●第五話:僕らは遊星の塵芥

 400字詰めの原稿用紙、2Bの鉛筆、レゴリスの上で文字を綴る。
「皆、救われたかったのさ」
 その男は奇妙ないでたちだった。
 ウサギ耳のようなパーツの付いたガスマスクに、黒い襤褸外套。傍らに置いてあるのは大きな鎌だ。
 なぜガスマスクにウサギの耳が付いているのか、黒い外套がボロボロなのか、扱いにくそうなほど鎌が巨大なのか――その男の正面にいるもう一人の男には、理由が分からなかった。そもそもガスマスクについている二本の角のようなものが、ウサギの耳をモチーフにしていることも分からなかった。
「お前の名前は?」
 ガスマスクの男が顔を上げる。もう一人の男はうつむいて、しばらくの沈黙の後、こう答えた。
「メテウス……」
「そうか。見た目は若いあんちゃんだな、メテウス兄貴と呼んでやろう」
「君は一体……」
「俺? 死神だ」
「死神……」
「知ってるだろ? お前達、俺を調べてたハズだ。わざわざ月にまで来てな。お前のことも見てたよ。俺、近くにいたし」
 死神と名乗ったガスマスク男は、灰色の塵の上に座り込んで、地べたに置いた原稿用紙に鉛筆で黙々と何かを書いている。
 メテウスと名乗った男は、彼は何を書いているのだろうかとその手元を覗き込んだ。判別不可能な文字の羅列がビッシリと書き込まれていて、じっと見ていると気分が悪くなりそうで、メテウスは顔を背けた。そのまま呟く。
「死神……月の、死神か。本当に、いたんだ……」
「月にも死人が出るからな。しかし、宇宙服を着てない奴と会うのは随分と久し振りだ」
「……」
「まあ、こうなることはずっと前から決まってたんだ」
「ずっと……前から?」
「因果応報だよ。星の光が、何億年もかけて宇宙の果てから届くような」
 そう言って、死神はようやっと顔を上げて、彼方にある灰色の地平線を見やった。
 そこには青い星が、静かに水を湛えて輝いている。
「兄貴、あの星の名前を憶えているか?」
「……」
「地球。人間がいなくなって、ただ氷河期に凍っていくだけの廃墟の惑星だ」
「……」
「何を言ってるんだコイツ、地球は黄金にキラキラ輝いて……って顔してるな」
「だって……」
「分かってるよ。お前は救われたかっただけなんだ。その帰結があの光景だった。気付いてるんだろう、本当のことを」
「う……」
 メテウスは顔をしかめ、頭を抱えた。その左手は掌の半分から上がなく、親指だけが残っていた。
 軋む意識でメテウスが思い出すのは、血と肉と廃墟の光景だ。完全な静寂。死の音だ。
 あの金色の楽土は幻想だ。幻覚だ。あの甘い味が見せる夢だ。あの甘さがメテウスの精神も肉体も変質させてしまった。己が生き物なのかそうでないのか、もうメテウス本人にも分からない。
「だって、僕に、他に何ができたんだ。誰かの為に死ぬべきだったのか? 寒い場所で、たった一人で、惨めな想いに晒されながら?」
 甘い蜜でしか生きられない喉で、メテウスは声を振り絞る。真空の世界なれど、不思議と声がどこまでも響いた。ガランドウの舞台の上のように。
「兄貴、どうして月に来たんだ?」
 そんなメテウスを、死神は責めることも肯定することもせず、一つの問いを投げかける。相変わらず原稿用紙に不可思議な文字らしきものを描いていきながら。
 宇宙人だった男は青い星を見る。あそこは金色に輝き、美しい音が奏でられ、花の降る幻想郷であった。だが今のメテウスの目には、ただの青い星にしか見えなかった。瞳に青を映したまま、メテウスは答える。
「月は、僕が知ってる、最後の、誰かがいるかもしれない、星だから……」
「それで、ここにそんなモン連れて来ちまったのか」
