●第二話:君とサヨナラしたくなくて

 20××年。人身御供は世界的な常識で、古来から続く当然で、人類の日常だった。何に人間が捧げられているのかなんて知らない。知ってはならない暗黙の了解が普通だった。
 4月、中学生最後の春、隣のクラスのヨウちゃんが生贄になってから、3か月。7月、夏休みを前にして、サチコちゃんが一通の紙を見せてくれたのは、放課後だった。
「ミチルちゃん。私、生贄に選ばれちゃった」
 二人きりの教室、遠くで吹奏楽部が不協和音を鳴らして、野球部がやかましく喚いている世界。その時、私の世界の時間が、一瞬だけ、止まった気がする。生贄に選ばれることは、新聞にも載らないような、ありふれたことだった。「そうなんだ。おめでとう」が普通だった。だけど私は、穏やかに笑うサチコちゃんを見て、顔を歪ませてしまったのだ。
「……なんで」
「なんでって言われても……生贄を選ぶのって、政府の人達なんでしょう? 理由なんて分からないよ」
「通知が来たのって、今日?」
「うん。……ホントはね、ミチルちゃんに言おうか考えたんだ。でも言わなきゃ後悔しそうだって思って。いきなりいなくなるのも、ミチルちゃんに悪いじゃない」
 サチコちゃんは苦笑して、机の上に通知書を置いた。私はうつむいたまま、通知表をじっと見る。形式ばった文字。それは簡潔に、サチコちゃんが生贄に選ばれたことを記していた。通知書が来たら、次の日の朝、政府の人達が迎えに来る。生贄に選ばれた人は、連れていかれる。拒否権、というものを思い付くことすらできないほど、それは当たり前のことで、皆がやっていることだった。だって、隣のクラスのヨウちゃんを始め、小学生の時は先生が、同じクラスの子の親戚が、習い事先の人が、知り合いが……そんな風に私達はずっと、周りが生贄に選ばれながら生きてきたのだから。だから私は、この泣きそうな顔をどうにかして、笑顔で、「サチコちゃんよかったね、いってらっしゃい」って言わなきゃいけないのに。なのに。何も言えなかった。何て言ったらいいのかも分からなかった。
「……帰ろっか、ミチルちゃん!」
 サチコちゃんはそう言って、通知書を鞄の中に入れて、立ち上がった。私は「うん」とだけどうにか頷いて、のろのろと自分の鞄に手を伸ばした。

 蝉が鳴いている帰り道。7月の日は長くて、まだ夕焼けというより昼のようで。思えば、サチコちゃんとは小学生の時からずっと、こうやって帰り道を一緒にする仲だった 小学1年生の時から一緒だった。どうして仲良くなったのか、キッカケなんて覚えていないけれど、そんな風に小難しい意識をするようなことがないぐらい、私とサチコちゃんの仲は自然体で親密なものだった。今は中学3年生。思えばサチコちゃんとは人生の半分以上は一緒にいていることになる。だから――いつも一緒のサチコちゃんが、明日からいなくなることを、私はまるで想像できなかった。それは例えるなら、「明日から酸素がなくなります」と言われてもピンと来ないような感じだった。
 並んで歩く住宅街の道。ひとけはなく、蒸し暑く、通り過ぎる家が庭に水やりをしたらしい濡れた土のにおいがした。遠くの方に入道雲が伸びている。
「私、ヘンかな。サチコちゃんがいなくなるの、すごくイヤだ」
 ようやっと、私は教室で言えなかったことを言葉にできた。うつむいたままの私の視界の端、振り向くサチコちゃんの気配がする。
「だって普通は、生贄になる人に『おめでとう』って言わなきゃいけないのに」
 悲しまれるというよりは、喜ばれるべき出来事なのに。受け入れるべき当然なのに。そう思う私の横顔を、サチコちゃんはじっと見ている。
「ミチルちゃんは――」
 彼女は、足元の小石を軽く蹴った。向こうの方に転がった小石はアスファルトの凸凹に跳ねて曲がって、側溝の網の中に落ちる。
