」。
そんなこんなのぐるぐる思考――ふっと目についたのは、一冊の詩集だった。ノバラが前に読んでいたやつと同じシリーズの文庫だ。サダヒロはなんとなくそれを手に取ってみる。目次を開いて――目に留まったのは、「のばら」というタイトルの一編の詩で。
(のばら、……)
彼女と同じ名前。興味のままにページを開いた。
――ばらよ、赤ばら、のなかのばら。
真っ赤な美しいのばらを見つけ、手折ろうとする少年。のばらは「手折るのならばあなたを刺すわ」と言う。それでも少年はのばらは手折った。その棘に刺されようとも。
凡そそんな内容。なんだか印象的だった。
本を閉じてほどなく、帰路に就いた今もその言葉が少年の頭に浮かんでいる。
駅に到着して、電車を待つ中、サダヒロはポケットからスマホを取り出した。メッセージアプリを起動する。ノバラのアイコン――自分の名前にもなっているからか、のばらの写真――をタップした。二人はあまり筆まめな方ではなく、いつもやりとりは業務連絡のようなもので。そんな中、サダヒロは「テストがんばりましょう。」と拙いフリップ入力でメッセージを送る。既読がついたのはほどなく。「ありがと」と返事が返ってきた。そこから特に会話は発展しなかったけれど、ただそれだけで、サダヒロはなんだかじんとあたたかくなった。
●
「うーん」
自宅の自室にて。ノバラは机の上に教科書とノートと問題集は開いたものの、全くと言っていいほど集中力が発生していなかった。それどころか宿題や予習復習にもなかなか着手できないでいる。
いつもは放課後、サダヒロと共に図書室でこういった自習をしていたけれど。なんだか味気ない、物足りない、原動力がない、手持無沙汰で、意識に一枚フィルターがかかったような感じ。
(こんなことなら、普通にサダヒロくんと図書室で勉強した方がよかったかも……)
いやいや、自分から「放課後は自宅で勉強する」なんて啖呵を切ったのだ。……周りの目に耐えきれない、自分の弱さのせいで。
(やっぱり一緒に勉強しよ~なんて、どの面下げてってカンジ……それこそ身勝手すぎるでしょ)
Ifの仮定だけで、じわりと自己嫌悪。
(サダヒロくんは、今ごろ一生懸命に勉強してるのかな……)
スマホをちらと見る。メッセージを送ろうかと思って、やめた。勉強してたら、邪魔になってしまう。よもや「ねえここ教えて~」とか、そんな、彼に頼って彼の時間を潰してしまうなんて。迷惑はかけたくない。
――「でも、多分サダヒロくんにSOSしたら助けてくれるよ?」――そんな心の声を噛み殺し。
(もう高校生だよ私、そんな……なんでもかんでも人に頼っちゃダメでしょ、甘えるなっつの。もっとちゃんとしないと。……はあ、やめやめ。勉強しなきゃ、勉強)
しかし「勉強しなきゃ」と思うほど、やる気と集中が死に絶えるのはなぜだろう。そうして無駄に焦燥感だけが湧いて、ああもういっそ気晴らしすべきか、とベッドでゴロゴロネットサーフィンをして寝落ちる……なんていう馬鹿なコンボをフルコンボだドン。
(ああ~~~~最悪……)
こんなの今回限りにしよう。そう思ってたのに。
結局なんだかんだ、こんな日を何度も送るハメになる……。
●
「……最近、サダヒロくんと一緒にいないね」
「もしかして……別れちゃったの?」
いつもの教室、いつもの前後コンビがノバラに問う。中間テストも終わり、生徒らがハァやれやれと開放感や疲労感に銘々のリアクションをしている最中だった。
「だから~……そもそもつきあってないってば」
ノバラはいつものように苦笑を浮かべる。
「お似合いだと思うんだけどな~」
「ねえそれどういう意味?」
「なんか、いいじゃん? サダヒロくんけっこ~男前だと思うし!」
「そういう、恋愛って顔で選んでいいのかなぁ~?」
「え~でも恋愛モノって顔から始まるの多くない? 性格最悪男に壁ドンされて何よコイツ……でも顔がいい! ドキンッ! とかとか!」
冗句っぽいやりとりだ。
(お似合い、か。まあ、なんだかんだ話は合ったし、一緒に居て楽しいな~とは思うけど)
「ところでさ」
サダヒロを思い出していたノバラへ、前後コンビが言う。
「テストの手ごたえ、どうだった?」
「私? まあ……うーん……ぼちぼち……?」
「え~すご~い! うちら吹部じゃん? テスト前でもフツーに部活あってさ~~マジほとんどノー勉状態っていうか」
「大変だねぇ……」
ノバラは知っている。こういうタイプほど裏ではキッチリ要領よく勉強していることを。一方で、ノバラは帰宅部だがなんだかんだ家で集中できずにほとんどマジで勉強に手がついていなかった。
