●5:鮮やかなりし、インヘルノ
季節は移ろわない。
命を蝕むことはない程度の暑さが、今日も燦々と降り注ぐ。
冷蔵庫に氷を作る機能があったのと、手動のかき氷機が見つかったのとで、「かき氷を作ろう」という話になった。だが氷はあるが肝心のシロップがないことに青年と男は気付く。
では調達に……と出かけたはいいものの、これが見当たらない。少し遠出したが徒労に終わってしまった。
「……ないね」
「ありませんね。意外とないもんなんですね」
ジワジワジワ、と蝉が鳴いている午後。一番太陽がえげつない位置にある時間。もうもうと熱いアスファルトの上を、二人分の足音が響いていく。
「あっつい……」
アカネは辟易とした顔で汗ばむ首の後ろを擦った。太陽のせいで焼けている。帽子を被ってきたらよかった――とまで考えて、そういえば帽子は男に投げ捨てられたんだった、と思い出す。
あれからアカネは幾らか健康的に日焼けをしたし、連日に次ぐ連日の掃除のおかげで衰えていた筋肉もマトモなレベルに戻ったし、外見情報だけならば長い間病院に監禁されていた人間には見えなかった。
「あ」
ふとアカネは立ち止まる。「どしたの」と男も立ち止まる。
「ワインあったんですよ、家の中に」
あの地下娯楽室。ワインセラーのことをアカネは思い出す。死体と共に熟成されたワインだが……この茹だるような暑さと『慣れと麻痺』が、アカネから旧時代的倫理観を奪っていた。
「かき氷にワインぶっかけたら、よさそうじゃないっすか。ワイン」
「あーいいね。でも口が甘い味を求めてるんだけど」
「ガムシロでもかければいいんじゃないですか」
「なるほどなーアカネは頭いいなー」
暑さのせいで会話の知能指数もいくらか低下してしまっている。二人の共通する思いは「そろそろ帰りたい」だったので、これ以上かき氷用のシロップを探すことは諦めた。
帰りの道すがら、ファミリーレストランだった場所に立ち入る。冷房が効いていた。人間が一人だけ、窓際の席にじっと座っていた。テーブルには大量のグラスが隙間なく置かれていた。いずれにも何かしらの液体が入っていたが、それらは腐敗の悪臭を放っていた。
男と青年はそれに目をくれることもなく、ドリンクコーナーのガムシロップや、他にもあれこれをまとめて鞄に放り込んだ。咎める者は誰もいない。流石にドリンクバー用の飲み物を飲む気にはなれなかったが、水だけは大丈夫そうなので水分補給をした。
そうしていつもの家に戻る。ブーゲンビリアの赤い花に彩られた、居場所。
「はー暑かった」
日影は涼しい。荷物を下ろした男は、かつてガラクタに埋もれていたソファにどっかと腰を下ろした。背もたれに置いた片腕には包帯が巻かれている。狂人に噛まれた傷は懸命な消毒の結果か化膿することもなく、無事に治りつつあった。
男は一息を吐きつつ、居間を見渡した――随分と広く見えるのは、ゴミがないからだ。掃除の行き届いた清潔な空間。無駄なものが置かれておらず、花瓶には寝室のようにブーゲンビリアが赤々と活けられている。キチンと整っていて、モデルルームかホテルの一室のようでもあった。
「大分とさぁ、綺麗になったよね。アカネは本当に綺麗好きだね」
窓から見えるのは庭の光景だ。まだ庭の手入れまでは着手されておらず、相変わらず赤い花の自由楽園である。電気はついていないので、外の眩しさと対比のように部屋の中は仄暗かった。
キッチンの方ではアカネが、高級そうなガラスのコップで水を飲んでいた。コト、とガラスが置かれる固い音がして、アカネは何とも言えない曖昧な発音で返事をした。
(……どうせ、これが普通だっつっても、そうかなーとか言われんだろな)
アカネは手の甲で口元を拭う。それから、だらけている男をそのままに「ワイン取って来ます」と居間から出た。地下娯楽室への道も、随分と綺麗になったものだ。
階段を下りる。かつて死体が三つ転がっていた場所。ドアノブに積もっていた埃はもう、ない。開く。電気を点ける。もうその空間は散らかってはいない。痕跡なんてほとんどない。死体のあった床に黒ずんだ染みがあるぐらいだ。それを視界にすら入れず、アカネは部屋の奥のワインセラーに向かう。開く。人差し指で確認するように示しなぞりながら――アカネは肩を竦めた。
(そういえば……ワインなんて俺、全然詳しくねぇぞ)
洒落すぎた外国語のラベルが並んでいる。どれも高級そうに見える。視覚情報から味の違いを判別できるはずがなかった。しょうがないので「どれにしようかな神様の言う通り……」と適当に選んだボトルを手に取った。多分、これは赤ワイン。それから忘れずにコルク抜きも、ポケットに捻じ込んだ。
清潔で薄暗い廊下を歩いて居間に戻れば、男はソファに横になって目を閉じていた。「気楽なモンだよ」とアカネは脳内で呟く。どうせ無気力でやりたいことしかやらない奴なので、アカネはかき氷の準備を始めた。氷のガラガラという音で、男は目を覚ました。
「お。作るのか」
「鞄からガムシロップ出してもらえます?」
「いいよ」
起きたのならばとアカネは男に指示を飛ばす。
ワインとガムシロップを適当に混ぜてシロップを作って、ガラスの器に削った氷を盛っていって、そこに酒臭い甘みをかけるだけ。そんなに手間はかからなかった。
かくして赤くて甘いワインを浴びた氷ができあがる。アカネにも男にも、この香りがどれだけ高級な酒のにおいなのかは理解できなかった。このワインにガムシロップをブチ込むという行為がどれだけもったいないのかも知らない。「ワインのにおいがする」という薄い感想だけが庶民的に重なった。
「いただきます」
ソファに並んで座って、氷のおかげで冷たい器を持って、スプーンで食べる。しゃりしゃりとした赤い氷粒。シロップのお陰で随分と甘い。
「うん悪くないですね」
「おいしいね。……アカネ、お酒大丈夫な年齢だったんだね?」
へらへら殺人する癖にそこは気にするのか、とアカネは横目に男を見た。「そうです」を示す頷きを返した。
一口を進める度に口の中が冷えていく。常夏の町を歩いて熱がこもった体にちょうどいい。頭が痛くならないように少しずつ、少しずつ食べていく。アルコールが粘膜に染みていく。
ぬるい風が吹いて、カーテンが揺れて、ブーゲンビリアが揺れる。
「いつまで続くんだろう」
ふと、アカネは窓の外の眩しさを眺めながら呟いた。
「死ぬまでだよ」
隣の男が平然と言う。さも当然と言わんばかりに。「何がいつまで続くのか」という主語には触れないままに。
少しずつ溶けてきた氷をもう一口。「あとどれぐらい、こんな風にしていられるんだろう」とアカネは考える。止めることも拒むことも抗うこともできない永遠の凪まで、どれほどの猶予があるのだろう。
兎角――終末の只中とは、思ったよりも平穏なのだな、と青年は感じていた。時折、先日のようなイドの狂人が襲いかかってくることもあるけれど。暴動とか混乱とか、そういうものとは無縁の日々だった。
――アカネも男も知らない。ちょうど同刻、彼らのいる場所から遠く遠く、遥か遠く、地球のどこか、誰かがミサイルのボタンを、その危険性すら忘れて無為に押したことを。
地球のどこかの空、流れ星のような白い光が軌跡を描く。それはどこかの町で炸裂して、大きな大きな光と風がその町を飲み込んだ。大きな大きなキノコ雲が、青空に伸び上がっていた。その下を、全て灰色の更地に変えていきながら。
その破壊に対し、報復のミサイルが飛ぶことはなかった。もう少しこの出来事が過去に起きていれば、未曽有の終末戦争でも勃発していたことだろう。そうして地球と人類は、また別の理由で滅んでいたことだろう。ありふれたSF映画のような顛末で。
だがそうはならなかった。今日も地球は平和だった。どこもかしこも温かく、誰も凍えることはなく、かといって暑さで命を奪われることもなく。
認知されぬ悲劇は悲劇足り得ない。現象の一つとして痕が残るだけ。
そして、男と青年がいる町には関係のない、地響きすらも届かない、遠く遠くの出来事である。
――ごく、と甘い赤色を飲み込んだ喉が揺れた。
空っぽになったガラスの器がローテーブルに二つ並ぶ。器の底に残ったのは、溶けた氷で薄くなった赤色だった。
アカネは窓の外の青と赤をじっと見つめながら、緩やかに瞬きをする。いつか男が、目蓋の色は赤色なのだと口走っていたことを思い出しながら。だが目を閉じてみれば黒かった。じわりと視界を開いていく。目の前に男がいた。窓とアカネの間、ちょうど、外の世界を遮るように。
男の手には鈍く光る――割れたワインの瓶――その鋭利な切っ先が、ぞぶりとアカネの腹に押し込まれた。電撃が走るような衝撃。傷から、口から、ごぼごぼと溢れ出してくるのは、赤い、赤い、赤い――甘い味の、鉄臭い、ガムシロップ入りの、冷たい、生温かい、氷の粒と、アルコールと、ヘモグロビンと。目からも鼻からも溢れてくる。呼吸ができない。溺れてしまう。垂れる色彩を受け止めるようにかざされた不格好な両手は、たちまち染まりきってしまった。指の間からこぼれ落ちていく、甘ったるくて酔っぱらえる命の雫。裸足の足を染めていく。
アカネは赤く染まる視界の中で男を見上げた。逆光で顔が見えない。背後からの常夏の眩さは後光のようにも見える。伸ばした手は男には届かず、アカネはそのまま、前のめりに倒れ込んだ。足元はすっかり水で満ちて、ばしゃりと冷たい音を立てた。沈んでいく。
そうして目を覚ますと、アカネはバスタブの中に倒れていた。そこには生ぬるい水が張られていて、目が覚めたのは水底だった。
噎せ込みながら体を起こす。水を吸い込んで頭が痛い。見渡せば、いつもの邸宅の広い浴室だった。さっきのは夢だったんだろうか? どこからどこまでが夢だったんだろうか? それとも酒に酔ったのか? いやまさか、あれだけの量で。ありえない。
