●1:これはありふれたSF


 少女が目覚めたのは見知らぬ部屋。見知らぬ空間。白い、まるで実験室。
 手術台のようなモノに横たわり、辺りには白衣の人々。
 彼らの言葉に耳を澄ませば、どうやら「起動成功」とのことらしい。

 あらゆる疑問が込み上げる前に、少女が鮮烈に気付いたのは、自分が何も覚えていないことだった。
 いや、たった一つだけ、覚えている。それは自分の家の記憶。
 そうしてもう一つ、これは記憶ではなく自覚だが、少女は人ならざる力を与えられていた。

 記憶はないが、デジャビュを感じる。
 嗚呼、なんて古典的なSFドラマのワンシーンなのだろう。

 ――悪の組織に拉致されて改造人間にされてしまうなんて。

 だから少女は決意した。
 ここから逃げ出してやろう、と――そう、まるで、古典的なSFドラマのワンシーンのように。

 かくして少女は異能を用いて『施設』から脱走を果たす。
 脱走途中、協力しろと手を引っ張った『同類』と共に。
 すったもんだの大脱走の大活劇の詳細は、ひとまずのところ割愛をしまして――

 ――今、半ば緑に沈んだ廃線の上を、2人の少年少女が歩いて行く。

「それにしても――」
 少年の方は、ハイティーンで大人とそう遜色のない外見。犯罪者のような目つきの悪さをしているが、その強面に反してまとう空気はどこか気の弱い小市民的だ。品行方正そのものの野暮ったい黒髪も、垢抜けなさに拍車をかけている。
「ほんとに施設から脱走しちゃうなんて……」
 彼のいでたちはブルーグレーのジャンプスーツ、少し前を行く少女もまた同じ服装だった。
「だってお家に帰りたいんだもん」
 振り返る少女は、ローティーンのまだ幼さの残る見た目をしていた。華奢で小柄、真ん中分けをした淡い栗色の長いウェービーヘアも相まってミステリアスな人形のようである。ただ、その菫色の瞳は凛と勝気で、人形のような従順さは欠片もなかったが。
「手伝ってって言ったらいいよって言ってくれたのあなただし」
「そ……それはそうっすけど」
 というか、と少年が困惑の目で少女を見た。
「『お家に帰りたい』って……君、もしかして記憶が残ってるんすか?」
「……自分のお家のことだけだけどね。あなたは?」
「あなたはも何も――『よいこ計画』のミュータントは脳浄化されるのが決まりじゃないすか」
「……。ちょっと、何? 知らない言葉が3つほどパレードしたんですけど?」
 怪訝げな半目。錆びた線路の上でバランスをとる遊びをやめて、少女は彼へ向き直る。知らない三連星を口にした。
「よいこ計画? ミュータント? 脳浄化?」
「犯罪者の脳の記憶ならびに人格を消去し、社会常識と模半的倫理観を移植、そういった脳浄化プロセスの後、身体改造を施し改造人間(ミュータント)にして、労働力として社会奉仕をさせる、人材資源の画期的エコロジー施策。――あれ? よいこ計画のことは脳浄化の時に移植されるハズなんすけど……」
 テンプレートを読み上げるような彼の説明に、少女はますます首を傾げた。
「待って? じゃあ私、犯罪者なの?」
「だと思うけど……」
「はぁぁ!? やってない! 私なにもやってないし!」
「俺に言われても……。でも君みたいな小さい子が施設にいるなんて珍しいすね、見た時はビックリしたっす」
 なにせ、施設――ミュータント製造場にいるのは必然的に犯罪者だ。未成年犯罪者はいないことはないが、少女ぐらい幼いのは、少なくとも少年が見た範囲では『彼女だけ』だった。
「私、何したのかな……」
 少女が小さな掌を見下ろす。
「クラスメイトを刺したとか……」
 少年が真面目に答えるものだから、少女は肩を竦めた。ここは「君は犯罪者なんかじゃないよ、きっと」が模範解答だったのだが、他人がいつも自分にとっての模範解答を口にしてくれると期待するのは大間違いだ。
「ま、覚えてないものはしょーがないか。……なんてゆーかてっきり私、悪の組織に捕まって改造人間にされたのかと」
「悪の組織じゃないとは思うけど……。どうする? 施設に戻ってゴメンナサイすれば許してもらえるとは思うけど」
 施設は別に、世界征服を目論む悪の組織のアジトではないし。そんな少年の問いかけに、少女は――
「ヤダ」
「ヤダって」
「だってアイツら、あなたの首に爆弾しかけてたじゃん。そんな組織、悪の組織に決まってんじゃん」
「ああ――あの、脱出の時に引き千切ったやつ……」
 少年は自分の首を撫でた。そこには素肌しかなく、かつて爆弾として機能していた首輪はない。
「あなたが死んでもいいなんて思われてる場所に、戻りたくなんかない、絶対に」
 真っ直ぐ。
 少女はどこまでも凛と言った。線路の上、ひとけのない緑を揺らし、風が吹いて、少女の肩甲骨ほどある髪が揺れた。
「よいこ計画のミュータントは法律上、人権のない備品すから……元凶悪犯ばっかりだし万が一のことに備えて措置が施されてるのは、」
「言いたいことは分かるけどさあ」
 少女は彼の言葉(テンプレート)を遮った。そして話題を変える。
「ところでさ。私もあなたも、どーせ覚えてないでしょ? 名前」
 いい加減、呼びかける時に名前がないのが不便だ。少女の言葉に、少年が頷く。
「識別ナンバーならあるけど……」
 そう言って数字の羅列をズラズラ語るが、当然ながら覚えられるはずがなく。少女は少し考えてからこう言った。
「じゃあヨロズ。数字がいっぱいあるから、八百万(やおよろず)でヨロズ」
「なるほど、ナイスアイデアすね」
「私にも何か考えてよ」
「君に? う~ん……、――あ。いや、う~~~~ん……」
 少年――ヨロズは何か思いついたようだったが、それを言い出すのはやめたようだ。なのでまだ名無しの少女は突っ込むことにした。
「なに? 聞かせてよ」
「いやぁでもこれ……」
「いいから、怒らないから」
 そう促せば、少年はためらいがちに視線を揺らして小さく呟いた。
「……ジェーン、とか」
「いいじゃん、でもどうしてジェーン?」
「ジェーン・ドゥのジェーン……名前がないから……でも身元不明の女性の死体って意味合いもあって……」
「あはは! なんだそんなこと。いいよ別に、もう気に入ったし」
 笑って、そしてまた、少女――ジェーンは廃線の上を歩き始める。先ほどよりも上機嫌に。
「おうちに帰れたら、忘れてる本当の名前も分かるかな? それまで私はジェーンで。よろしく、ヨロズ」
「うん――よろしくっす、ジェーンちゃん」
「ジェーンでいい」
「わかったわかった」
 小さく笑って返したヨロズも、その背を追って歩き始めた。

