●第四話:愛しき済度よ

 曇天。白んだ灰色が、空にどこまでも広がっている。灰泥む世界、住む者の居なくなったビルの合間、狭い路地、薄らと積もった雪に足跡を残す。白い吐息はマフラーに阻まれて立ち上ることはない。手にした銃の感覚だけが頼りだった。曲がり角から身を乗り出す。見渡した。真っ暗な信号機。乗り捨てられた車。散りばめられた白い雪の合間に覗く、黒いアスファルト。
 ――奴らの気配はない。
 僕はホッと息を吐いた。瞬きも忘れて辺りを注視していたゴーグルの奥の目を、数秒だけ閉じて労う。目的地まであと少し。僕は気を取り直し、あまりに静かな世界を再び歩き始めた。わずかな積雪を踏みしめる僕の足音だけが、無人の町に小さく響く。曇天と、ちらつく雪と、冷たい空気と、静寂と。
 これが地球。滅んでしまった、とある惑星。かつてここには地球人がたくさんいた。この町は、『町』として正しく機能していた。今は見る影もない。誰もいない。建物は空っぽで、真っ暗で。吹く風は無常な無音を運んで来るだけだ。長いビルの窓一つ一つに気を配りながら、僕は歩道を歩いている。湿った黒い足跡を残しながら。
 と――視界の端、ガラスのない窓、ビルの3階、ぬっくと立つ人影が見えた。反射的に振り返る。黒い毛に覆われた二足直立の生命体。毛の奥から見える双眸はじっと僕の方を見ていた。ケダモノのような激しい動性ではなく、虫のような無機質な静性をした双眸。理解は及ばず、理知が通用しない存在。本能がゾッとする。私は手にした銃をそちらに向けた。拳銃ほどのサイズのそれには銃声はなく、物理的な銃弾もない。だが『弾丸』は外れてしまった。同時にバケモノが窓から飛び出し、こっちに真っ直ぐ飛びかかって来る。
「うわあッ!」
 僕は竦む足でなんとか下がりながら、引き金を引き続けた。辛うじて一発――空中で被弾したバケモノはプツリと力を失い、飛びかかる勢いのそのまま、さっきまで僕が立っていた地面にべしゃりと顔面から落下した。肉が叩きつけられる音。息を震わせ、見開いた眼でそのバケモノを見る。死んでいる。ピクリとも動かない。うつ伏せの体の顔を中心に、じわじわと赤い血が広がっていく。本来の奴らはあの高さから飛び降りても易々と着地するが、空中で撃たれて生命エネルギーを消滅させられ、受け身もままならずに顔面から落ちたゆえだ。
 危なかった――。もしもあのまま弾丸が当たらなければ、奴は僕を食い殺していたことだろう。この生命奪取銃はもともとは獲物を弱らせる為の代物だが、出力を最大にすれば掠るだけでも即死させることができるほどの殺傷力を有する。奴らのように牙も爪も強靭な筋肉も持たない僕の唯一の武装にして、最後の砦だ。バッテリーを確認する。最大出力である分、消耗も早い……。予備の弾倉を再装填する。
 さて助かった安堵に身を浸したいが、そうも悠長にしていられない。奴らは血の臭いに敏感だ。この血の臭いにつられて他の奴らがやって来る危険性がある。持ち物から着火剤を取り出すと、辺りを警戒しながらゲル状のそれを死骸に手早くかけた。それからマッチを取り出すと、手袋に覆われた手を震わせながらもどうにか火を点けて、死体へと放る。たちまち黒い毛むくじゃらの死骸は燃え始めた。焦げる臭いが辺りに立ち込める。奴らは煙の臭いや火が苦手だ。これで奴ら除けになってくれるはず。悪臭に顔をしかめながら、火に包まれていくバケモノを一瞥した。
 ――これが地球人だ。とはいえ、かつてこの地球に繁栄していた時の姿とは大いに異なる。かつての地球人は全身を毛に覆われてはおらず、もっと脆弱で華奢で大人しく、会話が可能な知能を持つ文明的な存在だった。
 地球人がこうなってしまったのには理由がある。この地球は遥か昔から、とある外宇宙的生命体によって支配されていた。いや……支配と言うよりも、管理シミュレーション遊びの遊戯場にされていた、という表現の方が正しい。管理ごっこは長らく続いたのだが、地球人は減少の一途をたどり、遂には絶滅すら危ぶまれる状況にまでなった。そんな時に造られたのが、人工的に人間を生産する人間工場だ。試みは一定の成功を収めた、と言っていいだろう。地球人の数は数値上、その数を増した。
