●7:とこしへの白色

 そこは知らない場所だった。
 安っぽいアパートの一室。真っ暗で埃の積もったテレビ。いかにも疲れた男の一人暮らし然と、室内も散らかっている。開けっ放しの窓から午後の生ぬるい風が吹いていた。
 男はくたびれたマットレスに寝そべったまま、ぼんやりと青すぎる空を眺めていた。蝉の声が聞こえる。その他には食器の音だ。食欲を促進するいいにおいもする。
 はーー……男は長い溜息を吐く。空から視線を移し、見知らぬ天井を見上げている。ややあってから首を傾けて室内に目をやれば、小さく安っぽいちゃぶ台を前に誰かが座っていた。男からは背中しか見えない。だがその赤色の髪で、男は彼が誰かを確信した。
「アカネ」
 名前を呼ぶと、青年が振り返る。ニコリと穏やかに微笑んでくれたので、男も同じような笑みを返した。
 男はゆっくりとベッド役のマットレスから身を起こした。卓の上には調理済みの食べ物が置かれている。それはインスタントのラーメンに、冷凍野菜と肉を適当に炒めたものを乗せただけの料理だった。不揃いの丼に目視による半分こで盛られている。温かな湯気と、味の予想がつくいいにおい。 
「ごはん作ってくれたの? ありがとう」
「どういたしまして」
 食事を作るのはいつもアカネの役割だった。互いにそれで文句はない。アカネが毎日食事を用意してくれるので、男は面倒臭さにかまけて食事を抜くことがなくなっていた。
 男は青年と向かい合う位置に座った。この部屋に座布団はない。男の為の、くたびれて汚れた座椅子が一つだけある。男はそれに座るのだ。青年は冷えた床にそのままあぐらで座った。常夏のおかげで床のひんやりとした具合がちょうどいいのだ。
 窓辺にはわずかな洗濯物がぶら下がっており、カーテン代わりに揺れていた。床にはあれやこれやが散らばっていたが、今は暫定的に隅へと積まれている。そうして顔を出した床はキチンと掃除され、久方ぶりにざらつきを失っていた。それでもまだ、あっちこっちに埃が積もっていた。
「いただきます」
 祈る神はいないけれど手を合わせ、箸を持って、食事を始める。まだ熱い麺をふうふうと冷ましながら、野菜炒めの味が少し染みたラーメンを頬張っていく。温かい湯気が顔に当たる。アカネが作る麺類はいつも少し硬めである。アカネの好みだろうな、と男は考える。野菜炒めもおいしい。ニンジンやらブロッコリーやらがミックスされたシロモノだ。いい感じに火も通っている。スープが染みている。シンプルな塩ラーメンの味だ。野菜炒めには冷凍の豚肉も一緒に炒めたので、肉の風味も出ていた。野菜があるだけで健康的な食事に見える。
「おいしいね」
「そうですか」
 ちょっと苦笑のような感じでアカネが言う。インスタントと冷凍食品を食べられる形にしただけで、味に関してもチープでジャンクな仕上がりだ、と本人は思っているのだ。おいしいけれど、感動的というワケではない。しかし「本当においしいよ」と男は念を押した。アカネは少しだけ笑った。アカネが嬉しそうなので、男も嬉しい気持ちになった。
「ごちそうさまでした」
 いつも食事の時、二人はやたら会話することはない。加えて男は早食いな方だった。食事は程なく終わり、男は手を合わせる。アカネはまだ食べている。尤も、じきに終わりそうだが。
「あ、食器下げといてください」
「分かった」
 ラーメンを頬張っているアカネに言われた通り、男はスープまで飲んで空っぽになった食器を狭苦しい台所に持っていく。久しく虫を見ていないなぁ、と思いながらシンクに置いた。
 男は元の座椅子に戻る。ほどなく食事を終えたアカネが食器を手に台所へ向かった。水の流れる音と食器が洗われていく音。埃をかぶっていたゴキブリ用ホウ酸団子はもうゴミ箱の中にある。アカネの手の中、泡と水のついた包丁がキラキラしていた。男は座椅子にもたれてその輝きを眺めていた。

