●6:いないいない
世界は眩く輝いている。空が金色なので、それは当然なのだなぁと理解した。雲一つない晴れ空だ。窓辺でじっと見上げていると、中天から花がひらりひらりと降ってくる。名前の知らない花の、白い吹雪のような花弁だ。それはちらちらと、きらきらと、町に降りて積もっていく。窓にも風の吹くまま入り込み、暗い床が白く染まった。甘い香りがする。いつかどこかで嗅いだことがあるような気がする。最中、ようく見ていると、空からではなく月から花は降っていることに気が付いた。空が金色なので、同じような色をした月が良く見えなくなってしまっていたのだ。そうなると今は昼ではなく夜になるのだが、満月なのでこの明るさも納得だった。瞬きをする。甘い香り――そうして目を開くと船の上にいた。大きくて立派な、豪華客船だった。その甲板の縁にもたれて、空を見ていた。変わらない金色。眩い金色。海はあの白くて甘い花で水面がいっぱいに満ちている。ぼうっと少し口を開けていたので、空から降る花弁が唇の端についた。舐めとると、どこかで味わったような――ああ、この味は。チープなガムシロップ。神秘的な見た目をして、存外に安っぽい味わいなのだなと思った。汽笛が鳴った。船なのにこの音は列車だ。しゅ、ぽ、ぽ、と。蒸気機関車など、見たことはないけれど。甲板では幼児が笑い喚きながら仰向けで暴れている。大人達は誰も止めない。ああうるさいかもしれないなぁと思った。耳に障る高音だった。それも雑踏に消える。いくつもの足音が鳴っているから。足の裏が冷たかった。
がしゃん。
割れる音でアカネは目を覚ました。彼は洗面所の鏡に額を打ち付けている姿勢になっていった。
「い゛ッ――」
遅れて額に痛みが走る。打ち付けた痛みと切った痛みだ。顔をしかめながら後ずされば、額を打ち付けた鏡に見事な亀裂が入っていた。蜘蛛の巣のようにも見えた。額を触る指に思った以上の血が付いた。割れた鏡には大小様々に切り取られた青年が、額から流血しながら目を見開いている姿が映っていた。
「いってぇ……」
悪態のように吐き捨て、垂れる血が床に落ちないようにしながら、アカネは雑に引っ張り出すタオルを傷口にあてがった。そうして少しずつ目を覚まし冷静になる。今のは夢か。夢うつつのまま歩いて鏡にぶつかったのか。それともこれも夢だろうか。少なくとも猛烈に痛い。頭部から血が出るのはなかなかにショックだ。アカネは溜息を吐いて、まだ暗い廊下をペタペタ歩いて――足の裏が冷たかった――居間のソファに座り込む。もう一度だけ溜息を吐いた。
少し前だったなら、夢遊病的行動をとった自らに、アカネは大層なショックを受けていただろう。けれど今の彼は、「こういうこともあるか」と漫然とした気持ちしかなかった。今は「血が止まるまでじっとしていよう」と考えていた。窓の外は暗い。日の出といったところか。青い空だ。とはいえ、いつもの青空ではなく、紺色といった色彩だが。
それにしても悪夢ではないが、不思議な心地の夢だった。思えば最近は悪夢を見なくなっているな、とアカネは気付く。そして過去に見た悪夢も、どんなものだったかはもう思い出せないでいる。夢などそんなものだ。あまり夢のことを鮮烈に覚えたまま時が過ぎると、どれが夢でどれが現実か分からなくなる。幼い頃に見た夢と、幼い頃に体験したことの区別が付かなくなるように。夢日記をつけていれば発狂するという都市伝説のように。
早朝は静かだ。アカネは喉の渇きを覚えた。だが立ち上がるのが億劫だ。目を閉じていると頭痛の中、緩やかな眠気がまたやってくる。額をタオル越しに抑えているのも面倒になってきた。
(せめて止血しないと……)
そうは思うが、もういいかという気持ちが大きくなっている。汚しても後で拭けばいいじゃないか。ここは安全だ。針もクスリもない。非難の目も口もない。いつまでも温かい。青年は胎児のように、ソファの上で丸くなった。血の付いたタオルは清潔な白の中に、温かい赤の斑点模様を咲かせていた。やがて吐息は寝息へと変わる。
男はそんな青年の様子を、暗い廊下から眺めていた。物音がしたから起きてみればアカネがおらず、どうしたことかと寝室から降りてきたら、こうなっていたのだ。
「またケガしてる」
首を傾けて覗き込み、暗がりの中でも眩く見える赤い色に男は呟いた。眠気の残る足取りで緩やかに近付いて、眠るアカネを見下ろした。青年は顔を血のついたタオルに埋めて眠っている。傷口はまだ湿っていた。顔に血の垂れた痕が赤い線になっている。男には赤い色が世界で一番輝いて見えた。幸せが約束されている色だから。その理由と根拠は忘れたけれど。
しばらく、男はアカネを眺めていた。それから思い出したように、整頓された救急箱の中身から絆創膏を引っ張り出して、アカネのの傍にしゃがみこんで、その赤い傷口に貼ってあげた。
「お大事に」
赤い髪をそっと撫でる。今日は起きたら美術館を探しに行こうという話になっていた。まだ外は暗い。今日にはなっているけれど、まだ眠るべき時間だ。男は心を浮つかせながら、寝室へと踵を返した。
進む廊下はゴミひとつなくなった。とても綺麗で清潔で。磨かれたそこはゆるやかに光を返すほど。朧のように風景が映っている。あちこちに花瓶が置かれて、あちこちにブーゲンビリアの赤い花が挿してある。とても綺麗だと男は思った。幸せだった。赤い色は輝いて見える。
●
「――ああッ!」
男の目を覚まさせたのは、やはりアカネが出す物音だった。下の階から聞こえた驚きの声に、男はパチリと目蓋を開ける。広いベッドから起き上がり、伸びをする。アクビをする。ベッドから降りて下の階に向かった。
そうすれば洗面所にアカネがいて、目を丸くして割れた鏡を見ていて、鏡に映る男に気付けば振り返り――気まずそうな顔をした。
「……すいません、鏡」
「ああ、いいよ別に」
日の出前に聞いた「がしゃん」はアカネが鏡を割った音だったのか、と男は時間差で理解した。
「その、鏡に頭から突っ込んだみたいで」
アカネが溜息のように言う。「うんうん」と男が相槌を打つと、彼はバツが悪そうに続けた。
「夢だったかも、って半信半疑だったんですけど、起きて確認してみたら、やっぱり割れてて」
「うん、すごい音したから」
「あー……すいません本当」
「いいよいいよ」
「いや、でもこれ……」
アカネは何とも言えない顔で鏡を一瞥する。この豪華な邸宅に見合う洗面所、に見合う立派な鏡だった。修理、というか取り換えにはどうあがいたって業者が必要なのだが、もうこの世界にそういうサービスは存在していない。つまりこの割れた鏡を直したり取り替えたりする手段は、ない。手遅れなのだ。
「鏡ならこの世界に腐るほどあるじゃない」
男はあっけらかんとして笑った。アカネは「そうですか……」と釈然としない様子だが、男が不機嫌にならずに済んだことをどこか安堵していた。それから青年は自分の額――ガーゼ部分に赤色が滲んだ、雑に貼られた絆創膏――に触れる。
「これ、あなたがしてくれたんですね。ありがとうございます」
「どういたしまして。……ケガ、大丈夫?」
「まあ血は止まってるので。破片が入り込んだりもなかったですし」
「そっか」
「出かけるのに支障はありませんよ」
「よかった」
夜中にどうして鏡にぶつかったのか、その理由を男が言及することはなく。男の興味はもうそこにはなかった。今日は楽しいことがある日なのだ。
「じゃあ、食事したら出かけますか」
「うん」
美術館に行こうかと約束したのだ。ブーゲンビリアが飾られた廊下を歩く。今日も変わらぬ常夏模様だ。変わらない朝の時間。この地球上で、人間らしい朝の時間を過ごしている人類がどれだけいるかは、もう誰にも分からない。蝉の声が響く。響く。
「やっぱり帽子はダメですか」
「ダメ」
男に即答されたので、「はぁ」とアカネは手にした帽子をポールハンガーに戻した。やむをえない。額に貼られた絆創膏だけが帽子代わりだ。一方で男は支度を終わらせていた。尤もいつものようなラフで暑さに対応した服だ。アカネも似たようなものである。最近は腕の内側を露出することにも忌避感がなくなってきた。
今日も施錠もせずに家を出る。どうせ泥棒もいないだろう。金品を盗まれたところで痛くも痒くもない。この世界は平和で穏やかなので、もう警戒など必要ないのである。そうして、今日もいい天気だった。
色気のないサンダルの足音。ひとまず目指しているのは駅前だ。道案内の看板か何かがあるだろう。男が「駅までの道ならわかる」と言うので、アカネはそれについていく。
「はぁ、なんかこういうの初めてだなー。旅行っていうのかな」
男はサングラスまでかけて気楽な様子だ。どことなく歩調も軽やかに見える。
「旅行ってほど旅行じゃない気がしますが、まあ、こういうのはいいですね」
アカネは隣を歩きながら答えた。汗がじわりと額に浮かび、ただでさえ雑めに貼られた絆創膏をヨレさせる。もう外そうかなぁという気になったが、折角の男の厚意なのでそのままにしておいた。
水辺の底の横断歩道を歩く。物言わぬ車がそこかしこに留まっている。向こう側をゴミ収集車が走っていった。あの中に死体はあるのだろうかとアカネは横目に見ていた。誰もいないのに信号機が灯る。青はススメで、赤はトマレだ。誰も従う者はいない。水面はとても美しく煌いていた。
そうして歩いて行けば、ビルやらの並ぶ駅前エリアに辿りつく。ひとけは――『あまり』ない。ぼうっとした顔で、右往左往するように歩いている人間がチラホラと見えた。その虚ろな瞳は、燦然たる水面を静かに映していた。中には服だけはカッチリとしたスーツの者もいた。
「道案内の看板なんてあったかなー」
男は廃人ないしは狂人らに目もくれず、辺りを見渡していた。アカネも一緒に探す。そうしてうろついていれば、駅からすぐのバスターミナルの屋根の下、ベンチの傍ら、雑草まみれの中にテイクフリーのパンフレット置き場があった。随分とふやけてしまっているが、その中に美術館を紹介するものがあった。
「看板はなかったですけど、まあ目当てのものはありましたね」
「ぶよぶよだなぁ」
男が片眉を上げる中、アカネはそのふやけきった紙を慎重に取って開いた。見たこともないアーティストの、よくわからない現代アートの個展が開かれているようだ。アカネは芸術に明るい方ではないが、ふやけた紙に描かれる新進気鋭のアートとやらは、ただインクを力いっぱい撒き散らしたようにしか見えなかった。「まあでも世の中にはこれにウン億出す人がいるんだよなぁ」と不思議な気持ちになった。
そんなアカネの手元を、サングラスをかけた男が覗き込んでくる。
「ある? 水死体の絵」
「言い方。……うーん、なさそうですね。まあ名作がその辺の美術館にある訳ないか……」
「あ、そーなの。なんか美術館って名作が何でもあるイメージがあった」
「それは国際的にも有名なやつじゃないですかね。……そういうのはちょっと、徒歩で行ける圏内じゃなさそうですね。飛行機乗らないと……」
「飛行機かー乗ったことないな」
「なかなかおもしろいですよ。上から雲を見れるのは新鮮です。離着陸の時にちょっと、変わった浮遊感があって骨盤がムズムズしますけど」
「アカネは何でも知ってるねぇ」
「そうでもないですよ」
それで、とアカネはパンフレットを閉じて、裏面の『アクセス方法』を見た。
「行きますか? この、なんか……現代アート展?」
「いいよ。行こっか」
アカネにとって少しだけ意外だった。てっきり「水死体がないならいいや」とでも言うかと思っていたのだ。感心しつつパンフレットの簡易地図を男に見せる。「この辺なんですけど道わかりますか」と問えば「ああここね、わかるわかる」と随分ラフな即答が返ってきた。少しだけアカネが「大丈夫なのか」と不安になったのは内緒だ。
そうしてまた、熱いアスファルトの上を歩き始める。
死なない程度の暑さではあるが、砂漠を進む行商隊はこんな気持ちなのだろうか、とアカネは日差しに光る世界に砂漠を重ねていた。まあ、ここはどこもかしこもオアシスだらけではあるのだが。
「あー、水死体ですけど」
男に「オフィーリア」と言ってもイマイチ通じまいと思い、アカネはその単語を口にする。
「本屋か図書館に図鑑なんかがあれば、見れると思いますよ」
「ほんと?」
「多分ですけど。まあ、海外の美術館を泳いで目指すよりかは現実的かな」
「見たい」
食い気味に答える男がアカネの方を見る。「じゃあ美術館の次は本屋か図書館ですね」とアカネは頷いた。それから、こんな状況でもやりたいことが増えるものだなぁ、と密やかに思う。人々は気力を失い、人間的生活すらままならぬようになり、穏やかに死んでいくというのに。はたまた、 男の症状の進行はなだらかになっているのだろうか、とアカネは考えた。そこから……よもや、と空想する。
――この気力と正気を失っていく症状は、治るのだろうか。
(もし、も……治る方法を、発見できたら――)
電撃的に心が震えた。歩いている感覚が遠退くほどに。もしも、もしも症状を止めたり治したりできたら? その方法がハッキリと分かったら? まだ間に合うのか? この世界を、人類を、救うことができるのか? 破滅を食い止めることができるのか? 壊れてしまったいろんなものを、治すことはできるのか?