 しかし――ある日、パンデミックが発生した。それは地球人のみに感染する全く未知のウイルスで、肉体にも精神にも作用するという代物だった。感染からの発症率は即時にして100パーセント。発症した者は発狂し尋常ではない凶暴性を発露し、それに伴い肉体も異常なほどに強化される。その恐るべきウイルスは体液で感染する為、発症者に噛みつかれた人間は漏れなく罹患した。かくして感染は爆発的に広まり、災害となった。地球人が作った娯楽、ゾンビ映画さながらに。なぜこんなことになったか? 有力な説として、最初の発症者と思しき個体が人間工場出身だった為、繰り返されるクローニングによって遺伝子が劣化したことが起因とする説がある。あるいはウイルスの突然変異、あるいは外宇宙的生命体が持ち込んだウイルスの所為、などなど……オカルトなものを挙げれば、月に呪われた、死神の所為だ、なんていう意味不明なものまである。原因は解明されていない。未曽有のパニックに解明しているどころではなくなったからだ。地球人は瞬く間に凶暴な捕食者となり、地球人、そして宇宙人へ無差別に襲いかかった。世界中で被害が起きた。更に恐るべきところは、発症者は時間と共に自らの体をより強く進化させ、環境にも適応していくのである。今の地球人が毛むくじゃらなのは、寒さに適応したからだ。宇宙人は地球を元に戻したり、地球人を駆逐することよりも、とっとと面倒事から手を引くことを選択した。すなわち、地球からの撤退。あるいは地球の廃棄。合理的な判断だ。
 こうして、地球から支配者は消え、地球人は独立と自由を得た……のかもしれない。そして地球人達は今も、この地球に跋扈している。ここは彼らの星なのだ。しかし人間工場が停止し、地球人も共食いを行い、その数は随分と少なくなった。発症者が性行為をして子をなした記録はなく、僕自身もそういうのは見たことがないし、子供の個体もまた見たことはない。地球人は決して群れることはなく、雌雄というカテゴライズから解放されて、目についた動く存在へと襲いかかるだけの魔物と化した。
 これは僕の空想だが、今から思えば、あのパンデミックは地球人の復讐だったのかもしれない。支配者である宇宙人へ、管理された世界への叛逆だったのかもしれない。あるいは、地球人という種族が集合意識的に自壊を選んだのかもしれない。まるで「死ね」「殺せ」と頭の中から命令されているかのように。生殖や増殖をしないなんて、種族としては行き止まりじゃないか。地球人は確かに絶滅へと向かっているのだ。そんな風に考えると、一抹の寂寥感が僕の心に湧いた。この星も、この星の民も、行き止まりを目指して終わっていくだけなのだという無常感。発展はなく、繁栄もないのだから。

 建物の中に入り――かつてはコンビニだった存在だ――そこに地球人がいないことを確かめると、かつてはトイレだった個室に入り、鍵を閉めて、タイルの床に座り込んで、壁にもたれて、長い長い息を吐いた。ようやっと危機を免れた安堵感に心を落ち着かせる。緊張感を強いられた体はなによりも精神が疲労していた。マフラーを緩めて顔の下半分を露呈させる。深呼吸を数回。ぐちゅぐちゅ、という音が頭の中で響いた。それは僕の中で僕が身動ぎをする音であり、ほどなくして僕の半開きの口から僕が出る。紐状のモノをたくさんより合わせたような、所々に赤い瘤がついた、ひくつきながら脈動する物体。これが僕。外側の旧地球人的な外見は殻だ。僕は地球でいうところの寄生虫のような生命体であり、かつてこの星を支配していた宇宙人である。今行っているのはリフレッシュとでも呼ぶべきか。これは自らの精神を落ち着ける作用もある。不安の後の安どの溜息である。触れる外気は冷たい。地球の気温は下がり続けて氷河期の黎明に突入しており、今ではいつも冬のような有様となっていた。これでも一応、季節としては夏だ。温かさに雪がちらつく程度の気温になっている。外の気配に意識を配りつつも一息を吐けば、僕は殻の中に僕をしまいこんだ。それから保温水筒の中の白湯を飲む。さて、と立ち上がった。拠点に持ち帰るための食糧を確保せねば。その為に僕は危険な外へと繰り出したのだから。
