●4:ボンボヤージュ、アミーゴ
こんな日々がずっと続けばいいのになぁ、とヨロズは思った。
花屋の手伝いは本当に一時的なものになるとはいえ、本当に助かるよ、と店主らはヨロズを受け入れてくれた。曰く、従業員が一人軽い交通事故に遭ってしばらく仕事ができないとのことだったのでちょうどよかったらしい。
彼らはヨロズを、ローダンがそうするように、人間と遜色ない待遇で扱ってくれた。ヨロズには意識外のことだが、ミュータントは再生能力があるゆえに暴力などのハラスメントを受けることは日常茶飯事だった――寧ろ人間がどれだけ乱暴に扱っても問題ないようにミュータントは頑丈に造られていた。町を歩けば、ミュータントが思い切り殴り飛ばされたり怒鳴られたりしているのを見かけるのは変ではないし、違法でもなかった。
花に彩られ、やりがいのある仕事を与えられて、ヨロズは充実していた。花は好きだ――綺麗な者は好きだ。バラの棘が指に刺さっても痛くないし、血が出てもすぐに塞がった。つらいことは何もなかった。
「ヨロズくん、お昼ご飯食べよっか」
店主――元警官とのことで、ローダンとコネがあるのも納得――が笑顔で手招いてくれる。「はーい!」とヨロズは笑顔でそれに応えた。
「ヨロズくん、ずっとうちで働いてほしいよ」
最終日が近付いているある日のことだった。昼休憩の最中、近所のサンドイッチ屋のサンドイッチを頬張りながら、店主は笑った。
それは真面目に元気に誠心誠意働いてくれるヨロズに対する世辞であった。「ずっといて欲しいと思うぐらい良い働きをしている」という意図だ。少年はそのことを理解している。だって、自分がここに居座ってしまったら、怪我で休んでいる人間の分の居場所がなくなってしまうから。
だけど認めてもらえることは嬉しくて、誇らしくて。
「ありがとうございます! へへ……引き続き頑張ります!」
こんな充実した時間を過ごせるのも、自分がミュータントになったおかげだ。
もし脳浄化をされていない凶悪犯のままだったなら、こんな充実感は得られなかっただろう。ジェーンやローダンに出会えていなかっただろう。政府に寄生し、牢屋の中で無為な時間を過ごし、更生することもなく、誰かに迷惑をかけ続けていたのだろう。
(『よいこ』になれてよかった!)
●
もうすぐおうちに帰ることができる。
それは期待であり、不安でもあり、ジェーンの中で一日が経つにつれて膨らんでいく感情だった。
皿洗いをして、掃除をして、洗濯をして、必要なら買い出しに出かけ……やることが粗方なくなったら、隣の部屋の老婦人の家へ。
「ばーちゃーん、遊びに来たよー」
「あら~ジェーンちゃん!」
マダムはジェーンの存在をたいそう喜んでくれる。散らかり気味の部屋の片付けや掃除をしてあげたら、オヤツを食べながら一緒に午後のドラマをテレビで見る。ミステリー刑事ドラマだ。ありふれた殺人が今日も箱の中で行われている。テレビを見たら、感想やダメ出しなんかをしながら、話題はマダムの昔話に移ろっていく。それがいつものことだった。
マダムはジェーンをとびきりかわいがってくれた。ジェーンも、優しい彼女のことがすぐに好きになった。
「ジェーンちゃん、ずっとここにいてほしいわぁ」
最終日が近付いているある日のことだった。マダムは刑事ドラマのCMの合間にそう言った。
彼女は去年に夫に先立たれ、一人息子とその孫も海外に住んでいるからあまり会えないことも、ジェーンもは知っていた。
――このまま、不確定要素の多い実家(暫定)に向かうより、ここでずっとマダムと一緒にいるのも悪くはないんだろう。