 ――あの邸宅への帰り道が分からなくなって、何日経っただろう。
 今日も帰り道は分からない。

 彷徨の果て、二人が一先ずの家として選んだのは適当なアパートだった。散らかっていたが住めないことはない。男はやけにその家の勝手を知っていた。まるで、かつてそこに住んでいたかのように。ともあれ、人間らしい生活をできる場所があるのはありがたい。食べ物なら近場のコンビニやスーパーを漁れば何かしらが出てくる。寒さで死ぬこともなければ、虫に煩わされることもないとはいえ、野宿は流石に苦しいものがある。
 食器の数も少ない。まもなく、アカネは洗い物を終える。そのまま青年は掃除を始めた。使わないもの、要らないものをゴミ袋に入れて、道のゴミ捨て場に出して、空いたスペースに掃除機をかけて、雑巾代わりのタオルを濡らして拭いて。黙々と細々と几帳面な作業だ。よく飽きないものだと男は座椅子に座ったまま眺めている。
 真っ暗なテレビ画面の緩やかな曲線に、狭い部屋の風景が映っている。二人の様子が映っている。
 今日も変わらない常夏の日。あの邸宅と比べれば随分と狭いけれど、男にもアカネにも不満はなかった。
 男はアカネが掃除を行う姿に嫌な思いを抱かなかった。男はもう知っている。青年が掃除をするということは、『ここにいたくない』ではなく、『ここにいたい』という意思表示なのだということを。もう分っている。
「あの家も大きくて広くて立派で良かったけど、ここも悪くないね」
 男はゆったりとした口調で言った。あの邸宅への帰り道は分からなくなってしまったけれど、「まあ別にいいや」と男は思っていた。
(ちょっと前は、あんなにあの家が大事だったのにな)
 不思議だけれど、今のこの感覚こそが男にとっての真実で現実なのだ。
 男の言葉に、額の汗を手の甲で拭っていたアカネが振り返る。額の傷はすっかり塞がっていた。
「あの家を見つけたら、どうします?」
 どっちに住むのか、とアカネは質問している。男は少しだけ考えた。
「アカネはどっちがいいの」
「広くてのびのびできるのは、断然あっちの大きな家の方なので……」
「アハハ……まあ確かにね。異論なし」
 男もそう思う。この安っぽい一室よりも、あの立派な邸宅の方が素敵だ。まあでも、躍起になって帰り道を探すほどの気力はなかった。

 ――満腹感と共に、満たされた心地とわずかな眠気に身を委ね、ゆっくりとした瞬きを数回。
 そんな風にしていれば、太陽も沈んでいく。空の色が移り変わる。
 狭くて不便で何もない部屋で、二人は今日もまた漫然と一日を過ごす。最早、互いのプライバシーやら距離感も気にならない。そういった『外側』への関心は、二人とも心から欠落してしまった。

