●6:ホームスイートホーム


 駅から降りたその町は、古の情緒を残す、自然と調和した観光都市だった。
 古い建物や石畳が特徴的なその町には、かつて城砦が存在しており、ここいらは城下町だったとか。……そしてその城主の子孫が、ジェーンの生家であるパナケイア家である。

「……ついたねえ」
「ついたっすねぇ」
 追手の影はなく、拍子抜けするほど平穏にジェーンとヨロズは到着した。長い旅路ではあった――だが、まだ実感がついてきていない。目的地はまだまだ遠いところにあるような気がする。
 しかし、とうとう、到着したのだ。尤も本当の目的地である『ジェーンの家』までは、もう少しだけあるのだが。
「ねえヨロズ、これ」
 古風で洒落た駅から出ながら、ジェーンがヨロズへ差し出したのは――サングラスだった。ローダンといた町から逃げ出して以来、ずっとサングラスがないままだったから。
「……これどこで?」
「座席でずーっと置きっぱなしになってた。誰かの忘れ物」
「いいんすかねこれ……」
「いいんすよ。忘れ物コーナーに半年ぐらい押し込められて廃棄処分されるよりはさ。ほらしゃがんでしゃがんで」
 手招いて、しゃがんでもらって――安物の黒いサングラス。ジェーンは脱走したあの日、古着屋で着替えをした時のことを思い出した。なんだか随分と昔のことのように感じる。
「似合うじゃん」
「へへ」
 褒められるとヨロズは少しはにかんだ。

 さて、時刻はちょうど昼時で。
「おなかすいたね」とジェーンが言うので、ヨロズが「そこでご飯食べてくすか?」とレトロな喫茶店を指さした。
 からかろ。いい雰囲気のドアベルが鳴って、二人は店に入る。『レトロ情緒の喫茶店』と言われて頭に思い浮かぶまさにそれの内装だ。
「いらっしゃいませ」と店員に席へ案内される。席はそれなりに埋まっていた。注文はナポリタンで。来るのは思ったよりも早かった。これまた『喫茶店のナポリタン』と言われて頭に思い浮かぶまさにそれだ。
「うん、おいし」
 大きめのフォークでジェーンはお行儀よくできたてのナポリタンを食べる。ケチャップとウスターソースの味。見た目からの想像通りな味わいだが、それがいっそ期待と希望を満たしてくれる。そうそうこれこれ、こういうのでいいんだよ、の喜び。
「おいしいっすねえ」
 正面に座るヨロズはジェーンに相槌をうちつつ――切り出そうかどうか考えるのは、「君のおうちについて、それから、どうしようか?」という言葉。

 ――ジェーンがパナケイア家に受け入れられて、ミュータント以前の時のように暮らそうとなったのなら、それが一番のハッピーエンドだ。だがヨロズは? パナケイア家とは無縁のミュータントまで上がり込むわけにはゆくまい。それにジェーンの家族にとってヨロズは――フェイスイーターは、愛する娘を殺傷せんとした最悪の犯罪者だ。幾ら脳浄化済みとはいえ、家族が笑顔で迎え入れてくれるはずがなかろう。となれば施設に帰ることになるんだろうが、ジェーンはそれを拒みそうだ。そこのところをどうするのだろう、とヨロズは心配している。彼としては、別に施設に帰ることもやぶさかではなかった。ジェーンが望む結末になるのなら、自分はどうなったってよかった。その中に家族による復讐があったとしても。
 ……異なる可能性として、ジェーンがパナケイア家から拒絶された場合はどうするんだろうか? 世間的には死亡と公表され、検体として施設に差し出されているぐらいなのだ。もし拒絶されたなら、今までのように施設の追手から逃げ続けるのか、諦めて施設に戻るのか。違法なミュータントであることが変わらない以上、またローダンを頼って彼に迷惑をかけることはできない。同様に、誰ぞ人間に縋ってその者に『違法ミュータントを匿った』という罪を負わせるわけにもいかない。……じゃあ生きていく為の資金をどうするか? こんな立場では仕事もロクにはできない、ジェーンは幼すぎてそもそも就労が不可能だ。