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 缶詰、レトルト、インスタントなど、食べられる保存食を鞄に詰め込んでいく。水は拠点で確保できるから問題ない。雨水――というか雪から綺麗な水を得られる装置があるからだ。食料については、加工品を食べる者が地球上でおそらく自分だけになってしまったがゆえ、各地にたっぷりと残されたコンビニやらスーパーやらの缶詰食を漁ることで僕はどうにか生きていた。
「よいしょ、っと……」
 あんまり詰め込み過ぎても重くて運べなくなる。車やバイクは音で奴らに勘付かれやすい。自転車も雪が積もるとなかなか。なんだかんだ、徒歩が一番身軽である。無理のない範囲に重たくなった鞄を背負い直した。後は拠点に戻るだけだ。壊れて開けっ放しになっているドアから店を出る。空からは小粒の雪が、ふわりふわりと落ちている。灰色の廃墟と、白い空と、白い雪。この世界から色彩は失われてしまった。防寒具のお陰で寒さはそこまできつくはない。

 話し相手もいない世界。僕だけの足音が地球に響く。かつて僕らは、地球人に対して処刑という名の暴力的な遊びに興じていた。その処刑の中に月葬刑というものがあったことを覚えている。月へと罪人を流刑するのだ。何もない、誰もいない、音のない月の世界を延々と彷徨う、そんな処刑方法だ。ずっと昔に、僕は調査で月に行ったことがある。静かで灰色な世界――今の地球と何が違うんだろう、と思ってしまった。いや大分と違うだろ、地球は大気があるし宇宙服いらないし、と自分で自分の言葉を客観視する。ちなみに月へ何の調査に行ったのかと言えば、『死神』なる未知の存在あるいは現象についての調査だった。結論からいうとそういったモノは見つけられず、調査の成果はゼロに終わったけれど。
 ……黙々と歩き続ける。いつまで、こんな日々が続くんだろう。これから、ずっとずっと続いてくのか? 僕の足は気付けば止まってしまっていた。薄ら積もった雪の上、スノーブーツの爪先に目を落としている。
 ――僕は、地球に取り残されてしまった『宇宙人』だ。地球人凶暴化のパンデミックが起きて、世界が未曽有の大混乱に包まれて。我々は早々にこの星から退避することを決断。このエリア一帯の生存していた宇宙人達は、宇宙船でまるっと宇宙へ飛び立った。しかし、僕はその船に乗ることはできずに取り残されてしまった。なぜか。僕は我々の中でも、いわゆる下っ端の部類だった。株分け――地球人で言うところの誕生してから年月が経っておらず、つまりは周りからは軽んじられているような地位の低い存在だった。だからあの時、パンデミックの渦中、生命奪取銃と弾倉をポンと渡された僕は「施設に侵入した地球人を駆除して来い」と言われたのだ。「静かになったら一緒に脱出だ」と言われた。逆らう選択肢はなかった――奴らの不気味な唸りと叫びが聞こえる施設、窓の割れる音が未だにトラウマだ。当時の記憶はあんまりない。僕は戦うよりも逃げ惑っていた。だって無茶だ。無理難題だ。後から思えば、僕はテイのいい囮だったんだ。僕は倉庫に閉じこもって窮地をやり過ごした。そうするしか生き残る手段はなかった。狭い場所に身を潜ませて、震えながら「早く終われ」と祈っていた。そうして静かになった頃、おそるおそる倉庫から出てみれば、地球にはもう宇宙人はいなくなっていたのである。皆、僕を置いてとっとと脱出してしまった後だった。もちろん、他に宇宙船がないか慌てて探した。だが見つからなかった。そもそもゆっくりと探索している余裕なんか、今ですらない。地球人がどこに潜んでいるかも分からないのに。さっき地球人と遭遇して無事だったのは凄く運が良かっただけだ。外に出ることは生きるか死ぬか、綱渡りのような危険行為だし、まず地球人と遭遇すれば死を覚悟せねばならないのだから。
