●1:ボーイ・ミーツ・ドラゴン


 桜散る校舎裏は、ジュブナイルの始まり。

 少年はまっさらな学ランを脱ぎ捨てる。精悍な上半身を晒し、身構える視線の先には――大きな、禍々しい、深紅のドラゴンが、赫々とした瞳で少年を見下ろしていた。
「――いくぞッ!」
 少年はその威圧感に恐れることなく、ドラゴンへと踏み込んでいく――。

 ●

 時は入学式の日にまで遡る。
「1-3」と掲げられた教室、自己紹介をしているのは、高校生になったばかりの初々しい少年少女。少し緊張した、けれど期待をにじませた声音――将来の夢とか高校生活での抱負とか、所属中学とか、入る予定の部活とか、ありきたりな内容が一人ずつ。
 そして、一人の男子生徒の番になった。溌溂、凛々、快男児といった彼は、背筋を伸ばして起立すると見た目そのままの声を発した。

「俺はサダヒロ! 夢は竜に変身することだ!」

 その言葉に、教室が静まり返って――次にどよりと沸き立った。「え、マジ?」「嘘でしょ?」「冗談じゃなくて?」クラスメイトが狼狽するのは無理もない。なぜなら――この世界において、人類とは竜に変身できることが当たり前なのだから。人類の祖先は猿ではなく竜だったことは、遥か昔に証明されている事実であり、原始人は人と竜の中間のような姿をしていたことを証明する化石が博物館に展示されている。子供でも知っていることである。
 だからこそ、竜に変身できない人間がいるということは、クラスメイトにとって衝撃的なことだった。

 ――その日はてんやわんやだった。

「竜に変身できないってマジ?」
「マジだ!」
「なんで?」
「先天性のものらしい! 病院に行っても原因不明と医師も匙を投げた。病気ではないから、触ってうつったりはしないから安心してくれ」
 とまあ、とっかえひっかえ同じ質問が飛んでくるので、サダヒロはずっと同じ言葉を繰り返す羽目になった。こんなに喋りまくったのは久々だなあと廊下を歩きながら思う。高校受験ゆえにずっと勉強勉強だったから尚更だ。
 さて、歩いているとあちらこちらで部活動の賑やかな声が聞こえる。どの部活も新入生獲得の為、「やってますよ!」と熱心にアピールをしていた。野球部の声、吹奏楽部や軽音楽部の音楽、バスケ部のドリブル音……そんな中、サダヒロが向かったのは武道場だった。剣道部の竹刀を打ち合う派手な音とすさまじい猿叫が聞こえてくるが、目的地は剣道部の方ではなくもっと広い空間の一室で。
「すいません、こんにちは!」
 開けっ放しの戸。一礼して入れば、そこには竜に変身した生徒達がいた。ぶつかり合ったり、取っ組み合ったり、長い尾を振るったり――彼らは『竜道』と呼ばれる、竜に変身して行う武道競技の部員達だった。
「部活見学に来ました!」
 部員らの唸り声に負けないようサダヒロが声を張ると、竜達がそれぞれの顔を向ける。鱗が生えている顔、なめらかな皮の顔、厳めしい外骨格の顔、たてがみや角の形も千差万別である。
「あ! こいつ、変身できないやつっすよ!」
 噂とは存外に早く回るものらしい。部員の発言に「マジか?」と竜達がどよめく。それから竜達は部長らしき竜へと顔を向けた。部長は「あ~……」と困ったように首を傾けてから、サダヒロの前に来る。
「え~っと……君、一年生だよね。竜道のルールは……知ってるかな?」
「もちろんです、世界大会がテレビでやってるぐらいですからね」
「その……まあ……見学はとてもありがたいんだけど、変身できないことには入部は難しいというか……竜道のルール的に……」
「百も承知です、入部できなくても構いません。ただ、俺と手合わせして欲しいんです!」
「……え?」
 次から次への分からない事態に、部長は目を点にする。なのでサダヒロは分かってもらうために言葉を続けた。
「竜と向き合い、己を限界に追い込むことで、もしかしたら……変身できるんじゃないか……と! 俺はどうにか竜に変身したくて……お願いします! 一度だけでいいので! ボコボコにして下さって構わないので! 三分……いや一分でもいいので! 一試合だけ!」
 なお竜道はそもそも竜同士の決闘から生まれた競技で、その心意気は相撲に近しい。殺すものではないが、正々堂々と力と力をぶつけ合う、神聖で健全な行為である。
「う~ん……一応聞くけど武道経験は?」
「一通り有段者です! 人型のみの武道大会で中学生全国大会優勝してます!」
「おー……」
 部長は鉤爪で器用に自分の頬をポリポリと掻いた。それから部室を見渡して……適当な部員に首を伸ばして耳打ちをする。
「頼めるか?」
「ウス。……でもいいんスか? 大丈夫スか?」
「まあほら、やる気は十二分みたいだし、無視するのもなんかかわいそうだし、あんまり心無いことしたらうちの部のイメージダウンにもなるし……」
「ハァ……」
「武道経験者なら受け身の取り方も知ってるだろうし。でも一応、骨とか折らないように優しめに、適当に転がしてやって」
「ウス」
 他の竜がスペースを空けてくれる。サダヒロは「ありがとうございます」と丁寧にお礼をして、自分の相手をしてくれる竜と向かい合った。硬い甲殻をまとった、翼よりも脚が発達した重量級の竜だった。
「一年生くん、怪我だけしないようにな」
「はい! よろしくお願いします!」