 ――ちりんちりん。
 知らない虫の、りんりんと鳴く音と一緒に、自転車のベルが鳴る。
 知らない花が咲き乱れている道。緑が溢れ、原色をした南国の花が、夜の中で輝いている。それらはあまりに眩しく、あまりに鮮やかだ。何の憂いもない色彩だ。星も見えないほどに。
 二人分の笑い声が響く。二人を乗せた自転車が、夜の道を駆けている。
 自転車を見つけてから、男と青年はよくこうして二人乗りをして出かけていた。歩くよりもこっちの方が速いからだ。出かける理由は専ら、食料調達や『帰り道』探しである。
 等間隔の街灯だけが夜を照らしている。光に舞う羽虫はいない。二人分の重さを乗せたタイヤが水を切り裂き進んでいく。自転車のライトは点けていない。文明の明かりのおかげで夜もどうにか明るいのだ。背を丸くしてよろめき歩く人間とすれ違った。あっという間に景色の一つとして後ろの方へと流れていった。この地球に意味のない人間同士の干渉は二度と起きない。
 明確な目的地もないまま自転車は走る。また帰り道が分からなくなったらどうしよう、なんて迷いはない。
「夜の水辺ってさぁ」
 アカネを自転車に乗せてペダルを漕ぐ男が、息を弾ませながら言う。
「底が見えなくてさぁ。真っ暗でさぁ。なんか、底なし沼みたいに見えるよね」
 そう言われ、アカネは高速で通り過ぎ行く足元を見てみる。暗い夜の中の水辺は真っ暗で底が見えなくて深淵のようだった。夜色の飛沫が二人の足を濡らしている。
「……前もこんな話をした気がします」
「そうだっけ? いつだっけ」
「いつだったかな――」
 視界が瞬くような心地がして、アカネは一寸だけ目を閉じた。目蓋の裏でちらついたのは赤い、赤い色。瞼の裏は赤色なのだと、いつか男が言っていたような気がする――アカネはそう思い出し、ならば目蓋の裏で赤色を見たのはごく自然なことなのだと理解した。
 ガタン、と自転車が揺れる。いつの間にか水辺からは出ていた。男の息は随分と上がっていた。
「はあ、めっちゃ疲れた……ちょっと休憩」
 ぜぇはぁと汗だくのまま、彼は自転車を止めてアスファルトに座り込んだ。「足がしんどい」と率直な感想をこぼす。「お疲れ様です」とアカネは男が乗り捨てた自転車を支え、スタンドで地面に立てかけた。
 まだ帰り道は分からない。
 だけど――ここの道は、なんだか知っているような気がする。アカネはふと、そんなことを思った。それから、「今は何時なんだろう」とどうでもいいことを考えた。
 ふらり、アカネはなんとはなしに歩き出す。男の視線を感じた。見えない眼差しが「どこへいくの」と問うている。「大丈夫ちょっとそこまで」と示すべく、アカネは片手をヒラリとした。
 花壇から溢れた花が、アスファルトの亀裂を侵して、夜に輝く花を咲かせている。こんなに暗いのにとても明るく見える色彩だ。そうしてアカネが顔を上げれば、真っ黒に焼け潰れた建物が、駐車場を隔てて見えた。焦げなかった部分は白いが、ほとんどが焼けて黒くなってしまっていた。
 ――赤。
 目玉の裏がチカチカした。「ヤケドしないようにね」。男の人畜無害な笑顔と、渡された……赤い色。
 ――「これで楽になるのか、少しはマシになるのか、救われるのか」。マッチ箱を握り締めて、そう願った? マッチ売りの少女が、火の中に幸福の幻影を見たように?
「は、」
 アカネは額をさすった。カサブタができて、ザラついた皮膚。その掌をそのまま見下ろす。瞬きをひとつ、ゆっくりとした。理由も分からない涙が一雫だけ、アカネの片方の目から滑り落ちた。
「……もういいよ」
 こぼれた言葉の意味を、アカネは自分でも理解することができなかった。めらりと燃え上がった、あの赤い色は、確か花弁のようだった。夢を遊び泳ぐように、空へと手を伸ばして、踊るようにゆらゆらと。ぱちぱち、あの爆ぜるような音は拍手のようで。舌打ちのようで。
 その時だ。アカネの肩を、後ろから掴む掌。青年が振り返れば、そこに男がいる。いつものあの笑顔で男は口を開いた。
「全部夢だよ」
「あんまり遠くに行かないで」
 声が二重に聞こえて、アカネは首を傾げた。男は不思議そうに瞬きを一つした。
「どうしたの」
「ああ――いいえ」
 アカネは小さく笑って、なんでもないことを示した。この男はアカネに並々ならぬ執着を向けている。「もし自分がいなくなったら?」ともしもの話をしただけで殺気立った衝動剥き出しで「そんな話をするな」と言うほどに。
「あなたは俺を信じてくれてるから」
 それだけ言って、アカネは駐車場をのんびりと歩き出し、ぽつねんと停まっている車によじ登って、座った。そうすれば男がその車の傍に来て、もたれるように地べたに座った。
「あの病院、真っ黒焦げだね」
 男が建物を見てそう言う。アカネは「そうですね」と頷いた。何かが心の奥からこみ上げてきそうな気がするが、その正体が分からない。でも、なんだか、心地いいような、軽いような、そんな気配があった。
「ねえアカネ、ここにいるとなんだか落ち着くね」
「……そうですね」
 ここに――アカネを脅かすものはない。視線も。掌も。針も。悪夢も。幻聴も。幻覚も。倫理も。常識も。正気も。
 空から逆さまにブーゲンビリアの花が咲いて、花房の中から赤い金魚が泳ぎ出している。それを喉を逸らせるように見上げたまま、アカネはふっと口角を緩ませた。
 もう、アカネが今立っているところから後ろには、何もない。空っぽだった。それでも満ち足りていた。あんなに花が咲いて、輝いて、光って、金魚が夜空を泳いでいる。あの黒く焦げた建物は、アカネにとって安全の象徴に感じた。なんだか希望が湧いてくるような心地がした。どうにか生きていける気がした。もう少しだけ生きてみようと心から思えた。こんなに、なんにもないのに。絶望はなかった。
 アカネも男も、もう覚えてはいない。ここが火に包まれた日のことを。火を放ったのが彼らの手であることを。そんなことはどうでもよく、大切なことは、明るい気持ちで前に進むことができたかどうかなのだ。嫌なことをひとつひとつ消していけば、そこに幸福が残るのだ。
「アカネ、嬉しそうだね」
 青年を見上げて男が言う。アカネは視線を彼へと下げた。
「そうですね。……いい気持ちです」
「よかったぁ~。アカネが嬉しいと僕も嬉しいな」
「あなたと俺が同じだから?」
「そう!」
 男は笑う。そうして立ち上がって、アカネをじっと見上げている。
「肉も骨もなくなって、どうせいつか同じになるんだよ。みんなそう。そういう風になるから」
 男にとっては何か揺るぎない真理が見えているようだった。男の眼差しはどこまでも真剣で真っ直ぐで純粋だった。青年は男に異論はなかった。同じ真理をアカネは感じ取っていた。そうだ。この世界は。もう肉も骨も意味がない。意義がない。価値がない。
 男はへらへら笑いながら、あてどない足取りで数歩。落ちていたガラスの欠片をふと拾い上げて、それで自分の手首をピッとなぞった。途端に赤い線が男の手首に浮かんで、ぷつっと血の玉ができて、やがて重力に沿って流れていく。
「ね?」
 彼はガラス片をポイと投げ捨ててアカネの方へ振り返る。
「うん」
 アカネは目を細めて頷いた。赤い色だ。幸福な色だ。鮮やかな色だ。命の色だ。
 男は笑っている。自分の傷口を見ている。
「あはは。いってぇ」
「はは。じゃあ切らなきゃよかったのに」
「アハハ。ふふふふふ」
 衝動的な行動。タガもカセもない。二人の笑い声は本当に無邪気だ。
 男は空を見上げる。逆さまに咲く赤い花と、エラから鮮血を滲ませた金魚。月は見えない。
「……夜も深くなってきたし、そろそろ帰ろっか」
「そうですね。……帰り道、分かります?」
 冗句のように言いながら、アカネは車からひょいと降りた。着地の感触と音響。男は「大丈夫」と軽く言ってみせた。
「自転車さ、漕ぐの結構しんどいし、歩きでいい?」
「いいですよ別に」
 そんな会話を交わした。穏やかな気持ちのまま。花弁がたくさん落ちているアスファルトを、二人分の足と二輪のタイヤが踏んでいく。踏みつけられた花弁は歪んで滲んで汁が出て、腐る寸前の果実のような芳香を放った。インクのような色彩が前衛的に広がった。