「昔から、変わった子だね」
 サチコちゃんの言う通り――自分で『変わった子』を自称するなんてイタいかもしれないけれど。私は昔から、この生贄という制度に疑問を持っていた。どうして誰かがいなくならなきゃいけないのか。いなくなってどうなるのか。どうして拒否できないのか。どうして誰も「オカシイ」と言わないのか。ニュースにも新聞にもならず、本にもネットにもそのことが触れられていないのか。だってどう考えてもオカシイ。ある日突然、人が一人いなくなるなんて。なのに。どうして。誰も私の「オカシイ」を聞いてくれない。私の方が「オカシイ」って皆が言う。宇宙人を見る目で見るんだ。イタい子を見る目で見るんだ。
「ヨウちゃんの時も、小学生の時のタカオ先生の時も、スイミングスクールのマキちゃんのママの時も、ミチルちゃんはそんな顔してた。『おかしいよ』って言ってた」
「……サチコちゃんだけだよ。私の話を、ちゃんと聞いてくれるの。私のことを宇宙人みたいじゃなくって、人間として接してくれるの」
 苦笑する。小学生の時は、ウチュウジンと馬鹿にされたものだ。触ると宇宙人ウイルスが付いて感染するとか、物を隠されるとか、陰口とか。中学になっても小学生の時と面子はあんまり変わらないから、そういった空気はまだ教室に残っている。集団に馴染めないだけで、人間は残酷な怪物に変身するのだ。出る杭は砕け散るまで寄って集って踏みつけないと気が済まないのだ。親も、先生も、そんな私を「協調性がない」「空気を読めない」と怒った。私からすれば、周りの方が宇宙人のように見えた。だから――私にとってこの世界で人間なのは、サチコちゃんだけなのだ。私の話を聞いて、私を宇宙人とイジメる連中に決して加担しないで、私の目を見て、信じて、向き合ってくれる唯一の人間だ。
「小学生の時。宇宙人を見た、ってミチルちゃん言ってたね」
 サチコちゃんが言う。その出来事こそ、私が周りからウチュウジンと敬遠されることになった原因だった。私は頷きだけでサチコちゃんに答える。小学生の――中学年ぐらいの時期だったか。私は宇宙人を見たのだ。当然のように、それは信じて貰えなかった。皆が私を笑って、馬鹿にした。目立ちたいだけだろうと散々言われた。流石のサチコちゃんも、笑ったり馬鹿にしたり頭ごなしに否定したりはしなかったけれど、半疑の様子で「そうなんだ」と困ったように笑うだけだったのを覚えている。それから、「周りの人たちが酷いことを言うから、あんまりそういうことは言わない方がいいよ」と言ってくれたことも覚えている。それがサチコちゃんにできる精一杯の善意であったことを私は知っている。
「ねえ、どんな宇宙人を見たの?」
 私が何か言う前に、サチコちゃんがそう言った。意外だった。今まではその話題にサチコちゃんは触れようとしなかったからだ。
「どんな――」
 私は遠くの入道雲を見ながら、記憶をひっくり返す。だけど。
「……あれ?」
 変だ。記憶の糸を手繰ると、どうにも暗闇にたどりつく。
「ミチルちゃん?」
「おかしい。思い出せない。宇宙人を見たのは、確かなハズ……なのに。なんでだろう」
 どうにもおかしい。いつ? どこで? どんな状況で? 数は? 見た目は? それがゴッソリと記憶にない。なのに、「宇宙人を見た」という自覚だけが確かに心の中にある。
「でも、私――」
 宇宙人を見たんだ、ホントなんだよ。そう言いかけて、サチコちゃんから変な目で見られたくなくて、グッと言葉を飲んだ。子供の妄想、なにか思い込み? 見間違い? アニメか映画か夢のワンシーンを事実と勘違いしているだけ? それとも周りの人達が言うように、ただ目立ちたくてでっち上げた虚言?
