●4:はくちゅうむ
今日も蝉が鳴いている。
それは、男がまだ自分のことを『エンドウ』という存在だと認識していた頃のお話。
安っぽいアパートの一室ではテレビが点けっぱなしで、いかにも疲れた男の一人暮らし然と、室内も散らかっていた。
冷房代節約の為に開けっ放しにした窓から、午後の生ぬるい風が吹いてくる。男はくたびれたマットレスに寝そべったまま、ぼんやりと青すぎる空を眺めていた。テレビからは漫然と素人カラオケが流れている。芸能人でもなんでもないただの一般人は、果たしてギャラを貰えているんだろうか――やたらめったら強調されるビブラートに、エンドウはそんな感想を抱いた。
はーー……長い溜息を吐く。目に馴染んだ天井を見上げている。ちょっと前からずうっと、こんな風に寝転んだまま天井を見上げている日々を送っている。
エンドウは実のところ、この世界が少しずつ変わってしまっていることを知っていた。世界が、人間が、何か、変わっている。ポロポロと抜け落ちていくような。サラサラと崩れていくような。漠然とした自意識だけれど、何か変動の渦中に現実が存在していることを、把握していた。
もうすぐ全てが変わるだろう。穏やかにして完全なる凪が目の前に迫っている。葛藤と苦痛と孤独の終焉。それは避けられぬものであり、拒むべきものではない。だから抵抗するつもりはなかった。疑問も抱かなかった。『なぜ』は意味を成さない。これは星が回り巡るような流転である。男は受け入れていた。他の人間のように。生まれ変わることを。南国のような温かさと安寧を。
テレビは無音のカラーバーに変わる。
人間が心の外側に纏うモノが一枚ずつ剥がれ落ちていく。そうして一枚ずつ剥いでいけば、最後に残るのは純粋な部分だ。本音の欲求、本当の願い、ありのままの姿。
ゆえに、男は思った。
「アイツ殺そう」
独り言。
立ち上がる。洗い物が放置された台所。ゴキブリ用のホウ酸が転がっている棚を開けて、包丁を掴んだ。サンダルを履いてドアを開けた。鍵もせずに歩き出した。
日の高い午後。じわじわと蝉が鳴き、アスファルトが太陽の熱を立ち上らせている。路上駐車された車にお日様が反射して、エンドウは目を細めた。帽子をかぶってきたらよかった、と焼かれていくうなじをさすった。
エンドウは貧しい男だった。生まれてこの方、「恵まれている」とか「上の暮らし」というものを体験したことがなかった。いつも下の人間だった。上の人間から安い金で使われるだけの存在だった。価値が極めて低い人間だった。いつだって手の中には何もない人間だった。
――ようく覚えている。
小学校、中学校で、ずっと同じクラスだった男。
そいつは生まれた時から金持ちで、生まれた時からなんだって持っていて、全てにおいて恵まれていた。この町の一等地にひときわ大きな家を構えている大金持ちの御曹司だった。
一度だけ、小学生の頃、あの男の家に招待されたことがある。あまりにも恵まれていて。あまりにも恵まれていて。あまりにも自分の世界と違って。こんなのずるい、と喉を掻きむしりたくなった。同じ人間なのに。どうして。自分には一生手に入らないものを見せびらかされているような気になった。「どうだいいだろう」と。馬鹿にされているような気がした。苦しくなって、耐え切れなくなって、「お腹が痛いから」と嘘をついて早々に男の家から飛び出して、みじめさに泣きながら走った記憶が未だに消えてくれない。
大きくなってから、そいつは働きすらもしていないことを聞いた。働かなくても金があるから、働く必要がないそうだ。だから道楽で起業をしたり、海外へ遊びに行ったり、金に寄ってきた女達を侍らせたり。およそ人間が味わう苦労というものを一切知らず、甘い蜜だけを啜って、幸せだけを酸素代わりに生きていた。
「ずるいよな。そんなのずるいよな。これからみんな一緒になるっていうのに、あんまりだよな」
エンドウはブツブツと繰り返した。
この世界の幸福の数は決まっていて。
誰かが幸福を浪費すると、その分、誰かが不幸になる。
そうなっているに違いない、とエンドウは信じていた。
インターホンを押した。「エンドウです、XXくんと同じ小学校だった」と声をかけた。男の母親が現れた。笑顔だった。その髪を掴んで、喉を一閃した。血がたくさん出た。構わず歩いて、「すいませーん」と声をかけた。何度かかけていると、居間から声がしたので、そこにいた男の父親を殴って、蹴って、殴って、蹴って、殴って、動かなくなるまで繰り返した。そうすると声をかけられたので、振り返ると『XXくん』がいた。エンドウは繰り返された殴打に負傷した手で、煌く包丁を握り締めた。人畜無害に笑ってみせた。
「僕、ずっと、君になりたかった」
胸の中に刃を差し込みながら、ゼロの距離でエンドウは男に言った。見開かれた眼をしげしげとまじまじと見つめて、エンドウはうっそりと目を細めた。
「君になっていいよね。全部ちょうだいよ、いいでしょ」
脱力していく男を壁際に押しやって、何度も、刺した。ああ、お腹に固いモノを刺し込む行為は、セックスみたいだなぁとボンヤリ考えた。オーガズムのことを「小さな死」と形容するらしいので、あながち間違いではないのかもしれない。片や命を作る行為、片や命を奪う行為。
――蝉の声と、息遣いだけになった。
エンドウは肩を弾ませながら、包丁が刺さったままの男を見下ろしていた。ずっと見下ろしていた。掌は刺突の時に刃へ滑って傷ができていた。
驚くほど罪悪感はなかった。「嗚呼」という感嘆だけが神秘体験のようにエンドウを包んでいた。
(確か、地下室があった)
エンドウは男とその両親を地下室に運び始める。一人ずつ、足首を掴んで、引きずった。死体はこんなにも重たいのか、と驚いた。階段は蹴っ飛ばして転がり落とした。その方が楽だからだ。
電気を点けた地下室は、子供の頃に垣間見たあの光景と同じだった。金持ちの証。恵まれた者の証。その部屋の片隅に死体を並べた頃には、エンドウの両腕には随分と疲労が溜まっていた。
それでも休まず、今度はエンドウは室内を物色し始めた。この家にある、この男達の記録に関するものだ。家が広いので苦労した。雑多に娯楽室にぶちまけていく。その頃には掌の傷の血も止まっていた。
そうして、エンドウは娯楽室を今一度見る。足元の床には血の跡。あちこちに記録。その奥に死体。ふっ、と笑った。
「じゃあな」
電気を消した。ドアを閉めた。さあ次は床の血を拭こう。それから金庫だ。金庫のナンバーは覚えている。覚えているとも。「ここだけの話ね……」といたずら小僧の顔で、男が教えてくれた番号。延々と忘れられなかった数字。もしも、もしも覚えていたら……そんな風にバカみたいな動機で記憶していた数字。
