●第六話:ニライカナイ


 塵となった紙片。
 あるいは、世界のどこかの物語――。

 ――……波の音が聞こえる。
 海の音だ……それから太陽の温もりと、足を濡らす水と、知らない鳥の声と。
 私はゆっくりと目を開き、体を起こした。
 そこは――砂浜だった。
 太陽が眩しくてとても温かい。空には鮮やかな色の、見たこともない鳥が飛んでいる。
 ここは南の島だ。私はそう理解した。
「――ミチルちゃん?」
 次いで私の心を懸念で震わせたのは、共に南の島を目指した親友のことだった。
 私は肝を冷やしながら周囲を見渡した。そうすると、すぐ真横に私の友達が――ミチルちゃんが横たわっていることに気付いた。
「ミチルちゃん!」
 私はミチルちゃんの体に手を触れ、彼女の安否を確かめた。触れたその体は温かく、柔らかく――
「……う、」
 生きている。ミチルちゃんは生きていた! 呻き声の後に、ミチルちゃんが目を開ける。彼女は一瞬だけボンヤリとしていたが、私と目が合うと驚いた顔で飛び起きた。
「サチコちゃん!?」
「ミチルちゃん……!」
 私達はお互いの存在を確かめるように、手と手を取り合った。砂浜に座り込んだまま、足を打ち寄せる波に濡らしながら、手に頬にセーラー服に砂を付けたまま。
 連鎖のように思い出すのは、あの夏空の下の逃避行だ。
 地球は不気味なバケモノで溢れていた。
 私は生贄に選ばれて、バケモノに体を巣食われそうになっていた。
 でもそれは地球では当たり前のことで、疑問に思っちゃいけなくて。
 生贄になるしかないんだと諦めて受け入れていた私に、「海を見に行こう」と理由をつけて「逃げよう」と言ってくれたのが、ミチルちゃん――私の一番のお友達だった。
 そして私達は逃避行の果てに、海へと逃げたんだ。
 南の島へ、ここじゃない遠いところへ行こう。うんと離れた、誰もいない無人島へ――そう言って、心を希望で塗り潰して、二人で海の深い場所へと飛び込んだんだ。
「……ホントに……着いちゃったね……」
 私はおそるおそる、改めて回りに目を巡らせる。
 温かくて、ヤシの木が生えていて……緑豊かな南の島だ。これは南の島だ。人の住んでいる気配はない、ように見える。
「サチコちゃん、探検しよーよ!」
 どうしようかと私が問う前に、ミチルちゃんがそう言った。私の手を取って、声を明るく弾ませた。
 正直、あのバケモノがいるかもしれない未知の場所だから、不安があったのだけれど――ミチルちゃんの元気な声が、私の臆病を吹き飛ばす。
 いつも、そうだ。まごつく私の手を引いてくれるのは、ミチルちゃん。私の友達。
「うん! 探検、しよしよ!」
 どの道、この波打ち際で海水に濡れながらじっとしていても意味がないのだ。いつかは立ち上がらないといけない。
 私はミチルちゃんと手を繋ぐと、一緒に立ち上がった。が、私は足元を見て呟く。
「あ……そういえば、靴」
「あ! 脱いだままだったや……」
「そういえば帽子も! ない!」
「あー!」
 折角、お揃いで買った麦わら帽子。海に流されている間に外れてしまったのか。
「さ、探そうサチコちゃん! 私達が漂流したんだから、帽子もあるかも!」
「そうだね、そうだよねっ……あるかなぁ……」
 私達はまず、手分けして麦わら帽子を探すことにした。波打ち際を歩き始める。白い砂は南の太陽に温められて、素足に直に温度を伝えるのだ。
「やっぱり水着、制服の下に着とけばよかった~」
「もー全身海水でベッタベタだねー、あはは……」