そんな思いがカケラもよぎらなかったと言えば嘘になる。ソファに並んで座って、老いた小さな肩に少女は頭をこてんともたれさせた。
「……ありがとう、ばーちゃん」
「いいえ。……実はね、私、息子夫婦の家で一緒に住まないかって言われてるの。でもね……この家は旦那と、子供と、一緒にずっと住んできた思い出の場所だから……この町は私の故郷で、知り合いだってたくさんいるのだし……」
「知らない場所に行くのは怖い?」
「……どうせ老い先短いのだし、新天地に行ったところで……、だったらここでいいわ。ここがいいの……」
「でも、ちょっとだけ寂しいのはあるんだ」
「うん、……そうねえ。頭では分かってるの。きっと息子達と住んだ方が賑やかで退屈しないことは……」
「心がついてこないんだね」
「……うん」
「ばーちゃん、私……ばーちゃんのことは好きだけど、きっと、ばーちゃんにとっての一番の居場所には、なれないよ」
もっと相応しい居場所がある――ジェーンには、そのことが少しだけ羨ましかった。
老婦人は笑って、しわくちゃの手でそっと少女を抱き寄せてくれた。
「ジェーンちゃんの、まっすぐ言ってくれるところ、好きよ。おばあちゃんになったら、老人だからってみんな何かと遠慮してくるんだもの」
「ふふ、ありがと。……ばーちゃん、明日も来るからね、私」
束の間なれど。
受け入れてくれる居場所、というのは心地がいいし安心する。ジェーンは寄り添い合うぬくもりに、数秒だけ目を閉じた。
●
その日の夕方、ローダンは少年少女に「ちょっと出かけるからおまえら好きなもん食べてろ」と言い残し、路地裏のパブに赴いていた。
古めかしいその店の片隅、テーブル席で煙草を吸っている中年の男の正面の空席に、ローダンは腰を下ろす。机の上にぞんざいに置いた煙草の箱の中には丸められた紙幣が詰まっていた。
煙草男はそれを取り、中身を確認してから胸ポケットにしまうと、ローダンを一瞥した。
「警察は引退したんじゃなかったのかい、ローダン」
「単なる個人的な興味だ」
「へえ、未解決事件ならまだしも解決済みの事件にですかい」
煙草男は情報屋だった。その言葉に溜息で返し、ローダンは「それで?」と『調査結果』を促した。情報屋は歯が一本抜けている黄ばんだ笑みを浮かべた。
「ああ。パナケイア家は歴史ある一族だが断絶寸前だな。なんだか薄幸な連中だよ。ご当主様にゃ娘が一人いるんだが、妻は出産時に他界。愛する一人娘も事故に遭って昏睡状態になっちまった。……その直後ぐらいに、まあ、強かな女がご当主様の心の隙間に上手く入り込んだんだろうよ、再婚してすぐ娘が一人できてる。どっこい、ちょっとしてからご当主様が庭で死んでるのが見つかった。バラ園の柵の……先が尖ってるようなデザインのやつあるだろ? 雨の日に転んだ拍子に、アレでザクッとなっちまったと。それから少しして後を追うように昏睡してた娘も死んだって話だ」
ここだけの話……と情報屋は少し前のめりになって声をひそめた。
「再婚相手の女、ガッポリだぜ。娘が当主になったがまだ3歳かそこらだ。大いなる権利を意のままに……ってワケだ」
「ん……? 生きてる娘は3歳ぐらい……?」
「ああそうだ。お金持ち御用達の幼稚園に通ってるってよ」
ローダンは視線を揺らした。パナケイア家の娘が3歳で今現在まさに幼稚園に通っているとなると、ジェーンには当てはまらない。
「もう一人の……前妻の娘は?」
「今からその話をしようと思ってたんだ。かわいそうにねえ、プラネっていう子なんだが、今から5年前……12歳の時に『フェイスイーター』にやられてる」
「フェイスイーター……あの連続女児殺傷事件の」