こうしてエンドウは金を手に入れた。エンドウが一生かかっても稼げないほどの金額を。
エンドウは鼻歌と共にバルコニーに立った。見下ろせば、手入れされた庭に赤いブーゲンビリアの花が咲いている。その赤色があまりにも鮮烈だった――赤色。赤色。エンドウは掌を見る。そこもまた赤色。空まで夕暮れで赤い色。フラッシュバックする血の色。赤い色。
「綺麗だ――ああ、綺麗だなぁ……」
エンドウは両腕を広げ、世界中の赤色を浴びた。
彼にとって、赤色は生まれ変わりの色。幸せが始まる色。吉兆の色。
これから世界は変わっていく。人間は変革していく。その流転の中で、エンドウはエンドウであることを忘れるだろう。エンドウはそのことを理解している。そしていつしか、エンドウであることを忘れた『男』は、自分こそがこの家の主であると認識するようになるのだろう。この家の主が誰だったかを示す証拠は地下室に封じた。法律や警察は既にほとんど機能していない。見つかることもあるまい。
さようならエンドウ。こんにちは裕福で恵まれた『XXくん』。
願い続ければ夢は叶うものだな、とエンドウは笑った。嫌なものを壊してしまえば、こんな気持ちも、楽になる。
「僕は幸せになるんだ」
全身真っ赤な色のエンドウは、幸せそうに嬉しそうにいつまでも笑っていた。
それからいくつもの常夏の日が過ぎて、エンドウは『男』になった。
エンドウという存在は誰からも忘れ去られ、『エンドウという存在』は永遠に死んだ。
残ったのは、散らかった邸宅と、赤色を幸せな者と結びつける、何もない男である。
今日も蝉が鳴いている。青い空。ブーゲンビリアの赤。
●
今日も蝉が鳴いている。
それは、青年の識別名称が『アカネ』ではなかった頃のお話。
この世界は変わりつつある。何か、おかしいことが起きつつある。青年は気付いた。青年は理解した。昨日と比べて今日が違う。その積み重ねが、大きな乖離を生みつつあることを。
人間が、隣人が、おかしくなっている。気力を失い、執着や欲望についてのエネルギーも失い、人間という社会が成立しなくなり始めている。染みついたルーティンを繰り返すのみ、あるいは自らの根本的欲求に従った衝動的動作――専ら犯罪行為――社会はどんどん機能不全に陥っていく。文明が少しずつ終わり始めている。同時に気温も上昇し、それに伴う環境変化や災害が起きているというのに。
――このままだと、人類は滅んでしまう。
青年は危惧した。周りの皆のために、現状をどうにかせねばと危機感に駆られた。
青年の周りには、彼と志を同じくした者達がいた。
誰もが「こんなことはおかしい」と、心から思っていた。
青年達は必死に活動した。
狂っていく人類に、今起きていることを自覚させんと努力した。このままではいけないと。対策が必要だと。
結果は――何も変わらなかった。
誰も彼らの言葉を真摯に受け止めることはしなかった。水面に剣を突き立てるようなものだった。
ただ、おかしな連中を見るような怪訝な眼差しだけが、返ってきた。
そうして無為に時間ばかりが流れていき。
一人、また一人、活動家達も『発症』していく。
それでも青年は訴え続けた。
気付けば青年は一人になっていた。
たった一人の人間が、何を喚こうが意味はなく。
この世界はおかしい、と訴える青年は、精神異常者と断定された。
全ては青年の妄想なのだ、という結論だった。
世界が狂っていく。周りがおかしくなっていく。正気であるのは自分だけなのかという恐怖と――
この世界はもう正せないのだという不条理な真実と――
自分もいつか発症するのではないかという不安と――
収容された病棟にて、『おかしくなった』医者達から繰り返された出鱈目な投薬で――
青年は壊れた。
「どうして、どうして」
白い天井、白いカーテン、白いベッド。虚ろにもたげた腕にはたくさんの針と管が刺さっている。
ずっと病室に閉じ込められ、長らく日を浴びていない肌は白く血の気が失せた。
電気が点いていない病室。仄かな暗さの中、伸ばされた手は何もつかめなかった。
意識もやがて、薬でどろどろと溶けていく。起きているのか眠っているのか夢なのか、境界線が混ざっていく。
この世界はおかしい。
それだけがずっと心にあった。
こんなのはもう嫌だ。嫌だ。助けて。いいや。助けはこない。誰も助けてはくれない。声は誰にも届かない。
ああずっと大学に行けていないな出席日数大丈夫かな、と遠く場違いなことを考えた。
正気が削げれば曇りと建前のない部分だけが丸裸になる。
その果てに、青年は――走り出していた。
どうやって? 思い出せない。その行為が夢だったのか、現実だったのか。ただただ、また病室に抑え込む白衣らの腕が怖くて、恐ろしかった。逃げなくてはならない。もう注射も薬も嫌だ。どろどろと蕩けていく視界の中、鮮烈な明るさを誇る世界を、青空の下を、青年は走っていた。
正気を失った人間と、いくつか通り過ぎた。
ああ。この世界は、もう。
青年は叫んでいた。泣きながら叫んでいた。可哀想な迷子のように。これが夢ならどうか覚めて、と悪夢の中の被害者のように。
そうして気付けば、赤い花が咲き誇る空き地にいた。うずくまって泣き続ける青年に、声をかける者がいた。青年は振り返り――目を見開いた。白い服を着た、人間、近寄ってくるその存在に、青年の中の疑心暗鬼と恐怖と狂気が噴出した。
「大丈夫?」
ただの通りすがり。白い服の人間は気遣いからそう言ったのだが、その声は青年に届くことはなく。青年の悪夢という世界の中で、白い服のその者は医者と認識されていた。
だから、掴みかかられ殴られたその者は悲鳴をあげた。逃げようとするがそのまま――もんどりうってもつれあって――二人は赤い花の中に倒れる。
「ううううああああああああああ!!」
青年は恐怖のまま泣きわめきつつ、馬乗りになった白い服の者に対し、レンガの欠片を振り上げた。
がつ。ごつ。ぐちゅ。鼻がひしゃげる。目玉が潰れる。唇が割れる。歯が折れる。顔が凹んでいく。赤い色。赤い色。赤い色。赤い色。赤い色――。
――蝉の声と、息遣いだけになった。
青年は肩を弾ませながら、顔がザクロのように割れた人間を見下ろしていた。ずっと見下ろしていた。掌はレンガ片が擦れて傷ができていた。脚にも、花の棘による切り傷がたくさんできていた。
血の付いた凶器が落ちる。たくさんの目が青年を見ているように彼は感じた。批難、侮蔑、嘲笑、監視。吐き気がするほど罪悪感が込み上げて、心がぶちぶちと裂けて、視界がぐるぐるに混ざって、そうして回るように途絶えた。自己防衛なのか、自傷なのか、もう区別もつかない。赤色。花の色。血の色。それが青年の世界を飲み込んで、圧倒していく。青年は頭を抱えて泣き始めた。恐怖と不安がいっぱいにつまった、混乱の嗚咽だった。