「信じるよ、ミチルちゃん」
 サチコちゃんは笑って言った。私は顔を上げて、友達の方を見る。
「私、ミチルちゃんが宇宙人を見たってこと、信じる。宇宙人はいたんだよ」
「……どうして、」
「ミチルちゃんは、見たんでしょ?」
「でも、詳しいことが思い出せなくて」
「昔のことなんだもん。記憶だって薄れちゃうよ!」
「サチコちゃん……」
 彼女は優しい。彼女はいつだって私の味方をしてくれる。どうして仲良くなったのか、キッカケなんて覚えていない――気付けば一緒で、いつも二人で。いちいち、友達がくれる優しさや言葉に理由を求めるのも、きっと変な話なんだろう。
「ありがとう、サチコちゃん」
「どういたしまして、ミチルちゃん」
 嬉しい言葉を貰った時は「そんなことないよ」とか「ごめんね」とかネガティブなことを言うんじゃなくって、素直に「ありがとう」「どういたしまして」って言った方が幸せになれることを、私はサチコちゃんから学んだ。

 ――見慣れた自販機を通り過ぎて、信号を渡って、サチコちゃんの住むマンションが見えてきた。
「じゃあ」
 サチコちゃんが、マンションの前で足を止める。
「うん」
 いつもはそのまま「じゃあね」って手を振って歩いて行くんだけど、今日は私も足を止めた。言葉がないまま、ほんの数秒だけ、私達は見つめ合った。明日の朝、サチコちゃんはいなくなる。生贄に選ばれて、どこかに行って、二度と帰らない。涙が浮いてきそうになる。泣いちゃダメだ。サチコちゃんに心配されちゃうから。
 ――唐突に私は気付いた。どうしてサチコちゃんがさっき、急に、私が宇宙人を見たことを信じるって言ってくれたのか。そうだ。今日で、これで、どうしようもないほど、最後だからだ。だから私の為にサチコちゃんは、最後に「信じる」って言ってくれたんだ。私を喜ばせたくて。安心させたくて。最後まで味方でいてくれるつもりで。私の最高の友達。優しい優しい地球人。いつもいつも、私は彼女に救われている。居場所を与えられて、存在を許されている。染みて震える心。私は前髪をかき上げるフリをして、さりげなく片方の潤んだ目を擦った。それから――私はサチコちゃんの手を取るのだ。
「7時。……明日の朝の7時。マンションの前で待ち合わせね」
「え――でも、」
「迎えが来るのって8時でしょ?」
「……うん。分かった、ミチルちゃん。7時にここで」
「うん! 急にごめんね、ありがとう。じゃあ――」
 私はゆっくりと手を離して、どうにか笑ってみせた。
「また明日ね、サチコちゃん」
「うん、ミチルちゃん! また……また明日ねっ」
 サチコちゃんは花咲くように笑った。そこにどこか安心したような色が見えて。そうだ、不安や恐怖が少し晴れたような表情をしていて。ああ。
(やっぱり、サチコちゃんだって、嫌なんじゃないか――!)
 生贄になること。いなくなること。皆は当たり前のことだって言うけれど。サチコちゃんだってなんてことない様子で言ってたけど。ホントは、心の根っこでは、怖くて不安なんだ。いなくなることが、嫌なんだ。だってそんなの当たり前じゃないか! 急に突然、自分の未来が潰えてしまうなんて、怖くて嫌で当たり前じゃないか!