 死神がメテウスの背後にチラと目をやる。メテウスは振り返る勇気がなかった。だが背後からは宝玉が転がるような至上の音色と共に、オパール色に煌く光が柔らかく彼の背中を照らしていることを感じていた。星雲の眼差しを思い出し、メテウスはぎゅっと目を閉じる。
「僕にはどうしようもない。どうにもできない。どうにもならない」
「ああ。しょうがないさ。……全く、因果よな。どうしてこんなことになったのか」
 死神はガスマスクの奥で遠い目をした……ように見えた。その素顔を窺い知ることは、誰にもできない。そのまま彼は、エンピツを走らせたことで真っ黒になった手の横の部分を見て、肩を竦めた。
「願いは、何かを生み出す力があるのかもしれない。地球ではな、星に願いを投げかけるんだ。だから――星には、願いを叶える力があるのかもしれないな。ま、俺の妄想だ。宇宙の真理なんか知るかよ」
「死神にも、分からないことがあるの?」
「メテウス兄貴よ、全知全能に意味があると思うか? 月並みな言葉だが、完成してないからこそ、生命ってのは未だに進化を目指して繁殖してるんだろ。この宇宙のどこかで、今も」
「……」
「俺は猿から、お前は虫から、ここまでやってきたんだしさ」
「僕はこれから……どうしたらいいんだろう。何ができるんだろう」
「自分がこれからどうなるのか、兄貴が一番よく分かってるんじゃないのか?」
 死神にそう言われて、メテウスは押し黙る他にない。
 もう、かの神をどこかに連れて行くことはできない。メテウスはもうこれ以上、生き物がいる星を知らない。つまりかの神にとっては用済みであるわけで――その結果をメテウスは理解している。
「僕、は、食い殺され、る」
「だろうな。そうやって、その神様とやらは宇宙をずっと旅してきたのかね。案内人が狂って使い物にならなくなるか、案内人のネタがなくなるか……新しい案内人はどーやって探すんだろうなぁ。あるいは願いが聞こえるのかもしれないな? 神様だし。実際のところは分からないが。あー、それかメテウス兄貴の種族を滅ぼし尽くす為に発生した存在説なんてどうだ?」
 死神は飄々と言うが、メテウスの言う神を本当の意味で神様とは認めないような物言いだった。
「なんというか。神様は神様でも、邪神だな。破壊神かも。あ、でも俺は死神だから、そう考えるとその神様とは親戚みたいなものなのかな」
「……、君とオパールは違うんだね」
「俺らは遊星の塵芥よ、起源を辿れば星屑の原子からできてるんだ。俺も兄貴も神様も、そう考えれば違いのクソもあるまいさ。……ていうのは煙に巻くようなイジワルな未回答だから、ちゃんと答えるよ。『似てるかもしれないが、俺とは全然違う』」
「……どうしてオパールは、君に襲いかからないんだろう。まるで見えていないみたいに」
「見えてないんだろう。だって俺は死神だ。死にゆく者にしか死神は見えない。だから死の運命が確定している月葬刑の罪人には俺が見えてたんだよ」
 死神のその言葉は、メテウスがやはりオパールに殺されることを明確に示していた。
 メテウスはうつむいている。すがった救いは呪われていた。宇宙を自在に飛び回りながら自由はなく、与えられた安寧は服従させる為の手法であり、肉体すらも変質させられた――寿命という檻から解放され、老いることも飢えることも渇くことも疲労も眠気もなくなり、いかなる環境でも生きていける性質を得たのだ。
 全て、メテウスを使い尽くす為。メテウスから隷属以外の選択肢を奪う為……。
「死ぬのは怖いか」
 死神が問うた。
「死にたくない……死ぬのは怖い……そう思うのは生き物なら当たり前だろう?」
 メテウスは自棄めいた声音を震わせた。
 死神はやっぱり肯定も否定もしないで、やおら立ち上がる。片手には書き続けていた原稿用紙。もう片手には大きな鎌。鉛筆はいつの間にか消えていた。
