●3:三千世界にコンニチハ


 どざぁーーーー。

 重苦しい雨の音が、夜の街を支配している。アスファルトの黒い水面にネオンが映り、雫で揺れる。大通りから少し離れた路地は、時折通り過ぎる車が水だまりを踏んづけていく。
「うひぇ……結構な雨っすねえ」
 ビルの軒先でどうにか雨をしのいでいるが、ヨロズもジェーンも雨に濡れていた。
「これならモーテルで朝まで待った方がよかったかも……」
 ヨロズの隣のジェーンは、「濡れちゃよくないから」と彼の上着を頭から被せられていた。寝すぎて眠れないからと飛び出してきたのは早計だったか。
「カラオケ屋とかコインランドリーとか、もしくはファミレスとか……雨宿りできそうなとこ探してこよっか?」
「行くなら一緒に行くし。もう少しだけ待とう、行くにしてもちょっと雨が弱くなってから……」
 そんなやりとりのほど近く……ニコニコ笑顔の清掃員ミュータントが、雨にズブ濡れながら道路のゴミ拾いをしていた。トングで煙草の吸い殻を拾い上げている。
「……私達って、ほんとただの労働力なんだね」
 首の後ろの烙印をそっとさすりながらジェーンは呟いた。ヨロズがサングラス越しに目線をやる。
「でも俺達ミュータントの奉仕で、この社会は円滑に回ってるんす。それに俺とかあの人みたいな肉体労働タイプは、雨に濡れた程度で体調崩したりしないし」
「……ミュータントに人権はない、社会の備品、でしょ?」
「そっすね」
 それが当然のようにヨロズは答えた。脳浄化によって彼の思考はどこまでもミュータントだった――ジェーンはそれに、ほんの少しの隔絶を感じる。足元、黒く跳ねる雨を見つめた。
「なんか……、寂しいな」
「そっすか?」
「だって私達、元は人間だったのに」
「……それでも罪を犯してしまった。誰かを傷つけ悲しませてしまった。社会に迷惑をかけてしまった」
「う……」
「ずっと昔は、大きな罪を犯したら長いあいだ牢屋に閉じ込められたり、死刑にされてたりしたんす。それに比べたら……ミュータントになるのはかなりマシだと思わないすか? 外に居てもよくて、生きててもよくて、生きることに目的があって」
「……分かんない。分かんないよ」
「うん、……それでもいいと思うっす」
「少なくとも、……ヨロズは備品とか……道具なんかじゃない、あったかくて優しくて、ちゃんと人間だよ……」
 幼い手が、少年の袖をそっと掴んだ。ヨロズは少し目を細め、一瞬だけ躊躇うも、冷えてしまっている柔らかい手を優しく握った。
「手が冷たい……やっぱり俺、もっといい場所探してくるっす」
「待って、私にいい考えがある」
「いい考え?」
 つかの間だけ自分を包んだナーバスを振り払い、ジェーンは『今』に集中する。顔を上げて前を向いた。
「お金持ちそーな人間に拾って下さいっておねだりするの! それで家事手伝いとかやってお金をもらう! ひとまずの寝る場所ももらう! その間に私のおうちについて調べて、何か分かったら出発!」
「おー……それはアイデアというより理想論じゃ……?」
「アイデアってのは理想の反映だから!」
「うまくいくすかねぇ……!?」
「やるだけやってみないと、でしょ? 立ち往生してる高級車とか引ったくりに遭ったマダムとかジェントルとか探そ!」
「い、いるかな~~~そんな都合のいいブルジョワが都合のいいタイミングで……」
 そんなやりとりをしている二人――の前を、一人の初老の男が歩いていく。雨のなか傘はなく……よく見れば彼は隻腕で隻眼だった。一本だけの腕を上着のポケットに突っ込んで、目に雨が入らないよう俯いていた。脚もあまりよくないらしい、その歩みはどこかぎこちなく、遅い。彼の身なりはとても裕福には見えない、だが貧困という感じもない、ありふれた場末の一市民といった印象だ。どこかくたびれた趣きがある。
 ジェーンはそれを目で追って……ふらり、雨の中を歩き出す。
「あ、ちょっと――」
 ついてくるヨロズに上着を返しつつ、少女はまず清掃員ミュータントの傍へ。彼が今まさにカートに乗せようとしていたボロのビニール傘に対して、掌を差し出す。
「これ貰っていい?」
「どうぞ」
「ありがとう」
 そうして彼女は、不思議そうにしているヨロズを伴い隻腕の男の傍へ。ばさ、と傘を差した――大きな穴が開いていたが。
「おじさんこれ使う? 雨漏りしてるけど、まあ、ないよりマシでしょ」
 そんなジェーンの言葉に対し、「お金持ちの人っぽくは見えないけどいいんすか」――とは、ヨロズは言わなかった。少女はただ、目の前で大変そうにしている人を見て、ちょっとだけ親切をしようと思っただけなのだから。