 サチコちゃんと手を振って別れた後、私は遮二無二走っていた。泣きそうな気持ちと、わんわんうるさい蝉の声と、頭上の電線と、私の息が上がる音。どうして。どうして。どうしてこんなのオカシイのに、誰もオカシイって言わないんだろう。この世界は何かがオカシイ。ああ、とても気持ち悪い。私が当たり前と思ったことが周りにとってはそうじゃないことが、心に不安の種を蒔く。異物感。隔絶感。いてはいけない、間違っていると非難されるような。声を上げても、それを奇行としか見てもらえない。明日、サチコちゃんがいなくなる。皆はそれを当たり前だと言うけれど。嫌だ。そんなの嫌だ。私は嫌だ。サチコちゃんだって、きっと嫌だ。サチコちゃんとサヨナラなんかしたくない。

 そうして夜になった。ほとんど眠れなかった。そのまま朝になった。酷く早朝に目が覚めた。私は学生鞄の中身をいじり、親すらまだ寝ている時間の中、そっと朝ご飯を食べて、食べ物をいくつか鞄にねじ込んで、コッソリとドアを開けて、外に出た。
 こんな時間に家に出るのは酷く新鮮だ。腕時計を見る。6時にもなっていない。私は小走りで自分の家を後にした。振り返ることはなく。サチコちゃんの家は歩いてほどなくした場所にある。待ち合わせは7時。まだ随分と時間がある。なのに――サチコちゃんは既に、お家の前で待っていてくれたのだ。
「サチコちゃん!」
「あ、ミチルちゃん!」
 駆け寄る私に、サチコちゃんは目を丸くした。
「早かったね?」
「サチコちゃんこそ」
「えへへ。なんだか早くに目が覚めちゃって」
「あれ? サチコちゃん、セーラー服なんだ」
 もう学校に行かなくていいのに――そう言いかけて、マズイことを言ってしまったかと私は慌てて口を噤んだ。
「ああ、これ? うん、私、セーラー服好きだから。だってミチルちゃんとお揃いだもん」
 私と不安は裏腹に、サチコちゃんは頬をちょっと染めて笑った。私も彼女と同じセーラー服だった。「そっか」と、ちょっと照れ臭くも、安心と共にあったかい気持ちになった。
「ねえサチコちゃん」
 そして深呼吸の後、私は大好きな友達を見つめた。サチコちゃんは優しい顔で、私の言葉を促してくれた。だから私は、こう言うのだ。
「海を見に行こうよ!」
 彼女へと手を差し出した。サチコちゃんは目を丸くする。
「……え、海?」
 きっと次は「でも」だ。分かってる。きっと断られる。もしくは怪訝そうにされるだろう。そう思った。差し出した自分の手をじっと睨んだ。だけど、サチコちゃんは。
「分かった。いいよ」
 そう笑って、私の不安とかモヤモヤとか全部吹っ飛ばすように、私の手を迷うことなく取ってくれたのだ。だから私も、「いいの?」とかは今は言わない。サチコちゃんだって、理由を尋ねずに頷いてくれたのだ。二人とも分かっている。ここから海は遠い。どう頑張ったって、行って帰って来たら8時に間に合わない。だから私の「海を見に行こう」は、逃避行の提案だ。生贄になんかさせないという、世間的な常識から見れば傍迷惑で非常識な言動だ。そしてその提案に「いいよ」とサチコちゃんが言ったということは、生贄から逃げるという意志表明だった。――もうすぐ終業式、夏休みを前にした7月のなんてことない平日。蝉の声の中、愚かで小さな逃避行が幕を開ける。

 海を見に行こう。手を繋いで、私達は走り出した。

 息を弾ませ、駅に走って、朝早くの電車に乗った。人は多くなかったけれど、いくつかの駅を過ぎる度に人は増えた。私達は今、いけないことをしている。生贄を拒絶することなんて、あってはならない。それは暗黙の了解とかじゃなくて――生贄を拒絶すること、生贄を逃がすことは、殺人よりも重い罪として、この世界の当然として定められているからだ。電車に乗って来る学生、サラリーマン、OL達は、想像だにしないだろう。真横にいる女の子二人が、殺人よりも重い罪を犯したなんて。実際、彼らが私達を気に留める様子なんかない。だけど私達は気が気でなかった。罪を犯すということは、心にやましさが芽生える。それが「見られてはいまいか」「気付かれてはいまいか」という不安を生む。電車の中は、電車が進む音だけがする。誰も彼も口を噤んでいて、煩わしそうな顔をしていて、同様に私とサチコちゃんもまた黙り込んだまま、ただ俯いているしかなかった。

 ――時間の経過、電車の乗り換え、いくばくか。

 いつしか人は疎らになり、車内にいるのは私とサチコちゃんだけになっていた。誰も通勤に使わないような鈍行。僻地の路線。こんなに長く電車に乗ったのっていつ以来だろう?