――ああ、テストの点数、あんまりよくない気がするなあ。
そんなこんなの帰り道。「つきあってるの?」の次は「別れたの?」攻撃から逃げるように。おかげさまで、まだしばらくはサダヒロと会うことは控えた方がよさそうである。
「テストおつかれ」、メッセージアプリでサダヒロへ送って。すぐ既読がついてしばらくして、「お疲れ様です。」と返ってきた。
歩きスマホはよろしくないのでノバラは顔を上げる。駅前の空きテナントがドーナツ屋になっているのを見つけた。
(ドーナツか……)
サダヒロとの帰り道、よくコンビニでドーナツを半分こしていたものだ。どうもノバラが「おいしいね」と言ったから、ノバラがそのドーナツが好きだと思って、毎度買っては「はんぶんこしよう」と言っているように思える。律儀というか健気というか、そういうところがノバラは好ましく思っていた。
でも今は、それよりもテストの結果が緊急事態である。
嫌な予感がする。マジで、している。
かくして。
――それは『的中』するわけだ。
(進学校……ナメてた……)
戻ってきたテストの結果、ことごとく惨敗。
ノバラは教室で机に突っ伏し、戦意喪失状態だった。
もともとのばらは天才型というわけではなく、この高校に受かったのだってほとんどギリギリの首の皮一枚状態、おそらく合格者の中でビリ争いをしていたようなもので。言ってしまえば、「進学校に入れば穏やかにすごせるかも!」「穏やかにすごしたい!」という死に物狂いの努力で『その程度』なのである。
その上でのこの惨敗の心当たりなら、ある。そんな『死の物狂いの努力』をして念願の高校に受かって気が緩んでいたのと、半ば燃え尽き症候群的に勉強へのモチベーションが消滅していたこと。そのせいでテスト勉強にほとんど身が入らなかったこと。そして、進学校の授業スピードはノバラの想像を絶する速度だったこと。その上で愚かしくも「まあどうにかなるだろう」という根拠のない楽観があったこと。
(だからといってこれはひどい……ひどすぎる……)
もうテストを広げて点数を再確認する気も起きない、したら最後心が抉れる、そんなレベル。
(あぁ~~~ううぅぅぅ~~~~こんなやばい点数、人生で初めてなんですけど……)
勉強しなかった自分が悪いのは分かっているけど、流石に凹む。凹みすぎて、未だに机から立ち上がれていない。でもいい加減に帰路に就かないとまずいし、誰か来て「どうしたの?」って言われて「テストでヤバい点数とって凹んでいます」なんて言えるはずがない。
「はぁ」
溜息。立ち上がる。通学鞄を肩に、のろのろ下駄箱へ歩き始める。
(こんな点数で私、大丈夫なのかなぁ……いや大丈夫じゃない、全然大丈夫じゃない……もっと勉強しないと……もっと真面目に……もっとちゃんと……それにしてもショックだ……私、けっこー勉強できるほーだと勝手に天狗になってた……中学だと成績めっちゃいい方だったから……ああ、親になんて言い訳しよう……いや言い訳しても意味ないっていうか……はぁー、ネチネチ言われるのヤダな~~も~~~……ていうか他の子は部活もしながらすごい良い点数で……チラっと見えたけどマコとか全部八〇点以上だったじゃん……なにがノー勉だよぉぉお~~……こっちが惨めになるじゃんかぁ……)
自省とか惨めさとかイライラとか不安とか焦燥とか。ぐるぐる、もやもや、――そのせいだ。真っ赤な角が伸びてくる。爪もぞっとするほど鋭くなって……。
(あ。やばい、まずい、これ、……竜になる、かも)
女子トイレに逃げ込む? だがたどりついてしまった下駄箱からトイレは遠く。「やばい」、そう思うほど焦って竜化が進んでいく。遂にはスカートから尻尾も垂れて、手の甲を始めとした肌にも鱗が。
「っ、う、どうしよ、どうしよ」
思わず呟いた。まるで助けを求めるように。助けなんて来ない、自分でどうにかするしかない、甘えるな、そう分かっているのに。
そんな時だった。
「どうした? 大丈夫か?」
サダヒロの声がして。振り返れば、彼がいて。目が合えば状況をすぐに理解したのか、彼は彼女の手首を咄嗟に掴んだ。
「こっち」
手を引いて走り出す。引かれるままにノバラも駆ける。
「う、う……」
――また、つきあってるのだのなんだの、言われてしまう。
――変身と感情の制御が下手なダメ女って思われてしまう。
――ああ、いやだなぁ、なんか。もう透明になってしまいたい。
――ああ、ほんとう、惨めだなあ……。