 私はミチルちゃんに苦笑を向けながら、波打ち際を一生懸命に見渡した。あの麦わら帽子、私にとっては特別なんだ。ミチルちゃんとの繋がりを感じるから。それに、あの惨劇でしかない逃避行を、一緒に乗り越えたアイテムだから。
「あったー!」
 ほどなくだった。ミチルちゃんの声に、私は弾かれたように顔を上げる。白く乾いた流木の近く、麦わら帽子を二つ持ったミチルちゃんがそこにいた。太陽みたいな満面の笑顔だった。
「二人分! 私のと、サチコちゃんのと!」
「あったんだー! よかったぁ~」
「まあ半乾き状態だけどね……」
「私達はずぶ濡れだし、もう濡れてても気にならないよ」
 笑いながら、私達はじっとりしてしまった麦わら帽子を被った。
「……まずは海水じゃない水で水浴びして、服を乾かさないとね……」
「そうだね、ミチルちゃん。川か何かがあればいいんだけど」
「じゃあ、改めまして冒険の旅へ、しゅっぱーつ!」
「おー!」
 グーにした手を上げて、私達は歩き始める。
 まずは川を……しかし裸足で藪の中を歩くのも辛い、ゆえに砂浜伝いに島をまわることにした。川が見つかるかもしれないし。
 そうして歩いて、ほどなくだ。濡れたスカートの重さにウンザリしながらふと顔を上げると、人工物が見えた――町並みだ。
「サチコちゃん……」
「うん、……」
 私達の心に不安が走る。
 だけど……妙だ。町並みには全くひとけがない。それに、なんだか随分と放置されたような雰囲気を感じる。
「誰も……いないのかな? サチコちゃん、私ちょっと見てくるよ」
「だめ、危ないよ……! ミチルちゃん、一緒に行こう?」
「ん……分かった、じゃあ一緒に見に行こう」
 緊張した顔で頷いたミチルちゃんは、落ちていた流木を武器代わりに拾い上げた。あまりに心もとないけれど、何もないよりは気休め程度にマシだった。

 ぺた、ぺた、素足は砂浜を放れ、熱いアスファルトの上へ。凄く熱いけれど我慢して、私達はおそるおそる、南の島の町へと踏み込んだ。
 私達が住んでいた場所とは町並みが違う。観光地、という雰囲気がするが、ガランとして静かだ。海の音しか聞こえてこない。リゾートホテルのような場所も、ヤシの木が並ぶ道路も、民家も、無人だ。建物は全て廃墟めいている。
「誰も……いない……?」
 油断なく流木を構えたまま、ミチルちゃんは怪訝な顔をする。
「そうみたい、だね……? なんでだろう」
「悪い宇宙人に滅ぼされちゃったのかも……」
「うっ……」
「でも、アイツらもいないみたいだから! この島は平和で安全なのかもしれないよ」
「そうだといいなぁ、うう……」
「この町が無人なら……お店からお洋服と服を失敬して……あのリゾートホテルのお風呂使っちゃおうよ!」
「いいねぇ! でもお水でるかな、お湯になるかな……」
「だめだったらその時に考えよっ」
「それもそっか!」
 まずはなんと言っても靴だ。サンダルでも良い。素足がこんなに辛いなんて。アスファルトは容赦なく熱いし、道のデコボコが足にめり込んで痛いし。普段全く無意識に履いている靴が、こんなにも人類に必須のものだとは思わなかった。
「靴を考えた人は偉大だ……」
 リゾートホテル近くのお店で取り急ぎビーチサンダルを失敬した。ミチルちゃんが足元を見てしみじみと呟く。ちなみにお店にもその周りにも誰もおらず、店内は廃墟然としていた。
「次はお洋服だね。まあ……セーラー服、乾きつつあるんだけど」
「アロハシャツがいいなぁ、アロハシャツ。サチコちゃん、おそろいにしよーよ!」
