●8:それでも世界はグルグル回る
目の前に、
……あったのは、拳。
「わ゙あッ!?」
ジェーンはビックリして飛びのいた。
幸いにして拳が顔面に命中することはなくて――ていうか殴られかけてた? 誰に?――心臓をバクバクさせながら見やった先、そこには……
ヨロズが右拳を突き出したままの体勢で、呆然と目を見開いていた。
「あ……あれ? わああ!? ごめんジェーン! ケガしてないっすかあ!?」
自分の状況に気付いた彼は大慌てで少女を心配する。「大丈夫どこも痛くないから……」と答える少女だが、
「鼻血がっ……鼻血があああ! やっぱ当たっちゃってたっすか!? ごめん……ごめん……」
「え? いやこれはブラドの攻撃を避けてた時にがんばりすぎて……」
「ていうかなんで俺っ、君にパンチなんかっ……」
それはジェーンも同様の疑問だった。袖口で鼻血をどうにかしつつ……辺りを見回してみる。
「ここは……」
理解に時間はかからなかった。
ここはジェーンの住む町の、ひとけのない雑木林。ジェーンはよくここで息抜きに一人の時間をすごしていた――周りに誰もいないと、気取ったり努力しなくてよかったから。
その日は「今日はちょっと奥の方に行ってみようかな」と、知らない方へ足を延ばして……
そこでジェーンは……『あの少年』と出会ったのだ。
鮮明に、覚えている。
――『フェイスイーター』グリムの、初犯行の瞬間。プラネ・パナケイアが昏睡する寸前の、あの事件が起きた日。5年前の出来事。二人の、全ての、始まり。
「ここ……5年前! 私がフェイスイーターに襲われた時の!」
「ええッ!? でも……服とか見た目とか、『さっき』と同じっすよ!?」
ヨロズの言う通り、二人の見た目や状態は『先ほどまで』ブラドと相対していた時と同じだった。施設でミュータントが着ている簡易なブルーグレーのジャンプスーツである。
「うーん……未来の状態で上書きされたのかなあ……ていうか私! 5年も時間を戻せたの!?」
何分、こんなタイムトラベルは初めてなので、ジェーンにも詳しいこと(タイムパラドクスとか、なんかそういうねじれのSF的ななんやかや)は分からない。分からないが……5年も時間が巻き戻ったのは事実だ。おそらくは。
「とっ……とりあえずこの服のままだと変な目立ち方するから、来て!」
ジェーンはヨロズの手を引いて、緊張と高揚を覚えつつ――『自宅』へと走り出した。
――街並みは、ジェーンの記憶のまま。
『つい先日』訪れたあの時とほぼ変わっていない。
そうして。
『つい先日』のように真昼間のパナケイア邸宅へ。
だがあの時のように呼び鈴を鳴らす必要はない、なぜなら今は、ジェーンは正当な住人であるからだ。とはいえ一抹の緊張を覚えつつ、門を開ける。家へと向かう、
使用人達はまだマデレーネによって総入れ替えされていない時代だ。そしてマデレーネもいないし、バンユも仕事もいない。使用人は「おかえりなさいませお嬢様」と一礼で出迎えて――はたと驚く。
「お嬢様、あの……」
出かけた時には着ていなかった服装、それから隣にいる少年。一体何事かと不思議がる。
「……ちょっと、いろいろね。服を変えたい。それからこの子はヨロズ、私の大事な大事なお友達で恩人だから丁重におもてなしして欲しいのと……彼の分の服もお願いできる? ああそれから、今日は習い事を全てキャンセルするわ、連絡をお願いね」
……やはり、本当に、5年前のあの日だ。
自分の部屋もマデレーネの娘に陵辱されておらず、無事だった――着替えを済ませて瀟洒なワンピースに着替えたジェーンは(首の後ろのミュータント刻印はチョーカーで隠した)、カレンダーや屋敷の中を見て確信する。
かくして今は、客間にて、ヨロズ(シンプルなシャツとスラックス姿)とテーブルを挟んで向かい合っている。テーブルの上には紅茶とチョレコート菓子という平和なものが置かれているが、突き合わせた顔は緊急会議さながらの真剣だ。
「で――ここが5年前の『例の事件』の日って確定したわけだけど。ここからどうしよっか……」
ジェーンは既に、ヨロズに対して『ブラドの野望』について説明していた。少年は「う~ん」と顎をさする。
「全人類の脳浄化かぁ……望んでない人にまで脳浄化をするのはちょっとどうかと思うっすが……でもそれをしなかったら、ミュータントを兵器にした世界大戦が勃発するかもしれなくて……う~~~ん……あれ? 詰みじゃないっすか?」