「もうすぐ8時だね」
 サチコちゃんと私は、誰もいない車内の中、隣り合って座っている。向かいの窓から見える夏の空を見ながら、サチコちゃんが言った。私の手首の腕時計を見たのだろう。
「……うん、そうだね」
 今から戻っても、もう絶対に間に合わない。もう後戻りはできない。
「えへへ。こんな風に学校をサボるなんて初めて」
 私の方を向くサチコちゃんが微笑む。サチコちゃんは真面目で、勉強ができる子で、『サボる』なんて行為からは真逆の場所にいるような子だった。イタズラっぽい彼女の笑みに、私もつられるように小さく笑った。
「こうなったらさ、サチコちゃん。ありったけ悪いコトやっちゃおうよ!」
「いいね! 例えば?」
「ふふーん。電車の中で飲み食いとか。サチコちゃん、朝ごはん食べた?」
「実は食べてなくて……」
「じゃあこれ、あげる!」
 私は鞄の中から、菓子パンと水筒に入れたお水を取り出しながらサチコちゃんに言った。「お菓子もあるよ」とクッキーのパッケージも見せた。
「お腹空いてるでしょ! こういう時の為に持ってきたんだもん」
「ありがとう、ミチルちゃん。えへへー、お菓子まで持って来ちゃうなんて、ワルだねぇ」
「でしょぉ。ワルといえば、私、一回あの荷物棚の網の上に横になってみたいんだよねぇ」
「うわぁ、悪い。ワルだ。……でもどうやって荷物棚の上に登るの?」
「それなんだよねぇ……やっぱ無理かぁ」
「うん。すごい身体能力が高い人じゃないと難しそう……」
 サチコちゃんはくすくすと笑いながらおかしそうにそう言った。サチコちゃんが嬉しそうなら、私も嬉しい。取り出したパンと水筒を彼女に渡す。「ありがとね」と、彼女はちょっとためらってから――「えいっ」とかけ声と共に菓子パンの袋を開けた。
「ミチルちゃんは、朝ごはんは?」
「実は食べてきた! だからそれ、全部食べていいよっ」
「じゃあ、お言葉に甘えまして~」
 いただきますと手を合わせてから、サチコちゃんはパンを食べ始めた。私はそれを横目に、視界を正面に戻した。顔に冷房の風を浴びながら眺めるのは、車窓の外、流れて行くありふれた町の景色。その向こう側の青い空。この先の町に海はある。
「今日もいい天気だね……」
 がたんごとん。そんな音の中、私はなんとはなしに呟く。ふと脳裏に過ぎるのは家族とか、クラスメイトとか、先生のことだ。彼等は心配……しているんだろうか、私達のこと。
「ミチルちゃん……本当に良かったの?」
 パンを飲み込んで、サチコちゃんがおずおずと私に言った。今更な質問だと彼女も分かっているのだろう。生贄を逃がすことは殺人よりも重い罪。だから私は、捕まってしまったら死刑になるかもしれない。
「サチコちゃん、生贄になりたくないって顔してたんだもん。だから、いいの。うちの親も心配とかそんなのしないだろうし。ほら、私が親と上手くいってないの知ってるでしょ?」
 私はおどけるように笑った。私は両親とうまくいっていない。昔は仲良しだったけれど、私が成長するにつれて、共に過ごす時間はなくなって……うちでは、家族というものは構造だけになっていた。そう、昔は両親と私はとても仲良しだった、ハズなのに。なぜか分からない、なんだか私は、親が苦手になっていた。私の方から距離をとるようになっていた。これが反抗期というやつなのだろうか。最後に親とマトモな会話をしたのはいつだろうか――そんなことを脳の端っこに押しやって。私はうつむくサチコちゃんを見た。
「あのね、ミチルちゃん。……私、ホントは怖かった」
 ポツリ、サチコちゃんは言葉を絞り出す。