「賛成! ふふ、お金も払わずに商品を勝手に持って行っちゃうなんて、私達……強盗だね!」
「ふふふ、ほんとだぁ!」
 罪悪感はなかった。あんな逃避行を――生贄を逃がす、生贄から逃げる、なんていう地球最大の大罪を犯した後では。物を勝手に持って行っちゃうぐらい、些細に感じた。

 ぺた、ぺた、今度はサンダルの音。私達はオシャレな廃墟に入って、色違いのアロハシャツワンピースを着た。「じゃじゃーん」と試着室で見せ合いっこして、笑い合った。私は明るい赤色、ミチルちゃんはエメラルドグリーンだ。ついでにサングラスも失敬した。タグ付きのまま着けて、しばしはしゃいだものだ。
 濡れたセーラー服は店にあった紙袋に入れた。すっかり南の島のバカンスナイズした私達は、紙袋を提げて店から出る。
「いざ! リゾートホテルへ!」
「ミチルちゃん、私……リゾートホテルなんて初めて……!」
「修学旅行の時はフツーのホテルだったもんねぇ。楽しみだね!」
「あ! ホテル行く前にさ、どっかのお店で食べ物を探して持って行こうよ!」
「確かに! ナマモノはヤバそうだから……缶詰とかレトルトだね。それからペットボトルのお水も」
「あとはライターとか、火をおこせるものと……懐中電灯だね、電気が通ってないなら真っ暗になりそうだし」
「ひゃわぁ……サチコちゃんすごい、物知り博士だ」
「本で読んだんだ! ……うろ覚えだけど」
「頼もしいなぁ。それじゃあ、次の目的地はスーパーだね!」
「なんだかワクワクしてきちゃった……うふ。楽しいね」
 不謹慎かもしれないし、逃避行の最中でもあるのだから、「楽しい」だなんて私の感想は場違いだった。でも、友達も二人で誰もいない町を探検したり、あれこれ考えたりすることに、私は冒険心のようなうきうきとした心地を感じていたのだ。
 そしてそれは――ミチルちゃんも同じだったらしい。彼女はまるでいたずらっ子のようにニッと笑った。
「えへへ。楽しいね、サチコちゃん!」
 ――ミチルちゃんが楽しくて幸せなら、私はそれで胸いっぱいだ。
 潮風に二人分のワンピースがひるがえる。まだちょっと濡れた麦わら帽子を頭に乗せて、私達の冒険が続く。
 ●
「だはぁー! 疲れたー!」
 やっとリゾートホテルについて、とりあえず広いロビーでミチルちゃんは荷物を下ろして息を吐いた。ホテルはやはり無人だった。
「あっつぅ~、汗びっしょりだよぉ」
「荷物も結構、重たくなっちゃったしね……ミチルちゃん、お疲れ様」
 広々としたソファに座り込んだミチルちゃんを労いながら、私も重たい荷物を下ろす。重さの元凶はだいたい飲み物のせいだ。当たり前だけど、1リットルって1キロもあるんだよね……。
 ビニールが食い込んでいたかった指を開いて閉じて。私はシャツの胸元をパタパタさせながら、ふと気付く。
「……あれ? ミチルちゃん、そういえばここ……涼しくない?」
「あ、言われてみれば……」
「ひょっとして……冷房が生きてる? 電気、通ってるんだ……?」
 私達はそろそろと天井を見上げた。ぶおーん……とわずかな音を立てて、冷房装置が機能している。
「クーラー! クーラーだよミチルちゃん!」
「やったぁあああああ快適ライフだああああ」
 私達はひしっと抱き合った。電気が生きているだけでも超ラッキーだ。学校では「無人の町で生き残るサバイバル学」なんていう授業があるはずもなかったし、無力な中学生が何の援助もなく生きていくには電気というものは大助かりだった。