 ――その時である。

 空から聞こえてくるヘリの音。廃線を挟む木々のざわめき。
 ばばばばばばば、というプロペラ音は迷いなく二人の方へと近付いていた。
 真っ白な機体に描かれているのは――(^▽^)こういう、本当にこういう感じの、ふざけた笑顔のシンボルで。
 二人がそのふざけたシンボルに「ぎくり」としたのは、他ならぬそれが『施設』のエンブレムだったからだ。
「まずい追手がっ…… 森の中に行こう!」
 配線は森を拓かれて造られていた、右にも左にも藪と木々が茂っている。声を張るジェーンに、「わっ、分かったッ」とヨロズは慌てつつヘリと緑とを見比べた。
 ガサリ――深い緑の中へ二人は跳び込む。その直後だ、ヘリからひとつの人影が降下する――パラシュートも何もなし、普通の人間ならば間違いなく死ぬ高度、しかしその者はなんてことなく着地した。
 身を起こすのは白いスーツの乙女。几帳面に切りそろえられたストロベリーピンクのボブカットと、涼やかな美貌を湛えたかんばせ。清廉、優等生、高潔、といったワードが連想できる外見と雰囲気。
「鎮圧班アイジス、現着しました」
 通信機を介して『上司』に告げる、感情のない冷たい声。対し、通信機から返ってくる男の声は穏やかで緩やかであった。
『アイジス、少女の方は再生能力がありません。殺傷しないよう気を付けて』
「了解。少年の方は?」
『好きにして構いませんよ』
「了解」
 右手をひと振るい――シャキ、と展開されるのは警棒だった。温度のない眼差しが、二人が消えた藪を睨む。