ローダンは目を見開いた。この事件ならば彼も知っている。少年による身の毛もよだつような凶行――彼は幼い少女に激しく暴力を加え、そして、その顔を『食う』のだ。かじる、なんて生易しいものではない。ケダモノのように、滅茶苦茶に、食い荒らすのだ。よって『顔喰い(フェイスイーター)』と呼ばれ、数年前に世間を恐怖に陥れた大凶悪犯にして、歴史的な少年犯罪である。
彼は2、3年ほど前に逮捕されている。その時の衝撃たるや。少年ゆえに名前も顔も公開されず、様々な憶測やフェイクニュースが飛び交ったものだ。
「プラネは奇跡的に生きてたんだが、フェイスイーターに襲われた際に頭を酷く殴打されててな。脳に深刻な損傷があったとかで……植物状態になっちまった。このことはパナケイア家がマスコミのオモチャにされたくなかったみたいで情報統制がされて、被害者Aみたいな感じで世間に流されたがね」
紫煙を吐き、灰皿に灰を落とし、情報屋は続けた。
「で、プラネお嬢様は贅を凝らした最先端技術でコールドスリープされたって話だ。それでも最近死んじまったとかで、やっぱコールドスリープってのはまだ未来の技術なんかね?」
「……。プラネの顔写真はあるか?」
「旦那、俺を誰だとお思いで? ここまでの登場人物の全員分があるともさ」
束ねた写真を丸ごとローダンへ渡す。受け取った彼は一枚ずつ確認した――亡きパナケイア家当主の男。前妻。再婚相手。再婚相手の子。そして……プラネ。ローダンは息を詰まらせる。
(ジェーン――)
プラネ。人形のように整ったかんばせに、意志の強そうな菫色の瞳、淡い栗色の緩やかな波を描く髪。その少女は、間違いなく、ジェーンだった。
(やはりパナケイア家の令嬢だったか。だが……犯罪者どころか、逆に犯罪に巻き込まれた被害者じゃないか。しかも死亡が公表されてる。なぜああしてミュータントとして生きている……、まさか)
再婚相手の女が、遺産相続に関して邪魔なプラネ=ジェーンを、厄介払いとしてミュータント製造企業へ『売った』のか。
(なんて……ことを……!)
男は顔にあまり出さないように努めたが、それでも苦い色がにじんだ。
相対する情報屋は言及しない。求められた情報の理由に関して深く踏み込まないのが男のやり方だった。
ローダンは深く溜息を吐いた。そしてまだ見ていない写真が一枚あることに気付いた。その様子に、情報屋がニヤリとする。
「実を言うと『その』一枚だけハチャメチャに苦心しましてねぃ……本当なら追加料金を請求したいところだが、俺とアンタの中だ、特別にタダで見せてやろう。ふふふ……とくとご覧あれ、子供ゆえに少年Aと秘匿されたフェイスイーター……そのご尊顔を」
ここまでの登場人物の全員分があるともさ。そう言った通りだった。最後の一枚。そこには野暮ったい黒髪で目元がほとんど隠れた少年が写っていた。前髪から垣間見える目は鋭く、凶悪な顔立ちで――……ヨロズと、同じ顔をしていた。
嗚呼。
……どうして。
ローダンは静かに目を閉じ、心から神を呪ってから、目蓋を開いた。静かに、写真を情報屋へと返す。
「ありがとよ。……一杯奢るからつきあってくれや」
「いいねえ。一杯と言わずつきあうぜ」
――これが嘘(ガセ)だったならどれほどよかっただろう。
真実はあまりにも地獄だった……こんなこと、二人に伝えられるはずがない。
ヨロズへ、「おまえはジェーンを殺しかけて、そのうえ多くの少女の命を無惨に奪った最悪の凶悪犯だ」なんて。
ジェーンへ、「おまえはヨロズに殺されかけて、両親はおらず、実家はおそらく後継者問題でおまえを必要としてはいない」なんて。
(いっそ……真実を知らないまま、脱走元に収容された方が……幸せなんじゃないか?)