 ●

「――ノバラちゃん、知ってる?」
 1-1教室。女子生徒はくるりと振り返って、後ろにいた別の女子生徒に話しかけた。
「一年生に変な奴がいるんだって」
「変な奴?」
 話しかけられた女子生徒、ノバラは顔を上げた。切れ長の細い目、薄い唇、短く揃えられた黒髪と、クールな印象を与える見た目をしていた。手元には校内の自販機で購入したミルクティーの缶がある。
「変な奴って、どう変なの?」
「うんうん、竜道部の生徒に勝ったんだって。変身できないのに」
「えーマジ?」
 リアクションはノバラの後ろの席の女子生徒だった。
「マジらしいよ」
「すご~い。ていうか竜に変身できないとか初めて聞いた」
「私も」
「人の姿のまま竜道部のひと勝っちゃったの? どうやって?」
「さあ……」
 ――なんてやりとりを、ノバラは甘い味を飲みながら聞いていたが。
「ノバラちゃんは知ってる? サダヒロくんのこと」
 と、話題を振られたので。
「サダヒロくん? それが例の……変な奴の名前?」
「そそ」
「いや全然。初めて聞いた。……いろんなひとがいるもんだね、高校って」
 なんてことない物言いをしながら――内心でノバラは辟易としていた。
(思春期こじらせた目立ちたがり屋かなあ? 悪目立ちしたっていいことないのに……)
 まあクラスも違うし竜道部でもないし、関わることなんてないだろう。ノバラはまた一口のミルクティーを口に含んで――
「ノバラさん!!」
 教室の戸が開く音と男子生徒のいきなりの声で、噎せるかと思った。見やれば溌溂とした男子生徒が――胸のバッジの色から一年生――教室を見渡していた。
「……はあ、なにか?」
 自分を探している。なんだか嫌な予感がする。ノバラは努めて冷静に振る舞いつつ、男子生徒に声をかけた。目が合った瞬間、彼はパ~っと嬉しそうな顔をして駆け寄って来るではないか。
「はじめまして、三組のサダヒロだ。放課後、校舎裏に来てくれないか?」
「……え? いや、はい? なんで――」
「おっと授業が! すまん今から理科室に行かないとだからまた放課後! じゃ!」
「ちょ――」
 台風一過。遠ざかる足音。取り残されたノバラは呆然とするほかにない。
「ノバラちゃん! 今のどういうこと!?」
 前後の女子がワッと迫る。
「私にもわかんないけど!?」
「知り合い!?」
「いや初見!」
「放課後に呼び出しって、もしかして告白……!?」
「いやいやありえないでしょ、今ので初対面だよ?」
「一目惚れ的な!?」
「落ち着いて……告白だとしても面識ないのに告るとかヤバすぎじゃん」
「でも変な奴って噂だし」
「ないないない……やめてよ」
「明日! どうなったのか教えてね! 気になる気になる!」
「ちょっと待ってよ、そもそも行くって決めてないし!」
 そうまで言ったところで、クラスメイトの目が集まっていることに気付いた。誰もが期待している。竜に変身できない変な男子が、なぜいきなりノバラに話しかけたのか。一体何が起きるというのか。
(あーう~~やだなーも~~なんなんだあいつは)
 注目されて苦い顔、「やめてってば」と手をシッシッ。深呼吸をして、机に突っ伏した。

 ――とはいえ、本当に何の用なのかノバラも気になる。彼が何者なのかも気になった。
 だから少し、クラスメイトに話を聴いてみる。サダヒロ、一年三組。まさに文武両道成績優秀、中学では成績学年トップ、武道大会でも優秀な戦績。
 ……ここまでは絵に描いたような「完璧超人」だが。そんな彼の唯一にして致命的欠陥こそが、竜になれないこと。だから彼は竜になるべく奔走しているらしい。勉強やスポーツに打ち込んでいるのも「自らを磨いて竜になるため」、だとか。

(そんな子がなんだって私に?)
 ノバラは首をひねるばかりだ。思い当たることなんて一個もない。一目惚れされるような美人であるとも自負していない。ノバラを見つけて嬉しそうにしたので、何かしらの因縁とかでもなさそうだ。
 そうして謎が深まっている間にも、放課後が近付いている。
(……どうしたもんかなぁ……)
 桜の舞う昼下がりの空を見上げて、ノバラは溜息を吐いた。

 ●

 ……来ちゃったし、校舎裏。
 待ってるし、変人くん。

 校舎裏。緑の上を桜の花びらがまだら模様に染めている。
 変人くん――サダヒロは威風堂々と仁王立ちで、ノバラが来るのを待っていた。おそるおそる、ノバラは話しかける。
「あのー……」
「来てくれたんだな! ありがとう!」
 初めて目が合った時もそうだが、サダヒロはものすごく嬉しそうな笑顔をする。「小学生みたいな笑顔だな」、とノバラは心の中で呟いた。一抹の緊張感を押し殺し、春の風に髪を掻き上げつつ、問いかける。
「サダヒロくんだっけ? それで……私に何か?」
「うん! 君に折り入って頼みがあるんだ」
「頼み……ですか」
「俺をボコボコにしてくれないか!」
「……。は?」
 冷静に冷静に……と思っていたのに、流石に固まった。
「ええと……ごめん、そういう性癖のお方?」
「え? あ! 違う違う! 俺は竜に変身できなくて――」
「らしいね」
「自らを極限に追い込めば……覚醒するのでは? と!」
 ものすごく真剣にサダヒロは熱弁する。「はぁ」とノバラは首を傾げた。
「いやー……あのねえ、ピンチに覚醒するとかそんな、少年漫画の読みすぎだって。ていうかボコボコにしてほしいなら、竜道部とか他の武道系の部活の人にさ……私ただの女子生徒だよ? 武道経験ゼロの」
 肩を竦めてみせる。すると、サダヒロはおもむろにこう言った。
「……『北中の魔王』」
 その単語を聞いた途端、ノバラの表情が変わる。
「君のことだろう? ノバラさん」
「……どこでそれを?」
 その声は低く冷たい。少女の眼光は深紅の色に――竜のそれと化していた。相対した者を射殺すような、しかしサダヒロは全く怖じ気ずに質問に答える。
「俺も竜になるべく必死でね、強い竜の情報にはアンテナを張り巡らせているのだ。――かつて最悪の治安だった荒くれだらけの北中……それを圧倒的な力で平定した女子生徒がいた。……それが『北中の魔王』……君のことだっ、ノバラさん!」
 びし、と指をさされるから。
「おーけー、それ以上私をそー呼んだら殺す」