 ――枝葉を掻き分け、目を細め、葉擦れの音を立てながら、走る。
 
「あッ……!」
 ジェーンの足が止まったのは、緑の切れ目、広い川の河原に出てしまったからだ。見回すが、向こう岸に渡るのは少々厳しいか。
「川っ……どうしよ、泳ぐ!? 引き返す!?」
 隣に着いたヨロズはアワアワとジェーンをうかがった。ハァハァ息を弾ませている少女に対して、彼は一切息が上がっていない。
「や、この川けっこー深いし流れも速いッ……はぁ、はぁ……また森に入ってアイツ撒くか……」
「その必要はありません」
 割り入る声。は、として振り返るジェーン――その視界に映るのは、アイジスの警棒で首を後ろから殴られているヨロズの姿で――首の曲がり方、嫌な音からして、首の骨が折れたのは明白で――
(ダメ、そんなの、嫌、『許さない』)

 かくして、目を見開くジェーンの『ミュータントたる異能』が起動する。

 ぐるりと世界が回転し。
 ――枝葉を掻き分け、目を細め、葉擦れの音を立てながら、走る。ジェーンの足が止まったのは、緑の切れ目、広い川の河原に出てしまったからだ。
「っ……成功した、!」
 ここは『10秒前』の世界。
 ジェーンは時間を10秒前だけ巻き戻すことができるという、常軌を逸した異能を持つミュータントであった。
 なお、一度『巻き戻し』を行うと、次に異能を使うまで10秒のクールダウンを要する。つまり連続で10秒巻き戻しまくって遥かな過去へ跳ぶことはできないということだ。
「ヨロズ! 後ろからアイツが来て首ブン殴られる!」
「えっあっ分かった!」
 少年はジェーンの異能について本人から知らされているが、それでも彼からすれば「いきなりジェーンが未来予知みたいなことを言う」ように映っているので突拍子がない。だが彼女の能力が事実であることは――『脱走』の時に大いに思い知ったので、疑うことはなかった。
 ヨロズは身を反転させた――そうすれば藪から飛び出し、警棒を構え振り抜かんとしているアイジスの姿が見えて――『予知された』ことにアイジスが目を見開いた――「ぐしり」と音が鳴ったのは、ヨロズが片腕で警棒の一撃をガードしたからだ。細い棒がめり込んで、腕が壊れた玩具のようにひしゃげている。折れた骨が内側から肌を突き破って、鮮血。
「ッ――」
 しかし、少年が痛みに顔をしかめることはなかった。
 ヨロズは肉体労働用として身体面で強化されたミュータントだった。痛みを感じず、持久力があり、怪力、そして――傷はすぐに治る。(脳や脊髄へのダメージはその限りではなく、場合によっては死亡するが)
「ごめんねッ!」
 少年は無事な方の腕でアイジスの腕を掴むと、思いっきり、川の深い方へとブン投げた――投げる際のすさまじい遠心力でアイジスの腕が脱臼したほど――木っ端のように投げられた乙女が、ダボンと激しく着水する。
「ぶあっ!」
 緑の水面から慌てて顔を出す。アイジスは衝撃と遠心力で警棒は手放してしまっていた。脱臼した腕をゴギンと戻す顔は不快げだが、痛みの色がないのは、アイジスもまたミュータントだからである。
「この私がッ、ただの……肉体労働用ミュータントにッ……!」
 無感情かと思われたかんばせに屈辱と怒りをにじませ、アイジスはすぐ二人のもとへ向かおうとした。だが川は深く流れは速く、足がつかず、浮いた体はどんどん水の流れに押しやられていく。その間に、ジェーンとヨロズは森の中へと走っていく。
「まっ――待て貴様ら!」
「待てって言われて待つおバカがいるかおバカ!」
 振り返るジェーンが、ベッと舌を出した。
 アイジスは自分をそこらのミュータントより優秀だと自覚している、よいこ計画の模範的『よいこ』だからこそ有事の際のミュータント制圧役に抜擢されたのだと信じている。だからこそ、こんな……下等な肉体労働用ミュータントにしてやられ、生意気で『わるいこ』なミュータントに馬鹿にされ、顔を真っ赤にした。
「おのれ! 一度ならず二度までもーーーーッ……」
 乙女はジェーン達が脱走時も立ちふさがり、そしてやられた経緯を持つ。ジェーン達にやられるのは二度目だった。その怒りの声は、ざぶんと川に飲み込まれる。