「……おまえ達の分の傘は?」
 急な親切に、立ち止まった男は面食らいつつも、眼帯による隻眼で傘と少年少女とを見た。背格好は大人と変わらないがまだどこか子供の面影がある少年、小さな幼い少女。二人とも濡れている。傘はない。近くに親らしき人影もない。
「これからなんとかする。……早く受け取ってよ、屋根の下に戻らないと濡れちゃう」
 ほら、とジェーンが傘を突き出す。男は不思議そうにしつつもそれを受け取った。
「おまえ達……家出か?」
「まあ――まあ、そうかもね」
「親切には感謝するが、早く帰るんだな」
「帰り道がわかんなくて」
「迷子か?」
「そうかも」
「『かも』って……」
 ここで、ヨロズがバッと頭を下げた。
「すみません! いきなりで不躾っすけど、今晩だけでも泊めてもらえないすか! 雨を凌げれば軒先だけでもいいんで……」
「――、おまえミュータントか」
「はえぇ!? なんでわかったんすか!?」
「いやお辞儀したときに首が見えた」
「アッ」
 上体を起こしたヨロズは首の後ろを咄嗟にさすった。男は顔をしかめて深い溜息を吐く。
「ミュータント、ミュータントか……しかも家出で迷子……」
 視線を巡らせ思案気な男の様子に、ヨロズはぐっと息を詰まらせる。さりげなくジェーンを庇った。スポーツカーを手に入れた時の、ミュータントに対する人間の対応を思い出していた。そしてそのすぐ近くでは、今も『社会の備品』として雨の中でミュータントが清掃業を行っている、文句一つ言うことなく従順に。
「ひとついいか。なぜ首輪をしていない?」
「ち……ちぎ……ちぎりました! ちぎって投げ捨てました!」
 脳浄化されたミュータントは『よいこ』だから嘘を吐けない。人間に質問されたら、ヨロズは何でも答えてしまう。
「ちぎって投げ捨てたぁ!? アレ爆弾だろ! 嘘つくなおまえ」
 男は目を丸くしたが、「嘘じゃないっすう」とヨロズはブンブン首を振る。その後ろから顔を出すジェーンは「私はそもそもついてなかった」と男を見上げた。
「……おまえらどこから脱走してきた?」
「施設から……ミュータント製造場の……あはは、はは~……」
 赤裸々に語りすぎると通報されてしまう、分かっているのに人間の質問に答えるのを止められない。ヨロズは引きつった笑みを浮かべた。
「なんでまた脱走なんてしたんだ」
「それは――」
 言葉の続きは、ジェーンが継いだ。
「この子は私のワガママでついてきてくれた世界一のお人好し。……で、私はなんだか脳浄化? ってのがうまくされてないみたいで、自分の家の記憶があるの。私は……そのおうちに帰りたいだけ」
「……」
 男は無言のままだ。ヨロズは心臓がドキドキしていた。一方のジェーンはジッと男を見つめている。雨の音だけが一同を包んでいた。
 かくして。
「そうか」
 男は傘をジェーンの手に突き返し……
「……ついてこい」
 低い小声で呟くと、また雨の中を歩き始めた。
「泊めてくれるの?」
 男の『レディーファースト』に則ることにして、ジェーンは傘をヨロズと分け合いながら歩き出す。男は溜息交じりに答えた。
「好きに解釈したらいい」
「やった〜〜〜おじさんありがとう! ほんと助かる!」
 ジェーンが無垢に笑ってついてくる。男は何ともいえない顔をしていた。
「すいませんありがとうございます! お世話になります! あのっ……家事でも雑用でもなんでもやりますんで!」
 同じくついてくるヨロズは、まさかOKがもらえるとは思っていなくて少ししどろもどろとしている。
「ローダンだ」
 雨音の中、男が言った。名前のことらしい。「おまえらは」と促す。
「ジェーン」
「ヨロズっす!」
 驚くほど素直に伝えてくる子供らに、男はまた溜息を吐きたくなった。
「念のため聞くが、脱走が違法行為だって自覚はあるよな?」
「あるよ。ね、ヨロズ」
「はい……」
 よいこたるミュータントとしていけないことをしている、そんな罪悪感にヨロズは指先同士をツンツンさせた。ジェーンはそんな少年の仕草にニコリとしてから――
「……何を言われても私は戻んないから」
 人間へと低い声で言う。少女の記憶には、爆弾で爆ぜたヨロズの血と脳を浴びた生々しい感触が鮮明にへばりついている。いくら元凶悪犯とはいえ、こんなに気のいいお人好しを平然と爆殺する連中へは、嫌悪感しかなかった。
 ジェーンの目からただならぬ感情を読み取り、男――ローダンは今はそれ以上踏み込むことをやめた。