 ――黒歴史だ。

 ノバラが通うことになった中学は動物園だった。いや、こんなこと動物に失礼か。兎角、常にギャーギャーと生徒達が喚き続ける最悪の場所で。大人達も諦めムードで何もせず。
(私は静かな学園生活を送りたかっただけ)
 ねえ、真面目に授業受けてよ、静かにしてよ――そう言ったら敵対されて、嫌がらせをされたから、「そういうのやめてくれる?」と伝えたら……今度は暴力を受けそうなったから、正当防衛をしただけ。片っ端から。毎日のように。それはもう、嫌になるぐらい年中無休で。
 ……頭の良い高校ならそんな目にも遭わないだろうと、血が滲むほど勉強をがんばり、この進学校に来たと言うのに。

「あのねえ、私は静かに女子高生を謳歌したいの。目立ちたくないの。邪魔しないでくれる?」
 冷静になれ。冷静になれ。怒るな落ち着け。そうは思ってもふつふつと、沸き上がって来るこの感情。歯列を剥けば竜と化した鋭い牙が覗いて、喋る度に口からは火花が漏れていた。
「ではこうしよう。今から決闘をしてくれたら、君の中学時代については誰にも言わないと」
 サダヒロが頷きながら言う。
「お前っ……卑怯だな~~! 拒否権なしかよ……」
 ノバラは盛大に溜息を吐いて俯いた。どさり、と肩にかけていた鞄が落ちた。
「はぁ……マジで久々にムカつくわ……頼むから私を、ムカつかせないでくれるかな……私さ……子供の頃から……気持ちが『あーーーーーーー』ってなったら――」
 夕方の、窓に反射する影。
 ざわざわ、ざわり、少女のシルエットが巨大化する。

「――すぐ変身しちゃうんだよね」

 長い尾。大きな翼。天衝く大角。深紅の鱗。禍々しい顎。
 竜道部にいたどのドラゴンよりも大きく、威圧的で恐ろしい。棘だらけの尾を威嚇のように地へ打ち付ければ、ぞっとするような音と共に容易く地面が抉れて凹んだ。
 それは悪魔、いや魔王と形容してもいいほどの存在感だった。
 だが。
「綺麗だ……! ノバラさん……すごくすごく綺麗だ……!」
 見上げる少年の目には、憧れ。きらきら輝く眼差しで、おぞましい竜を見つめて。
「な、――」
 強靭なはずの竜の心臓がどきっとした。――竜になればいつも「またノバラが暴れだした」と恐れられてきたのに。同じ竜でも「ノバラさんの竜の姿はちょっと……威圧的だね」「大きいね! 男子かと思った」なんて言われたりするのに。そもそも人間の姿でも目つきが悪いだのなんだの言われるのに。