真実を伝えたら二人がどんな顔をするか。
でもこれが真実だから受け止めるよ! だって真実なんだもん! ……なんて、彼らが笑顔で言うものか。真実だからってみだりに全てを暴いて無理やり押し付けるのは、もはや論理的強姦とも呼べるだろう。
(このまま進んで……あの子たちが真実を知ったら……)
止めるべきなのか。だが止めれば……良くて再度の脳浄化、最悪の場合は殺処分だろう。
行くも地獄、戻るも地獄。……彼らの為にできることは、何もない。
無力だった。あの時と同じ。病室でミュータントが人間の奴隷になっていったのをテレビと新聞で眺めることしかできなかった、あの時と。
――酒の味はしなかった。
●
アルコールには強い方だ。そんなローダンが酒気帯びを自覚するほど、彼の血中アルコールはそれなりにあった。
空は夜。ビルに挟まれ、雲に覆われ、星は見えない。ネオンが、車のライトが、街灯が、星の代わりだ。
上を見上げる男の顔に――ポタリ、垂れたのは雨雫。ああしまったな、と男は顔をしかめた。傘を持って来るのを忘れた。
(そういえば……あいつらと出会った時も『こう』だったな……)
あの時も、パブで飲んだ帰り道だった。雨宿りしてるガキがいるなぁ、なんて通り過ぎようとしていたら、まさか声を掛けられるなんて。しかも……脱走してきたとかいうミュータントだったなんて。
同じ人間なんだと思いながらもミュータントを殺すことしかできず、なにも救えやしなかった男に、神が与えたもうた試練か、贖罪のチャンスなのか。あの時はそう思ったものだ。苦笑をひとつ。その神とやらは、とんでもない地獄を用意してせせら嗤っていたワケだ。
その時だ。前から誰かが歩いてくるのに気付いた。傘を差している――サングラスをしていないその鋭い眼差しと、目が合う。
フェイスイーター。
殺人鬼。
無辜の少女を何人も殺めてその顔を食った狂気の男。
恐ろしいバケモノ、カニバリスト。
「っ……ヨロズか、」
分かっている、彼はもう脳浄化をされて無害な存在へと『転生』している。だが知ってしまった以上、ぞくっとしたものを認めざるを得なかった。こんな夜に、ひとけのない場所で……フェイスイーターもこんなロケーションで凶行に及んだのだろうか? 少女を殴り、蹴り、叩きつけ、絞めて、そして、ケダモノのように覆い被さって、その柔らかな顔を食い漁ったのか。
「雨降ってきたんで!」
人懐っこい笑顔。駆け寄ってくる。迎えに来てくれたのだ。ローダンが傘を持っていなかったから。こんな夜にわざわざ。はい、と傘を傾けてくれる。ローダンの家に傘は一つしかないから。自分が濡れるのも厭わないで。優しい子だ。いいこだ。大丈夫だ。
「ああ……、ありがとな」
くそ。ヨロズに警戒してしまう自分自身が最悪だとローダンは内心で吐き捨てた。
(フェイスイーターは……脳浄化で『死んだ』んだ。肉体は同じでも、ヨロズとはもう別人なんだ……)
自分自身にそう言い聞かせる。人間という生き物の浅はかさに吐き気を催しながら。
「顔色悪いっすよ、飲み過ぎっすか?」
ヨロズが顔を覗き込んでくる。その目に悪意も害意もない、ただひたすら純粋な善意だけがある。
「そーだな、……大丈夫だよ、大丈夫」
ローダンは――
一瞬ためらったものの、隻腕を伸ばし、ヨロズの頭に手を置いた。ぽんぽん、と少しだけ撫でて、手を離した。
少年は目を丸くして、それから、照れくさそうに笑った。
「エヘ~撫でられちゃったっす」
「おまえはいいこだよ、本当に。……ジェーンもだ」