「そもそも戦闘用ミュータントを興味本位でも作り始めちゃったのが最初の間違いでしょ。5年後の私達がプロトタイプだとするなら、まだ戦闘用ミュータントの製造は早くても黎明期のはず……」
「こ、工場を爆破とかッ!?」
「余計に戦争万歳に突き進んじゃそ~……」
そもそもどうやって爆破の為の爆弾を用意するの、とジェーン。少年はぐうの音も出ない。「でも僕らたった二人でどうやって……」と声をしぼませる――少女は少し考えてから、安心させるように自信げに笑ってみせた。
「大丈夫だよ、ヨロズ。『5年後』と今との大きな違いは……私とあなたが世間的には人間だってこと。人間としての権利を、今なら使うことができる」
「人間としての権利……?」
「おまわりさんに通報とか」
「ええ……『5年後にこんなことが起きちゃうんすよ~』って言っても信じてもらえないっすよお……」
「信じさせるんだよ」
「どうやって?」
「いるでしょ、一人、私達には……頼もしい『元』おまわりさんが」
「あ。――ローダンさん!」
目を見開くヨロズ。彼ならきっと、どうにか訴えかければ信じてくれるかも。味方に、力になってくれるかも。
「それにね、ヨロズ」
一呼吸の後、ジェーンは決意の眼差しを少年に向ける。
「……私、パパとちゃんとお話しする。今ならまだ、パパは生きてる。パパなら色んなコネとか……ありていに言っちゃえばお金も権力もあるし、ね。首の後ろの刻印も消してもらえるかもだし。……パパに信じてもらえるように、私がんばってみる」
あのメッセージは嘘ではない、父は自分を愛している。今ならそう信じられる。それに――あのメッセージが収められているディスクを、ジェーンは『未来』から持ち帰っている。
「あ―― ジェーン! パパさんのことで、その……」
話題に出たことでヨロズは思い出した。少年は知っているのだ。この先の未来で、バンユの後妻マデレーネは――おそらく――
「マデレーネさんが、バンユさんを殺してしまうっす。この先のいつか……」
「――……」
少年の心配に反して、ジェーンが狼狽することはなかった。ただ、静かな顔で、「そう」と言った。少女の中で、疑念が確信に変わった瞬間だった。
「だったら猶更、パパを説得しないとね。悪いけど――この家に、あの女の居場所はもうないんだから」
紅茶を飲み干した。最後のチョコの一粒を口に頬張る。もこもこ大粒のそれに発音をふやつかせながらも、ジェーンはこう言った。
「今から忙しくなるよ。……お手伝いしてくれる、ヨロズ?」
「もちろんっすよ!」
「それから――」
ごくん。溶けたチョコを柔く噛んで砕いて、飲み込んで。
「ヨロズ、うちのこになりなよ。――今日からここが、あなたのおうち。あなたの帰る場所」
「…… え?」
ジェーンは知っている。この時代のヨロズ――グリムという少年は、ブラドが教祖を務めるカルト経営の施設にいた。身寄りも何もなく、カルトが過激化していく中、『従来通り』にあの施設で過ごすことが彼の幸せになるとはとても思えなかった――そもそも、幸せで満たされていたのなら、大人の目がしっかりと行き届いていたのなら、あんな惨劇は起こさなかったろうから。
グリムがあそこでどんな日々を送っていたのか、知る術はない。だが、決して良いものではなかったろうことが推測される。それにまだ――ジェーン襲撃が初犯なら、それをしなかった今、この時間軸のグリムに法的な意味でいうと罪はないのだ。
「いいでしょう?」
「でも……」
ヨロズは予想だにしていなかった提案に狼狽していた。向けられたあたたかさの安心感に、どうしたらいいのか分からなかった。分からないから怖くて、「でも」と言ってしまう。迷惑をかけるかも。ジェーンのパパさんがなんて言うか。自分は犯罪者なのに。自分はパナケイア家とは何の関係もない他人なのに。
「……たくさん、助けてくれた。あなたが居なかったら、私は今ここにいない。あなたがいたから、ここまでこれた」
小さな手が、握り込まれて振るえる手をそっと取る。
「ね。だから……恩返しぐらい、いいでしょ」
「あ―― う――」
急に、どっと込み上げてきたこの感情の表現の仕方を、少年は知らない。受け取ってもいいものなんだろうか。嬉しいはずなのに、なんだか怖くて不安で――いいんだろうか、許されるんだろうか、そんな気持ちばかりが渦を巻く。
拒絶には慣れていた。だが逆は?