 ●

 また一日が過ぎていく。
 何度目かの夜が来る。
 その日は生ぬるく、風のない夜だった。雨がしとしと降っていて、虫の声も聞こえない。星の見えない夜は淑やかな暗さに包まれていた。
 ふと、男は目を覚ました。真っ暗な部屋。雨が降りこむからと窓は隙間だけ開けられている。ぬるく蒸した温度。布団の傍には拾った瓶に挿したブーゲンビリアの赤い花。洗濯をして清潔だったシャツは、べたつく汗を吸ってしまった。狭くぬるいそのすぐ隣には、男に対し背を向けて横になっている青年。暗がりの中の、根本が黒くなった赤い髪。
 いつのまにか男は上体を起こしていた。世界は静かだ――しとしとぱらぱら、雨の音を除けば。夜の真っ黒に包まれた男は、傍らの青年を見つめていた。手を伸ばす――暗闇を掻き分けるその手首には、一本線のカサブタがある――掌を、アカネの肩の上に置こうとして、寸前でやめた。
 なんとはなしに、男は周囲を見渡していた。
 帰り道はまだ分からない。ここがどこなのかも分からない。
 部屋の中は大分とスッキリした――というより、必要なもの以外は何もない。テレビも埃まみれで何も映らないからと撤去された。汚らしかった台所や風呂場も、几帳面に磨き上げられた。
(ここって、こんなに広かったっけ)
 ――世界はいつからこんなに変わってしまったのか。
 そうだ。この世界はいつからか、少しずつ、おかしくなっていたのだ。こんなのはおかしい。前はこんな風じゃなかった気がする。でも『前』のことを思い出せない。何かがおかしい。確かにおかしい。自分がおかしい。何が起きた? 何がどうなった? みんな死ぬ? 終わってしまう? どうしようもない? どうにもならない?
(僕の名前は、なんだったっけ)
 男は両手で顔を覆った。自分に顔がついているか確かめたくなった。目、鼻、口、パーツの輪郭を辿るのだけれど、曖昧だ。自分のものが本当に自分のものなのか分からない。自分の顔を思い出せない。
(僕はどこにいたんだっけ)
 男は身を屈めて、震える息を吐いた。自分の過去が思い出せない。自分のことが分からない。自分には何もない。カラッポだ。ガランドウだ。貧しくて乏しくて虚しいばかりだ。満たされない。満たしてほしい。与えられたい。安心したい。確固たる存在でありたい。揺らぎたくない。
(僕はどうしたかったんだっけ?)
 何か、思い出してはいけないことを思い出しそうになって、脳が痛くて、男は頭を抱えた。視線――眼差し――いつも彼に向けられていたのは、彼を軽んじて見下げるものばかり。
 違う。小さな声で呟いて、遮二無二伸ばした手を青年の肩にかけた。青年を仰向けにすれば、彼は安らかな顔で眠っていた。何の憂いもなく。
 殺意が湧いた。
「僕、今度は君になりたい」
 男の唇から無意識的に零れたのは、そんな言葉。もう男は『XXくん』ではなくなった。あの立派な豪邸への帰り道が分からなくなったから。『XXくん』より素晴らしい人間に出会ったから。何もない床にブーゲンビリアの赤い花が咲き乱れている。床が見えないほどに繁茂している。そこかしこに棘をめり込ませている。
「君になれば満たされるでしょ。お願いだから。欲しいんだ。渇いて空っぽで苦しいんだ。分からなくなっちゃった。もうどこに行けばいい? どこなら居ていい? どこなら安心できる?」
 花の中に手を突っ込んだ。棘が手首を切った。ブーゲンビリアに埋もれていた包丁を握りこんだ。血だらけの腕を振り上げた。安らかに眠る青年。自分と同じ人殺しなのに。同じ地獄に落ちたのに。どうしてこんなに羨ましい?
「君になっていいよね。全部ちょうだいよ、いいでしょ」
 銀色に光る刃を振り下ろした。
 鈍い感触。
 男が振り下ろした包丁は、アカネが突き出す掌に刺さって止まっていた。
 青年の掌を容易く貫いた刃は、血にまみれててらてらと光っている。