(あんまり……先のことばっかり考えると、楽しい気分じゃなくなってくる……)
 多分、ジェーンも、何も考えていないわけではないだろう。ジェーンは見た目以上に大人びている子だ。きっと同じことを思って、同じように切り出しあぐねているんだろう。ヨロズは溜息を噛み殺し、フォークに絡んだナポリタンを頬張った。ほぼ味のないミュータント用レーションと違って、味があって、深みがあって、食感があって、とっても、美味しかった。
「あの……すいません」
 そんな時だった。隣のテーブル席から控えめな声。二人が顔を上げればそこに、ハイティーンぐらいの身なりのいい少女がいた。彼女は顔を上げたジェーンを見て――信じられないといった様子で、こう言った。
「もしかして、プラネちゃん……?」
「……!」
 ジェーンは驚き、思わずフォークを落としそうになった。見知らぬ少女は声を震わせた。あり得ぬものに遭遇した狼狽が、そこにあった。
「どうしてあの時のままの姿で……ていうか、なんで生きて……」
 あの事件から5年の月日が流れている。ジェーンはコールドスリープによって見た目の年齢が5年前のままだが……周囲の人間は5年分、歳を重ねている。更にジェーンは世間的には死亡が公表されているという。
 ここは赤裸々に語らない方が混乱を生まないだろう。そう判断して、ジェーンはニコリと無邪気に微笑んだ――テーブルの下では、ヨロズの足をつっついて黙っているよう指示しつつ。
「プラネって誰? おねえさんのお友達?」
「あっ……ごめんね、……そうだよね、プラネちゃんがいるわけが……」
 ちょっと安心した様子をみせた。そのはずだろう、オバケにでも遭遇したのかという驚きに包まれていたのだから。
「急に話しかけてごめんなさい、昔の知り合いにそっくりで……」
「ううん、気にしないで。……ねえ、プラネちゃんって、どんな子?」
「え? ええと……私が小学生の時のクラスメイトでね。親友ってほどじゃなかったんだけど、たまに一緒に遊んだりして……」
「そうなんだ。それと~……もう一ついいかな。パナケイア家のおうちってどこ? 宿題でこの辺のこと調べててさ!」
「それなら――」
 彼女は手帳の一ページに簡単な地図を書き込むと、それを千切ってジェーンに渡してくれた。「どうもありがとう」と受け取ったジェーンは、懐っこい笑みは崩さないまま――
「……プラネって子のこと、おねえさんはどう思ってた?」
「んっと……すっごく優等生で、運動神経もよくて頭も良くて何でもできて、大人びてて……ほんと、パナケイア家の子って感じで……すごすぎてちょっと近寄りにくかったかも、あはは……」
 悪い子ではなかったんだよ、と念を押して。そこから『顛末』を語ることはなかった。流石に、幼い少女に「あなたそっくりの子が暴漢に襲われて死にかけて」とありのままを伝えるのは憚られたのだろう。
「そうなんだぁ。お話ししてくれてありがとう」
 ジェーンが微笑みかけ、「いえいえ」と少女が答え……その辺で会話は途切れ、それぞれが食事に戻っていった。
(……前の俺が酷いことをしなければ、ジェーンは今頃これぐらいの女の子に……)
 サングラスの黒で隠れた目線を隣席の少女へ。ジェーンは「ヨロズとフェイスイーターは別人」と言ってくれたが、それでも、罪悪感を一切感じなくなったわけではない。改めて人の人生を奪うという罪の重さを思い知る。フォークでベーコンの厚い肉を突き刺した。

 ●

「ヨロズが後ろめたく思うことないよ」
 プラネの級友だった少女の地図を頼りに、二人は町を進む。観光客が多い。修学旅行生と思しき学生達もいる。喧騒の大通りの中、ジェーンが言った。あの喫茶店での出来事の話だ。彼が『あの事件』を意識しているだろうことは明白だった。
「……、」
 でも、を飲み込む。無言の少年が頷く。
「ヨロズは何も悪いことしてないんだから――ほら、行こ」
 書いてもらった地図を頼りに、ジェーンは歩きはじめる。ヨロズもそれについて行く。

 歩いて――それからバスに揺られ――

 この道を――この景色を――覚えている――ジェーンは脳が疼くのを感じた。
 街路樹の葉々にちらつき垣間見える風景、そして級友の言葉――
 ――少し、記憶が、戻ってくる。

 名前はプラネ・パナケイア。歳は12歳。
 母親はプラネ出産時に他界。写真でしか知らない存在。
 父親は医療器具メーカーの『えらいひと』。忙しい身で屋敷にはほとんどいない。
 プラネ自身も習い事や稽古をたくさんしていた記憶があるので、家族が家族らしく家で顔を向け合う時間はほとんどなかった、そんな記憶がある。父親よりも、使用人の方が馴染みのある存在だった。
 現時点で、あまり我が家での楽しい思い出というのは存在していない。それでも我が家への郷愁があるのは不思議なものだ。あるいは……帰ってもいい、居てもいい、そんな安心できる理想的な場所を漠然と求めているんだろうか?

 ――そんなことを、立派な門を前にジェーンは思った。
 そこは町を一望できる静かな場所、緑の中に建つ、古めかしくも荘厳な屋敷。隅々まで整えられた庭には薔薇の花が咲いている。品の良さと美しさを感じさせる趣には成金臭さなど皆無で、パナケイア家がまことにやんごとない存在であることを示していた。
「……、」
 沈黙、ヨロズがちらとジェーンを窺い見る。最終確認の眼差しに、少女は黙ったまま頷いた――呼び鈴を鳴らす。
『はい?』
 答えたのは使用人だ。少女は深呼吸の後、呼び鈴のカメラを真っ直ぐ見つめて言い放った。
「プラネ・パナケイアです。帰ってきました」
『え―― あの、少々……お待ちを』
 明らかな狼狽。それもそうだろう。ジェーンは自分よりも緊張して不安そうなヨロズに「大丈夫」と微笑みかけ――彼のお陰で緊張が紛れた――相手の出方を、じっと待った。

