●第一話:月葬刑

 月葬刑。
 それは重罪人を月へ流刑する処刑方法である。罪人は最低限生存可能な生命維持装置つきの宇宙服を与えられる。それには限られた量の酸素しかなく、体内に直接流し込まれる養分、水分もまた必要最低限だ。罪人は何もない月を彷徨い、己の罪を悔いながら、じわじわと欠乏していく酸素や養分や水分に苦しめられつつ、やがては死に至ることとなる。

 目を覚ませば、そこは月面だった。
 潜水服めいた宇宙服越しに見えるのは――青い青い、地球だ。
 月葬刑。
 俺はそのことを知っている。自分にその刑が執行されたことも知っている。顔をしかめながら上体を起こした。そうして月を見渡せば、周囲には誰もおらず、何も聞こえず、砂で覆われた灰色の地面が広がるばかりであることに気が付いた。
 このまま呆然と座り続けていてもいいが、それはあまりに退屈すぎる。なので俺はゆっくりと立ち上がろうとして――ふわふわした心地に、そのまま前のめりに転んでしまう。重力の勝手が違うのだ。俺は学のある方じゃないんで詳しいことは知らないが、とにかく月は地球よりも重力が弱いらしい。地球のつもりで足の裏に力を込めるとつんのめってしまう。……なんというか無様だ。そこからしばらく、どれだけ時間が経ったかは時計もないので分からないが、月の砂を巻き上げながらドタバタと転げ回って呻いて舌打ちして、ようやっとなんとか姿勢が安定した。
 地球の時のように『テクテク歩く』よりも、『キョンシーのようにピョンピョン跳ねる』方が移動しやすいようだ。キョンシーと表現したが、跳ねるのならばあるいはウサギか。月にウサギ……というのはあながち、間違っていない表現なのかもしれない。
 さて、まだまだ転びまくるが移動は可能となった。目的地なんてないけれど、ひとまず、なんとなく、漫然と、地球を見ないよう背を向けて、俺は月面を進み始める。何かしていると、何かを考えなくて済むからだ。今はとかく頭を使いたくはなかった。
 そうして歩くもとい跳んで進んでいると。ふと、程遠い地面に何かあるのを見付けた。
(あれは……)
 なんだろうか、と思って近寄りながら目を凝らした。それは宇宙服だ。自分と同じ宇宙服を着た誰かが倒れている、眠っている? ように見える。
(俺以外の罪人か……?)
 淡い期待が浮かなかったと言えば嘘になる。なにせ無人無音の月でたった一人。会話ができる相手がいれば、この心が渇いてひび割れて行くような無聊も多少は慰められるのではないか。そんな人間的な思いが心にぽっと灯ったのだ。
「おーーぅい!」
 声が届くか分からないが、俺は声を張った。こっちに気付いてくれと手を振った。
 それから何歩ほど進んだだろうか。
 ――気付いてしまった。
 倒れていたそいつは、死体だった。
 ヘルメットの部分から見える姿は、既に……朽ち果てて、崩れていて。凍り付く心地に悲鳴すらも出なかった。体の急ブレーキに俺は盛大に後方へ転倒する。心臓がドクドクと嫌な跳ね方をしている。星空を映したヘルメット越しに、死者の性別すら分からない顔が見えて、俺は血の気を引かせながら顔を背けた。
 視界が眩むような心地を感じながら思ったのは、「月でも腐敗するのか」という変に冷静な感想で。そっか、内臓にいる菌とか、体に付着した菌が……と現実逃避のように自分で勝手に納得をした。宇宙服の中は、画期的な――罪人からすれば悪意的な技術によって――月面においても人間が生存できる温度が保たれているのだから。
「……、酷い有様だな」
 独り言ちたまま、俺はずりずりと後方に下がった。砂に俺の怯えた痕跡が残る。
「お前はどんな罪で月に送られたんだ?」
 背けた顔の方向のまま、彼方の月の地平線を眺めながら、俺はジェーン・ドゥだかジョン・ドゥだかに話しかけた。
「俺も……お前みたいになるのか?」
 返事が来るなんて期待していない。だってアレは死んでいる人間なのだから。死人に口なし、とは有名な言葉である。
