●5:ゴー・ホーム・なう
『――それで、また逃げられてしまったのですね?』
夜明けを迎えた都市。雨上がりの世界を日の出がキラキラ照らしている――アイジスの居る電話ボックスのガラスの雫のひとつひとつを、宝石のようにまたたかせている。
しかしその輝きに閉じ込められた乙女は、真っ暗な顔で受話器を握りしめていた。
「はい……申し訳ございません、ブラド様……」
電話の先にいるのは治安維持用ミュータントのリーダー、アイジスの上司であるミュータント、ブラドだ。
『……』
その沈黙は実時間にすれば一瞬だったのだが、アイジスには血の気が遠くなるほど長く長く感じた。その無間の間にアイジスはありとあらゆる最悪を想像してしまい、動悸で息ができなくなりそうだった。
『そうですか……残念です』
かくして、ブラドは小さく溜息のようにそう言った。
「あッ、う、」
そのたった一言に、アイジスは捨てられた子犬のような気持ちになる。勝手に相手の表情や心情を先回りして考えすぎて、喉が絞まった。
(失望された、失望された、失望された、嫌われた)
視界がぐにゃぐにゃになる。このままだと自分は役立たずで、要らない子で、そうしたら……処分される。首輪が爆発する。いかに再生力のあるミュータントでも、頭部が瞬時に爆砕しては死んでしまう。
「がッ……がんばります、がんばります、がんばりますからッ!」
『君なら大丈夫ですよ、朗報を待っています。――では』
「あっ――」
ブラドの予定が詰まっているので電話が切れたのか、言葉とは裏腹に既にアイジスへ失望しているからさっさと切ってしまったのか、アイジスには分からない。だから不安が勝手に後者を肯定しはじめる。
(早くアイツらを捕まえなきゃ)
震える手で受話器を戻した。そうして――ローダンに接触する前に彼の身元を簡単に調べておいたことをハッと思い出す。同じようにあの二人について調べれば、何か役立つ情報が得られるかもしれない。今までは興味のないただの捕縛対象としか映っていなかったゆえにジェーン達のバックボーンに関心などなかったし、「どうでもいい連中の情報に脳のリソースを割きたくない」なんてプライドからくる驕りがあったのだが、今は四の五の言っていられる状況ではなかった。
急ぎ、アイジスは『本部』へと電話をかける。ミュータントに関する情報は全て記録されており、ミュータントながら彼女は特別な立場ゆえにそれらにアクセスすることが許されていた。
●
バスに乗って駅へ、そして夜行列車で夜通しの移動。
そうして朝、ジェーンとヨロズが到着したのは港町。大きな工場が立ち並び、コンテナ船が行き来する、経済発展と好景気の象徴だ。
しかし二人は景色に感心している状態ではなかった。座席で浅い眠りを繰り返したとはいえ、不安せいでくたびれていた。なによりずっと濡れたままだったから――ヨロズは平気だが、ジェーンは少し体調がすぐれない様子だった。
このまま移動してはジェーンの負担になるだろう。ゆっくり、心身共に休む時間が必要だ。ヨロズはそう判断して、まだ少し眠そうなジェーンの手を引き駅を出る。
「ジェーン、どっか宿でゆっくり休むっすよ」
「でも……」
「顔色があんまよくないっす。もしかしたらちょっと熱があるかも……アイジスと遭遇した場所からうんと離れられたから、そうそう追いつけっこないっすよ!」
前の時のような、車での移動距離とはワケが違うのだ。「大丈夫っすから」とヨロズは優しく言う。
「うん……、正直に言うとちょっと寒気がする、かも。少し……休んでこっか」
「大変ッ……休むっす! 休むっすよ! ほら! おんぶするっす!」
「え~……」
ちょっと恥ずかしいよ、なんて呟くも、少年は既にしゃがんで「ホラ!」とてこでも動かなさそうだ。ジェーンは苦笑し、そして、彼の背中に身を預けることにした。
(あったかい……)
ジェーンを背負った少年が歩く振動、ぬくもりと息遣い。居場所のない少女の束の間の安息地。安心感がどっと込み上げて、少女は気付けば目を閉じていた。
――そうして次に目が覚めた時、ジェーンはベッドに横たわっていた。
(う……これ絶対、熱出てる……)
体がだるくて、寒くて頭が痛い。ジェーンは顔をしかめた。やっちまった、という思いが強い。自分が原因で足止めを喰らうなんて――それに、ヨロズにも心配や迷惑をかけてしまう。彼は世話焼きだから。
「ヨロズ……?」
いる? と上体をどうにか起こして見回した――どうやらホテルの一室らしい。静かで、ここにいるのはジェーンだけのようだ。ベッド傍のサイドテーブルにはボトル入りの水と、「買い出しに行ってきます」というヨロズの書置きがあった。
溜息を吐く。今ジェーンにできることは、一秒でも早く回復に努めることだけだった。水を少しだけ飲んでから、ベッドに横たわり直す。
そういえば服。ホテルの備え付けのパジャマに着替えさせられていた。ヨロズがやってくれたのだろう……と思うと恥ずかしくてグッとなる。だが雨に濡れて生乾きの服を発熱した者が着ているワケにもいかないのだ。ヨロズの行動は正しい。それに彼とは、異性を意識するような間柄ではなく、一蓮托生の……しいて何かに当てはめるのなら兄妹のような、姉弟のような、そんな感じだ。だから恥じらう必要はない、と『極めて合理的に』ジェーンは結論付けた。
目を閉じる。
暗い。静か。ひとり。……孤独だ。
だけど少し懐かしい。昔からずっと『こう』だった気がする。
ひとりで、静かで、寂しくて。
「……」
じく、じく、毒が回るように不安がやってきて、掛け布団を抱き寄せる。記憶にあるあの家でも、自分は独りだったんだろうか? あの家に、自分の居場所はあるんだろうか?