呼吸が落ち着いてきたところで、アカネは自分の腹部に手をやった。傷はない。そして、自分が着衣状態のまま浴室のぬるま湯に沈んでいたことに気付いた。いつのまに? 思い出せない。記憶が削げていたのだろうか。
アカネはバスタブから立ち上がる。水を滴らせながら、そこから出る。足は裸足だった。
ふと、アカネは浴室内の鏡を見やる。赤い髪の青年。髪の根本がほんの少しだけ黒くなっていて、髪を染められた日からの月日の経過を示していた。当初はこけていた頬も、随分と人間らしくなった。浴室内の擦りガラスの窓は少しだけ開いていて、蝉の声が聞こえてくる。
「……ん」
ぞわ、とアカネは手首の内側に違和感を感じた。ぞわぞわと、それは痒みを増していく。まるで何かがたくさん這うような。顔をしかめて両手首の内側を見る。――白い肌が不自然に、ぼこぼこと脈打っていた。目を見開いた瞬間、薄い刃物で切り裂かれるような鋭い痛みを伴って、赤い花が――ブーゲンビリアの花が、内側から皮膚を突き破って、溢れてくる。こぼれてくる。一つ一つが小さな虫のように。血液と一緒に滴り落ちていく。
アカネは叫んだ。手首の内側の振り払うが、赤い花は次から次へと青年の肌を突き破って流血を誘う。アカネは混乱のまま飛び退いて、そうすれば背中が湿った壁にぶつかった。絶叫が反響する。
そして、その音の狭間に。
――ぶぶぶぶぶぶぶ。
忌々しい羽音が聞こえる。蠅だ。群がる蠅共がびっしりと、窓の外側を真っ黒に染めていた。浴室に入り込んでくる。透明な翅が生理的嫌悪感をもよおす音を奏でている。奴らは自分の傷口を狙っているのだ、とアカネは理解した。卵を産みつけて蛆まみれにしようとしているのだ。抗いがたい恐怖がアカネの心臓を竦ませる。小さな虫に群がられて肉を食われるなんて、生物としてあまりにも恐怖であった。
誰か助けて。悲鳴のように声を張り上げ、アカネは浴室から飛び出した。そこはあの忌まわしき白い病室だった。カーテンに囲まれたベッドが一つ、アカネをじっと待っていた。誰かが後ろから、アカネの首に注射を刺した。床がぐにゃりと柔らかくなって、回って混ざって――振り返れば、蠅の頭をした医者が、口からボロボロと蛆虫を吐き出していて――。
そうして目を覚ますと、アカネはブーゲンビリアの空き地でうずくまっていた。青年は自分の体を改める。患者衣。日に焼けていない肌。手首の内側と素足に、雑多に貼られた絆創膏。ガーゼの向こうに血が滲んでいた。
蝉が鳴いている。
嫌悪感が込み上げる。ああ。ああ。嫌だ嫌だ嫌だ。自分が自分でなくなっていく心地。自我を支えるものが少しずつ削れて消えていくような。
「どうして皆、こんな心地に平然としてるんだ。それとも……こんなに苦しいのは、俺だけなのか?」
言葉が無意識的にこぼれていた。見ないふりをしようとするほどに意識してしまうように。どうしてまだ生き延びねばならないのか、アカネは自問する。だが自ら終わらせる勇気はなく。深層心理にこびりついた自罰はいつまで経っても消えない。これは夢なのか。どれが夢なのか。全て全てが夢だったならば、自らを罰する必要もないのか。全てが夢だったならば――……。
「ゆめ……」
虚ろに呟いた。そうだ。夢だ。これは夢だ。いつから? どこから? 最初から、終わりまで、全てが夢だ。夢に違いないのだ。
醒めろ、醒めろ、終わってくれ。アカネは頭を抱えて、額を渇いた地面に打ち付けた。何度も、何度も、血が出るほど打ち付けた。
夢なら早く醒めてくれ。呪文のように、祈りのように繰り返す。
「おーい」
呼びかけられたのはその時だった。うずくまった姿勢、まるで斬首を待つ罪人か、懺悔する者かのような姿で、アカネは血が伝う顔を持ち上げた。
そこにはブーゲンビリアに侵蝕されて荒れ果てた邸宅があって、バルコニーに男がいて、笑顔でアカネに手を振っていて。
見られた。
殺さねば。
殺さないと。
気付けばアカネがいるのは邸宅の清潔な寝室だった。ベッドに仰向けに眠っている男に、安らかで無防備な寝顔の彼に、その腹に、アカネは包丁を両手で握り込んで目いっぱい振り落とした。引き抜いて、握り直して、何度も突き立てた。柔らかい感触。どんどんシーツに赤い色が広がっていく。ガラスのようにひび割れて、中から人体の中身が溢れ出してくる。男は刺突の衝撃に揺れながら、見開いた目は瞬きもせずにアカネを見つめていた。そうしてその顔が笑った。血濡れる唇は微笑んだまま、こう言った。
「この人殺し」
ガクン、と急速落下して――落ちて、落ちて、落ちて――……
……――そうして目を覚ますと、アカネは邸宅のリビングにいて、ソファの足元の床の上にいた。
「いっ……」
後頭部に痛み。ソファに寝そべっていた姿勢から、床に落ちたのだと気付く。後頭部はその時に打ったのだろう。もがいた手足はローテーブルに当たって、その位置をわずかにずらした。
「大丈夫?」
男の声がして――アカネは上体を慌てて起こした。男は窓辺に座って、外の景色を眺めていた、ようだ。今は振り返ってアカネの方を見ている。
視線が合った。男は目をパチクリしている。
「……夢……?」
「夢?」
心臓を整えるアカネが譫言のように言った言葉に、男は少し首を傾げた。
「アカネ、またヘンな夢でも見てたの?」
「こ、これは、夢ですか?」
「アハハ寝ぼけてら」
お水でも飲んだら、と男は窓の外に視線を戻して言った。アカネはよろめくように立ち上がる。自分の腹を見た。無傷だ。自分の手首を見た。無傷だ。自分の額に触れる。無傷だ。男の腹を見る。無傷だ。ローテーブルの上を見る。ワイン入りかき氷が入っていたガラス容器が二つ、すっかりぬるい温度になって並んでいた。
「俺、寝てたんですか」
深く息を吐きながらアカネは男に問いかけた。男は振り返らないまま「うん」と答えた。青年は額を抑えて苦い顔をした。
どこからどこまで夢だったのか。これは夢だろうか、現実だろうか。まだ醒めることは許されないのか。まだ悪夢の延長線にいるような気がする。
こういう時は「すべきこと」に没入すべきだとアカネは考えた。役割を淡々とこなしている間は、ぐるぐるとした思考に囚われずに済む。なので置きっ放しになっているガラス容器をキッチンへ持っていって、洗った。蛇口から水の音――そういえば、とアカネは気付く。
「……雨、降ってますね」
今更ながら、外が雨であることに気付いた。夕立ち……ではないようだ。蛇口をひねって水を止める。窓の外から雨音が聞こえる。しとしと、雫の音だ。皿洗いを終えたアカネは――男の隣に座る度胸はなくて、ソファに今一度座り直した。途中で無意識的な夢にバッドトリップしないことを祈って。
しばし会話が途切れる。男も青年も雨を見上げている。空から降る雫にブーゲンビリアの赤が跳ねる。いつもは鮮烈な青を湛える空は真っ白で色彩を失い、世界も太陽が遮られて薄暗い。電気を点けないこの家の暗さはことさらだった。だがその仄暗さが、アカネにはどこか心地よく感じた。全てを白々と照らしだす熱い眩さからは、今は逃れていたかった。
「この調子でしばらく降ったら、水辺も増えるねぇ」
男が言う。確かに水没したエリアの水位も増えるだろうなぁとアカネは考えつつ、「そうですね」と相槌を打った。
「今日のごはんどうする」
続けて男が言う。アカネは「あるもので何か適当に作ります」と答えた。二人が出会って最初の頃こそ男が料理(とあまり呼べるようなものではないが)をしていたが、最近はもうずっとアカネが食事当番だった。
こんな生活がこれからも――死ぬまで続くのなら、どこかに畑でも作るかな、とアカネは悠長に考える。ホームセンターにいけば種があるだろうか。そんなダラダラとした考えの中、ずっとずっと心にあるのは、「どうせ夢だ」という思いだった。夢だから、どんな凄惨なことだって溜息と共に押し出すことができた。そうだ、全ては、どうせ、夢なのだ。
●
男は知らない場所にいた。
そこは安っぽいアパートの一室だった。テレビが点けっぱなしで、いかにも疲れた男の一人暮らし然と、室内も散らかっている。冷房代節約の為に開けっ放しにした窓から、午後の生ぬるい風が吹いていた。
男はくたびれたマットレスに寝そべったまま、ぼんやりと青すぎる空を眺めていた。テレビからは漫然と素人カラオケが流れている。芸能人でもなんでもないただの一般人は、果たしてギャラを貰えているんだろうか――やたらめったら強調されるビブラートに、男はそんな感想を抱いた。
はーー……長い溜息を吐く。見知らぬ天井を見上げている。それから首を傾けて室内に目をやれば、小さく安っぽいちゃぶ台を前に誰かが座っていた。男からは背中しか見えない。だがその赤色の髪で、男は彼が誰かを確信した。
「アカネ」
名前を呼ぶと、青年が振り返る。ニコリと穏やかに微笑んでくれたので、男も同じような笑みを返した。
テレビは無音のカラーバーに変わる。男はゆっくりとベッド役のマットレスから身を起こした。卓の上には――うまく視認できないが――とにかく調理された食べ物が乗っていて、温かな湯気を立てていた。漫然といいにおいがした。何のにおいがよくわからないが、とにかくそれは『いいにおい』だった。
「ごはん作ってくれたの? ありがとう」
「うん」
男の言葉にアカネが素直に頷く。男は青年と向かい合う位置に座った。この部屋に座布団はない。男の為の、くたびれて汚れた座椅子が一つだけある。男はそれに座るのだ。
窓辺にはごくわずかな洗濯物がぶら下がっており、カーテン代わりに揺れていた。床にはあれやこれやが散らばっている。掃除機をかけたのはどれぐらい前だったか。あっちこっちに埃が積もっていた。
「いただきます」
祈る神はいないけれど手を合わせ、認識できないが温かい食事に手を伸ばした。掴んで、口元に運んで、頬張る。食感は不明だった。咀嚼して飲み込む。具体的な味はわからないが、おいしいと感じた。
「おいしいね」
「そうですか」