「嫌だった?」
ジェーンは彼の機微を察して苦笑する。
「嫌じゃないっす!」
ヨロズは即答した。
「なら、とりあえず嫌になるまでは、ここで暮らしなよ」
「うう……」
「ね?」
「うん……」
小さく小さく頷いてから、視線を惑わせ、ヨロズは目の前の少女を見た。
「ありがとう……その……嬉しくて……どうしたらいいのか分からなくて……なんて言ったらいいか……」
「いつか言葉が見つかったら教えて」
「……うん」
なんだか泣いてしまいそうになったので、それをグッと堪えて、少年は笑った。小さな手を、優しく握り返しながら。
とはいえ、ヨロズを正式にパナケイア家に迎え入れる為にもジェーンは父と相対せねばならなかった。一先ずのところは使用人に「恩人だからしばらく屋敷で生活させてあげて」と命じたけれども。
一方的にもてなされるのは居心地が悪い……とヨロズは何か仕事を欲しがったが、ハウスキーパーを手伝わせるにしても当主の許可が必要だ。しばらくは『お客様』で我慢である。
また、今日を以て、ジェーンは数多の習い事を全て辞めることにした。自分を追い詰めるような『自己研鑽』も、もうやめた。成績はちょっと落ちるかもしれないが……もう少し、自由に、遊んだりして、他人や外界に目を向けようと思ったのだ。
父が帰ってくる日まで、ジェーンは普通に学校に通う普通の女の子として過ごした。留守番の間、ヨロズは書斎の本を読むなどして平和なひと時を過ごしていた。
そして運命の日はやって来る。
●
シックな黒い車が道路を行く。
助手席の窓を開ければ、風が心地良い。流れていく風景にジェーンは目を細くした。
「いやー、うまくいくっすかねえ?」
運転席ではスーツ姿のヨロズが、ハンドルを握ってそう問いかける。
「大丈夫。だって私、うまくいくまで『やり直せる』もの」
少女はニッと悪戯っぽく笑いかけた。
――ジェーンと父が相対した、運命の日。
その交渉で少女が負けることはなかった。首には『先日』までなかったはずのミュータントの刻印があり、実際に『巻き戻し』の力を披露し(父がランダムに書いた数列を当ててみせるなど)……更には最強のワイルドカード、『愛』が互いの手札にあることを知っているがゆえに、それを切り出して。
結論から言うと、バンユはジェーンを信じてくれた。
とはいえ「5年後にミュータントとその管理組織が全人類の脳浄化を目論む」なんて、世間的には突拍子もないことは事実であるがゆえ、急にその対策を掲げて……ということは難しい。しかしその阻止に向けて尽力はしてくれる、とバンユは答えた。
また、マデレーネとは縁を切り、ヨロズをパナケイア家の養子として迎えてくれた。二人の首の後ろの刻印についても、社会的には秘密裏に、手術によって消すことを提案してくれた。
そして最後に――
「すまなかった、ジェーン。……私はおまえを本当に愛している」
そう言って。彼は久方ぶりに、愛する娘を力いっぱい抱きしめた。
かくして、今は。
ヨロズの運転する車で、二人はローダンのいるあの町に向かっている。幾つものビル、幾つもの建物が林立する、あの都会へと。
ジェーンの荷物の中には分厚いファイルがあった。
そこには、『5年後』の施設の書架で読んで記憶した、ありったけの犯罪者達の「これから起きる事件」について記されている。ある種の預言書だ。これを『武器』に、あのナイスガイを説得する心算である。
もう追手はいない。何事もなく、二人はあの町に『帰還』する。
日数で言うとそんなに昔のことではないのに、数年ぶりにこの町に来たような感覚さえある。
ローダンとはあらかじめ電話でアポを取っていた。電話口の彼の疑いっぷりは今でも鮮明である。向かう先はとある喫茶店。彼は先に到着していたようで。
「「ローダンさーん!!」」
少年少女は、振り返る男の顔を見るや声を弾ませ駆け寄った。
「お……、おう」
いきなり少年少女に懐っこく嬉しそうに微笑みかけられきゃいきゃい群がられ、警戒していた男は毒気を抜かれて呆気にとられる。若干引いている。