「じゃあ、カードキーとかそういうのも大丈夫なのかな? 部屋に行ってみようよ!」
「折角なら一番いい部屋に行こ!」
 暑い中、重いものを運んでヘトヘトだった私達だったが、俄然やる気が湧いてきた。力を振り絞って、ビニールのガサガサという音を立てながら、あともうひとふんばり。
 私達はカードキーを見付けて、エレベーターが正常に動くかどうかの動作確認をして、大丈夫そうだったのでエレベーターに乗った。そしてふかふかの廊下を歩きながら、私は気付いたことを口にする。
「あんまり汚れてないね、建物の中。むしろ結構、綺麗っていうか……」
「確かに。道の雑草もそんなにボーボーじゃなかったし、荒れてるって感じもなかったし」
「まるで、急に人がいなくなったみたい……どうしたんだろうね?」
「むしろ……ここは悪い宇宙人達の町で、宇宙人達に何かあったから、みーんな自分の星に逃げてったのかも?」
「えー……何かってなんだろ、パンデミックとか?」
「ゾンビだったりして!」
 がおー、とミチルちゃんがおどけてみせる。私は「まさかぁ」とくすくすと笑った。
「ゾンビだったら、もっと町が荒れてるんじゃない? テレビで観たゾンビ映画みたいにさ。窓が割れてたり、血の跡があったり……」
「それもそっかぁ。ゾンビもいなかったしね、町」
「ゾンビが出たらどうしよう?」
「籠城するしかないね! 映画みたいに鉄砲もないし……」
「鉄砲かぁ。鉄砲ってどこにあるのかな」
「うーん……警察とか?」
「け、警察かぁ……」
 警察にはいい思い出がない……思い出しかけたあの夏の惨劇を頭を振って振り払う。
「……この町に警察っているのかな」
「うーん……、この調子ならいないような気もするけど」
「じゃあ、鉄砲。貰っちゃおうよ。念の為にさ」
 自分でも大胆なことを口にしたと思う。手に提げた重いビニール袋を握り直した。
 私の脳裏に蘇るのは、バケモノに変な銃で撃たれたミチルちゃんの姿だった。銃があれば、もしものことがあっても、ミチルちゃんを護れるかもしれない……私はそう思ったのだ。私を連れ出して生かして護ってくれたミチルちゃんを、今度は私が護るんだ。
 ミチルちゃんはそんな私の方を見て、くすりと優しく笑ってくれた。
「うん、貰いに行っちゃお。なんだかワクワクしてきた!」
「えへへ。やることがいっぱいだねぇ」
「そうだね、この町の探検もまだ終わってないし」
「でもまずはお風呂! 髪の毛がもー、べったべた!」
「それからごはん! お腹空いた~」
 先のことを考えることが、考えられることが、こんなにも明るく輝いているなんて。

 私達は辿り着いたドアを開けた。そこはスイートルームだった。
「わ~~~~!!」
 私達の声が重なる。オーシャンビューのお部屋だ。窓の外、アクアマリンの色とはまさに。鮮やかな水平線と、風に揺れるヤシの木と。冷房が効いていて涼しい。部屋も綺麗だった。
「すごいすごーい!」
「サチコちゃん! すっごいおっきいベッドだよ! すっごい!」
「ひゃー! 見てミチルちゃん、お風呂が! バスタブが映画で観るやつだよコレ!」
「トイレまでひろーい!!」
 私達はしばらく、見たことのないVIPルームにきゃいきゃいと盛り上がった。
 そうしてはしゃぎ疲れた頃、どちらからともなく「お風呂行こっか……」と言い出して、私達は大浴場へと向かった。

 お風呂はお湯が出た。驚いた。水も臭くないし、綺麗だ。シャンプーやらもある。ただ、お湯は溜まっていなかった……出し方も分からない。オーシャンビューはめちゃくちゃ綺麗だけど、湯船に浸かるなら、部屋の風呂場を使うしかなさそうだ。