少し謙遜気味にアカネが言う。彼もまたよくわからないものを男の目の前で食べていた。「本当においしいよ」と男は念を押した。アカネは少しだけ笑った。アカネが嬉しそうなので、男も嬉しい気持ちになった。
「ごちそうさまでした」
いつも食事の時、二人はやたら会話することはない。加えて男は早食いな方だった。食事は程なく終わり、男は手を合わせる。アカネが食器を片付けてくれる。そういえばお皿に乗っていたんだ、と男はその背中を見送った。
散らかった台所から水の音がする。洗い物が放置された台所にはゴキブリ用のホウ酸が転がっている。アカネの手の中、泡と水のついた包丁がキラキラしていた。男は座椅子にもたれてその輝きを眺めていた。
そうすれば、アカネが泡と水に手を濡らしたまま振り返る。
「掃除してもいいですか」
青年は微笑んでいた。
「ここ、汚いので」
そう言った。
――『汚い』。
その言葉が男の心に、何か、どこかに、刺さった。
貧乏で汚くて臭い。みすぼらしい。気持ち悪い。生理的に無理。
あ、でも、散らかってるのは本当だと思う。だから男は「君って最高」と声を弾ませた。青年は善意で掃除してくれるのだから。掃除をしたいってことは、ここに居着きたいって意味だろうから。気に入った場所じゃないところを、積極的に掃除したいなんてありえないだろうから。そう思うことにしたのだ、男は。
がさ。がさ。がさ。黒いビニール袋だ。そして掃除機の音だ。男は座椅子に座ったまま、音がしないテレビを見つめていた。ゆっくりと瞬きを一つ。目を閉じて、開けば、何もない部屋にいた。座椅子もなくなっていた。
「アカネ、この家は汚くて好きじゃないんだろ」
顔を上げれば、青年が正面に立っている。患者衣の青年は白髪交じりの疎ら色の蓬髪で、前髪の奥から男をじっと見下ろしていた。その肌は不健康に白く、肌には注射の痕がそこかしこに散っていた。
「汚いけど、汚いけど、汚いけどさ、でも、いい家でしょ――ずっとこんな家に住みたかったんだ」
男は目を細める。青年は無言のまま首を傾げた。
だから男は立ち上がる。
「僕、今度は君になりたい」
包丁を振り上げた。
綺麗好きで。真面目で。知識があって。人が良くて。若くて。綺麗で。汚くなんかない。ああ羨ましい。
「君になっていいよね。全部ちょうだいよ、いいでしょ」
刺して、刺して、押し倒して、馬乗りになって、刺して、刺した。
青年はすっかり全身赤くなる。血――じゃない、その赤色は、ブーゲンビリアの花だった。傷口から花が溢れている。やっぱり君は綺麗じゃないかと男は独り言ちた。男の体は、返り血ではなく黒い埃で汚れていた。
――蝉の声と、息遣いだけになった。
そうして男は目を覚ました。暗い寝室。窓から見えるのは夜だ。ベッドの傍にはブーゲンビリアの赤い花。白くて清潔なシーツ。隣には男に対し背を向けて横になっている青年。赤い髪。
いつのまにか男は上体を起こしていた。世界は静かだ――しとしとぱらぱら、雨の音を除けば。雲に隠れて星もなく、世界は暗い。真っ黒に包まれた男は、傍らの青年を見つめた。手を伸ばす――暗闇を掻き分け――掌を、アカネの肩の上に置いた。
「ねえ、僕は汚くなんかないよね」
緩く撫でて、声をかける。しばらく撫でているとアカネが目を覚ましたらしく、眠たげな呻きを小さく漏らした。「なに……」と顔をやや男の方に向けて聞いてくるので、彼は同じ言葉を繰り返す。するとアカネは伸びをしながらこう答えた。
「……寝る前にお風呂に入ったじゃないですか」
「臭くない?」
「いや、別に」
「そっか」
ならいいんだ、と男はにこやかに手を離した。またタオルケットにもそもそと包まれる。雨の夜は生ぬるい湿度だ。男は服の下で汗を感じていた。
「……悪夢でも見たんですか?」
温かな雨音の中、アカネが言う。男は真っ暗な天井をしばし見つめ、それから目を閉じた。
「どうかな、そうかも」
「あなたも悪夢を見たりするんですね」
アカネからすれば、この男に対して『悪夢を見る』というイメージがまるでなかったのだ。いつもニコニコしていて、深いことは考えていなくて、穏やかに緩やかに、勝つ脊髄反射的に生きている――そんな風に思っていたのである。だから物言いは意外そうだった。
同時にアカネは、この男が自分と同じ人間であることを改めて認識する。当然のことではあるのだけれど――そう思ったのだ。
「……眠れそうですか?」
悪夢のタチの悪さは、アカネは身を以て知っている。
「寝れそう」
男の返事はフラットなものだった。「そうですか」とアカネは答える。「気遣ってくれてありがとう」と男は少しだけ笑った。アカネは男のそんな言葉を確認してから、また目を閉じた――。
これが夢なのか、そうでないのか、証明する手立てはない。夢の中でも痛覚は踊る。頬をつねればいい、なんてものは迷信だった。
常夏の、南国の花が咲く、水没した町。そんな牢獄から今夜も出ることはできない。寝ても覚めても。夢でも現でも。
どうあがいても、ここが青年と男の居場所だった。
――そうして目を覚ませば、昨日見た夢のことなんか、もう忘れている。二人とも。
あまりにも眩しい光の朝。
今日もまた今日が始まる。
蝉の声。
保存食やレトルトで仕上げられる簡易な朝食。
洗濯機が回る音と、ほどなくバルコニーに干される衣類。
「晴れましたね」
随分と綺麗になった廊下から、アカネがリビングへと戻ってくる。生真面目に家事をするのは彼の役目であり、彼の抗いだった。
アカネが声をかけた先には男がいる。ぐったりとソファに寝転がっている。どうも今日はことさら気力が湧かない日らしい。その目はぼーっと、感情も意思もなく、天井を見上げているだけである。返事もなかった。このままガランドウに溶けてほどけて消えてしまいそうにも見えた。
アカネはソファの背もたれの方に回り込み、虚無に浸る男を覗き込んだ。にこやかに微笑みながら。
「いい天気ですよ。散歩にでも行きますか」
その言葉に、男の目玉が少し動いた。彼はしばしアカネを見上げてから、小さく頷いた。だからアカネは回り込んで手を差し出して、男を引っ張り起こすのだ。
――男の視界からは、窓を背にしたアカネは逆光に見えた。光と闇で青年の顔が見えない。背後からの常夏の眩さは後光のようにも見えた。男は目を細めて青年を見つめた。
「晴天のヘキレキ」
で、あってる? と男は軽く笑った。「ヘキレキって、絶対漢字で書けないよね」と冗談めいて付け加えた。
「霹靂。どちらもあまかんむりです。ヘキはその下に辟易のヘキ、レキは歴史のレキですよ」
空間にアカネが人差し指で文字を書く。「アカネは頭いいなぁ」と男は感心して、青年の頭を犬にするように撫でて褒めた。
●
雨上がりの世界は、あんなにも雲に陰ってぬるい水を降らせていたのに、眩いほど光り輝いていた。濡れた緑はその葉々に花々に雫をまとい、目を刺す光を撒き 散らす。人の手入れを失った住宅街は鬱蒼と煌いていた。赤の、青の、紫の、白の、アサガオがツタを巻いて咲いている。
そんな風景を目的もなく歩く。こんな風になってしまった世界で、食べる・寝る以外の目的など消え去った。生き物の根本である生殖すらもう意味はない。命のリレーはここで終わり。少し前はあれだけ人間が躍起になって文明を築いていたのが馬鹿みたいだ。
それでも、男もアカネも、「じゃあ意味がないからもう終わらせよう」と終焉を選ぶことはなかった。漫然としている。蝉が鳴いている。無為が続く。今日もまた。生きるだけの日々が。
これは悲劇なのだろうかとアカネは考える。文明の終わり、種の滅亡。少し立ち止まって、雨の上がった青空を見ていた。「おーい」と男がアカネを呼ぶ。見れば、男がやや離れた位置で手招きをしてた。とある民家の前、荒れた庭を指差していた。
「野菜が生ってる」
「あ、ほんとだ」
プチトマトとキュウリだった。アカネはあっさりと思考を目の前のモノにシフトした。
人間社会が成立しなくなった今、手に入る食糧はレトルトや保存食、他には日持ちのするようなモノばかりである。新鮮な野菜や果物にありつく機会は失われていた。ここが自然豊かな場所で、男やアカネに専門的なサバイバル技術があればそうでもなかっただろうが、ここは普通の町の中で、男とアカネは一般人である。
どうせ民家に人もいない。ベランダから人間だった黒い染みが垂れ下がっているのが証拠だ。アカネは草を踏み分け、実っているプチトマトを一つもいだ。表面を少し拭ってから口に放った。
「うんおいしい」
久々に食べる生野菜だ。口に、そして体に染み渡るような心地がする。瑞々しい。「冷蔵庫あるし、幾つか持って帰ろう」という話になった。だが二人共、鞄を持ってきていない。流石に手で掴んでいくのも面倒だ。ほどなく結論は「また来よう」に落ち着いた。どうせ時間も無駄にある。
「川とか池で釣りすれば、魚が獲れるかもしれませんね」
もいできた巨大なキュウリをかじりながらアカネが言う。隣では同じように、男もキュウリを頬張っていた。荒れた住宅に挟まれた道はやがて、冷たい水辺に変わる。
「アカネ、魚さばけるの?」
「……まあ、なんとか。ウロコとってお腹切ってワタを出すぐらいなら……?」
男よりはマシだが、アカネもせいぜい一人暮らしの自炊レベルしか料理技術はない。今行っている料理とてレトルトを指示に従って食べられるようにしているだけだ。
「本屋でレシピ本でも探しますか。まあその前に釣り具と……てかそもそもこの辺に魚が釣れそうな場所ってありましたっけ」
そんなアカネの言葉に対し――
「あ、魚いたよ」
男が不意に言う。「えっ」とアカネが男の方を見る。彼は「ほら」と足元の水辺を指差していた。――するする、泳いでいたのは小さな赤い金魚である。
「……金魚だ」
へえ、とアカネはしゃがみこんで小さな生き物を眺める。真っ赤な色がアスファルトの黒によく映えていた。金魚は特に目的地もないようで、男とアカネからほど近い場所を何とはなしに泳いでいる。