そこまで、考えて――
でも、信じてもらえないさ。
誰も信じてはくれないのだ。
奇人扱い、狂人扱いが結末。
意味がないのだ。どうせ、結局。
何をしたところで。足掻いたところで。声を張り上げたところで。
意味はない。もう何もない。もう何も望まない。もう何も要らない。もういい。これで十二分。
こんなにも世界は輝いている。太陽が。空が。緑が。水面が。
それが損なわれるのはあまりにも惜しい。
煌めいている。穏やかで優しい。平和で静かだ。競争も迫害もない。狂ってなどいない。おかしくなんかない。皆がそうなっていく。これが正しい在り方なのだ。
――このままで、もういいじゃないか。
アカネは額から血が出ている気がした。生ぬるいそれは汗だった。絆創膏のガーゼはすっかり汗を吸ってしまっている。
「あつい……」
太陽は真上でギラギラしている。男は少し先を歩いていた。アカネの声に振り返ると、「じゃあ少し休もうか」と微笑んでくれた。
ちょうど、少し歩いたところにチェーン店のカフェがあった。ガラス扉はひび割れていた。店内には誰もいないが、冷房だけは効いている。人工の枯れない植物が冷えた風に揺れていた。ひとけはないのに掃除は隅々まで行き届いている。誰かが定期的に掃除しているのかもしれない。
二人は窓辺の席に座った。誰もいないので店員が注文を聞いてくることはないし、注文をしたところで何も来ない。
「コーヒー飲みたいね」
男がおもむろに言う。厨房にあるのはダメになってそうな雰囲気があるので、アカネはそちらを一瞥した後、「帰ったら淹れますよ」と答えた。家にはお湯で溶かすだけのインスタントコーヒーが置いてある。新鮮な牛乳がないのでコーヒー牛乳を味わえないのが悔やまれる。
アカネがコーヒー代わりに鞄から出したのは、ペットボトル入りの水だった。それを幾らか飲めば、喉の乾きも癒される。生ぬるいが、冷たすぎると胃腸によくない。ふう、と息を吐いた。水晶のように透明なボトルを、埃一つない机の上に置いた。それは窓からの常夏の明かりにキラキラと、七色のプリズムを放っていた。
そうして――アカネがなんとはなしに窓の外へ視線を向けると。
そこにべったりと、頭部が白い花の人間が、ガラスの向こう側からアカネのことを覗き込んでいる姿が、目に留まった。
きゅう、う。ガラスに突いた花人間の両掌が、薄いガラスを掻き下ろす。
アカネは呆然とそれを凝視する。白いポピーの花。薄布のような日を透かす花弁が連なり、黄色い中央はドクドクと心臓のように脈打っている。そいつは服を着ているはずなのに、アカネはそれを認識できない。体型も見えているのに認識できず、男なのか女なのか、老人なのか若者なのか分からない。でも、人のカタチをしていることだけが分かった。それ以外が、見えているのに、どうしてか、認識と理解ができないのだ。脳から識別機能が綺麗に抜け落ちたかのように。
「――……」
ポピーの花は蠢きながら、何か言葉を繰り返している。アカネには聞き取れない。きゅうう、とまたガラスを掌が擦る嫌な音がする。言葉を聞き取るためには、アカネはガラスに耳をつけねばならないことを理解した。同時にアカネに嫌悪感が込み上げる。ガラス越しとはいえ、この不気味なバケモノに近付き、顔を寄せ、ガラス一枚を隔てて耳を押し当てるように晒さねばならないこと。透明で薄いガラスが酷く頼りなく思えた。
だけど、アカネはこのポピーの花の言葉を聴かねばならないという強迫的な使命感を覚えていた。なぜだかは分からないが、そうしなければならないと強く感じていた。背中に嫌な冷や汗を感じるほどに。
だからアカネは潔癖に磨き上げられたガラスに指先を触れた。体を傾けた。顔をゆっくりと寄せていく。ポピーの白い花はずっと何かを呟いている。顔を寄せると分かったのだが、真っ白な花弁には細かい毛細血管が通っていて、粒状の血が脈拍と共に流れているのが見えた。あんなに白いのに血が流れているのだな、とアカネはどこか遠くで思った。きゅうう、うう、うううう。白い花がガラスを掻く。手招きのようだ。もっとこっちだと言っているかのようだ。ドクドクと脈打っているのが気持ち悪かった。だからアカネは意を決して、冷たいガラスに耳を押し当てた。
「カンナ……君は……カンナでしょう……どうしてここに……カンナ……心配したよ……カンナ……カンナ……」
くぐもって、曖昧で、男の声か女の声かも分からない。まるで水中で聞く音のようだった。いや、実際に水中なのかもしれない。ゴボゴボと溺れるような、泡のような。
「カンナ! ……帰ろう……カンナ……!」
わななき、脈打ち、震えて蠢きながら、白いポピーが悲痛な声で訴える。
アカネは重傷者の心音を確認するような姿勢のまま、緩やかに目を閉じた。
どく。どく。心臓の音。
「あー……」
青年は、目蓋を開けないまま含み笑った。
「誰それ。そんな男の名前、知らないな」
あっけらかんと。あまりにも。
「俺の名前は……、もうアカネなんだ。俺はアカネなんだよ。アカネなんだ」
言葉を紡いだ。ガラスに押し当てたアカネの掌に力がこもり、指先が白み、手の甲に筋が浮かんだ。
透明な数ミリの向こう側、ポピーの花はワッと泣き出した。崩れるように膝を突き、ガラスを何度も何度も掻いた。アカネはガラスに傷付いた額を押し当て、それを静かに見下ろしていた。
「ああああああ、ああああああああああ~~~~」
ポピーの花はむずかるように嗚咽する。ボタボタと、白い花の黄色い中央から雫を溢れさせ始めた。項垂れている。アカネは無言で見下ろしている。泣き叫ぶポピーの花はやがて花弁をひとつまたひとつ落とし、膨れた芥子坊主になり、茶色く渇き、ザラザラと砂をこぼし始めた。いつの間にか泣き声も聞こえなくなっていた。ガラスに押し付けたアカネの額の傷口から、赤い血が、一雫、伝い、落ちる。ガラスに隔てられ、砂と血が交わることはない。
そうして、アカネは正面に座っているはずの男へと視線をやった。男は机に突っ伏して眠っていた。外したらしいサングラスが机の上に転がっている。自由なものだなとアカネは感想を抱いた。少しだけ笑ってしまった。
それからもう一度、窓の外へと目をやった。もうそこにポピーの花もなく、人影もない。あの白い花がこぼした砂も、なかった。綺麗な窓ガラスにはアカネが触った痕だけが、曇るように残っている。でも額からの出血はあった。机の上の紙ナプキンを数束、赤い血を拭う。DNAの欠片が付いた紙を、青年は握り締めてくしゃくしゃに丸めて、厨房の方に弧を描いて投げた。
深く息を吐く。椅子の背もたれに身を預ける。涼しい天井を仰いだ。アカネが見下ろす先の男はすっかり眠りこけている。いつもへらへらと笑っている彼の、貴重な笑っていない顔の一つが寝顔だ。なのでアカネは机の上に放置されているサングラスを手に取って、自分にかけてみた。鏡がないので隣のガラスを鏡代わりに、わずかにだけ映る自分の姿を見る。濃いブラウンのフィルム越しの世界。そしてふと、学生時代は赤いフィルムを暗記に使ったものだと思い出した。赤ペンで書いた文字が消えるのだ。
「そんなに赤色が好きなら、赤色のサングラスをつければいいのに」
小さめの声で男の耳に囁いた。あわよくば夢に影響すればいいとアカネは意地悪のように考えていた。
「そうしたら視界全部が、お前の好きな赤色になるだろうに。馬鹿だなぁ」
男が起きることはなかった。アカネは男の額の真ん中に人差し指を添えた。ちょうど青年の傷ができているのと同じ場所。わずかな接地面積なのに体温を感じた。あのドクドクと脈打つ花を思い出して、毛細血管と血液の粒を思い出して、おぞましくなって、気持ち悪くなって、さっさと手を離した。
――あとどれぐらいで起きるだろうか。アカネはのんびりと、常夏の眩い景色をガラス越しに眺めることにした。
男が目覚めたのは、存外にすぐであった。
明らかに顔をしかめながら起き上がったので、アカネは「悪夢でも見ましたか」と尋ねてみる。
「悪夢は見なかったけど、ちょっと寝違えたかもー」
机に突っ伏すという、睡眠にはあまり適さない体勢で眠ったからだろう。男は眉根を寄せたまま首を擦り、回している。「お大事に」とアカネは言っておいた。
「夢の中でね、水死体の絵のことをずっと考えてたんだ。どんな絵なんだろうなーって」
首の次は肩を回して男が言う。オフィーリアという立派な絵画タイトルは、すっかり「水死体」なんていう味気や教養のクソもないモノに成り果てていた。オフィーリアに罪はない。
「花の浮いた水辺に、女の子の死体が浮いてるんだっけ。なかなか変わったシチュエーションだよなぁ」
「まあ……言語化したらそんな感じになりますけどね。元はオペラだか戯曲だかの有名な一幕だそうですよ」
「へえ。アカネは本当にいろいろ知ってるねぇ」
「そうですかね」
アカネからしてみれば「自分は頭のいい人間だ」という自覚はない。だからどれだけ男から褒められても曖昧な返事しか返せない。「そろそろ行きますか」と男を促せば、彼は首を痛そうにしながらやおら立ち上がった。そして、冷房で冷えたカフェを後にした。
――縷々としたアスファルトの道を歩く。
すっかりありふれた風景だ。この眩しさに輝く、滅びゆく人間文明。緑と水に沈んでいく人工物。
車の来ない横断歩道を渡り、アカネは先ほどのポピーの花人間のことを少しだけ考えた。あの花がしきりに発した三文字の言葉は、もう思い出せなくなっていた。
「ここじゃないかな」
そしてアカネの頭の中の思考は、男の声で途切れる。アカネが現実に意識を戻せば、目の前に古臭い建物があった。色褪せた看板が、その建物が美術館であることを示している。パンフレットで紹介されていたよく分からない現代アートの広告もあった。
「これが美術館かー。へぇー」
男は興味深そうに建物の外観を眺めている。アカネはその隣で、そういえばこういう娯楽的な施設に足を運ぶのは随分久々だな、と考えていた。