がらり。
戸の閉まる音で、延々と巡っていた思考が一度、止まる。
気付けばノバラはどこぞの空き教室の椅子に座っていて、音に顔を上げればサダヒロが後ろ手に戸を閉めたところだった。
「……大丈夫か? 嫌なことあったのか?」
カーテンも全て締め切られたそこは薄暗い。サダヒロの声に、ノバラは俯くことしかできない。だがそれが、サダヒロから見えれば何よりも明確な返事だった。
「飲み物を買ってくる。ミルクティーでいい?」
「……、うん」
「すぐ……すぐ戻るから、ここで待ってるんだぞ! いいな!」
言うが早いか、サダヒロは教室から駆け出していった――まるで初めて駅で会った時のような。そうして同時に、「ああなんだか久々のサダヒロくんだなぁ」、とノバラはホッとするような気持ちに包まれて。
(そうだ……サダヒロくんが戻ってくるまでに……人間の姿にならなきゃ……)
深呼吸を繰り返す。大丈夫だ。さっきよりも心は落ち着いている。大丈夫。大丈夫。サダヒロが握ってくれた手首をさする。彼の手の、優しいあたたかさを思い出すように。そのあたたかさを、手を引いてくれる背中を、いつも見せてくれる天真爛漫な笑顔を、お弁当を大きな口で頬張る姿を、思い出していると――ゆっくり、角も爪も引っ込んでいく。鱗も消えて、少女の形になっていく。戻れる、大丈夫。そう思うと、より心が落ち着いた。
そうして、「ふう」と一息を吐いた頃。廊下を走る足音が、聞こえてきて。
「戻ったぞッ」
サダヒロが戸をガラッと開けて教室へ。ノバラの姿を見るなり、人の姿に戻れていることにホッと安堵したようだ。
「よかった……ちゃんと戻れてたんだな! はいこれ」
渡されるミルクティーの缶。受け取る少女の手の爪は、竜のそれではない。
「……なんかごめんねサダヒロくん、ありがとう」
「謝罪は求めてないさ。……大丈夫そうか?」
隣の席にサダヒロが座る。安堵から一転、気遣いと心配の目だ。ノバラは人の姿を維持できたが、彼からすればまだ肝心の「竜になりかけていた理由」=「感情がさざ波立つほどのトラブルの原因」が分かっていないのだから。ノバラは頷きを返す。
「うん……とりあえず落ち着いた。……誰かに何か言われたとか、そんなんじゃないから安心して」
「そ、そうか……」
「むしろ百パーセント自分が悪いっていうか……、笑っちゃうぐらい、くだらない理由なんだけどさ、」
苦笑をして、自虐を冗句っぽい物言いで包んで、ノバラは経緯を話した。なんてことはない、ただ単にテストで悪い点を取って狼狽していただけ。「いろんな意味で馬鹿な理由」、と肩を竦めた。
「ふーむ……」
サダヒロは少し考えるように顎に手を添えて。冗句っぽく言ったノバラがスカされた気持ちになるぐらい、真剣な顔で。「何を言い出すつもりなんだろう?」そう思っていると、彼はこう言った。
「ノバラさん、君が良ければなんだが……勉強、教えようか?」
そういえば彼は成績優秀だった――ノバラは瞬きをひとつ。
「……いいの?」
「うん! 任せろ! お安い御用だ!」
サダヒロは得意気に(そして嬉しそうに)胸を張ると、いそいそと机同士を隣り合わせてくっつけ始めた。
「よし! まず今回のテストの見直しをしよう! どこをどうして間違えたのか、どこでつまずいているのかの洗い出しだ!」
「え……今? 今からやるの?」
「君、帰宅部だろう? なんと俺も帰宅部なのだ」
「それは知ってるけど……」
「なら、お互い時間ならあるだろう?」
ニッと笑って、鞄を取り出す。
(見直しかぁ……)
ノバラの自分でも直視したくない点数を、サダヒロに見られることになる。やだな~と思わないと言えば嘘になる。自分の馬鹿さを見せつけるようで恥ずかしい。だけど。
(でも、ちゃんと見直さないと。自分の、ダメなところ)
それに、サダヒロは惨敗点数を見ても嗤ったりしないような人物だとノバラは知っている。信頼している。だから勇気を出して、鞄に半ばぐしゃぐしゃに突っ込まれていた解答用紙を取り出した――。
――自分のダメな点を見直す。
思ったよりも、苦しい作業ではなかった。
苦しくないことが分かると、なんだか急に冷静になって、ノバラは自分の心を見つめ直す。
(もっとちゃんとしないと、って思いつめすぎたかな……こんな、言っちゃえばただの中間テストで、人生がこれで全部決まっちゃうわけじゃないのに)
ひとつひとつ、ちゃんと向き合って、理解して、克服していく。
「ここは問題集のここの応用で――教科書の――」