 じゃあどうして話しかけたのか。理由は自分でも分からなかった。現実逃避かもしれない。あるいは、人知れず死んでしまったこの罪人への憐れみからかもしれない。その憐れみには、重ねてしまった未来の自分の姿への嘆きが含まれているのかもしれない。
 そうだ――死だ。死。死。死。
 これは自分の避けられない運命なのだ。自分は死ぬのだ。どうやってもどうあがいても、この月の上で死んでしまうことが確定しているのだ。自分は死ぬ。そう思うと、どんどん脳味噌から血の気が引いていく。立ち上がる気力が失われてしまうほどに。
思うに、「自分が死ぬ」と確定しているのに、それをどうしようもできない状況ほど、心を抉るものはない。たとえば飛行機が墜落している只中とか。急所にナイフが刺さった後にまだ残っている意識とか。高所から落下して地面に到着するまでの数秒とか。
「う、ッ……」
 吐き気が込み上げて、口を手で覆おうとして、掌はヘルメットに拒まれる。息を震わせながら、俺は頭部を完全に覆う装備をペタペタと手で触った。そして、もう二度と自分の頭に手を触れることはできないことを思い知った。
 今までどこか他人事のような、夢うつつのような、そんな心地がしていた。だがこれは現実なんだと思い知る。自分は月葬刑に処せられて、これからこの月面で、ゆっくりと死んでいくしかないのだ。
「嫌だ……」
 死ぬことなんて怖くもない、なんて見栄は無駄なのだと知る。いざ死を目の当たりにすれば、人はあまりに無力だった。何か死者が残したものはないだろうか、と俺は頭部を見ないように死者の体を見渡した。何もなかった。当たり前だ。自分だって、月に送られる際に宇宙服以外は何もかもを取り上げられたのだから。ともすれば月脱出に繋がるような素晴らしいアイテムでもないかと期待していた。そんな希望は砂漠の逃げ水と同じだった。
 死者と同じ場所にいるのは気が引ける。死を強く意識してしまう。俺は転ばないように慎重に立ち上がると、逃げるようにその場を後にした。

 ――時間が――漫然と――続いて行く――。

 思えばずっと太陽が見えるような気がする。月の一日は地球のそれと長さが違うのだろうか。だから太陽やらの動きから正確な時間を測ることはできなかった。
 相変わらず、空には青い地球が水を湛えている。俺はそれを忌々しく見上げた。宇宙服の下、俺の体には管みたいなモノが直接差し込まれて、そこから命を保つに最低限の水分と栄養が流し込まれている。最低限の、とはどういうことか? 文字通り死なないギリギリのラインだ。するとどうなるか? 死に直結しない程度の空腹と渇きが常に付きまとうということだ。
(腹が減った……水が飲みたい……)
 口が渇いてベタベタして不愉快だ。空腹で胃袋が痛い。冷たい水も、味のあるうまい食事も、もう二度と口にすることはできない――嘲笑うように地球は水で青く溢れている。あそこには毎日のように何トンも廃棄される食糧があるというのに。遠くに見えるあの星を手を伸ばしてぎゅうと絞ればたくさんの水が手に入りそうなのに。
(くそ……)
 苦しい。水が欲しい。
 気力が、体力が、意識が、精神が、少しずつ削り取られていく。
 こんな生き殺しの日が……ずっとずっとずっとずっとずっとずっと続くのか? じわじわと心を冒す毒に、俺は疲労からその場に座り込んだ。細やかな月の砂が舞う。宇宙服にもたくさん砂が付いている。宇宙服は悪意的にゴワゴワしていて、硬く着ぶくれしていて、うまく寝そべることも難しい。なので眠ることにすら苦痛を強いられる。休息すら、俺達罪人は制限されているのだ。
 溜息を吐いた。そうしてなんとはなしに顔を上げて、見飽きるほどに何もない月面世界を見渡して――ふと、遠くに何かが見えることに気が付いた。
 それは人間だ。二本の脚で立っている人間だ。
 俺は目を見開いた。俺以外の人間と遭遇したことに対してもそうだが、それを塗り潰すほどに衝撃を与える光景がそこにあったのだ。
 その人物は宇宙服を身に着けていない。この、月の上で――!