「ヨロズ――ヨロズ、大丈夫!? 腕……っ」
 一方、森の中を駆けるジェーンは真っ青な顔で少年を見ていた。
「大丈夫大丈夫! ほら、もう治ったっす」
 ヨロズは心配させまいと努めてからから笑いつつ、真っ直ぐになった腕を袖をまくり見せた。事実、傷はもう綺麗に完治している。だが出血したことでジャンプスーツの袖と、腕が血で濡れていた。
「痛覚もないし、平気っすよ」
「でも……」
「君は優しくていいこっすねえ」
 少年は穏やかに笑った。さっき、施設に戻ることを提言した時のジェーンの言葉を思い出す。

 ――「あなたが死んでもいいなんて思われてる場所に、戻りたくなんかない、絶対に」

 大胆なことをしでかすけれど、ジェーンは決して利己的ではなかった。施設でたまたま出くわしたヨロズに「脱走するから手伝って」と言われた時はビックリしたけれど……きっとそんな真っ直ぐさを直感的に感じたからだろう、『よいこ』だったハズの少年が「いいよ」と言ってしまったのは。力になりたいな、と不思議と思ってしまったのは。
「それにしても『10秒巻き戻し』すごいっすね!」
「……原理どうなってんのかな?」
「さあ……ミュータントの不思議な力については、まだまだ研究段階っすから……」
 身体面の物理的なものはかなり解明できたのだが、魔法か超能力としか呼べないような代物については、未だに実用段階にはほぼ至っていない。
 そうこうしている間に森の切れ目が見え、二人は道路に辿り着いた。時間はそろそろ夕暮れで、車が見えない道路はえらく静かだった。
 立ち止まり、耳を澄ませる。追手の気配はない。はあ。ようやっとの、安堵の溜息。へろへろと脱力。
「……これからどうするんすか?」
 ヨロズは小さな少女を見下ろした。走って走って疲れてしまって、ジェーンは道路の隅に座り込んでしまっている。
「どうしよ……おうちの記憶はあるんだけど、それがどこかまでは分かんなくて……とりあえず手掛かりを探す為にもどっかの町に行こうかなとは思ってて……」
 そこまで言って、少し息を整えて、ジェーンはヨロズを見上げた。
「ヨロズは、どうする? ついてきてくれたら、そりゃ正直に言えばありがたいけど……別に好きなところに行ってもいいんだよ」
「君についてくっす。ほっとけないし」
 に、と少年は快活に笑ってみせた。
「そんな簡単に言っちゃって。後からやっぱナシはナシナシのナシだからね」
 つられるようにくしゃりと笑って、少女は小さく首を傾げた。そしてゆっくり立ち上がり、おしりをはたき、伸びをする。
「さて――と。じゃあ、まずは服をどうにかしなきゃだね。施設から逃げてきたミュータント感ヤバイし」
「そっすねえ。それから安全に寝泊まりできる手段と、ごはんと、その為のお金と……」
「お金かぁ……ヨロズ持ってる?」
「無一文っす!」
「ですよねー。あ~あ、都合よくどーにかならないかな~……」
 なんて、ジェーンが空を仰いでボヤいた直後であった。
 キキッ、と二人の傍に真っ赤なオープンカーが泊まる。乗っていたのは浮かれてチャラついた若い男女2人組だ。いわゆる『ヤンキー』とか『DQN』とか『半グレ』とか、そういう単語が似合う連中だった。
「ほら~! この服、やっぱりミュータントだって!」
「マジじゃんヤバ~! ウケる~!」
「こんなロリとかいるんだ~その手のアレにはバリウケるんじゃね? ロリコン的な?」
「ミュータントって犯罪者なんだよなぁ? 何ヤったんだ? 殺しか?」
「え~~~っこのロリガキも犯罪者なん? キショ~~~」
「おいミュータント、これ食ってみろよ~」
「ちょっヤダ~ヤバ~~~~ウケる~~~~」
 男の方が、吸っていた煙草をヨロズの足元に放った。
 ジェーンは終始、スンとした目でそのやりとりを見守っていた――「都合よくどーにかならないかな~」というさっきの言葉に対して、「どーにかなりそーだわ」と自答した。
「ヨロズ」
「はい?」
「ちょっ コラッ 吸い殻拾ってんじゃないよ!」
 まさかあの人間の言う通り食べるんじゃないかとジェーンは声をひっくり返す。
「いやポイ捨ては良くないなって……傍に森があるし、万が一でも山火事になったら……」
「真面目ッ……! いいから大丈夫だから!」
「ええ~……?」
「いいこと? 今から私がこーゆー時のお手本を見せてあげるから」
 そう言って、ジェーンはチャラ男女ズへ向き直った。そして――ガンッ、とご自慢のスポーツカーを蹴った。
「「ハアァアアアア!?」」
 途端、チャラ男女ズはキレる。当然である。
「こいつミュータントのクセに生意気! ムカつくんですけど~!」
「人間様に逆らったらどうなるか分かってんだろうなあ!?」
 イキりキレた男が車から降りてくる。拳を鳴らし、ジェーンに掴みかかろうとしてくるので――
「ヨロズ正当防衛! 護って助けて今すぐに!」
「え!? えええ!? えいっ!」
 困惑しまくりつつもジェーンの安全を最優先。割り入るヨロズは盾になりつつ、拾っていた煙草を男の口にスッと戻した――ウッカリ、火のついた方を相手の口側にして。じゅっ。ウッカリ根性焼き。
「ぎゃあああああああああ!!」
 超悲鳴。オーバーリアクションなほどに。
「で! でめえ!」
「アアアアすいませんすいませんすいません!!」
「ミュータントッ、ミュータントが人間に逆らうなんてッ、」
 男女はたいそう狼狽えていた――男は口を押さえて目を白黒、女はキャーキャーとにかく喚いて――ミュータントに攻撃をされた、と思い込んでいる。そしてここで、よく見たらヨロズの腕に血がついていることに気づいた。妄想は加速する。「こいつヤったな」と。
「我々はミュータント反乱軍であーる!」
 その恐怖につけ込んで、ジェーンが堂々と声を張った。
「愚かな人間よ、車と財布を置いていったら命だけは見逃してやろう!」
「ひいいいい!!」
 人間からすれば――決して逆らわず刃向かうことのなったミュータントが、自分達を害そうとしているのだ。身体面から言って人間はミュータントには敵わない。しかもミュータントは失うものが何もない『無敵の人』でもある。ある種、クマにでも襲われるような恐怖だった。