 かくして。

「――プラネ……?」
 門より息を弾ませて現れ出てたのは、一人の女。一見して若いが、よくよく見れば40代ぐらいの気配がある。洒落た服装といい、美貌に手を抜いていないといった趣だ。
 その女は、プラネの母親ではない。だがジェーンの記憶には存在する人物だった。
(パパとたまに会ってたひと……)
 友人、と呼ぶには些かウェットな。子供心にもそれを感じていた。父の伴侶、つまりプラネの母親は、プラネ出産時に他界しており……そんな父の心の隙間を埋めるように、彼女はたまに屋敷に父と共に現れていたこともあり――そんな彼女の名前は、確か――
「マデレーネ、さん……」
「プラネ……あなた、どうしてここに……」
 目にも顔にも明らかな動揺。瞳が震えるように揺れている。喫茶店で出会った『同級生』よりも大きな狼狽だった。
 どうして。そう聞かれ、ジェーンはどう答えたものかと目を彷徨わせた。嘘を吐くつもりも誤魔化すつもりもなく、正直に話すべきなことは分かっているのだが、いかんせん、情報量が多い上に荒唐無稽だ。となればイチから話すべきなのだが……どこからが『イチ』に該当するんだろうか?
「あ――えと――……なんていうか……、」
 そういうわけなので、その葛藤をそのまま話した。マデレーネはどうしたものかと眉間を揉む。
 と、その時だ。
「ママ~このこだぁれ~?」
 舌足らずで幼い声音。小さな幼女がマデレーネの足に縋りついている。
「っ……ママはこのひと達と大事なお話があるから、あっちで遊んでてね」
「はぁ~い」
 母親の言葉に、娘は素直な笑顔でそう言って、庭へと幼児らしいアンバランスさで駆けて行った。マデレーネは母親の笑みからスッと表情を戻し、ジェーン達へ振り返る。
「……話は中で。こちらへ」
 そう案内されて――ジェーンは「お邪魔します」と言うべきなのか悩んだ。ここは我が家なのだから、帰ってきたのだから、「お邪魔します」はなんだか違う気がしたのだ。その横で、ヨロズが「お邪魔します!」とハキハキ言っていた。緊張し続けているジェーンにとって、ヨロズの変わらぬ声音が唯一の安心できる要素だった。

 ●

 案内されたのは瀟洒な応接室。年季の入ったそれらは、しかし古臭さは一切感じず、全てが『高貴』に帰結する。
 その風景も、そしてにおいも。ジェーンには覚えがあった。頭の中がざわざわして、記憶が一つずつ、彼女の脳に戻ってくる。
「あなた、本当に……プラネなの?」
 正面の椅子に腰かけたマデレーネが、怪訝な目でそう問うた。ジェーンは小さく息を整えてから、彼女を見返す。
「うん。疑うなら、この家の金庫を開けてみせようか。家系図だって書けるし、パパの口座番号だって言える」
「……――、」
 そっくりさんが真似をしている、ようにはとてもマデレーネには思えなかった。その眼差し、気迫というかオーラというか、雰囲気――それらが「目の前の少女は確かにプラネ・パナケイアだ」とマデレーネに告げている。
 沈黙して視線を揺らした彼女に対し、ジェーンは少し部屋を見回し、耳を澄ませ……
「ねえ、パパは――バンユ・パナケイア卿は? 今は、お仕事に行ってる、のかな、……」
「死んだわ」
「え?」
 笑顔を強張らせ、ジェーンはマデレーネを見つめた。彼女は額を指先で押さえ、重く溜息を吐く。
「あなたを喪って……呆然自失の状態だったのね……支えになろうと努力はしたんだけど……雨の日の夜に、庭で足を滑らせて、それで……」
 彼を支えきれなくてごめんなさい、とマデレーネは目元を潤ませる。その左手の薬指には、銀色の指輪が輝いている。
「……、」
 束の間の沈黙。隣のヨロズがおろおろしているのを片手の軽い動作で制して、ジェーンは己の心を冷静と平静で無理矢理に武装しながら尋ねた。今は、父の死を悲しんで泣きわめいていいシーンではないのだから。
「マデレーネさん。私が『5年前の事件』に巻き込まれてから、何があったか聞いていい?」
 彼女にそう乞われ、マデレーネは――重々しく、ジェーンにとっての『空白の期間』を語り始めた。

 ――プラネは殺人鬼フェイスイーターに襲撃され、一命は取り留めたものの脳に深刻なダメージを負い、重い昏睡状態に陥った。
「貴族の御令嬢が酷い目に遭った」、そのことで悦ぶ連中がこの世にいるのは悲しいが事実だ。「ざまあみろ」「俺達の苦労を思い知れ」「今まで楽ばっかしてきたんだから」――そんな民衆の、そしてマスコミの玩具にされないよう、パナケイア家は各メディアに金を握らせて情報統制をする。
 プラネが目覚めることは絶望的だった。奇跡的に目覚めても障害を負っているだろうし、眼球も完全に損傷しており、顔面もズタズタで……。
 しかし、プラネの父、バンユ・パナケイアの会社は最先端の医療機器メーカーだった。ミュータントという人体実験材料を得た人類は医療分野でも躍進の中にあり――バンユの会社は、来たるべき宇宙開発に向けてコールドスリープ装置を開発している只中であった。
 父は、半ば賭けるように試作品を用いて、娘にコールドスリープ処置を施した。せめて、せめて、昏睡したまま肉体だけ大人になるなんて悲しいことだけは食い止めたかったのだ。

 それから少し経って……前妻を喪っていたバンユは、兼ねてよりマデレーネと――マデレーネは、バンユ行きつけのパブのコンパニオンをしていた――交際していたのだが、マデレーネの妊娠を期に再婚。
 しかし――バンユは先ほどマデレーネが話した通り、事故でこの世を去ることとなった。