最中だった。眼差しを感じて、顔を上げれば――すぐ近くの邸宅、そのバルコニーから、一人の男が青年を見下ろしていたのだ。
見られた。
殺さねば。
即座にそう思い至った自らの狂気に、青年はゾッとした。一方で男は優しく微笑んで、妙にかざしたままだった手をゆっくりと振ってきたのだ。
「うちに上がりなよ」
助けてくれるのだろうか。
助けてくれるのならば、もう誰でもよかった。
青年は不安に疲れ果てた頭の中で、ボンヤリと思った。バルコニーから建物の中へ姿を消した男に、青年は小さく小さく呟いた。
「たすけて」
今日も蝉が鳴いている。青い空。ブーゲンビリアの赤。
●
散歩に行こうよと男が言う。
日中は暑いから夕方にしませんかと青年が言う。
――蝉の声。午睡から目覚めたアカネは、ボンヤリと天井を見上げていた。
カレンダーはなく、テレビは何も映らない世界で、どれだけの日数が経ったのかは分からない。時の経過を示すのは、この邸宅から減っていくゴミの数だけだ。
アクビをしながらアカネはゆっくり上体を起こした。ゴミの中から発掘して設置したサイドテーブルには、これまたゴミの中から発掘した高級そうな花瓶が飾られてあり、庭から切ってきたブーゲンビリアの枝が活けられていた。
しばしボンヤリと、アカネはブーゲンビリアの鮮やかな赤色を眺める。それから、いつも開けっ放しの窓を見る。蚊がいなくなったらしい世界は思いの他、人間には快適だった。尤もどこかで致命的な生態系のバグが起きているだろうが――どのみち人類に助かる道はない。
(あんなに、躍起になってたのにな)
昔のことを夢で見た気がする。アカネは赤色に染められた髪の頭をぼりぼりと掻いた。人類が滅ぶことを恐れて、終末が怖くて、たった一人になっても声を張り上げ続けていたのに。アカネの心は凪いでいた。慣れて麻痺してしまった、のかもしれない。
一つ息を吐いて、そろそろ意識もしっかりしてきたので、隣で眠る男を見下ろした。アカネに対し背を向けた姿勢で、片腕が少々ベッドからはみ出てしまっている。
「――」
エンドウさん、と呼びかけて、その言葉は飲み込んで、アカネは彼の肩をそっと揺すった。
「夕方になりましたよ」
「んー……」
明らかに眠そうな声。「行かないんですか、散歩」ともう一度呼びかければ、寝返りを打つ男がアカネを見上げた。声の通りに眠そうな顔だった。こういう時ぐらいしか男は眉間にシワを寄せない。少なくとも3人の人間を殺した殺人犯、というには凶悪さが足りないが。
「ちょっと食糧とか日用品の調達もしたいんで。どうします、眠たいなら俺一人で行きますけど」
「行く」
一人で、というワードが聞こえるや否や男は上体を起こした。あんなに眠そうにしていたのにもう覚醒している。
「ひとりは危ないからね」
遠い所に目の焦点を当てたまま男はそう言って、ベッドから下りた。
アカネはその背中を見ながら、ふと尋ねてみる。
「俺がいなくなるのは、嫌ですか?」
まるでアカネが手元から離れることを極端に忌避しているように見えたのだ。男はのっぺりと佇んだまま、しばしの沈黙を留まらせる。彼の背中を夕焼けが近い黄色の光が照らしている。
「どうしてそんなこと言うの」
「え」
「どうしてそんなこと言うの? 試すようなこと嫌だよ。いなくなるとかそういう悲しいこと考えさせないで頭痛くなるから」
のっぺらぼうの背中を向けたまま、男が抑揚なく言う。
全てを手に入れ、そして何もない男にとって、執着の焦点はアカネだった。かつてあった心の外側が全て剥がれ落ち、深淵なるイドの権化となった今、そこに自我の調整も超自我の統制もない。
同時に――対峙するアカネは、生々しすぎるその感情にいっそ人間性を感じ取ることができず、一瞬だけ圧倒のままに押し黙ってしまった。血の気が引いたのは男の気分を損ねてしまったからではない、目の前の存在があまりにも得体が知れないと感じたからだ。
「……ごめんなさい、もう言いません」
どうにか気まずい間を作らずに絞り出した、謝罪の言葉。
すると男が緩やかに振り返る。その顔はいつもの、無害そうな小市民の微笑みだった。
「いいよ、怒ってなんかないよ」
そう言って、男はアカネの手を引いた。ベッドから降りる形になったアカネをそのまま両腕で抱きしめた。その行為はプラトニックで親愛的・友愛的ではあるのだが、どこかぬいぐるみを抱きしめるような気配も滲んでいた。
いっそ向けられている感情が性愛であれば、理性と常識の下にラベリングできて整理と納得ができたのか。無惨に強姦でもされればいっそ理性が勝るのか。アカネは肌越しに男の心臓の動きを感じながら物思う。後頭部を男に撫でられて、顔が彼の肩口に沈んだ。風呂をすっぽかしがちだった男に、毎日体の衛生を保つよう指示したはアカネだ。おかげで嫌なにおいもなかった。清潔なにおいがした。それから温かい人間の温度だ。
抱きしめ返すべきかアカネは逡巡した果てに、ポンポンと二度だけ男の背中を柔らかく叩くことにした。
「うん。……それじゃあ、お出かけしよっか」
アカネをまるで未練なく離した男は嬉しそうにそう言って、「カバン取ってくる」とお気楽に足音を立てて支度に向かった。寝室に、遠くから聞こえるヒグラシの声が響いた。
アカネは少しだけ立ち尽くし……部屋にいない男に「うん」と返事をして、歩き出す。
夕刻、境界のひととき、 茜空を映す水辺を歩いていく。アスファルトの上。足音は二人だけ。水面がキラキラしている。温い空気と冷たい水。歩くと汗が浮かんで、服の下、窪んだ胸の真ん中を伝っていった。誰ともすれ違うことはなかった。
「白線の上だけをさぁ」
水に沈んだアスファルトに視線を落とし、男が言う。
「歩く遊び、あったよね」
「あー。なんか、ありましたねそういうの」
まさか「やってみようよ」と言う気なのか、とアカネは少し前を歩く男を見た。男はじゃぶじゃぶと水の中の白線を踏みつつ、言葉を続けた。
「今だとさ、やろうと思えば水に浮けちゃうから、いくらでもズルできちゃうね」
「あはは……確かに。……そういえば久しく泳いでないな……」
「泳ぐ?」
「いやー……今はいいです。水着もないし」
それにこの水がどれだけ清潔かも分からない。医療機関も機能していない現状、腹を下すのはごめんだとアカネは内心で首を横に振っていた。同時に――
(そうか、病院が機能してないから……今までだったら普通に治ってたような病気とか怪我で、死ぬかもしれないんだ)
社会と文明を失った人間の脆さを思い知る。今でこそ自動発電によって電気を使えているが、それがいつ使用不能になるかも分からない。水だってそうだ。いつ清潔な水が使えなくなるか分からない。原始のような時代の暮らしを今更できるはずがない。未来はほとほと暗かった。