(それに、……)
 どうしても、思ってしまう。地球から脱出できたとして、それから?母星に帰る、それもいいだろう。生存競争という本能ゆえに他の惑星にも『侵略』している我々だが、原産地というか故郷はあるのだ。でも仲間達は、自分を切り捨てた。囮にした。僕は皆にとって、死んでもいい存在だった。自分を求めていないような存在達がいる場所へ、わざわざ身を置く理由とは? 違う星に旅立つ? 我々の侵略の手が伸びている星はいくつか知っているが、以下同文だ。向けられる不要の目が容易に想像できる。結局、どこにも行けない。だから僕はまだこうして、漫然と理由もなく地球にいる。帰ることもできず、開き直ることもできず、自決の勇気すらなく。目的もなければ意義もない。生きているのか死んでいるのかも曖昧だ。なんという虚しさ。なんという虚しさ。全ては虚しい。この諦念と共にプツンと終わってしまえばいいのに。手の中には銃がある。それを自分に向けることは、怖くてできない弱い僕だ。マフラーの中で溜息を吐いた。それは温度を帯びて、どうしようもなく生命を示していた。
(……早く帰ろう)
 僕の拠点は――あえてこう表現しよう、『祭壇』である。生贄と選ばれた地球人が運ばれてきて、我々の殻となる場所だ。本来は車前提の長い道。セキュリティは発電機が無事なので生きている。僕はここの下っ端職員だった。カードキーで門を開いて中に入る。高い壁で囲われているが、地球人ならその気になれば易々と飛び越えられるゆえ、この壁は本当に気休めだ。施設の窓は全て板で塞がれている。全部、僕がやった。尤も地球人の筋力の前では紙切れ同然なんだけど、これも気休め。あと暇潰し。手入れされなくなって久しい雪景色の庭を通り過ぎて、カードキーで建物の中に入る。途端に温かい。暖房万歳。
「ただいまー……」
 呟いた声は乾いていた。当たり前だが返事はない。じゃあなんで「ただいま」なんて言ったのかというと、自我を自我として保つ為の自衛行動、とでも呼ぼうか。僕は管理人室へと向かった。一番偉い同胞が使っていた場所だ。ここにはもう僕しかいないのだから、僕が管理人ってことでも間違ってない。そして管理人室が、いわゆる僕の自室だった。
「つかれたぁ」
 荷物を一歩の度にドサドサ置いて、ふかふかのソファにばふんと座る。「はぁ」と溜息と共に天井を見上げる。仰け反る頭、開いた口から僕を出した。はーやれやれ。それから自分を出したまま、僕は鞄の中から缶詰を引っ張り出す。缶切りがなくても開けられるタイプだ。キュポンと蓋をとって、同じコンビニから失敬したプラスチックのスプーンを取り出して、僕を殻の中にしまって、姿勢を正して、冷えきったサバの味噌煮を食べ始める。お皿に出して温めても良かったが、面倒臭さが勝った。
(こんな状況でも……ごはんはおいしい……)
 即物的というか、悠長というか、自分の浅さが嫌になるのだ。溜息をおいしい味付けと一緒に飲み込んだ。地球人の殻は優秀で、味覚がよく発達している。おかげで「ごはんをおいしい」と感じることができる。味わえる食事にハマりすぎた同胞の肥満や病気が地球で問題になったほどだ。

 食事を終えて、水分補給をして、歯を磨いて、職員用の寮の、もともと僕が使っていた部屋に戻って、使い古したベッドに潜り込んだ。シャワーは起きてからでいいや。疲れた。寒かったし。また漫然と明日が来る。何回目かの朝が。食料なら確保した。これで数日はもつ。危ない外に出なくていい。安心、とはとても呼べる状況ではないけれど。これから数日は拠点の掃除をしたり、筋トレをしたり、本を読んだりと、暇を潰す為な時間が始まるのだ。ささやかな平和。みみっちい平穏。これが僕の、メテウスという名前をしたとある宇宙人の、日常だった。