 かくして。

 ジェーンの口車に乗せられて、車と財布を残してアベックは逃げていって。
 ヨロズが運転できるとのことで、少女の足跡がついたオープンカーが広い道路を走っていく。
「いやー、うまくいくもんだね」
 風が心地良い。助手席、流れていく風景にジェーンは目を細くした。
「……。これ恐喝と強盗っすよね!?」
 従順にハンドルを握っていたヨロズがハッとする。少女は悪びれずに鼻で笑った。
「勝手にビビったのは向こうだし、先にイチャモンつけていたのも向こうだし。……ていうかヨロズ、あんな連中ポカッとやっちゃえばよかったのに。なにが煙草食えよ失礼な」
「ミュータントは人間に暴力できないよう脳に処理がされてるんすよ……」
「そーなの!? ……だからアイツらあんなにビビってたのかー」
 襲いかかってこないと信じ切っていたものから襲われたら、そら怖かろうて……とジェーンは想像する。
 そんな少女を、ヨロズは横目にチラと見る。
「なんていうか、ジェーン、君ってキチンと脳浄化されたんすか?」
「さあ……?」
「むむむ、なんか妙っすねぇ。君は犯罪者にしては幼すぎるし、時間戻しなんていうトンデモパワーがあるし、脳浄化されてない説まであるし……でもミュータントだしなぁ、マーキングもされてるし」
「マーキング?」
「ミュータントは首の後ろによいこ計画のシンボルが刻印されてるんすよ」
「げぇっ!」
 ジェーンは思わず自分の首に触った。長い髪に隠れて見えないが、彼女の首にも、そしてヨロズの首にも、例のふざけた笑顔が刻まれている。
「石鹸で落ちないかな?」
「刺青だからなぁ……石鹸じゃちょっと無理かなぁ……」
「最悪〜……」
 溜息。頬杖。改めて、自分は何なのだろうかとジェーンは遠くの景色を見た。森は終わり、だだっ広い草原には、畑や風力発電の風車がポツリポツリと散らばっている。風景はジェーンに何も教えてはくれない。
「……私はおうちに帰りたいだけ」
 それは「分からない」の中のたった唯一。ジェーンは流れる風の中に紛れそうな小声をこぼした。もしあの家に家族がいるとして――外見年齢からいっておそらく親がいるだろう――もしジェーンがよいこ計画の通りに犯罪者だとしたら。
(追い返されたらどうしよう……)
 じわりと不安。下唇を噛む。
「あ!」
 その感情は、沈んでいく前にヨロズの声で静止した。顔を上げる。少年が彼方を指差している。古着屋があった。
「あそこで着替えられるっすよ! お金もあるし」
「いいね、行きましょ行きましょ」