蝉の声。放置されたバイクのミラーが太陽をギラギラ返している。
男とアカネは特に言葉もないまま金魚を眺めていた。あのなんともいえない朱色には、人間の目を引き留める不思議な魔力がある。
「こんな風にさ、誰かと一緒にいるのは初めてな気がする」
少しずつ金魚は二人から離れて、アスファルトの上を泳いでいく――それを見送り、男が言った。
「僕の方を見てくれる人って、あんまりいなかったような気がするから。だから、アカネといると楽しいよ」
「……楽しい、ですか」
アカネからすれば、気紛れで殺さないでいてくれてありがとう、という気持ちが大きい。この男は殺人に対する躊躇や後悔が一切ないのだから。
青年はしゃがんでいた体勢から身を起こし、伸びをした。今日もよく晴れている。彼方の水面はキラキラしている。
「ずっと僕といてくれる?」
男はアカネを見つめている。彼の背後には『売物件』と朽ちた看板のぶら下がった家が佇んでいた。
アカネはそんな眼差しを横顔で受けながら――今日も真夏の、常夏の風景を眺めている。
こんなことが、いつまで続くんだろう。アカネが抱いたその疑問は、男が言っていた「死ぬまでだよ」という言葉を思い出すことで決着がつく。
終わらない地獄。鮮やかな常夏に閉じ込められて、どこにもいけない。壊れて滅んでいくしかない。どうにもならない。死ぬまで、だ。
それでも――
それでも世界が、あんまりにも色鮮やかで眩くて。
――美しくて。
アカネにはこの世界が輝いて見えた。
青い空。輝く緑。煌く水。黒いアスファルト。高い位置の太陽。蝉の声。電線のか細い影。
こんな世界でそれでも生きている。
「――うん」
この感情が絶望なのか希望なのか、諦念なのか何なのか、もうアカネにもわからない。
青年は男の方を見た。
「いいよ」
アカネがそう言うと、狂人は優しく笑った。
「ねえ、アカネは楽しい?」
「さあ……どうでしょうね」
「でもさぁ、アカネの嫌なものは燃やしたでしょ。他に怖いものはある?」
男の理論はいつだって、『この世界から嫌なものがなくなればハッピー』だ。相変わらずだなぁとアカネは物思う。その考えにすっかり迎合している己を感じながら。そうして考えるのだ。今が楽しいか、どうか。
「ねえどうなの」
男が結論を急かす。
「答えるから、ちょっとこっちでしゃがんでくださいよ」
アカネは小さく笑みながら、男を手招きした。そうすると、ざぶ、ざぶ、彼は金魚が泳いでいった水を踏んでアカネの傍に来る。
「しゃがむって?」
こう? と男が身を屈める。
ので。
「とう」
アカネは男の両肩をポーンと押した。「うわ」と男が目を見開いた直後、バランスを崩した男がアスファルトの水辺に背中から着水する。ばしゃり。水面が揺らめき、水底の黒が震える。尻もちの姿勢で水の中にいる男を見て、アカネは喉を逸らせて大笑いした。
「あはははは――」
この世界はそう悪いことばかりじゃないのかもしれない。
これが精神の軋みと亀裂と化膿による、躁という異常状態の賜物なのかはわからない。変化していく心が見せるトリップなのか、はたまた白昼夢なのか。確かなことは一つ、心を覆うモノが一枚ずつ剥がれていく。その度に、世界は違って見えてくる。心に光が差し込んで透明になっていくような。神秘体験にも似た情動の揺らぎがそこにあった。そしてアカネは少しずつ理解していく。「みんな、こうなっていっているんだ」と。「みんな、同じなのだ」と。それは万能感に似た安寧だった。世界は優しく美しい。
「ちょっと仰向けに浮いて待ってて下さいよ」
男を覗き込むアカネが言う。「ええ……なんで?」と男は怪訝気なので、青年は「いいからいいから」と彼の肩を叩いて、どこかへ足早に向かってしまう。
一体なんだろう、でもアカネが『楽しそう』なので、男は嫌な気分ではなかった。なのでアカネから言われた通りに水面に体を預ける。得も言われぬ浮遊感だ。仰向けになっていれば、青すぎる空と眩しすぎる太陽が見えて、男は目を細めた。耳にぶつかる水がちゃぷちゃぷと音を立てている。世界の音は、その水音と蝉の声だけだ。水の中に耳があると蝉の声はくぐもって聞こえた。暑い日差しに対するこのヒンヤリとした温度が心地いい。
そうして男がぼうっと水の中で待っていると、水を踏む足音と共に水が揺れる。男が目を開ければ、ちょうどアカネが彼を覗き込んでいて――何か鮮やかな色彩のものを、ぱら、ぱら、男の上から水面に撒いた。
それは花だった。常夏の異常気象に咲き誇る南国の花。あまりに鮮やかな花。カランコエ。ヒスイカズラ。ジャカランダ。ハイビスカス。プルメリア。アラマンダ。グズマニア。カトレア。ゲットウ。ブーゲンビリア。デンドロビウム。季節を失い狂った星のあり得ざる産物達。数えきれないほどの色彩の雨。二人共、それらの花の名前を知らない。
「こんなにいっぱい、よくとってきたね?」
男が言うと、アカネは微笑むだけだった。だから「そっかぁ」とだけ男は答えておいた。水面に投げ出した掌に、千切られた色彩が浮かび乗っている。男はそれを見つめていた。嬉しい気持ちになった。黒いアスファルトの上のたくさんの色。遠くで赤い金魚が泳いでいる。
「こういうの、絵画で見たことあるんです」
花の散る水面と浮いた人間。「なんだったかな」とアカネは記憶の糸を辿り、こう言った。
「そう……確かオフィーリア。水死体の絵だ」
「……水死体の絵?」
「うん。綺麗な絵でしたよ。緑と花に囲まれてて……まあ描かれたのは女の子だったんですけど」
アカネは指の間にひっかかっていた鮮やかな花弁の残りを、最後に水面に落とした。それは男の額の上に、まるで祝福のように落ちた。
「じゃあさ、今の僕って綺麗?」
冗談めかした物言いで男が笑う。笑うと体が揺れて、額に絶妙なバランスで乗っていた花弁が水の中に落ちていった。アカネも似たようなニュアンスで笑っていた。自分よりも年上の男に「綺麗だ」と言うのはなんだか妙な心地が、ともすれば馬鹿にしている気がしたが――
「綺麗ですよ」
アカネはそう言った。すると男はからからと笑った――とても満足そうに。嬉しそうに。幸せそうに。
「そうかそうかぁ」
汚くはない。みすぼらしくなんかない。その安易な確認だけで、男の深層(イド)は心地いいほどに晴れ渡るのだ。よかった、と思えるのだ。この水面のように、光を受けて瞬けるような気がするのだ。
だから男は浮ついた気持ちのまま、掌にすくった花弁と水をアカネに向かってバシャリとかけた。太陽の下、水と花が煌いた。「わあ」とアカネが笑う。そもそも男を水浸しにしたのはアカネなのだ。ゆえに男に水をかけられたことで気分を損ねることはなかった。
「アカネも浮かんだら。ヒンヤリしてて結構気持ちいいよ、ぷかぷかするの」
水をかけたその手で男はアカネを手招いた。だったら、とアカネはそれに従う。服や髪が濡れるのも厭わず、アスファルトの上の水ということに潔癖な嫌悪感を示すこともなく、男の隣で水面にその身を預けることにした。
南国の花々が浮かぶ、黒い水面の冷たい水。蝉が鳴き、気温は温かく、空は青く、いい天気で、風はぬるい。喧噪も何もない。人影も人の気配も。ここにはもう二人しかいなかった。行き止まりのように。それでも光を浴びて輝いていた。煌いていた。穏やかだった。平和だった。咎める者はいなかった。青年の手で毟られた色彩がゆらゆらと、二つの人体の周りに揺蕩っている。
二人はしばらくそのままでいた。仰向けに水面に寝そべり、空を見ていた。会話をしなければ蝉だけが間を保つ。
「アカネが言った、絵のことだけど」
静寂を破ったのは男だった。
「その絵、今はどこにあるんだろうね」
「さあ……どこかの美術館じゃないですかね」
「美術館かぁ……、行ったことないな」
男がボンヤリと言う。アカネは隣でその声を聞きながら――彼は『金持ちの御曹司』という設定なのに、美術館に行ったことがないと暴露するのは大丈夫なのか、と思った。男の中では、彼は金持ち夫婦の恵まれた息子であるというのに。でもアカネは男の為にも、そのことには言及しないでおいた。
「美術館、行きますか。探せばどっかにあるでしょう」
アカネはそう提案してみる。男は目線だけで青年を見た。
「いいねぇ。面白そう。賛成。……ふふ。誰かとお出かけするとか、久しぶりだなぁ……」
男は笑みに目を細めていた。なんだか花の浮いた水を介して、アカネにまで男の楽しそうな心地が伝わってくるかのようだった。
「……アカネ、楽しいかい」
男がそう問いかけてきたのは、奇しくもアカネがそう感じていた最中だった。
だからアカネは、こう答えた。眩しい青空を、仰向けのまま、水死体のように見上げながら。
「楽しいですよ」
「――そっか」
男は穏やかに微笑んだ。そして空に視線を戻す。瞬きを一度。眩しくも穏やかで、鮮やかで、心地のいい、そこは紛れもなく地獄だった。
「眩しいね」
「そうですね」
赤い金魚が、浮かぶ花弁をついばんでいた。
●
いつもの寝室。清潔な状態が『いつもの』になり、それにもすっかり男は馴染んでいた。静かな夜。かすかな寝息だけが暗闇を満たしている。
男は夢を見ていた。今日の出来事が追体験のように、目蓋の裏で流れていた。記憶を上書きしていく。古い方から消去されていく。男はもう、あの小汚いアパートの一室を思い出すことはないだろう。綺麗になっていく。掃除され、片付けられていく。水の流れる音。金魚が暗い寝室を赤い尾を揺らして泳いでいる。もう包丁は必要ない。ここは温かな寝室。ここは温かな寝室。ベッドの中は平和なのだ。誰にも侵されることはない。
男の記憶は花で彩られていく。要らないものは廃棄されていく。印象に残っているのは赤い色。赤い色はやはり幸せな色なのだと男は思った。金魚が夜空を泳ぐ夢を見た。その金魚は不思議と体が透けていて、か細い骨が鮮明に見えた。男は金魚が見えなくなるまで、夜の空をずっと見上げていた。目蓋の向こうで朝が来るまで。