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 それから、数えていない――独りになってから何回目かの夜。
「う、ううう、ううぅぅぅ」
 僕はベッドにうずくまって震えていた。包帯で何重にも巻かれた左手を抱えて。白いそこには赤い色が滲んでいる。――地球人と遭遇した時に、左手の掌を半分、親指を残して全部、食い千切られてしまったのだ。なんとか銃で射殺したけれど、千切られた左手は奴の口の中でぐちゃぐちゃになっていて、もう二度と元に戻らない。僕に伝わって来るのは『痛み』という感覚と、『体が欠けた』という喪失感と、『どうしたらいいんだろう』という混乱とで気分が悪い。右手じゃなくて良かったと喜ぶべきなんだろうか。銃を使うのはいつも右手だ。命が助かって良かったと喜ぶべきなんだろうか。確かに僕はなんとかどうにか生きてはいる。地球人は苦しい時に涙を流すという。だけど僕は、感情に起因した落涙をすることができない。地球人のフリが上手な同胞は涙を流すこともできるけれど。ただただ僕は、痛みやら虚無感やらに呻くことしかできなかった。表情作りだってヘタクソだ。だから擬態が上手になるまで地球人の前に出るなとまで言われていたんだっけ。
 何度も脳裏にフラッシュバックするのは、僕の左手が食い千切られる瞬間だ。毛むくじゃらの中に覗く不揃いな歯列が、白々とした巨大な牙が、虫を飲み込む魚のように、異様な速さで容赦なく。毛の中に隠れた地球人の目にはなんの感情もなかった。無表情なのだ。異様に大きな目玉。真っ黒いそれが、ぐりっと、至近距離でこっちを向いたんだ――。あの目を思い出すと身震いする。ただ僕を食い殺すことしか実行しない装置のような目。鋭い痛みは今は熱い痛みに変わっている。夜になっても寝付くことができなかった。僕は何もできない。地球において、僕は獲物だ。食物連鎖の下位にいる。弱者だ。無力だ。塵芥だ。……虚しい。でも逃げ場なんかないんだ。どこにもいけない、どうにもならない、どうしようもない。救いがなければ未来もない。寄る辺にできる過去すらない。ああ、なんの為に、僕は生まれて、生きていて、そして死んでいくんだろう……。答えなんか出なかった。考えるほどに惨めだった。部屋とベッドだけが場違いなほど温かくて柔らかい。僕はのそのそと身を起こす。寝付けない。気持ち悪い。残った右手で額を抑えた。
 と――カーテンの隙間から光が見える。僕の部屋は高い階数にあるので、ここまで地球人もこないだろうと窓を板張りしていないのだ。外の景色が見たいのもあった。僕は光に誘われるように、なんとなく、カーテンを開ける。地球の気温が下がり始めてから、窓は二重構造が当然になった。僕は二枚のガラスに隔てられた夜空を見る。
「……わぁ」
 満月だ。まんまるで、大きな月だ。それは赤い色をしていた――月蝕だ。僕は赤い満月に思わず魅入った。こんなに見事な月蝕は初めて見るかもしれない。いや、そもそも、月蝕というものをこうして直視するのは初めてなんじゃないだろうか?月――噂では、あそこには死神がいるらしい。死を司る神様、とやらだ。それは神隠しによって、月に送られた罪人を消してしまうという。消えるのは狂わなかった罪人。最期の時まで正気であった地球人のみである。月に送られて、指を潰されながら、水も栄養も制限されて、じわじわ死んでいく絶望に晒されて……狂うことができない、というのも狂気的だ。果たしてあそこで狂わない地球人が本当にいるんだろうか?
(僕なら、あっという間に発狂しちゃうんだろうな……)
 今ですらめげそうだ。もう心が折れそうだ。いっそ衝動的に自死してしまいたい。そんな漫然とした絶望を抱きながら、僕は赤い月を見上げていた。
 ――そんな時である。赤い月を縦に横切ったのは、白い光。流れ星? いや、違う。何か光が、空から落ちて来る! 僕が目を見開いたのと、白い光が近くの町に落ちたのは同時。隕石――なら、もっと大きな衝撃があるのだけれど、そういうのは一切なかった。
(もしかして……救助が、来たのか?)