 ●

 変にソワソワした方が怪しまれる。人間のおつかいで買い物に来たミュータントという設定で、二人は古着屋で安く服を手に入れた。特に怪しまれることもなく――古着屋の外に備え付けられていたトイレで、二人は手早く着替えを済ませる。
「じゃーん」
 ジェーンはクラシカルなミニワンピースにレギンスと、かわいらしいいでたちだ。整った顔立ちも相まって可憐なお人形のようである。
「……俺こうしなきゃダメすかぁ!?」
 一方のヨロズは、ジェーンが選んだコーディネートだ。ショート丈のジャケットに柄シャツ……ここまでならすらりとした体躯によく映えるいでたちだが、車にあったヘアカラースプレーで髪を橙色に染めた上でワックスで髪をオールバックにして、同じく車にあった厳ついサングラスを装備。全体的に、『ヤカラ』みの強い感じになった。
「こーゆー感じにしといたら、さっきみたいな鬱陶しいのも寄って来ないでしょ。防御よ防御」
「変じゃないすかねぇ……?」
「似合ってるよ」
「怖そうなコーデが似合うのもなんか悲しいなぁ……とほほ……」
「まあまあ。見るからにミュータントじゃなくなったことを喜ぼうよ」
 そんなこんなで車に戻る。道路脇の看板を見るに、町まではちょっと遠い。空はすっかり夕暮れだった。
「ん〜……今日の晩ご飯と、明日のご飯の心配はしなくてよさそう。今夜寝るのは別に車の中でいいよね?」
 財布の中身を改めながらジェーンが言う。幌は「オープンカーの雰囲気を味わいたい」とジェーンが言ったので閉められていない。
「俺はいいけど……ジェーン、シャワーとか浴びなくていいんすか?」
 制限速度と交通ルールをしっかり守って運転しているヨロズが答える。相手は女の子だ、状況が状況とはいえ男と同じ空間で眠らせるのも憚られた。まだ幼いジェーンには後半の意図は伝わっていなかったが。
「……そりゃ浴びれるものなら浴びたいけど」
「じゃあ今日はご飯食べたらどっかモーテルとかに泊まろう、疲れたでしょ……あんないろいろあって」
 ヨロズの言う通りだ。施設から脱走して、逃げて逃げて……つかの間なれど、やっと落ち着けたのが今だ。安堵を自覚したら、どっと疲労と気疲れが少女の身に押し寄せる。でも正直にそれを言うとヨロズを過剰に気遣わせてしまいそうで、ジェーンは口をへの字にした。
 その仕草に、少年は含み笑う。
「やっぱり……」
「まだ何も言ってない」
「今日はできるだけゆっくりしよう、明日からのことは明日から考えればいいっすよ。俺も一緒に考えますから……町についたらバイトでもなんでもしてお金なら工面するっす」
「……――、」
 強がりが無駄だったらしいことに、ジェーンは小さく息を吐いた。風景は、町に近付くにつれて少しずつ人工物が増えていた。ネオンの看板が通り過ぎる。道路の向こうに遠く摩天楼が見えていた。
「きみは優しいね」
 ぽつり、少女は呟いた。
「……振り回しちゃってごめん、ヨロズは『よいこ』だったのに」
「あはは。これはもう、なんていうか、運命っすから」
 脳浄化のおかげで自分には何もないことに、ヨロズは密かに感謝していた。何もないから、未練もない、失うものも社会的な地位も貯金もない。だから何の憂いもない。「この女の子を助けたい」という気持ちだけが、まっさらな心に唯一在った。それは命に意義と意味と価値とを感じるような感情で――だから、引き返すという選択肢は、とっくに消え果てていた。
「あ……5キロメートル先にダイナーがあるって。そこでごはん食べるっすか?」
「うん」
「君のおうち。見つかるといいっすね」
「……うん。ありがとう、ヨロズ」

