●7:フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン
白い部屋に居る。
傍らにヨロズはいない。
ジェーンは机を挟んでブラドと向かい合っている。
これはいわゆる、事情聴取。脱走してからどう過ごしていたのかという報告会。
嘘を吐く努力も面倒くさかった。だからジェーンは、ありのままを全て話した。
「――分かりました。ローダン氏に対して、我々は干渉しません。警察と我々ミュータント関連組織は犬猿の仲ですからね、いくら引退した身でも彼らが全力で妨害をしてくることでしょうし」
「そう、よかった」
「お茶、冷めてしまいますよ。毒なんて入っていませんから」
ブラドが白い覆面の眼差しで、ジェーンの傍の瀟洒なティーカップを示した。温かいミルクティーが、死後間もない死体のように少しずつ冷たくなっている。
「……」
ジェーンは砂糖とミルク入りの紅茶を一口。甘くてまろやかでおいしい。生ぬるい。
「それで――」
机の上、ブラドが白手袋で覆った指を組む。
「あなたには、説明しておかなければならないことがあります」
その言葉に、ジェーンはカップを置いて上目に見ることで彼を促した。一間の後、ブラドは語り始める。
「お気付きかと思いますが、君は特別なミュータントです」
「まあ、そうかもねとは。時間の巻き戻しの超能力、前科なし、首輪なし、脳浄化なし、明らかに他のミュータントと違うもの」
「仰る通り。――約20年前に、ミュータント達が世界的に反乱を起こした事件はご存知でしょうか?」
ローダンから聞いた話だ。徐々に記憶が戻りつつあるジェーンも、知識として思い出している。少女が頷けば、ブラドはこう言った。
「ミュータント達のリーダーを務めていたのは、鮮烈なカリスマ性を持った活動家でした。彼は非常に強力なミュータントでして……君には、彼と同じ異能が移植されています」
「同じ異能……、時を戻すアレ?」
「ええ。これまで、『彼』の異能の移植は一度も成功しなかった。君が世界で初めての適合者、奇跡的な成功例です。どうやら『彼』の祖先とパナケイア家の祖先は同じようでしてね、血による適合ではないか……というのが成功理由の一説です」
「ふーん……」
自分ってすごいんだ! と感動する気持ちにはなれなかった。だからなんだ、という感想しか出てこない。
「でも、10秒しか時間を巻き戻せないんだよ。確かに便利な局面もあるだろうけど……汎用性がないっていうか、ちょっと限定的すぎない? 何かの役に立つの? あなたの発電能力の方がよっぽど人類社会に有益じゃない?」
「一理あります。では軍事利用としてはどうでしょう」
「……軍事利用?」
「『彼』は10秒以上の時間を巻き戻すことができたと言います。一説によると最大で24時間とか。勝負において、勝ち筋が見つかるまで何度もやり直すことができる……指揮官としてこれほど強力な能力はないでしょう。君も、訓練すれば10秒以上の時を戻ることができるようになるかと」
「そ……そうかもしれないけど、でも、軍事利用……戦争ってこと? 今のこの平和な社会で、戦争? 誰と戦うの?」
きな臭くなってきた話に、ジェーンの顔に狼狽が浮かぶ。対し、表情は見えず声音も変わらないブラドは柔らかで紳士的な物言いのまま続けた。
「確かに現状を表層だけ見れば平和そのものです。しかし水面下では、各国が競うようにして軍事利用目的の戦闘型ミュータントの開発が進んでいます」
――なぜ対ミュータント鎮圧用のミュータントに高い戦闘力を与えられているのか。脳浄化不適合の発狂ミュータントは確かに危険ではあるが、狂っているだけに別に深刻な脅威というほどでもないというのに。
――なぜ鎮圧用ミュータントは、人間に対して暴力が行えるという『リミッター』が外された状態なのか。
それは、ミュータントを兵器として使用する計画が極秘裏に存在しているからだ。ミュータント鎮圧用と銘打って、戦闘力の高いミュータントを造り出しているのである。
「いずれ人類はこう思うでしょう、『これを使ってみたい』――理由なんて後から幾らでも創造できますからね。このままでは第三次世界大戦が勃発し、世界は悲惨な状況となるでしょう」
「そ……そんな……」
目の前の白い男が、この局面で嘘を吐くようには思えなかった。壮大で突拍子もない内容だが、ジェーンには信じる以外の選択肢はなさそうだ。
「私、世界大戦の為の兵器ってことなの?」