 僕の殻の心臓がドクンと脈打つ。にわかに湧いてきたのは希望だった。あの光は宇宙船かもしれない。ここから逃げられるかもしれない! 僕は左手の痛みすら忘れて走った。手にしたのはもしもの時の銃だけ。赤い月が照らす、雪と廃墟のモノクロの世界。僕の息の弾む音だけが体内に響く。叫び出したい気持ちをぐっと堪える。大きな声を出すと、地球人に気付かれてしまうかもしれないから。飽きるほど見慣れた風景が、今はじれったく感じる。もうこんな生活は嫌だ。生きてるのか死んでるのか分からないような日々。目的もなければ達成もない。生き延びていることだけが最大の褒美だとおためごかしのような。「生きているだけで儲け」なんて、ただただ意味のない日々を繰り返せば愚論と成り果てるのだ。「生きているだけで」……なんて、先がある奴だけ言える贅沢な希望だ。先が無間の闇ならば、「生きているだけで」なんて文字通り「生きているだけ」なのだ。だけど――報われるかもしれない。ツイてなかった日々。軽んじられ続けた毎日。ようやっと、「よかった」なんて思えるかもしれなくて。
 電気の消えた町は真っ暗で、赤い月の光だけが頼りだった。朧な月光に、薄ら積もった雪が一粒一粒、キラキラと光を反射している。僕の口から立ち上る白い吐息。何度もそれをはぁはぁと漏らしながら、僕は街を見渡した。
(確か、この辺りのはず――)
 呼吸を整えながら、僕は路地を抜ける。そうして――べちゃり、と何か水溜りのようなものを踏んだ。夜の暗さで良く見えない。だけどそれは……血だまりのように見えた。僕は意識を凍り付かせながら、おそるおそると顔を上げた。視線の向こう、何かがしゃがみこんでいて、何かを喰らっている。喰らわれているのは地球人だ。では地球人を喰らっているのは……――白い。それは白い、煌々とした輝きだった。それは直立二足、二本の腕をした、旧地球人のような形をしていた。それは白い肌をしているが、よく見ればその白は七色を帯びて、オパールのようだった。それは白くて長い髪をなびかせて、立ち上がりながら僕の方へと振り返る。それは星雲のような色彩を閉じ込めた双眸をしていた。それは、見たことのない生き物だった。美しい。そして理解を超えた存在に対し、本能が怖じ気付く。 オパール色の生き物は、地球人を喰らっていたはずなのに、手にも口にも血が付いていなかった。全くの清浄なのである。一瞬、気取られる。だが直後に僕は理解する。この生き物は地球人を食っていた。つまり、地球人よりも強い――絶対捕食者。
「っ……」
 殺される。恐怖が心を凍り付かせる。僕は震えた手で銃を向ける。未知の生き物は穏やかな表情で少しだけ首を傾げると、数センチだけ宙に浮かび上がり、そのまま滑るようにゆっくり、僕の方へと近付いて来る――!