「……なんで私、罪人じゃないのにミュータントになったの?」
 ジェーンは感情をきつく抑制したまま問う――ここまでの話では、なぜジェーンがミュータント施設に検体として送られたのかはわからない。世間的には死亡と公表されたことも。
「バンユさんのご意思よ。あなたをミュータントにしようと決めたのは」
「それって、どういう……」
 腿の上で拳を固く握り込む。聞きたくない答えが迫っている予感がして、それでも、もう、逃げ道はなかった。マデレーネは残念そうにこう言った。
「……生前にね、バンユさんが話していたの。あなたをミュータントの検体として提出しようって。……さっき言った通り『試作品』だったコールドスリープ装置が、長くはもたなくて……このまま緩やかに朽ちていくのなら、高貴なるパナケイア家らしく、ミュータントの検体として世のため人のため科学の発展のために尽くすべきだ、って」
 ミュータントになるということは、人権を失い人間ではなくなる。よって、書類上は人間として死亡した扱いになるのだとマデレーネは説明した。
「そッ、」
 ここでずっと沈黙していたヨロズが、黙り込んで俯いたジェーンの代わりに思わず立ち上がる。困惑と、悲しみと、そして怒りを込めて――全ての悲劇の原因がかつての自分だったからこそ、素知らぬ顔で黙ってはいられなかった。
「それッ、て、ジェーンのこと、……!」
「ヨロズ」
 ジェーンは彼の袖を弱々しく引いて、「それ以上は言わないで」、を態度で示した。そうすれば少年は、少し言葉を詰まらせてから、やむなく着席する。
 彼が何を言おうとしていたのか、聞かなくても分かる。「それって、ジェーンのことを要らないから捨てたってことすか?」「世のため人のためとか言って、邪魔者扱いすか? あんまりじゃないすか!」――おおよそこんな内容だろう。そして、それはジェーンも、言いたくて堪らない言葉だった。だから感情と言葉を抑制した自分の代わりに怒って声を上げようとしてくれた少年に、ジェーンは小さく感謝を抱いた。そして、マデレーネとの会話を続ける。
「……顔の傷は。ミュータント化処置の中で修復されたの?」
「ええ……欠損部位の修復処置は、ミュータントの細胞でしか行えないの」
 だからローダンは隻眼隻腕のままであり、プラネは顔や目玉や脳の傷が修復されたのだろう。ジェーンはそう理解をした。
 束の間の沈黙の後、今度はマデレーネが質問を。
「あなたどうして記憶が……ミュータントは脳浄化が施されるって聞いたけれど」
「脳浄化されてないみたい。なんでかは知らない」
「……今まで施設にいたの?」
「うん、脱走してきた」
「脱走!?」
 驚くマデレーネに、ジェーンはこれまでの旅のことを――期間としては短いのに、途方もなく長く感じる出来事を――全て、包み隠さず話した。

 ……甘く。淡く。期待していた。
「そう、つらかったでしょう。これからはここにいていいからね」「施設の方には私が連絡するわ、もう逃げなくてもいいのよ」、そんな風に、受け入れてもらえると。
 だって、ミュータントに人権はなくて、命だって首輪で握られて、そんなのおかしいとジェーンは思っていたからだ。自分はパナケイア家の正当な後継者で、当主の娘で、ここは自分の家なのだから、ここにいてもいいと信じていた。

「はぁ……」
 蠱惑的な赤い唇が返したのは、溜息。
「ごめんなさいね、本当はこんなこと言いたくはないのだけれど。……世間的には死んだ人間が、昔の姿のままでうろつかれたら……困るの。わかる? それに……脱走してきたって、あなたそれ違法じゃない。匿った私達に罪が及べば、この家は、バンユさんの会社はどうなるの?」

 迷惑だ。

 ――マデレーネは、そう言っている。
「……、」
 また何か言おうとしたヨロズに対して首を横に振り、ジェーンは。
「分かった。……だけど、……お願いだから、……一日だけ、居させて下さい。そうしたら出て行くから……全部忘れて、二度と近付かないから……」
「お、俺からもお願いします! 俺は別に屋敷に入れてもらえなくていいんで、ジェーン――プラネさんだけは、どうか……!」
 そう頼み込まれ、マデレーネは少し眉根を寄せた。束の間の逡巡の後、渋々と言う。
「……分かりました。ただし敷地内から出ないように」
「ありがとう、……ございます」
 案内は要らない、とジェーンは立ち上がった。客室の場所は知っている。「行こうヨロズ」と煮え切らない表情の彼を伴い、少女は『見知った』実家を歩きはじめた。

 ――懐かしい我が家。しかし知っている使用人は皆いなくなっていた。屋敷内の調度品も、幾つか変わっているものもあった。
 ジェーンだけが、5年前に置いてけぼりにされている。