命を蝕むことはない程度の暑さが、今日も燦々と降り注ぐ。
冷蔵庫に氷を作る機能があったのと、手動のかき氷機が見つかったのとで、「かき氷を作ろう」という話になった。だが氷はあるが肝心のシロップがないことに青年と男は気付く。
では調達に……と出かけたはいいものの、これが見当たらない。少し遠出したが徒労に終わってしまった。
「……ないね」
「ありませんね。意外とないもんなんですね」
ジワジワジワ、と蝉が鳴いている午後。一番太陽がえげつない位置にある時間。もうもうと熱いアスファルトの上を、二人分の足音が響いていく。
「あっつい……」
アカネは辟易とした顔で汗ばむ首の後ろを擦った。太陽のせいで焼けている。帽子を被ってきたらよかった――とまで考えて、そういえば帽子は男に投げ捨てられたんだった、と思い出す。
あれからアカネは幾らか健康的に日焼けをしたし、連日に次ぐ連日の掃除のおかげで衰えていた筋肉もマトモなレベルに戻ったし、外見情報だけならば長い間病院に監禁されていた人間には見えなかった。
「あ」
ふとアカネは立ち止まる。「どしたの」と男も立ち止まる。
「ワインあったんですよ、家の中に」
あの地下娯楽室。ワインセラーのことをアカネは思い出す。死体と共に熟成されたワインだが……この茹だるような暑さと『慣れと麻痺』が、アカネから旧時代的倫理観を奪っていた。
「かき氷にワインぶっかけたら、よさそうじゃないっすか。ワイン」
「あーいいね。でも口が甘い味を求めてるんだけど」
「ガムシロでもかければいいんじゃないですか」
「なるほどなーアカネは頭いいなー」
暑さのせいで会話の知能指数もいくらか低下してしまっている。二人の共通する思いは「そろそろ帰りたい」だったので、これ以上かき氷用のシロップを探すことは諦めた。
帰りの道すがら、ファミリーレストランだった場所に立ち入る。冷房が効いていた。人間が一人だけ、窓際の席にじっと座っていた。テーブルには大量のグラスが隙間なく置かれていた。いずれにも何かしらの液体が入っていたが、それらは腐敗の悪臭を放っていた。
男と青年はそれに目をくれることもなく、ドリンクコーナーのガムシロップや、他にもあれこれをまとめて鞄に放り込んだ。咎める者は誰もいない。流石にドリンクバー用の飲み物を飲む気にはなれなかったが、水だけは大丈夫そうなので水分補給をした。
そうしていつもの家に戻る。ブーゲンビリアの赤い花に彩られた、居場所。
「はー暑かった」
日影は涼しい。荷物を下ろした男は、かつてガラクタに埋もれていたソファにどっかと腰を下ろした。背もたれに置いた片腕には包帯が巻かれている。狂人に噛まれた傷は懸命な消毒の結果か化膿することもなく、無事に治りつつあった。
男は一息を吐きつつ、居間を見渡した――随分と広く見えるのは、ゴミがないからだ。掃除の行き届いた清潔な空間。無駄なものが置かれておらず、花瓶には寝室のようにブーゲンビリアが赤々と活けられている。キチンと整っていて、モデルルームかホテルの一室のようでもあった。
「大分とさぁ、綺麗になったよね。アカネは本当に綺麗好きだね」
窓から見えるのは庭の光景だ。まだ庭の手入れまでは着手されておらず、相変わらず赤い花の自由楽園である。電気はついていないので、外の眩しさと対比のように部屋の中は仄暗かった。
キッチンの方ではアカネが、高級そうなガラスのコップで水を飲んでいた。コト、とガラスが置かれる固い音がして、アカネは何とも言えない曖昧な発音で返事をした。
(……どうせ、これが普通だっつっても、そうかなーとか言われんだろな)
アカネは手の甲で口元を拭う。それから、だらけている男をそのままに「ワイン取って来ます」と居間から出た。地下娯楽室への道も、随分と綺麗になったものだ。
階段を下りる。かつて死体が三つ転がっていた場所。ドアノブに積もっていた埃はもう、ない。開く。電気を点ける。もうその空間は散らかってはいない。痕跡なんてほとんどない。死体のあった床に黒ずんだ染みがあるぐらいだ。それを視界にすら入れず、アカネは部屋の奥のワインセラーに向かう。開く。人差し指で確認するように示しなぞりながら――アカネは肩を竦めた。
(そういえば……ワインなんて俺、全然詳しくねぇぞ)
洒落すぎた外国語のラベルが並んでいる。どれも高級そうに見える。視覚情報から味の違いを判別できるはずがなかった。しょうがないので「どれにしようかな神様の言う通り……」と適当に選んだボトルを手に取った。多分、これは赤ワイン。それから忘れずにコルク抜きも、ポケットに捻じ込んだ。
清潔で薄暗い廊下を歩いて居間に戻れば、男はソファに横になって目を閉じていた。「気楽なモンだよ」とアカネは脳内で呟く。どうせ無気力でやりたいことしかやらない奴なので、アカネはかき氷の準備を始めた。氷のガラガラという音で、男は目を覚ました。
「お。作るのか」
「鞄からガムシロップ出してもらえます?」
「いいよ」
起きたのならばとアカネは男に指示を飛ばす。
ワインとガムシロップを適当に混ぜてシロップを作って、ガラスの器に削った氷を盛っていって、そこに酒臭い甘みをかけるだけ。そんなに手間はかからなかった。
かくして赤くて甘いワインを浴びた氷ができあがる。アカネにも男にも、この香りがどれだけ高級な酒のにおいなのかは理解できなかった。このワインにガムシロップをブチ込むという行為がどれだけもったいないのかも知らない。「ワインのにおいがする」という薄い感想だけが庶民的に重なった。
「いただきます」
ソファに並んで座って、氷のおかげで冷たい器を持って、スプーンで食べる。しゃりしゃりとした赤い氷粒。シロップのお陰で随分と甘い。
「うん悪くないですね」
「おいしいね。……アカネ、お酒大丈夫な年齢だったんだね?」
へらへら殺人する癖にそこは気にするのか、とアカネは横目に男を見た。「そうです」を示す頷きを返した。
一口を進める度に口の中が冷えていく。常夏の町を歩いて熱がこもった体にちょうどいい。頭が痛くならないように少しずつ、少しずつ食べていく。アルコールが粘膜に染みていく。
ぬるい風が吹いて、カーテンが揺れて、ブーゲンビリアが揺れる。
「いつまで続くんだろう」
ふと、アカネは窓の外の眩しさを眺めながら呟いた。
「死ぬまでだよ」
隣の男が平然と言う。さも当然と言わんばかりに。「何がいつまで続くのか」という主語には触れないままに。
少しずつ溶けてきた氷をもう一口。「あとどれぐらい、こんな風にしていられるんだろう」とアカネは考える。止めることも拒むことも抗うこともできない永遠の凪まで、どれほどの猶予があるのだろう。
兎角――終末の只中とは、思ったよりも平穏なのだな、と青年は感じていた。時折、先日のようなイドの狂人が襲いかかってくることもあるけれど。暴動とか混乱とか、そういうものとは無縁の日々だった。
――アカネも男も知らない。ちょうど同刻、彼らのいる場所から遠く遠く、遥か遠く、地球のどこか、誰かがミサイルのボタンを、その危険性すら忘れて無為に押したことを。
地球のどこかの空、流れ星のような白い光が軌跡を描く。それはどこかの町で炸裂して、大きな大きな光と風がその町を飲み込んだ。大きな大きなキノコ雲が、青空に伸び上がっていた。その下を、全て灰色の更地に変えていきながら。
その破壊に対し、報復のミサイルが飛ぶことはなかった。もう少しこの出来事が過去に起きていれば、未曽有の終末戦争でも勃発していたことだろう。そうして地球と人類は、また別の理由で滅んでいたことだろう。ありふれたSF映画のような顛末で。
だがそうはならなかった。今日も地球は平和だった。どこもかしこも温かく、誰も凍えることはなく、かといって暑さで命を奪われることもなく。
認知されぬ悲劇は悲劇足り得ない。現象の一つとして痕が残るだけ。
そして、男と青年がいる町には関係のない、地響きすらも届かない、遠く遠くの出来事である。
――ごく、と甘い赤色を飲み込んだ喉が揺れた。
空っぽになったガラスの器がローテーブルに二つ並ぶ。器の底に残ったのは、溶けた氷で薄くなった赤色だった。
アカネは窓の外の青と赤をじっと見つめながら、緩やかに瞬きをする。いつか男が、目蓋の色は赤色なのだと口走っていたことを思い出しながら。だが目を閉じてみれば黒かった。じわりと視界を開いていく。目の前に男がいた。窓とアカネの間、ちょうど、外の世界を遮るように。
男の手には鈍く光る――割れたワインの瓶――その鋭利な切っ先が、ぞぶりとアカネの腹に押し込まれた。電撃が走るような衝撃。傷から、口から、ごぼごぼと溢れ出してくるのは、赤い、赤い、赤い――甘い味の、鉄臭い、ガムシロップ入りの、冷たい、生温かい、氷の粒と、アルコールと、ヘモグロビンと。目からも鼻からも溢れてくる。呼吸ができない。溺れてしまう。垂れる色彩を受け止めるようにかざされた不格好な両手は、たちまち染まりきってしまった。指の間からこぼれ落ちていく、甘ったるくて酔っぱらえる命の雫。裸足の足を染めていく。
アカネは赤く染まる視界の中で男を見上げた。逆光で顔が見えない。背後からの常夏の眩さは後光のようにも見える。伸ばした手は男には届かず、アカネはそのまま、前のめりに倒れ込んだ。足元はすっかり水で満ちて、ばしゃりと冷たい音を立てた。沈んでいく。
そうして目を覚ますと、アカネはバスタブの中に倒れていた。そこには生ぬるい水が張られていて、目が覚めたのは水底だった。
噎せ込みながら体を起こす。水を吸い込んで頭が痛い。見渡せば、いつもの邸宅の広い浴室だった。さっきのは夢だったんだろうか? どこからどこまでが夢だったんだろうか? それとも酒に酔ったのか? いやまさか、あれだけの量で。ありえない。
呼吸が落ち着いてきたところで、アカネは自分の腹部に手をやった。傷はない。そして、自分が着衣状態のまま浴室のぬるま湯に沈んでいたことに気付いた。いつのまに? 思い出せない。記憶が削げていたのだろうか。