「厳密にはプロトタイプ、試作品段階ですけれどね。私も、それからアイジスもそうですよ。治安維持用ミュータントは全て、戦闘用の試作型ミュータントです。……君の脱走は、アイジスという試作品のデータ採取におあつらえ向きでした。いろいろと課題が得られて、実に有意義でしたよ」
「……なるほど。だからとっとと人員を動員させて捕まえないで、泳がせてたってワケ」
皮肉気に笑い、大仰に溜息を吐いた。
「私。人殺しの兵器になんかなりたくない。誰かを殺すぐらいなら自分で自分をぶっ殺す」
キッと前の男を見据える。疲れてひび割れたジェーンではあるが、その言葉と眼差しには強い意志があった。
誰かを殺すということ。殺そうとしたこと。――ヨロズを殺そうとして負った傷は、苦しみは、これからジェーンはいくら時を巻き戻しても消えない罪。もう二度と、あんな思いはしたくない。
「――、」
ブラドはその言葉に沈黙し……少し俯き、肩を震わせ始めた。
「素晴らしい……」
「は?」
「素晴らしい。なんという善の心。やはり君は素晴らしい人材です」
ブラドは感涙していた。嘘泣きや演技ではない。感情を露わに、真剣に、ジェーンの気高さに胸を打たれて泣いていたのだ。
「ああ……失礼。すみません、涙もろいたちでして。君になら計画のことを話してもよさそうですね」
声をまだ若干潤ませたまま――ジェーンはその様が理解できずに引いている――男はこう言った。
「近い将来、全人類を脳浄化してよいこにする『全員よいこ化計画』が始動します」
「…… はあ!?」
「先にお伝えした第三次世界大戦を回避する為ですよ。大きな騒乱が起きる前に、全人類から闘争という罪の芽を脳浄化によって消滅させます。とうとう人類が原罪を克服する時が来たのです」
「む……無茶苦茶な……そんなことができるの?」
「できないことを得意気に語るとでも?」
ブラドの顔は見えないが、その言葉には本気という凄味があった。思わず、ジェーンはたじろぎ言葉を飲み込む。男は机の上で指を組んだ。
「計画の途中……反抗勢力との戦いは避けられないでしょう。君には是非とも、その時に協力してもらいたい」
「っ……だから、人殺しの道具にはならないって言ったでしょ。そもそもアンタ達だけで世界を相手取るなんて、マンガの読み過ぎじゃない?」
「私の理念は、既に組織中に行き渡っていますよ。皆、賛同してくださいました。ありがたいことですね」
「……アンタ、いったい、何者なの」
「ただの『よいこ』ですよ。世界がよりよくなることを願っている、ただの『よいこ』です」
「あっ――頭おかしいんじゃないの!?」
ジェーンは席から立って後ずさっていた。だがこの白い部屋に逃げ場はなかった――唯一のドアはロックされている。それも特別製で、ブラドが特定の電圧を流さねば開かない。
「では君はこのまま戦争が起きてもいいと?」
貌のない顔が少女の方を見ている。
「そういうこと言ってるんじゃないけどっ……でもアンタのは極論すぎる!」
「ミュータントを兵器として用いた戦争が起きれば、我々ミュータントはますます『使い捨ての道具』となるでしょう。そしてミュータントの『材料』を得る為に、人類は更に人間自身の価値を軽んじていく……優劣勘定に支配された社会など、破滅まっしぐらです。あなたも『旅』の中で、ミュータントが如何に『道具』であるか痛感されたのでは?」
「っ――」
「想像してみてください、その人間の感情が更に肥大化して拡大していったらどうなるのか……」
ミュータントにしてもいい人間を、人間が探し始める世界。冤罪が横行し、社会的落伍者、身体や精神に障害を負った者から始まって、いずれは低所得者・罪ですらない小さなミスを犯した人間・特定の人種、と広がっていくだろう。生きることに対して徹底的に価値と意味を要求される、地獄――。
「……っ、……」
ジェーンは言葉を返せなかった。一理ある、と少しでも思ってしまった。自分は、ミュータントは、道具なんかじゃない。そんな思いが、確かにあるから。
「必要であれば、脳浄化を実施しますよ。……つらい過去も、罪悪感も、不安も、悩みも、悲しみも、絶望も、恐怖も。ありとあらゆる精神の苦痛から、脳浄化は解放してくれます」
「ッ……そ、」
そんなの嫌に決まってるでしょう。そう言おうとしたのに、言葉が出なかった。
――もう二度と、悩まなくていいのか?
――もう二度と、自分の存在に息苦しさを感じなくていいのか?
――もう二度と、苦しい思いで心を掻きむしらなくてもいいのか?