「バカな、」
 宇宙人か、幻影か、何かもっとマズいものか。俺は周囲を咄嗟に見渡した。少なくとも月面で生身だなんて人間なハズがない。どこかに隠れるべきだと判断したのだ。だが俺のいる場所は平坦で、隠れられそうな場所などどこにもなくて。
 その時である。何かが、俺の肩を後ろから「ぽんぽん」と叩いた。
「うわあッ!!」
 俺は声をひっくり返して、跳び上がる動作にそのまま砂の中へ倒れ込んでしまった。
「ヤ、ビックリした?」
 そこにいたのは――少女だった。だがいでたちが異様だ。ウサギの耳のようなパーツのついたガスマスクに、黒いセーラー服を着て、ボロボロの黒いローブを羽織っている。何よりも異様なのは身の丈以上もある巨大な鎌を持っているということだ。
 その姿は、まるで……死神のようではないか。
「な、なんだ、お前はッ……」
「アタシ? 死神。ヨロシクね。立てる? そんなにビックリするとは思ってなくて」
 まるで明るい声で、少女――死神は鎌を持っていない方の手を差し出した。爪はいかにも少女趣味にデコられている。俺はその手を取ることはなく――相手は得体の知れない存在だぞ!――震えそうな足でなんとか立ち上がった。
「死神……!? は、俺はとうとう幻覚を見始めたのか。それともそういうトリップするクスリでも宇宙服から流し込まれてンのか?」
 血の気を引かせながら、俺は頭を抱えるつもりでヘルメットを掌で数度叩いた。それから周囲を見渡す。地平線の向こうに見えた人影はいない。つまり目の前のこの少女があの人影ということで――つまりは、あの距離を一瞬でワープしたということなのか……?
「アタシ幻覚じゃないケド……そう思いたいならいいよ。で、おじさんの名前は?」
 あまりに超常的な少女は、緩く巻いた銀の髪の毛先をいじりながら俺に問うた。
「どうして俺に名前なんか聞くんだ」
「初対面でゴアイサツーってなったら名乗るのがフツーじゃね?」
「……。だったらお前、『死神』なんて役職名じゃないか」
「いやほんと、本名が死神なんだって。はいおじさんのターンね。ワッチュアネーム?」
「……スタードだ」
「スタードおじさんねー。あ、近くで見たらケッコー若い感じ? じゃあスタード兄貴ね! おじさんって呼んでゴメ~ン!」
「……死神っていうのは本当なのか?」
「そだよ? 宇宙にだって死神はいるのサ。だって死人が出るんだから!」
 明るいその物言いは、俺が月葬刑に処された人間だと知っているような口ぶりだった。無邪気ながらどこか残酷性が滲んでいるようにも感じた。
「お前は、俺を殺しに来たのか?」
「ううん? まだ兄貴の命を刈り取る時じゃないから、ソコは安心して? 兄貴まだまだ生きられるよっ! ヤッタネ!」
「嬉しいもんかよ」
「死にたくないんじゃないの? なら生きられることはハッピーなんじゃないの?」
「揚げ足取りって言うんだよ、そういうのは……もういい、放っておいてくれ」
「あー! どっか行こうとしないでよ~っ! まあ死神パワーで月の裏側まで付いて行っちゃうんだからねっ」
「くそが。……死神がついて来るってことは、やっぱり俺は死ぬのか」
「そだよ? 月葬刑にされちゃったんでしょ? 当たり前ジャン」
「……俺はいつ死ぬんだ?」
「教えなーい。死神的なルール違反だからです。ゴメンネ兄貴!」
「テメェ、バカにしてんのか?」
「兄貴カリカリしないで。そりゃアタシ、死神系女子だから縁起は悪いけどさ~っ」
 死神はきゃぴきゃぴとしている。こういうのを姦しいと言うのだろう。
 振り払おうにもここはフラットな月面、走って撒くこともできないし、怒鳴っても意味がないし、じゃあ暴力――と思ったが、相手は月面で宇宙服なしで存在できるようなバケモノだ。鎌という武器まで持っている。悔しいが、このガキに殴りかかったところで何の意味もないだろうことを、俺の本能が告げていた。
「うふふ。分かってくれた?」
「お前……心が読めるのか?」