「アカネ、早く行こ」
午睡を挟んだぶん元気なのか、男が楽しそうにアカネを急かす。「そうですね」とアカネは男と共に美術館の入口へと歩き出した。
予想はしていたが――建物内部にひとけはない。照明が明るくついている。チケット売り場は空っぽで、ガラス扉から見える景色もまた無人だ。扉も開いていた。わざわざ扉に施錠する人間は、もう地球上にはいないのかもしれない。
そうして、人の代わりに残された「順路」と書かれた張り紙の矢印に沿って、美術館の中を進む。冷房が効きすぎて半袖の二人には容赦がないほど寒い。カーペットの床が足音を殺している。
そんな世界で、照らされているのは奇妙な色彩の模様達だ。大きな大きなカンバスに飛び散った、赤だったり黄色だったり青だったりする絵の具。あるいは塗りたくられた絵の具。原色をした手描きの円が描かれているだけのカンバス。その多くが「無題」と名付けられており、時折「自我」「衝動」「夢」など意味深なタイトルがつけられている。
「……分かる?」
ホール内の四角いソファに座り、男は「無題」のカンバスを眺めている。男が眺める色彩達はいずれも具体的な形をしていない。隣に座るアカネはそれをしげしげを眺め、あごを擦った。
「うーん……これはもう……アレですかね、何に見えるのかを考えて楽しむような……ロールシャッハテスト的な……」
「ロール……?」
聞き慣れない単語に男が振り返る。
「こう、紙の上にインクを落として、紙を二つ折りにして、できた模様が何に見えるか……で精神分析する、みたいな」
二つ折り、の部分で青年は両手を合わせ、それから開くジェスチャーをする。男は「ふぅん」と曖昧な返事をして、目の前の絵へと視線を戻した。
「んー……」
そのまま思案するような声を漏らして、しばし。
「……ダメだ。どれだけ頑張っても色が飛び散ってるようにしか見えない」
「プロの芸術家とか批評家みたいな、アートセンスの鋭い人が見たら、価値のある絵として見えるんでしょうね。実際、こうやって立派な個展が開かれてるわけだし」
芸術やアーティストに罪はない。罪があるのは、この「素晴らしい」とジャッジされたアートを判別できない衆愚なのだ。……とアカネは思うことにしている。実際、この絵とアーティストが評価されているのは事実なのだ。より正確に言うと、「評価されていた」、という現実ではあるけれど。
「アカネには何に見える? これ」
「俺ですかぁ? うーん……」
男が指差す絵画にアカネは目を凝らした。大きなカンバスに、余白を埋め尽くさんばかりに様々な色が飛び散っている。……という感想が湧いて、それ以上の感想が湧いてこなくて、眉間を揉んだ。想像以上に自分にアートセンスがないらしいことをアカネは痛感した。
「う、うーん……色が飛び散ってるようにしか見えない」
「だよね!?」
苦々しく絞り出したアカネの声に、男は手を打って前のめりに言った。同じ感想なのが嬉しいらしい。からから陽気に笑っている。アカネもつられるように、少しだけ笑った。
――男の肩越し、向こう側の影、白いポピーの花人間が半分だけ体を覗かせていた。
まだいたのか、とアカネは思う。男には見えていないのだろうか――ふと気になった。
「ねえ、」
あれ、と呼ぼうとしたが、アカネは咄嗟に口を噤んだ。変に男に話したら、彼はアカネにも理解できない殺気に駆り立てられるかもしれない、と思ったのだ。無為な殺戮が起きることはもちろん、男が負傷するかもしれないこともアカネには好ましくないことだった。それらは、あのポピーの花人間が幻覚ではない前提での話だけれど。
「どうしたの、アカネ」
男は極めて優しい言の葉で首を傾げる。甘やかすような声音だが、それは恋人に向けるようなものではなく、人形遊びする幼児がお気に入りのオモチャに話しかけるそれに近しい。だからアカネは無垢に笑った。
「ううん、なんでもないです」
アカネは知っている。この男は全くの無垢なまま、一切の罪悪感も感じないまま、何の躊躇もしないまま、虫の翅でも毟るかのように、人体を壊すことができる人間であることを。
そうしている間に、あの花人間は消えていた。やっぱり幻覚か妄想か。まだクスリの悪影響は体から抜けていないのだなぁ、とアカネは辟易する。腕の内側を無意識的に擦った。
それから今一度、あの絵画を見る。不思議と――蠢き息衝く花畑に見えた。アカネは絵画を凝視する。ぐねぐねと、カンバスの上の色彩がのたくっている。最初は花畑に見えていたが、それはよくよく見れば網のように広がった血管だった。血管が脈打っている。縮こまる心臓に押し出された血が、流れている。肌の下がぞわりとした。脈動は蠢き続ける。しまいには一ヶ所がぷつりと途切れて直ちに出血し始めた。カンバスから滲み滴るのは、血ではなく絵の具だった。それは様々な色が混じったせいで汚い錆茶色に濁っていた。死者の体液のようだった。アカネはそれがカーペットに染み込んでいくのを、じっと見下ろしていた。
「アカネ、そろそろ行こ」
ふと男の声がして、アカネは顔を上げた。その顔を、一瞬だけ認識できなかったけれど、晴れたモヤの向こうは男の人畜無害な笑みだった。
「そうですね」
アカネは男に従順についていく。
似たような絵画ばかりが壁を飾っていた。色彩が血管のように脈打っている。脈拍の音が胎動のように聞こえる。カンバスから這い出したそれは壁中を覆っていた。どくん。どくん。まるでこの美術館は何かの体内の内部みたいだ。血管のそこかしこからは出血が起きていて、赤、青、黄、原色が滲み、垂れて、広がり、混ざり、汚い色に濁っていく。息遣いが聞こえた。それが自分の体の内側から響くものなのか、隣の男のものなのか、美術館のものなのか、アカネには分からない。
「カンナ……」
知らない名前を呼ぶ声が聞こえた。アカネはそんな名前知らない。知らない。いや。本当は。だって。あの名前は。だけど。
「もう意味がないんだよ……」
青年は俯いて、呟いた。足元には混ざりすぎた絵の具がカーペットを湿らせていた。おかげで足音はべちゃべちゃと水辺のようなものになっている。頭が痛い。額の傷はもちろんだが、額が割れるほどの打撲をした痛みだってある。どくん。どくん。これは自らの脳内で響く頭痛の音なのだと、アカネは気が付いた。額の傷に指先を触れる。ぬるり、とした。指の腹に、あの絵の具と同じ汚い茶色い色彩がついていた。
そうして、気付く。俯いていた視界、アカネのサンダルのつまさきのすぐ正面、見知らぬ靴がこっちを向いている――正面に誰かいる。パラパラとポピーの種が上からこぼれていた。砂粒のように。砂時計のように。
「カンナ!」
次の瞬間に首を絞められる。冷たい掌に。顔を上げさせられたアカネの目の前には、白いポピーが――……
「――アカネ?」
声、がして、アカネは目を覚ました。アカネはトイレの個室にいて、蓋を閉めた便器にもたれかかるように半ば倒れていた。
(俺、いつから、ここに……。夢……? いつから、どこから……?)
ぐらぐらとした心地の中で、アカネはアイボリーの便器を間近で呆然と眺めている。ぼうっと緩んだ口からは涎が垂れていた。
「アカネ、大丈夫?」
個室の扉がノックされる。声は、あの男の声だった。
「俺、は……誰……」
その声に青年はボンヤリと尋ねる。夢かうつつか曖昧なまま。認識できない幻聴の声が、さざめきのように聞こえている。
「アカネはアカネでしょ。僕の友達」
男は淀みなく答えた。――男と青年の間柄を示す、明確な表現を以て。
それを聞いた途端、アカネの意識は霞が晴れるように鮮明になる。虚ろだった目を見開いた。
「アカネ、ずっと出てこないから心配だよ。大丈夫? 早く出ておいでよ」
男の声は心底から心配するものだった。アカネは便器の蓋に預けていた顔を起こし、どうにか立ち上がる。口元を拭い、個室の鍵を開けた。
「アカネ!」
ドアに隙間ができた瞬間、男が勢いよくそれを開ききった。男の顔は嬉しそうだ。留守番をしていた子供のようだ。
アカネ。男が呼ぶ度、アカネの脳味噌にその声が心地よく染み渡る。安心した。揺るぎかけた何かが支えられるような心地だ。
「俺は、アカネ……」
「そうだよ。君はアカネ。アカネじゃないか。……また悪夢見てた?」
男がアカネの顔を覗き込む。アカネは視線を揺らす。
「悪夢……だったのかな。これも夢? ……俺、いつからここに?」
「さっき、『気分悪いからトイレ行く』って」
記憶にない。覚えていないほど朦朧としていたんだろうか、とアカネは考えた。
「ここは……美術館ですか……?」
「そうだよ。平気? 歩ける?」
「……」
「そっか。トイレの外にベンチあるから、そこで横になりな」
男はいつもアカネの手を引いてくれる。立ち止まってしまったアカネを進ませてくれる。握られた手を酷く温かく感じたのは、アカネの手が冷えきっていたからか、男の手が熱いからか。
トイレの外には男の言葉通りにベンチがあった。アカネはそこに横になる。これが夢なら、夢の中で寝ることになるのか、と考えた。
「エンドウさん」
「……」
思わず口にした名前に、返事はなかった。まるでその名前は誰のものでもないと示すかのように。構わず、アカネは言葉を続けた。
「……変な、白いポピーの頭をした人間がいたら、殺さずに追い払って……殺さなくていいから……」
「うん? よく分かんないけど、まあ、そうするね」
「殺さないで……殺さないで……」
「うんうん。大丈夫、大丈夫。あっバンソーコー剥がれてるね、また貼ってあげる……ちゃんと持ってきたんだよ」
その言葉のすぐ後、アカネは額にぺたりと粘着を感じた。絆創膏だ。剥がれないようにと、男の掌が絆創膏ごと青年の額を優しく撫でた。
「お願い……殺さないで。殺さないで。殺さないで。死にたくない」
そんな声が聞こえた。どこから? 分からない。誰が発した声なのか。いつ、どこで、どうやって?