 メテウスは、死神が手にした紙を見やった。
「何を……書いてたの?」
「物語だよ。最愛なる読者ちゃんがハッピーエンド主義者でね。とびきり優しい幸せを詰め込んだ」
 言いながら、死神は空に原稿用紙を掲げた。
「ハッピーエンドにしてね、って言われたんだよ」
 ふわり、大気がないはずの月で風が起きた。
 それは月の砂を巻き上げることはなく、原稿用紙だけを包んで、空の彼方へと飛んで行く。原稿用紙は空中で塵になって消えた。
 メテウスはその塵に目を細め、死神にたずねた。
「……。君は一体、何者なんだ?」
「だから、死神は死神。文字通りだよ」
「じゃあ、死神って……何なんだ?」
「呪いだよ」
「……呪い、……」
「もしくは祝福?」
「良く分からない、うまく理解できない」
「もっとオープンユニバースに考えなきゃ」
 ガスマスクに隠れて分からないが、死神は笑った顔をしている、ような気がする。
「知らないのか? この宇宙には兄貴の知らないようなことの方が多い。兄貴の脳味噌に入ってる常識とか道徳とかなんて、宇宙規模で考えたらこのレゴリスの一粒よりもちっちゃいンさ」
 そう言って、ガスマスク越しなのに死神は、自らの指先につけた月の砂――レゴリスをフッと吹き飛ばした。
「理屈で考えるだけ無駄無駄」
 吹き飛ばされた月の塵は、肉眼で見えないほどに小さくて、キラキラと漂い落ちていった。
「分かるよ。理由がないのは怖いさ。分からないものは納得できない。その未知を切り開こうとする願いを、進化と呼ぶのだろうけども」
「……君の言っていることは、良く分からない」
「宇宙ってそんなモンよ」
「宇宙、……」
 メテウスは空を見上げた。花が降る金色の空はそこになく、夜空のように星空がある。大気に隔てられない宇宙空間がある。
 無限の暗闇。どこまでも向こうに続く黒――遠くに見える光粒は、その一つ一つが今ここに立っている月ほど、あるいは月よりも巨大な星なのだと思うと、あまりに圧倒的で、途方もなくて、そして――そんな星にある命を、幾つも幾つも消してしまったのだと、メテウスは虚無めいた孤絶を感じた。
「……僕はちっぽけだな」
「そりゃそーよ、兄貴、地球人の見かけしてるけど、本体は糸屑みたいな虫なんだろ」
「……何の為に生きてるんだろう」
「さあ? 死神にそんなこと聞かれてもな」
「どうして僕は、死ななくちゃならないんだろう」
「死ぬことに意味があった方が、メテウス兄貴は嬉しいか?」
「……分からない。もう、分からない……疲れた……」
 メテウスは月面に膝を突く。項垂れた頭は、斬首を待つ罪人のようだった。
「辛いよな、分かるよ」
 死神がその隣に腰を下ろす。肩に手を回して、慰めるようにポンポンと叩く。
「やるせないよな。どうにもならないのに、まだズルズルと命が続く。自分を殺す度胸もなければ、今を変える方法もない。ままならなくて、八方塞がりで……絶望だ」
「僕は……、僕は……」
「ま、あんまりクサクサするなよ。折角さ、発狂もしないでここまで辿り着けたんだ。大した強さだよ、あれだけ色々あったのに、お前はまだ狂ってない。あるいは……正気を保つことが、その神様へのせめてもの抵抗だったのかな?」
「……強くなんかない、僕は」
「メテウス兄貴はここまで生き延びたんだぜ、まずはそれを誇ろうや」
「……死神が、生きたことを誇れだなんて」
「生と死は表裏一体だからな。さてと」
 死神が立ち上がる。その服には砂粒一つ付いていないのに、彼はパタパタと服を払う仕草をした。それから、片手をメテウスへと差し伸べる。右手。いつの間にか、鉛筆の汚れは消えていた。
「散歩でも行く? どうせもうすぐ死ぬならさ、ちょっくら月観光でもしていきな」
「……、」