(そうだ。過去とか、記憶とか、そういうのがあるから、苦しいんだ)
全て忘れてしまえば、どれほど楽なのか。自分が無価値で要らない存在だと知らないままいられたら。「もういなくなってしまいたい」、そんな願望が……心の消去で叶えられるのなら。
自宅での日々がジェーンの心を引っ掻く。ひっかき傷は出血を生んで、治らなくて、膿んでいく、手当てもされないで、ただただ、膿んで、痕になっていく。
「……――待って」
胸を押さえて俯いて、青白い顔のままジェーンは絞り出した。
「少しだけ……待って」
もう何が正解なのか分からない。自分のやることなすこと全てが不正解に感じる。だから猶予を要求した。ジェーンのその言葉に、「分かりました」とブラドは優しい声で言った。
「三日待ちましょう。締め切りがないといつまでも先延ばしにしてしまうのが人のサガですからね」
そう言って、立ち上がる白い男はドアノブに触れて、部屋のロックを解除した。ドアを開けて、紳士的に掌で指し示してくれる。
「それまで施設内で自由におすごしください」
●
時間さえあれば、画期的で革命的な答えが出ると思っていた。
結局、「そこになければないですね」。なのだ。ないものは、いくら時間をかけようとも、生まれ出ずるはずがなく。ただ、残念な『無』だけが、申し訳なさそうに鎮座し続けている。
ジェーンは書庫にいた。ズラリと並んだ書架に、ギッシリとファイルが収められている。ここには様々なミュータントの『生前』の記録が収められている。ブラドが「何もすることがないと退屈でしょうから」と、名目上はここの整理と清掃を命じたのだ。
この書庫に来る人間もミュータントもいないから、まあ、ていのいい監禁、隔離ということだろう。ジェーンが『特別製』なのは既に聞かされていたことだ。
……あれからヨロズには会えないままだ。殺処分こそされないが、ジェーンの脱走を手伝うという重大な違反行為をしたがゆえ、脳浄化は免れられないだろう、とブラドが言っていた。
次に会う時、ヨロズはもうヨロズではないのだろう。そのことを考えると、切なくて悲しいけれど……
(私も脳浄化されたら、関係ないか……)
ジェーンの心は、脳浄化を受け入れる方向に傾き始めていた。これ以上、確固たる自我を持ったところで、なんだというのか。将来もない、やりたいことも夢もない、人間じゃないから普通に生きることもできない、もう何もない。
背伸びをして、ファイルを一冊抜き取る。そうして今日も、誰かが人間だった頃を見る。
……書かれているのは、どれもこれも卑劣で胸糞悪い事件ばかり。犯人は反省の意志も更生の意志もなく、自分勝手で、自分さえよければそれでよくて、平然と他者を害して生きている。性善説を真っ向から嘲笑うような、そんな事件、犯人、動機、ばかり。
この資料を読んでいると、やはり脳浄化とは一種の救いではなかろうかとジェーンは思った。マデレーネのような……あんな悪意がこの世から一つでも取り除かれれば、それは平和への一歩ではなかろうか。
そして同時に思う。ジェーンを脳浄化肯定派に傾かせんがため、ブラドは彼女をここに閉じ込めたのではないだろうか。そうだとしたら、まんまとしてやられた訳だ。鼻で笑い、手に取ったファイルを開く。
――ミュータント識別名アイジス、人間時代の名称はマリーという女だ。
父親不明。売春婦の母に育てられ、幼い頃より売春を繰り返す。次第に資産家の男性を狙った詐欺や違法薬物売買などを行うように。気に食わない者を、自らの虜である男に殺させるという殺人教唆も。関わった男を全て破滅させる最悪の毒婦。
「悪いのは私のことを勝手に好きになった男でしょ」
「かわいそうだよね、ちんこが生えてる人間って。どんな権力者でどんな金持ちでもちんこの欲求には逆らえないもん。馬鹿だよね」
「私が犯罪者ってんなら、私とヤった男全員同罪でしょ。あ~あ、女ばっかり責められる、男尊女卑だよね~」
反省及び更生の余地なし。拘置所等でも刑務官を誘惑し問題を起こす。よってミュータント化処理が決定。
――ミュータント識別名ブラド、人間時代の名称はクロツク。
新興宗教『白亜のふるさと』教祖。教団は最初は慈善団体として、児童養護施設の運営、教育機関への寄付等、社会奉仕を行っており、特に問題はなかった。
教団の理念は一言でまとめるのなら『人間社会の平和、人類皆兄弟』。「人間の魂に顔はない」という教義を掲げており、美醜や肌の色、性別など身体的特徴で他者を差別しないという人類愛を掲げるものだ。彼らは覆面や手袋で徹底的に肌を隠すという特異ないでたちをしていた。
ブラドはカリスマ的な求心力を有しており、絶対的な救世主とされ、その勢力は政治にすら介入しはじめるほどになる。