その声の主は、両腕で顔を守るように隠して泣いている。
腕の隙間から見えたのは、赤い赤い赤い血だった。
アカネはそんな、赤い血の色を見下ろしていた。水の音が聞こえる。水の、音が、聞こえる。ざぶ、ざぶ、じゃぶ、ざぶ――……そうだ、この音は、あの常夏の下を歩く音。
気付けばアカネは、水に沈んだアスファルトの上を歩いていた。昼下がりに傾いた太陽が、じわじわと蒸した暑さで世界を照らしている。
これも夢だろうか。それとも現実のことだろうか。
アカネは遭難者のように、果ての見えない先に目を細めた――水の中に倒れて沈んだ自転車のホイールの骨組みが、太陽にキラキラと銀色のまばたきをしていた。
「カンナって誰?」
アカネの少し後ろから男の声が聞こえた。
「寝言で何回も言ってたから。カンナ、カンナって」
「……知りません、そんな名前なんて。今の俺はアカネです。俺の名前は、アカネです。カンナって呼ばないで下さい」
「分かってるよ。君はアカネだ。いい名前だね。僕らしか知らない名前だ」
男は特別感と優越感で楽しそうに言った。アカネは乾いた笑いを返した。
「あの、ここはどこですか」
それからアカネは問いかける。美術館から出た記憶がない。これも夢なのかと確信もない。
「本屋に行くんでしょ?」
後ろで男が答える。そういえばそうだった、とアカネは思い出した。オフィーリアの絵が載っている本があるかも、みたいな話をしていたのだった。だとしたらこれは夢ではなく現実なのだろうか。
「絵、すごかったねー。よく分からなかったけど」
男が世間話のように言う。アカネはそれを聞いている。
「……絵が動いたりはしなかったんですか」
虚ろな意識で口にした言葉は、アカネの視点でなければ支離滅裂なものであった。「なにそれぇ」と男が笑う。
「絵が動くわけないでしょ。ふふ、また悪夢の話? 頭ぶつけたからかな。まだ痛む?」
隣に来た男がアカネの顔を覗き込んだ。いつから彼と一緒にいたんだったか、アカネはふと、思い出せなくなる。足が止まる。「ほら一緒に行こうよ」と男が手を握って、引いてくれる。
(『症状』が、進んでるのか)
手を引かれながらアカネは思う。何かが、自分が、どんどんおかしい。でも違和感の正体が分からない。何がおかしいのか、何が正しかったのか、『症状』とはなんだったのか、『症状』が進むとどうなるのか、分からなくて、知らなくて、比定の為の過去も霞んで溶けて抜け落ちて。ポピーの花の啜り泣きがどこかで聞こえた。
「あったあった」
大きな建物の前で男が言う。指差す上の方に本屋があった。自動ドアが開いて人間を招き入れる。涼やかな冷房。ベンチで眠っている知らない人。アカネと男はエレベーターに乗った。二人きりの狭い箱だ。男はまだアカネの手を掴んでくれている。
「アカネ、眠たいの?」
「いいえ……大丈夫です」
「そう」
エレベーターの数字が点滅する度、数値が増える。「X階です」と機械が喋り、扉が開いた。青年は男に手を引かれるままだ。
電気だけが活きている建物。機械達はすこぶる元気らしい。窓から地平に近付きつつある太陽が見える。あんまりにも眩しい。世界が眩しい。道のそこかしこの水が瞬いている。鳥のいない空。静かで平和で温かな世界。
「……本ってほとんど読んだことないなぁ」
男の呟きが聞こえる。「本屋のこと詳しくないから案内してよ」と隣の青年へ言う。アカネは小さく頷いて、ゆっくりと歩き始めた。
天井近くの案内を見る。道標のように。図録やら図鑑やらがあるコーナーへ赴いた。様々な図鑑が並んでいる。子供向けから、大人の趣味用まで。オフィーリア――目当てのものがありそうな図鑑は、パッと見て見当たらない。西洋美術か戯曲かオペラに関する本ならどうだろうか……と考えつつ、アカネはおもむろに花に関する本を手に取っていた。後ろから開く。索引を見る。
「……茜」
その花のページを開いた。
カラー印刷された紙に、その花は載っていた。茜の、花。
「ふ」
途端、アカネの喉から笑いが漏れた。込み上げてくる笑いが、くつくつと青年の肩を震わせた。
「アハハ――」
あんまりアカネが愉快そうに笑うので、本棚を見渡していた男が「どうしたの」と振り返る。アカネは茜の花の写真を男に見せた。
「白色だ」
それは、点々と小さく控えめな白い花だった。茜。アカネ。赤色が似合うからとつけられたけれど、その花の色は真っ白だった。
「……茜の花って白いんだ?」
男は目を真ん丸にしていた。てっきり茜の花は赤色だと思っていたらしい。その実、青年もこの写真を見るまでは勝手にそう思い込んでいた。あくまでも根が赤色の染料に使われるだけで、その花は白かった。
「なんだぁ、白い花だったんだ。まあでも、赤色繋がりは間違ってないから!」
男は気にしていないように笑う。アカネは笑い続けていた。手から図鑑が滑り落ちて音を立てる。花の名前と写真が載っている本は人間達に背中を向けた。
「お腹空いたね、そろそろ帰ろっか」
落ちた本を気にも留めずに男が言った。アカネは笑った顔で頷いた。食事を摂らねば死んでしまう。二人共、まだ死にたい気持ちにはなれなかった。
外の世界は眩いほどの茜色だった。空が、雲が、太陽が、町が、水が、草木が、コンクリートが、深い赤色に染まっている。赤い世界を二人は歩く。ひぐらしが鳴いている。夕顔が咲いている。朝顔が萎れている。
「帰り道ってさ、なんか懐かしい感じするよね」
男は赤色を浴びている。心地よさそうだ。
「そうかもしれませんね」
アカネは答える。かつては夕食の香りが漂った夕暮れの道も、今は風のにおいしかしない。電車の音も、車の音も、雑踏のざわめきも、もう何もない。からっぽの世界。
「……」
男はそのまま立ち止まっている。アカネはしばし男が立ち止まったことに気付かず、その前を幾らか歩いたところで足を止めた。
「……どうしました?」
「ん」
男は曖昧に空を眺めている。少しだけ沈黙が流れた後、男はへらっと笑ってこう言った。
「ここどこだろ」
「……え?」
「ん、なんかさ、道、よく分からなくなって」
知らない場所に来たから、という訳ではない。男はこの周辺の地理に詳しかった――簡易な地図で美術館まで辿り着けたり、駅までの道を知っていたようにように――だからこれはただの迷子というわけではない。もっと深刻な状況だ。なのに、男の物言いにも表情にも悲愴感はなかった。欠片もなかった。
「アハハ! ねえアカネ、どうしよっか!」
まるで「遊びに行こう」と言わんばかりで。だからアカネもなんだかおかしくなってしまった。
「じゃあ、もう適当に歩きますか。いずれつきますよ。知ってる道に出るかもしれないし。つかなかったら新しい家に住んだらいいじゃないですか」
「……そうしたら、アカネ、また掃除しないとだね?」
この答えはアカネには意外だった。あの男は、あの邸宅に執着していると思っていたから、「できれば戻りたいんだけどなぁ」なり多少は渋ると予想していたのだ。
男はにこやかにアカネを見つめている。憧憬。愛玩。歓喜。幸福。執着。いろんな感情がそこにあった。
「僕とアカネは同じだから。アカネが行きたいところに僕は行くよ」
「……わかりました。ありがとうございます」
打算もなしに、肉にフィルターをかけられることもなく、曇りのないイドのまま――そんな感情を向けられることが、アカネには不思議と心地よく感じた。『必要とされている』。それはどれほど、人間という一固体を支えるファクターだろうか。最初の頃は不気味さを感じていた青年だが、今はそんな風には思っていない。
「じゃあ……とりあえずこの道を真っ直ぐで」
アカネもこの道がどこに続いているのか分からない。体感的には、気付けばここにいたのだから。青年の言葉に、男は二つ返事で「いいよ」と頷いてくれた。
――足元を朱色の金魚が泳いでいく。
夕暮れの町を彷徨う二人は、持ち主がいなくなったらしい自転車を見つけた。パンクもしていないし状態もいい。二人乗りしようと男が言う。二人乗りなんてやったことがないと戸惑う青年が言う。そうすれば男が得意気に、まあ任せてよと運転を名乗り出た。
「本当に大丈夫なんですか? 転んだりしません? っていうか成人男性二人ですし重くないです?」
「大丈夫大丈夫。ここ座って」
「ええ……尻痛くないですこれ?」
「そういうもんだから。じゃあ漕ぐよー」
「うッわあメチャクチャ揺れるッ!」
「大丈夫大丈夫」
「うわあああ」
得も言われぬ浮遊感と揺れにアカネはおっかなびっくりの声を上げ、男は重いペダルと後ろから聞こえるそんな声にカラカラ笑った。
自転車は好きなだけ、好きな方へと走っていく。どうせどこかへ着くだろうと楽観を乗せて。
通り過ぎる向こう側の景色。マンションの屋上から誰かが身を投げた。落雷のような音がした。自転車の二人は加速していく世界で、そんなことを気にせずに笑っていた。帰り道が分からないまま。どこに向かえばいいのか知らないまま。不安も憂いもどこにもないまま。茜色の只中。
黄昏ていく空を、金魚が赤い尾を揺らして泳いでいる。その金魚は不思議と体が透けていて、か細い骨が鮮明に見えた。男は片手運転で、ハンドルから離した手で夕空を指す。「金魚が泳いでる」。アカネは空を見た。「ああ本当だ」と肯定した。
自転車の揺れに幾らか慣れてきた頃、透けた金魚を見上げながら、ふとアカネは思った。さっきの夢――夢? 夢に見た、「殺さないで」「死にたくない」と請うてくる声はなんだったのか。ぐるぐると思いを馳せれば、赤い色に思い当たる。赤い――ブーゲンビリアの花。そうだ、あれは頭部が花の、人間、いいや、花だった。そうだ。花だった。アカネは赤いブーゲンビリアの花に、レンガの欠片を振り下ろしたのだ。ああ、なんだ、花だった。そういえば、あの邸宅の地下で見つけたのも花だった。白い花だ。黄ばんでいたかも。萎れた夕顔のような。ああ、夕顔だった。三つあった。あれは花だった。それから水没したコンビニで、男がガラス瓶を突き刺したのも花だった。
アカネは長く息を吐いた。東の空から夜が来る。暗い夜の方へ真っ直ぐと、どこまでも、どこまでも、道が続いていた。男が小さく「あはは」と笑った。
がしゃん。
割れる音でアカネは目を覚ました。彼は洗面所の鏡に額を打ち付けている姿勢になっていった。
「い゛ッ――」
遅れて額に痛みが走る。打ち付けた痛みと切った痛みだ。顔をしかめながら後ずされば、額を打ち付けた鏡に見事な亀裂が入っていた。蜘蛛の巣のようにも見えた。額を触る指に思った以上の血が付いた。割れた鏡には大小様々に切り取られた青年が、額から流血しながら目を見開いている姿が映っていた。
「いってぇ……」
悪態のように吐き捨て、垂れる血が床に落ちないようにしながら、アカネは雑に引っ張り出すタオルを傷口にあてがった。そうして少しずつ目を覚まし冷静になる。今のは夢か。夢うつつのまま歩いて鏡にぶつかったのか。それともこれも夢だろうか。少なくとも猛烈に痛い。頭部から血が出るのはなかなかにショックだ。アカネは溜息を吐いて、まだ暗い廊下をペタペタ歩いて――足の裏が冷たかった――居間のソファに座り込む。もう一度だけ溜息を吐いた。