 メテウスはその手をじっと見た。
 白くない、輝いてもいない、不可思議な光沢もない、地球人と同じ形の掌だ。
「どうして地球人と同じ形をしているの?」
 その手を取りながら、メテウスは問うた。
「月の死神だからだよ。月は地球の衛星だからな」
 さも当然のように死神は答え、続けてこう言った。
「メテウス兄貴、散歩中は絶対に振り返るなよ」
 どうして振り返ってはいけないのか。
 メテウスは察していた。振り返ってはいけない。背後から差し込む清らかなオパール色の光を見てはいけない。あの甘い蜜を求めてはいけない。振り返ったら最後、今度こそメテウスはメテウスでいられなくなるだろう。
 底寒い気配と心地を押し殺し、メテウスは月面を漫然と歩く。
 見渡せば、死神とメテウス以外には誰もおらず、何も聞こえず、砂で覆われた灰色の地面が広がるばかりである。
 重力は感じない、しかし歩行は問題なく、メテウスが被る地球人の殻がよろめくことも転ぶこともなかった。
 一方で死神は、ふよふよと宙を漂って進んでいる。オパールのように地を滑るのとはまた異なる浮遊だ。
「……君はずっと月にいるの?」
「まーね。月の死神だから。あ、月面で生身なのに平気だったり飲食睡眠一切不要なのはな、死神パワーだ」
「月から出たことはないの?」
「まあね? ロケットないし」
「飛行できるのに?」
「できないモンはできないのさ」
「……、死神は、どこから来たの?」
「哲学的なことを聴くんだなぁ。じゃあ兄貴はどこから来たんだ?」
「……遠くの星から」
「そうじゃなくて、もっと本質的な意味でさ」
「本質的な、って……」
「言葉に詰まるだろ? そういうことなんだよ」
「……はぐらかした?」
「謎めいている月の死神なのだった。よしよし、会話が成立してる。兄貴はちゃんと正気を保ってるんだな、エライエライ」
 死神がメテウスの頭を子供にするように撫でた。メテウスにその手を振り払う元気はもう残っていない。そして死神曰く、メテウスは未だ精神崩壊はしていないらしい。それが救いなのか、そうじゃないのかは、月のみぞ知る。
「死神は、何が目的なの?」
「何って。俺死神、命刈り取る、お前もうすぐ死ぬ。これ以上のアンサーってあるか?」
「じゃあどうして、」
「兄貴にこうやって話しかけるか? それはな、興味と好奇心というやつだ。コミュニケーションなんてそんなモンだろ。それとも何か、高尚な理由が欲しかったか? 神様に選ばれたから、とか」
「……、いや」
「だろ」
「……仮面の下はどうなってるの?」
「普通に顔だよ。見せろって言われても天邪鬼なんで見せないけどな」
 他愛もない会話だ。
 しかし、とメテウスは感じる。こんな風に誰かと会話をしたのはいつ以来だろう。他人というものと触れ合ったのは随分と久しい。そして同時にメテウスは感じるのだ。このささやかなやりとりによって、軋んで砕け散りそうになっていた心が、どうにかギリギリ形を保てるような気がする、と。
 ただ、メテウスは喜びは感じられなかった。ただただ、ガランとした心地が横たわっていた。メテウスはうつむき、死神にたずねた。
「僕は何秒後に死ぬの?」
「少なくとも今すぐじゃないな」
「……そう、か」
 そんな風にメテウスは死神と歴史にも残らない会話を繰り返して、時間が無為に流れていった。
 しかしふと、メテウスは程遠い地面に何かあるのを見付ける。
(あれは……)
 なんだろうか、と思って目を凝らした。
 それは宇宙服だ。宇宙服を着た誰かが倒れている。メテウスは知っている。あれは月葬刑の罪人が着る宇宙服、この月における牢獄だ。
「……地球人か」
 呟いて、メテウスは罪人へと歩み寄り始める。月の塵が一歩の度に舞う。死神が静かについてくる。