ああ。ナーバスな気持ちになってしまうのは、きっと、体調が悪いからだ。きつく閉じた目蓋の、長い睫毛が震えた。
(ヨロズ……早く帰ってきて……)
そんなヨロズはというと――
ドラッグストアでゼリー飲料とズポーツ飲料と解熱薬とを購入していた。
(やっぱりジェーンは特別製なのかなぁ……)
ミュータントは基本的に体調を崩さない。レジで商品の合計金額が計算されていくのをボンヤリ眺めながら、ヨロズは物思う。
(何の為に造られたミュータントなんだろう? 他にあんな変わった力を持つ子なんて、少なくとも施設にはいなかったし……)
10秒、時間を巻き戻す力。危険な場所での作業のお供とか、だろうか? 万が一の事故が起きてもどうにかなるし。
(うーん……考えれば考えるほど不思議な子だ……)
「お客様?」
「え? あ! ハイお幾らですか」
上の空でお金を出すのを忘れていた。危ない危ない。無事に商品を購入する。あとはジェーンのもとへ急いで帰ろう。店から出る。
ミュータントの清掃員が几帳面に掃除をする町は、ゴミ一つ落ちていないし、ガムの吐き跡も、スプレーの落書きもない。街路樹などの草木も綺麗に整えられている。そこは美しくて清潔な町。少しの汚れも存在しない場所。ただ、空気と海はインダストリアルに汚れていた。
少年は速足で歩いて行く。彼は気付いていない。道行く人々の目に。その目に宿った不安、不穏、嫌悪感、敵意と害意に。
「どうしてアイツが……」
雑踏に紛れた呟きは、少年の耳には届かない。
(ジェーンの風邪、早く治るといいな……)
彼は友人の容態に想いを馳せ、「これで少しでも元気になるといいな」、とドラッグストアのビニール袋をちらと見ていた。
そうしてヨロズは駅の傍のビジネスホテルへ。4階へはエレベーターで。鍵を開ける。
「ただいま――」
もしジェーンが寝ていたら悪いので小声で、足音を立てなようにしつつ室内を見た。ベッドには小さな体が丸くなっている。長い豊かな髪が流れている。寝てるかな、と思ったら、ころんと寝返りを打つ少女がヨロズの方を見た。
「……おかえり」
「具合はどっすか?」
「最悪……」
「あ~……お薬とかゼリーとか買ってきたっすから、がんばって飲んで」
ガサガサとビニールの音を立てて、買ってきたものをサイドテーブルの上に置いていく。「ありがとう」とジェーンはそれを頂くことにした。
「……あのさぁ」
上体を起こしてゼリー飲料をちうと吸いながら、少女はヨロズを上目に見る。
「ローダンさん、大丈夫かな」
ぽつりとこぼした。不安な思いが連れてくる、あの親切な隣人のことが気になる。ヨロズからの話によるとアイジスに立ち向かったというが……。
「ミュータントは人間に対して暴力を行使できないんすよ、大丈夫大丈夫。それにローダンさんは元お巡りさんで……ミュータントの乱でがんばったひとだから、そう簡単に『粛清』されないだろうし」
ジェーンのベッドサイドに腰を下ろし、ヨロズは元気づけるようにそう言った。ジェーンは甘いゼリーを飲みこみ、客室内の電話に焦点を合わせた。
「できるなら電話したいけど、これ以上関わるのは……ローダンさんを危なくしちゃうよね……」
「……そっすねぇ。俺達の居場所も特定されちゃうかもだし」
「大丈夫だよね、きっと……」
「大丈夫っすよ、きっと」
何の根拠もないのに、言葉は安心を連れてくる。――少しだけ落ち着いた。栄養補給と水分補給と薬剤摂取を終えて、ジェーンはベッドに寝転がる。
「テレビつけて」
「え?」
今から寝るんじゃ……といった意図の聞き返しに対し、少女は薄く笑った。
「静かじゃない方がいいの」
「……了解っす」
なら、とヨロズはリモコンを取り、テレビをつけた。ジェーンが『ばーちゃん』と見ていたあの刑事ドラマだ――「明日も来るよ」という約束を破ってしまった罪悪感が込み上げて、「チャンネル変えて」と少女は言う。そうすればチャンネルが変わって、どこかの楽団がどこかのホールでクラシックを演奏している番組になった。
「お。ちょうど睡眠導入によさげっすね」
「ふふ。ほんとだ」
バイオリンの高らかで淑やかな弦の震え。流れるような優しい音色の曲線美。ジェーンは目を細める。
「あのさ、ヨロズ……」
「はい?」
「……5分でいいから、ここにいて」
ベッドサイドに座っている彼の袖を小さく引いた。照れくささから言葉を濁しているが、一緒に寝て欲しいという幼い甘え方だった。寂しさと不安の反動だった。
「うん」
意図を汲んだ少年は、その隣に寝そべってやる。ぽす、と少女の小さい体がくっついてきたので、横臥になった彼は柔らかな髪の後頭部を優しく撫でてあげることにした。
「ごめんね……いつも迷惑かけて……ヨロズはいつも私に何かしてくれるのに……私はあなたに何もできてない……」
少年の胸に額を埋めて、少女は弱々しく呟く。詫びたって彼は「君は悪くない」と言うことが分かっているのに……だからこそ、そんな自分にジェーンは嫌悪感を抱いた。「君は悪くない」という言葉欲しさの独善である気がして。
「君は――」
案の定だ。彼がそれを言いかけるので、ジェーンは先んじる。
「言わないで」
「……うん」
予想通りの言葉を封じれば、少年は言葉を切って、少女の弱さと強がりを受け入れてくれる。
「よしよし。大丈夫っすよ。……いつも君は賢く強くいようってがんばってるから、たまには弱ったりしてもいいんすよ。君がどんな子でも、俺は傍にいるっす」
ヨロズの言葉と、自分ではない誰かの体温、それが傍にあるだけで、ジェーンはひどく落ち着いた。「ここに居てもいいんだ」「弱っても大丈夫なんだ」、そんな安心に泣きそうになる。同時に、誰かにずっとこうして安心させて欲しかった気がした。ずっと居場所が欲しかった。弱くても大丈夫だと受け入れてもらえる場所が。強くなくても大丈夫な場所が。
「っ……」
下唇を噛んで涙をこらえて、ジェーンは少年にしがみついた。そうするとジェーンより大きな彼の手が、小さな背中を優しく抱き返してくれた。
――テレビの中で、楽団が演奏を終える。
スタンディングオベーション。鳴りやまない拍手が、薄暗い部屋で抱き締め合う子供達を包んでいた。
(……、寝たかな?)