 私達は海水の潮を流して、髪を洗ってサッパリして、たっくさんあったタオルで体を拭いて、さっきのアロハシャツのワンピースに着替えた。ちなみに下着も、この服に着替えるにあたって新しいものを失敬してきたのだ。
「麦わら帽子さぁ」
 着替えたばかりのミチルちゃんが、タオルの上の麦わら帽子を見ている。
「型崩れしなくってよかったね」
 この麦わら帽子、ビニール素材だったようだ。水を吸ってくったくたになることはなかった。一応、濡れタオルで拭いて潮や砂はできる限り拭きとった。今は型崩れしないようにタオルの上でじっとして貰っている。今日一日はしっかりタオルの上で休んで乾いて貰わねば。
「そうだねー」
 私はドライヤーで髪を乾かしながら、風の音に負けないように大きめの声で言った。
「戦友だもんね、その帽子はー」
「そうだよ! 一緒に南の島まで来たんだもん!」
「ミチルちゃん、ドライヤーしないのー?」
「扇風機の前にいるからあ゛~~」
 ミチルちゃんは『強』にした扇風機の前で髪をなびかせながら、風の前で「あーー」と言う。独特のエフェクトがかかる。
「扇風機で乾くぅ?」
「乾くよお゛~~涼しいしい゛~~」
「ズボラだなぁ」
 私は苦笑をして、ドライヤーを切った。
 そして私達は部屋に戻る。スーパーで漁って来た缶詰を開ける。本当はキッチンもあって、ひょっとしたら火も使えるかもしれないけど、私達は疲れていて面倒臭さが勝ってしまったのだ。折角なので、オーシャンビューのバルコニーで。ペットボトルで乾杯して、割りばしで頂きます。
 それは初めての体験で、私もミチルちゃんも終始、ドキドキしていた。まるで修学旅行の時みたいな。テレビはつかなくて、砂嵐だった。夕方の海は何とも言えない美しさと切なさがある。波の音と、私達の他愛もない会話だけが世界に存在している。
 寂しいとか、そういう気持ちはなかった。
 ……戻る場所がないことは、私達が一番良く分かっている。
 だからこそ、前を向いて行こう。
 過去はもう、海の向こうに置いて来た。
 希望で塗り潰そう。
 生きている。私達は今、生き残っている。
「ごちそうさまでした」
 手を合わせた。缶詰だけのごはんなんて初めてだった。
 バルコニーから部屋に戻って、なんとなく、私達は広いソファで隣り合って座った。
 窓の外、空はどんどん暗くなる。夜になっていく。部屋の電気は消したままで、そうすれば星の灯りが良く見える。月が見えた。綺麗な満月だ。スーパームーンだ。大きくて、橙色。
「明日は、どうなるんだろう?」
 ミチルちゃんがふっと口にする。
 私は大きな月を見つめながら、しばし考える。
「んー……、ミチルちゃんは、どうしたい? どこか行きたい?」
「そうだなぁ~……、えっと。ここを拠点にするなら、このホテルに何があるのかの確認でしょ、ていうか誰もいないならここのお掃除とかもしないといけないね。プールとかコケとか生えちゃうだろうし……あ、水着でプール遊びもいいなぁ。あ、でもそれよりも先に町をもうちょっと探検しておきたいし……そういえば鉄砲! 警察のとこに行って、確保しておきたいね。それから……お洗濯もしておかないと!」
「うふふ。やること盛りだくさんだねぇ」
「行かなきゃいけないところもね! たくさんだぁ。こりゃ一日じゃ足りないぞ」
「ほんとだね。一日ぽっちじゃ、足りないや」