 やはりというか、当然ながら彼あるいは彼女は死体だった。ヘルメットから見える肉体は完全に朽ち果てて崩れている。黒々としたヘルメットには、ただ青い星が映り込んでいた。
「……――、……」
 言葉が出そうで出なかった。メテウスは口を噤んだまま、朽ちた骸を見下ろしている。
「兄貴、そいつは月葬刑の罪人だよ」
「……知ってる」
 メテウスは死神の言葉に対し、溜め息のように答えた。
 この地球人はどんな罪で――メテウスは続けて声を発しようとして、それを飲み込む。彼らの種族が、地球人に対して平然と冤罪を振りかざしていたことを、メテウスは知っているからだ。
「……救われたかったのかな」
 皆、救われたかったのさ。
 そんな死神の言葉を思い出し、メテウスは呟いた。死人が返事をすることはなかった。
「……、ごめんよ」
 メテウスはそっと、死者へ弔いの為の詫びを口にした。それがあまりに遅すぎて、意味がないことを自覚しながら。それでも、どうしても言いたくなった。なんにもない月で、苦しみ抜いて絶望して、心も体も壊されきって、たった独りで死んでいった見知らぬ地球人――その死を思うと、一つの命に対してあんまりな仕打ちだと思ったのだ。
「誰のせいとか連帯責任とかじゃなくて、そういう因果なんだよ」
 傍らの死神が言った。
「いろんなことがあって、いろんな物語があって、その因果の帰結なんだよ、ここは。例えばさ、月葬刑にしたって、考えた奴が悪いのか? 実行した奴が悪いのか? 月葬刑に処されるような犯罪者が悪いのか? 冤罪を被せられる弱い奴が悪いのか? オカシイと思ってるのに声を上げなかった奴が悪いのか? その果てに生まれた呪いに責任があるのか? 多分、みんな悪いし、かといって誰か一人に悪が集中するわけでもないし」
 そう言って、一間を開けて、死神は続けた。
「まあでも、お前のゴメンはコイツの救いになったと思うよ、多少はな。気休めってのは大事だと思うよ」
 言葉終わりに死神は死体の傍にしゃがみこみ、掌で触れた。途端に死体は、宇宙服ごと塵と化していく。バラバラになって、月の砂の一粒になっていく。
「死体を掃除する奴がいなくなったからな、今は俺が月の掃除屋ってわけだ。……て言っても今後二度と月葬刑は行われないわけだが」
「……」
「ああ、メテウス兄貴のせいで、ってわけじゃないさ。言ったろ、全部因果の帰結なんだって」
 死神の声は穏やかで、静かで、凪のようだった。言葉通り、メテウスやその種族への憎悪があるようには感じられなかった。
「昔は随分と呪ったものだがね、何もかもを。呪うしかなかった」
 罪人が横たわっていた場所にはわずかな砂の痕跡が残った。死神はそこをハイカットのスニーカーで無造作に散らし、死者の痕跡を風に代わって消し去った。
「俺が俺である限り、呪い続けてやる、ってな」
「……今はそうじゃないの?」
「昔よりはクールな気持ちになったかな」
 死神はカラカラと笑った。飄々としていて、とても何かを呪うような存在には、メテウスには見えなかった。
「君はここで、ずっと罪人を看取ってきたの?」
「『死神』はそうだな、その通りさ」
「……僕のことも、……」
「まあ、そうなる」
「……。僕はもう……ずっと独りだと思ってた」
 メテウスが自分の足に視線を落とせば、オパール色の髪が後ろから彼の足にまとわり付いているのが見えた。
 甘い味が恋しくなって、メテウスは唇を噛む。振り返りそうになるのをなんとか堪えている。美しい音色が後ろの遠く、あるいは近く、もしくは頭の中で響いている。
「いつも、何かに、誰かに、利用されてばかりだった……何かと、誰かと、心から信頼を向け合ったことなんて、とうとう一回もなかった」
 メテウスと背後の存在との関係性は、信頼ではなく寄生か強制のようなものだった。