「……ジェーン、なんていうか……」
 隣を歩くヨロズが、不安げに、心配げに、なにか励まそうと言葉を探している。『元凶』の自覚があるゆえに下手な言葉をかけられなくて迷っている。
「ヨロズのことは怒ったりしてないよ。言ったじゃん、あなたと『アイツ』は違うって」
「うう……その……俺にできることがあったら何でも言うっすよ」
「うん、ありがとう。私は……、私は大丈夫だから。ね?」
 顔を上げて、笑ってみせる。心は泣き叫びたいけれど。泣き叫んだって、今を変えることはできないから、そんなことをするだけ無意味だ。
「ジェーン……」
「……あはは。プラネって呼ばれるより、もうすっかり『ジェーン』って呼ばれる方がしっくりくるようになっちゃったや」
 そう言って、わざとっぽく笑って。「あ」――と気付いたのは、
「この部屋……昔、私の部屋だったところ」
 一つの扉の前で立ち止まり、ジェーンはしみじみとその扉を上から下まで眺め回した。やはり、懐かしさがどっと込み上げる。覚えている――思い出す。たくさんの本があった。パナケイア家の息女として賢くなりたくて、父親に本をたくさんねだったから。背伸びをして難しい本をたくさん読んだ。難しい本を読んでいると、自分が賢くてすごい存在になっている気がして。
 ……今、自分の部屋はどうなっているんだろう。そんな疑問が湧いたジェーンは、ドアノブにそっと手を伸ばした――きっとマデレーネはこの行為を快く思わないだろうが――ちょっと、見るだけ、覗くだけだから。そう心の中で言い訳をして、少女は久々に『自分の場所』へ帰還した。
 そこは。
 マデレーネの娘の部屋になっていた。
 玩具で散らかり、本は本棚ごと全てなくなっていて。
 そして壁は――大事にしていたジェーンの部屋は――あの小さな幼女が、鼻歌を歌いながら、クレヨンでぐちゃぐちゃと落書きをしていた。
「あう?」
 幼児がドアの音で振り返る。ジェーンはすぐさまドアを閉め、廊下を走りだしていた。
「ジェーンっ――」
 ヨロズが慌てて追ってくる。ジェーンは無言のまま、手の甲で目元を拭った。自分の居場所が、大事にしていたものが、自分の存在が、全て踏みにじられたような気がして、泣き叫びたくなるのを、ジェーンは唇をきつくきつく噛んで耐えた。

 ●

 客室のベッドに飛び込んで、シーツを被って、ジェーンはずっと、そこにいた。
 ……少女は全てを、思い出していた。いっそ忘れたままの方が楽だったのに、残酷なほど、人生の全ての記憶を、思い出してしまった。

 ――強い子であろうと思っていた。
 ――賢い子であろうと思っていた。

 パパはいつも忙しそうで。
 医療器具の会社のえらい人で。
 家にはあまり帰ってこないけれど、世のため人のため、仕事を通じてたくさんの人間を救っている、『プラネ』にとっては英雄で。
 パナケイア家はいわゆるエリートだ。医者とか社長とか高官とか学者とか……そういう人間をたくさん輩出している名家で、パパもそんな一人で。
 だから――「私もそうならないといけない」、とプラネが思うのは、ごく自然なことで、当主の娘としての責務だった。
 だって、ただでさえママはもういないのだ、パパに迷惑や心配をかけるわけにはいかない。自分がダメだったら、パナケイア家を継ぐ者がいなくなってしまう。劣ってしまえば、多くの先祖に顔向けできない。お家の恥だ。

 ――強い子に。賢い子に。

 子供時代だからと甘えるなんて愚の骨頂。人生における競争は既に始まっている。
 クラスメイトが遊んでいる間に、プラネはたくさん勉強をした。勉強だけじゃない、ピアノにバレエに外国語にスポーツ、習い事もたくさんした。そしてたくさんの本を読んで教養も身に着けたし、多くの新聞も読んで世間の流れにも注視した。
 だからこそプラネは、ジェーンは、年齢の割にとても大人びており、飛びぬけて聡明だった。それは、子供らしい可愛げが皆無とも呼べた。
 しかし……得てして衆愚は努力を敬遠する。プラネは同年代で酷く浮いていた。だがそれで構わなかった。プラネには、やらなければならないことがあった。慣れ合っている暇などなかった。

 ――もっと強く。もっと賢く。

 だって私は、ママを殺してしまったから。
 私がちゃんと産まれてきてたら、難産じゃなかったら、パパから最愛の人を奪わずに済んだのに。ママの人生を奪わずに済んだのに。
 ママ、死にたくなかったろうに。
 ママ、生きたかったろうに。

 パパがずっと忙しそうで、私に時間を割いてくれないのは……
 私よりも、たまに見かけるマデレーネさんと楽しそうにしているのは……
 きっと私が邪魔なんだ。
 私のことが嫌いなんだ。
 私のことが憎いんだ。

 ――だからもっと強く、もっと賢く。

 せめてパパに迷惑をかけないように。
 頑張ったらいつか振り向いてもらえるかもしれないから。
 がんばったね、いいこだね、って褒めてもらえるかもしれないから。

 ごめんねママ。ごめんねパパ。
 いいこになるから、どうか、だから、お願い。
 赦して。
 私は生まれてきてもよかったんだよって、言って。
 だって私、このままだと私。
 要らない子で、邪魔者で、居なくなった方が良くて、居ない方が良くて、生きていない方がいいってことで。
 努力も全て、無駄だった。あんなに一生懸命、身を削って、必死になったのが、バカみたい。

 ああ――
 こんなことならいっそ。
 あの時、フェイスイーターに殺されていたら。
 こんな苦しい思いをせずに済んだのか。

 ●

 ジェーンはずっと、ベッドに潜りこんだまま起きてこない。
 ヨロズは椅子に座ったまま、その姿を見守っていた――声をかけても生返事しか返って来ず、一瞬で彼女を幸福にできる魔法の言葉が思いつくこともなく、ただ、ヨロズには傍にいることだけしかできない。