(……前みたいに絶望しないな)
どんどん掠れていく過去のこと。アカネは漫然と目を細める。あんなに終末と死が怖かったのが嘘のようだ。そうしてはたと気付く。
――そうか、これが、生存への気力消滅。
けれど恐ろしいものが減っていくことは、幸福なのかもしれない。
恐怖と不安で圧し潰されながら死んでいくより、何もかも分からなくなって曖昧模糊のまま果てる方が幸せなのかもしれない。
この現象は、知恵をつけすぎて情動が発達しすぎた人間の、とある安楽死なのかもしれない。
「アカネ、こっちおいでー」
男の声がして、アカネはボンヤリとしていた意識を現実に戻す。見やれば、足首ぐらいまで浸水したコンビニの駐車場で、男がアカネに手を振っていた。青年は「はーい」と返事をして、水を蹴る足音で近付いていく。
コンビニは駐車場と同じぐらいの浸水具合だった。電気は点けっぱなしで、レジには誰もいない。商品棚はスカスカだった。電気のお陰で煌々と明るいのが、いっそ不自然だった。ガラス戸は開いたままになっている。例によって無人だ。
……いや。
何か音が聞こえる。商品棚の向こう、空間の隅に。わずかな水の音と息遣い。
何かいる。
息をのんでためらうアカネに対し、男の方は全く動じることはなかった。ざぶざぶと歩いて音の出所を覗きに行く。「ちょっと」とアカネが男に呼びかけたのと――店の奥から、奇声を発する人間がいきなり立ち上がったのは、同時だった。
滅茶苦茶な金切り声は、何かしらの所有権が自らにあることを激憤のままに主張していた。服すら着ていない肌色の生身は、人間のカタチこそしているが、中身はもう人間ではなくなっていた。狂気のまま男に掴みかかる。
「あ、」
危ない、とアカネが言う頃には、男が防御に構えた腕に人間が噛み付いていた。次の瞬間には、男は親指で相手の目玉をまるで躊躇なく突いていた。
ぎゃあ。叫び声と共にソレが男から離れる。いたいいたいいたい。言葉が張り上げられる。途端、男は商品棚の酒瓶を手に取ると、目を両手で抑える無防備なソレに振り下ろした。鈍い音が響く。何度も振り下ろす。仕舞には瓶が割れる。鋭利な凶器となったそれを、男は構わず振り下ろし続ける。
悲鳴はやがて泣き声に、遂には「ゆるして」と乞い始めた。男は無言でソレの生身の横腹を蹴り上げ、仰向けにさせ、柔らかく痩せた腹の真ん中に、割れた瓶を思い切り突き刺した。瓶口が天を向く。それを上から強く踏んで、更に腹へめり込ませた。ソレが喚きもがき、浸水した水がばしゃばしゃと音を立て、血が広がっていく。
アカネは呆然と見ていた。戦意喪失したソレへ、男は執拗に執拗に攻撃を続ける。顔を蹴り胴を踏み四肢を踏み。とうとう動かなくなったのに、男は俯せにさせたソレの後頭部を踏んで、鼻や口から泡が出なくなるまで水に漬けていた。
そうして静かになった。悪夢から覚めるように。
「ビックリした」
男は溜息のように言った。烈しい運動の証拠に息を弾ませている。噛まれた腕からだらだら出血している。片足はまだ、人間の後頭部を踏んでいる。ソレの髪が海藻のように、水の中で広がっている。よくよく見れば、水底には大量のお金が敷き詰められていた。
「時々いるんだよね」
男はソレを見下ろして言う。
「こういう危ない人。なんか、アタマおかしくなっちゃったんだろうね」
理性が削げ、人格が崩壊し、欲望と衝動の無垢となった存在。アカネは推測する。あの人間は、お金に対する執着だけが残ったのではないか。だからお金を集めて貯めて――男とアカネを強盗とでも思いこんで攻撃性を露わにしたのか。
「っ……あの、ケガ」
現実感が急に戻ってくる。眼前で行われた凄惨な光景に吐き気が込み上げるも、アカネは男に声をかけた。その生々しい傷口に気が遠くなる。
「うん、ケガしちゃった。バンソーコー貼らないとな」
男はへらっと笑った。「絆創膏で済む怪我じゃないです」とアカネは顔をしかめた。そのまま急いで空間が目立つ商品棚へ視線を巡らせる――液体消毒剤。それを掴んで男に近寄り、震える手で消毒を施す。
「や、野犬とかじゃないんで、変な病気とかの心配は、ないとは思いますけど」
「キョーケンビョー?」
「そう、そういう……」
半ばパニックになっていて頓珍漢な問答をしてしまう。破れた肌と赤い流血。アカネは視界が眩みそうな心地がした。何か布はないかと考え、自分のシャツを咄嗟に脱ぐ。「とりあえずこれで血を拭いて」と男に押し付けた。
(止血、止血しないと……)
ワセリンを塗ってラップフィルムを巻けばいいとどこかで読んだことがある。結論から言うとラップフィルムは見つからなかったが、ワセリンについてはリップ保湿用の小さなチューブがあった。やむをえまい、とアカネはそれを手に取る。
「すごい、アカネいろいろ知ってるんだね」
男が血を拭きながらのんびりと言う。アカネはそれに何も返せないまま、痛々しい傷口に軟膏を塗って保護すると、男に渡していたシャツで腕を巻いてきつく縛った。
「ガーゼと包帯、家にありましたよね。戻って処置しましょう。……しばらくケガした腕は心臓より高い位置に。そこの……レジに座っていいんで、血が止まるまでじっとしてて下さい」
「はー、お医者さんみたい」
ようやっと男は『死体』から足を退けた。アカネは努めて死体が視界に入らないように――精神的な意味も含む――努めていた。
ゆっくり歩いた男がレジ台に「よいしょ」と腰を下ろす。アカネの言いつけ通り、傷口は心臓より高い位置に持ち上げていた。その傍にアカネは立ち――ようやっと、深く息を吐いた。
「あ、の、大丈夫ですか」
「痛いけどまあ大丈夫だよ」
もし噛まれたのが首筋で、ただならぬ大出血だったら――アカネはそんなことを想像し、一度目を固く閉じてグロテスクなビジョンを脳内から追い出そうとした。なのに連鎖反応のように、男に殺されるあの人間の、赤くなっていく肌色を思い出してしまう。死体。死体だ。そうして目をこじ開けて顔を上げれば、男と目が合った。
「アカネこそ大丈夫? 顔色悪いよ」
「……大丈夫です」
「隣、座りなよ。しんどそうだし」
少し男が位置をずらし、余白を示した。脳貧血を起こしかけているアカネはふらふらしながらそこに座って、項垂れた。
「ありがとうね、アカネ」
男がケガをしていない方の手で、アカネの頭を撫でた。青年は黙ってそれを受け入れていた。ついさっき、人間を殺した掌。親指はぬるぬるした血で染まっている。攻撃の間、男は表情一つ変えなかったし、唸り声も呻き声もなかった。ひたすらフラットに、淡々と、躊躇いなく、人間を殺していた。攻撃性だけは、不気味に高く。
「ねえこっち向いて」
さっきまで暴力をふるっていた掌はとても優しく、慈しみを以て、俯くアカネの顎に触れた。手の動きに促されるままアカネが男の方を見れば、彼はアカネの瞳を真っ直ぐに見据え、柔らかく微笑んだ。