 彼は思い返す日々があまりに虚しく意味がなく、生産性も価値もなかったことに、立ち続ける気力もなくなり、座り込む。
 死にたくない。だけど死からは逃れられない。
 どうして死なねばならないのか。死ぬことに意味があった方が、まだ納得と安心ができたのかもしれない。
「僕は……どうすれば良いんだろう……どうしたら、良かったんだろう」
「呪うしかないだろうさ。自分を、何かを、誰かを、世界を。もう呪い以外にお前に何が残されてる? 何をなすことができる?」
 メテウスの真正面に死神が立っている。その眼差しはメテウスを真っ直ぐ見据えている。
 死神の言葉は悪魔の囁きか、錯乱したメテウスの幻聴か。だが少なくとも、メテウスにとって死神の言うことは合理的な気がした。
 ――呪わずにはいられようか。
 メテウスは目を開き、中天を仰いだ。どこまでも深淵で幻想的な星屑の世界に、彼は顔を歪ませる。
 何かのせいにできたなら。誰かのせいにできたなら。そうだ、このままならない感情の渦は、呪いなのだ――メテウスは叫んだ。精一杯の声をこの宇宙に響かせる為に。
 光が何億年も超えて届くように。この声も、願いも、いつかどこかに届けばいい。メテウスは手を伸ばした。片方が不格好に欠けてしまった惨めな両手を。めいっぱい開いた。この全天を全て握り込めるように。

 そして――
 メテウスは――
 気が付けば、倒れていた――……。

 死神は地球に背を向けて、倒れた生き物を覗き込む。
「お前は一体、何なんだろうな」
 その言葉は、程近い場所に佇むオパール色の物体へと投げかけられていた。
 それは煌々としている。喋ることはなく、白く滑らかな肌に星雲のような色彩を瞬かせている。
 死神は少年時代に図鑑で見た、オパールのあの輝きを思い出していた。ミルクの中に星雲を溶かしこんだような。あんな飴があれば、少年はきっと毎日のようにそれを口に含んでいたことだろう、と思いを馳せる。

「もういいよ。もしお前が呪いなのだとしたら、もう十分さ。お前は十分やってくれた」
 死神は顔を上げる。目に映るのは、数多の色彩を織り合わせたような不可思議の存在。星雲の瞳。ぞっとするほど美しく、そしておぞましい。
「……人違いだったらゴメンよ。お前はどこかの殺戮兵器なのかもな。とんでもない宇宙人なのかもな。あるいはマジモンの神様なのかも」
 死神の声はそれには届かず、それは死神を認識することはない。
 月の世界は静かだ。
「皆、救われる方がいい。できるだけ幸せになった方がいい。……そう思うよな」
 死神はガスマスクの中で目を閉じて、ハッピーエンドが好きだと言った、ある少女のことを思い出す。
 そして彼は目を開くと、虚ろな瞳で宇宙を見上げているメテウスへと声をかけた。
「メテウス兄貴、まだ生きてるな」
「……」
 返事はなかった。
 しかし、今にも心が壊れそうな目が、死神の方を見る。死神はそれを返事と受けとると、言葉を続けた。
「世界を呪い続けるガッツはあるか?」
「……」
「あのな、兄貴。死神になれば、死なずに済むぞ。……あのオパール色の呪いから逃れられる、たった一つの方法だ」
「……どう、いう、こと?」
「文字通り。兄貴はな、狂わずに今際を無事に迎えられた。兄貴は強かった。だから、一世一代にして千載一遇のチャンスが巡って来たってワケだ。指もなくなってるから、なお素晴らしい」
「……今度は君に、僕は……利用されるのか?」
「いいや。死神はこの宇宙における唯一無二にして唯我独尊、誰も死神を支配することはできないし、利用することもできないし、殺すことも傷付けることもできない。死を、呪いを、誰もがどうにもできないように」
「……」