 私はミチルちゃんの手をそっと握る。私をここに連れて来てくれた、救いの掌。大好きな掌……。
「……ミチルちゃん、これからも……ずっと私と、いてくれる?」
 ひょっとして、世界にはもう自分達しかいないのかもしれない。
 だとしたら、これからたった二人で生きていくんだろう。
「当たり前だよ。私、サチコちゃんとサヨナラしたくないもん」
 そんな言葉を聞けば――怖い気持ちとか、そんなの全部ふっとぶのだ。それどころか、ワクワクしている私がいる。
 これからは何だってできる。どこにでも行ける。色んなことをしなくちゃいけないし、街の隅々にまで行かなきゃいけないし、頑張って生き抜かないといけない。
 きっと大変なことがいっぱいあると思う。私達はまだ子供だもん。知らないことが多すぎる。ミチルちゃんと衝突して、ケンカすることだってあるだろう。
 それでも、だ。
 生きたい、と願った。
 私達は互いにもたれあう。大きな月に、目を細めた。
 歯磨きしてそろそろ寝よっか、という言葉は、あともうちょっとだけ後に言おう。
 今はこんなに、世界が綺麗だ。
 ●
 あれ以来、私達以外の人間に出会ったこともなければ、バケモノやゾンビに遭遇することもなかった。
 この南の島には私達しかいないらしい。平和で静かで穏やかで、何事もない。
 私達は元気に生きていた。今日も探検だ。
 そして――私達は小学校を見付けたのだ。
 やっぱり荒れておらず、古びて老朽化しているわけでもなく。鍵はかかってなかったから、私達はドキドキしながら侵入した。「行ってみようよ」の言い出しっぺはやっぱりミチルちゃんだった。うう、誰もいない学校って、なんだか怖い……。
「ひゃああ……オバケ出るかも」
「うえええ……やめてよミチルちゃん」
 棒切れ片手に前を行くミチルちゃんにしがみついて、私はおそるおそる歩いて行く。
 まあ、結果から言うとオバケはいなかったんだけど……多分。さておき私はドキドキしていた。
 なんとはなしに入ったのは、とある教室だ。
 小学校の机ってこんなに小さかったっけ、みたいな話をしながら、私達は教室を見渡した。そしてふと、教室の後ろの壁に目が留まる。
 400字詰めの原稿用紙がいくつか貼られている。何か書かれているようだ。作文だろうかと目を凝らせば――それは物語達だった。

 僕らは遊星の塵芥。
 オパール色の神様と一緒に宇宙を旅する、男の子のお話。

 月葬刑。
 冤罪で月に流刑にされた男と、死神の少女のお話。

 ヴァニタスのコドク。
 処刑コーディネーターの男のお話。

 愛しき済度よ。
 地球に取り残された宇宙人が、救いを求めるお話。

 君とサヨナラしたくなくて。
 これは真っ黒に塗り潰されていて読めない。

「……」
 私達は黙り込んだ。
「なんだか、暗いお話ばっかりだね」
「そうだね……」
 そのお話達は『僕らは遊星の塵芥』を除いて、どれもこれも、呪われながらも救いを求めた話だった。とてもじゃないが「めでたしめでたし」とは呼べなかった。
 ふと、私達は教室を見渡した。教卓に白紙の原稿用紙が重ねられているのを見つけた。それから、机の上に置きっぱなしになっていた2Bのエンピツ2本と、ケシゴムひとつ。
「ねえねえ、サチコちゃん。……このお話の続きを書いてみない?」
「いいね。幸せな結末にしちゃおうよ! それで、皆を救ってあげるの」
 私達は原稿用紙を取って、エンピツを持って、机をくっつけて、ケシゴムを共有して、潮騒を聞きながら、物語を綴り始める。
 ●