「アカネ、君と僕は同じだよ」
――またその話。アカネは男の黒い瞳を眺めながら、譫言のように尋ねた。
「何が同じなんですか」
「人間を殺したことがある人間、なのが、同じ」
顔を寄せた男が囁く。まるで耳打ちで重大な秘密を共有し合う子供のように。
「一目で分かった。だって君はあの時、現在進行形で人を殺していたから。そりゃあ見れば分かるよ。やってたんだもん。キラキラして見えたんだ。嗚呼おんなじだ、って分かった。僕も殺したことがあるんだよ。知ってる? おんなじことって、嬉しいよね。僕は君、君は僕、分かち合えているんだよ。嬉しいね、アカネ」
血の付いた親指がアカネの唇をなぞる。口角に辿り着いた指は、青年を笑ませるように口の端を押し上げた。
「一緒だから安心する。同じだから。世界はそういう風にできてるんだ、少しずつだけどね。僕ら一つになるんだよ。ね、アカネ、だからなんにも、怖くなんかないでしょ。そんなに真っ青になって震えないで。心配するよ」
「同じ……」
「ひとりはイヤでしょ」
「……」
アカネは視線を惑わせた。それが雄弁な肯定だった。白昼夢の只中を揺蕩うような心地だった。
「ケガもそんな酷くないから。心配しないで。急に変な人が出てきたから、ビックリしちゃったんだよね。よしよし」
男は青年を愛玩する。青年はそれを受け入れる他にない。かつての倫理観からすれば酷く歪な人間関係だ。
店の片隅では死体が浅い水に横たわっている。窓の外は黄昏時だ。街灯がぽつぽつと灯り始める。
(ひとりは……)
アカネはぼうっとしたまま言葉を咀嚼する。
ひとりは嫌。――そうだ。その通りだ。世界がおかしくなって、そのことをおかしいと認識しているのは自分だけで、味方がいなくて。世界から切り離されたような心地。自分だけが宇宙人のような気持ち。孤独。孤絶。怖い。護ってくれるものが何もないのは、怖くて寂しくて悲しくてたまらない。
恐ろしいこと、嫌なこと、それらがひとつずつ消えていけばいいのに。永遠に麻薬のような白昼夢に浸っていたいと、ショックと恐怖に弱った心は軋んでいた。
男が背中をさすってくれる。アカネは俯いたまま、泣いた。そうして気付く。自分にも帰る場所が、居場所がある喜びを。だから泣きながら笑っていた。嗚咽のように笑い続けていた。脚からサンダルが滑り落ちて、血が途方もなく稀釈された水に、沈んだ。
それは、男がまだ自分のことを『エンドウ』という存在だと認識していた頃のお話。
安っぽいアパートの一室ではテレビが点けっぱなしで、いかにも疲れた男の一人暮らし然と、室内も散らかっていた。
冷房代節約の為に開けっ放しにした窓から、午後の生ぬるい風が吹いてくる。男はくたびれたマットレスに寝そべったまま、ぼんやりと青すぎる空を眺めていた。テレビからは漫然と素人カラオケが流れている。芸能人でもなんでもないただの一般人は、果たしてギャラを貰えているんだろうか――やたらめったら強調されるビブラートに、エンドウはそんな感想を抱いた。
はーー……長い溜息を吐く。目に馴染んだ天井を見上げている。ちょっと前からずうっと、こんな風に寝転んだまま天井を見上げている日々を送っている。
エンドウは実のところ、この世界が少しずつ変わってしまっていることを知っていた。世界が、人間が、何か、変わっている。ポロポロと抜け落ちていくような。サラサラと崩れていくような。漠然とした自意識だけれど、何か変動の渦中に現実が存在していることを、把握していた。
もうすぐ全てが変わるだろう。穏やかにして完全なる凪が目の前に迫っている。葛藤と苦痛と孤独の終焉。それは避けられぬものであり、拒むべきものではない。だから抵抗するつもりはなかった。疑問も抱かなかった。『なぜ』は意味を成さない。これは星が回り巡るような流転である。男は受け入れていた。他の人間のように。生まれ変わることを。南国のような温かさと安寧を。
テレビは無音のカラーバーに変わる。
人間が心の外側に纏うモノが一枚ずつ剥がれ落ちていく。そうして一枚ずつ剥いでいけば、最後に残るのは純粋な部分だ。本音の欲求、本当の願い、ありのままの姿。
ゆえに、男は思った。
「アイツ殺そう」
独り言。
立ち上がる。洗い物が放置された台所。ゴキブリ用のホウ酸が転がっている棚を開けて、包丁を掴んだ。サンダルを履いてドアを開けた。鍵もせずに歩き出した。
日の高い午後。じわじわと蝉が鳴き、アスファルトが太陽の熱を立ち上らせている。路上駐車された車にお日様が反射して、エンドウは目を細めた。帽子をかぶってきたらよかった、と焼かれていくうなじをさすった。
エンドウは貧しい男だった。生まれてこの方、「恵まれている」とか「上の暮らし」というものを体験したことがなかった。いつも下の人間だった。上の人間から安い金で使われるだけの存在だった。価値が極めて低い人間だった。いつだって手の中には何もない人間だった。
――ようく覚えている。
小学校、中学校で、ずっと同じクラスだった男。
そいつは生まれた時から金持ちで、生まれた時からなんだって持っていて、全てにおいて恵まれていた。この町の一等地にひときわ大きな家を構えている大金持ちの御曹司だった。
一度だけ、小学生の頃、あの男の家に招待されたことがある。あまりにも恵まれていて。あまりにも恵まれていて。あまりにも自分の世界と違って。こんなのずるい、と喉を掻きむしりたくなった。同じ人間なのに。どうして。自分には一生手に入らないものを見せびらかされているような気になった。「どうだいいだろう」と。馬鹿にされているような気がした。苦しくなって、耐え切れなくなって、「お腹が痛いから」と嘘をついて早々に男の家から飛び出して、みじめさに泣きながら走った記憶が未だに消えてくれない。
大きくなってから、そいつは働きすらもしていないことを聞いた。働かなくても金があるから、働く必要がないそうだ。だから道楽で起業をしたり、海外へ遊びに行ったり、金に寄ってきた女達を侍らせたり。およそ人間が味わう苦労というものを一切知らず、甘い蜜だけを啜って、幸せだけを酸素代わりに生きていた。
「ずるいよな。そんなのずるいよな。これからみんな一緒になるっていうのに、あんまりだよな」
エンドウはブツブツと繰り返した。
この世界の幸福の数は決まっていて。
誰かが幸福を浪費すると、その分、誰かが不幸になる。
そうなっているに違いない、とエンドウは信じていた。