 そう――乙女は人生で初めて、異性から「綺麗だ」なんて言われたのである。

「な……な、なんだよもうッ!」
 そう、驚いてしまって、どうしたらいいか分からなくて、ノバラは感情のまま火焔ブレスを吐いていた。竜たる人類は頑丈だ、多少火を浴びたところで死にはしないし、ビルから飛び降りても『相当打ち所が悪くて捻挫』程度で済む。
 サダヒロは火焔を跳び下がってかわした。火が通った地面は真っ黒に焦げている。
「すごい火力だ……すごい、すごい!」
 嬉々として。少年はまっさらな学ランを脱ぎ捨てる。精悍な上半身を晒し、身構えて――大きて、美しくて、素晴らしいドラゴンの、ルビーのように綺麗な目を見上げた。
「――いくぞッ!」
 少年はノバラの威圧感に恐れることなく、ドラゴンへと踏み込んでいく――。
 人の姿でも、人類の膂力は強い。身体能力も高い。特にサダヒロのそれは卓越していた。これは竜道部の者でも敵うまい、ノバラはそう感じる。全て回避されるのだ。叩き下ろす鉤爪も、巨体による圧し潰しや突進も。その上――鞭のように薙ぎ払う尻尾を「受け止められて」、驚いた。だがそれで勝敗は決した。
「うぐ……っ!?」
 少年の肌に刺さるのは、尾に生えた短い棘。顔をしかめる。
「ごめんね、私の尻尾……毒棘があるの。大丈夫、ちょっと痺れるだけだから」
 言葉終わり、ノバラの顎がサダヒロを噛んで咥えた。逃がさないと言わんばかりに天高くもたげる。牙が肌を貫通しない程度の加減でグッと噛んで抑えつける。
「それで? 竜になれそう?」
「全ッ然だめだな!」
「そ」
「ノバラさん……君、すごいな……! こんなに強いなんて――」
「うるさいなーーーできれば私だって、か弱い乙女でいたかったっつーの!」
 強い、って言われるのが好きじゃなかった。地雷の上でタップダンスしやがって、とサダヒロを地面に投げ捨てる。転がる彼は……白目を剥いて物言わぬ状態で。途端、ノバラの頭がさあっと冷えた。
「……あ。やば」
 やりすぎた、かも。あ、ヤバイマズイ。生きてる? 「退学」「休学」そんな言葉が脳裏をよぎる。いやもしかして殺人未遂? つい、ふっかけられたからって感情のままに動いてしまった。最悪だ。冷静であれ、もう誰かと喧嘩なんか一生しない、あれだけ思ってたのに。
「ッ――ちょっと! 生きてる!?」
 首を伸ばして覗き込む。鼻先でつついて体を揺さぶる。
「……う……」
 サダヒロが目を閉じて、開いた。噛まれた圧迫でちょっと気が遠くなっていただけだった。
「ねえ骨とか折れてない?」
「大丈夫だ、俺は竜にはなれんが……その代わりなのか知らんが、体はすこぶる丈夫なんだ」
「……そう……」
「それよりも……ノバラさん……」
 倒れていたサダヒロが顔を横向け目を逸らす。固く目をつむっている。
「……服……」
「え? ……あ゛!!」
 そう。ノバラはいきなり竜に変身したから、人間の時に着ていた服が全て破れてしまったのである。その状態で「サダヒロが無事だった」ことで安堵し、人間の姿に戻ってしまったわけで……。
「大丈夫! 俺は! 俺は何も見ていない! ほんとに!! 鎖骨から上ぐらいしか視界に入ってなかった!!」
「だああああああ最悪ああああああ」
「体操服っ……俺の! 体操服あるから! 着て! そこの鞄!」
「ああああああああぁああぁああぁぁぁあうあうあうあう」
 ノバラはサダヒロの鞄を引っ掴むと、大慌てでその中のジャージを身に着けた。ぜえはあ。
「……ノバラさん、目を開けても大丈夫でしょうか……」
「もういいけどっ……それよりっ……私の……私の制服~~~……っ!」
 少女は地面に落ちている布の切れ端を前に崩れ落ちる。憧れのセーラー服が……。
「すまない……すまない……」
「いやほんっとアンタのせいだよ!?」
「ごめっ……角が出てるっ……火花が出てるっ……落ち着いてっ……俺のジャージまで破れちゃうっ……」
「んぐぅうぅうううぅぅう……」
 ギリギリ歯ぎしりしながらも、ノバラは深呼吸を繰り返した。しばらくして、ようやっと角も牙も引っ込んだ。
「はぁ……。で、約束守るんでしょーね」
 起き上がるサダヒロをじとりと睨む。中学時代の黒歴史を永劫に内緒にすることだ。
「もちろん、俺に二言はない」
 少年はすっかり回復したようで(ノバラの毒からも復帰している)、学ランを羽織っていた。だが表情に関しては深刻で、ノバラを真っ直ぐ見る。
「あの――」
 彼が何か言おうとした。だけど、真っ直ぐ見られたら緊張するし、これ以上何かあるのはもうこりごりだし、ノバラはその言葉をかき消すように声を張った。
「アンタの体操服まで破く前に帰る! ついてこないでよね!!」
 相手の顔も見ず、どうにか無事だった自分の鞄だけ引っ掴み、ノバラは逃げるように走り出した。
(最悪だ……あきらかに男子用のぶかぶかのジャージで帰るとか)
 目立ってしまわないように駆け抜ける。だけどこの先、電車に乗らないといけないことにノバラは頭を抱えた。頭を抱えると、ふわりとジャージからサダヒロの香りが。
(うう、汗臭い……ザ・男子ってにおいがする……最低……)
 平和に暮れていく空を見上げ、少女はがっくりと肩を落とした。
「はぁ……これ、洗って返さないとな……」

 ●

 変身の制御が下手。
 それは、ノバラの幼少期からの課題。
 どうも感情が昂るとすぐに竜になってしまうのだ。だからノバラはずっと、「冷静に」「落ち着いて」と言われ続けてきて――今日もまた、親に同じことを言われてしまった。
 他人の体操服で帰ってきたら事情を聴かれるのは当たり前である。「ちょっと竜になっちゃって」「同じ学年の子が貸してくれた」、とノバラは詳細は伏せつつ嘘は言わなかった。そうしたら件の台詞を言われたわけだ。
(高校では絶対に竜にならない、って決めてたのに)
 重い溜息。誓いは入学式から一か月も経たずに破られた。
 入学してそう月日も経っておらず、友好に積極的な気質でもなく、これといってまだ深い仲の者もおらず、メッセンジャーアプリには同級生の連絡先はない。でもそれが幸いした。「で、どうだったの」攻撃で通知が鳴りやまない事態はどうにか回避できたのである。

 食事や風呂やらの諸々を済ませた夜。ノバラはパジャマ姿で布団でうつ伏せに寝そべり、枕を抱えて幾度目かの溜息。パジャマと言っても可愛らしいものではなく、着古したTシャツとくたびれた短パンだ。寝ている時に夢のせいで気が昂って、うっかり竜化して破れてもまあいいやつである。ちなみにベッドでなく布団なのも、竜化してベッドを巨体で粉砕することを避ける為だ。
(明日が来なければいいのに……気が重い……)
 そうは言っても、時を止めるチカラなんてないので。
 気晴らしのように動画サイトで気になったモノを流し見しているうちに夜は更けて、寝落ちていって――朝が来るわけだ。

「はぁ……」
 もう一着の制服。着崩したりアレンジしないで模範的な着こなし。登校途中、乗り換えの駅。朝の騒々しさ。目的の電車が到着するまであとわずかだった。
 ――竜は普通に電車に乗る。車にも乗るし飛行機にも乗る。変身すれば凡その竜は飛行できるし、その速度はとても速いけれど、彼らが交通機関を用いる理由はひとつ。「疲れるじゃん」。朝っぱらからダッシュして通勤登校したいか? 仕事でヘトヘトなのにマラソンして帰りたいか? という簡単な話である。
 さて。他の人々にならうように、ノバラもまたスマホに視線を落としていた。ネットニュースを適当にスクロールしている。見出しぐらいしか読んでいない。そろそろ電車くるかな、とちょっとだけ視線を上げて線路の方を見た。
 そんな時である。