 ――そのまま日が暮れて夜になった。
 食事を出されるなどのもてなしは一切なかった。ヨロズは別にミュータントゆえ3日間ぐらい水だけでも活動できるが、ジェーンはそうとも限らない。
 ……せめて水だけでももらえないだろうか。電気もついていない真っ暗な部屋、ヨロズはベッドのジェーンを見る。
「ジェーン?」
「……」
 やはり返事はない。ベッドとシーツの白と白の隙間、彼女の揺蕩う波のような髪だけがはみだして、実存を証明している。
「あの……お水もらってくるっす。大丈夫そうならなにかつまめるものも……」
「……」
「すぐ戻るっすから、ね、行ってきます」
 置いていったりしないことを繰り返し、ヨロズは椅子から立ち上がる。何度もベッドの方を振り返りながら、部屋から出た。
 廊下は真っ暗だ。ヨロズはきょろきょろ見回しながら、とりあえずと歩き出した。屋敷の構造は分からないが、まあどうにかなるだろう。
 ここがジェーン――プラネの生まれ育った場所なのかと思いながら、少年は一人、歩く。こんな立派な家で、彼女はどんな風に暮らしていたんだろうか。何一つ不自由のない、庶民が思い描く大富豪の生活? だが、マデレーネの話を聞いた限り、ジェーンの家族の仲が良好だったとはあまり想像はできなくて。
 富める者には富める者の苦悩があったりするんだろうか。及ばないながらもヨロズは考察していた。そんな中で、プラネは何を思い、どんなふうに、ここで生きていたのだろう。

 ……そんな考え事をしながら、屋敷の中をさまよってしばし。

「――でしょ、ちょっと――」
 声が聞こえた。マデレーネの声だ。ちょうど傍のドアからで……「ちょうどよかった」とヨロズは思った。水をもらえないかとお伺いできれば――と思ったのだが、どうやらマデレーネは電話中のようで、しかも苛立っているようだった。
 盗み聞きのつもりはなかったのだが、どうしたんだろう、とヨロズは扉越しの会話に耳を澄ませてしまう。
「さっさと殺して頂戴。できないなら一刻も早く連れ帰って二度と外に出させないで。うちがおたくにどれだけ援助しているかおわかり? おたくがミュータントを作る手術の器具の何パーセントがうちの製品だと思ってるの?」
 その言葉だけで、ヨロズは理解する。――電話の向こうはミュータント施設の者だ。マデレーネは彼らに通報し、自分達を引き渡そうとしている。
 このまま走って引き返して、ジェーンを連れて逃げる手もあった。しかし。
「――あんまりじゃないすか」
 扉を開け、ヨロズはその女に低く声を放っていた。ビクリと肩を跳ねさせたマデレーネは「とにかく急ぎなさい今すぐに!」と怒鳴って慌てて電話を切る。
「盗み聞きだなんて……根性まで穢れ腐った犯罪者ですこと」
「ジェーンは……ここはジェーンのおうちなんすよ、それをあなた……施設に通報まで……彼女、とっても傷ついてるんすよ!」
「ジェーン? プラネのこと? はぁ……本当なら門を潜らせたくもなかったのよ。というかなんであの子に記憶があるの……脳浄化されるはずじゃなかったの?」
「それは知らないっすけど……とにかく! あなた最低っすよ! どれだけジェーンを傷つければ気が済むんすか、あの子がそんなに悪いことをしたんすか!? あの子がどんな思いでここまで来たか――」
「はぁ……よそ者の、それも人権もないミュータントがやかましいのよ」
 腕を組み、顔をしかめ、マデレーネはヨロズをねめつけた。
「犯罪者と同じ空気なんて吸いたくもないの。あなた何したの? 殺人? 強盗? 放火? 強姦? 白状なさいな」
「……、」
 ミュータントは、人間に嘘はつけない。ヨロズは一瞬、唇を震わせ、こう呟く。
「俺、は、……ジェーンを殺そうとしました」
「え―― ええ? まさかあんた……フェイスイーター!?」
 流石のマデレーネも仰天する。目を見開き、苦々しくしているヨロズをまじまじと見た。
 目の前の少年が世紀の殺人鬼と判明し――ヨロズはてっきり、マデレーネが怯えるかと思った。だが。
「……あっははは! なんて因果!」
 女は喉を反らせて大笑いして、そして、傍らの机に置いてあったワイングラスを片手に含み笑う。
「そお。そ~~~~お。うふふ。あなたには感謝してるわ。だって全部あなたのおかげだもの、変態気違い殺人鬼さん?」
「どっ……どういうことすか」
 思いもよらないリアクションにヨロズは困惑する。マデレーネはテーブルの上にあった煙草を取り、マッチで火を点けて、声を弾ませた。
「邪魔なプラネがいなくなったのも、バンユさんの心が弱って私に縋るようになったのも……最終的に私がパナケイア家の全権利全部財産とバンユさんの遺産をもらえたのも、全部あなたのおかげだもの! ありがとう! 全部あなたのおかげ、全部あなたのせいよ!」
 アハハハハハハハハ。紫煙を吐く、上機嫌な高い笑い声。踊る煙が、笑い声と共に部屋の空気に染みていく。
 ヨロズは、殺人鬼だった少年は、俯いて自分の震える心音を聞くしかない。自分とグリムはもう違うとどれだけ言い聞かせても、それでも、事実は消えない。変わらない。過去の罪はどこまでも、ヨロズの背中を追いかけて、足に絡みついて、背にのしかかってくる。
「……そ、んなこと、俺に話していいんすか? 皆に言いふらされたらあなた、困るんじゃないすか?」
 震える声でどうにか返した。マデレーネは嘲笑した。
「誰が犯罪者のミュータントの言うことなんか信用するの? コネでもある? 信用を勝ち取るためのお金は? 権力は? ていうか人権は? ないでしょ? ないじゃん。じゃあ無理じゃん。あなたには何もない何もできない、だからこそ言ったんじゃないの、馬鹿じゃないの? 仮に盗聴器があるとか、ドアの向こうに警察が張ってるとか、そうだとしても、権力とコネと金の前には無駄なの。知ってる? 正義ってお金で買えるんだから」
 マデレーネは細い指で挟んだ煙草をヨロズに突きつけ――そのまま彼の頬に押し付けた。ミュータントは抵抗できない。じうう、と肉の焼ける音、嫌なにおい。ヨロズは痛みを感じない。だから顔をしかめたりもしない。
「うわ! ほんとにミュータントって痛みを感じないんだ。バケモノね! あははははっ――」
 じうううう。そのまま煙草は曲がって崩れるぐらい押し付けられた。煙草はそのままヨロズのジャケットの胸のポケットへ捨てられる。灰皿のように使われるミュータントという『道具』に、マデレーネは笑いつつ、月を映した窓辺にもたれた。
「ほんっと、無力って嫌よねえ。権力も財力もないのって嫌よねえ。大嫌い――」
 言葉終わりだった。
 ひゅ、と何かがマデレーネの顔の横を通り過ぎた。「ぱんっ」という何かが砕ける高い音がして、女は、呆然とする。
 彼女の目の前には、拳を振り抜いたヨロズが立っていた。彼の拳が、マデレーネの後ろの窓ガラスを粉砕していた。
 ふー。ふー。ミュータントの口唇から、抑圧された感情が荒い吐息となって漏れ出でる。凍り付くマデレーネの目の前で、ヨロズは、ガラスで切れた腕を引っ込める――割れそこなったガラスの破片をへし折り掴み取りながら。
「ちょっと――待って―― え?」
 ミュータントは人間に暴力は振るえないはず。マデレーネは狼狽する。彼女の目の前、サングラスで目の表情が読めない男が、ガラスの欠片をナイフのように振り上げる。握りしめた透明の刃で掌と指が切れて、血が出て、透明に赤色が、蜘蛛の巣のようにじわじわと伝って広がった。
「ひっ いぃイいいいッ!!」
 目の前にいるのは恐ろしい殺人鬼。マデレーネの精神は恐怖で決壊し、パニックになって逃げ始める。
 ヨロズの目がそれを追う。その足が、女を追いかける。
 ――ミュータントは人間に暴力は振るえない。人間『には』。だからヨロズは窓を殴っただけ。ガラスを振り被って早歩きで追いかけているだけ。人間に危害は加えていない。暴力を振るうつもりもない。だが、心にぐわっと湧き上がるドス黒い炎のような感情はある。
「あああああ! 助けてっ! 誰か助けてええええ!」
 暗い廊下を女が逃げる。逃げ惑う。
 異様に放出されるアドレナリンでヨロズは視界の端を黒く染めながらそれを追う。はあ、はあ、と己の吐息がやけに聞こえる。ガラスを握りしめすぎて、血が次から次へと流れて、かつてのプラネの居場所を点々と汚していく。