アカネはバスタブから立ち上がる。水を滴らせながら、そこから出る。足は裸足だった。
ふと、アカネは浴室内の鏡を見やる。赤い髪の青年。髪の根本がほんの少しだけ黒くなっていて、髪を染められた日からの月日の経過を示していた。当初はこけていた頬も、随分と人間らしくなった。浴室内の擦りガラスの窓は少しだけ開いていて、蝉の声が聞こえてくる。
「……ん」
ぞわ、とアカネは手首の内側に違和感を感じた。ぞわぞわと、それは痒みを増していく。まるで何かがたくさん這うような。顔をしかめて両手首の内側を見る。――白い肌が不自然に、ぼこぼこと脈打っていた。目を見開いた瞬間、薄い刃物で切り裂かれるような鋭い痛みを伴って、赤い花が――ブーゲンビリアの花が、内側から皮膚を突き破って、溢れてくる。こぼれてくる。一つ一つが小さな虫のように。血液と一緒に滴り落ちていく。
アカネは叫んだ。手首の内側の振り払うが、赤い花は次から次へと青年の肌を突き破って流血を誘う。アカネは混乱のまま飛び退いて、そうすれば背中が湿った壁にぶつかった。絶叫が反響する。
そして、その音の狭間に。
――ぶぶぶぶぶぶぶ。
忌々しい羽音が聞こえる。蠅だ。群がる蠅共がびっしりと、窓の外側を真っ黒に染めていた。浴室に入り込んでくる。透明な翅が生理的嫌悪感をもよおす音を奏でている。奴らは自分の傷口を狙っているのだ、とアカネは理解した。卵を産みつけて蛆まみれにしようとしているのだ。抗いがたい恐怖がアカネの心臓を竦ませる。小さな虫に群がられて肉を食われるなんて、生物としてあまりにも恐怖であった。
誰か助けて。悲鳴のように声を張り上げ、アカネは浴室から飛び出した。そこはあの忌まわしき白い病室だった。カーテンに囲まれたベッドが一つ、アカネをじっと待っていた。誰かが後ろから、アカネの首に注射を刺した。床がぐにゃりと柔らかくなって、回って混ざって――振り返れば、蠅の頭をした医者が、口からボロボロと蛆虫を吐き出していて――。
そうして目を覚ますと、アカネはブーゲンビリアの空き地でうずくまっていた。青年は自分の体を改める。患者衣。日に焼けていない肌。手首の内側と素足に、雑多に貼られた絆創膏。ガーゼの向こうに血が滲んでいた。
蝉が鳴いている。
嫌悪感が込み上げる。ああ。ああ。嫌だ嫌だ嫌だ。自分が自分でなくなっていく心地。自我を支えるものが少しずつ削れて消えていくような。
「どうして皆、こんな心地に平然としてるんだ。それとも……こんなに苦しいのは、俺だけなのか?」
言葉が無意識的にこぼれていた。見ないふりをしようとするほどに意識してしまうように。どうしてまだ生き延びねばならないのか、アカネは自問する。だが自ら終わらせる勇気はなく。深層心理にこびりついた自罰はいつまで経っても消えない。これは夢なのか。どれが夢なのか。全て全てが夢だったならば、自らを罰する必要もないのか。全てが夢だったならば――……。
「ゆめ……」
虚ろに呟いた。そうだ。夢だ。これは夢だ。いつから? どこから? 最初から、終わりまで、全てが夢だ。夢に違いないのだ。
醒めろ、醒めろ、終わってくれ。アカネは頭を抱えて、額を渇いた地面に打ち付けた。何度も、何度も、血が出るほど打ち付けた。
夢なら早く醒めてくれ。呪文のように、祈りのように繰り返す。
「おーい」
呼びかけられたのはその時だった。うずくまった姿勢、まるで斬首を待つ罪人か、懺悔する者かのような姿で、アカネは血が伝う顔を持ち上げた。
そこにはブーゲンビリアに侵蝕されて荒れ果てた邸宅があって、バルコニーに男がいて、笑顔でアカネに手を振っていて。
見られた。
殺さねば。
殺さないと。
気付けばアカネがいるのは邸宅の清潔な寝室だった。ベッドに仰向けに眠っている男に、安らかで無防備な寝顔の彼に、その腹に、アカネは包丁を両手で握り込んで目いっぱい振り落とした。引き抜いて、握り直して、何度も突き立てた。柔らかい感触。どんどんシーツに赤い色が広がっていく。ガラスのようにひび割れて、中から人体の中身が溢れ出してくる。男は刺突の衝撃に揺れながら、見開いた目は瞬きもせずにアカネを見つめていた。そうしてその顔が笑った。血濡れる唇は微笑んだまま、こう言った。
「この人殺し」
ガクン、と急速落下して――落ちて、落ちて、落ちて――……
……――そうして目を覚ますと、アカネは邸宅のリビングにいて、ソファの足元の床の上にいた。
「いっ……」
後頭部に痛み。ソファに寝そべっていた姿勢から、床に落ちたのだと気付く。後頭部はその時に打ったのだろう。もがいた手足はローテーブルに当たって、その位置をわずかにずらした。
「大丈夫?」
男の声がして――アカネは上体を慌てて起こした。男は窓辺に座って、外の景色を眺めていた、ようだ。今は振り返ってアカネの方を見ている。
視線が合った。男は目をパチクリしている。
「……夢……?」
「夢?」
心臓を整えるアカネが譫言のように言った言葉に、男は少し首を傾げた。
「アカネ、またヘンな夢でも見てたの?」
「こ、これは、夢ですか?」
「アハハ寝ぼけてら」
お水でも飲んだら、と男は窓の外に視線を戻して言った。アカネはよろめくように立ち上がる。自分の腹を見た。無傷だ。自分の手首を見た。無傷だ。自分の額に触れる。無傷だ。男の腹を見る。無傷だ。ローテーブルの上を見る。ワイン入りかき氷が入っていたガラス容器が二つ、すっかりぬるい温度になって並んでいた。
「俺、寝てたんですか」
深く息を吐きながらアカネは男に問いかけた。男は振り返らないまま「うん」と答えた。青年は額を抑えて苦い顔をした。
どこからどこまで夢だったのか。これは夢だろうか、現実だろうか。まだ醒めることは許されないのか。まだ悪夢の延長線にいるような気がする。
こういう時は「すべきこと」に没入すべきだとアカネは考えた。役割を淡々とこなしている間は、ぐるぐるとした思考に囚われずに済む。なので置きっ放しになっているガラス容器をキッチンへ持っていって、洗った。蛇口から水の音――そういえば、とアカネは気付く。
「……雨、降ってますね」
今更ながら、外が雨であることに気付いた。夕立ち……ではないようだ。蛇口をひねって水を止める。窓の外から雨音が聞こえる。しとしと、雫の音だ。皿洗いを終えたアカネは――男の隣に座る度胸はなくて、ソファに今一度座り直した。途中で無意識的な夢にバッドトリップしないことを祈って。
しばし会話が途切れる。男も青年も雨を見上げている。空から降る雫にブーゲンビリアの赤が跳ねる。いつもは鮮烈な青を湛える空は真っ白で色彩を失い、世界も太陽が遮られて薄暗い。電気を点けないこの家の暗さはことさらだった。だがその仄暗さが、アカネにはどこか心地よく感じた。全てを白々と照らしだす熱い眩さからは、今は逃れていたかった。
「この調子でしばらく降ったら、水辺も増えるねぇ」
男が言う。確かに水没したエリアの水位も増えるだろうなぁとアカネは考えつつ、「そうですね」と相槌を打った。
「今日のごはんどうする」
続けて男が言う。アカネは「あるもので何か適当に作ります」と答えた。二人が出会って最初の頃こそ男が料理(とあまり呼べるようなものではないが)をしていたが、最近はもうずっとアカネが食事当番だった。
こんな生活がこれからも――死ぬまで続くのなら、どこかに畑でも作るかな、とアカネは悠長に考える。ホームセンターにいけば種があるだろうか。そんなダラダラとした考えの中、ずっとずっと心にあるのは、「どうせ夢だ」という思いだった。夢だから、どんな凄惨なことだって溜息と共に押し出すことができた。そうだ、全ては、どうせ、夢なのだ。
●
男は知らない場所にいた。
そこは安っぽいアパートの一室だった。テレビが点けっぱなしで、いかにも疲れた男の一人暮らし然と、室内も散らかっている。冷房代節約の為に開けっ放しにした窓から、午後の生ぬるい風が吹いていた。
男はくたびれたマットレスに寝そべったまま、ぼんやりと青すぎる空を眺めていた。テレビからは漫然と素人カラオケが流れている。芸能人でもなんでもないただの一般人は、果たしてギャラを貰えているんだろうか――やたらめったら強調されるビブラートに、男はそんな感想を抱いた。
はーー……長い溜息を吐く。見知らぬ天井を見上げている。それから首を傾けて室内に目をやれば、小さく安っぽいちゃぶ台を前に誰かが座っていた。男からは背中しか見えない。だがその赤色の髪で、男は彼が誰かを確信した。
「アカネ」
名前を呼ぶと、青年が振り返る。ニコリと穏やかに微笑んでくれたので、男も同じような笑みを返した。
テレビは無音のカラーバーに変わる。男はゆっくりとベッド役のマットレスから身を起こした。卓の上には――うまく視認できないが――とにかく調理された食べ物が乗っていて、温かな湯気を立てていた。漫然といいにおいがした。何のにおいがよくわからないが、とにかくそれは『いいにおい』だった。
「ごはん作ってくれたの? ありがとう」
「うん」
男の言葉にアカネが素直に頷く。男は青年と向かい合う位置に座った。この部屋に座布団はない。男の為の、くたびれて汚れた座椅子が一つだけある。男はそれに座るのだ。
窓辺にはごくわずかな洗濯物がぶら下がっており、カーテン代わりに揺れていた。床にはあれやこれやが散らばっている。掃除機をかけたのはどれぐらい前だったか。あっちこっちに埃が積もっていた。
「いただきます」
祈る神はいないけれど手を合わせ、認識できないが温かい食事に手を伸ばした。掴んで、口元に運んで、頬張る。食感は不明だった。咀嚼して飲み込む。具体的な味はわからないが、おいしいと感じた。
「おいしいね」
「そうですか」