「生贄になること、すごく嫌だったの。怖くて不安で、……通知書を見た時ね、目の前が真っ白になったの。何で私が? って。でも怖がったり嫌がったりするのはオカシイことでダメなことだから、私、私、怖いって言えなくて、できなくて」
 食べかけのパンを持ったままの手が、カタカタと震える。黒い前髪に目元が隠れているけれど、その顔は泣き出しそうだった。
「本当は、ミチルちゃんのことを思ったら、私と一緒にどこかに行くなんてダメだよって言わなきゃいけなかったのに。だってミチルちゃんが犯罪者になっちゃう。迷惑かけちゃうのに。私――友達なのに。あの時ミチルちゃんに海を見に行こうって言われて、すごくすごく――嬉しかったの……安心しちゃったの……! だってミチルちゃんがミチルちゃんだったから。生贄のこと、いつも納得できない顔してたミチルちゃんが、私が生贄になった時も、『いなくなるのイヤ』って言ってくれたんだもん……!」
 遂にはポロポロ泣き出した。これがサチコちゃんの本当の言葉なのだろう。
「私、すごくズルい……」
 サチコちゃんは手の甲で涙を拭う。私はそんな友人を、両腕で力一杯抱きしめた。
「ズルくなんかないよ。……私の方こそ、サチコちゃん。一緒に海に行くって言ってくれて、手を取ってくれて、ありがとうね。私だってサチコちゃんを連れ出すなんかしちゃいけないのにさ……だからお互い様だよ」
「ミチルちゃん……ミチルちゃん……」
「……ホラ、まだパン残ってるよ。全部食べていいよ」
「うん、うん……」
 私に肩をさすられて、サチコちゃんは何度もコクコク頷いた。それから涙を飲み込むように、勢いよくパンを食べきっていく。水筒の中の、ただの水道水だけれど、それをぐっと飲んだ。
 互いの思いを吐露し合って。私達は決意と覚悟を決めるしかなかった。この逃避行を生き抜くこと。もうそれしかできないのだ。
(……サチコちゃんを、生贄になんかさせない)
 寄り添うように座って、私は心に強く思う。だってサチコちゃんは私の友達だ。誰にも渡すもんか。誰にもあげるもんか。――でも同時に、心のどこかで。私達みたいなただの子供が、大人達から逃げ切れるなんて、無理だと悟っている自分がいた。それは――多分だけど、サチコちゃんも同じ思いなんだろう。私達はどちらからともなく、手を重ねた。手を繋いだ。ぎゅっと握った。がたんごとん。電車はどこまでも走って行く。海のある街へ。
 そうして、ほどなく。車内アナウンスが響く。もうすぐ到着すると、駅名を繰り返す。やがて電車の速度が落ちていく。
「そろそろ到着するね、サチコちゃん」
「うん、そうだねミチルちゃん」
「海に着いたら何しよっか」
「そうだなぁ――あ、水着忘れて来ちゃった」
「あはは、ホントだ私もだ」
「じゃあ、靴脱いで靴下脱いで、素足でちょっと水遊びだね」
「折角だし二人で水着、買っちゃう? 私お金持ってきたんだ。貯金箱の中身も全部」
「え。ホントに言ってる?」
「買お! 水着買お!」
「……じゃあ、お言葉に甘えます!」
「よーし、それじゃあ~町に着いたら、まずはショッピングモールへゴー! だね!」
「賛成~!」
 夏休みの計画を立てるような無邪気さで、不安をかなぐり捨てるように笑い合った。
がたんごとん――やがてそれも止まる。駅名を告げるアナウンスと共に、扉が開いた。
「ミチルちゃん、行こっか」
 サチコちゃんが促すように立ち上がる。私は「うん」と頷いて席を立ち、二人で一緒にプラットホームに降り立った。途端に体を包むのは、むわっとした真夏の暑さだ。通勤ラッシュの時間も過ぎた僻地だ。プラットホームには誰もいない。蝉の声がうるさいほどに聞こえる。