少し前だったなら、夢遊病的行動をとった自らに、アカネは大層なショックを受けていただろう。けれど今の彼は、「こういうこともあるか」と漫然とした気持ちしかなかった。今は「血が止まるまでじっとしていよう」と考えていた。窓の外は暗い。日の出といったところか。青い空だ。とはいえ、いつもの青空ではなく、紺色といった色彩だが。
それにしても悪夢ではないが、不思議な心地の夢だった。思えば最近は悪夢を見なくなっているな、とアカネは気付く。そして過去に見た悪夢も、どんなものだったかはもう思い出せないでいる。夢などそんなものだ。あまり夢のことを鮮烈に覚えたまま時が過ぎると、どれが夢でどれが現実か分からなくなる。幼い頃に見た夢と、幼い頃に体験したことの区別が付かなくなるように。夢日記をつけていれば発狂するという都市伝説のように。
早朝は静かだ。アカネは喉の渇きを覚えた。だが立ち上がるのが億劫だ。目を閉じていると頭痛の中、緩やかな眠気がまたやってくる。額をタオル越しに抑えているのも面倒になってきた。
(せめて止血しないと……)
そうは思うが、もういいかという気持ちが大きくなっている。汚しても後で拭けばいいじゃないか。ここは安全だ。針もクスリもない。非難の目も口もない。いつまでも温かい。青年は胎児のように、ソファの上で丸くなった。血の付いたタオルは清潔な白の中に、温かい赤の斑点模様を咲かせていた。やがて吐息は寝息へと変わる。
男はそんな青年の様子を、暗い廊下から眺めていた。物音がしたから起きてみればアカネがおらず、どうしたことかと寝室から降りてきたら、こうなっていたのだ。
「またケガしてる」
首を傾けて覗き込み、暗がりの中でも眩く見える赤い色に男は呟いた。眠気の残る足取りで緩やかに近付いて、眠るアカネを見下ろした。青年は顔を血のついたタオルに埋めて眠っている。傷口はまだ湿っていた。顔に血の垂れた痕が赤い線になっている。男には赤い色が世界で一番輝いて見えた。幸せが約束されている色だから。その理由と根拠は忘れたけれど。
しばらく、男はアカネを眺めていた。それから思い出したように、整頓された救急箱の中身から絆創膏を引っ張り出して、アカネのの傍にしゃがみこんで、その赤い傷口に貼ってあげた。
「お大事に」
赤い髪をそっと撫でる。今日は起きたら美術館を探しに行こうという話になっていた。まだ外は暗い。今日にはなっているけれど、まだ眠るべき時間だ。男は心を浮つかせながら、寝室へと踵を返した。
進む廊下はゴミひとつなくなった。とても綺麗で清潔で。磨かれたそこはゆるやかに光を返すほど。朧のように風景が映っている。あちこちに花瓶が置かれて、あちこちにブーゲンビリアの赤い花が挿してある。とても綺麗だと男は思った。幸せだった。赤い色は輝いて見える。
●
「――ああッ!」
男の目を覚まさせたのは、やはりアカネが出す物音だった。下の階から聞こえた驚きの声に、男はパチリと目蓋を開ける。広いベッドから起き上がり、伸びをする。アクビをする。ベッドから降りて下の階に向かった。
そうすれば洗面所にアカネがいて、目を丸くして割れた鏡を見ていて、鏡に映る男に気付けば振り返り――気まずそうな顔をした。
「……すいません、鏡」
「ああ、いいよ別に」
日の出前に聞いた「がしゃん」はアカネが鏡を割った音だったのか、と男は時間差で理解した。
「その、鏡に頭から突っ込んだみたいで」
アカネが溜息のように言う。「うんうん」と男が相槌を打つと、彼はバツが悪そうに続けた。
「夢だったかも、って半信半疑だったんですけど、起きて確認してみたら、やっぱり割れてて」
「うん、すごい音したから」
「あー……すいません本当」
「いいよいいよ」
「いや、でもこれ……」
アカネは何とも言えない顔で鏡を一瞥する。この豪華な邸宅に見合う洗面所、に見合う立派な鏡だった。修理、というか取り換えにはどうあがいたって業者が必要なのだが、もうこの世界にそういうサービスは存在していない。つまりこの割れた鏡を直したり取り替えたりする手段は、ない。手遅れなのだ。
「鏡ならこの世界に腐るほどあるじゃない」
男はあっけらかんとして笑った。アカネは「そうですか……」と釈然としない様子だが、男が不機嫌にならずに済んだことをどこか安堵していた。それから青年は自分の額――ガーゼ部分に赤色が滲んだ、雑に貼られた絆創膏――に触れる。
「これ、あなたがしてくれたんですね。ありがとうございます」
「どういたしまして。……ケガ、大丈夫?」
「まあ血は止まってるので。破片が入り込んだりもなかったですし」
「そっか」
「出かけるのに支障はありませんよ」
「よかった」
夜中にどうして鏡にぶつかったのか、その理由を男が言及することはなく。男の興味はもうそこにはなかった。今日は楽しいことがある日なのだ。
「じゃあ、食事したら出かけますか」
「うん」
美術館に行こうかと約束したのだ。ブーゲンビリアが飾られた廊下を歩く。今日も変わらぬ常夏模様だ。変わらない朝の時間。この地球上で、人間らしい朝の時間を過ごしている人類がどれだけいるかは、もう誰にも分からない。蝉の声が響く。響く。
「やっぱり帽子はダメですか」
「ダメ」
男に即答されたので、「はぁ」とアカネは手にした帽子をポールハンガーに戻した。やむをえない。額に貼られた絆創膏だけが帽子代わりだ。一方で男は支度を終わらせていた。尤もいつものようなラフで暑さに対応した服だ。アカネも似たようなものである。最近は腕の内側を露出することにも忌避感がなくなってきた。
今日も施錠もせずに家を出る。どうせ泥棒もいないだろう。金品を盗まれたところで痛くも痒くもない。この世界は平和で穏やかなので、もう警戒など必要ないのである。そうして、今日もいい天気だった。
色気のないサンダルの足音。ひとまず目指しているのは駅前だ。道案内の看板か何かがあるだろう。男が「駅までの道ならわかる」と言うので、アカネはそれについていく。
「はぁ、なんかこういうの初めてだなー。旅行っていうのかな」
男はサングラスまでかけて気楽な様子だ。どことなく歩調も軽やかに見える。
「旅行ってほど旅行じゃない気がしますが、まあ、こういうのはいいですね」
アカネは隣を歩きながら答えた。汗がじわりと額に浮かび、ただでさえ雑めに貼られた絆創膏をヨレさせる。もう外そうかなぁという気になったが、折角の男の厚意なのでそのままにしておいた。
水辺の底の横断歩道を歩く。物言わぬ車がそこかしこに留まっている。向こう側をゴミ収集車が走っていった。あの中に死体はあるのだろうかとアカネは横目に見ていた。誰もいないのに信号機が灯る。青はススメで、赤はトマレだ。誰も従う者はいない。水面はとても美しく煌いていた。
そうして歩いて行けば、ビルやらの並ぶ駅前エリアに辿りつく。ひとけは――『あまり』ない。ぼうっとした顔で、右往左往するように歩いている人間がチラホラと見えた。その虚ろな瞳は、燦然たる水面を静かに映していた。中には服だけはカッチリとしたスーツの者もいた。
「道案内の看板なんてあったかなー」
男は廃人ないしは狂人らに目もくれず、辺りを見渡していた。アカネも一緒に探す。そうしてうろついていれば、駅からすぐのバスターミナルの屋根の下、ベンチの傍ら、雑草まみれの中にテイクフリーのパンフレット置き場があった。随分とふやけてしまっているが、その中に美術館を紹介するものがあった。
「看板はなかったですけど、まあ目当てのものはありましたね」
「ぶよぶよだなぁ」
男が片眉を上げる中、アカネはそのふやけきった紙を慎重に取って開いた。見たこともないアーティストの、よくわからない現代アートの個展が開かれているようだ。アカネは芸術に明るい方ではないが、ふやけた紙に描かれる新進気鋭のアートとやらは、ただインクを力いっぱい撒き散らしたようにしか見えなかった。「まあでも世の中にはこれにウン億出す人がいるんだよなぁ」と不思議な気持ちになった。
そんなアカネの手元を、サングラスをかけた男が覗き込んでくる。
「ある? 水死体の絵」
「言い方。……うーん、なさそうですね。まあ名作がその辺の美術館にある訳ないか……」
「あ、そーなの。なんか美術館って名作が何でもあるイメージがあった」
「それは国際的にも有名なやつじゃないですかね。……そういうのはちょっと、徒歩で行ける圏内じゃなさそうですね。飛行機乗らないと……」
「飛行機かー乗ったことないな」
「なかなかおもしろいですよ。上から雲を見れるのは新鮮です。離着陸の時にちょっと、変わった浮遊感があって骨盤がムズムズしますけど」
「アカネは何でも知ってるねぇ」
「そうでもないですよ」
それで、とアカネはパンフレットを閉じて、裏面の『アクセス方法』を見た。
「行きますか? この、なんか……現代アート展?」
「いいよ。行こっか」
アカネにとって少しだけ意外だった。てっきり「水死体がないならいいや」とでも言うかと思っていたのだ。感心しつつパンフレットの簡易地図を男に見せる。「この辺なんですけど道わかりますか」と問えば「ああここね、わかるわかる」と随分ラフな即答が返ってきた。少しだけアカネが「大丈夫なのか」と不安になったのは内緒だ。
そうしてまた、熱いアスファルトの上を歩き始める。
死なない程度の暑さではあるが、砂漠を進む行商隊はこんな気持ちなのだろうか、とアカネは日差しに光る世界に砂漠を重ねていた。まあ、ここはどこもかしこもオアシスだらけではあるのだが。
「あー、水死体ですけど」
男に「オフィーリア」と言ってもイマイチ通じまいと思い、アカネはその単語を口にする。
「本屋か図書館に図鑑なんかがあれば、見れると思いますよ」
「ほんと?」
「多分ですけど。まあ、海外の美術館を泳いで目指すよりかは現実的かな」
「見たい」
食い気味に答える男がアカネの方を見る。「じゃあ美術館の次は本屋か図書館ですね」とアカネは頷いた。それから、こんな状況でもやりたいことが増えるものだなぁ、と密やかに思う。人々は気力を失い、人間的生活すらままならぬようになり、穏やかに死んでいくというのに。はたまた、 男の症状の進行はなだらかになっているのだろうか、とアカネは考えた。そこから……よもや、と空想する。
――この気力と正気を失っていく症状は、治るのだろうか。
(もし、も……治る方法を、発見できたら――)
電撃的に心が震えた。歩いている感覚が遠退くほどに。もしも、もしも症状を止めたり治したりできたら? その方法がハッキリと分かったら? まだ間に合うのか? この世界を、人類を、救うことができるのか? 破滅を食い止めることができるのか? 壊れてしまったいろんなものを、治すことはできるのか?