一方で白亜のふるさとの教義は、規模拡大と共に――反抗勢力との小競り合いが増えていくほどに――過激化していった。肉体で差別しない、そう考えていた教団は、やがて「肉の器という物理的干渉装置があるからこそ全ての悲劇が起きるのだ」と考えるようになっていく。
その果てに凄惨なテロが起きた。被害の規模は敢えて目にしたくもない。教祖クロツクは拘束された際、自死を図って意識不明の状態だったが、そのままミュータント化処理されてブラドとなった。
(アイツのあの感じ、脳浄化されても『浄化』されてないじゃない……)
資料を読んでジェーンはげんなりした。記憶や人格というよりも、ブラドのアレは過去の積み重ねではなく、もっと先天的な、魂の本質そのものなのかもしれない。生前も、ミュータント化後も、人心を掌握し扇動するする天才的な何かを彼は有してるのだろう。そして、平和への極端で過激な思想も然り。
……脳浄化の前後で、記憶と人格が失われて良識や常識や価値観を挿げ替えられ、その人間は同一人物と呼べるのか否か、ジェーンはよく分からなくなった。
そんなことを思いながら、次のファイルを何気なく手を取り……凍り付く。
そのファイルはフェイスイーター……グリムという少年についての記録であった。
ジェーンは一瞬、呼吸を忘れる。手に取ってしまったそれを見なかったことにしようか悩んだ。だけど、……どうして彼が自分を襲ったのか、知りたくなって、ファイルを開いた。
――ミュータント識別名未定、人間時代の名称はグリム。
戸籍がない浮浪児。実年齢及び生年月日不明。両親不明。
推測年齢5歳前後の頃、白亜のふるさと運営の児童養護施設前に座り込んでいたところを保護され、入所。それまでの経歴は不明。
ここからの彼の人生はしばらく特筆すべき点はない。教団の支援で学校にも通い始め、特に問題も起こさず、普通に友達を作り、普通の成績で、普通の少年だった。
だがおそらくは白亜のふるさとに関わったことで「人間の魂に顔はない」という理念を知り、教団の思想の過激化に伴い、その精神性は歪んでいき、顔というものに執着しはじめたのではないかと推測される。
中学校に進学してからグリムは唐突にほぼ不登校になる。彼は近所を徘徊し、清掃作業員のミュータントにしばしば暴行を加え、その肉を削いで喰らうようになりはじめた。彼の異常性は知れ渡り、そのことをからかった・あるいはたしなめようとした者は、大人でも子供でも老人でも過激に攻撃した。この頃から彼の異常性・凶暴性が露呈しはじめる。
後に逮捕された際に動機を尋ねられたが、「なぜおまえ達は『なぜ』を繰り返すのか」と一蹴。
この頃、グリムはまだ『顔』を喰らってはいなかった。襲ったミュータントの指や耳をナイフで削いで喰らうのみだった。
しかし推定年齢16歳の頃、当時12歳だった人間の少女(名前は伏せられている)を襲う。激しい暴行を加えた後、その顔面を食い荒らす。被害者少女は一命を取り留めるも重体。
それからグリムは各地で未成年の少女を襲っては殺害し、顔面を食い荒らすという犯行を繰り返す。その犯行の手口から『フェイスイーター』とメディアでは呼称されるようになる。
なお、同時期に白亜のふるさとがテロを起こして解体されている。グリムはその翌年に、町を歩いていたところを逮捕される。
取り調べの際、グリムはほとんど何も供述しなかった。ほとんど、というのは、少女連続殺傷についてただ一言、彼がこう言ったからだ。
「美しいものが美しい形を失ったらどうなると思う?」
更生の余地はないとみなされ、ミュータント化処理が決定。
……ファイルを閉じ、ジェーンは深く息を吐いた。
これほど狂った男が、ヨロズのような好青年になるなんて。クロツク=ブラドと比較すると、グリム=ヨロズの有していた異常性は後天的なものだったのではないかと思う。だとしたら……やはり、脳浄化とは、しかるべき手段なのだろうか。あった方がいい、やった方がいいものなのだろうか。
フェイスイーターのファイルを読み、思ったよりもショックを受けていない自分自身に――どこか冷めて現実を見始めている自分に、ジェーンは「そんなもんか」とだけ思った。
それに、どうせ……あと少ししたら、こんなことも忘れるのだから。
そうして、今日もこんな時間をすごしていく。誰かの犯罪を読んで、現実に辟易して。
ジェーンの読む速度は速い。次はどれにしようかと、ほとんど無感情で書架を見上げる。背表紙を指でたどり……名前のないファイルを見つけた。
「……?」
好奇心のまま手に取る。やけに薄いファイルだなと開く――中に収められていたのは紙1枚だけ。「プラネ・パナケイアを検体として寄付する」という旨の、マデレーネのサインが入った簡易で事務的な紙きれだった。
ああ、……。そう一瞬、渇いた心地で思ったけれど。
(あれ……?)