「ローダンさんお元気そうでよかったっす」
「ね~。前に見た時よりやっぱちょっと若いかも?」
向かいの席に座りながら、ジェーンとヨロズはそんなやりとりをしている。ローダンは完全にアウェーの空気で、ポカーンである。
「なんだおまえら……?」
本心からの疑問がつい口から出てしまった。ローダンはここ数年で使っていなかった表情筋を使って、なんとも言えない顔をしている。
「あ~。改めまして――お電話させて頂きました、プラネ・パナケイアです。こっちはヨロズ・パナケイア。戸籍上は私の兄です。血は繋がってないけどね」
「どうもっす! ヨロズっす! よろしくっす!」
「……あ~……ローダンだ。どうも」
パナケイアの御令嬢ななぜ自分に急に連絡を寄越して「会いたい」と言ってきたのか、男には甚だ謎だった。詐欺か悪戯かなんかかと思ったが、目の前の『ガキども』を見ていると、どうもそうじゃないらしいと直感する。
さて。
コーヒーを紅茶を交わしながら。
長い長い、とんでもないお話をしまして。
「……」
ローダンは手元のブラックコーヒーより苦い顔で眉間を揉んでいた。
「信用するしかない根拠があるのは、理性では理解できるがよ……」
5年後の未来の話をされて、「そうなんだ分かりました」と言えるほど、男は童心ではなかった。しかし納得せざるを得ない要素もある。男は、ミュータント反乱の当時を知るローダンは、反乱軍のリーダーが『時戻し』をできることを知っていた。実際にジェーンがそれを使ってみせた(バンユの時と同じ方法)こともあり……彼らの話があながち与太話ではないと、思ってしまう。
「一週間後、私の話が本当かどうかきっと分かる」
ジェーンが開いたファイルには、一週間後、この町で起きる強盗殺人事件が記されていた。ローダンは既に目を通した資料を一瞥し、溜息を吐く。
「俺はもう警察引退してるんだぞ、通報されても困る」
「でも、『お友達』や『後輩』に情報を流すことはできるでしょ?」
「……」
「こちらのファイルは差し上げます。ご自由にしてください」
「あ~……ありがとよ」
『預言書』を託され、ローダンはここ最近で一番疲れた顔をした。「じゃそろそろ帰るわ」と伝票を持って席を立つので――
「あ! ローダンさん、最後に――」
ジェーンとヨロズは席を立つと、真っ直ぐに男を見澄まして。
「私達。本当にあなたに感謝しているの。……『今』のあなたは覚えてないだろうけど――あの日。私達を助けてくれて、本当にありがとう。あなたがいたから、今、私達はここにいるの。本当に……ありがとうございました。ローダンさん。あの時は、お世話になりました」
「俺達に何かできることがあったら、何でも言って下さい! ローダンさんの力になるっすよ! いっぱい恩返ししたいっす!」
その言葉は――
嘘か本当か、何かで確かめようという気を男に起こさせないほど、真っ直ぐで。
「はは―― そうかよ。そりゃどうも」
笑ってしまっていた。思わず。
「それと……お呼びしたのはこっちなので」
ジェーンは飲食代を出そうとしたが。「ガキに奢られるほど落ちちゃいねえ」と、ローダンが取り合うことはなかった。
――それから一週間後。
ローダンが古巣へと伝えた情報は見事に的中し、強盗殺人は未然に防がれることとなる。
それだけでなく……『預言書』に記されていたことは、その全てが実際に起きた。そしてその全てが、最大の悲劇を招く前に防がれるか、あるいは最低限の被害に食い止められる結果となる。
そんな中で、『預言書』に記されていなかった大事件が発生する。
それは――新興宗教『白亜のふるさと』教祖、いずれはブラドと呼ばれるようになる男・クロツクが、未成年の少女に刺されて死亡したという事件。
彼女は宗教二世の少女であり、そして……本来ならば、フェイスイーターによって殺害されているはずの人間だった。件の宗教のせいで自分の人生が滅茶苦茶になったという恨みからの犯行であった。