「死にたくないんだろ?」
「どうして、……僕に、そんなことを」
「お前を救いたい」
「……なんで」
「理由が要るなら、友達になろうか」
「……友達、? ……ふ、ふ。ハ――ハハハハハハハハ」
 メテウスは笑った。大きく開いた口から、見開いた目から、鼻から耳から、あるいは顔中の皮膚を突き破って、『メテウス』がずるずると伸び現れる。赤い紐状の、不気味な虫。
「これが僕だ。気持ち悪いだろう。なあ、君は地球人なんだろう? 月葬刑の罪人に関する資料で見たことがあるよ、スタード。君の名前はスタードだ。君は僕が――僕らが憎いはずだ。赦せないはずだ。君が、君達が呪い続けた悪い宇宙人……その最後の生き残りが、僕だ」
「……。そうだよ、この虫野郎。だから、お前を死なせない。惨めな『死』で終わらせてやらない。お前はこれから、二度と誰も来ない月の上で、レゴリスだけの灰色の世界で、永遠のような時間を過ごすんだ。それが俺の最後の呪い、そして祝福だ。生きて生きて生きて生きて、精々いつか発狂して死にやがれ」
「それが、……ああ、それが君の、本当の気持ちなんだね。……聴けて良かった。安心した……」
「最初から普通に言っとけば良かったな。良い人の振りは疲れる。うん、兄貴の種族のことは腹立つけど、さておきお前は救われて欲しいって思った。その方がハッピーエンドだなって思ったんだよ。……発破かけてくれてありがとな」
「……うん。……僕も、心からの言葉を……本心って奴を、誰かから貰ったのは、初めてだ。いいもんだね、……心から思ったことを、真っ直ぐ伝えられるっていうのは。君のこと……信じられる気がする」
「じゃあ、改めまして、友達になるかい」
「……友達って、何をすれば良い?」
「したいことをすれば良い」
「……だったら、僕、死神になるよ。……君の呪いと祝福を、僕にくれるかい」
 メテウスの本体が音もなく伸びて、死神の小指に絡んだ。死神は小指を曲げて、虫の体と小指とをしっかり絡める。
「オッケー、俺のお友達。願いを叶えてやろうとも」
 死神は反対側の手で、大きな鎌を掲げて構えた。
 黒い刃に地球が映る。それから、オパール色に煌めく色彩も。
 メテウスは長く長く溜め息を吐いた。
「オパール、……君とサヨナラしなくちゃいけない」
 そう呟いた。
 瞬間、白い手がメテウスへと伸びた。
 だがそれよりも速く、死神の鎌が振り下ろされる。
 暗転。
 暗闇。
 真黒。
 その最中、いつかの刹那。
「良き旅路を、兄貴」
 死神の声を、メテウスは聞いた。
「ああ。……これで、やっと死ねる」
 真っ暗なはずだ。なのに。メテウスは見た気がする。
 ガスマスクを外して、星のように笑う男の顔を。

 ――沈む。
 そして、浮上する――……。

「――……」
 メテウスが目を覚ませば、そこは月面だった。
 彼方の空に見えるのは――青い青い、地球だ。
 ゆっくりと上体を起こす。月を見渡せば、周囲には誰もおらず、何も聞こえず、砂で覆われた灰色の地面が広がるばかりであることに彼は気付いた。それから、殻の左手の欠損が再生している。指が十本揃うのは、随分久し振りだった。
 殻に変なところはない。むしろ調子が良いぐらいだ。幻聴も幻覚もない。メテウスは立ち上がった。
 オパールも、死神も、誰もいない。どこにもいない。
 いや――死神は、自分だ。メテウスはそう自覚する。
 なぜ。理屈も理由も分からない。だがあらゆる理解を超越した、絶対的な自覚があった。「己は死神だ。死神になったのだ」という確信が。
 自覚をすれば、更なる理解が進んでいく。
 死神とは、願いなのだ。呪いなのだ。命の叫びの具現なのだ。因果の果てであり、救われたいと救済を願う祝福なのだ。
 ならば、オパールはどうなった?