そこまで、考えて――
でも、信じてもらえないさ。
誰も信じてはくれないのだ。
奇人扱い、狂人扱いが結末。
意味がないのだ。どうせ、結局。
何をしたところで。足掻いたところで。声を張り上げたところで。
意味はない。もう何もない。もう何も望まない。もう何も要らない。もういい。これで十二分。
こんなにも世界は輝いている。太陽が。空が。緑が。水面が。
それが損なわれるのはあまりにも惜しい。
煌めいている。穏やかで優しい。平和で静かだ。競争も迫害もない。狂ってなどいない。おかしくなんかない。皆がそうなっていく。これが正しい在り方なのだ。
――このままで、もういいじゃないか。
アカネは額から血が出ている気がした。生ぬるいそれは汗だった。絆創膏のガーゼはすっかり汗を吸ってしまっている。
「あつい……」
太陽は真上でギラギラしている。男は少し先を歩いていた。アカネの声に振り返ると、「じゃあ少し休もうか」と微笑んでくれた。
ちょうど、少し歩いたところにチェーン店のカフェがあった。ガラス扉はひび割れていた。店内には誰もいないが、冷房だけは効いている。人工の枯れない植物が冷えた風に揺れていた。ひとけはないのに掃除は隅々まで行き届いている。誰かが定期的に掃除しているのかもしれない。
二人は窓辺の席に座った。誰もいないので店員が注文を聞いてくることはないし、注文をしたところで何も来ない。
「コーヒー飲みたいね」
男がおもむろに言う。厨房にあるのはダメになってそうな雰囲気があるので、アカネはそちらを一瞥した後、「帰ったら淹れますよ」と答えた。家にはお湯で溶かすだけのインスタントコーヒーが置いてある。新鮮な牛乳がないのでコーヒー牛乳を味わえないのが悔やまれる。
アカネがコーヒー代わりに鞄から出したのは、ペットボトル入りの水だった。それを幾らか飲めば、喉の乾きも癒される。生ぬるいが、冷たすぎると胃腸によくない。ふう、と息を吐いた。水晶のように透明なボトルを、埃一つない机の上に置いた。それは窓からの常夏の明かりにキラキラと、七色のプリズムを放っていた。
そうして――アカネがなんとはなしに窓の外へ視線を向けると。
そこにべったりと、頭部が白い花の人間が、ガラスの向こう側からアカネのことを覗き込んでいる姿が、目に留まった。
きゅう、う。ガラスに突いた花人間の両掌が、薄いガラスを掻き下ろす。
アカネは呆然とそれを凝視する。白いポピーの花。薄布のような日を透かす花弁が連なり、黄色い中央はドクドクと心臓のように脈打っている。そいつは服を着ているはずなのに、アカネはそれを認識できない。体型も見えているのに認識できず、男なのか女なのか、老人なのか若者なのか分からない。でも、人のカタチをしていることだけが分かった。それ以外が、見えているのに、どうしてか、認識と理解ができないのだ。脳から識別機能が綺麗に抜け落ちたかのように。
「――……」
ポピーの花は蠢きながら、何か言葉を繰り返している。アカネには聞き取れない。きゅうう、とまたガラスを掌が擦る嫌な音がする。言葉を聞き取るためには、アカネはガラスに耳をつけねばならないことを理解した。同時にアカネに嫌悪感が込み上げる。ガラス越しとはいえ、この不気味なバケモノに近付き、顔を寄せ、ガラス一枚を隔てて耳を押し当てるように晒さねばならないこと。透明で薄いガラスが酷く頼りなく思えた。
だけど、アカネはこのポピーの花の言葉を聴かねばならないという強迫的な使命感を覚えていた。なぜだかは分からないが、そうしなければならないと強く感じていた。背中に嫌な冷や汗を感じるほどに。
だからアカネは潔癖に磨き上げられたガラスに指先を触れた。体を傾けた。顔をゆっくりと寄せていく。ポピーの白い花はずっと何かを呟いている。顔を寄せると分かったのだが、真っ白な花弁には細かい毛細血管が通っていて、粒状の血が脈拍と共に流れているのが見えた。あんなに白いのに血が流れているのだな、とアカネはどこか遠くで思った。きゅうう、うう、うううう。白い花がガラスを掻く。手招きのようだ。もっとこっちだと言っているかのようだ。ドクドクと脈打っているのが気持ち悪かった。だからアカネは意を決して、冷たいガラスに耳を押し当てた。
「カンナ……君は……カンナでしょう……どうしてここに……カンナ……心配したよ……カンナ……カンナ……」
くぐもって、曖昧で、男の声か女の声かも分からない。まるで水中で聞く音のようだった。いや、実際に水中なのかもしれない。ゴボゴボと溺れるような、泡のような。
「カンナ! ……帰ろう……カンナ……!」
わななき、脈打ち、震えて蠢きながら、白いポピーが悲痛な声で訴える。
アカネは重傷者の心音を確認するような姿勢のまま、緩やかに目を閉じた。
どく。どく。心臓の音。
「あー……」
青年は、目蓋を開けないまま含み笑った。
「誰それ。そんな男の名前、知らないな」
あっけらかんと。あまりにも。
「俺の名前は……、もうアカネなんだ。俺はアカネなんだよ。アカネなんだ」
言葉を紡いだ。ガラスに押し当てたアカネの掌に力がこもり、指先が白み、手の甲に筋が浮かんだ。
透明な数ミリの向こう側、ポピーの花はワッと泣き出した。崩れるように膝を突き、ガラスを何度も何度も掻いた。アカネはガラスに傷付いた額を押し当て、それを静かに見下ろしていた。
「ああああああ、ああああああああああ~~~~」
ポピーの花はむずかるように嗚咽する。ボタボタと、白い花の黄色い中央から雫を溢れさせ始めた。項垂れている。アカネは無言で見下ろしている。泣き叫ぶポピーの花はやがて花弁をひとつまたひとつ落とし、膨れた芥子坊主になり、茶色く渇き、ザラザラと砂をこぼし始めた。いつの間にか泣き声も聞こえなくなっていた。ガラスに押し付けたアカネの額の傷口から、赤い血が、一雫、伝い、落ちる。ガラスに隔てられ、砂と血が交わることはない。
そうして、アカネは正面に座っているはずの男へと視線をやった。男は机に突っ伏して眠っていた。外したらしいサングラスが机の上に転がっている。自由なものだなとアカネは感想を抱いた。少しだけ笑ってしまった。
それからもう一度、窓の外へと目をやった。もうそこにポピーの花もなく、人影もない。あの白い花がこぼした砂も、なかった。綺麗な窓ガラスにはアカネが触った痕だけが、曇るように残っている。でも額からの出血はあった。机の上の紙ナプキンを数束、赤い血を拭う。DNAの欠片が付いた紙を、青年は握り締めてくしゃくしゃに丸めて、厨房の方に弧を描いて投げた。
深く息を吐く。椅子の背もたれに身を預ける。涼しい天井を仰いだ。アカネが見下ろす先の男はすっかり眠りこけている。いつもへらへらと笑っている彼の、貴重な笑っていない顔の一つが寝顔だ。なのでアカネは机の上に放置されているサングラスを手に取って、自分にかけてみた。鏡がないので隣のガラスを鏡代わりに、わずかにだけ映る自分の姿を見る。濃いブラウンのフィルム越しの世界。そしてふと、学生時代は赤いフィルムを暗記に使ったものだと思い出した。赤ペンで書いた文字が消えるのだ。
「そんなに赤色が好きなら、赤色のサングラスをつければいいのに」
小さめの声で男の耳に囁いた。あわよくば夢に影響すればいいとアカネは意地悪のように考えていた。
「そうしたら視界全部が、お前の好きな赤色になるだろうに。馬鹿だなぁ」
男が起きることはなかった。アカネは男の額の真ん中に人差し指を添えた。ちょうど青年の傷ができているのと同じ場所。わずかな接地面積なのに体温を感じた。あのドクドクと脈打つ花を思い出して、毛細血管と血液の粒を思い出して、おぞましくなって、気持ち悪くなって、さっさと手を離した。
――あとどれぐらいで起きるだろうか。アカネはのんびりと、常夏の眩い景色をガラス越しに眺めることにした。
男が目覚めたのは、存外にすぐであった。
明らかに顔をしかめながら起き上がったので、アカネは「悪夢でも見ましたか」と尋ねてみる。
「悪夢は見なかったけど、ちょっと寝違えたかもー」
机に突っ伏すという、睡眠にはあまり適さない体勢で眠ったからだろう。男は眉根を寄せたまま首を擦り、回している。「お大事に」とアカネは言っておいた。
「夢の中でね、水死体の絵のことをずっと考えてたんだ。どんな絵なんだろうなーって」
首の次は肩を回して男が言う。オフィーリアという立派な絵画タイトルは、すっかり「水死体」なんていう味気や教養のクソもないモノに成り果てていた。オフィーリアに罪はない。
「花の浮いた水辺に、女の子の死体が浮いてるんだっけ。なかなか変わったシチュエーションだよなぁ」
「まあ……言語化したらそんな感じになりますけどね。元はオペラだか戯曲だかの有名な一幕だそうですよ」
「へえ。アカネは本当にいろいろ知ってるねぇ」
「そうですかね」
アカネからしてみれば「自分は頭のいい人間だ」という自覚はない。だからどれだけ男から褒められても曖昧な返事しか返せない。「そろそろ行きますか」と男を促せば、彼は首を痛そうにしながらやおら立ち上がった。そして、冷房で冷えたカフェを後にした。
――縷々としたアスファルトの道を歩く。
すっかりありふれた風景だ。この眩しさに輝く、滅びゆく人間文明。緑と水に沈んでいく人工物。
車の来ない横断歩道を渡り、アカネは先ほどのポピーの花人間のことを少しだけ考えた。あの花がしきりに発した三文字の言葉は、もう思い出せなくなっていた。
「ここじゃないかな」
そしてアカネの頭の中の思考は、男の声で途切れる。アカネが現実に意識を戻せば、目の前に古臭い建物があった。色褪せた看板が、その建物が美術館であることを示している。パンフレットで紹介されていたよく分からない現代アートの広告もあった。
「これが美術館かー。へぇー」
男は興味深そうに建物の外観を眺めている。アカネはその隣で、そういえばこういう娯楽的な施設に足を運ぶのは随分久々だな、と考えていた。