 ――雨の音と、息遣いだけになった。

 アカネは掌へ刃が更に刺さるのも厭わず、その手をぐいと男の方へ押した。ずぶずぶと深く刃は刺さり、血が次から次へと流れていく。遂には根元まで包丁は刺さりきり、アカネの曲げられた指が、包丁を握る男の手を掴んだ。
 男は目を見開いてその光景を眺めていた。そうして気付いた時にはもう、上体を起こした青年に引きずり倒されていて――アカネの手にはレンガの欠片が握られていた。それは振り上げられていた。凶器の向こう側は真っ暗なのに青空で、鮮烈なほど青空で、男は眩しさを感じた。
 鈍器を握る掌が、振り下ろされる。
 硬いそれは男の顔面を打ち据えた。何度も何度も。目玉が潰れ、鼻が折れ、唇が割れ、歯が砕け、皮膚が破け、血が噴き出すほどに。
 それでも男は――両目を潰されたはずなのに――下からアカネを見上げていた。暗い世界で顔が見えない。殺されている只中だというのに、心は不思議と冷静だった。どうすればいいかだけを淡々と考えていた。
 まだ男の手には包丁がある。力尽くで、男は切っ先を青年の方へと押しやった。そうすれば力の拮抗が起きる。ぐぐぐ、と抵抗する青年は歯列を剥き出して唸っていた。その獣のような様相が、どうしようもなく生命的で、神秘的で、驚異的で、だからこそ男は手に力を込める。青年の白いシャツを着た腹に、切っ先がめり込む。白い生地がどんどん赤くなっていく。刃が青年のお腹の真ん中に沈み込んでいく。青年の手からレンガの欠片が転がり落ちて――うなだれる彼は、両手を男の顔の左右に突くと、大量の血を吐いた。それは男の壊れた顔をびしゃりと、真っ赤に染め上げる。
 ぽた、ぽた。青年の唇から血が滴る。赤い水滴以外は静止する世界。息遣い。
 そうして、ようやっと、男と青年は目が合った。
「俺とお前は同じなんだろ」
 青年が言う。赤く染まりきって、顔も判別できなくなった男に対し。 
「同じなら、俺や誰かになる必要なんて、もうないじゃないか。お前が言ったんだろうが」
 青年は気付いた。理解してしまった。ようやっと、至ることができた。
 皆が『こう』なっていく。心の外側が消えて、『そのまま』になっていく。難しいことが全部なくなって、シンプルになっていく。上辺も何もなくなっていく。欲望や執着や記憶が消えていく。一つずつ、一つずつ――そうして完全なる凪の寸前に、本当にしたいことだけが残るのだ。
 例外はない。皆が同じになる。皆が皆、最終的には凪へと至る。同じ存在になる。同じ状態になる。そこに差異はなく、争いもなく、静けさと平穏がある。大きな一つとして繋がり、昇華するのだ。『同じ』に還るだけなのだ。細胞分裂を逆戻すように。進化を逆行するように。もともとは単細胞だったように。だからもう、何も恐れる必要はなく、憂いの必要はない。その先が滅亡であろうとも、万物の果ては終焉なれば、それは必然であり、宿命なのである。寧ろ美しく穏やかに終われることは幸福な巡り合わせなのだ。
 今や争いや悲しみや寂しさは全てガランドウなのだ。あれこれ外側がもたらしたことで内側を病ませるなど無為極まりない行為なのだ。最早残っているのは、凪いだ平穏のみである。理由も原理も追及するだけ愚かである。
「俺はお前だ。お前は俺だ。俺とお前は同じだ。もうすぐそうなる。忘れるな。全部そうなるお前も気付いて受け入れろ」
 青年は削れて凹んだ男の顔を覗き込む。言葉の為に唇が動く度に、血の雫がぽたぽたと落ちた。男の目蓋は潰れてひしゃげてしまったので、目を閉じることもできないでいた。潰れた目玉で、男はその赤い色を見つめていた。
「俺達の共通点は殺人だけなんかじゃなかった。償う罪も何もないんだ。もう誰も悪くなんかないんだ。『誰か』なんて意味がなくなるんだ。もう何も。何も。何も。これでいいんだ。もういいんだよ」
「……もういいの? 本当に? これでいいの?」
 男は声を震わせた。青年は沈黙のまま頷いた。だから男は、深く深く息を吐いた――。
「僕、本当はもう疲れたんだ。いつも何かと比べられて、追い立てられて、どうにかしなくちゃって、あくせく足掻くことに、もう、疲れたんだ。いつもカラッポで、足元がぐらぐらして、満たされないから、どうにかしようって、歩き続けて、歩き続けて、どこかに行けば満たされるって思って」
 声は潤んでいく。深奥の深奥に隠していた言葉だった。壊れた目玉は涙も作れない。
「もう……僕は……歩くのやめて……いいのかな……」
 男は包丁を手放し、両手で消えた顔を覆った。
「もういいよ」
 青年の優しい声がする。
「全部全部、現実だから」
 ぽたり。また血が落ちる。いいや、それは血ではない。血の代わりの赤い花だ。美しい、鮮烈な、ブーゲンビリアの赤い花。そうだと気付いて、男は顔を覆う両手をどける。目の前の青年は無傷で、傷はないまま血にまみれ、すっかり全身が赤かった。よくよく見れば青年の体のそこかしこの皮膚を突き破ってブーゲンビリアが咲いている。青年だけではなかった。男の体も、ところどころから肌を裂いて花が咲いていた。ああ綺麗だ、と男は花を眺めていた。そう思った瞬間、男の崩れた顔からも花が咲く。破れて割れた肉の隙間から次々芽吹いて、汚くて何もない場所を生まれ変わらせていく。