 ――その紙片の名は、ヴァニタスのコドク。

「やあ、ローランド」
 部屋のドアが開いて、笑顔を浮かべた男がやって来た。プラチナブロンドの髪に、澄み渡った青い瞳、高級そうなスーツを着こなした、伊達男。
「……やあ、スタンリー」
 私はベッドの上で彼の挨拶に応えた。シーツに投げ出した手は老いて細くなり、シワとシミがいっぱいで、内側の手首にはリストカットの古い痕がいっぱいあった。
 遠慮なしにベッドの端に腰かける優男から視線を逸らすように、私は顔を横向けて、窓の外の景色を見た。ぐるぐる渦巻く海と太陽がドッグファイトを繰り広げている。
「ドラゴンフルーツを貰ったんだけど、食べる?」
 スタンリーは真っ赤な果実を手の中にポンポンと放りながら、私の方を見た。
「……大丈夫です」
「それは食べるって意味?」
「……結構です」
「そう? 食欲ないのかな」
「いえ」
 溜息のように私は答える。
「……」
 会話を続ける気力、というものを、私は老いる度に失っていた。
 この宇宙人共が私への興味を失うのももうすぐだ。私の中の「死ね」という呪いが遂に成就してしまうのだ。そう思うと、取り繕うとか、媚びるとか、そういうのがどうでもよくなってきたのだ。敬語はしみついてしまったから、未だに抜けないけど。
「今日もいい天気だね、ローランド」
 手を伸ばしてドラゴンフルーツを私の枕元に置きながら、スタンリーはそう言った。私は無言のままだった。
 この宇宙人は、私の友達……と宇宙人本人は思っているらしい。尤も、奴は侵略者で、捕食者で、私のことなど愛玩生物としか見ていないが。
 だからこそ、老いたペットなど可愛くもないだろうと、そう思っているのに……。
 今日も彼は来たのだ。私のもとに。飽きもせず。老いて動きにくくなり、体もあちこち悪くなった私を、手厚く世話してくれているのだ。
(どうして……)
 それを私は、今日も言い出せない。
 横目にスタンリーを見る。じっと、虫のように私を見つめている青い瞳と目が合った。
「……なんですか」
「何か言いたそうにしている?」
「……」
「や、君とも長いからね。表情や仕草から読み取れる情報も増えてきたということだよ」
「……」
 私は額を抑えて、大きな溜息を吐いた。
「なぜ、と思ったのですよ」
 ようやっと言えた言葉は、随分とぶっきらぼうだった。
 へえ、とスタンリーが目を丸くする。
「なぜ、というと?」
「……君が毎日毎日毎日毎日、飽きもしないで、こんなジジイのところに来る理由ですよ」
「友達だからね」
「……」
 即答された。私は溜息すら出なかった。
「それとついでに、いい機会なので、もういっこクエスチョン……その殻、遺伝子操作で老化を極端に遅らせてるんですよね。なぜですか?」
「え? 君がこの殻を褒めてくれたから。僕自身も気に入ってるしね、これ」
「そんな理由で……!?」
「地球人ってそういう考え方しない? 僕ひょっとして間違ってた? 物に対して君達、結構さ、執着するじゃない? 不老不死にやたらこだわった歴史もあるみたいだし、これって凄く地球人的な行為だと思ったんだけど」
「いや……、うん……なんでもいいです……」
 やっぱり分かり合えない。コイツは宇宙人だ。スタンリーは自分の殻を確かめるようにあごを擦った。
「あ、それからさ、ローランド」
 そんな時だ。何かを思い出したようにスタンリーが手を叩く。「ちょっと待ってて」と部屋から出ていく。しばらくすると、ソイツは……真っ赤なヒガンバナを持って来やがった!