テレビはクラシックから料理番組に変わっていた。ヨロズは自分の胸に顔を埋めて眠っている少女の、静かな寝息に耳を澄ませる。
ほどなく、ちょっと暑くなったのか、少女が仰向けに寝返りを打った。瞼を閉じた少女の、眠れる顔。そっと、起こさないよう、指先を伸ばして、まろい頬に触れた。少年の指先が、この上なく柔らかい肌にかすかに沈む。触れた場所から感じるのは薔薇色のぬくもり。そうして眺める――幼い軟骨の鼻、小さな唇、穏やかな吐息、力の抜けた眉、眼球を覆うほんのり膨らんだ目蓋、淡い栗色の長い睫毛、白い額に微かにかかった細い髪。顔。顔――……綺麗な顔をしていると思う。性愛とか異性愛的な意味ではなく、芸術作品に対して感じるような造形美として、ヨロズはそう思う。
『人間の魂に顔はない』――どこかで聞いたことがあるような気がする。誰が言っていたことだったか。ならば目の前に顕現したこの造形美はなんだろう? 少年はじっと、じっと、少女の眠る顔を見つめ続けていた。
●
ジェーンの体調がマシになってきたのは2日後だった。
「もう大丈夫だから、そろそろ出発しよう」
彼女はしきりにそう繰り返すが、万全でない状態での長旅は体に堪えると、ヨロズは難色を示す。
そんなこんなでお互いの「でも」「だって」を交わし合った結果、「今日しっかり休んで、明日ジェーンの様子を見て、大丈夫そうなら行こう」ということになった。
――窓の外は昼下がりだった。夕飯の買い出しに行かんと、ヨロズはジェーンへ振り返る。
「何食べたい? 買ってくるっすよ」
「じゃあ……おうどん……」
「カップのやつ買ってきますね! 安静にしてるっすよ」
「ぼちぼち元気だから暇だし、寝すぎて寝れないし~~」
「あはは……テレビでも見てるといいっすよ」
「ん~……」
それじゃあ、とヨロズは笑顔で手を振って部屋から出て行った。
何をして過ごそうか。ジェーンは退屈そうにベッドに寝転がった。
つつがなく、この2日間がそうであったように、ヨロズは近場のスーパーで買い出しをしてホテルへの道を行く。そろそろこの町の、というかホテル周辺の立地も覚えてきた。近道も把握してきた。
まだ昼時ゆえにシャッターの並ぶ飲み屋街の道に入る。ひとけはない。夜になったら、港で働いている者達でたいそう賑わうのだろう。数多の看板からヨロズはそんなことに想いを馳せて――
車の音が聞こえたから、ふっと振り返った。
そこには物凄い速さで突っ込んでくる車が、
「あ」
――再生能力のあるミュータントは、大抵のことでは死なない。
だが窒息したり、激しい衝撃を加えられ脳が揺れれば意識が飛ぶことはある。
ヨロズはまさに後者の状況だった。
「――! ――!」
声が聞こえる。大声、怒鳴り声。
頬に食い込むアスファルトの凹凸で、ヨロズは自分がうつ伏せに倒れていることを知った。間近に見えるアスファルトは、黒く濡れててらてらしていた。
(あれ……うわ……これ、ぜんぶ俺の血か……)
アスファルトを濡らしているモノの正体に気付く。うつ伏せに倒れている少年を、複数の人間が取り囲み、踏みつけ、蹴り、罵り、バットで殴りつけていた。
車で撥ねられ、殴られ蹴られ、折れた四肢や裂けた肌から血が流れ続けている――ヨロズは痛みを感じないから、そんな状況になっていることに気付くのに少し時間がかかった。
(あ……アイジスじゃないんだ……よかった……)
そんな状況でも、襲撃が追手によるものではないと分かったら安心してしまう。ジェーンのもとに戻らねば、独りは不安だろうから、そう思って立ち上がろうとした顔面を蹴り飛ばされて、少年は仰向けに転がされた。空が綺麗に晴れていた。昼下がりの、少し傾きつつある陽光が黄金色の。白い建物と白い雲がうっすらと輝いて。
だがその世界の色彩は、額に振り下ろされたバットが、割れた額から溢れた血が、どろどろの汚い赤色に染めてしまった。
「なんでこの町に戻ってきたんだ! 今度は誰を殺す気だ!」
「帰れ! 出ていけ! 気違いめ!」
「人殺し! 人殺し! 死ね!」
傷ついては治る最中でヨロズが聞いたのは、そんな怒鳴り声。痛みで怯むことがないが、なげかけられている罵声に少年は驚いて目線を巡らせる。
そうして理解するのは。
なぜこんなことをされているのか――その理由。
ああ、きっとこれは、自分が忘れた罪のせい。
だけど何をしたのか思い出せない。
人殺しと言われているから、殺人? 誰かを殺してしまったんだろうか? 誰を? 何人? どんな風に? どうして? 彼らは被害者の関係者なんだろうか?