インターホンを押した。「エンドウです、XXくんと同じ小学校だった」と声をかけた。男の母親が現れた。笑顔だった。その髪を掴んで、喉を一閃した。血がたくさん出た。構わず歩いて、「すいませーん」と声をかけた。何度かかけていると、居間から声がしたので、そこにいた男の父親を殴って、蹴って、殴って、蹴って、殴って、動かなくなるまで繰り返した。そうすると声をかけられたので、振り返ると『XXくん』がいた。エンドウは繰り返された殴打に負傷した手で、煌く包丁を握り締めた。人畜無害に笑ってみせた。
「僕、ずっと、君になりたかった」
胸の中に刃を差し込みながら、ゼロの距離でエンドウは男に言った。見開かれた眼をしげしげとまじまじと見つめて、エンドウはうっそりと目を細めた。
「君になっていいよね。全部ちょうだいよ、いいでしょ」
脱力していく男を壁際に押しやって、何度も、刺した。ああ、お腹に固いモノを刺し込む行為は、セックスみたいだなぁとボンヤリ考えた。オーガズムのことを「小さな死」と形容するらしいので、あながち間違いではないのかもしれない。片や命を作る行為、片や命を奪う行為。
――蝉の声と、息遣いだけになった。
エンドウは肩を弾ませながら、包丁が刺さったままの男を見下ろしていた。ずっと見下ろしていた。掌は刺突の時に刃へ滑って傷ができていた。
驚くほど罪悪感はなかった。「嗚呼」という感嘆だけが神秘体験のようにエンドウを包んでいた。
(確か、地下室があった)
エンドウは男とその両親を地下室に運び始める。一人ずつ、足首を掴んで、引きずった。死体はこんなにも重たいのか、と驚いた。階段は蹴っ飛ばして転がり落とした。その方が楽だからだ。
電気を点けた地下室は、子供の頃に垣間見たあの光景と同じだった。金持ちの証。恵まれた者の証。その部屋の片隅に死体を並べた頃には、エンドウの両腕には随分と疲労が溜まっていた。
それでも休まず、今度はエンドウは室内を物色し始めた。この家にある、この男達の記録に関するものだ。家が広いので苦労した。雑多に娯楽室にぶちまけていく。その頃には掌の傷の血も止まっていた。
そうして、エンドウは娯楽室を今一度見る。足元の床には血の跡。あちこちに記録。その奥に死体。ふっ、と笑った。
「じゃあな」
電気を消した。ドアを閉めた。さあ次は床の血を拭こう。それから金庫だ。金庫のナンバーは覚えている。覚えているとも。「ここだけの話ね……」といたずら小僧の顔で、男が教えてくれた番号。延々と忘れられなかった数字。もしも、もしも覚えていたら……そんな風にバカみたいな動機で記憶していた数字。
こうしてエンドウは金を手に入れた。エンドウが一生かかっても稼げないほどの金額を。
エンドウは鼻歌と共にバルコニーに立った。見下ろせば、手入れされた庭に赤いブーゲンビリアの花が咲いている。その赤色があまりにも鮮烈だった――赤色。赤色。エンドウは掌を見る。そこもまた赤色。空まで夕暮れで赤い色。フラッシュバックする血の色。赤い色。
「綺麗だ――ああ、綺麗だなぁ……」
エンドウは両腕を広げ、世界中の赤色を浴びた。
彼にとって、赤色は生まれ変わりの色。幸せが始まる色。吉兆の色。
これから世界は変わっていく。人間は変革していく。その流転の中で、エンドウはエンドウであることを忘れるだろう。エンドウはそのことを理解している。そしていつしか、エンドウであることを忘れた『男』は、自分こそがこの家の主であると認識するようになるのだろう。この家の主が誰だったかを示す証拠は地下室に封じた。法律や警察は既にほとんど機能していない。見つかることもあるまい。
さようならエンドウ。こんにちは裕福で恵まれた『XXくん』。
願い続ければ夢は叶うものだな、とエンドウは笑った。嫌なものを壊してしまえば、こんな気持ちも、楽になる。
「僕は幸せになるんだ」
全身真っ赤な色のエンドウは、幸せそうに嬉しそうにいつまでも笑っていた。
それからいくつもの常夏の日が過ぎて、エンドウは『男』になった。
エンドウという存在は誰からも忘れ去られ、『エンドウという存在』は永遠に死んだ。
残ったのは、散らかった邸宅と、赤色を幸せな者と結びつける、何もない男である。
今日も蝉が鳴いている。青い空。ブーゲンビリアの赤。
●
今日も蝉が鳴いている。
それは、青年の識別名称が『アカネ』ではなかった頃のお話。
この世界は変わりつつある。何か、おかしいことが起きつつある。青年は気付いた。青年は理解した。昨日と比べて今日が違う。その積み重ねが、大きな乖離を生みつつあることを。
人間が、隣人が、おかしくなっている。気力を失い、執着や欲望についてのエネルギーも失い、人間という社会が成立しなくなり始めている。染みついたルーティンを繰り返すのみ、あるいは自らの根本的欲求に従った衝動的動作――専ら犯罪行為――社会はどんどん機能不全に陥っていく。文明が少しずつ終わり始めている。同時に気温も上昇し、それに伴う環境変化や災害が起きているというのに。
――このままだと、人類は滅んでしまう。
青年は危惧した。周りの皆のために、現状をどうにかせねばと危機感に駆られた。
青年の周りには、彼と志を同じくした者達がいた。
誰もが「こんなことはおかしい」と、心から思っていた。
青年達は必死に活動した。
狂っていく人類に、今起きていることを自覚させんと努力した。このままではいけないと。対策が必要だと。
結果は――何も変わらなかった。
誰も彼らの言葉を真摯に受け止めることはしなかった。水面に剣を突き立てるようなものだった。
ただ、おかしな連中を見るような怪訝な眼差しだけが、返ってきた。
そうして無為に時間ばかりが流れていき。
一人、また一人、活動家達も『発症』していく。
それでも青年は訴え続けた。
気付けば青年は一人になっていた。
たった一人の人間が、何を喚こうが意味はなく。
この世界はおかしい、と訴える青年は、精神異常者と断定された。
全ては青年の妄想なのだ、という結論だった。
世界が狂っていく。周りがおかしくなっていく。正気であるのは自分だけなのかという恐怖と――
この世界はもう正せないのだという不条理な真実と――
自分もいつか発症するのではないかという不安と――
収容された病棟にて、『おかしくなった』医者達から繰り返された出鱈目な投薬で――
青年は壊れた。
「どうして、どうして」
白い天井、白いカーテン、白いベッド。虚ろにもたげた腕にはたくさんの針と管が刺さっている。
ずっと病室に閉じ込められ、長らく日を浴びていない肌は白く血の気が失せた。
電気が点いていない病室。仄かな暗さの中、伸ばされた手は何もつかめなかった。
意識もやがて、薬でどろどろと溶けていく。起きているのか眠っているのか夢なのか、境界線が混ざっていく。
この世界はおかしい。
それだけがずっと心にあった。
こんなのはもう嫌だ。嫌だ。助けて。いいや。助けはこない。誰も助けてはくれない。声は誰にも届かない。