「ノバラさん!」

 ――げ。この声は。
「おはよう!」
 ハキハキとしたこの、腹筋で喋るような。――ノバラが振り返ったすぐ傍に、サダヒロがいるではないか。
「カッ……」
 ぶわ、と思い出すのは昨日のこと。竜になってしまったこととか、変身が解けた後のこととか……。同時に感情も「ぶわ」っとなって、ノバラの頭から二本の赤い角がニョッと生えた。
「つっ 角が! ノバラさん角ッ……」
「ギッ……ギッ……」
 慌てるサダヒロを一度視界から外して、ノバラは深呼吸をした。落ち着け落ち着け。
「す――……はあ。……おはよ、サダヒロくん」
 どうにか角を戻し、俯き気味に挨拶を返す。こいつに絡まれるとロクなことにならない気がするが、流石に完全に無視するのも。それに彼には体操服を返さねばならない。
「同じ駅だったなんて。奇遇だな」
「そーーー……ですね」
 そこはかとなく、昨日よりもちょっとよそよそしい……というより、ノバラを気遣うような物言いを感じた。その理由が分かっているし、その状態が落ち着かないノバラは、それをとっとと清算するために「ちょうどよかった、これ」とビニール製のナップサックを肩から下ろした。
「体操服、洗っておいたから。返すね。袋は返さなくていいよ、その辺のショッパーだし」
「ショッ……パー……?」
「買い物袋ね」
「ああ……なるほど」
 それを受け取ったサダヒロは、「あの」と改まるようにノバラの目を真っ直ぐに見た。深刻な表情……昨日と同じ顔だ。
「……昨日は……ごめん……制服、弁償……」
 真っ直ぐ見ておいて、とぎれとぎれの単語だった。だが下がった眉尻を始め、本当に申し訳なさそうにしていて――これを『あの時』言おうとしたのか、とノバラは合点がいった。そうして思うのは、サダヒロがどんな思いで夜を過ごしたのか。きっとノバラ以上にモヤモヤしてぐるぐるして、「会ったらすぐ謝らないと」と悶々していたのだろう。
「俺の『竜になりたい』という身勝手で、強引なことをした。嫌な思いをさせてしまった……君は一人の女の子なのに、俺は勝手に噂を信じ込んで、君を一方的に強いひとだと思い込んでいた。申し訳なかった。このとおりだ! 気に食わなかったら殴ってもいい、線路に突き飛ばしてもいいッ!」
「いや突き飛ばすのは殺人になるからね? はあ……」
 昨日のこと、なんにも言われなかったら嫌味の一つでも言ってやろうか……なんて意地悪な気持ちがノバラの中でゼロだったと言えば嘘になる。だがこうして先んじて謝られて――ただの平謝りではなく、明確に焦点が合っていて――頭まで下げられて。
「目立つからやめて……周りの人が見てるし。頭上げて。……いいよ別に。制服の弁償もしなくていい、感情が抑えられなくて竜になっちゃったのは私だし、制服の犠牲はある意味いい薬だよ」
「う……う……優しい……ッ すまん、ありがとう……ありがとう……」
 頭を上げるサダヒロは泣きそうだった。逆にノバラが困惑してしまう。
「る、涙腺弱いね?」
「その……じゃあ……! せめて……! 何か……おごる……! あっ待ってて!」
 そこにいて絶対にいて、とサダヒロはいきなり走り出した。「いや待ってろって言われてももうすぐ電車くるんですけど」とノバラはポカンと一人佇む。そうしたら人の間を縫って、ほどなくサダヒロが戻ってきた。
「これッ……」
 差し出したのは缶のミルクティーだ。駅構内の自販機で買ってきたらしい。
「ミルクティー……昨日飲んでたから……」
「……よく見てたね、私のこと」
 初遭遇の教室で、そういえばノバラは自分がミルクティーを飲んでいたことを思い出していた。
「君に関心があったから……」
「なにそれ、ストーカーみたい」
 からかうように笑った。「いやそんなやましいことは」とサダヒロが慌てるので、「冗談だよ」と付け加えて。
「……じゃあ、受け取っとく」
 缶を受け取った。指先が一瞬触れた。少女漫画なら、ここで恋に落ちて、なんだろな――そんなくだらないことを思いつつ。「それじゃ」、とノバラが言いかけたところで、その言葉を完全に遮る「二番線、電車が参ります」のアナウンス。
 そういえば同じ学校だから同じ電車に乗るじゃん……とノバラが思っている間に電車はついて、わあっとホームは人でごった返す。朝のラッシュに揉まれて流されて――どうにか電車の中に体を押し込んだけれど、気付けばサダヒロと密着状態で。
「あー……なんかごめん」
「わざとじゃ……わざとじゃないですッ……」
 小声のやりとり。サダヒロはさっきの「ストーカーみたい」を気にして弁明しているようだ。お互い人に流されてこうなっちゃったので、本当に偶然なのではあるが。
 サダヒロは一つの吊り革に両手を置いている。「男の子は痴漢冤罪防止の為に両手を掲げる」って聞いたことがあるが、本当なんだなあとノバラはちらと盗み見ていた。同時に、ノバラの身体に不用意に触れたりしない、という紳士的な表明なのだろう。
(男の子もいろいろ大変なんだなぁ)
 なんて思ったところで、電車が不意に揺れて。
「うわ、」
 よろめいた、瞬間だ。
「大丈夫?」
 サダヒロの手が肩に回される、抱えるように支えてくれる。――親族以外の男性に、そんなふうに触れられるなんてほぼ初めてで。思春期の少女に、歳の近い異性の少年からの紳士的な接触は、無心でいろという方が難しかった。
「だぁあ!」
 驚きとか、思春期的情動とか。立派な角がまた、思わずニョキッと伸びてしまい。サダヒロの目にザクッ。
「ぐあーっ目がーっ」
「あー!? ごめんねー!?」