 ――雨の音と、青年の笑い声が聞こえる。

「ねえこれは夢なの? 僕はいつから夢を見ていたの? どこからが夢なの?」
「もういいじゃないですか、そんなことは」
 青年がいつもの口調に戻って、笑った。真っ赤な掌が差し出される。ここは暗い夜の部屋なのに、空が見えて、青くて、眩しくて、青年の姿は逆光で、だから光が後光のようで、赤色で、やはり赤色は幸福な色で、幸せで、男は手を伸ばした。

 ●

 そうして気付けば、男は仰向けになっていた。
 暗い部屋。暗い天井。窓の隙間から雨の音が聞こえる。
 部屋の中に花は生えていない。空も見えない。傷もない。痛みもない。
(ああ――……)
 深呼吸を一度だけ。肺が膨らむ心地で、命を感じた。見開いたままだった目を、男はゆっくりと閉ざす。そうすれば目の端から涙が零れた。泣くなんていつ振りだろうと考える。泣くことは悪いことで弱いことでいけないことだと思っていたから。泣いたって助けはこないから、泣くだけ無駄だと思っていたから。それでも今、男は自分の涙をようやっと許すことができていた。受け入れて、愛することができていた。温かい涙。涙がこんなに温かいなんて、久しく忘れていた。その温かさが心地よかった。ようやっと、どこにもいけない存在が着地できたような、心がじんわりと温かくなるような、そんな心地に包まれていた。自分は救われたのだ、と確信した。
 床の上に投げ出された男の手には包丁が握られていた。血のついていない包丁は星のように銀色で、キラキラとまたたいていた。反対側の手の手首には真っ白い包帯が几帳面にまかれている。最近、男がよく衝動的に手首を切るので、アカネがその度に手当てをしてくれる。手早く止血処置をして、消毒をして、ワセリンを塗って、ラップで覆って、包帯を巻いてくれる。アカネの手当てはいつだって丁寧だ。「あなたも俺に手当てしてくれたじゃないですか」といつも青年は言う。絆創膏を貼っただけなのにな、と男はその都度思う。男は正しい手当の方法なんて知らなかった。同時に、他の誰かからこんなに丁寧に手当てをされたことも、なかった。
 カラン、と手放した包丁は床に転がる。男はゆっくりと目を開けた。静かに上体を起こす。
 男は初めて、生まれて初めて、「生きてきてよかった」「生まれてきてよかった」と思った。そう思えることが、ようやっとできた。ここにいてもいいのだと、やっと安心することができた。それを実感する度に涙がこみ上げてこみ上げて止まらない。それでもいいのだと思えた。
 常夏はどこまでも永遠に温かくて柔らかい。
「アカネ、ねえ、アカネ」
 男は自分の隣で、背を向けて眠っている青年の肩に触れた。軽く揺すった。そうするとアカネは目を覚ましたらしく、眠たげな呻きを小さく漏らした。「なに……」と顔をやや男の方に向けて聞いてくる。男は曖昧に笑った。するとアカネは男の泣き顔に気付いたようで、ぱっと身を起こした。
「どうしたんですか」
 まさかまた自傷を、と思ったのか、青年が男の体をざっと見渡していた。新しい傷は見当たらないので、そのことについては少し安堵したらしい。改めて「何かあったんですか」と問いかけてくる。男は頷いた。
「あのね、アカネ。僕は……僕はようやっと――」
 その先は涙と感情が決壊して言葉にならなかった。ただ、嗚咽に震える喉と声で、今とても幸せなのだと、ようやっと満たされて安心したのだと、精一杯、心から、魂の底から、アカネに伝えた。
 アカネは茶化したり遮ったりせずに、その言葉をじっと聴いていた。それから穏やかに微笑んで、こう言った。
「よかったですね。おめでとう」
 おめでとう。――あんまりにも聞き慣れない言葉に、男は瞬きをした。
 おめでとう。心の中で噛み締める。また泣きそうになったので、誤魔化すように笑いながら「ありがとう」と目元を拭った。
「そんな言葉、もうずっと聞いてこなかった。……そっか、めでたいんだね。じゃあケーキ食べたいな」
「ケーキですか?」
「ケーキってそういう時に食べるものじゃないの?」
「ああ、なるほど」
 アカネはティッシュ箱を手繰り寄せて男へ放りながら頷いた。
「でもケーキ屋なんてありませんよ?」
 冗句っぽく笑って肩を竦める。つられるように、ティッシュで顔を拭っていた男も笑った。
「ほんとだ。どうしよっか?」
「流石にケーキの作り方は知らないですよ、俺。……アイスケーキならどっかにあるかもしれませんね」
「ああ、いいね。アイスケーキかぁ、オシャレなものがあるんだなぁ。……じゃあ、起きたら探しに行こうよ。自転車漕ぐよ。がんばるよ」
「ふふ。そうしましょうか。なんだか楽しそうですし」
「でしょ? じゃあ今日はもう寝なきゃ」
 丸めたティッシュをゴミ箱へ放って――運良くジャストで入った――男はマットレスに再び横になった。軽やかな気持ちで、ドキドキして、ワクワクして、眠れそうになかったけれど、明日の為に目を閉じた。明日がこんなに待ち遠しいのが、こんなにも幸せな心地だったなんて。
 アカネは男が横になったのを見届けると、自らも緩やかな眠気に任せて寝そべった。蒸した生温かさは眠気を阻害するので、寝付くにはいくらか時間が要りそうだな、と思った。