「ありがとうございます! ほら、早く帰りましょ。お風呂沸かしてるっすよ。ああ、いっぱい飲んだなら水分いっぱい摂ってくださいね。帰ったらお白湯でも用意しましょうか?」
「……そうしてくれ。それから、ヨロズ、もうちょっと傘に入っていいぞ。濡れるだろ……」
「いいんすよ、俺はこれで」
「おまえなぁ」
冷たい雨に濡れた、ネオンを映すアスファルトを、二人は傘を分け合って、肩を濡らしながら歩いて行く。二人分の足音。雨音と遠くの喧騒に任せて、少しの間、会話が途切れる。
口を開いたのはローダンだった。
「……おまえぐらいの年齢のミュータントだった」
遠く、彼の隻眼は、あの時のことを――20年前の争乱を、見つめている。
「俺に飛びかかってきたそいつが、俺の顔を引き裂いて……、人生で感じた中で一番痛くて……、俺は、引き金を引いていたんだ。そうしたらそいつの喉に穴が開いていた。赤い穴が……血が出て……『痛い』――そう言って奴は血を吐きながら、死んだ。……――そうして俺の中で何かが壊れたんだ。俺だけじゃない、仲間も相手もみんな壊れてしまった。殺さないと殺される、そう思って――たくさん殺した。相手が子供だろうが、なんだろうが。あんなの暴動の鎮圧なんかじゃなかった。ただの殺し合いだった」
ヨロズの眼差しを見えない方の目で感じながら、男は淡々と、渇いた声を続けた。
「目が覚めたら病院に居たよ。片手がなくなって、片脚も、二度と元のように歩くことはできないだろうって言われた。包帯だらけの芋虫みたいな俺を……おえらいさんは随分と褒めたもんだ。俺達のほとんどが死んでいた。世間は、その身を呈して市民を護ったドラマティックなヒーローとして俺達を過剰に持て囃した。人類の勝利のヒロイックなシンボルにしたがった。……何も嬉しくはなかった。ただただ虚しかった」
こんな話を彼にぶつけても意味はないし、どうにもならない、そんなことは分かり切っているのに、男は話さずにはいられなかった。あるいは彼がミュータントだからこその、これは、懺悔なのかもしれない。ただ雨だけが降っている。
「……暴動前に俺達が捕縛したミュータント達は、人体実験で使い潰されて死んだことを知った。そうしてほどなく、『よいこ計画』で犯罪者は人格も心も感情も殺されるのが当たり前になっていった。俺があの時、相対したたくさんの命は、命ではなく道具だと定義されていった。だが俺にはミュータントが道具だなんて思えない。『痛い』――あの時の声が、死を確信して絶望した眼差しが、噴き出した赤い色の血が、忘れたくても忘れられない。あれは人間だった、どこからどう見ても人間だった。生きたかった、ただ皆、普通に生きたかっただけなんだよ……皆そうだったはずなのに、どうして……こんなことに……なっちまったんだろうな……」
「――だから俺達のこと、助けてくれたんすね」
ヨロズは柔らかな笑顔を浮かべて、傷だらけの男にこう言った。
「ありがとう」
そのたった5文字に。
赦されるべきなんかじゃないのに。
男は、罪を赦されたような、そんな気がした――してしまったのだ。
「ごめんなぁ……」
ままならない感情と、真実を言えない弱さへの申し訳なさと共に、さっき一瞬でもヨロズの『前世』に警戒心を抱いてしまったことも併せて、苦く俯く男は謝罪を口にした。
「謝らなくていいすよ、ローダンさんだって精一杯がんばったんだし。いろんなこといっぱい考えててすごいっす」
ヨロズの声は明るい。彼の声はいつでも明るい。通り過ぎる車のライトが、その笑顔を走馬灯のように照らしていった。そうして彼は、ちょっと躊躇いつつもこう続けた。