 ●

 バイオテクノロジーが発達したこの惑星に、スマートホンなる代物はない。
 1999年、それは人がまだ遠くて近くてアナログだった時代。

 ――夜の真っ暗な川沿いの道を、ヨロヨロ、フラフラ、ビチャビチャ、ボロボロの乙女が歩いている。何も知らない人間が出くわしたらオバケが出たぞとパニックになることだろう。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とあるが、この場合はミュータントだ。川からようやっと這い上がれたアイジスである。
「ハァ……ハァ……おのれ、おのれェ……」
 今にも倒れそうだが、彼女の使命は脱走した『わるいこ』を捕まえることだ。そういう用途の為に造られたのだから、ちゃんと役目を果たさねば。ミュータントは道具である。切れない鋏に価値がないように、やるべきことをできないミュータントにも価値はない。アイジスは無意識的に、チョーカーのように首に巻かれた黒い首輪に触れていた。
 と、その時だ。彼女の横に護送車のような大きな車が停まる。アイジスがそちらへ目をやれば、後部座席のドアが開いて――夜の暗い車内、座した男がアイジスの方を向いていた。暗闇に居るが、真っ白なスーツ、そして頭部を完全に覆う真っ白な覆面によって、その姿は発光しているかのごとく白く浮かび上がっていた。
 アイジスは目を見開く。
「ブラド様!」
 彼こそ、アイジスのような治安維持用ミュータントのリーダーを務める者だった。
(まさか――)
 失敗した自分を処分しに来たのか。アイジスは露骨に恐怖を顔に浮かべて後ずさる。そんな彼女へ、ブラドは優しく両腕を広げた――迷子を迎えに来た親のように。
「心配しました。見つかってよかった……こちらへ、アイジス」
 発せられる優しい声は柔らかく脳にしみる。通信機でやりとりをした声と全く同じだった。
「っ……しかし、私にはまだ……任務が、」
「任務を続けるにしても、仕切り直しが必要でしょう? まずは濡れた体を拭きましょう。がんばりましたね」
「う――あ――」
 その優しい言葉に、不安だった心がどっと決壊して――乙女はボスへ跳びつき、抱き着いた。
「うええぇぇえぇえん……ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
 子供のように泣きじゃくる。白い男はその身体を抱き締めて、背中を優しく撫でてあげた。
「よしよし。ああ、こんなに冷えて……」
「次はっ、次はちゃんとやりますからっ」
「君ならきっとできますよ、大丈夫。こんなにもがんばりやさんなのですから」
 こんなやりとりをしているが……当然ながら二人とも『元』は犯罪者である。そしてミュータントに改造されるのは重罪人や更生の余地なしと見做されたろくでなしであった。
 ちなみにアイジスは美貌を武器に詐欺や違法薬物売買を行って数多の男の人生を破滅させた毒婦で、ボスは大規模なテロ事件を引き起こした過激派カルト教団の教祖である。

 ――ブラドに髪を拭いてもらい、着替えも済ませ、アイジスはボスに甘やかされながら、たっぷり休息をとった。
 そうして告げられるのは、例の二人が近くの町の方角へ逃げたらしいという情報。
 施設から攻撃的なミュータントが脱走したと分かれば人々は大パニックになる。施設側も厄介な責任を追及されよう。なのでこれは極秘任務だ。その『極秘任務』という特別感が、アイジスを優越感で奮い立たせてくれた。
 気力も体力も回復した『猟犬』は、新調した警棒を手に、件の町へと向かう……。

 ●

 ダイナーではホットドッグとフライドボテトを食べた。
 食べながらジェーンが半ば寝ていたので、「起きて起きて!」とヨロズはどうにか彼女を『延命』しながら食事を済ませ――そして今、幌を閉じた車でモーテルを目指している。
 ラジオからはシティポップ。助手席のジェーンは寝落ちてしまい、その身体にはヨロズの上着がかけられていた。
 あどけない寝顔を横目に見る。柔らかい、白い頬の輪郭、閉ざされた目蓋の眼球を隠した丸み、長い睫毛が落とす影、軟骨の柔らかそうな小さい鼻、寝息を立てる鮮紅の唇。全て、まるで、砂糖菓子だ。
(俺は元犯罪者だっていうのに……こんな無防備に寝ちゃって)
 少女の造詣から正面に視線を戻し、少年は遥かな都市を見据えた。ハンドルを握り直す。自分は今、少女の命を握っているのだと思うと、預けられた信頼に応えねばと少年は強く思うのだ。

 夜は夢を乗せて更けていく。
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