「アタシ、気の利く系女子ですから? 兄貴の考えてることバリ察せちゃうんだから!」
 読心術があるのかという問いについては、イエスともノーとも取れるような曖昧な返事だった。わざとなんだろう。嫌な性格をしてやがる。
「それじゃー死ぬまでよろしくね、スタード兄貴!」
 ふわっと目の前に降り立った死神が、改めて手を差し出してくる。俺は怪訝な目でその白い掌を見つめた。
「あ! アタシ死神だけど、触ったら即死とかそんなイジワルないから!」
「どうしてそんなに馴れ馴れしいんだ」
「そういう兄貴はトゲっぽいなぁ。仲良くするのに理由っている? 男の子は奥手だなぁ」
 そう言うなり、死神は俺の手をひょいっと取って握った。厚い宇宙服越しではその感触も体温も分からないが、確かに彼女は俺の手を握った。
「ハイあーくしゅ!」
 きっとガスマスクの下で笑っているのだろう。手をブンブンを振られ、俺はもう死神のしたいままにさせることにした。突き放したり突き飛ばしたり刺々しくしても一切合切無駄なんだとようやっと理解できた。
 それにまあ、こうもきゃいきゃいされると疲れるけれど、死神を拒絶しきる理由はなかった。優しい顔で近寄って悪魔のようにこっぴどく裏切られる可能性もあるけれど。それに、気が済んだら死神の方からどこかに去って行くかもしれない。
「むふふー」
 死神は握手をできたこと、そして俺が突っぱねなくなったことに、たいそうご機嫌なようだ。ぴょんと跳ねる死神が、スカートと襤褸外套とをひるがえして、俺の前の方でくるりと回る。不思議なことに、彼女の動作で砂に足跡ができることはなく、砂が巻き上がることもなかった。やはり彼女は俺の幻覚なんだろうか? 有り得ざる光景を、俺はボンヤリと眺めていた。
「兄貴はどうして月葬刑になったの?」
「……、俺は……俺は何もしていない」
「えー。犯人って大抵は『俺はやってない』って言うけど?」
「本当だ!」
 声を張り上げたのは久方振りな気がする。くるくるしていた死神が動作を止めて、首を傾げる。その動作で、俺の言葉を促している。俺は俯き、渇いた口から溜息を吐いた。
「何もしてないんだ……俺は本当に、なんにもしていないんだ。嵌められたんだよ、周りに! 会社の大きなミスを……事故が起きて大勢の人が死んだような致命的な責任を……押し付けられたんだ……」
「それって……冤罪ってコト?」
「……冤罪だと信じてくれる連中はいなかった。俺はなんにも知らないし分からないのに」
「ヒドーイ……アタシは兄貴が悪いコトしてないって信じるよ! ……しっかし直接的な殺人じゃないのに月葬刑とは。兄貴、宇宙人にハメられたね! きっと兄貴の周りにいたのはみーんな、悪い悪い人の血も通ってないよーな宇宙人だったんだ!」
 ひょっとして死神は俺を元気付けようとでもしているのだろうか。子供の空想話のようなそれに、俺は曖昧な頷きを返した。いっそ宇宙人の仕業にできたらどれだけよかったか。俺は、子供の頃からあまり他人から好かれるような人間ではなくて――否、ハッキリ言うと嫌われ者だった。どうにも努力しても他者の理解を得られず、誰かの特別になれることもなく、いつもポツンとした心地があって……そうだ。まるで自分が宇宙人のような心地があったけれど。ああ、他者から嫌われる理由が「周りが宇宙人だったので」だったら――そんな空想にちょっとだけ浸った。
「ところでさ、兄貴」
 下らない妄想を終わらせたのは、死神の一言だった。
「兄貴はもう『アレ』やったの?」
「……アレってなんだ?」
 死神が俺の問いに答える前に、宇宙服のヘルメットにモニターが展開した。
「被害者に謝罪の言葉を述べよ」
 無機質なメッセージが流れた。
「誠心誠意の反省を見せよ」「貴方の所為で尊い命が喪われたのだ」「謝罪せよ」
 命令の機械音声。それは俺が狼狽えている間にも音量が大きくなる――まるで苛み急かすように。