「ローダンさんは……『よいこ計画』にあんまり歓迎的じゃないみたいっすけど……それでも、俺……俺は、『よいこ』になれてよかったっす。ジェーンやローダンさんに会えたから……犯罪者のままじゃ幸せになれなかったろうから……なんて、こう思うのも、脳浄化による思考誘導なんすかね? 俺の意思じゃ……、ないのかな? 俺に意思はあるのかな? 道具の俺を……ジェーンもローダンさんも、道具じゃないって言ってくれるけれども……『痛い』、って感じないのは、ちゃんと人間……?」
ヨロズは傘を持つ方の手とは反対の手の、人差し指をローダンに見せた。
「ここに、バラの……棘が刺さって。でも痛くなかった。血が出たけれど。すぐに治った。こっちの腕、警棒で殴られて骨が飛び出して。でも痛くなかった。血が出たけれど。すぐに治った。これでもまだ……俺は人間、なんすかね?」
「人間だ。おまえは人間だよ。生きててもいい、ちゃんと自分の意思がある、人間なんだ。……いいか、誰かがおまえを道具だと言っても、俺はおまえのことを人間だと呼び続けるからな。忘れるなよ」
目と目を合わせて、男はめいっぱいの想いを込めてそう言った。少年はじっとそれを聞いて、それから、少し考えこんで――嬉しそうに、「ありがとうございます」と笑った。それは等身大の少年の笑みだった。
――嗚呼。
このまま、前にも後にも進まないまま。
ずっとこいつらを家に置いておけたら。
真実も現実も何もない、中途半端な道程のまま……。
「なあ、ヨロズ。ジェーンも一緒に……ずっとここに――」
ローダンのその声は――
「ごきげんよう」
後ろからかけられた女の声に、掻き消される。
二人が振り返ればそこに、白いスーツの乙女が居た。真っ白な傘を差して、ニコリと微笑をたたえていた。
「あッ――君は!」
ローダンを護るように前に出て、手で庇い、ヨロズはアイジスと相対した。ローダンは唐突な出来事に面食らう。
「おい誰だ?」
「えっと……名前は知らないけど、追手のミュータントです!」
ヨロズの言葉に、アイジスは溜息を吐いた。
「アイジスと申します。……そこのおじさま、彼は施設から脱走した違法ミュータントです。直ちにこちらへ引き渡してくださいませ。危険です」
「へえ……コイツを引き渡したらどうなるんだい?」
「脳浄化の後に奉仕活動、あるいは『処分』かと」
「……コイツらは自由になりたいだけなんだ。世間に迷惑だってかけてねえ」
「車と金銭の盗難が報告されていますが」
「らしいけどなぁ……」
ローダンは苦笑した。例のチンピラアベック事件については、ジェーンの口から語られている。人間の方から悪意的に仕掛けたそれは、一概にジェーン達が100悪いとは言えなくて。
「とかく――危険なミュータントなんかじゃねえよ。見逃してやってくれないかな?」
なんてダメ元で言ってみるも、話がおそらく通じないだろうことは、アイジスの空気感からローダンは察していた。果たしてその通りだった。
「それはできません。見逃して欲しいのなら、そもそも犯罪なんてしなきゃいいんですよ。最初からよいこでいればこんなことにはならなかった。全て全て、因果応報です」
ひらっ、とアイジスは傘を後ろに投げ捨てた。そうしていつの間にか手にしていた警棒の切っ先を、ヨロズへと突き付けた。
「『わるいこ』を捕まえるのが私の仕事ですので。今なら投降を受け入れますが、どうしますか?」
「う……!」
ヨロズは後ろに護るローダンと、そして正面のアイジスとを見比べた。
そんな少年の肩を、男はぽんと叩いた。
そして――少年の手の傘を畳ませ、それを彼からおもむろに奪うと。
一閃。