何か、心に引っかかる。
『バンユさんのご意思よ。あなたをミュータントにしようと決めたのは』
『生前にね、バンユさんが話していたの。あなたをミュータントの検体として提出しようって。……さっき言った通り『試作品』だったコールドスリープ装置が、長くはもたなくて……このまま緩やかに朽ちていくのなら、高貴なるパナケイア家らしく、ミュータントの検体として世のため人のため科学の発展のために尽くすべきだ、って』
マデレーネはそう言っていた。
なのに、サインはバンユではなくマデレーネのものだ。
……いや、父の死後に父の代わりにマデレーネがサインしたのだろう。ジェーンは首を横に振る。
そしてファイルを閉じようとしたが……ファイルにはもう一つ、何か収められていることに気付いた。一枚のディスクだ。プラネへ、とラベルに書かれている――……父の、バンユ・パナケイアの文字で。
「……!」
ジェーンは部屋を見回した。資料室にはパソコンが一台ある。そこへ向かい、起動して――今更、死んだ父のメッセージが何になると言うのだ、これ以上傷つくだけじゃないのか、そんな葛藤も抱えつつ――ディスクを挿入する。
画面に表示されるのは、ディスク内データを閲覧する為のパスワードだった。ジェーンは見開いた目でディスプレイを見つめ――キーボードを打つ。自分の誕生日。違う。父の誕生日。違う。ならば何か。ジェーンは考えた。そして思い当たったのは、実家の古い金庫のパスワード。
「ここにはパナケイア家当主としての大切なものが保管されている。プラネ、おまえもいつかは当主になるのだから、ちゃんと覚えておくように」
父はそう言っていた。長い長いパスワードだ。父に言われた通り、次期当主として『プラネ』はそれを覚えていた。「これぐらいの桁数の暗記ができずして当主が務まるか」と、父から与えられた試練のような気がして。
ジェーンの指が、それを打ち込む。一文字ずつ、一文字ずつ。
かくして……鍵は開く。
収められていたのは、一つのテキストデータ。クリック。そこには、父バンユからのメッセージが書かれていた――。
――プラネへ。
これを読んでいるということは、おまえがミュータントになったということだろう。そして、申請通り脳浄化はされずにプラネとしての記憶を保持しているということだろう。
おまえが、いつ、ミュータントになったのかは、現時点の私には分からない。もしかしたら私のいない遠い未来のことかもしれないね。
さて、おまえのミュータント化改造手術を肯定したのは私だ。
理由は、プラネ、おまえを救う為である。
現状の医療技術では、残念ながら、昏睡したおまえを人間として救う方法が、ない。
だがミュータント化処理を行えば、顔も、脳に負ったダメージも修復できる可能性が高い。
現時点において、おまえを救う唯一の方法は……おまえをミュータントにするしかない、ということだ。
しかしながら……現時点で、ミュータントになるということは、一切の人権を喪失するということだ。書類上は人間として死亡した扱いにすらなる。今の時代でおまえを治療すれば、おまえは人間としての未来と幸福を喪うことになるだろう。
ゆえにこそ……私はおまえをコールドスリープさせることにした。
いつか、ミュータントが人間同様の権利を持つ日を願って、未来に全てを希望を託すことにした。
ミュータントも人間も平等である世界で、おまえが目覚め、もう一度微笑んでくれることを祈る。
最後に。
仕事ばかりでおまえに構ってやれなくてすまない。
おまえを寂しがらせまいと母親になってくれそうな女性を探すよりも、おまえ自身に向き合うべきだった。
今、私はこれを泣きながら書いている。手紙だと、紙とインクが涙でダメになるから、データに残すことにした。
もっとおまえと共に過ごせばよかったと、心の底から後悔している。
すまなかった、プラネ 本当によくない父でごめんよ
おまえは私が憎いかもしれないが 私はおまえをほんとうに愛している
どうか健やかで。
生きてくれ。
――バンユ・パナケイアより。
「なによ、これ……」
ぽつりと、ジェーンは呟いた。
ぽたりと、手の甲に涙が落ちた。
――パパがずっと忙しそうで、私に時間を割いてくれないのは……