「アカネ、早く行こ」
午睡を挟んだぶん元気なのか、男が楽しそうにアカネを急かす。「そうですね」とアカネは男と共に美術館の入口へと歩き出した。
予想はしていたが――建物内部にひとけはない。照明が明るくついている。チケット売り場は空っぽで、ガラス扉から見える景色もまた無人だ。扉も開いていた。わざわざ扉に施錠する人間は、もう地球上にはいないのかもしれない。
そうして、人の代わりに残された「順路」と書かれた張り紙の矢印に沿って、美術館の中を進む。冷房が効きすぎて半袖の二人には容赦がないほど寒い。カーペットの床が足音を殺している。
そんな世界で、照らされているのは奇妙な色彩の模様達だ。大きな大きなカンバスに飛び散った、赤だったり黄色だったり青だったりする絵の具。あるいは塗りたくられた絵の具。原色をした手描きの円が描かれているだけのカンバス。その多くが「無題」と名付けられており、時折「自我」「衝動」「夢」など意味深なタイトルがつけられている。
「……分かる?」
ホール内の四角いソファに座り、男は「無題」のカンバスを眺めている。男が眺める色彩達はいずれも具体的な形をしていない。隣に座るアカネはそれをしげしげを眺め、あごを擦った。
「うーん……これはもう……アレですかね、何に見えるのかを考えて楽しむような……ロールシャッハテスト的な……」
「ロール……?」
聞き慣れない単語に男が振り返る。
「こう、紙の上にインクを落として、紙を二つ折りにして、できた模様が何に見えるか……で精神分析する、みたいな」
二つ折り、の部分で青年は両手を合わせ、それから開くジェスチャーをする。男は「ふぅん」と曖昧な返事をして、目の前の絵へと視線を戻した。
「んー……」
そのまま思案するような声を漏らして、しばし。
「……ダメだ。どれだけ頑張っても色が飛び散ってるようにしか見えない」
「プロの芸術家とか批評家みたいな、アートセンスの鋭い人が見たら、価値のある絵として見えるんでしょうね。実際、こうやって立派な個展が開かれてるわけだし」
芸術やアーティストに罪はない。罪があるのは、この「素晴らしい」とジャッジされたアートを判別できない衆愚なのだ。……とアカネは思うことにしている。実際、この絵とアーティストが評価されているのは事実なのだ。より正確に言うと、「評価されていた」、という現実ではあるけれど。
「アカネには何に見える? これ」
「俺ですかぁ? うーん……」
男が指差す絵画にアカネは目を凝らした。大きなカンバスに、余白を埋め尽くさんばかりに様々な色が飛び散っている。……という感想が湧いて、それ以上の感想が湧いてこなくて、眉間を揉んだ。想像以上に自分にアートセンスがないらしいことをアカネは痛感した。
「う、うーん……色が飛び散ってるようにしか見えない」
「だよね!?」
苦々しく絞り出したアカネの声に、男は手を打って前のめりに言った。同じ感想なのが嬉しいらしい。からから陽気に笑っている。アカネもつられるように、少しだけ笑った。
――男の肩越し、向こう側の影、白いポピーの花人間が半分だけ体を覗かせていた。
まだいたのか、とアカネは思う。男には見えていないのだろうか――ふと気になった。
「ねえ、」
あれ、と呼ぼうとしたが、アカネは咄嗟に口を噤んだ。変に男に話したら、彼はアカネにも理解できない殺気に駆り立てられるかもしれない、と思ったのだ。無為な殺戮が起きることはもちろん、男が負傷するかもしれないこともアカネには好ましくないことだった。それらは、あのポピーの花人間が幻覚ではない前提での話だけれど。
「どうしたの、アカネ」
男は極めて優しい言の葉で首を傾げる。甘やかすような声音だが、それは恋人に向けるようなものではなく、人形遊びする幼児がお気に入りのオモチャに話しかけるそれに近しい。だからアカネは無垢に笑った。
「ううん、なんでもないです」
アカネは知っている。この男は全くの無垢なまま、一切の罪悪感も感じないまま、何の躊躇もしないまま、虫の翅でも毟るかのように、人体を壊すことができる人間であることを。
そうしている間に、あの花人間は消えていた。やっぱり幻覚か妄想か。まだクスリの悪影響は体から抜けていないのだなぁ、とアカネは辟易する。腕の内側を無意識的に擦った。
それから今一度、あの絵画を見る。不思議と――蠢き息衝く花畑に見えた。アカネは絵画を凝視する。ぐねぐねと、カンバスの上の色彩がのたくっている。最初は花畑に見えていたが、それはよくよく見れば網のように広がった血管だった。血管が脈打っている。縮こまる心臓に押し出された血が、流れている。肌の下がぞわりとした。脈動は蠢き続ける。しまいには一ヶ所がぷつりと途切れて直ちに出血し始めた。カンバスから滲み滴るのは、血ではなく絵の具だった。それは様々な色が混じったせいで汚い錆茶色に濁っていた。死者の体液のようだった。アカネはそれがカーペットに染み込んでいくのを、じっと見下ろしていた。
「アカネ、そろそろ行こ」
ふと男の声がして、アカネは顔を上げた。その顔を、一瞬だけ認識できなかったけれど、晴れたモヤの向こうは男の人畜無害な笑みだった。
「そうですね」
アカネは男に従順についていく。
似たような絵画ばかりが壁を飾っていた。色彩が血管のように脈打っている。脈拍の音が胎動のように聞こえる。カンバスから這い出したそれは壁中を覆っていた。どくん。どくん。まるでこの美術館は何かの体内の内部みたいだ。血管のそこかしこからは出血が起きていて、赤、青、黄、原色が滲み、垂れて、広がり、混ざり、汚い色に濁っていく。息遣いが聞こえた。それが自分の体の内側から響くものなのか、隣の男のものなのか、美術館のものなのか、アカネには分からない。
「カンナ……」
知らない名前を呼ぶ声が聞こえた。アカネはそんな名前知らない。知らない。いや。本当は。だって。あの名前は。だけど。
「もう意味がないんだよ……」
青年は俯いて、呟いた。足元には混ざりすぎた絵の具がカーペットを湿らせていた。おかげで足音はべちゃべちゃと水辺のようなものになっている。頭が痛い。額の傷はもちろんだが、額が割れるほどの打撲をした痛みだってある。どくん。どくん。これは自らの脳内で響く頭痛の音なのだと、アカネは気が付いた。額の傷に指先を触れる。ぬるり、とした。指の腹に、あの絵の具と同じ汚い茶色い色彩がついていた。
そうして、気付く。俯いていた視界、アカネのサンダルのつまさきのすぐ正面、見知らぬ靴がこっちを向いている――正面に誰かいる。パラパラとポピーの種が上からこぼれていた。砂粒のように。砂時計のように。
「カンナ!」
次の瞬間に首を絞められる。冷たい掌に。顔を上げさせられたアカネの目の前には、白いポピーが――……
「――アカネ?」
声、がして、アカネは目を覚ました。アカネはトイレの個室にいて、蓋を閉めた便器にもたれかかるように半ば倒れていた。
(俺、いつから、ここに……。夢……? いつから、どこから……?)
ぐらぐらとした心地の中で、アカネはアイボリーの便器を間近で呆然と眺めている。ぼうっと緩んだ口からは涎が垂れていた。
「アカネ、大丈夫?」
個室の扉がノックされる。声は、あの男の声だった。
「俺、は……誰……」
その声に青年はボンヤリと尋ねる。夢かうつつか曖昧なまま。認識できない幻聴の声が、さざめきのように聞こえている。
「アカネはアカネでしょ。僕の友達」
男は淀みなく答えた。――男と青年の間柄を示す、明確な表現を以て。
それを聞いた途端、アカネの意識は霞が晴れるように鮮明になる。虚ろだった目を見開いた。
「アカネ、ずっと出てこないから心配だよ。大丈夫? 早く出ておいでよ」
男の声は心底から心配するものだった。アカネは便器の蓋に預けていた顔を起こし、どうにか立ち上がる。口元を拭い、個室の鍵を開けた。
「アカネ!」
ドアに隙間ができた瞬間、男が勢いよくそれを開ききった。男の顔は嬉しそうだ。留守番をしていた子供のようだ。
アカネ。男が呼ぶ度、アカネの脳味噌にその声が心地よく染み渡る。安心した。揺るぎかけた何かが支えられるような心地だ。
「俺は、アカネ……」
「そうだよ。君はアカネ。アカネじゃないか。……また悪夢見てた?」
男がアカネの顔を覗き込む。アカネは視線を揺らす。
「悪夢……だったのかな。これも夢? ……俺、いつからここに?」
「さっき、『気分悪いからトイレ行く』って」
記憶にない。覚えていないほど朦朧としていたんだろうか、とアカネは考えた。
「ここは……美術館ですか……?」
「そうだよ。平気? 歩ける?」
「……」
「そっか。トイレの外にベンチあるから、そこで横になりな」
男はいつもアカネの手を引いてくれる。立ち止まってしまったアカネを進ませてくれる。握られた手を酷く温かく感じたのは、アカネの手が冷えきっていたからか、男の手が熱いからか。
トイレの外には男の言葉通りにベンチがあった。アカネはそこに横になる。これが夢なら、夢の中で寝ることになるのか、と考えた。
「エンドウさん」
「……」
思わず口にした名前に、返事はなかった。まるでその名前は誰のものでもないと示すかのように。構わず、アカネは言葉を続けた。
「……変な、白いポピーの頭をした人間がいたら、殺さずに追い払って……殺さなくていいから……」
「うん? よく分かんないけど、まあ、そうするね」
「殺さないで……殺さないで……」
「うんうん。大丈夫、大丈夫。あっバンソーコー剥がれてるね、また貼ってあげる……ちゃんと持ってきたんだよ」
その言葉のすぐ後、アカネは額にぺたりと粘着を感じた。絆創膏だ。剥がれないようにと、男の掌が絆創膏ごと青年の額を優しく撫でた。
「お願い……殺さないで。殺さないで。殺さないで。死にたくない」
そんな声が聞こえた。どこから? 分からない。誰が発した声なのか。いつ、どこで、どうやって?