「や、やめろッ! 俺は何も! 何もしてないんだッ! 信じてくれェッ!!」
 謝罪せよ。謝罪せよ。謝罪せよ。ヘルメットの中で命令が鳴り響く。音という暴力が耳を脳を殴りつける。耳を塞ぎたくてもヘルメットに阻まれてそれも叶わない。視界が歪む。こんなのただの拷問じゃないか。
 叫んだ声すらも命令に掻き消される。俺はヘルメットを抱えたまま月面に座り込んだ。
 そうすると、唐突に音声が止むのだ。終わったんだろうか――そう思って、おずおずと顔を上げた。その瞬間である。俺は右手の親指に圧迫感を覚えた。まるで万力に挟まれて、ゆっくりと締められていくような。それはどんどんと強くなり、激痛と共に親指の形を圧し潰していく。
「痛い、痛いッ! 痛いッ! 痛い痛い痛い痛い痛ィッ!!!」
 泣き叫んで喚き散らして狂ったように転げまわる。それでも親指はどんどん、骨がひしゃげる音を立てて、宇宙服の下でゆっくりゆっくり潰れていく。気を失うどころか正気を失いそうな時間だった。どれだけ「やめて」と叫んでも、どれだけ「許して」と叫んでも、その拷問は続いた。
 もう親指が完全に潰れてなくなったのだろうか。指の感覚は全て激痛に塗り潰されて、圧砕がまだ続いているのか終わったのかも分からない。痛くて痛くて体が震えて、視界がモノクロで、喉がひゅうひゅうと鳴っていて、みっともないほど涙が出て。もう、呻いてうずくまることしかできない。
「兄貴、だいじょ……ぶじゃないよねソレ」
 うずくまった俺の傍に、死神がしゃがみ込む。心配しているような素振りを見せるが、相変わらず明るい声音だった。
「ゆ、指が、指、俺の指が、どうなって」
「宇宙服の指のとこの内側にね、プレスマシンが仕込まれてンのさ。それがバツンと」
「なんで……何の為に、こんな」
「罪人をいたぶるコトでスッキリしようっていうエンタテイメント?」
「狂ってる……」
「クレイジーついでバッドニュース。その指プレス、これからもランダムに発生します」
 それを聞いて、俺は言葉を失った。ただでさえ飢えと渇きと睡眠不足に苦しめられているのに――こんな外道なことが続くなんて。
 地球の連中は、指を潰され泣き叫ぶ俺の姿を見て笑っているのか? だとしたら悪趣味極まりない、正気の沙汰じゃない、理解ができない。あまりに悪意的じゃないか。悪意に対する嫌悪感に吐き気がする。だが顔を拭うこともできない状況でヘルメットの中に胃液をぶちまけてしまえば凄惨すぎることになる。奥歯を噛み締めて胃の不快感を堪えた。
「全部、宇宙人が悪いんだよ。悪い宇宙人が悪いんだよ」
 彼女の言う通りかもしれない。何かの所為にすれば、心は安らぐ。正義という安全地帯が手に入るからだ。そして誰もが誰かの所為にしたいのだ。安全と安心と正義の整合性が欲しいから。世界は石を投げる側と、投げられる側に分かたれている。
 俺はいつも、石を投げられる側だった――小さな頃から、面倒な荷物運びや誰もが嫌がる当番やらを押し付けられたりしたものだ。「アイツには何をしてもいい」という空気が、どこのコミュニティに行っても漂っていた。
「そうだ、アイツらは皆、宇宙人だったんだ。悪い宇宙人だったんだ」
 人間じゃない、人間のするようなことじゃない。だからあれもこれも、人間じゃない存在――敵性宇宙人の仕業なのだ。俺はオウムのように死神の言葉を繰り返した。俺だって誰かの所為にしていい権利があるはずだ。
「アイツら皆、死ねばいいのに」
 うずくまる姿勢にヘルメットの頭を月の砂に押し付けたまま、俺は呪詛を吐く。
「どいつもこいつも死ねばいいのに」
 死ね、死ね、と世界を呪い続ける俺を、傍らの死神は静かに見下ろしていた。
「なあ死神。お前、死神なら、地球の連中を皆殺しにしてきてくれよ」
「んー、それはちょっとできないなぁ」
「どうして。死『神』なんだろ、神様なんだろ」
「神様だけどできないんだ。ゴメンネ兄貴」
「……やっぱりお前は、俺の妄想か幻覚なのか?」