「く、来るなッ――!」
 恐ろしくて引き金を引いていた。美しいが恐ろしい。美しいからこそ恐ろしいのかもしれない。……バッテリーがなくなるまで撃った。最大出力の弾丸をいくつ当てても、その生き物はまるで平然としていて、まるで地球人のような表情で、人畜無害な微笑みで。殺せない。ありえない。信じられない。気付けば至近距離だった。僕は恐怖と絶望のまま呼吸をひきつらせてへたりこむ。もう駄目だ。殺される。食い殺されるんだ。銃を手放して頭を抱えてうつむいた。白い雪。オパール色に輝くつまさき。気配で分かる。その生き物――もう生き物なのかも分からない――は僕へと屈みこんだ。その白い手が僕の体に触れ、そして、雪とアスファルトの上に他愛ない力で押し倒した。回る視界に一瞬見えたのは真ん丸な赤い月、僕を覗き込む白い顔、星雲の瞳。
 凍り付く。しかし、痛みが僕を襲うことはなく。柔らかいものが唇に触れていた。僕はその行為の名前を知っている。それはキスないし口付けといって、口同士をくっつける地球人の愛情表現だという。あの生物が、僕に口付けをしている。
「う、う……!」
 なぜ。何の為に。僕は反射的に相手を押し返そうとするが、ビクともしない。顔を背けようとしても頬を両手で包まれている。見開いた僕の目に、間近でオパールの白がピントも合わずに映っている。身動ぎしていると、口の中にぬるついたものが入って来た。訳が分からなくて、口を閉じようとしているのにできなくて、温かいそれが僕の舌に絡んでいる。何をされているのか分からない。ただ、口の中が甘い――僕の口に差し込まれているのは相手の舌で、甘く感じているのはその唾液なのだと気付く。蜜のような、あるいは果汁のようなそれは今まで味わったことがないような、またとない芳香をしていて、僕の思考を蕩かせていく。こんなに甘いのは初めてだった。不思議と体から力と恐怖が抜けていく。心地良くてたまらなかった。溢れるほど流し込まれる蜜を、僕は無力に喉を鳴らして飲み込んだ。
「――ぷ、は」
 長いようで短い時間に感じた。白いそれが顔を離して、僕はちょっと噎せながら呼吸を繰り返す。白いそれは僕をじっと見下ろしている。オパール色の髪がふわりとこぼれて、僕の頬をくすぐった。毛先のひとつひとつが月のように輝いている。見ると天蓋のように、流れた髪が僕の顔を囲んでいた。
(綺麗だ――)
 数多の色彩が煌く瞳を見つめている。これが何なのか分からない。少なくとも地球の生命体ではない。おそらく、先ほど落ちてきた光がこれなのだ。であれば、これは僕とはまた異なる種族の宇宙人なのだろうか?
「どうして……」
 会話が可能か分からないけれど、僕はそれに問うた。返事は返ってこなかった。だけど、敵意や殺意は感じないような気がした。
「僕を食い殺さないのか?」
 おそるおそる、僕はそれの白い頬に右手を伸ばした。触らせてくれる。拒絶されない。宝石のような肌を撫でる。許されたような心地に、僕はほんのりと安堵を覚えた。
 と、それがにわかに立ち上がる。翻る髪が僕の顔を撫でた。それが見やる先に地球人がいる。暗闇にぬっと立って、僕らを見ている。
 途端の出来事だった。白い光が瞬いた――違う、一瞬でそれが地球人へと間合いを詰めたのだ。白い表情はやはり、菩薩のような色を湛えたまま、両手で地球人を掴むと文字通りの『真っ二つ』に引き裂いた。まるで柔らかい紙を裂くかのように。飛び散るのは血潮だ。なのに、それの体に血がかかっても、その白さが染まることは一切ないのである。そのまま、それはその身を汚すことはないまま、地球人の血肉を臓物を喰らっていく。手掴みであるというのにまるで上品な所作で、どこまでも優雅に。咀嚼はなく、それが口に含むと地球人の汚らしい血肉が消えるのだ。
 僕は呆然と、座り込んだまま、月が照らす地球にて、未知の生物が地球人を食べ尽くしていく姿を眺めていた。あれは、僕を殺すつもりはないらしい。あれは、地球人だけを食い殺すようだ。あれは、僕に好意的な生物のようだ。
(僕の……味方)
 味方、いや、救世主とでも呼ぶべきか。あの光は救助の宇宙船ではなかったけれど、実際に現れたのは僕を確かに救ってくれる存在だった。地球人を食い殺したそれが、僕の方に戻って来る。座り込んだままの僕を、穏やかに見下ろしている。込み上げてきたのは安堵と希望と喜びと。僕はその白い足に縋りつく。今までずっと独りで、ずっとずっと独りで、不安で、怖くて、寂しくて、どうしようもなくて、どうにもならなくて、無常で空虚で、進むことも戻ることもできなくて。地球人じゃないから涙は出ない。僕は無言のまま、白く輝くそれを抱きしめていた。ようやっと僕の目の前に現れたそれは、紛れもなく救済だったのだ。
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