 もう少し歩いてほどなく、古めかしいアパートに到着する。雨に濡れて暗く、しみったれた、この男に似合うような住まいであった。
 傘の穴からそれを見上げ、ジェーンはローダンを見る。
「ここまで来ておいて――そんで自分から泊めてって言っておいてなんだけどさ。おじさん、脱走した『わるいこ』をよく泊めてあげよーなんて思ったね?」
 暗に、自分達が上がり込んでも本当に大丈夫なのかを確認している。
 動かしにくそうな片脚で階段を上りつつ、ローダンはチラと振り返った。
「……おまえ、見た目の割りにゃそこそこしっかりしてるな」
「そう! ジェーンはすっごくしっかりしてるんすよ! ここに来るまで何度も助けられたっす!」
「うるさっ……おまえここからはもうちょっと声量絞れよ」
 ジェーンが何か言う前にデッカイ声で答えたヨロズに後頭部を掻き、ローダンは溜息を吐いた。歩みを止めないことが、ジェーンの質問に対する何よりの返事だった。

 かんかんかん――階段を上る音。切れかけの明滅している電灯。階段は少し濡れている。小さな蛾の死骸が片隅で仰向けになっている。
「ここだ。……他人を家に上げることなんて考えてなかったから何もないが まあ、雨の下よかマシだろ」
 男がドアを開けた先は――最低限の家具しかない、酷く殺風景な空間だった。
「へー、綺麗なお家じゃん」
 くたびれた男の見た目から、てっきり酒瓶ゴロゴロの散らかった部屋を想像していたジェーンはキョロキョロ辺りを見回した。生活感がまるでない。掃除も、ともすれば潔癖めいて行き届いている。
「いつ死んでも迷惑にならんようにな」
 上着を脱ぎながらローダンはしれっと言った。
「考えてもみろ、ゴミ屋敷に孤独死死体……片付けがどれだけ面倒か。あ、トイレと風呂はそこな。冷蔵庫は好きに使え」
「はぁい。……ローダンさんお一人で暮らしてるんすね?」
 上着お預かりしますよとヨロズが手を差し出すので、ローダンは「そこにかけといて」と上着を預けてラックを指差し――「いい推理だ」と笑った。
 褒められたので少年は純朴にはにかみつつ……気が付いたのは灰皿と煙草のにおい、そしてキッチンの片隅の酒缶。あまり「長生きしたい」の意図が感じられない、そんな気配があった。
「さて」
 ローダンが二人へ向き直る。改めて、明かりの下でその外見が照らされた。顔の右半分が獣に引き裂かれたように『壊れ』ている……残った左半分は、無精髭にくたびれた初老の顔立ちだが、若い頃はなかなか凛々しい造形だったのではないかと想像できる。前髪がやや後退した黒髪は白髪交じりだ。アンバーの瞳が雨に濡れた二人を見た。
「おまえら取り敢えず風呂入ってこい」