「見てコレ。綺麗だからさ、摘んでこっちに送って貰ったんだ。君にあげるよ」
「ちょッ……と、これ、あの、不吉なお花なんですけど」
「え? あ、そうなんだぁ。まあ実際に因果律に干渉するような性能はないでしょ? ただの植物なんだし」
「君達は……本当に……縁起とかそういうのを全く理解しないんですね」
「綺麗だからいいじゃないか。お誕生日おめでとう、ローランド。今日は君が生まれた、記念の日だね」
「……今の流れでそれ、言います? しかもこれ、誕生日プレゼントなんですか?」
「朽ちないように加工したんだよ。もちろん、他に欲しいものがあったらなんでも言ってね」
「はァ……」
 花を贈られたことは初めてじゃないが、ヒガンバナは初めてだった。燃えるような真っ赤な花だ。差し出されるので無碍にもできず、私はそれを手に取った。
 そうすると、宇宙人は優しい顔で笑うのだ。
「生まれてきてくれてありがとう、ローランド」
 その瞬間、私の頭の中の「死ね」という声が、一瞬だけ鳴り止んだ気がした。
 コイツを友人と信じるべきかそうでないか、未だに分からないけれど、ほとほと変わった宇宙人だなぁと思った。
(生まれてきてくれてありがとう、か)
 言葉を反芻する。
 そうすると、なんだか笑いが込み上げてきた。
 そういえば、笑うのは久しぶりかもしれない。
 彼岸の花を手に、私は思った。
 ああ、今なら、死んでもいいかもしれない、と。
 空が綺麗だ。
 ●
 ――その紙片の名は、月葬刑と愛しき済度よ。
 僕は遂にロケットで逃げ出した!
 あのオパール色の超越的な存在と、これ以上は一緒にいられなかった。あれは星を喰らう神だ。僕は神官として選ばれ、あるいは生贄でもあった。
 だけどそんな役目ともおさらばだ。この高速ロケットにはあのオパールも追い付けまい。
 僕は遂に自由になった。本当の自由だ。
 これからはどこにでも行ける。なんだってできる。
 僕のことを、僕自身が、僕の為に、ようやっと決めることができるんだ。
 自由だ。それはとても解放的だった。
 さあ、どこへ行こうか。宇宙は広い。星は数えきれないほどある。
 そうだ、景色が綺麗な星に行きたい。食べ物がおいしければなおよしだ。
 救済が僕を救ってくれないのなら、僕は僕自身を救ってやる。
 僕はどんどん宇宙を飛んで行く。
 そうすると、一つの星に通りかかった。
 その星の名前は、月という。
 月の上には、二人の人物。
 冤罪で月に送られた男と、死神の少女だ。
 僕は二人に「おーい」と声をかけた。
「乗っていくかい?」
 ●
 原稿用紙、そんな展開。
 月の上の死神は、文字をなぞりながら思わずくつくつと笑ってしまった。
「おいおい、ぶっとんだ展開だなァ――」
 月に流刑にされた男と、死神の少女は、男と一緒にロケットで月を大脱出したそうだ。それから宇宙を旅してまわって、あっちこっちのおいしいご飯を食べたそうだ。それは紛れもなくハッピーエンドだった。
 原稿用紙の片隅、『了』という文字を見届けた死神は、原稿用紙から手を離す。
 ひらり、ひらり。
 椅子に座した死神の足元に、また一枚の原稿用紙が重なり積もった。
 全て全て、物語だ。白い紙に、黒い文字でギッシリと。全て全て、幸せに終わる物語。優しい世界の断片達。
 次はどんなお話を読もうか。
 死神はそう考えて――折角だから、自分も何か書いてみようか、と思い付いた。
 だって時間だけならいくらでもあるのだ。物語を練る時間も、書く時間も、読み返す時間も。
 そうだ、物語を書いてみよう。死神はそう決めた。いつか月が、太陽に飲まれて消えるその時まで。ハッピーエンドが好きな誰かの為に物語を書いていた、友人の為に。
 結末は決めている。もちろんハッピーエンドだ。幸せで、報われて、救われる、そんなお話を。
 どこにもいけず、どうにもならず、どうしようもなく。
 虚しくて、やるせなくて、八方塞がりで。
 疎まれて、穢されて、呪われて。
 そんな世界にも――ひとひらの救済があったっていい。
「皆、救われたかったのさ」
 400字詰めの原稿用紙、2Bの鉛筆、レゴリスの上で文字を綴る。


『了』
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