ああずっと大学に行けていないな出席日数大丈夫かな、と遠く場違いなことを考えた。
正気が削げれば曇りと建前のない部分だけが丸裸になる。
その果てに、青年は――走り出していた。
どうやって? 思い出せない。その行為が夢だったのか、現実だったのか。ただただ、また病室に抑え込む白衣らの腕が怖くて、恐ろしかった。逃げなくてはならない。もう注射も薬も嫌だ。どろどろと蕩けていく視界の中、鮮烈な明るさを誇る世界を、青空の下を、青年は走っていた。
正気を失った人間と、いくつか通り過ぎた。
ああ。この世界は、もう。
青年は叫んでいた。泣きながら叫んでいた。可哀想な迷子のように。これが夢ならどうか覚めて、と悪夢の中の被害者のように。
そうして気付けば、赤い花が咲き誇る空き地にいた。うずくまって泣き続ける青年に、声をかける者がいた。青年は振り返り――目を見開いた。白い服を着た、人間、近寄ってくるその存在に、青年の中の疑心暗鬼と恐怖と狂気が噴出した。
「大丈夫?」
ただの通りすがり。白い服の人間は気遣いからそう言ったのだが、その声は青年に届くことはなく。青年の悪夢という世界の中で、白い服のその者は医者と認識されていた。
だから、掴みかかられ殴られたその者は悲鳴をあげた。逃げようとするがそのまま――もんどりうってもつれあって――二人は赤い花の中に倒れる。
「ううううああああああああああ!!」
青年は恐怖のまま泣きわめきつつ、馬乗りになった白い服の者に対し、レンガの欠片を振り上げた。
がつ。ごつ。ぐちゅ。鼻がひしゃげる。目玉が潰れる。唇が割れる。歯が折れる。顔が凹んでいく。赤い色。赤い色。赤い色。赤い色。赤い色――。
――蝉の声と、息遣いだけになった。
青年は肩を弾ませながら、顔がザクロのように割れた人間を見下ろしていた。ずっと見下ろしていた。掌はレンガ片が擦れて傷ができていた。脚にも、花の棘による切り傷がたくさんできていた。
血の付いた凶器が落ちる。たくさんの目が青年を見ているように彼は感じた。批難、侮蔑、嘲笑、監視。吐き気がするほど罪悪感が込み上げて、心がぶちぶちと裂けて、視界がぐるぐるに混ざって、そうして回るように途絶えた。自己防衛なのか、自傷なのか、もう区別もつかない。赤色。花の色。血の色。それが青年の世界を飲み込んで、圧倒していく。青年は頭を抱えて泣き始めた。恐怖と不安がいっぱいにつまった、混乱の嗚咽だった。
最中だった。眼差しを感じて、顔を上げれば――すぐ近くの邸宅、そのバルコニーから、一人の男が青年を見下ろしていたのだ。
見られた。
殺さねば。
即座にそう思い至った自らの狂気に、青年はゾッとした。一方で男は優しく微笑んで、妙にかざしたままだった手をゆっくりと振ってきたのだ。
「うちに上がりなよ」
助けてくれるのだろうか。
助けてくれるのならば、もう誰でもよかった。
青年は不安に疲れ果てた頭の中で、ボンヤリと思った。バルコニーから建物の中へ姿を消した男に、青年は小さく小さく呟いた。
「たすけて」
今日も蝉が鳴いている。青い空。ブーゲンビリアの赤。
●
散歩に行こうよと男が言う。
日中は暑いから夕方にしませんかと青年が言う。
――蝉の声。午睡から目覚めたアカネは、ボンヤリと天井を見上げていた。
カレンダーはなく、テレビは何も映らない世界で、どれだけの日数が経ったのかは分からない。時の経過を示すのは、この邸宅から減っていくゴミの数だけだ。
アクビをしながらアカネはゆっくり上体を起こした。ゴミの中から発掘して設置したサイドテーブルには、これまたゴミの中から発掘した高級そうな花瓶が飾られてあり、庭から切ってきたブーゲンビリアの枝が活けられていた。
しばしボンヤリと、アカネはブーゲンビリアの鮮やかな赤色を眺める。それから、いつも開けっ放しの窓を見る。蚊がいなくなったらしい世界は思いの他、人間には快適だった。尤もどこかで致命的な生態系のバグが起きているだろうが――どのみち人類に助かる道はない。
(あんなに、躍起になってたのにな)
昔のことを夢で見た気がする。アカネは赤色に染められた髪の頭をぼりぼりと掻いた。人類が滅ぶことを恐れて、終末が怖くて、たった一人になっても声を張り上げ続けていたのに。アカネの心は凪いでいた。慣れて麻痺してしまった、のかもしれない。
一つ息を吐いて、そろそろ意識もしっかりしてきたので、隣で眠る男を見下ろした。アカネに対し背を向けた姿勢で、片腕が少々ベッドからはみ出てしまっている。
「――」
エンドウさん、と呼びかけて、その言葉は飲み込んで、アカネは彼の肩をそっと揺すった。
「夕方になりましたよ」
「んー……」
明らかに眠そうな声。「行かないんですか、散歩」ともう一度呼びかければ、寝返りを打つ男がアカネを見上げた。声の通りに眠そうな顔だった。こういう時ぐらいしか男は眉間にシワを寄せない。少なくとも3人の人間を殺した殺人犯、というには凶悪さが足りないが。
「ちょっと食糧とか日用品の調達もしたいんで。どうします、眠たいなら俺一人で行きますけど」
「行く」
一人で、というワードが聞こえるや否や男は上体を起こした。あんなに眠そうにしていたのにもう覚醒している。
「ひとりは危ないからね」
遠い所に目の焦点を当てたまま男はそう言って、ベッドから下りた。
アカネはその背中を見ながら、ふと尋ねてみる。
「俺がいなくなるのは、嫌ですか?」
まるでアカネが手元から離れることを極端に忌避しているように見えたのだ。男はのっぺりと佇んだまま、しばしの沈黙を留まらせる。彼の背中を夕焼けが近い黄色の光が照らしている。
「どうしてそんなこと言うの」
「え」
「どうしてそんなこと言うの? 試すようなこと嫌だよ。いなくなるとかそういう悲しいこと考えさせないで頭痛くなるから」
のっぺらぼうの背中を向けたまま、男が抑揚なく言う。
全てを手に入れ、そして何もない男にとって、執着の焦点はアカネだった。かつてあった心の外側が全て剥がれ落ち、深淵なるイドの権化となった今、そこに自我の調整も超自我の統制もない。
同時に――対峙するアカネは、生々しすぎるその感情にいっそ人間性を感じ取ることができず、一瞬だけ圧倒のままに押し黙ってしまった。血の気が引いたのは男の気分を損ねてしまったからではない、目の前の存在があまりにも得体が知れないと感じたからだ。
「……ごめんなさい、もう言いません」
どうにか気まずい間を作らずに絞り出した、謝罪の言葉。
すると男が緩やかに振り返る。その顔はいつもの、無害そうな小市民の微笑みだった。
「いいよ、怒ってなんかないよ」
そう言って、男はアカネの手を引いた。ベッドから降りる形になったアカネをそのまま両腕で抱きしめた。その行為はプラトニックで親愛的・友愛的ではあるのだが、どこかぬいぐるみを抱きしめるような気配も滲んでいた。