 ……B級スラッシャー映画のようなチェイスは、思いのほかすぐ終わった。
 マデレーネがもつれて転んだのだ。そのまま腰を抜かして、涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした顔で、無様に後ずさる。ガタガタ震えて、ヨロズを見上げる。
「いやあああああああ! 死にたくない! 死にたくない! 殺さないでえええええええ!」
 その叫びの目の前で立ち止まり、ヨロズは女を見下ろす。二呼吸ほど間を置いて――握ったガラスと血はそのままに――できるだけ感情は抑えてこう尋ねた。
「あなたもしかして……ジェーンの、プラネのお父さんを殺しました? 『権力と財力』の為に」
「っ!」
 恐慌状態でなければ、マデレーネはいくらでも取り繕えただろう。だがこの状態で核心に迫られ、彼女は明らかに動揺した。そしてその動揺は、何よりも雄弁な肯定でもあった。

 ――マデレーネはバンユ・パナケイアを、プラネの父を殺した。
 雨の日の夜、酒を飲ませて酔わせた彼を庭に誘い出し、そして……突き飛ばした。
 目撃者はいない。警察は事件性はないと判断している。
 全ては金と権力の為。よりよい人生の為。彼に近付いたのも、彼の子を孕んだのも。
 それはこの先、永遠に裁かれることはない邪悪な罪。

 ぐしゃり。

 マデレーネの目の前で、ヨロズがガラスを握り潰す。
 血と硝子がボタボタ落ちる。赤色と、透明の煌めきと。
 掌にガラス片が突き刺さったまま、ヨロズは罪人を見澄ました。