思い出せない。
何も思い出せない。
頑張っても頑張っても、何も思い出せない。
何も、何も、分からない。
ただ「自分はとても悪いことをしてしまったんだ」という罪悪感だけが屍のようにそこにある。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ヨロズは謝罪を繰り返す。記憶にない罪を必死に詫びる。『よいこ』になる前、この人達に迷惑をかけてしまったから。自分は罪を犯した最悪の犯罪者だから。罰せられるべきだから。悪いから。
「ごめんなさい――」
罪も分からないまま謝罪するなんて、なんて空っぽな行為なんだろう。罪悪感だけはこんなにあるのに……。
せめて、痛みを感じることができたなら、罰を感じることができたのだろうか。踏みつけられた指の骨が折れるの理解しながら、悲鳴はなく、少年は「ごめんなさい」と言った。
少年は「ごめんなさいごめんなさい」と謝り続けて――
そうして気付けば誰も居なくなっていた。ミュータントに暴力をふるうことは罪ではない為、ヨロズを襲撃した者らは法律上は悪ではない。だから逃げた訳ではない。同時に、ヨロズが赦されたからなどでも決してなくて、ただ、人々が立ち去っただけの話。少年の「ごめんなさい」は誰にも、どこにも、届きやしない。何度繰り返しても、赦されることは決してない。
「う……」
血を吸って黒ずんだアスファルトから『罪人』は身を起こした。片鼻を押さえて鼻血の塊を吹き捨て、折れた指を真っ直ぐに戻し、目の周りの血を拭った。傷は全て塞がっていたが、服はボロボロになっていたし、血と足跡で汚れていた。
「――……、」
手を閉じて、開く。それを見つめる。
脳浄化前に犯した罪について人間から責められることは、別にミュータントにとってはレアケースではない。「しょうがないことなんだ」「当たり前のことなんだ」「みんな苦しんでるんだ、俺が特別じゃないんだ」、とヨロズは脳浄化によって植えられた倫理観でそう思う。あの人間達を恨んではいない。恨むことはできない。
(早く……ジェーンのところに戻ろう……)
立ち上がり、遠くに転がっていたカップのインスタントうどんを拾い上げ、無事を確認すると、安心の溜息を血濡れた唇で吐いて、笑って――再び歩きはじめた。
血だらけのまま戻っては怯えられてしまうかもしれないから。
公衆便所の手洗い場で顔を洗って、服も上だけ脱いでシャツを水で洗った。
少し汚い鏡で、他にも血がついていないか確かめる。多分……これで大丈夫だろう。
車に撥ねられてジェーン用のごはんが台無しになっては悪いから、車の通りにくい道を通ろう。ヨロズはそう考えてまた歩きだす。ちなみにここ数日の彼の食事は、ミュータント用の粘土のような完全栄養食レーションだけで済ませていた。ジェーンはこれを口にすることを嫌がるし、ヨロズにも人間的なものを食べて欲しがるが、いかんせん安いのと手軽なのでヨロズはその手段をとっていた。
そうして無事にホテルに到着する。血を洗い流したのでフロントの者に怪しまれたり通報されることはなかった。サングラスをしていなくてよかった、とヨロズは今更ながら思う。もししていたら、さっきの制裁で割られていただろうから。
エレベーターで4階へ。ジェーンがうどんを食べて「おいしい!」とほっぺを膨らませて笑う顔が早く見たい。退屈だ退屈だとゴネる顔が見たい。安全な場所へ帰りたい。
そうやってドアの前まで辿り着く。
「ジェーン、ただいまー……」
ドアを開ける――寝ているところを起こしたら悪いから、いつものように小声と共に――少女はベッドにおらず、ヨロズの方を向いて立って、俯いており――顔を上げた少女は――少年を憎悪の顔で睨み付けると、手にしていたナイフを振り上げて――
(ああ、それでも俺は何も思い出せない)
誰に、何に、どれだけ、詫びて、幾つ罰を負って、幾つ制裁されれば、この謝罪は、届くのか。
●
時を遡る。
ヨロズの帰りを、ベッドに寝そべりぼんやりテレビを眺めながら待っていたジェーンは……
おもむろにベッドから下りるとテレビを消して窓の傍へ、そして開き、距離を取った。
かくして直後、窓を蹴り破ろうと――したものの、ガラスがなくて空振りの蹴りだけをする脚が。
「あれ!? チッ、時戻しか……」
アイジスだった。10秒巻き戻しで彼女の襲来を『既に知っていた』ジェーンは、挨拶代わりに予め窓を開けておいたのである。
「……ここ4階だけど?」
部屋に軽々と降り立った追手に対し、ジェーンはドアの方へじりじり下がりながら問いかける。ジェーンは戦いはからきしだ。再生能力もなければ、痛覚も普通に存在する。殴り合いに持ち込まれたらどうにもならない。
「私は優秀なミュータントなので」
ジェーンの言葉に対し、スーツを整えアイジスはお高くとまって答える。
「答えになってないし……。ていうかあなたに能力のこと話したっけ?」
「調べたので。本来、ミュータントがミュータントの『前世』に関する情報にアクセスすることは禁じられていますが……私は特別なので」