その声の主は、両腕で顔を守るように隠して泣いている。
腕の隙間から見えたのは、赤い赤い赤い血だった。
アカネはそんな、赤い血の色を見下ろしていた。水の音が聞こえる。水の、音が、聞こえる。ざぶ、ざぶ、じゃぶ、ざぶ――……そうだ、この音は、あの常夏の下を歩く音。
気付けばアカネは、水に沈んだアスファルトの上を歩いていた。昼下がりに傾いた太陽が、じわじわと蒸した暑さで世界を照らしている。
これも夢だろうか。それとも現実のことだろうか。
アカネは遭難者のように、果ての見えない先に目を細めた――水の中に倒れて沈んだ自転車のホイールの骨組みが、太陽にキラキラと銀色のまばたきをしていた。
「カンナって誰?」
アカネの少し後ろから男の声が聞こえた。
「寝言で何回も言ってたから。カンナ、カンナって」
「……知りません、そんな名前なんて。今の俺はアカネです。俺の名前は、アカネです。カンナって呼ばないで下さい」
「分かってるよ。君はアカネだ。いい名前だね。僕らしか知らない名前だ」
男は特別感と優越感で楽しそうに言った。アカネは乾いた笑いを返した。
「あの、ここはどこですか」
それからアカネは問いかける。美術館から出た記憶がない。これも夢なのかと確信もない。
「本屋に行くんでしょ?」
後ろで男が答える。そういえばそうだった、とアカネは思い出した。オフィーリアの絵が載っている本があるかも、みたいな話をしていたのだった。だとしたらこれは夢ではなく現実なのだろうか。
「絵、すごかったねー。よく分からなかったけど」
男が世間話のように言う。アカネはそれを聞いている。
「……絵が動いたりはしなかったんですか」
虚ろな意識で口にした言葉は、アカネの視点でなければ支離滅裂なものであった。「なにそれぇ」と男が笑う。
「絵が動くわけないでしょ。ふふ、また悪夢の話? 頭ぶつけたからかな。まだ痛む?」
隣に来た男がアカネの顔を覗き込んだ。いつから彼と一緒にいたんだったか、アカネはふと、思い出せなくなる。足が止まる。「ほら一緒に行こうよ」と男が手を握って、引いてくれる。
(『症状』が、進んでるのか)
手を引かれながらアカネは思う。何かが、自分が、どんどんおかしい。でも違和感の正体が分からない。何がおかしいのか、何が正しかったのか、『症状』とはなんだったのか、『症状』が進むとどうなるのか、分からなくて、知らなくて、比定の為の過去も霞んで溶けて抜け落ちて。ポピーの花の啜り泣きがどこかで聞こえた。
「あったあった」
大きな建物の前で男が言う。指差す上の方に本屋があった。自動ドアが開いて人間を招き入れる。涼やかな冷房。ベンチで眠っている知らない人。アカネと男はエレベーターに乗った。二人きりの狭い箱だ。男はまだアカネの手を掴んでくれている。
「アカネ、眠たいの?」
「いいえ……大丈夫です」
「そう」
エレベーターの数字が点滅する度、数値が増える。「X階です」と機械が喋り、扉が開いた。青年は男に手を引かれるままだ。
電気だけが活きている建物。機械達はすこぶる元気らしい。窓から地平に近付きつつある太陽が見える。あんまりにも眩しい。世界が眩しい。道のそこかしこの水が瞬いている。鳥のいない空。静かで平和で温かな世界。
「……本ってほとんど読んだことないなぁ」
男の呟きが聞こえる。「本屋のこと詳しくないから案内してよ」と隣の青年へ言う。アカネは小さく頷いて、ゆっくりと歩き始めた。
天井近くの案内を見る。道標のように。図録やら図鑑やらがあるコーナーへ赴いた。様々な図鑑が並んでいる。子供向けから、大人の趣味用まで。オフィーリア――目当てのものがありそうな図鑑は、パッと見て見当たらない。西洋美術か戯曲かオペラに関する本ならどうだろうか……と考えつつ、アカネはおもむろに花に関する本を手に取っていた。後ろから開く。索引を見る。
「……茜」
その花のページを開いた。
カラー印刷された紙に、その花は載っていた。茜の、花。
「ふ」
途端、アカネの喉から笑いが漏れた。込み上げてくる笑いが、くつくつと青年の肩を震わせた。
「アハハ――」
あんまりアカネが愉快そうに笑うので、本棚を見渡していた男が「どうしたの」と振り返る。アカネは茜の花の写真を男に見せた。
「白色だ」
それは、点々と小さく控えめな白い花だった。茜。アカネ。赤色が似合うからとつけられたけれど、その花の色は真っ白だった。
「……茜の花って白いんだ?」
男は目を真ん丸にしていた。てっきり茜の花は赤色だと思っていたらしい。その実、青年もこの写真を見るまでは勝手にそう思い込んでいた。あくまでも根が赤色の染料に使われるだけで、その花は白かった。
「なんだぁ、白い花だったんだ。まあでも、赤色繋がりは間違ってないから!」
男は気にしていないように笑う。アカネは笑い続けていた。手から図鑑が滑り落ちて音を立てる。花の名前と写真が載っている本は人間達に背中を向けた。
「お腹空いたね、そろそろ帰ろっか」
落ちた本を気にも留めずに男が言った。アカネは笑った顔で頷いた。食事を摂らねば死んでしまう。二人共、まだ死にたい気持ちにはなれなかった。
外の世界は眩いほどの茜色だった。空が、雲が、太陽が、町が、水が、草木が、コンクリートが、深い赤色に染まっている。赤い世界を二人は歩く。ひぐらしが鳴いている。夕顔が咲いている。朝顔が萎れている。
「帰り道ってさ、なんか懐かしい感じするよね」
男は赤色を浴びている。心地よさそうだ。
「そうかもしれませんね」
アカネは答える。かつては夕食の香りが漂った夕暮れの道も、今は風のにおいしかしない。電車の音も、車の音も、雑踏のざわめきも、もう何もない。からっぽの世界。
「……」
男はそのまま立ち止まっている。アカネはしばし男が立ち止まったことに気付かず、その前を幾らか歩いたところで足を止めた。
「……どうしました?」
「ん」
男は曖昧に空を眺めている。少しだけ沈黙が流れた後、男はへらっと笑ってこう言った。
「ここどこだろ」
「……え?」
「ん、なんかさ、道、よく分からなくなって」
知らない場所に来たから、という訳ではない。男はこの周辺の地理に詳しかった――簡易な地図で美術館まで辿り着けたり、駅までの道を知っていたようにように――だからこれはただの迷子というわけではない。もっと深刻な状況だ。なのに、男の物言いにも表情にも悲愴感はなかった。欠片もなかった。
「アハハ! ねえアカネ、どうしよっか!」
まるで「遊びに行こう」と言わんばかりで。だからアカネもなんだかおかしくなってしまった。
「じゃあ、もう適当に歩きますか。いずれつきますよ。知ってる道に出るかもしれないし。つかなかったら新しい家に住んだらいいじゃないですか」
「……そうしたら、アカネ、また掃除しないとだね?」
この答えはアカネには意外だった。あの男は、あの邸宅に執着していると思っていたから、「できれば戻りたいんだけどなぁ」なり多少は渋ると予想していたのだ。
男はにこやかにアカネを見つめている。憧憬。愛玩。歓喜。幸福。執着。いろんな感情がそこにあった。
「僕とアカネは同じだから。アカネが行きたいところに僕は行くよ」
「……わかりました。ありがとうございます」
打算もなしに、肉にフィルターをかけられることもなく、曇りのないイドのまま――そんな感情を向けられることが、アカネには不思議と心地よく感じた。『必要とされている』。それはどれほど、人間という一固体を支えるファクターだろうか。最初の頃は不気味さを感じていた青年だが、今はそんな風には思っていない。
「じゃあ……とりあえずこの道を真っ直ぐで」
アカネもこの道がどこに続いているのか分からない。体感的には、気付けばここにいたのだから。青年の言葉に、男は二つ返事で「いいよ」と頷いてくれた。
――足元を朱色の金魚が泳いでいく。
夕暮れの町を彷徨う二人は、持ち主がいなくなったらしい自転車を見つけた。パンクもしていないし状態もいい。二人乗りしようと男が言う。二人乗りなんてやったことがないと戸惑う青年が言う。そうすれば男が得意気に、まあ任せてよと運転を名乗り出た。
「本当に大丈夫なんですか? 転んだりしません? っていうか成人男性二人ですし重くないです?」
「大丈夫大丈夫。ここ座って」
「ええ……尻痛くないですこれ?」
「そういうもんだから。じゃあ漕ぐよー」
「うッわあメチャクチャ揺れるッ!」
「大丈夫大丈夫」
「うわあああ」
得も言われぬ浮遊感と揺れにアカネはおっかなびっくりの声を上げ、男は重いペダルと後ろから聞こえるそんな声にカラカラ笑った。
自転車は好きなだけ、好きな方へと走っていく。どうせどこかへ着くだろうと楽観を乗せて。
通り過ぎる向こう側の景色。マンションの屋上から誰かが身を投げた。落雷のような音がした。自転車の二人は加速していく世界で、そんなことを気にせずに笑っていた。帰り道が分からないまま。どこに向かえばいいのか知らないまま。不安も憂いもどこにもないまま。茜色の只中。
黄昏ていく空を、金魚が赤い尾を揺らして泳いでいる。その金魚は不思議と体が透けていて、か細い骨が鮮明に見えた。男は片手運転で、ハンドルから離した手で夕空を指す。「金魚が泳いでる」。アカネは空を見た。「ああ本当だ」と肯定した。
自転車の揺れに幾らか慣れてきた頃、透けた金魚を見上げながら、ふとアカネは思った。さっきの夢――夢? 夢に見た、「殺さないで」「死にたくない」と請うてくる声はなんだったのか。ぐるぐると思いを馳せれば、赤い色に思い当たる。赤い――ブーゲンビリアの花。そうだ、あれは頭部が花の、人間、いいや、花だった。そうだ。花だった。アカネは赤いブーゲンビリアの花に、レンガの欠片を振り下ろしたのだ。ああ、なんだ、花だった。そういえば、あの邸宅の地下で見つけたのも花だった。白い花だ。黄ばんでいたかも。萎れた夕顔のような。ああ、夕顔だった。三つあった。あれは花だった。それから水没したコンビニで、男がガラス瓶を突き刺したのも花だった。
アカネは長く息を吐いた。東の空から夜が来る。暗い夜の方へ真っ直ぐと、どこまでも、どこまでも、道が続いていた。男が小さく「あはは」と笑った。