「あっつぅー」
 電車はまたどこかへと去って行く。私は手で自分の顔をパタパタ扇ぎながらホームを見渡した。改札口へは、階段を登って行けばいいようだ。サチコちゃんも階段を見ていた。
「ぐりこでもする?」
 不意にサチコちゃんがそんな提案を、私の顔を覗き込みながら言った。
「いいねー。ぐりこするの久し振りかも」
「決まり! じゃあいくよ~、じゃーんけーん――」
 ぽん。真面目にぐりこで遊ぶなんて、本当に久しぶりだった。チョコレート。パイナップル。グリコ。グリコ。私達二人だけのかけ声と、階段を上る靴の音。そんなに長くない階段だった。だから勝負はほどなくして決するのだ。
「ち、よ、こ、れ、い――とっ!」
 勝ったのは私だった。着地を決めた体操選手のように手をピッと上げる。
「私の勝ち~」
「負けたー。ふふふ」
 サチコちゃんはころころ笑いながら、汗の浮かぶ顔を笑ませて階段をゆっくり上って来た。私は階段の天辺、サチコちゃんの方を見て、彼女が上って来るのを待っていた。と、その時だ。私の方を見上げていたサチコちゃんの表情が、あと数段で上り切るところでフッと凍り付く。瞬きを忘れた瞳は、私――ではなく、私の向こう側を凝視していた。何事かと私は後ろを振り返る。そこにいたのは、一人の警察だった。
「君達、ミチルちゃんとサチコちゃんだね?」
 彼は困ったように溜息を吐きながら、私達を待ち構えていたのだ。階段を上りかけていたサチコちゃんが私にパッと寄り、不安げに腕をとった。私達は心臓がドクドク跳ねる音を体内で響かせながら、彼の言葉に口を噤む他にない。
「自分達がやっていることが分かるかな?」
 警察は油断なく私達を窺いながら言う。
「生贄は皆がやってる当たり前のことなんだ。決まりなんだから、違反しちゃいけないよ。生贄を逃亡させるのは犯罪だって知ってるだろう? ……さあ、行こう。おいで」
 そう言うなり。一歩踏み出した警察は、サチコちゃんの方にぬっと手を伸ばして――
「だめ、」
 サチコちゃんが連れて行かれちゃう。ダメ。そんなのダメ。絶対にダメ。世界が酷くゆっくりに見えた。怯えるサチコちゃんに伸ばされる大人の掌。どうしたらいいんだろう。何ができるんだろう。私は目を見開いたまま考えて考えて考えて――
 ――無我夢中で、警察を両腕で突き飛ばしていた。横合いからの力に、警察の体が勢いよく傾いで。ここは階段の一番天辺。彼の体は重力に引かれて、そのまま、――真っ逆様だ。肉体が転がって、悲鳴が聞こえて、硬い音が聞こえて。
 シン、と静かになった。蝉の声以外は。
 生ぬるい汗が、私の頬から額へ滴る。
「ミ、チル、ちゃ、」
「見ちゃダメ」
「ミチルちゃん、ミチルちゃん」
「見ちゃダメ――ダメ、サチコちゃん後ろ向いててッ!!」
 私は声をひっくり返して叫んだ。震えた声のサチコちゃんは体をビクつかせて、階段の下から顔を背けた。一方で私は、階段の一番下から目を離せないでいた。仰向けに倒れた警察は、頭部がザクロのように割れていて。赤い血がじわじわと、ぬるいコンクリートに広がっていく。だけど。オカシイ。何かがオカシイ。割れた頭から覗いていたのは、アレは、骨でも肉でも脳味噌でもなくて――たくさんの紐をより合わせたような。そこに不格好な肉の瘤を悪意的に纏わりつかせたような。ひくひくと脈打つ、不気味な蟲のようなモノだった。
「な、に、あれ」