「へ~……もしかして『教えてやるから投降しろ』とか言われたりする?」
「そういう手を使ってもいいですが」
アイジスはくつりと笑い、一人掛けのソファに優雅に座った。すらりとした脚を組む。その余裕から、情報という武器をどう使うのか、アイジスの中には作戦が既にあるようだ。そしてそれに自信を持っている。
(気に食わないな……ていうか多分、ヨロズが出かけたのを見計らって来たなコイツ……、いやそもそも、どうやってここを突き止めたんだ)
その疑問を抱いたジェーンは、目の前の乙女にこうなげかける。
「なんていうかさ、来るの早かったじゃん。前は一週間ぐらいかかったのに」
「通報がありましたから」
「――通報?」
「ええ。善意の市民の皆様からの、通報」
にまり、白服の乙女が赤い口角をつった。
「凶悪犯フェイスイーターが帰ってきた、助けてくれ ――と」
フェイスイーター。
その言葉を、ジェーンは知らない。少女は眉根を寄せた。
「誰それ……」
「少女ばかりを狙った連続殺人犯です。酷いんですよ、殴る蹴るをして暴行を加えた末、その顔を食い散らかすんです。狂ってますよね」
「それは……なんていうかヤバイね。で、そのフェイスイーターと私達に何の関係が?」
「『彼』のことはご存知のはずですよ? だってあなたといつも一緒にいるじゃないですか」
ヨロズのことだ。確認しなくても分かった。ジェーンは小さく息を吐く。
「ミュータントなんだから、脳浄化される前は犯罪者だったんでしょ、別にサプライズでもなんでもないんだけど」
それにヨロズはヨロズだ、脳浄化される前の犯罪者と肉体こそ同一であるが、その中身はもう違う。ジェーンはそう思っている。だからヨロズがどんな卑劣外道な大悪人であろうと彼を嫌いになったりは――
「彼の被害者の一人なんですよ、あなた。5年前……壮絶な暴行の末、顔面を食い荒らされています。一命は取り留めたものの、脳に深刻なダメージを負ったあなたは二度と目覚めない体にされて――検体としてミュータント施設に送られた。世間的には死亡と公表されて、ね」
「……は?」
「『プラネ』さん。あなた、何一つ『わるいこ』じゃなかったんですよう。あなたは何も悪くない、ただ普通に生きていた普通の女の子だったのに……あの男が、フェイスイーターが、グリムという名の少年が、あなたから全て全てを奪ったんです。時間も人生も幸せも人権も――」
「――……」
ずきり、と頭が痛んだ。
記憶が。
脳の裏から染み出して、濁流のように――
――思い出してしまう。
「一緒に遊ぶ?」
それは一人で遊んでいたあの時だった。
後ろから声をかけられて、振り返れば、膝に手を突いて視線を下げてこっちを見ている少年がいた。野暮ったい黒髪、長めの前髪で隠れた目元、何の特徴もない服装、少し気の弱そうな小市民Aといった雰囲気の……
しかしいきなり声をかけられて、しかも男、警戒しか少女は感じなくて。
「いや、いい……」
後ずさろうとしたその時だった。目の前が真っ赤になって――
――殴られている、と理解したのは、数秒後に意識が浮上した時だった。少年は少女の顔を殴りつけ、倒れたその体に馬乗りになって、殴り続けていた。
怖い。
痛い。
どうして?
助けを呼ぼうとした。声が出ない。呻くことしかできない。唇と顎と胸とお腹が滅茶苦茶に痛い。
逃げようとした。男女の筋力差、それも幼い少女と二次性徴後の少年では逆転など不可能だった。そもそも全身が痛くて力が入らなかった。
怖い!
怖い!!
殺される!
死にたくない!
少女の心は恐怖で満たされ、パニックに陥った。
しかし次の瞬間、髪を掴まれ、頭を持ち上げられたかと思った瞬間――「ガン」、という衝撃が後頭部に走って、そうして、また意識が途切れて、
もう意識があるのかそうじゃないのかよく分からなくなって、
一つ確かなのが、ぐちゃ、ぐぢゃ、顔の皮膚が肉が千切れて、削げて、なくなっていく感覚で、噛みつかれて食いちぎられていて、
(う、そ、私 食べられ 食べられてる ……)
恐怖。恐怖。恐怖。ただただ恐怖で、他にはもう、何も分からなくなった。
思い出してしまう。
思い出してしまう――あの時の恐怖を!
殺されかけた時のことを!
顔を食われた時のことを!
「……あ あぁ、あ……」
叫ぶこともできなくて――あの時のように――ジェーンはへたり込んでいた。視界が、血の気が引いて、端が黒ずむ、立ち上がれない、息ができない。怖い! 怖い! 怖い!
「ああ ああぁ、ああぁあ……!」
頭を抱えてうずくまる。震えて、自分の顔を触って、食いちぎられていないか確かめて、喉をひゅうひゅう鳴らして、瞳孔が震える目玉から涙をとめどなく溢れさせた。
ヨロズの目。そうだ。そういえば。アイツの前髪から覗いたあの目は。同じだった。同じ顔をしていた。あの男だった。少女を嬲り、食い、殺そうとしてきた最悪のバケモノは。
そんな男と――ずっと一緒に――抱き締めてもらって撫でられて? 世話を焼かれて? 手を握られて? 微笑みかけられて?