「……俺は忘れないからな……おまえの罪を永遠に忘れないからな……!」

 マデレーネを法律で裁くことはできない。だからせめて。少年は記憶する。彼女の罪をなかったことにしない。忘却に葬らせない。それがせめてもの、一矢の報いだとしても。
「――」
 恐怖のあまり、マデレーネは失神した。青い顔でぐったりと動かなくなる。
 ヨロズは一呼吸の後、目を逸らすように踵を返した――掌に刺さったガラスを反対の手で引っこ抜いていく。痛みはなく、傷も直ちに修復されていく。
 その時だった。廊下に少女が飛び出してくる。息を弾ませたジェーンだ。マデレーネの悲鳴で飛び起きたのである。
「どっ どうしたの!? 何があったの?」
 ヨロズを見つけ、急いで駆け寄り――その後ろの方に倒れているマデレーネを発見し、ジェーンは狼狽した。しかも血やガラスが落ちているではないか。ますます狼狽してしまう。
「ちょっと。ビックリさせちゃったみたいで。俺、窓ガラス割っちゃったから……」
「……、」
 開いて閉じたヨロズの掌は、もう無傷だ。そこからジェーンはそれ以上の真意を探れなくて、黙り込むしかない。それでもおずおず、彼に呟いた。
「ヨロズ、手に血が……」
「治ってるっすよ、大丈夫。……もう行こう、これ以上ここにいるのはよくないっす」
 それはどうして? ――ジェーンはその言葉を言えなかった。ただ、マデレーネに外傷がないことから、ヨロズが彼女に暴力をふるったのではないことについては安心した。息をしているようなので、死んでいないことにも安心した。
「ジェーン」
 プラネ、とは呼ばない。ヨロズにとって、目の前の少女は「ジェーン」だから。血のついていない方の手を差し出す。
「君のことは俺が護るから。大丈夫、大丈夫」
「ヨロズ……、」
 ジェーンはマデレーネをちらと見た。
 ――幼心に、マデレーネが父ではなく彼の財産と権力を見ていたことは分かっていた。なぜ父はあんな女に、と常々思っていた。失望していた。
 だから――もしかして、と思っている。父は事故死ではなく、マデレーネに殺されたのではないか、と。だが10秒しか時を戻せないジェーンに当時のことを知る術はなく、プロの探偵でもないので証拠を集めることもできず。ましてや、マデレーネに面と向かって罪を問うことなどもできず。
 そう。だから、マデレーネのことは好きではなかった。寧ろ嫌いだった。憎しみすら抱いていた。だがしかし、目の前に転がっている情けない失神顔と……異臭を放つ惨めな失禁とを見ていると、八つ当たりの気も起きなくて。
 そっと、ジェーンはヨロズの手を取った。大きな手が、小さな手を包み握った。
「きっとこれからは、いいこといっぱいあるっすよ」
「……そうかなぁ……そうだと、いいな……」
 二人は歩き出す。
 ヨロズはジェーンに、マデレーネが殺人犯らしいことは言えなかった。知らない方が幸せでいられるだろうから。真実を暴いたところで死者は蘇ったりしないから。真実がいつも正しくて優しいとは限らないから。なにより、彼女の心の平穏を優先したかったから。
 歩いて行く。黙ったまま、夜の中。宛てはない。目的地もない。それでも出て行かねばならなかった。
 一歩の度に、途方もない悲しさと切なさが、ジェーンの胸に込み上げる。それは涙という形になって、少女の菫色の瞳から溢れてこぼれて落ちていく。
 ヨロズを殺そうとしてしまった時、もう一生分は泣いたと思ったのに。もうこれ以上は泣くまいと思っていたのに。泣いたって過去も今も未来も変わらないのに。
「う――ぅ――あぁ――」
 泣いてはならないと律するほどに不甲斐なさは込み上げる。おまえは弱いと嗤われているような気になってくる。静かにしゃくりあげる少女の手を、少年の手が、ただ優しく握り直していた。

 ――屋敷から出て、庭を歩いて、門を出て。
 広い道路を二人きり。
 これからどうしよう、なんて言葉はお互い言うことはできなかった。

 その時である。

 スポットライトのような激しい光が、二人を上からカッと照らした。
 眩さに思わず顔の前に手をやりつつ――驚いて見上げる二人の、視線の先。
 巨大なロボットが一機、二人の前に重々しく着陸する。

「お迎えに来ましたよ、二人とも」

 ハッチが開き、中から現れたのは――白い覆面で顔を隠した真っ白スーツの男。治安維持用ミュータントのトップを務めるミュータント、ブラドである。
「……!」
 ヨロズはすぐさまジェーンを庇うように前へ。しかしこの巨大な鋼鉄のロボット相手に、よもや戦いを挑んで勝てるビジョンは見えなかった。
「な、なっ、ロボットなんてっ」
「私ぐらいにしか扱えませんからね、見るのは初めてでしょうとも」
 ブラドの指先に、バチリと電気が一瞬爆ぜた。

 ――この世界にエネルギー問題というモノは存在していない。
 発電能力のあるミュータントの発見、その解析、人工的な量産により、人類は環境に悪影響を及ぼさない・尽きる心配や国際問題の発生しない『生きた電池』を入手したのだ。
 各地の発電所には発電能力のあるミュータント達が繋がれ、今日も人類を照らしている。
 ブラドもそんな発電ミュータントの一人だ。だが彼の場合、その異能は戦闘用としてカスタマイズされている。その一つがこのロボットだ。彼の膨大な電力で操作する、彼専用のパワードスーツである。

「さて、手荒な真似はしたくないのですが」
 柔和な声。だがしかし、やるとなったら彼は容赦をしないだろう。
 ヨロズは考える。自分はどれだけ足止めをできるだろうか。ジェーンを護りきれるだろうか。
 しかし――
「分かった」
 ジェーンがスッと前に出る。驚くヨロズを手で制し、彼女はブラドを見上げた。
「もう抵抗しない。……逃げたり、しない」
「ジェーン、でも……」
「私達、もうどこにも、行く場所なんてないよ」
 俯いて、呟いて、そして、顔を上げて、振り返って、笑った。
「それに。ここで私が嫌だって言ったら、ヨロズ、あれと戦うつもりでしょ。……私、もうこれ以上、あなたがケガするところ見たくないよ。いくら痛みを感じなくても、ケガがすぐに治っても、私が10秒巻き戻してなかったことにしても……」
「ジェーン……」
 少女は少年の手を取って、こう言った。
「ね。だからもう、おしまいにしよう」

 ――もう、歩き続けるのが、少し疲れた。
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