 ――それからどうにか、無事に最寄駅で下車。

「はー……なんかごめんね」
「いやいやこっちこそ、ビックリさせてすまん」
 頑丈さは折り紙つき、サダヒロは目を擦りながら軽快に言った。なんだかんだ、ノバラと彼は一緒に学校への道を歩いている。
「それにしても……君は、竜になりやすいんだな」
 隣のノバラを見やる。平均的な身長の、どちらかというと地味めな外見の少女だ。
「……感情の制御ができないヒステリー女って馬鹿にする?」
 気にしていることだからこそ、ついついノバラも棘っぽく言ってしまった。
 だがサダヒロは。
「かっこいいと思う!」
「……はい?」
「竜になれない俺からすればなんともすごい! 羨ましい……」
 角が生えたことのない頭をさすりながらサダヒロは呟く。
「そう。……私は君の方がすごいと思うし、羨ましい」
 ノバラは小さく息を吐いて、学校へと続く道を見つめていた。
「すぐ竜になっちゃうから、かわいい服だって『どうせ破いちゃうし』って着れないし。尻尾で破れちゃうから、いっつもズボンじゃなくてスカートだし。狭いところも苦手。『ここで竜になっちゃったらどうしよう』って不安になる」
 そこまで言って――「愚痴でごめんね」とノバラが付け加える前に、サダヒロが先んじた。
「じゃあ、お互いを参考にしあうのはどうだ?」
「……なにそれ?」
「俺は君を参考にすることで竜になる道を模索し、君は俺を参考にすることで人の姿を維持する手段を模索する。どうだろう? 竜になれない俺、竜になりやすい君、お互いがお互いに欲しいピースを持っていると思うんだ」
「お互いがお互いに欲しいピースを……」
 そうかもしれない。そう思いつつ、彼と一緒にいたらまた竜になってしまいそうな……という不安もやっぱりあって。その逡巡を察し、サダヒロが懸命に続けた。
「勉強を教えるし荷物を持つし登下校中の飲食費諸経費は俺が奢る! どうだ!?」
「なにそれ舎弟じゃん?」
「お望みならば舎弟にでも!」
「いいよそんな! ……普通で、普通でいいから」
「普通……?」
「普通の……、友達みたいな」
「友達……おー。だったら、ノバラさんは高校でできた友達第一号だ!」
 サダヒロは嬉しそうに笑った。ノバラはなんだか少し照れ臭く、「はいはいどうぞよろしく」と物言いだけはすげなく言った。
「ノバラさん、連絡先を交換しよう! 俺、高校になって初めてスマホを持ったんだ」
「あー、高校デビュー記念みたいな?」
「うん。アレだろう? この……なんだ……メッセージアプリで? どうするんだ? わからん、なにもわからんマジでわからん助けてくれ」
 サダヒロが取り出すスマホにはまだ保護フィルムが貼ってあった。開かれたアプリのホーム画面をノバラが覗き見るに、家族としか連絡先が繋がっていないようである。
「ちょっと貸して……こうこうやって……こうして……はいできた」
 どうぞ、とスマホを返しながら。そういえばナチュラルに連絡先を交換してしまったことに気付く。だが「君はすごいな!」とメチャクチャ嬉しそうにされるので、まあいいかという気持ちになる。
「慣れたら誰でもできるから……あと保護フィルム剥がしたら?」
「アッ……これ剥がしていいのか……知らんかった……あ! そうだ」
「今度はなに? 住所教えろとか?」
「じゃなくて……今日! お昼……! 一緒に食べてもいいか? お弁当……もってく……!」
「え、うちの教室来るの? ……まあいいけど……」

 そんなこんな、学校が見えてきた。
 下駄箱はそれぞれ違うから、一度そこで別れて――と思ったらまたサダヒロが来たから(ノバラは「また来るんかい」と思ってしまった)――結局一緒に廊下を歩いて。教室は、ノバラが一組でサダヒロが三組、教室同士が少し離れているから、一組のノバラの教室前で今度こそお別れだ。
「また後で!」「うん、お昼にね」――手を振って自分の教室に向かうサダヒロに、ノバラもまた手を振った。
 そうして席に着いた瞬間である。
「なになに? 仲良くなってるの?」
「昨日の子だよね!?」
 ノバラの席の前後の女子が興味津々と覗き込んできた。
「わかんない……仲いいのかアレ……? なんか一方的につるまれてる気がしないこともないんだけど」
 鞄を下ろしながらノバラは答える。クラスメイトの質問は続いた。
「それで――昨日はどうだった?」
「何があったの? 教えて教えて!」
 彼女二人だけでない、他のクラスメイトも同じ期待を目にノバラを見ていた。注目されるのは好きじゃないので、なんてことない苦笑を装う。
「えー、あー……なんていうか、あの子、竜になれないでしょ? 変身のコツ教えて~……みたいな、そういう」
 嘘は言ってない、嘘は。
「へ~? そうなんだ。でも、わざわざノバラちゃんに頼みに行くなんて……ノバラちゃんすごいじゃんモテモテじゃん」
「だ~からそんなんじゃないってば。そーゆーそっちは、なんかないの? 部活見学に行った先の先輩がイケメンだとか」
 この年頃の女の子が好きな話題だ。矛先を逸らす為のネタを振ると、彼女らはきゃいきゃいと「テニス部のね~」「バスケ部の~」と盛り上がり始める。
「……そういえばノバラちゃんは部活どうするの?」
 部活の話になったので、クラスメイトが問うてくる。「うちら中学でも吹部だったから吹部入ったよ」と付け加えた。
「部活か~……うーん、帰宅部かな」
 これは本当。――スポーツはあんまりよくない、熱くなったり興奮すると竜になってしまうから。文化部も……美術は、絵がそんな得意でも興味があるわけでもないし(見るのは好きだけど)。吹奏楽部とかコーラス部も、高校の音楽系部活って中学から音楽やってる人専用だよね? というのがノバラの見解だ。他の部活も、いまいちピンとこなかった。無理やり入っても、やる気のない奴がいるだけ迷惑をかけてしまうだろうし。
(サダヒロくんは部活どうするのかな……)
 そっと、鞄の中に入れっぱなしだったミルクティーの缶を見た。