 ――ヨロズが「お先どぞっす」と言ったので、ジェーンが先に浴室へ入ることにした。浴室も例に漏れず殺風景で潔癖だった。
 濡れた服は乾燥機の中で回っている。乾くまではやむなしとしてローダンが服を貸してくれた。
 そうして、ジェーンはワンピースのようにローダンのTシャツをぶかぶかに着て、ヨロズも背格好にそこまで差がないのでシャツとスウェットを着た。
「それで――」
 ローダンはシャツと下着姿になって椅子に腰かけた。その体は右腕の肘から先が無く、左膝周りに生々しい傷痕と手術痕があった。
 事故にでも遭ったか、戦争にでも行ってきたんだろうか……などと考えている少年少女は、男に促されてソファに座る。
「家に帰りたいって言ってたが、アテはあるのか?」
「具体的にはサッパリ。私の頭の中におうちの風景があるだけ」
 ドライヤーもコンディショナーもなかったので、髪を気にしつつジェーンが答えた。
「……どうしてその家が自分の家だって分かるんだ?」
「間違いなく『そう』だって思うから。あ、ちなみに――紙とペンある? 描けるよ」
 ジェーンがそう言うので、ローダンは電話機の横のメモとペンを渡した。ソファのローテーブルに紙を置いて、少女はしゃかしゃかと絵を描いて――
「こんなおうち! 見たことない?」
 ばばーん。……見た目通りの年齢クオリティ。ローダンは眉根を寄せて身を乗り出して何とも言えない顔で見つめた。絵は拙いながらも分かることはある。立派な邸宅のように見えた。
「おまえどっかのお嬢様か?」
「かもね。すごい広いもん。これお家の中とかお庭の感じ」
 もう一枚のメモ。ヨロズ経由で渡されて(ちなみに当然ながらヨロズにはその絵でピンとくるものはなかった)、ローダンは老眼でどうにか見た。そして――
「うん? この門の紋章……パナケイア家の家紋か?」
 拙いが特徴を捉えているシンボルからローダンは推察した。
「パナケイア家……、それが私の家なの!? おじさん私の家のこと知ってるの!?」
 まさかの収穫に思わず立ち上がり声にも力が入ってしまう。少女の食いつきっぷりの圧に少々驚きつつも人間は頷いた。
「昔っから続くお貴族様の一家だよ、元は騎士だとかいう大地主で……城砦跡を学生ん頃に修学旅行で見たな。本家の人らも近くに住んでたはずだ」
「ば……場所わかる!?」
「こっから大分と遠いな……調べりゃ電車だのバスだのの乗り継ぎも分かるだろうよ」
「あっ……あのさっ……パナケイア家の家族のこととかも分かる!? 娘がいたとか……」
「流石にそこまでは……」
「そっ、そっか、そっかそっか、……ありがと……」
 額を押さえつつジェーンはぽてりと座り直した。今得た情報がまだ信じられないが、興奮と喜びと期待とが大きく胸に渦巻いている。
「よかったっすねえジェーン! おうちに帰れるっすよ!」
 ヨロズは我がことのように喜んでジェーンの肩をぽんぽんした。少女も嬉しそうに何度も頷く。だがしかし――ローダンだけは少し苦い顔で、少年少女にこう言った。
「だがミュータントってことは……ジェーン、おまえは犯罪者ってことだ。いいのか? 家に帰っても、歓迎されないどころか追い返されるかもしれないんだぞ。忘れたはずのおまえの罪を口汚く糾弾されるかもよ」
「……その時はその時だって思ってる」
 喜びに差された水に、少女が不快感や怒りを示すことはなかった。溜息を吐く。
「それにさ、本当に何か悪いことしちゃってたんなら、私はちゃんとそのこと知りたい。やったことも覚えてなくて、悪いことをしたっていう後ろめたさもなくて、でも罪だけがあるなんて、どうしたらいいのさ? 悪いことをしたなーって気持ちに向き合えもしないんだよ。まるで罪から逃げてるみたい」
 その言葉に、男は微かに目を細めた。強いのか、純粋なのか……そんなことを考えつつ、男は重ねて覚悟を問うた。
「その罪が途方もなく悪辣な悲劇で、脳浄化される前の自分が吐き気を催すような邪悪でも、か?」
「……私こんなチビっこいガキなんだよ。やったことなんて程度が知れてるでしょ。クラスメイト刺したとか――夏休みの宿題をやらなかったとか?」
 最後のは冗談だ。わざとっぽく少女は肩を竦めてみせた。
「何があっても、俺は傍にいるっすから」
 そんなジェーンへ、ヨロズは真剣に言う。ローダンは視線を少年へ移した。
「そっちの坊やはどうなんだ、目的地だの目標だのあるのか?」
「ジェーンのやりたいことのお手伝いが俺の『用途』っす」
 真っ直ぐ答えた少年――の足を、ジェーンがげしっと蹴った。
「また自分を道具扱いする! やめてよね。私、あんたのご主人様になったつもりなんてないから」
「ふええごめんっす」
 ヨロズには帰りたいとか真実が知りたいとか、そういう欲はなかった。関心すらないといった様子だ。これが正常なミュータントの反応だった。悲劇の過去をわざわざほじくり返したいと願うミュータントはいないと言っていい。それは元々犯罪者である彼らのサイコパス的な罪悪感のなさに由来する――とは、テレビでどこぞの専門家が唱えていた説の一つだ。
(ミュータントってのは……どうしてこう……)
 抉れた右目を眼帯越しになんとはなしに擦りつつ、物思うローダンに――
「ねえ」
 ジェーン、そしてヨロズが真っ直ぐ向き直った。
「ローダンおじさん! お手伝いとしてしばらく働くから、お給料としてパナケイア家のとこまでの旅費ちょうだい!」
「お願いします! 何でもやるっす! なんだったらバイトやってお金入れてくるんで……それまでここに置いてください!」
 立ち上がり、少年少女は頭を下げる。ローダンは――机に肘を突いて頭を抱えた。溜息。
「あのなあ。脱走とかいう違法をやらかしたおまえら違法ミュータントを匿うってことは、俺にも違法が及ぶってことは分かってるか?」
「分かってる。……嫌なら強制しないし、出てけって言われたら今すぐ出てくし、だからこそ置いてくれるなら見返りに何だってする」
 ジェーンは揺るがずに答え、ヨロズはコクコク頷いた。男は再度の溜息を吐く。がしがし頭を掻いた。
「はあ……畜生、なんつー運の巡りあわせだ……」
 独り言めいてボヤいて、そして、ローダンは隻眼を少年少女に据えた。それからややあって――意を決したように、こう言う。
「最後の確認だが、……俺は昔ミュータントをたくさん殺した人間だ。それでもいいんだな?」
「こ、殺しッ……!?」
 想定外の言葉にジェーンもヨロズも瞠目した。
「今から20年ぐらい前にミュータントと人類がドンパチしたんだよ。俺の身体はその時にこうなったワケだ」
 肘から先がない右腕を見せる。「で」と言葉を続けた。
「そんな同胞殺しとひとつ屋根の下でもいいってのか?」
 ヨロズはジェーンの方を見た。彼女の意に従う心算だった。一方の少女は、静かな声音でこう答えた。
「私達だって、人間を――おじさんの同胞をいっぱい殺してるかもしれないんだし。だから、お互い様じゃない? 私達はここに置いて欲しい、おじさんは私達が『いいよ』って言ったらここに置いてくれる、そういうことでしょ」
「……わかった。じゃあ、まあ……あれこれ整えたりするのは明日からってことで……俺はぼちぼち寝るからよ、今日のところはソファで寝てくれや。あるもん好きに食っていいし……門限も定めねえから外ほっつき歩いてもいいし……」
 アクビをしながら、ローダンは立ち上がって寝室へ向かおうとする――のを、少年少女が呼び止めた。
「おじさん! ありがとね。しばらくよろしくお願いします」
「っす! お世話になります! ありがとうございます!」
「……はいはい、あんま夜更しすんなよ」
 無事な方の手をひらりと振って、男は寝室へ。そこもやはり殺風景だった。ブラインドの隙間から、夜の町と雨が見える。幾度目かの重い溜息が、雨音の暗い部屋に響いた。
(……これは贖罪なのか?)
 ちょうど――あれぐらいの年齢の少年少女だった。約20年前、男が撃ち殺したミュータントは。捕縛したミュータントは。誰も彼も若くて幼くて、多くの未来ある命だった。男はたくさんの人生を奪った――その瞬間は、いずれも鮮明に、男の脳に焼き付いている。
 だから、だ。ローダンがジェーン達を見捨てることができなかったのは。今度こそ彼らの「助けて」に応えられなければ、きっと死ぬまで後悔することになると、そんな確信が胸を貫いたから。
 ベッド傍のサイドテーブル、一つの写真立て。そこには若い頃のローダンと、仕事仲間達が並んで笑顔で映っている。かつて男は警察の機動隊に所属していた。そして映っている笑顔の半数以上が、『あの戦い』で命を落としていた――。