「なるほど……ああ、だからここは間違えたのかぁ……」
赤いバツだらけの紙と、教科書と問題集を、二人で一緒に覗き込んで。恥ずかしい部分を晒しているはずなのに、不思議と安心感がそこにあった。
(なんか……こういうふうに誰かに頼るのって、悪くないな……)
もしかしたら、「助けを求める」ことはそんなに罰せられるほどの罪ではないのかもしれない。「甘えて迷惑をかける」ことと「信頼をして頼る」ことは大きく違うのではないか。ノバラはそう感じた。
……そうしている内に、ノバラは自分の大きな『赤いバツ』に気付く。
自分で自分につけた、今もっとも早急に解決しなければいけない『まちがい』に。
「あのさ、サダヒロくん」
「うん?」
彼が顔を上げる。彼がいつもそうしてくれるように、今度はノバラが彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「ごめんね。君を遠ざけるようなこと、君の都合とか心とかなんにも考えずに言って。……私達、友達だもんね。なんにも後ろめたいこととか変なこととか、ないんだもん。だったら周りから何を言われても、ありのままの本当のことを言えばいいだけだったのに。『友達だよ』、って」
それは「つきあってるの?」に対する、ここ数日の出来事について。
「私、なに周りの目ぇばっか気にしてたんだろ? 目の前の友達より、周りの目を優先するなんてさ……ほんと、サイテーだよね。……ごめんね、サダヒロくん。……だから……もし、こんな私でも、まだ友達でいてくれるならさ……今日からまた一緒に帰ろうよ」
「……」
「サダヒロくん?」
彼は苦しそうな、眉間にしわを寄せて視線を逸らしていた。「どうしたの」と言う前に、彼は。
「泣きそう」
「なんで!?」
「嬉しくて」
「そんなに?」
「……君と毎日登下校したり、お昼や放課後を過ごしたり、それが当たり前になりすぎてて……いざ一人になると、俺はすごく……ものすごく……、笑わないでくれよ、『寂しい』と思ったんだ。味気ないと言うか。すぐに慣れると思ってたのに、慣れることができなかった」
「笑わないよ。……私も、ここんところ集中できてなかったというか、ぼへーっとした感じだったの、多分サダヒロくんがいなかったからだと思うし」
「……また一緒にお弁当食べてくれるのか……?」
「うん、一緒に食べよう。放課後もまた図書館でうだうだしよ。……ありがとう、サダヒロくん」
「泣きそう……」
「あはは。ハンカチ貸す?」
「大丈夫……」
「……ねえ。知ってる? 駅前にドーナツ屋が新しくできたんだよ。今日オープンしたんだって。……帰りにさ、私がサダヒロくんにドーナツ奢ってあげる。今日のお礼ね。なに頼んでもいいよ」
ノバラはくすりと笑った。締め切られたカーテンのわずかな隙間、太陽が細く射し込んでいて――少女の笑顔をひだまり色に、きらりと輝かせた。
(綺麗だな……)
サダヒロはふと、先日読んだ詩のひとひらを思い出していた。
――「手折るのならば、あなたを刺すわ」。
●
ドーナツはテイクアウトで。
ノバラは、もちもちとした生地にホイップクリームを挟んだドーナツ。サダヒロは、ザ・シンプルなドーナツ。勉強後の疲れた頭に染み渡る。
「サダヒロくん、どう? 最近。……竜にはなれそう?」
「全くだな!」
「そっかー。あ、テストで悪い点数取って変身、みたいなショック療法はやめときなよ」
冗談でそう言えるぐらいには、ノバラの心は回復していた。
「……ノバラさん、自虐はよくないぞ?」
「あー……ごめんごめん。気を付ける」
「プラマイゼロ理論だ、代わりに自分のいいところを自慢してくれ」
「ええーなにそれ? 自分のいいところぉ? ……うーん……ドーナツならいっぱい食べられるところかな」
「いっぱい食べられるのはすごいじゃないか」
「太るけどね。だから今日もドーナツ一個にしてる。女子高生の太りやすさナメちゃダメだからねマジで」
最後の一口をもちりとかじった。サダヒロは先に食べ終えていた。「おいしかったね」「うん」なんて言い合って、駅へ向かう。そうして「テスト期間中、何してた?」「勉強」「それもそっか」という他愛もない会話をしていたら、もういつもの駅だ。ここでお別れ。
「あのさ……、」
ぷしー、と開いたドアからホームへ。いつものエスカレーターへ向かう前に、ノバラは友人へと振り返る。
「サダヒロくん、また明日ね」
「……うん。また明日、ノバラさん」
微笑み合って、手を振り合う。それから、それぞれの帰り道へ踵を返した――。