 ●

 お昼休み。
 教室で一緒に……というのも周りの目が気になるし、かといって屋上は青春の人気スポットだし、男女で便所飯なんてもう冗句の域だし、結局ノバラとサダヒロは中庭のベンチでお弁当を広げていた。
「部活?」
 食べ盛りの男子らしい、大きなお弁当をモリモリ食べながらサダヒロは片眉を上げた。
「うん、部活。サダヒロくんは何か入るの?」
「特に考えてないな! 柔道部や剣道部からオファーは来ているが」
「は~……君ほんとすごいね」
 そういえば中学の時にすごい成績の子だったな……とノバラは甘い玉子焼きをかじった。晴天、いいお天気である。
「中学の時にがんばった成果が出ただけだよ」
 ノバラの一口の間に、サダヒロは三~五口ぐらい食べている。
「いやいや……世の中にはがんばっても成果が出ないひともいるんだから」
「そうだなあ……確かに俺は、努力をしても結局まだ竜になれてないわけだし」
 ――あ、やべ地雷踏んだかな。ノバラは隣の少年をすぐに見る。
「えっと……、ごめん。嫌味じゃなくて」
「ん? ああ! いやいや! 気分が悪くなったとかはないから」
「そっか」
「それで――ノバラさんは? 部活の話」
「私もサダヒロくんとおんなじかな、なんにも考えてない。たぶん帰宅部になると思う」
「中学の時は何部だった?」
「中学の時? おんなじ。帰宅部。学校終わったら図書室いって宿題とかやって本読んで帰る~って感じだったし、高校でもそうするつもり」
「読書が好きなんだ?」
「うーん……本を読むってよりも、文字を目で追ってる間は落ち着いていられるから……それで。特に小説が好きとかじゃなくて……いろいろ読む。図鑑とか好きだよ。見てて楽しいし。むしろ小説はねえ、泣けるやつとか心にキすぎるのは避けてる、竜になっちゃうかもしれないから」
「そうか。じゃあ俺も今日は図書室に行こうかな」
 白米をでかい一口でかきこんだ。ノバラは水筒のお茶を飲み、首を傾げる。
「……私、竜になっちゃうのを抑える為に読書するんだよ? それを真似しても竜になれないんじゃない?」
「今、君は言ったじゃないか 心にクるやつを読むと竜になってしまうかも……と!」
「あ」
「ヨシ! 今日は図書室に行こう!」
 サダヒロは嬉しそうにお弁当をガンガン食べていく。
「サダヒロくんそれにしてもよく食べるね……男子高校生ってすごい」
「ノバラさんこそ少なくないか? 大丈夫? 午後は長いぞ? はいカラアゲ」
 言葉終わりにはもう、ノバラのお弁当箱にカラアゲが置かれていた。
「いいの? くれるならもらうけどさ……ウマ。これお母さんの手作り?」
「いや冷凍のやつ」
「そっかー」

 そうしてほどなく食べ終われば、二人で並んで、葉桜になりつつある桜を見ている。
「……本当に部活、いいの? その……剣道部とか入ったらさ、サダヒロくんいい成績残せると思うけど」
「それよりも俺は竜になりたいのだ」
「そっかぁ。……あのさ、こんなこと聞くのもなんだけど、竜になれない……ってどんな感じ?」
 もしかしたら失礼な質問かも、と手探りの物言いだった。
「うーん」
 サダヒロはノバラが蔑みで言っているのではないことを理解しているから、真面目に考え込む。
「……どう……と言われても、ずっとこうだから……。まあ、でも、そうだな、『竜になれないくせに』……とは、よく言われる」
 なんてことない風に言うが、きっとノバラには分からない苦労がたくさんあったのだろう。分からないけれど、感じ取って想像することはできる。
「そっか、お互い大変だね」
「まあ俺はいずれ竜になるのでね。……竜になれたら空を飛びたいなぁ……」
 サダヒロが空を見る目は、憧憬だ。
「いつか俺が竜になれたら、その時は飛び方を教えてくれないか」
「えー……しょうがないな」
「あと火の吐き方も」
「はいはい。……そろそろチャイム鳴るね、教室戻ろっか」
「うん。放課後! 放課後は図書室だぞ!
「わかったわかった」

 ●

 放課後の図書室――「図書室ではお静かに」と色褪せた張り紙がしてあるが、野球部や吹奏楽部の音が遠巻きにずっと聞こえてくる。だがそれはちょうどいい環境音だ。
 放課後の傾いた日を感じる窓際、ノバラは詩集を読んでいた。宿題はある程度はやっておいた。今は静かに凪いだ気持ちで、目で文字を追っている。
「うっ……うッ……」
 その隣では、感動系の小説を読んでサダヒロがボドボドに泣いていた。
「……大丈夫?」
 小声で話しかければ、少年はこくんと頷いて本を閉じた。
「メチャクチャよかった……良い話だった……ウウッ……」
「よかったじゃん。……竜になれそう?」
「ダメそう……」
「そっかあ」
 くすりと微笑む。キリがいいところだったので、ノバラもまた詩集を閉じた。
「サダヒロくん、あんまりこすると目ぇ腫れちゃうよ」
 はいハンカチ、とポケットから出した白いハンカチを彼に渡す。「すまん……」と受け取る彼は真っ赤な目元を拭った。
「あはは、涙腺弱いんだね。なんかいいじゃん、そういうの。素直に感じたことを表現できるのって」
 羨ましい、と内心でまた思う。ノバラは逆に、感情を抑制しないといけないから。だがその「羨ましい」にドロドロとした後ろ暗さは感じなかった。称賛や敬意に似た、ノバラが思ったことがそのまま口から出た言葉だった。
「……」
 と、サダヒロがノバラの方をじっと見ている。
「……なに?」
「君の笑った顔を初めて見た気がする」
「笑ったりするよ、人間だし」
「それもそうか!」
 当たり前のことだった。からからと笑うサダヒロは、ふとノバラが読んでいた詩集を見やった。
「詩集、どうだった?」
「んー。詩集っていうか海外の戯曲の台詞の抜粋みたいな? 有名な作家の。エモい文章が並んでたよ、若いうちの恋がいかに向こう見ずで素晴らしいかについて。なんか、そんなんばっかりだった」
「へえ」
 そのリアクションで、サダヒロが恋愛系には関心がないことがよくわかった。「まあ男子だし、女子みたいに恋バナできゃあきゃあしないか」――内心でそう思いつつ。あんまり男女で測るのもよくはないのだろうが。実際、ノバラはクラスメイトや他の女子のように、恋愛モノにあまり興味が持てなかった。
 ――むしろ恋とかいうヤバイ心理状況になって、自分が抑えられなくなって、竜になっちゃうとか、絶対に嫌だし。
「そろそろ帰ろっか、いい時間だし」
 時計を見てノバラが言う。本を戻しに、二人は席を立った。