少し謙遜気味にアカネが言う。彼もまたよくわからないものを男の目の前で食べていた。「本当においしいよ」と男は念を押した。アカネは少しだけ笑った。アカネが嬉しそうなので、男も嬉しい気持ちになった。
「ごちそうさまでした」
いつも食事の時、二人はやたら会話することはない。加えて男は早食いな方だった。食事は程なく終わり、男は手を合わせる。アカネが食器を片付けてくれる。そういえばお皿に乗っていたんだ、と男はその背中を見送った。
散らかった台所から水の音がする。洗い物が放置された台所にはゴキブリ用のホウ酸が転がっている。アカネの手の中、泡と水のついた包丁がキラキラしていた。男は座椅子にもたれてその輝きを眺めていた。
そうすれば、アカネが泡と水に手を濡らしたまま振り返る。
「掃除してもいいですか」
青年は微笑んでいた。
「ここ、汚いので」
そう言った。
――『汚い』。
その言葉が男の心に、何か、どこかに、刺さった。
貧乏で汚くて臭い。みすぼらしい。気持ち悪い。生理的に無理。
あ、でも、散らかってるのは本当だと思う。だから男は「君って最高」と声を弾ませた。青年は善意で掃除してくれるのだから。掃除をしたいってことは、ここに居着きたいって意味だろうから。気に入った場所じゃないところを、積極的に掃除したいなんてありえないだろうから。そう思うことにしたのだ、男は。
がさ。がさ。がさ。黒いビニール袋だ。そして掃除機の音だ。男は座椅子に座ったまま、音がしないテレビを見つめていた。ゆっくりと瞬きを一つ。目を閉じて、開けば、何もない部屋にいた。座椅子もなくなっていた。
「アカネ、この家は汚くて好きじゃないんだろ」
顔を上げれば、青年が正面に立っている。患者衣の青年は白髪交じりの疎ら色の蓬髪で、前髪の奥から男をじっと見下ろしていた。その肌は不健康に白く、肌には注射の痕がそこかしこに散っていた。
「汚いけど、汚いけど、汚いけどさ、でも、いい家でしょ――ずっとこんな家に住みたかったんだ」
男は目を細める。青年は無言のまま首を傾げた。
だから男は立ち上がる。
「僕、今度は君になりたい」
包丁を振り上げた。
綺麗好きで。真面目で。知識があって。人が良くて。若くて。綺麗で。汚くなんかない。ああ羨ましい。
「君になっていいよね。全部ちょうだいよ、いいでしょ」
刺して、刺して、押し倒して、馬乗りになって、刺して、刺した。
青年はすっかり全身赤くなる。血――じゃない、その赤色は、ブーゲンビリアの花だった。傷口から花が溢れている。やっぱり君は綺麗じゃないかと男は独り言ちた。男の体は、返り血ではなく黒い埃で汚れていた。
――蝉の声と、息遣いだけになった。
そうして男は目を覚ました。暗い寝室。窓から見えるのは夜だ。ベッドの傍にはブーゲンビリアの赤い花。白くて清潔なシーツ。隣には男に対し背を向けて横になっている青年。赤い髪。
いつのまにか男は上体を起こしていた。世界は静かだ――しとしとぱらぱら、雨の音を除けば。雲に隠れて星もなく、世界は暗い。真っ黒に包まれた男は、傍らの青年を見つめた。手を伸ばす――暗闇を掻き分け――掌を、アカネの肩の上に置いた。
「ねえ、僕は汚くなんかないよね」
緩く撫でて、声をかける。しばらく撫でているとアカネが目を覚ましたらしく、眠たげな呻きを小さく漏らした。「なに……」と顔をやや男の方に向けて聞いてくるので、彼は同じ言葉を繰り返す。するとアカネは伸びをしながらこう答えた。
「……寝る前にお風呂に入ったじゃないですか」
「臭くない?」
「いや、別に」
「そっか」
ならいいんだ、と男はにこやかに手を離した。またタオルケットにもそもそと包まれる。雨の夜は生ぬるい湿度だ。男は服の下で汗を感じていた。
「……悪夢でも見たんですか?」
温かな雨音の中、アカネが言う。男は真っ暗な天井をしばし見つめ、それから目を閉じた。
「どうかな、そうかも」
「あなたも悪夢を見たりするんですね」
アカネからすれば、この男に対して『悪夢を見る』というイメージがまるでなかったのだ。いつもニコニコしていて、深いことは考えていなくて、穏やかに緩やかに、勝つ脊髄反射的に生きている――そんな風に思っていたのである。だから物言いは意外そうだった。
同時にアカネは、この男が自分と同じ人間であることを改めて認識する。当然のことではあるのだけれど――そう思ったのだ。
「……眠れそうですか?」
悪夢のタチの悪さは、アカネは身を以て知っている。
「寝れそう」
男の返事はフラットなものだった。「そうですか」とアカネは答える。「気遣ってくれてありがとう」と男は少しだけ笑った。アカネは男のそんな言葉を確認してから、また目を閉じた――。
これが夢なのか、そうでないのか、証明する手立てはない。夢の中でも痛覚は踊る。頬をつねればいい、なんてものは迷信だった。
常夏の、南国の花が咲く、水没した町。そんな牢獄から今夜も出ることはできない。寝ても覚めても。夢でも現でも。
どうあがいても、ここが青年と男の居場所だった。
――そうして目を覚ませば、昨日見た夢のことなんか、もう忘れている。二人とも。
あまりにも眩しい光の朝。
今日もまた今日が始まる。
蝉の声。
保存食やレトルトで仕上げられる簡易な朝食。
洗濯機が回る音と、ほどなくバルコニーに干される衣類。
「晴れましたね」
随分と綺麗になった廊下から、アカネがリビングへと戻ってくる。生真面目に家事をするのは彼の役目であり、彼の抗いだった。
アカネが声をかけた先には男がいる。ぐったりとソファに寝転がっている。どうも今日はことさら気力が湧かない日らしい。その目はぼーっと、感情も意思もなく、天井を見上げているだけである。返事もなかった。このままガランドウに溶けてほどけて消えてしまいそうにも見えた。
アカネはソファの背もたれの方に回り込み、虚無に浸る男を覗き込んだ。にこやかに微笑みながら。
「いい天気ですよ。散歩にでも行きますか」
その言葉に、男の目玉が少し動いた。彼はしばしアカネを見上げてから、小さく頷いた。だからアカネは回り込んで手を差し出して、男を引っ張り起こすのだ。
――男の視界からは、窓を背にしたアカネは逆光に見えた。光と闇で青年の顔が見えない。背後からの常夏の眩さは後光のようにも見えた。男は目を細めて青年を見つめた。
「晴天のヘキレキ」
で、あってる? と男は軽く笑った。「ヘキレキって、絶対漢字で書けないよね」と冗談めいて付け加えた。
「霹靂。どちらもあまかんむりです。ヘキはその下に辟易のヘキ、レキは歴史のレキですよ」
空間にアカネが人差し指で文字を書く。「アカネは頭いいなぁ」と男は感心して、青年の頭を犬にするように撫でて褒めた。
●
雨上がりの世界は、あんなにも雲に陰ってぬるい水を降らせていたのに、眩いほど光り輝いていた。濡れた緑はその葉々に花々に雫をまとい、目を刺す光を撒き 散らす。人の手入れを失った住宅街は鬱蒼と煌いていた。赤の、青の、紫の、白の、アサガオがツタを巻いて咲いている。
そんな風景を目的もなく歩く。こんな風になってしまった世界で、食べる・寝る以外の目的など消え去った。生き物の根本である生殖すらもう意味はない。命のリレーはここで終わり。少し前はあれだけ人間が躍起になって文明を築いていたのが馬鹿みたいだ。
それでも、男もアカネも、「じゃあ意味がないからもう終わらせよう」と終焉を選ぶことはなかった。漫然としている。蝉が鳴いている。無為が続く。今日もまた。生きるだけの日々が。
これは悲劇なのだろうかとアカネは考える。文明の終わり、種の滅亡。少し立ち止まって、雨の上がった青空を見ていた。「おーい」と男がアカネを呼ぶ。見れば、男がやや離れた位置で手招きをしてた。とある民家の前、荒れた庭を指差していた。
「野菜が生ってる」
「あ、ほんとだ」
プチトマトとキュウリだった。アカネはあっさりと思考を目の前のモノにシフトした。
人間社会が成立しなくなった今、手に入る食糧はレトルトや保存食、他には日持ちのするようなモノばかりである。新鮮な野菜や果物にありつく機会は失われていた。ここが自然豊かな場所で、男やアカネに専門的なサバイバル技術があればそうでもなかっただろうが、ここは普通の町の中で、男とアカネは一般人である。
どうせ民家に人もいない。ベランダから人間だった黒い染みが垂れ下がっているのが証拠だ。アカネは草を踏み分け、実っているプチトマトを一つもいだ。表面を少し拭ってから口に放った。
「うんおいしい」
久々に食べる生野菜だ。口に、そして体に染み渡るような心地がする。瑞々しい。「冷蔵庫あるし、幾つか持って帰ろう」という話になった。だが二人共、鞄を持ってきていない。流石に手で掴んでいくのも面倒だ。ほどなく結論は「また来よう」に落ち着いた。どうせ時間も無駄にある。
「川とか池で釣りすれば、魚が獲れるかもしれませんね」
もいできた巨大なキュウリをかじりながらアカネが言う。隣では同じように、男もキュウリを頬張っていた。荒れた住宅に挟まれた道はやがて、冷たい水辺に変わる。
「アカネ、魚さばけるの?」
「……まあ、なんとか。ウロコとってお腹切ってワタを出すぐらいなら……?」
男よりはマシだが、アカネもせいぜい一人暮らしの自炊レベルしか料理技術はない。今行っている料理とてレトルトを指示に従って食べられるようにしているだけだ。
「本屋でレシピ本でも探しますか。まあその前に釣り具と……てかそもそもこの辺に魚が釣れそうな場所ってありましたっけ」
そんなアカネの言葉に対し――
「あ、魚いたよ」
男が不意に言う。「えっ」とアカネが男の方を見る。彼は「ほら」と足元の水辺を指差していた。――するする、泳いでいたのは小さな赤い金魚である。
「……金魚だ」
へえ、とアカネはしゃがみこんで小さな生き物を眺める。真っ赤な色がアスファルトの黒によく映えていた。金魚は特に目的地もないようで、男とアカネからほど近い場所を何とはなしに泳いでいる。