――私よりも、たまに見かけるマデレーネさんと楽しそうにしているのは……
――きっと私が邪魔なんだ。
――私のことが嫌いなんだ。
――私のことが憎いんだ。
ずっと、そう思っていた。
愛されていないと、思っていた。
居場所はないと、思っていた。
違った。
違ったのだ。
「パパがずっと忙しそうで、私に時間を割いてくれないのは」……一人娘を苦労させまいと仕事に打ち込んでいたからで。
「私よりも、たまに見かけるマデレーネさんと楽しそうにしているのは」……孤独な娘に、せめて母のような人がいればと思って。
「きっと私が邪魔なんだ」……邪魔なんかじゃなかった。
「私のことが嫌いなんだ」……嫌いなんかじゃなかった。
「私のことが憎いんだ」……愛されていた。
――要らない子なんかじゃ、なかった。
「あ、あぁ、ああああぁああぁああああ……!」
ジェーンは膝を突き、両手で顔を覆い、しゃくりあげて泣いた。
ジェーンは愛されていた。居場所はあった。存在を許されていた。居てもよかった。生きていてもよかった!
(『おまえは私が憎いかもしれないが』? パパのばか……パパのこと憎いって思ったことなんて、一回もないよ……!)
手の甲で涙を拭い、立ち上がり、ジェーンは大切に大切に、ディスクを取り出し胸に抱いた。もういない父のぬくもりを、心に確かに感じていた。
――ああ。
脳浄化されてしまったら。
この愛を、忘れてしまうということなのか。
父が遺した言葉も、愛も、優しさも、ぬくもりも、つながりも、全部。
(そんなの、絶対に嫌)
この愛を忘れたくはない。生きてくれと願われたのだ、プラネ=ジェーンという人格を死なせたくはない。
それに――このメッセージを読んで、ジェーンは「なにかがおかしい」と確信した。
バンユの魂のメッセージが嘘だとは思えない。そうなると……ある言葉が、矛盾を起こすのだ。
『このまま緩やかに朽ちていくのなら、高貴なるパナケイア家らしく、ミュータントの検体として世のため人のため科学の発展のために尽くすべきだ、って』
そう。このように言ったのは、マデレーネだ。
マデレーネは嘘を吐いている。
なら――「『試作品』だったコールドスリープ装置が、長くはもたなくて」、この言葉も本当に?
本当は――
マデレーネが全て――
父の死もしかして――
パナケイア家を乗っ取る為に――
「あの女ッ……ブン殴って全部ゲロらせて警察に突き出してやる!」
そう。だから脳浄化される訳にはいかない。こんなところでウジウジしている訳にも、いかない。
脱走だ。脱走せねば。もう一度――あの時のように!
(でも、どうやって)
どうやって?
……そんなの、やりながら探せばいい。
なにせジェーンには、10秒時間を巻き戻して、成功するまでやり直せる力があるのだから。
「やってやろうじゃん……!」
もう少女に絶望と諦念の色はない。
その目には決意。胸に抱くのは父の愛。
――かくして少女は、走り出す。
●
警報が鳴り響く。
鎮圧班のミュータントが、慌ただしく施設内を駆け回る。
「はぁっ――はぁっ――」
ジェーンは駆け込んだ倉庫の隠れて、乱れた息を整えていた。その片手には、鎮圧班からくすねた拳銃型の麻酔銃。
コンバットでもなんでもない少女が、たった一人でここから逃げ出すなんて、あまりにも無謀で――10秒巻き戻しがなければ、とうの昔に再収容されて脳浄化されていたことだろう。
とはいえ、きつい。状況はかなり、まずい。
だけどジェーンは、諦めてはいなかった。
――慌ただしい、複数人の足音が、廊下の向こうから聞こえてくる。
ジェーンは息をひそめた。祈る。
足音が一つ……部屋の前で止まり、そして、ドアが開かれた。
どうか、と祈るも、それも虚しく――「いたぞ!」――その声と、麻酔銃の銃口と、近付いてくる鎮圧班と――
「ジェーンッ!!」
叫ぶ、名を呼ぶ、声。
壁が、発泡スチロールのようにぶっ壊される衝撃の音。
土煙の向こう側、跳び込んで、鎮圧班を蹴り飛ばす、少年一人。
彼の名前を、ジェーンは知っている――
「ヨロズーーーっ!」
わあっ。少女は泣きそうになって、友人の胸に飛びついた。
「よかった……よかった来てくれたあぁあああ~~~~~っ……!」