「さあどうかな? 信じるも信じないも兄貴次第ってことで」
「そもそも死神なんて、オカルト的な……じゃあ霊魂やらそういうモノもあるのか?」
「兄貴はそういうの信じる?」
「分からない。今まで信じてこなかったけど、死神って言う存在が目の前にいる」
「ねえねえ、宇宙って全然解明されてないじゃない? だからさ、きっと、呪いとか願いとか魂とか、そういう目に見えないけどガチで実在するような何かは、きっとあるんじゃないかなーってアタシは思うよ!」
「呪い、……」
「だからいつか、兄貴のその『どいつもこいつも死ね』って願いは、宇宙の彼方のどこかの星に届くカモネ! ホラ、言うじゃん? 星に願いをって」
 物騒だが、考えて見れば死神らしい理論かもしれない。前向きで後ろ向きなその言葉だが、俺は少しだけ支えられたような心地がした。俺は顔を横向けて、彼方の地平、地球を見た。青い星の周りには数えきれないほどの星々が散りばめられている。キラキラしたその光景に、俺は目を細めた。この死神が幻覚なのだとしたら、なるほど、俺の願いの具現なのかもしれない。細めた目をそのまま閉じて、ズキズキと鋭く疼く指の痛みに嫌な汗を滲ませながら、俺は深く息を吐いた。
(死ね。死ね。どいつもこいつも……何もかも……死んでしまえ……死んでくれ……)
 ありったけの呪詛を星々に願いながら、俺は意識を失うように沈ませた――。
 ●
 夢を見るのだ。幼い頃の夢だ。地球にいた頃の夢だ。
 思い返せばずっと仲間外れだった。いつも軽んじられる存在だった。話し相手のようなものができても、誰かにとっての特別になれたことは一度もなかった。親友どころか友人未満。いつも俺は、誰かが楽しくやっている光景を、遠巻きに眺めているだけだった。
 なぜ、といつも考えていた。改善したいと思っていた。だが「そうやって好かれようとする態度が気持ち悪い」「自然体にならなくちゃ」などと言われてしまえば救いようがない。なのに何もしなければ「努力しないからだ」「自分から踏み出さないと」と言われてしまう。何をしても不正解だった。どうしようもならなかった。「お前は要らない」と言われているようなものだった。
 一方で「生きていればいいことがあるよ」と周りの連中は、倒れそうになる心を寄って集って鞭打つのだ。正義を掲げて、善行を尊んで、正論で武装した笑顔のまま。「もっと辛い人がいるんだから」「甘えてる」「そんなことで凹んでちゃ社会でやってけないぞ」と足蹴にするのだ。
 何かがおかしい、この世界は何かが気持ち悪い、ずっとそう思っていた。正しいことを謳い、愛や恋や道徳や美徳に飛びつくのに、それらの理想を実行できている者があまりに少なく感じた。自分の身の周りには少なくともいなかったと思う。悪意ばかりが蔓延して、周りは敵ばかりで、言葉と気持ちの通じる人なんかいなくて……そんな考えに対する理解者はいなかった。その考えは異端そのもので、宇宙人のような発想だった。
 いつもいつも、何かが、どこかが、虚しかった。

「スタードの兄貴は、好きな食べ物とかあるの?」
 月での暮らしが漫然と続く。意識が、精神が、少しずつ少しずつ削り取られていく。こんな生き殺しの日がまだ続くのだろうか。死神と名乗る謎の存在は、相変わらず俺にずっと付いてくる。
「好きな食べ物、……」
 行く当てもなく月を行きながら、俺は渇いた唇で呟いた。
「水が欲しい……今はもう、どんな食べ物よりも、コップ一杯の水が……水が欲しい……」
 渇いて渇いて仕方がない。水分不足でクラクラして、頭が痛くて、体が苦しい。
 この月での日々で知ったことがある。飢えと渇きが極まってくると、どんな固形物よりもコップ一杯の水の方が欲しくなるのだと。苦しい。苦しい。もう歩けない。俺はその場に崩れるように座り込む。すると死神も歩みを止めて、俺の周りを気ままに漂うのだ。
「兄貴、人生で一番楽しかった思い出って何?」