「コンビニで何か買ってく?」
 駅までの下校道。ノバラ達と同じ制服の学生や、他の学生なんかもちらほら歩いている。
「! 奢るよ」
 ノバラの言葉にサダヒロは食い気味で答えた。「いいよ別に」と少女は苦笑して、コンビニの自動扉かをくぐった。
 少女が買うのはいつものミルクティー。サダヒロが買ったのは二個入り(プレーン味とチョコ味)のドーナツだった。
「ひとつあげる」
 コンビニから出て、封を開けながらサダヒロが言う。
「いいの?」
「はんぶんこしよう。どっちの味がいい?」
「じゃあ……チョコの方」
「どうぞ」
 それぞれの手にドーナツ。さくほろ食感の甘い味。シンプルだけど奥深い。一日がんばった学生の、すぐ空いてしまうお腹にちょうどいい。
「おいしいねこれ。サダヒロくんドーナツ好きなんだ?」
「まあ……そうかも。確かに好きかも。ノバラさんはミルクティーが好き?」
「そーだね。おいしいし。甘いし。あ、今朝はおごってくれてありがとう。おいしくいただきました」
「よかった……」
「……私も、」
 ドーナツ一口分で、寸の間だけ言葉を区切って。
「よかったと思ってる。……サダヒロくんが嫌な人じゃなくて」
 その横顔を見て、サダヒロはほとほと――『北中の魔王』が心身ともに屈強な者だと思い込んでいたことを後悔した。接すれば接するほど、ノバラという少女は「ただの少女」だった。
(噂というものはアテにならんものだなぁ……)
 物思い、ドーナツをかじる。
 もうすぐ駅だ。なんとはなしに空を見上げる。街路樹の枝葉と電線の向こう、竜になって飛んでいくひとがいた。郵便配達員か、ピザデリバリーか。なにせバイクよりも速いし渋滞の概念もない。だが玄関でハンコをもらったりインターホンを押すのは竜のままだと大変なので、だいたい背中に同僚が乗っている。竜の爪は細かい作業がすこぶるヘタだが、人間の手はとっても器用なのだ。衣服の問題でわざわざ着替える場所を探してナンヤカヤするのもタイムロスだし。そういうわけで「二人じゃないとうまいこといかない」ので、竜となって飛ぶよりも人件費的にバイクで走る方が経済的というわけだ。あの形態は「すごい早くお届けする代わりに、サービス代をいただく」というプレシャスな選択肢なのである。ゆえに速く飛べる竜は結構、いろんな業界で大人気だったりする。
「……、」
 サダヒロはぼーっとそれを見上げている。隣のノバラはそんな彼の横顔をそっと見た。「竜になれたら空を飛びたいなぁ」――昼間にそう言っていたっけ。「今度、背中に乗せてあげようか?」……と、言いかけて飲み込む。
(いやいや……そんないきなりグイグイいくのもおかしいでしょ……)
 恥ずかしいし照れ臭い。ノバラはドーナツの最後の一口と一緒に溜息を飲みこんだ。
(……私の竜になりやすさの、半分でもサダヒロくんにあげれたらいいのにな)
 改札が近い。指の砂糖を適当に払って、鞄につけたカードケースを持った。
(サダヒロくんを参考にしたら、私も人の姿を維持できるのかな?)
 冷静に考えると、お互いのコンプレックスを参考にしあうなんて変な話だ。『気にしい』な人なら「なによ失礼なッ」てキレてもおかしくはないかも。
(……じゃあ、私はなんで『失礼な』ってならなかったのかな)
 あの時の空気とかサダヒロの勢いとかに押されたのも、ひとつの理由ではあるが。
(……竜になりやすいのを『すごい』って言ってもらえたの、初めてだったからかな)
 もしかしたらサダヒロも、竜になれないことを「すごい」と言われたのが初めてだったのかもしれない……なんて、ホームへ向かいながらノバラは思った。

 電車は満員というほどではないが、下校する学生でそれなりに混雑はしていた。なんとはなしにお互い会話もなく、かといって気まずいとかそういうわけでもなく、流れる景色を吊り革につかまって眺めていた。
 夕焼けがきらきらしている。ビルに車に窓に反射して。茜色。がたんごとん、がたんごとん――。

「ノバラさん」
 夕焼けって、なんだかエモい――そう思っていたところで。サダヒロに声をかけられ、ノバラははっと我に返った。
「降りないのか、ここで乗り換えだった……よね?」
「あ、うん降りる降りる」
 西日が眩しい。ここでお別れだ。サダヒロは反対側のホーム、ノバラは別のホームへ階段を上って向かわねばならなかった。
「……それじゃあ……またね、サダヒロくん」
「うん、また明日」
 手を振り合う。ノバラはエスカレーターに脚を乗せた。流石に振り返り続けて手を振るような子供っぽいことはしなかった。鞄を担ぎ直す。
(なんか、こんなふうに友達と帰るの、小学生ン時以来だな……)
 いつから下校が一人になったんだっけ、なんて思いを馳せつつ。
(あ。サダヒロくんにハンカチ渡しっぱなしだった……まあいいか)
 明日、洗って返してくれるだろう。そんな信頼があった。
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