白亜のふるさとはこの事件を切欠に、様々な問題が露呈、解体される。結果として……教団によるテロが発生することは未来永劫、発生することはなくなった。同時に、ミュータントとなったクロツク=ブラドによる扇動もなくなったということであり……。
「……俺のせいで、この人は死ぬことになっちゃったんすかね?」
新聞記事から顔を上げて、ヨロズはなんとも複雑そうな顔をしている。
「あなたの所為じゃないでしょ。だって、『実際に実行した』のはあなた本人じゃないんだから。……ヨロズは何も悪くない、そうでしょ」
「うう……」
「それに、今のヨロズは法的に罪になるの? ならないでしょ」
そう諭せば、少年はしおしおした顔で新聞をテーブルに置いた。
(でもまさか……こんなことになるなんて……)
ミュータントとなれば、あの巨大なロボを操って立ちはだかって来た、圧倒的な存在が。……こうもあっさりいなくなるなんて、この世界というのは何と無常なのだろう。そして因果なものだ。フェイスイーターが存在せず、死なずに済んだ命が、別の命を奪うなんて。
ところでこういうのをなんて言うんだったか――ジェーンは少し考えてから、「思い出した」と手を打った。
「バタフライ・エフェクト……だっけ?」
ほんの小さな変化が大きな変化をもたらす、そんな意味だ。
「……これからどうなっていくんすかね?」
ヨロズの言葉に、ジェーンは「さあね?」と何とも言えない笑みを返すしかなかった。
「何が起きても。私達はできるだけの最善を尽くして、それなりに頑張ってくしかないでしょ。ひとまず……『今』できることは、思いつく限りやったんだし」
それが好転に向かうのか、はたまた最悪の結果に転がっていくのか。それは誰にも分からないことだ。
「ところで私。本来ならずっと昏睡状態だったから、『これからの5年』がどうなっていくのか全然知らないんだよね。ヨロズ、教えてくれる?」
「それが……俺、脳浄化されちゃってるから……」
「あ。そっか……」
「じゃあここからは完全に未知の世界っすね」
「……あはは。ホントだ」
笑って――ジェーンは窓の外の薔薇園を見た。かつて……いや、未来で父が死んだ場所は、これからも死者を出すことはないだろう、きっと。
●
――それから、5年。
コールドスリープしていなかったジェーンは真っ当に歳を重ねた。17歳。高校に通う少女の一人だ。背もすらりと伸びて、5年前と比べてぐっと大人びた。
ヨロズは推定年齢としては21歳である。生真面目な彼の学習意欲は素晴らしく、この5年で高校に合格・卒業し、今は大学に通っている。いずれパナケイア家関連の企業に勤めて恩返しをしたいと思っている。
季節は夏。
夏休みの学生二人は、いつものようにローダンの家へと遊びに向かっていた。
――通り過ぎるのは一つの花屋。『かつての時間軸』でヨロズが手伝いをしていたそこでは、アイジスと呼ばれるミュータントが、手伝いとして働いている。
「アイジスちゃん、お昼お昼ご飯食べよっか」
「はぁ~い!」
花に彩られ、やりがいのある仕事を与えられて、アイジスは充実しているようだ。
――ビルの間を風が吹く。
捨てられた新聞紙が飛んでいく。
そこには、ブラドというミュータントによる全人類よいこ化計画の事件は記されていない。
だがしかし、代わりのように、戦争の気配があちこちで燻っていることが報道されていた。
全ての人間が完全に幸福になる、世界中が善に満ちた、良い子の天国なんて、世界には存在しない。
それでも――汚点や悪意や歪さを抱えたまま――世界は今日も回るのだろう。
ぴーんぽーん。インターホンの音が鳴る。
「ローダンさーん、来ました~~~!」
「こんちはーーーーっす!」
少年少女の声が、ドアの前で弾む。
「はいはい」――素っ気ないようで少し嬉しそうな声が、ドアの向こうで聞こえて。
そして、今日も今日が続いていく。
願わくば。
それでも生きていくこの『天国』で。
今日という日が良かったと思えるような――そんな日々が、できるだけ続いていきますように。
『了』
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