 陽気な声だ……俺の苦しみとはまるで対極的だ。
「一番、楽しかったこと?」
 渇いた砂を眺めながら、俺は呟く。
「なんだろうな。ああ……小学生の時。短い物語を作る授業があって、……俺の書いた話が、一番に選ばれたんだ。……何かで一番をとったのは、あれが最初で最後だったな……」
「へぇー、兄貴って国語得意だったんだね。ねえ、どんなお話を書いたの? 知りた~い!」
「……ガキの頃に考えたような話だぞ。……そんなにハッキリ覚えてないし」
「いいじゃん、一番に選ばれたってことは、それだけイイお話だったってコトだし? 笑ったりしないからさ~、ねっねっ?」
 俺は渇きを紛らわせるように、記憶を手繰り寄せながら物語を聞かせ始めた。
「遠い星から、神様がやって来るんだ。そいつはオパールのような輝きをしていて……主人公を遠い星に連れて行ってくれる。大体、そんな感じの話だ。詳しいことは忘れた」
「へえ~~、オパール? 凄い発想力じゃん!」
「ちょうど、図鑑でオパールを見たんだ。透き通るような色の中に、青とか赤とか緑とかオレンジとか、たくさんの色があって……綺麗だなぁ、って思ったんだ」
「そうなんだぁ。ねえ、主人公は遠い星に行って、どうなったの?」
「幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし――だよ。オチも理屈もないような話だ」
「ハッピーエンドなんだね! アタシ、ハッピーエンド大好き~。ねえ兄貴、また何かお話を考えてさ、アタシに聞かせてよ」
「……こんな状況で、お話作りごっこなんかできるかよ」
 俺は疲れ果てていた。空想の世界を紡ぐ気力なんて残っていなかった。この硬い宇宙服は座る動作も上手くできない。変に体が固まって血が止まって辛くなる。だから仕方なしに俺は立ち上がった。立っている姿勢が宇宙服の構造的に一番楽なのだ。立っていたくないという気持ちを嘲笑うかのように。
 ――だが俺の脚を容易く突き崩すのは、またヘルメットから鳴り響いた「被害者に謝罪の言葉を述べよ」という音声だった。前回と同じように脳味噌が壊れそうなほどの大音量が響き続け、そして、今度は左手の中指が狂ったような時間をかけて破砕される。月面に憐れな悲鳴が響く。
 指が完全に千切れた後、俺は気絶していた。嫌な心地が下肢にある。失禁していた。糞尿は宇宙服の中に垂れ流しだ。幸いというか、体に与えられる栄養分が最低限過ぎるゆえに量がほとんどないことが救いか。だが不衛生極まりなく、人として屈辱的で不愉快であることは確かだ。月葬刑に処されてから一度も洗うことができていない体が痒い。だが痒い体を掻くこともできない。指が痛い。前に千切れた親指も、今千切れた中指も。当たり前だが宇宙服に覆われて手当もできない。千切れた指はそのままだ。化膿しているかもしれない。ただひたすらに熱くて疼いて痛むのだ。意識が曖昧だ。飢え、渇き、痛み、精神的負荷。じりじりと正気は焙られ、黒ずんでいく。でも。そんなことよりも。今は。
「水が……欲しい……」
 この喉の渇きをどうにかしたい。そのことばかりが頭にある。そうして俺は閃くのだ。そうだ、最初に見かけたあの死体。立ち上がった俺は、踵を返して歩き始める。
「あの、死体……宇宙服に……そうだ、水を作る装置……中に水がたくさんあるんだ、きっと、そうすれば、この渇きも」
 削れた正気のままブツブツと口走る。死神が俺の後をついて来る。
「水の装置はタンクがあるとかじゃなくって――ていうかそもそもどうやって飲むのさ? 頭はヘルメットで覆われてるのに」
「でも……俺は、喉が渇いたんだ、水が欲しいんだ! 苦しい、もう嫌だ、こんなのもう嫌だ……誰か助けて……誰か……」
 よろめきながら、ふらつきながら、方角も昼か夜かも分からないまま、月面を進んでいた俺は膝を突く。
「嫌だ、嫌だ! もう嫌だ! 苦しい! どうして! 俺は何もしてないのに! 死にたくない! 死にたくない! 痛い! 俺の指を返してくれ! 俺を地球に帰してくれぇ!」