安心とか、喜びとか、いろんなものでしっちゃかめっちゃかになって、ジェーンは強く強くヨロズにしがみつく。少年の手が、彼女を同じぐらいの熱量で抱き返した。
「警報が聞こえて――『合図』だと思った。君が呼んでるんだって」
だから来た、とヨロズは笑った。他には打算も何もない。
――ジェーンは賭けたのだ。
大暴れすることで警報を鳴らして騒ぎを起こせば、それを察したヨロズが来てくれるかもしれない、と。
だが、言った通り賭けだった。
ヨロズが脳浄化されていれば。
ヨロズが再度着けられたろう首輪の千切り方を忘れていれば、あるいは失敗すれば。
二人は二度と、再会しなかっただろう。
「ジェーン。君は――」
離れたジェーンの目元を拭い、ヨロズは柔らかく微笑んだ。
「君として生きる為の目的を、見つけたんすね?」
「うん! あのね――このままだと世界大戦が起きるかも! それに私のパパをあの女が殺したかもしれないの! やらなきゃいけないことが、できた!」
その目は真っ直ぐ。もうあの時のような、居場所を失った迷子の目ではない。凛然と。とても。美しくて。ヨロズは、そんな眼差しを正面で受け止められることが、なんだかとても嬉しかった。
「そういうことだから――ヨロズ、手伝ってくれる?」
「うんうん! なんでもやるっすよ! いいっすよ!」
(――ああ、やっぱり、忘れたくなんかないなぁ)
ジェーンは強くそう思った。だから、それを言葉にする。言葉にしないと、伝わらないことはたくさんあるから。
「ヨロズ。私、脳浄化されたくない。絶対絶対、全部忘れたくなんかない」
「へえ~~~~! 奇遇っすね、俺も!」
笑って、そして、手を差し出した――ヨロズはずっと、ジェーンのことを忘れたくなかった。ジェーンと過ごした世界の日々を、失いたくはなかった。だからずっと待っていた――彼女を信じて、彼女が再び自由を目指すことを、信じていた。
「……君が、俺の帰る場所っす」
「へえ! 奇遇ね。私も」
いてもいいよ。いてほしい。ここに、いてほしい。
お互いそう思い合えることを、きっと絆と呼ぶのだろう。
――全部を忘れて、まっさらに生きるのは、それはそれで楽なのだろうけれど。
それでも……この傷だらけの地獄で見つけた美しいものまで手放してしまうには、あまりに惜しくて。
犯した罪の深さゆえに、忘れるなんて都合が良すぎて赦されなくて。
だからこそ。
「それでも生きていきたい」と思った。
絶望も希望も、喜びも悲しみも、前進も贖罪も、両手いっぱいに抱えて。
――しかし、だ。
そう容易く事は運ばないらしい。
「待ちなさい、あなた達」
二人の前に立ちはだかるのは――アイジス。警棒を構え、二人のことを鋭く見据える。
ヨロズが咄嗟にジェーンを庇うように立つ。そんな二人に……アイジスはまだ襲いかからず、ややあってから口を開いた。
「本気で……また脱走するつもりで?」
「そっすよ! 邪魔しないでほしいっす!」
「脱走したところでどこへ逃げるんです? また私達が追いますよ。逃げ切れると?」
「ここにいたら脳浄化されるもん」
言葉を継いだのはジェーンだ。
「私、忘れたくないの。全部……忘れたくない!」
「……脱走した違法のミュータントに居場所なんてありませんよ。ここに居た方が、意味と価値を求められますよ。『存在し/居』てもいい理由の前に、感情や記憶はそこまで重要ですか?」
「私は欲張りなの」
ジェーンはヨロズの手を握った。
「存在理由も、記憶も感情も、全部欲しい。全部が、私を作るものだから」
「……――、」
アイジスは――
手にしていた警棒を下ろした。
少しだけ、「いいな」と羨望の念を抱きながら。
「そうですか」
それきりアイジスは沈黙する。それは、「さっさと行け」の合図だった。
脱走者を再収容せよ、は敬愛し心酔するブラドからの命令である。だが……アイジスは覚えていた。ジェーン達からかけられた情けを。それに、命令違反しても罰せられる首輪は、もうない。だから――一つぐらい借りを返したって、いいだろう。そんな自由意志をちょっと抱いたって……いいだろう。
「……、ありがとう、アイジス。いつか……あなたとも、友達になりたいな」