 ――しとしと、ぱらぱら、雨が降る。優しくて温かい夜を濡らしていく。

 静まり返る部屋、雨音だけが響いている。ベッドの傍の包丁が、横たわる二人を見守っている。台所の磨かれた蛇口の銀色が、その曲面でこの部屋を映している。
「ねえアカネ」
 眠りに落ちようと努力する中、男は囁き声で青年を呼ぶ。「なんですか」と小さな声が返ってきたので、男は言葉をつづけた。
「ありがとうね」
「……こちらこそ」
 お互い、柔らかい物言いだった。二人とも目を閉じたまま、そのままゆっくりと眠りに身を委ねていく。
 そうして眠れば夢を見た。水死体の絵を見に行こう、と飛行機に乗る夢だった。空の上から見る雲は雪原のようで、太陽にキラキラとした白さで、「雲の上を歩けそう」だなんて与太話で笑いあうだけの、何の変哲もない穏やかな夢だった。二人とも同じ夢を見た。同じになりゆく二人だから、同じ夢を見ることは何ら不自然な現象ではなかった。

 ●

 午前は曇天だったものの、午後は雲を浮かべた晴れとなり、世界は太陽にまた照らされる。蝉の声と、命に溢れた緑の色と。
 結論から言うとアイスケーキはどこにもなかった。世界のどこかにはあるのかもしれないが、自転車で行ける範囲では、今のところ見つからなかった。「しょうがないね」と笑いあった。
 最近はアカネも自転車を漕ぐようになっていた。男が疲れたらアカネが、アカネが疲れたら男が、自転車を交代で漕ぐ。あっちこっちを走り回って、二人ともじっとりと汗をかき、疲労感が体を包んでいた。
 足の筋肉痛を犠牲にしても、アイスケーキは見つからなかった――その代わりに、二人はコンビニの冷凍庫からアイスを見つけた。チューブ入りで、二つに分けることができるタイプである。男と青年はそれを半分こした。ケーキの代わりなので、めでたい気持ちのまま乾杯を交わした。アイスはホワイトソーダ味……という一見よく分からない名前の味だが、実際はスッキリめの乳製品系の味わいだった。午後のとろりとした暑さにはちょうど良い爽やかさだった。

 からからから、と自転車のタイヤが回る音がする。アスファルトの道の真ん中、男は片手で自転車を押しながら、もう片方の手で器用にアイスを吸っている。いい具合に溶け始め、その冷たさが舌と体に心地いい。
 男の隣にはアカネが、同じようにアイスを食べながらのんびりと歩いていた。二人ともアイスを食べているので無言である。だが無言に気を揉む関係性では最早ない。
 溶けたアイスが溜まったプラスチック容器を咥えて逆さまに。垂れてくる甘い味を飲み干して、男は「ふう」と息を吐いた。カラッポの容器はその辺に捨てておけば、ゴミ収集車が目ざとく処理してくれるだろう。男が横を見れば、アカネはまだアイスを食べていた。チューブを咥えたまま、どこぞをじっと眺めていた。
「どうしたの」
「ん……ああ、あの家、すごい花が咲いてるなって」
 アカネが「ほら」と指をさした方向には、それはそれは豪奢な邸宅があった。そこはブーゲンビリアの花にまみれて、真っ赤に染まっていた。隣の空き地に花が侵食している。空き地の一角には何かが燃えた跡があった。バルコニーはガランドウで、窓も開けっぱなしだ。
 男と青年は立ち止まって、その邸宅をじっと見つめている。バルコニーには何もないと思ったが、よくよく見れば三人分の黄ばんだ白骨死体が立っていて、男と青年へ手を振っていた。だから男と青年は、その白骨死体らへと手を振り返して会釈をした。
 終わることのない夏を乗せて、風が吹く。
 ブーゲンビリアの花が揺れる。
 おもむろに、自転車をアカネに託して歩き出したのは男だった。その邸宅の門へと歩いて――表札を見る。そこに刻まれた名前を見る。
「知らない名前だ」
 それだけ言った。「そうなんですか」とアカネは空になったアイスのチューブをその辺に捨てながら答えた。
 開けっ放しの門、施錠もされていないドアの前には、あの白骨死体共が並んで立っている。仕立てのいい服を着た、物言わぬ躯だ。死人に口はない。男はそれを門越しに、アカネは男の背中越しに、それらを眺めていた。
 ――ちりん。アカネが自転車のベルを鳴らす。