 忌々しい宇宙服――そして月面での生命活動を維持して生かしてくれている命綱――を欠けた指で掻き毟りながら、俺は月の空を仰いだ。叫んだ。喚いた。
「辛いよねぇ、分かるよその気持ち」
 隣の死神が頷く。
「苦しくって痛くって水が欲しくって……憎いよねぇ、地球の連中が。いいよ兄貴、どんどん呪ってこ。月葬刑の罪人にできることって、もう呪い以外にないよネ!」
 そうだ。呪わずにいられようか。今ものうのうとあの青い星で生きている連中め。無垢な被害者面をしている悪辣な加害者共め。呪わずにはいられようか――。
「兄貴はもっと、自分勝手になって、相手の所為にしていいんだよ。一番カワイイのは誰だって自分なんだから」
 悪魔の囁きか、幻聴か。だが死神の言うことは合理的な気がした。そうだ。そうだ。呪わずにはいられようか。呪うべきなのだ。呪ってやる。呪ってやる。あの青い星を。あそこに住まう全ての命を。憎い。憎い。憎い。
「ううぅぅぅぅぅう……」
 ケダモノのように唸っていた。月の砂を掴めば八本の線ができる。俺の隣に、ふわりと死神が座り込んだ。体育座りをして、俺の方へとガスマスクの顔を向ける。
「月葬刑に処された罪人さんを何人か見て来たけどサ、大事だよ自分の所為にしないことって。アタシいっぱい見てきたモン。自分の所為にしちゃって、苦しい心のエネルギーを全部自分に突き立てちゃって、精神崩壊しちゃうコ。だから兄貴は、発狂しないように、どんどん誰かの所為にしていこうね?」
「俺に、狂って欲しくない、のか? もう十二分、頭がイカれているような、気がする」
「だって、発狂しちゃうとお喋りもできなくなっちゃうし。ツマンナイじゃん?」
「お前は……月から、出られないのか?」
「まあね? ロケットないし」
「瞬間移動は、できるのに」
「できないモンはできないの~」
「……、お前は、死神は、どこから来たんだ?」
「哲学的なことを聴いちゃうのねー。じゃあ兄貴はどこから来たのさ」
「……地球から」
「そうじゃなくてェ。もっと本質的な?」
「本質的な、って」
「言葉に詰まるっしょ? ソユコト」
「はぐらかされた気がする」
「謎めく死神ちゃんなのでしたー。よしよし、お話できるから兄貴はまだ発狂してないね」
 俺のヘルメットを子供にするように撫でてくる。振り払う元気はなかった。俺は未だ精神崩壊はしていないらしい。それが救いなのか、そうじゃないのかは、分からない。
「お前は、何を目論んでいるんだ」
「何をって。私死神、命刈り取る、貴方もうすぐ死ぬ人間。これ以上のアンサーってある?」
「じゃあどうして、」
「兄貴にこうやって話しかけるか? そりゃー、興味と好奇心以外になくね? コミュニケーションなんてそんなモンでしょ。それとも何か、高尚な理由が欲しかった?」
「……、いや」
「でしょ」
「……お前はずっと月にいるのか?」
「まーね。月の死神だから。あ、月面で生身なのに平気だったり飲食睡眠一切不要なのはね、死神パワーです。ねえ、もっといろいろお喋りしよ? 兄貴、好きな天気はなぁに?」
「……曇り」
「いいねー。眩しくないもんね曇りって」
「月に、天気はないんだな」
「空気ないからね」
「……ガスマスクの下はどうなってるんだ?」
「普通に顔だよ。見せろって言われても天邪鬼なんで見せないケド」
 他愛もない会話をすれば、軋んで砕け散りそうになっていた心が、人としての形を保てるような気がする。ただ喜びは感じられなかった。ただただ、ガランとした心地が横たわっている。俺はうつむき、死神にたずねた。
「俺はまだ死ねないのか?」
「少なくとも今すぐじゃないねー」
「……そう、か」

 そんな風に死神と意味のない会話を繰り返して、時間が無為に流れて――。
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