 メテウスは目を閉じて、そして開いた。
 すると目の前に、その生き物は立っていた。
「ああ、まだここにいたんだね。君に僕は、見えていないだろうけど」
 言いながら、メテウスは片手を掲げた。死神を『引き継いだ』ことにより、これまでの死神達の記憶が彼に共有されていた。地球人ではないメテウスには死神の外見のテンプレートが分からなかったが、今は分かる。
 手にしたのは大きな鎌。身にまとうのは真っ黒い襤褸外套。頭部は――宇宙服のようなヘルメットに、ウサギ耳のようなパーツがついたものを。ガスマスクではないのは、地球人ではないメテウスが「歴代の死神とは少し違う」という彼なりの表現だ
「オパール。君の見せてくれた世界は、確かに美しかった。僕がここまで来れたのは、確かに君のおかげなんだろう」
 死神が度々口にしていた因果という言葉を思う。そして美しくも恐ろしかった、あの金襴の光景と。
「……オパール。君はもう、どこにも行けないんだね。僕ももう、ここからどこにも行けなくなったよ」
 指を鳴らして、椅子を一つ。メテウス――死神は、オパール色の呪いの前に腰を下ろした。
「だけど僕の『死』には、意味があったんだ。友達の願いを叶えられたから。友達を救えたから。だから僕は、もう満足なんだ」
 返事はなく、月の塵が舞うこともない。
「オパール、君という呪いがどこかの誰かの前に現れないように、僕は君をこの月に閉じ込めるよ。サヨナラだ、今度こそ」
 死神が鎌の石突きで月面を叩く。
 するとオパールは星雲の瞳をゆっくりと閉じ、まるで水に沈むかのように倒れていく。白く輝く髪がたゆたう。そして月面へと、沈んで塵になっていく……。
「静かの海にて眠れ、愛しき済度よ」
 そうすれば、今度こそ月面には死神ただ一人となった。
 ――ここは呪われた世界、月。
 多くの罪人が死に、多くの人間が呪詛を吐いた、灰色の世界。おぞましき白い済度が眠る場所。
 地球から見た月は、今どんな形をしているのだろう。どんな輝きを放っているのだろう。
 もはや誰も知らない。この月が、どれだけの願いと因果を孕んでいるのかを。
 ――全ては死神の心の中に。
 舞台の幕は下ろされた。
 死人の現れない星で、死神は一人、在り続ける。
 どこにも行けない、どうにもならない、どうすることもできない。これから無間の時間が流れていく。だけど、絶望はなかった。死神は前を向けるような気がした。孤独はなく、不安もなかった。飢えも渇きも恐怖も、老いも痛みも苦しみも。
 いつか永劫を前にして、この意識も塵芥のように磨り潰されていくのだろうが――今は、今はこれでいい。これで良かったのだ。この月だって、いつかは太陽に飲まれて消えるさだめなのだから。
 そうだ、と死神は思い付く。時間は幾らでもあるのだ。暇潰しとして歴代死神の記憶を、一つ一つ詳しく観賞していこう。
 手始めに――そうだ。先代死神がさっき書いていた物語。あれがなんだったのか、観てみることにしよう。
 死神は目を閉じる。まるで夢を見るかのように。その口元には、微笑みが浮かべられていた。
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