――からんからん。弾かれたアイジスの警棒が、遠くの方に転がる。
「は、……何を!?」
隻腕で傘を構える男を見、アイジスは目を丸くした。
「凶器を向けられたから恐怖で心神喪失状態になって防衛してるんだよ見たらわかるだろ!」
「はぁあ!? 屁理屈すぎません!?」
「――ヨロズ!」
ローダンは目を白黒させているヨロズへ目線を向けた。
残酷な真実を飲みこんだ罪深い口で――男は、声を張り上げる。
「逃げろ! 行け! 進め! おまえらが行きたい方へ! 金は持ってけ用意しといたベッド横サイドテーブル! 急げ!」
「っッ――……」
人の身で、それもハンディキャップのある体で、戦闘用に調律されたミュータントと相対するなんて。無茶だ。危ない。認可できない。ヨロズは口をわなわなさせて狼狽している。
「行けッ! ……がんばれよ!」
その迷いを断ち切るように、そして己の迷いも断ち切るように、ローダンは大きな声で言った。
「っ……。お世話になりました! 行ってきます!」
ヨロズはミュータントの膂力で走り出す。足音が遠ざかっていくのを、ローダンは背中で聞いた。
「ちっ!」
舌打ちをするアイジスが警棒を拾って追おうとするが――凶器を蹴り飛ばしたローダンが立ちはだかる。乙女の顔に怒りが浮かぶ。
「こッ……のクソジジイッ……」
「思ったより口汚いな、『道具』みたいじゃなくて安心したよ」
「……あなたも『わるいこ』なんですね?」
「そうだな、昔たくさん『人』を殺した。たった今、その贖いをしたまでだ。――で、俺はどうなるんだい、お嬢さん? 脳ミソ漂白してミュータントにでもするか?」
「……」
アイジスは接触にあたって目の前の男の身元は簡単に調べていた。元警察、それも20年前のミュータントの乱の生き残り。『粛清』するにはリスクが大きく、捕まえたとしても警察という組織がそれを許さないだろう。過去の栄光に泥を塗るな、俺たち警察様の面子を汚すな、というワケだ。つまり手出しができない。
とはいえ。
「個人的にムカつくです!」
一発殴るだけならセーフ。ヒールの脚で蹴り上げる。鋭いヒールの切っ先は凶器となって、男の鼻を縦に切り裂くつもりだったが――回避された。
「おいおいあぶねえな! ミュータントは人間に暴力はふるえないんじゃなかったのか!?」
ローダンは驚愕した。アイジスの前に立ちはだかったのは「ミュータントは人間に暴力はふるえない」というオーダーを知っているからこそ、排除できない障害物になってやろうという目論見があったからだ。
「私は特別なので! 選ばれたんです! だから頑張ってもっと『よいこ』になるのです!」
身構えるアイジスは、怒りながらも片方の口角をつった。
「安心なさって、殺すのは違法なのでそこまでしませんよ。だけど、もうそれだけ傷だらけなんだから、一個ぐらい増えたって問題ありませんよね?」
「ありまくるわ馬鹿」
「大丈夫大丈夫、一個増やしたら許してあげますから」
「増やすなっつーの」
「……ぜんぶ邪魔するアンタが悪いんですよッ!」
アイジスの手刀が振り下ろされる。鎖骨をへし折る気だった。ローダンは傘で防御をする――傘がへし折れ、勢いに男は後ずさった。その威力に冷や汗をかく。間違っても受けたら肉体が破壊される。死にたくなければ死ぬ気で回避するしかない。
「おっかねぇ~……やっぱ謝るよ、悪かった悪かった」
「絶対絶対反省してないッ!」
「してるしてる」
「があ!」
大きく振り被る拳。ローダンはそれが振り抜かれる前に、傘を彼女の顔に投げつける。出鱈目な狙いになった拳を、重い片脚でどうにかよろめくように回避した。