 見たこともない気持ち悪いモノに、私はゾッと血の気が引いた。もぞもぞと蠢くそれらは傷口から這い出し、あるいは……見開かれた目玉が不自然にぐりぐり動いたかと思えば、目玉と目蓋の隙間からも這い出してくる。鼻の穴からも、耳の穴からも、口の中からも。そして同時に私は気付いたのだ。
「うそ、うそ、タカオ先生――」
 崩壊していく顔面に見覚えがあった。そうだ。小学生の時に担任だった、そして生贄に選ばれていなくなってしまった、タカオ先生。彼はタカオ先生とソックリなんだ。見間違いかもしれない。もう彼の顔は――知っている人間の顔は――変な虫でいっぱいになっている。それを直視することなんて、もう私にはできなかった。生理的嫌悪、本能的恐怖を煽る光景。視界から色が失せる。心臓が苦しいほどに脈打って、足から力が抜けていく。ふらふらと後ずさった私は、耐え切れずにへたりこんでしまった。あまりに理解を超えていた。アレは、アレはバケモノだ。人間なものか。じゃあタカオ先生はバケモノだったの? 違う、タカオ先生はあんな顔をしなかった、警察じゃなくて小学校教師だった、あんな風に喋らなかった、いつも優しくてニコニコしていて、独特で間延びした声で、そうだ眼鏡だって着けてたのにあの警察は裸眼で。タカオ先生、「コンタクトはぁ怖いからねぇ~」って言ってたのに。それに左手にしてた結婚指輪もなかった。警察の言動を思い返し、タカオ先生のことも思い出す度に、警察とタカオ先生がイコールで繋がらない。じゃあ、あの警察は、タカオ先生の見た目をした別人?いや――もしかして――タカオ先生に、あの変な虫が寄生して、乗っ取っていた?
(だったら、生贄って)
 あの変な虫に寄生されて、巣食われて、乗っ取られて、違う人間になってしまうってこと? あのバケモノは、人間に成りすましているの? あのバケモノは、一体、何なの?
「う、うぅ、あ」
 体の震えが止まらない。怖くて怖くて堪らない。あの虫共が階段を上って来るかもしれない。私達に寄生するかもしれない。肌の下を掻き毟りたくなるような想像に、私は震えるままサチコちゃんの方を見た。サチコちゃんは私の言う通りに階段へ背を向けて、しゃがみこんで、両手で顔を覆って、明らかに震えていた。
「さ――サチコちゃん、サチコちゃん大丈夫?」
 立ち上がれないまま、私は地面を這って友達の方へと近寄った。
「ミチルちゃん、どうしよう、アレ、なに」
 顔から手をどけたサチコちゃんの顔は真っ青だった。見てしまったらしい。
「なんで、タカオ先生、あんなことに、生贄になっていなくなったのに」
 そしてきっと、私と同じ想像をしているんだろう。私は何も返せなくて、サチコちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「だ、大丈夫、大丈夫だよ」
 何が大丈夫なのか自分でも分からない。でも私は呪文みたいに同じ言葉を繰り返して、サチコちゃんを抱きしめ続けた。そうして気付く。私が生贄を逃がしていることがバレている。おそらくあのバケモノ共に知れ渡っている。
「逃げなきゃ」
 サチコちゃんが、あんな気持ちの悪い虫に乗っ取られて別人になるなんて絶対に嫌だ。
「サチコちゃん、逃げなきゃ、私達」
「……うん、行こう、早くここから離れないと」
 サチコちゃんは声を震わせて頷いた。私達は互いに支え合うようにして、どうにか立ち上がる。そして階段の下を決して見ないようにしながら、私達は強く強く手を繋いで、改札口へと走って向かった――。

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