ジェーンはアイジスにそう言って。
ヨロズと共に、走ってその場を後にする。
残されたアイジスは――天井を仰いで。どこか晴れ晴れと、深々と、息を吐くのだった。初めての自由を肺いっぱいにして……。
●
そうして。
最後に二人に立ちはだかったのは、巨大なる鋼鉄。
「これから……楽土の歴史が始まるというのに。どこへ行こうというのです?」
巨大ロボットのスピーカーよりブラドの声がする。
「二度目の脱走は、流石に、看過できませんよ。できれば暴力的な手段は用いたくないのですが」
「……アンタのお人形になるよりも、人として徹底的に足掻きたいのよ、教祖様」
ジェーンは不敵に笑って見得を切った。
しかし一方で――この、立ちはだかる巨躯をやりすごせるかどうか、自信があるとは言い難い。ジェーンの手には麻酔銃があるが、これではあの装甲を貫くことなんかできない。唯一……勝ち筋があるとすれば……どうにかハッチをこじ開けて、コックピットのブラドに麻酔銃を命中させることか。しかし難易度が高すぎる。あまりにも「言うは易し」だ。
だが別にブラドに勝たなくてもいい、逃げきれれば勝ちではある……が……いやいや、逃げ切れる気がしない。
なんて。
ジェーンが考えていた瞬間だった。
ブラドの駆るロボットの腕より、激しい光線が放たれて――ヨロズの上半身が完全に焼却されて――
――10秒戻す。
『それ』が来る瞬間、少年の腕を引っ張って回避する。
「ッわ!?」
ばんっ、と落雷のような音。光線は直線上にあった車両に命中し、激しく炎上させる。ジェーンに腕を引っ張られて崩した体勢から元に戻りつつ、ヨロズはジェーンに助けられたことを知る。
「……なるほど。これが巻き戻しの力!」
次いで機体から無数に放たれるのは細いアンカー突きのワイヤーだ。ジェーンにもヨロズにも迫る、おそらく当たれば感電する――ジェーンは数度の『試行錯誤』の末、二人ともに当たらない方向へと転がり逃げた。
だが、逃げた先には機体の拳。マニピュレーターを保護する手甲には青白い電気が奔っていた。かすりでもすれば感電して終わりのそれを、再び『回避に成功するまで』かわし続ける。
「っッ――…… はぁっ、はあ」
飛びのいて、ジェーンは自分の鼻から血が流れていることに気付いた。力を短時間で使いすぎたのだ。頭が重い。
「ジェーン、君……!」
「平気っ、大丈夫!」
ヨロズの心配に、手の甲で血を拭って毅然と答える。……なんとか隙を見つけて反撃に転じたいが、……無理だ。戦闘に素人の少女が見抜けるほど間抜けな隙をブラドが晒すはずもなく、そして攻撃はあまりにも連続的で淀みなく。
「素晴らしい! 戦いの訓練など受けていない君が……ここまでかわし続けられるとは……これが、世界的な反乱を可能にしたミュータントの異能……素晴らしい……」
「どうも!」
ブラドの陶然とした物言いに、やけっぱちでジェーンは答えた。
しかしながら。このままではジリ貧だ。というか既にまずい。ブラドからすればまだ1分も経過していない。ブラドからすれば、今の『1分未満』はほんの小手調べにすぎない。
……勝ち目がない。
このままだと負ける。
(どうする――)
ジェーンは考える。
そして――思い出す。
――『彼』は10秒以上の時間を巻き戻すことができたと言います。
ジェーンの移植元になったミュータントの異能。
世界に大混乱を巻き起こした超常。
……自分にも、同じ力があるのなら。
やるしかない、今。
懸けるしかない、今からやることに。
「ヨロズ」
ジェーンは少年の手を握る。
「お願い、手を握ってて」
「――うん」
ぐっ、とあたたかい力が少女の手を握り返した。
そのあたたかさは、不安が這い寄る少女の心に力と希望を与えてくれる。
(……幸せになりたい)
それは、とてもとてもシンプルな願い。
(私だけじゃない、ヨロズだって幸せにいて欲しい)
誰かの為に何かをしたい。そんなシンプルな動機で――心はどこまでも強くなれる。
ジェーンは目を閉じた。握った手のぬくもりに意識を集中させる。
(大丈夫。できる。きっとうまくいく。――いいえ。ここでどうにかしないと、もう先はない! だから今! やるの!!)
そうして。
世界は逆行し始める。