が。その胸倉を、アイジスが掴む。
(あっヤベ 死ぬ――)
20年前と重なる光景。しかし、手の中に銃がないことに安心しているローダンがいた。あの時みたいに生きる為に殺さなくていい。
だが死ぬ気もなかった。ほぼ悪あがきのように後ろにそらした顔。それをかすめる、アイジスの平手打ち。乙女の細い爪が、ローダンの右顔面を掠めた。傷痕だらけの右頬が浅くだが裂ける。
「いっ……てえなコラ!」
逸らしたそのまま、アイジスへ頭突き。「うぎゅ!」と乙女の掴んだ手が緩んだので、そのまま振りほどき距離を取った。
「うおっ血が出てる……まあパーで加減してくれたことには感謝してるよ」
グーで胴を殴られていたら内臓が破裂していただろう。
「……」
アイジスは頭突きされた額を擦りつつ、距離を取られたのをいいことにじりじり後ずさった。その顔は忌々しげだ。
「次はありませんからね! 最終警告ですからね!」
そう言って、アイジスは走り去る――迂回してヨロズ達を追うつもりなのだろう。
「……はぁ……」
ローダンは大きく息を吐いて、その場にどしゃりとへたりこんだ。彼にできるのはここまでだ。追いかけようにも脚が動かない。あとはもう――ヨロズとジェーンを、信じるしかない。
(きっと……、大丈夫だよな)
たとえ、彼らの進む先に待っているものが地獄でも。
その地獄に、あの二人が負けないことを、男は祈り、そして――信じる。
信じること。それが、真実を言えず、何もできない、弱くて無責任で罪深い男にできる、唯一のことだった。
(ああ……笑っちまうよな……)
アスファルトに座り込んだまま、雨の空を見上げる。
雲に覆われ、祈りは天には届かないだろうが。
(神よ。もしいるのなら……あの二人を、どうか)
護ってくれないか。
●
雨の中を走る。
ローダンが言った通り、彼の寝室のサイドテーブルには、二人の為の財布が置かれていた。そこにはお金と、パナケイア家までの道のりが書かれたメモが挟まっていた。
荷物をまとめている暇はない。それだけを掴んで、ヨロズはジェーンの手を引いて傘もなく走った。バスに飛び乗る。まばらな人ごみに紛れるように、席に座る。
「……」
ヨロズはジェーンの手をさっきからずっと握りしめていた。濡れた体、俯いた沈黙。彼が家に飛び込んできて「アイジスが来た! 逃げるっすよ!」と言ってから、二人の間に会話はなかった。
冷え切った少年の手を、ジェーンは握り返す。
「大丈夫だよ」
囁いた。本当は言いたいことがたくさんある。「ローダンは?」「アイジスに襲われたの? 怪我してない?」「私、隣のばーちゃんに『明日も来るからね』って言っちゃった」「ねえ、私達、大丈夫なのかな」「ずっとこの町に居たかったね」――今は全部、飲み込んだ。送り出してくれたローダンを信じることにした。不安でいっぱいいっぱいになっているのだろうヨロズの為にも。
「ジェーン」
バスの車内だから小声で、ヨロズは小さな手に手を重ねた。サングラスを忘れてきた瞳で、じっと、少女を見つめる。
「大丈夫。俺、君を手伝うっすよ。なんでもやるっすよ」
ヨロズは知らない。
その感情は、フェイスイーターの獲物への執着の成れの果て。
だから彼はジェーンを一目見て声をかけた。脱走を手伝えなんていう無茶難題に二つ返事で了承した。そして彼女にどこまでもついていく。誰にも渡すことはない。
しかし浄化された執着は、最早「彼女の助けになりたい」という子供のような純粋さだけになっていた。
ならばこの感情に罪はあるのだろうか。
それは誰も知らない。秘密警察も、精神科医も、被害者Aも。