「――ねえ、20年前の人類とミュータントのドンパチって何?」
 寝室へ行ったローダンに気遣って小声で、ソファのジェーンがヨロズに尋ねた。家主の「あるもん好きに食っていい」という言葉に則って、二人はカップのインスタントラーメンを啜っていた。
「君は情報が移植されてないっすか? えっと……ちょっと歴史のお話になるんすけどね、」
 ずず、としょうゆ味のスープを飲んでから、ヨロズはこの世界の少し昔のことを語り始めた――もちろん彼視点の説明は人類礼賛の色がとても強い『主観的な』説明ではあったのだが。
 その『人類礼賛』の色合いを薄めれば、以下の通りとなる。

 ●

 今から50年と少しばかし前、世界中で起きた大きな戦争が終わって。
 それからほどなくだった、『超能力者』の目撃情報が世界各地で増加しはじめたのは。
 例えば怪力、例えば瞬速、例えば発火、例えばサイキック、例えば発電、例えば浮遊。コミックの中の超人のように人ならざる力を持つ者を――人々は突然変異(ミュータント)と呼ぶようになった。
 ミュータント発生の具体的な理由は未だに解明されていない。あの戦争で飛び交った兵器の影響で遺伝子がどうこうなったのか、何か大きな陰謀か、はたまた宇宙人か隕石かウイルスか……最有力説として挙げられているのは、「戦争によるストレスによって突然変異を起こしたのではないか」といった仮説だ。

 はたしてミュータントは――
 戦後の混迷期の只中にあった人々に、優しく受け入れてはもらえなかった。
 あの戦争で作り出された生物兵器ではないか。また戦争の火種になるのではないか。魔女狩りの歴史が証明しているように、人々は己とは異なる未知に対して過剰な攻撃性をみせる。対するミュータントも、己の異能で犯罪を犯す者がやはりゼロではなく、世間の印象はますます悪くなっていった。中には「己は選ばれた新人類だ」と人間を露骨に見下し、災厄のように異能を奮う者すらいた。
 かくして世界各地で激しい差別が発生した。だがそんな人々の恐怖とは裏腹に、ミュータントの数は増加し続け……いずれ自分達はミュータントにとって代わられるのではないか、ミュータントの奴隷にされてしまうのではないか、そんな新しい恐怖と不安も萌芽した。
 ここに負の連鎖が発生する。人間がミュータントを恐れて差別する、迫害されたミュータントが牙を剥く、ますます人間がミュータントを恐れる……その悲しいスパイラルだ。
 社会は不安に覆われ、人間の犯罪も増え始めた。世間が乱れ、大戦からの復興も遅延し、そうしてますます世界は病んでいった。いつしか犯罪者を『養う』為の金が国々の社会問題となっていった。このままでは世界はまた大戦を繰り返してしまうのではないか。人々の不安は膨らみ続けた。