きもちわるい。
「うッ!」
吐き気が込み上げ、口を押え、しかしそれも虚しく、嘔吐していた。酸っぱい胃液がぶちまけられる。鳥肌がたって、嫌悪感に狂いそうで、ジェーンは自分の腕を抱いてガタガタ震えた。
――そんな少女の目の前、嘔吐物で汚れた床の上に、折り畳みのナイフが投げよこされた。
顔を上げる。アイジスが――優しい笑顔で、しゃがみこんで、目線を合わせた。
「最悪ですよね。赦すことなんてできませんよね? ――復讐しちゃいましょうよ!」
「ふく しゅう……」
「そう! このナイフでフェイスイーターを殺すんです。どうせアイツの殺処分は決まっていますから。あなたが復讐できる最後の機会なんですよ。アイツを殺せたら、あなたを優しく保護して丁寧に施設へ護送しましょう。私からも口添えをして、あなたにひどい処分が下らないようかけあいます。あなたは罪人ではないよいこなんですから、ね? 当然の権利ですよ?」
そして、アイジスは白いスーツが吐瀉物で汚れるのも構わず、ジェーンを抱き締めた。ヨロズの――フェイスイーターの硬い男の体と違って、アイジスの体は柔らかくて、そして、いい香りがした。
「よしよし……怖い思いをしましたね。痛かったですよね。男なんて最悪ですよね。乱暴でわがままで……餌食にされるのはいつも私たち女の子。だからいいんです、復讐したって。女の子だって牙を剥いていいんです。大丈夫、できますよ、首を狙うんです。窒息したら再生力のあるミュータントだって気絶するんですから、まずは血で溺れさせて無力化させるんです。そうしたら目にナイフを深く刺し込んで、掻き回して、脳味噌を破壊してください。それで再生力のあるミュータントは殺せます。あなたはきっと、できますよ。プラネちゃん」
そうしてアイジスは体を離した。「日が沈んだら迎えに来ます」、微笑んで、ジェーンの――プラネの頭を優しく撫でて……窓からひらりと、いなくなる。
「……あ ぁ うぅう……」
独り、残された少女は、へたりこんだまま震えて泣き続けていた。
――そうしてどれだけ、時間が経っただろう。
一瞬のようにも永遠のようにも。
……足音が聞こえた。
少女は手の甲で口元を拭い、ナイフを拾い上げ、立ち上がる。
睨みつけた先で、ドアが開く。
二人は、巡り遭ってしまう。
●
「ジェーン、ただいまー……」
ドアを開ける――寝ているところを起こしたら悪いから、いつものように小声と共に――少女はベッドにおらず、ヨロズの方を向いて立って、俯いており――顔を上げた少女は――
ぽろぽろと、泣いていた。
「……え!? どうしたんすか!?」
ビックリ仰天して、駆け寄るヨロズはジェーンの目の前にしゃがみこむ。おろおろと肩に触れる。彼女の手のナイフに驚くも――それ以上に、床の上の吐瀉物を見つけてギョッとする。
「たっ 体調悪いんすか!? 大丈夫!?」
「違う……違うの……」
「落ち着いて……大丈夫、俺がいるっすよ」
「ごめん……ごめんなさい……ごめんね……私、わたし、は……」
震えて、泣いて、……10秒が、経った。
――10秒前の世界で。
ジェーンは帰って来たヨロズに――フェイスイーターに、ナイフを振り上げた。
刺すつもりだった。
だけど。
刺せなかった。
振り上げたままの手が震える。
どうして。
目の前の殺人鬼は驚き、そして、困ったように笑って、「殺していいよ」と言った。
「俺が全部悪かったんだ」。泣きそうに笑って、そう言った。
――10秒、巻き戻す。
また彼が帰ってくる。
今度こそ刺そうとナイフを振り上げて、やっぱり刺せなくて。
彼は泣きそうな笑顔でこう言った。
「ごめんね、生きててごめんね」
彼はジェーンの手からナイフを取ると自分の首へ、
――10秒、巻き戻す。
また彼が帰ってくる。
振り上げられなくなったナイフを、両手で持って、下に構えていた。
「そっか……俺のせいなんだね」
ごめんね、と彼はそこに佇んでいた。刺されることを、復讐を受け入れるつもりで。
――10秒、巻き戻す。
また彼が帰ってくる。
もう、彼を刺せない。
刺すことなんてできない。
ナイフを向けられた彼の悲しい顔が、このナイフよりも鋭く、ジェーンの心を抉った。
……10秒繰り返した中で気付いたことがある。
ヨロズの服がボロボロだ。そして上の服が濡れている。
アイジスの言葉を思い出した。「善意の市民の皆様からの、通報」――この町の人間は、ヨロズの正体を知っている。だからあの服は、おそらく町の人間から暴力を加えられたのだ。傷は治るが、服は治ったりしないから。きっと濡れたシャツには酷く血がついていた。脱いで洗えなかったズボンや靴に血の跡が残っていた。たくさん、傷を負ったのだ。たくさん、痛いことをされたのだ。
そんなボロボロになって。酷い目に遭って。でもジェーンの為に食べ物を買ってきて、なんてことない顔で戻ってきてくれて。きっと心配させまいと。服を洗ったのだって、ただ、心配させまいと。
……どうして、そんな彼を刺せようか。
もうこんなにも辛くて苦しい目に遭っているのに。
体は痛くなくっても、心はきっと痛いだろうに。
罪に対する罰を、脳浄化とミュータント化処理で、人権の剥奪で、そして市民からの暴力で、これ以上なく負わされているというのに。
ジェーンは彼の優しさを知っている。彼との思い出を覚えている。
支え合って。笑い合って。寄り添い合って。
そうして過ごした時間の、かけがえのなさは、きっと絆と呼べる宝物で。
彼は殺人鬼なんかじゃない。フェイスイーターなんかじゃない。彼はヨロズだ。優しいよいこだ。「ヨロズはヨロズだ、脳浄化される前の犯罪者と肉体こそ同一であるが、その中身はもう違う」――そう思っていたんじゃなかったのか。