「行きますか」
 アカネの呼びかけに、男は「そうだね」と頷いて振り返った。その顔は人畜無害な笑顔だった。
 どこへ行こうか、なんて言葉も交わさないまま。二人は自転車に乗って、常夏の下を駆けていく。蝉の声が聞こえる。どこまでも凪いで平和な世界のひとときだった。

 ●

 蝉が鳴いている。
 眩しいほどに青い空だ。
 寂れたアパートの窓際から、素足の男は夏の風景を眺めていた。
 辺りにはブーゲンビリアの赤い花が咲き乱れている。鮮烈なビリジアンの混沌の中、花が赤々と、どこまでも赤々と。
 男は赤い花を見下ろしていた。茂みが揺れている。それは空き地に二人の存在がいるからだ。
 男は見下ろしている。一人は赤い髪の青年で、一人は白いポピーの頭部をした人間だった。二人の存在は叫び、喚きながら取っ組み合って、もんどりうって、もつれあうように花の中へ倒れ込む。
 男は見ていた。倒れた二人の内、馬乗りになったのは青年の方だった。彼が振り上げた手には包丁が握られていた。「やめて、カンナ、どうして」と白いポピーの花が叫んだ。
 ――輝く銀色が振り下ろされる。蝉の声がする夏の下、赤い赤いブーゲンビリアの中、広がっていく血だまりの上。
 赤色。そのあまりにも明るい赤色に、印象的な色彩に、窓辺の男は目を細めた。視線を逸らすことができなかった。壮絶なほど、懸命な色だった。
 やがて。
 辺りには、蝉の声と青年の荒い息の音しか聞こえなくなる。青年は凶器を手からこぼすと、肩を震わせて笑い始めた。罪悪感や恐怖や憂いのない、そういうモノが削げきった、純粋なるイドの笑い声だった。彼の両手は真っ赤だった。
 男は青年を見下ろしていた。男が中空に手をかざせば、遠近感の関係から、青年は男の手の中にすっぽりと収まる大きさに見えた。
 と。男は指の隙間から、青年が顔を上げてこちらを見上げていることに気が付いた。まだ「アハハハハ」と笑っていて、その無垢な笑顔が遠くからでもよく見えた。
 なのでバルコニーの男は微笑んで、青年にかざしたままの手を振ったのだ。ゆっくりと。
「暑いだろう、戻っておいで」
 返事はなかった。代わりに青年は頷いていた。彼は包丁を、赤く染まった白いポピーに突き刺すと、赤い体のままアパートへと歩き出す。それを見届けた男は踵を返して、玄関のドアを開けてやった。そうすれば、裸足の青年がそこに立っていた。手は包丁の刃が滑ったらしく切り傷ができていた。足はブーゲンビリアの棘で負傷していた。
「おかえり、アカネ」
「ただいま」
 名前は一方通行だ。それが二人の関係性だった。ぺた、ぺた、血と土で汚れた足のまま、青年は狭い部屋の中に入ってくる。拾った瓶にはブーゲンビリアの花が活けてある。
「アカネ、ケガしてるよ」
「手当てしてくれますか」
 そう言うなり、青年は薄っぺらいマットレスへ倒れこむように横になった。「しょうがないな」と男は苦笑した。
「絆創膏、足りるかなぁ」
「じゃあ包帯で。先に消毒して下さい」
「うん分かった」
 男は微笑んで、床に投げ出された青年の手を取った。赤い血が滴っている。赤い色。男は赤い色が好きだ。彼にとって、赤色は生まれ変わりの色。幸せが始まる色。吉兆の色。掌をぐっと重ねれば赤色がつく。男は鮮血のついた自分の掌を見た。それを――自らの顔に寄せ――香りを嗅ぐように、ゆっくりと、べったりと、顔の皮膚に擦り付けた。同じ色に染まる。彼我の境界線は、もうない。同じ存在。みんな同じ。みんなこうなった。それは恒久の平穏。男は天井を仰いで、喉を震わせるように笑った。
 今日も眩いばかりの夏空だった。蝉の声が響き続ける。今日も夏が続いている。鮮やかな朝顔が赤に青と咲き誇る。自動運転のゴミ収集車が道路を走る。それは道路に転がっていた白くて赤いポピーの死体を発見すると、早急に片付けを行った。AI曰く、死んだ人間とは『ゴミ』らしい。眩しい夏空に、蠅が飛んで行った。とこしへの常夏。終わらない夏の牢獄。温かい悪夢。なまぬるい地獄。行き止まりの楽園。終わらない安寧。とこしへに赤く、そして白く。

『了』
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