 そんな中であった。
 今から約20年前。とうとう、ミュータント達が結託し、武装蜂起する。

 鮮烈なカリスマ性を持った活動家が同胞を、あるいはミュータント愛護を訴える人間を束ね、各地でテロを起こしたのだ。
 人類は混乱した。だが直ちに反撃を開始する。それは積年の恨みや八つ当たりが込められた、あまりに過激な内容だった。
 まず人類は「ミュータントは人に非ず」と定め、ミュータントには人権がないものとした。よって、あらゆる非人道的兵器の使用が認められ、捕縛されたミュータントに関しても『捕虜』とは認められず、温情的な条約が適用されることはなかった。これはミュータントという害獣を効率よく駆除する為であり、未知なる現象を調査する為の残酷な大義名分でもあった。
 異能を用いて対抗したミュータントであったが、多勢に無勢、そして何よりも人類の悪意を侮っていた。
 初撃こそ大成果を収めたものの、そこからのミュータントは敗走を重ねていった――徐々に士気も崩壊していき――こうして、一年ほどでミュータントの乱は鎮圧された。

 さて。
 ミュータントという人権なき実験体を数多得た人間は。
 彼らの体を脳を切り開き切り刻み、ありとあらゆる実験を重ね――人間がミュータントに変容する因子を発見する。同時に、倫理観のない人体実験と解剖の恩恵で人体や脳といった『生命の神秘』についての分野も飛躍的に発展した。
 かくして大きな発明が次々と生まれていく。特に画期的なのは以下の三つの大発明であった。

 ――ミュータント化しないように因子を消滅させる薬剤の発明。
 これは全人類に注射の形で接種が厳格に定められており、これと世界的な淘汰の結果、世界から『天然の』ミュータントは絶滅した。

 ――人工的にミュータントを作り出す技術。
 前述の技術とは逆に、ミュータント化因子を注入することで人間をミュータントに変質させる。
 任意の因子を組み合わせれば、特定の能力を有したミュータントを製造できる。

 ――脳にアプローチして任意の情報を消去あるいは移植する技術。
 人工ミュータントへの脳浄化がこれだ。脳味噌を弄くるという面から、倫理的に『人間には』用いられていない……一応は、そういうことになっている。

 後者二つの技術を組み合わせたのが『よいこ』計画だ。
 兼ねてより増加の一途を辿り財政を圧迫していた囚人に、ミュータント化処理と脳浄化を施し、わるいこからよいこに生まれ変わらせて、社会へ奉仕をさせる――ミュータントという禁断の扉を既に開けた人類の倫理観は、もはや荒んで緩みきっていた。「人材的資源の致命的ロス!」「サステナブルな社会を!」「犯罪抑止!」そんな謳い文句に、世界中の人々が賛同した。疑う者はいなかった。よりよいこと、正義なのだと笑顔を浮かべた。

 こうして今、世界は大発展を遂げている只中なのである。経済成長は右肩上がり、次々と新しい技術が発明され、人々は豊かで人口も増えつつあり、バブリーで景気のいい幸せな日々が、今日も続いている。
 その平和と繁栄に疑問を持つ者の存在を、決して許さないまま。