もう、フェイスイーターは死んだのだ。脳浄化によって、人格も記憶も尊厳も人生も、何もかも消滅したのだ。
だからヨロズに罪はない。この子は何も、悪くない。
――「殺していいよ」
――「俺が全部悪かったんだ」
――「ごめんね、生きててごめんね」
――「そっか……俺のせいなんだね」
――「ごめんね」
そんな彼に。あんなことを言わせて。悲しい顔をさせて。覚えていない罪を贖わせようとして。
最悪だ。自分はなんて最悪な人間なんだろう。
何が復讐だ。もう復讐相手はいないのに。
八つ当たりじゃないか。恐怖の矛先を向け間違えて。
10秒巻き戻してなかったことになるわけがない。
それはなくならない罪。
ジェーンの罪。
「私……! あなたを殺そうとしたの……!」
ナイフを落として、少女は自白する。
「10秒……! 何度も繰り返して、何度も……殺そうとしたの……! あなたは何も悪くないのに……罪も全て『前世』ごと脳浄化されてるのに……あなたはあなたって思うことに決めてたのに……! あなたはこんなにも優しいのに……! それなのに私は……私は……!!」
涙があふれてくる。泣く資格なんてないのに、そんな抑制すら言うことを聞かないまま。
ヨロズは静かにその言葉を聞いていた。そして、力なく笑った。
「俺の昔のこと、知ったんすね」
「アイジスが、来て……それで、思い出した……」
「アイジスが……、怪我は?」
心配してくれる彼に、少女は目元を拭いながら、顔を横に振った。その言葉にヨロズはホッとしつつ、それから苦笑を浮かべて。
「この町、多分……俺の故郷だった場所みたいっす。俺、は……人を殺したみたいで……、ねえ、ジェーン、もしかして俺は……君に……、酷いことを?」
「っ……」
正直に言えようか。これ以上、彼を苦しめるなんてできない。
俯いて言い淀むジェーンの両肩に、少年は掌を置いた。
「お願い、教えてくれないか」
「だっ、……て、あなた、きっと苦しむ、悲しい顔をする」
「それでも……、せめて、君に何をしたかだけは、知っておきたい。きっと前の俺は君にごめんの一言も言ってない」
「ヨロズは何もしてないのに、どうして違う誰かの罪を謝らなきゃいけないの」
「……せめて……せめて誰か、一人でもいい、俺の謝る気持ちを、ちゃんと聞いて欲しいんだ……頼むよ、頼む……このままだと俺は……前に……進めない……」
「――ッ……」
ジェーンは口を開いて、そしてわななかせた。言おうとして、言えなくて、でも――……。
「ッい、ぅ……」
言わねば。前に進むんだ。過去の苦しいことを知って、それでも、二人で、乗り越える為に。
「わた、私を、殴って、殴った、いっぱい、怖かった、殺されるって、あたっ、頭を、地面にガンッて、本当に痛くて、動けなくて、助けてって言うこともっ、できなくって、わたし、私、それで、怖かった、顔が……顔を……食べてたの……顔の肉が……千切られてって……それで……痛くて……何も分からなくなって……私、その後、施設で、ミュータントに改造されちゃったの……」
あの時の感情を言語化していく。思い出したばかりの記憶が頭の中で暴れ回る。混乱する。混濁する。眩暈がする。背中に冷たい地面の温度を思い出す。フェイスイーターの血濡れた歯列を思い出す。違う。違う。ここは『あの場所』じゃない。目の前の彼はアイツじゃない。ここは過去じゃない。ここは今だ。遠い町のビジネスホテルの一室だ。
恐怖でいっぱいになりながらも……ジェーンは、そっと、顔を上げた。ヨロズの顔を、その目を見た。
少年は唇を引き結び、静かに静かに聴いていた。少女の言葉が終われば、ぐっと固く目を伏せる――
(痛いってどんな感覚だったんだろう。もう、思い出せない……)
目を開く。泣いている少女。さっきからずっと泣いている。その涙を指先で拭う権利も資格も、少年にはないのかもしれない。だからこそ、少年は自分の罪咎が成した結果を、その目に脳に魂に焼き付けるのだ。罪人が罪の証として焼き印を入れられるように。そして目を開き、告げる。一語一語に、ありったけの想いを込めて。
「怖い思いをさせて。痛い目に遭わせて。酷いことをして。君の人生を、人権も幸せも未来も夢も、ぜんぶぜんぶ奪ってしまって。本当に……ごめんなさい。全部俺のせいだ。俺がやったことは本当に最悪で最低なことだ。俺が悪いんだ。……ごめん。本当に、ごめんよ。謝って済む問題じゃないのは分かってる、赦されるとは思っていない、それでも……俺はそれでも……君に謝りたいんだ……記憶にないから知らないよって、無視することなんてできないんだよ……ごめんなさい、ごめんなさい……」
心臓がギュッと詰まるような絞まるような。息がしづらくなるような。勝手に手が震えて、表情筋が勝手に歪んで。……目を逸らしてうずくまってしまいたいのを、ヨロズは下唇をきつく噛んで耐えた。
「――」
少女は涙に濡れた瞳で、その言葉を全て聞いた。少年が唇を噛み締めすぎて、痛みを感じないから、血がつうっと伝うのが見えた。ジェーンにはそれが、彼が痛みを感じている何よりの証拠に見えた。まるで涙のようにも、見えた。
「……いっそ、覚えてないから分からない知らない、前の自分がやったことだから関係ない、そんなこと言われても困るって、否定したり逃げたり……開き直ってくれたら……そしたらさ、あなたのこと、100パーセント恨めたのにね」
濡れた顔で、不格好に笑った。ナイフを捨てた手で、少年の頬に触れる。ビクリと怯えるように震えた彼の、顎から唇にかけての赤い雫を、小さな親指でそっと拭った。