蝉の声。放置されたバイクのミラーが太陽をギラギラ返している。
男とアカネは特に言葉もないまま金魚を眺めていた。あのなんともいえない朱色には、人間の目を引き留める不思議な魔力がある。
「こんな風にさ、誰かと一緒にいるのは初めてな気がする」
少しずつ金魚は二人から離れて、アスファルトの上を泳いでいく――それを見送り、男が言った。
「僕の方を見てくれる人って、あんまりいなかったような気がするから。だから、アカネといると楽しいよ」
「……楽しい、ですか」
アカネからすれば、気紛れで殺さないでいてくれてありがとう、という気持ちが大きい。この男は殺人に対する躊躇や後悔が一切ないのだから。
青年はしゃがんでいた体勢から身を起こし、伸びをした。今日もよく晴れている。彼方の水面はキラキラしている。
「ずっと僕といてくれる?」
男はアカネを見つめている。彼の背後には『売物件』と朽ちた看板のぶら下がった家が佇んでいた。
アカネはそんな眼差しを横顔で受けながら――今日も真夏の、常夏の風景を眺めている。
こんなことが、いつまで続くんだろう。アカネが抱いたその疑問は、男が言っていた「死ぬまでだよ」という言葉を思い出すことで決着がつく。
終わらない地獄。鮮やかな常夏に閉じ込められて、どこにもいけない。壊れて滅んでいくしかない。どうにもならない。死ぬまで、だ。
それでも――
それでも世界が、あんまりにも色鮮やかで眩くて。
――美しくて。
アカネにはこの世界が輝いて見えた。
青い空。輝く緑。煌く水。黒いアスファルト。高い位置の太陽。蝉の声。電線のか細い影。
こんな世界でそれでも生きている。
「――うん」
この感情が絶望なのか希望なのか、諦念なのか何なのか、もうアカネにもわからない。
青年は男の方を見た。
「いいよ」
アカネがそう言うと、狂人は優しく笑った。
「ねえ、アカネは楽しい?」
「さあ……どうでしょうね」
「でもさぁ、アカネの嫌なものは燃やしたでしょ。他に怖いものはある?」
男の理論はいつだって、『この世界から嫌なものがなくなればハッピー』だ。相変わらずだなぁとアカネは物思う。その考えにすっかり迎合している己を感じながら。そうして考えるのだ。今が楽しいか、どうか。
「ねえどうなの」
男が結論を急かす。
「答えるから、ちょっとこっちでしゃがんでくださいよ」
アカネは小さく笑みながら、男を手招きした。そうすると、ざぶ、ざぶ、彼は金魚が泳いでいった水を踏んでアカネの傍に来る。
「しゃがむって?」
こう? と男が身を屈める。
ので。
「とう」
アカネは男の両肩をポーンと押した。「うわ」と男が目を見開いた直後、バランスを崩した男がアスファルトの水辺に背中から着水する。ばしゃり。水面が揺らめき、水底の黒が震える。尻もちの姿勢で水の中にいる男を見て、アカネは喉を逸らせて大笑いした。
「あはははは――」
この世界はそう悪いことばかりじゃないのかもしれない。
これが精神の軋みと亀裂と化膿による、躁という異常状態の賜物なのかはわからない。変化していく心が見せるトリップなのか、はたまた白昼夢なのか。確かなことは一つ、心を覆うモノが一枚ずつ剥がれていく。その度に、世界は違って見えてくる。心に光が差し込んで透明になっていくような。神秘体験にも似た情動の揺らぎがそこにあった。そしてアカネは少しずつ理解していく。「みんな、こうなっていっているんだ」と。「みんな、同じなのだ」と。それは万能感に似た安寧だった。世界は優しく美しい。
「ちょっと仰向けに浮いて待ってて下さいよ」
男を覗き込むアカネが言う。「ええ……なんで?」と男は怪訝気なので、青年は「いいからいいから」と彼の肩を叩いて、どこかへ足早に向かってしまう。
一体なんだろう、でもアカネが『楽しそう』なので、男は嫌な気分ではなかった。なのでアカネから言われた通りに水面に体を預ける。得も言われぬ浮遊感だ。仰向けになっていれば、青すぎる空と眩しすぎる太陽が見えて、男は目を細めた。耳にぶつかる水がちゃぷちゃぷと音を立てている。世界の音は、その水音と蝉の声だけだ。水の中に耳があると蝉の声はくぐもって聞こえた。暑い日差しに対するこのヒンヤリとした温度が心地いい。
そうして男がぼうっと水の中で待っていると、水を踏む足音と共に水が揺れる。男が目を開ければ、ちょうどアカネが彼を覗き込んでいて――何か鮮やかな色彩のものを、ぱら、ぱら、男の上から水面に撒いた。
それは花だった。常夏の異常気象に咲き誇る南国の花。あまりに鮮やかな花。カランコエ。ヒスイカズラ。ジャカランダ。ハイビスカス。プルメリア。アラマンダ。グズマニア。カトレア。ゲットウ。ブーゲンビリア。デンドロビウム。季節を失い狂った星のあり得ざる産物達。数えきれないほどの色彩の雨。二人共、それらの花の名前を知らない。
「こんなにいっぱい、よくとってきたね?」
男が言うと、アカネは微笑むだけだった。だから「そっかぁ」とだけ男は答えておいた。水面に投げ出した掌に、千切られた色彩が浮かび乗っている。男はそれを見つめていた。嬉しい気持ちになった。黒いアスファルトの上のたくさんの色。遠くで赤い金魚が泳いでいる。
「こういうの、絵画で見たことあるんです」
花の散る水面と浮いた人間。「なんだったかな」とアカネは記憶の糸を辿り、こう言った。
「そう……確かオフィーリア。水死体の絵だ」
「……水死体の絵?」
「うん。綺麗な絵でしたよ。緑と花に囲まれてて……まあ描かれたのは女の子だったんですけど」
アカネは指の間にひっかかっていた鮮やかな花弁の残りを、最後に水面に落とした。それは男の額の上に、まるで祝福のように落ちた。
「じゃあさ、今の僕って綺麗?」
冗談めかした物言いで男が笑う。笑うと体が揺れて、額に絶妙なバランスで乗っていた花弁が水の中に落ちていった。アカネも似たようなニュアンスで笑っていた。自分よりも年上の男に「綺麗だ」と言うのはなんだか妙な心地が、ともすれば馬鹿にしている気がしたが――
「綺麗ですよ」
アカネはそう言った。すると男はからからと笑った――とても満足そうに。嬉しそうに。幸せそうに。
「そうかそうかぁ」
汚くはない。みすぼらしくなんかない。その安易な確認だけで、男の深層(イド)は心地いいほどに晴れ渡るのだ。よかった、と思えるのだ。この水面のように、光を受けて瞬けるような気がするのだ。
だから男は浮ついた気持ちのまま、掌にすくった花弁と水をアカネに向かってバシャリとかけた。太陽の下、水と花が煌いた。「わあ」とアカネが笑う。そもそも男を水浸しにしたのはアカネなのだ。ゆえに男に水をかけられたことで気分を損ねることはなかった。
「アカネも浮かんだら。ヒンヤリしてて結構気持ちいいよ、ぷかぷかするの」
水をかけたその手で男はアカネを手招いた。だったら、とアカネはそれに従う。服や髪が濡れるのも厭わず、アスファルトの上の水ということに潔癖な嫌悪感を示すこともなく、男の隣で水面にその身を預けることにした。
南国の花々が浮かぶ、黒い水面の冷たい水。蝉が鳴き、気温は温かく、空は青く、いい天気で、風はぬるい。喧噪も何もない。人影も人の気配も。ここにはもう二人しかいなかった。行き止まりのように。それでも光を浴びて輝いていた。煌いていた。穏やかだった。平和だった。咎める者はいなかった。青年の手で毟られた色彩がゆらゆらと、二つの人体の周りに揺蕩っている。
二人はしばらくそのままでいた。仰向けに水面に寝そべり、空を見ていた。会話をしなければ蝉だけが間を保つ。
「アカネが言った、絵のことだけど」
静寂を破ったのは男だった。
「その絵、今はどこにあるんだろうね」
「さあ……どこかの美術館じゃないですかね」
「美術館かぁ……、行ったことないな」
男がボンヤリと言う。アカネは隣でその声を聞きながら――彼は『金持ちの御曹司』という設定なのに、美術館に行ったことがないと暴露するのは大丈夫なのか、と思った。男の中では、彼は金持ち夫婦の恵まれた息子であるというのに。でもアカネは男の為にも、そのことには言及しないでおいた。
「美術館、行きますか。探せばどっかにあるでしょう」
アカネはそう提案してみる。男は目線だけで青年を見た。
「いいねぇ。面白そう。賛成。……ふふ。誰かとお出かけするとか、久しぶりだなぁ……」
男は笑みに目を細めていた。なんだか花の浮いた水を介して、アカネにまで男の楽しそうな心地が伝わってくるかのようだった。
「……アカネ、楽しいかい」
男がそう問いかけてきたのは、奇しくもアカネがそう感じていた最中だった。
だからアカネは、こう答えた。眩しい青空を、仰向けのまま、水死体のように見上げながら。
「楽しいですよ」
「――そっか」
男は穏やかに微笑んだ。そして空に視線を戻す。瞬きを一度。眩しくも穏やかで、鮮やかで、心地のいい、そこは紛れもなく地獄だった。
「眩しいね」
「そうですね」
赤い金魚が、浮かぶ花弁をついばんでいた。
●
いつもの寝室。清潔な状態が『いつもの』になり、それにもすっかり男は馴染んでいた。静かな夜。かすかな寝息だけが暗闇を満たしている。
男は夢を見ていた。今日の出来事が追体験のように、目蓋の裏で流れていた。記憶を上書きしていく。古い方から消去されていく。男はもう、あの小汚いアパートの一室を思い出すことはないだろう。綺麗になっていく。掃除され、片付けられていく。水の流れる音。金魚が暗い寝室を赤い尾を揺らして泳いでいる。もう包丁は必要ない。ここは温かな寝室。ここは温かな寝室。ベッドの中は平和なのだ。誰にも侵されることはない。
男の記憶は花で彩られていく。要らないものは廃棄されていく。印象に残っているのは赤い色。赤い色はやはり幸せな色なのだと男は思った。金魚が夜空を泳ぐ夢を見た。その金魚は不思議と体が透けていて、か細い骨が鮮明に見えた。男は金魚が見えなくなるまで、夜の空をずっと見上げていた。目蓋の向こうで朝が来るまで。