 ●

 雨は上がり、明るい朝が今日もやって来る。
 まあ、最初の日は着替えだの毛布だの生活用品の買い出しで終わってしまったのだが。
 一同は、賑やかな都市の往来を行く。
「そういえばローダンさん、お仕事は何を?」
 ミュータント由来の怪力でヨロズは荷物持ち担当だ。『家庭用お手伝いミュータント』は珍しい光景ではなく、町を歩けば運転手や荷物持ち、ベビーカーを押している子守り、男と腕を組んだ美女のコンパニオンが見かけられる。他にもサンドイッチマンや呼び込みやティッシュ配り、警備員といった商業用の個体もいた。
「なんと無職だよ。……ちょっと前に辞めた」
 ローダンは空を少し仰ぎながら言った。ビルに挟まれた狭い空は、昼下がりから夕暮れへと移ろいつつあった。なお彼は「手伝ってくれたら助かるが奴隷が欲しいワケじゃない」と言ったが、隻腕なこともあって結局荷物はヨロズが全部持ってしまっている。
「前のお仕事は何してたの?」
 賑やかな人通りの中ではぐれないよう、ヨロズの袖を掴んでいるジェーンが男を下から覗いた。ローダンは少し躊躇うも、こう答える。
「あー……警察だ」
 その情報と『約20年前のミュータントの乱』を組み合わせると、少年少女は彼がミュータントと戦った背景を察することができた。男も子供らの一寸の沈黙でそれを悟ったようだ。「別に隠そうとは思ってなかったしな」とフォローしつつ言葉を続けた。
「尤も、『例のアレ』で体がこうなったから、そっからはずっとほぼ在籍してるだけのお飾りだったがよ」
「大変だったんすね……」
「……寧ろお飾りになってからは大変じゃなさすぎて苦痛だったよ」
 ヨロズの言葉に、男は息を吐く。
「時が移ろえば過去が無責任に美化される……あの暴動をたまたま生き延びただけの俺を、周りが勝手に称賛しはじめる。英雄だのなんだの……馬鹿みたいだろ」

 ――あの争乱から生還したなんて!
 ――かっこいい! 憧れちゃいます!
 ――たくさん殺ったんですか?
 ――すごいですね!

「まあ、それが嫌でとっとと辞めたんだが」
 己は英雄なものか。男が撃ち殺したのは、同じ赤い血が流れて、泣いたり笑ったりする人間だった。ただの人殺しだ――
「へー、すごいね」
 ローダンの回想の声に被せるようにジェーンが言った。
「普通はさぁ、そーやっておだてられたら猿山の大将になるじゃん。なんか、勝手に崇められるのをヤダって思えたのすごいと思うよ」
 その言葉にローダンは少し目を見開き、少女の方を見た。目が合う。
「……おじさんさ、ミュータントとの戦いに勝ったこと、あんまり嬉しそうじゃないね。それにミュータントが働いてる姿から目を逸らしたりさ。私やヨロズを人間みたいに扱ってくれるし」
 少し声を潜めてジェーンが言う。今の話といい街を見る目といい、どうもローダンという男は、ミュータントを奴隷とするこの世界に拒否感を持っているように感じた。
 男は目を逸らし前を向く。
「……、目ざといことで」
「人混みだらけでおじさんぐらいしか見るものないもん」
 ジェーンは小さいから、雑踏を行くと埋もれてしまう、周囲の大人達で視界が覆われてしまう。だからローダンを眺めていたのだ――人となりを垣間見る為にも。
「ジェーン、おまえは……この世界をどう思う?」
 大通りから路地に入る。アパートへの近道だった。人通りがぐっと減る。ローダンの言葉に、ジェーンは瞬き一つ。
「正直に言っていいの?」
「何言っても通報しないさ」
 そう言われ、ジェーンは小さく息を吸った。そして――
「ヨロズ、ちょっとあそこの自販機でジュース買ってきてちょーだい。いっぱい歩いて喉乾いちゃって。荷物ここ置いてていいから」
「了解っす!」
 近くのコインパーキングに併殺された自販機を指差せば、荷物を下ろしたヨロズがパッと走り出していった。「ローダンさんはー!?」「微糖のコーヒー」なんて男衆のやり取りが終わったら、ジェーンは先程の質問に少し小さめの声で答えはじめた。この世界についての彼女の印象だ。
「同じ人間を勝手に弄くり回して、人格も記憶も心も処刑して、都合のいいモノを頭に植え付けて道具扱いして、言うこと聞かなかったら平然と殺して、すっごく気持ち悪いよ。今は人間のひとだって、事故か何かで犯罪者になるかもしんないのに、自分たちはそんなことないっていう謎の自信とか……」
 そりゃ、ミュータントとなった元の人間は社会に迷惑をかけ他者を悲しませた罪人なんだけれど……罰を受けるべきなのだろうけれど。
「罰を与えるにしても、もっとうまくできたんじゃないかって思うの。罪を犯した自覚すらもないまま、身に覚えのない贖罪を一生強いられるなんて、さ……楽かもしれないけど無責任っていうか……」
「そうか。……俺も概ね同意見だよ。この世界に対して、ミュータントに対して……」
 この世界は狂っている。――罪を忘れて笑顔で駆けて来るヨロズを見ながら、ローダンは言った。心中はジェーンともども複雑だった。よいこ計画にいびつさを感じながらも、それを否定することは、ヨロズの存在や生まれを否定するようなものだから。あの少年が脳浄化の結果とはいえ忌むべき邪悪ではないことは明白だった。
「しかし……ミュータントのおまえがそんなことを言うとはな。驚いた」
「やっぱり脳浄化されてないのかな、私」
「あながちそうかもしれんな。だとしたらますます妙な話だ。さて――ジェーン、今の話は大っぴらにするなよ。下手したら粛清される」
「……わかった」
 小声のやりとりの直後、ヨロズが合流する。
「はいローダンさん、微糖コーヒーっす。ジェーンはピーチソーダでよかったっすか?」
「うん、ありがと」
「ご苦労さん。……ヨロズおまえの分は?」
 缶を受け取ったローダンに指摘され、ヨロズはサングラスの奥の目をキョトンとさせた。
「俺の分……?」
 なぜ? といった雰囲気だ。ミュータントは奉仕する道具であって、そこに褒美や娯楽への期待はない。
 ローダンはやれやれ溜め息を吐くと、手の中の缶を少年に渡した。
「ほれやるよ」
「えッいいんすか!? でも」
「歳だから水分摂りすぎると頻尿になるんだよ」
「そ……そっすか……」
 人間がそう言うのならそれ以上は言及しない。しかし荷物を持つと手が塞がる。どうしようと缶を手に俯いている。
「ちょっと休憩してくぞ。俺は歩き疲れた」
 言いながら手近なベンチへ、男はよっこらせと腰を下ろした。それは「いいからゆっくり飲め」の意であった。
「ヨロズ、私達も座って飲も?」
 荷物を小さな手で持てるだけ持って、ジェーンは笑顔でベンチへ歩き出した。ヨロズはコーヒーと、荷物と、ジェーンとローダンを順に見て――「はい!」と笑顔で頷いた。