「フェイスイーターのことは赦さない。一生、絶対、恨んで憎んで赦さない。だけど……ヨロズのことは、……だってあなたは何も悪いことしてないでしょ。そもそも赦すも何もないじゃんか。だから、……ヨロズのことを怒ったり、嫌いになったりはしないから……私の方こそ、ごめんなさい。あなたは何も悪くないのに……ごめんね、つらいこと、いっぱい……」
「……本当に、嫌じゃない? 無理して、嘘言ったりしてない? あっ ごめん血が、汚いよ、触っちゃダメ――」
「汚くなんかないよ」
言葉を封じるように、ジェーンは言った。そうして寸の間の静寂。少し俯いた少女が、ポツリと言う。
「……ねえ、ヨロズ。まだ私と、一緒にいてくれる……?」
「うん」
「本当に?」
「ジェーンこそ、俺でいいの?」
「いいよ」
「じゃあ、いいすよ」
おずおずと、少年は笑った。だから少女も、いい加減に手でゴシゴシと目を拭いて、笑うのだ。
「ごめんね、ヨロズ。仲直りしよう」
「うん」
しゃがんでくれているヨロズに、ぽふり、ジェーンは両手でめいっぱい抱き着いた。小さな体を――ヨロズは両腕で、優しく柔らかく、抱き締め返す。
こうしていると、とてもとても、安心した。この世界にもまだ、自分に味方がいるのだと、ここは大丈夫な場所なんだと、ホッとした。
……最初こそ、ヨロズの中にはフェイスイーターの『獲物への執着』の成れ果てがあったけれども。
それは抱き締め合う体温に溶けて、霞んで、――フェイスイーターの痕跡は、吹き消される火のように、ヨロズの中から消えてなくなる。永遠に。
●
体と服を綺麗にして。
空っぽの胃袋を満たして。
改めて、ジェーンはアイジスとの間に何があったのかを話した。
「そっか、君の本当の名前はプラネっていうんすね」
さっきアイジスが座っていた一人掛けソファに座って、ヨロズは興味深げにジェーンを見た。彼女は感情がいろいろ噴出した反動で疲れて、ベッドに寝転がっている。
「プラネって呼んだ方がいいっすか?」
「うーん……しっくりこないし、今は未だジェーンのままでいいよ」
「俺の名前も――」
「ヨロズはヨロズ! グリムなんかじゃない!」
「うっす……」
勢いに気圧され、ヨロズはコクコク頷いた。ジェーンは小さく息を吐き、ベッドに寝そべり直す。
「……なんで私、ミュータントの検体になったんだろ」
誰がそれを決めた? 家族? もう目覚めることはないから、要らない、と思われたんだろうか。……世間的には死亡と公表されたらしい。死んで欲しかったんだろう、か。
「記憶が全部戻ったわけじゃないんすね」
「うん……」
「アイジスがまだ何か知ってるかも」
「確かに…… あ」
しまった、という顔でジェーンが呟く。
「ヤバ。アイジス、アイツ『日が沈んだら迎えに来ます』って」
「あっ……そろそろ日没じゃないっすか。どうします?」
「……逃げよう」
「いいんすか?」
「ここでドンパチしたらえらいことになるでしょ! それにあの女ッ……今になってマジでムカついてきたから、すっぽかされて地団駄踏めばいいのよ」
数日どっぷり休んだのだ。これ以上、立ち止まってはいられない。ジェーンはベッドからぴょんと下りた。ならばとヨロズも支度を始める。
「……君のおうちに、向かうんすね?」
目的地について尋ねる。少女は頷いた。
「ここまで来たんだもん、……今さら引き返すなんて、ね。引き換えしたところで行く場所もないし、送り出してくれたローダンさんに顔向けできないし」
「ローダンさん……、俺を逃がしてくれた時、おまえ達が行きたい方へ進めって。がんばれよ、って言ってたっす」
「そっか……。ねえ、どうせ居場所バレてるし、ローダンさんに一瞬だけ電話できないかな」
「いいっすねぇ! 無事かどうか心配っすし」
「決まり決まり」
そうと決まれば、二人はテーブルの上の電話に目をやった。
ジェーンが受話器を持つ。番号はヨロズが覚えていた。コール――そして、応答が。
『……はい?』
その声は、間違いない、ローダンだ。二人の顔がぱぁっと華やぐ。
「ローダンさん! 生きてる!?」
『お あ ジェーンか!? 無事だったか……よかった……』
ぶっきらぼうで警戒がにじんでいた声が、即座に驚きと安心に変わった。少年少女の無事を噛みしめるような溜息。
ジェーンはヨロズと顔を合わせて一つ笑い合ってから、言葉を続けた。
「そっちこそ……大丈夫だった?」
『まあな。元警察でよかったとしみじみ思ってたとこだ、おまえらが心配する必要は微塵もない』
「そっか、……その、私、何も言えずに出てっちゃったからさ……ごめんなさい、迷惑かけて……それと、本当に本当にありがとう。あなたには……たくさん救われた」
『……ああ。……どういたしまして』
少女の心からの感謝に、男はフッと小さく笑った。
『それより……いいのか電話して? 位置がバレる危険が――』
「もうバレてるから! 今から逃げるとこ!」
悪戯っ子のように笑う少女に、流石のローダンも面食らったようだ。
『おっ……まえらなぁ!』
「ふふふ! 大丈夫、私達チョー元気だから!」
『……そうか。ああそれから――隣のばーさん、息子夫婦ンとこ行くってよ』
「そっか……」
よかった。心のつかえが一つ取れたような気がして、ジェーンは柔らかに微笑んだ。短く、深呼吸をする。
「うん、そっか、よかった。ばーちゃんに、いつか絶対会いに行くって言っといて」
『わかったよ。おまえも、ヨロズによろしく伝えといてくれや』
「だってヨロズ!」
一時的に受話器を交代する。「はーい!」とヨロズは元気いっぱいに返事をした。
さあ、そろそろ行かねばならない時間だ。
「――じゃあね! 私達、もう行くから!」
『ああ。いってらっしゃい、頑張れよ』
ガチャン。