 ●

 夕飯についてはヨロズが「カレーでも作りましょうか」と申し出た。「おまえ料理できるのか……」「マジで? できるの?」と驚く二人だったが、脳浄化の際に基本的な家事技能についても移植されているとのことで、ヨロズは得意気だった。
 ミュータントの『餌』については、ドラッグストアなんかで完全栄養食のレーションなんかが格安で売られているが、普通に人間の食べ物から栄養を摂取することも可能だ。「今度は自分の分もちゃんと作れよ」とローダンに釘を刺され、苦笑するヨロズはちゃんと3人前を作った。帰路の途中にスーパーで買った食材とレトルトのパック白米による、ありふれた庶民の味だ。
 もとは独り暮らし用だった小さめのテーブルの周りに、折り畳みの椅子が二つ追加された。少年少女と男が座って食べ物を置けば狭苦しい。カトラリーも今日揃えたばかりの廉価品だ。
「いただきまーす」
 子供達はご機嫌にカレーを食べ始める。ローダンも同じ料理を頬張りつつ――そういえば自炊なんていつ以来だ、と想いを馳せた。あたたかくて、ありふれた味わいなのに、おいしいと感じた。
 そうして上目に少年少女を見る。二人とも所作はいい。ヨロズに関しては『そういう風に造られているから』かもしれないが、脳浄化をされていない疑惑のあるジェーンに関しては、所作がいいというより品が良く――
(本当に、パナケイア家の令嬢なのか? なぜミュータントに……名家の娘が犯罪を犯したとなればもっと世間が鬼の首を取ったように騒いでるはず……そもそもなぜ脳浄化がされていないんだ、あるいは失敗したのか? ……首に刻印があるからミュータントなのは間違いないとは思うんだが……)
「おじさん」
「あ?」
「なに? さっきからすっごい見てくるじゃん……」
 変なの、といった目だ。男は肩を竦めた。
「……白っぽい服着てるからよ、カレー飛んだら大変そうだなって」
「気を付けてるし!」
「はいはい。――で、ヨロズ」
「ふぁい?」
 カレーを頬張っている只中の少年が、会話のパスに黒い瞳をローダンへ向ける。室内なのでサングラスは外している。
「……この近くに花屋があってよ。俺の知り合いの関係者の店で……前々からちょいと人手不足でな。行ってこい」
「了解っす!」
 体が『壊れた』こともあって、ローダンは経済面で死ぬまで苦労はしないだろうが、それでも――金だけポンと渡して行ってこいと告げるのはどこか不健全に感じていた。少年少女はローダンの家に一時的に住まわせてもらう、見返りにローダンの為に動いてもらう、それで後腐れなく貸し借りナシだ。
「私は私は?」
 ジェーンが目を輝かせてローダンを見る。男は最後の一口を飲みこんでから――彼の食べるのが早かった――しょっぱい目で少女を見返す。
「おまえその見た目じゃ働くの無理だろ……」
「グッ……」
「うちの家事とか……手が空いたら隣部屋のばーさんの話し相手とか手伝いでもしてやってくれ。俺の遠い親戚が遊びに来たってことにしときゃいい」
「なるほど……オッケー!」
「俺はパナケイア領地への行き方について調べといてやるよ」
「ほんと!? ありがとう!」

 ――かくして一週間、ミュータントと人間の奇妙な共生がはじまる。
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