いっそ向けられている感情が性愛であれば、理性と常識の下にラベリングできて整理と納得ができたのか。無惨に強姦でもされればいっそ理性が勝るのか。アカネは肌越しに男の心臓の動きを感じながら物思う。後頭部を男に撫でられて、顔が彼の肩口に沈んだ。風呂をすっぽかしがちだった男に、毎日体の衛生を保つよう指示したはアカネだ。おかげで嫌なにおいもなかった。清潔なにおいがした。それから温かい人間の温度だ。
抱きしめ返すべきかアカネは逡巡した果てに、ポンポンと二度だけ男の背中を柔らかく叩くことにした。
「うん。……それじゃあ、お出かけしよっか」
アカネをまるで未練なく離した男は嬉しそうにそう言って、「カバン取ってくる」とお気楽に足音を立てて支度に向かった。寝室に、遠くから聞こえるヒグラシの声が響いた。
アカネは少しだけ立ち尽くし……部屋にいない男に「うん」と返事をして、歩き出す。
夕刻、境界のひととき、 茜空を映す水辺を歩いていく。アスファルトの上。足音は二人だけ。水面がキラキラしている。温い空気と冷たい水。歩くと汗が浮かんで、服の下、窪んだ胸の真ん中を伝っていった。誰ともすれ違うことはなかった。
「白線の上だけをさぁ」
水に沈んだアスファルトに視線を落とし、男が言う。
「歩く遊び、あったよね」
「あー。なんか、ありましたねそういうの」
まさか「やってみようよ」と言う気なのか、とアカネは少し前を歩く男を見た。男はじゃぶじゃぶと水の中の白線を踏みつつ、言葉を続けた。
「今だとさ、やろうと思えば水に浮けちゃうから、いくらでもズルできちゃうね」
「あはは……確かに。……そういえば久しく泳いでないな……」
「泳ぐ?」
「いやー……今はいいです。水着もないし」
それにこの水がどれだけ清潔かも分からない。医療機関も機能していない現状、腹を下すのはごめんだとアカネは内心で首を横に振っていた。同時に――
(そうか、病院が機能してないから……今までだったら普通に治ってたような病気とか怪我で、死ぬかもしれないんだ)
社会と文明を失った人間の脆さを思い知る。今でこそ自動発電によって電気を使えているが、それがいつ使用不能になるかも分からない。水だってそうだ。いつ清潔な水が使えなくなるか分からない。原始のような時代の暮らしを今更できるはずがない。未来はほとほと暗かった。
(……前みたいに絶望しないな)
どんどん掠れていく過去のこと。アカネは漫然と目を細める。あんなに終末と死が怖かったのが嘘のようだ。そうしてはたと気付く。
――そうか、これが、生存への気力消滅。
けれど恐ろしいものが減っていくことは、幸福なのかもしれない。
恐怖と不安で圧し潰されながら死んでいくより、何もかも分からなくなって曖昧模糊のまま果てる方が幸せなのかもしれない。
この現象は、知恵をつけすぎて情動が発達しすぎた人間の、とある安楽死なのかもしれない。
「アカネ、こっちおいでー」
男の声がして、アカネはボンヤリとしていた意識を現実に戻す。見やれば、足首ぐらいまで浸水したコンビニの駐車場で、男がアカネに手を振っていた。青年は「はーい」と返事をして、水を蹴る足音で近付いていく。
コンビニは駐車場と同じぐらいの浸水具合だった。電気は点けっぱなしで、レジには誰もいない。商品棚はスカスカだった。電気のお陰で煌々と明るいのが、いっそ不自然だった。ガラス戸は開いたままになっている。例によって無人だ。
……いや。
何か音が聞こえる。商品棚の向こう、空間の隅に。わずかな水の音と息遣い。
何かいる。
息をのんでためらうアカネに対し、男の方は全く動じることはなかった。ざぶざぶと歩いて音の出所を覗きに行く。「ちょっと」とアカネが男に呼びかけたのと――店の奥から、奇声を発する人間がいきなり立ち上がったのは、同時だった。
滅茶苦茶な金切り声は、何かしらの所有権が自らにあることを激憤のままに主張していた。服すら着ていない肌色の生身は、人間のカタチこそしているが、中身はもう人間ではなくなっていた。狂気のまま男に掴みかかる。
「あ、」
危ない、とアカネが言う頃には、男が防御に構えた腕に人間が噛み付いていた。次の瞬間には、男は親指で相手の目玉をまるで躊躇なく突いていた。
ぎゃあ。叫び声と共にソレが男から離れる。いたいいたいいたい。言葉が張り上げられる。途端、男は商品棚の酒瓶を手に取ると、目を両手で抑える無防備なソレに振り下ろした。鈍い音が響く。何度も振り下ろす。仕舞には瓶が割れる。鋭利な凶器となったそれを、男は構わず振り下ろし続ける。
悲鳴はやがて泣き声に、遂には「ゆるして」と乞い始めた。男は無言でソレの生身の横腹を蹴り上げ、仰向けにさせ、柔らかく痩せた腹の真ん中に、割れた瓶を思い切り突き刺した。瓶口が天を向く。それを上から強く踏んで、更に腹へめり込ませた。ソレが喚きもがき、浸水した水がばしゃばしゃと音を立て、血が広がっていく。
アカネは呆然と見ていた。戦意喪失したソレへ、男は執拗に執拗に攻撃を続ける。顔を蹴り胴を踏み四肢を踏み。とうとう動かなくなったのに、男は俯せにさせたソレの後頭部を踏んで、鼻や口から泡が出なくなるまで水に漬けていた。
そうして静かになった。悪夢から覚めるように。
「ビックリした」
男は溜息のように言った。烈しい運動の証拠に息を弾ませている。噛まれた腕からだらだら出血している。片足はまだ、人間の後頭部を踏んでいる。ソレの髪が海藻のように、水の中で広がっている。よくよく見れば、水底には大量のお金が敷き詰められていた。
「時々いるんだよね」
男はソレを見下ろして言う。
「こういう危ない人。なんか、アタマおかしくなっちゃったんだろうね」
理性が削げ、人格が崩壊し、欲望と衝動の無垢となった存在。アカネは推測する。あの人間は、お金に対する執着だけが残ったのではないか。だからお金を集めて貯めて――男とアカネを強盗とでも思いこんで攻撃性を露わにしたのか。
「っ……あの、ケガ」
現実感が急に戻ってくる。眼前で行われた凄惨な光景に吐き気が込み上げるも、アカネは男に声をかけた。その生々しい傷口に気が遠くなる。
「うん、ケガしちゃった。バンソーコー貼らないとな」
男はへらっと笑った。「絆創膏で済む怪我じゃないです」とアカネは顔をしかめた。そのまま急いで空間が目立つ商品棚へ視線を巡らせる――液体消毒剤。それを掴んで男に近寄り、震える手で消毒を施す。
「や、野犬とかじゃないんで、変な病気とかの心配は、ないとは思いますけど」
「キョーケンビョー?」
「そう、そういう……」
半ばパニックになっていて頓珍漢な問答をしてしまう。破れた肌と赤い流血。アカネは視界が眩みそうな心地がした。何か布はないかと考え、自分のシャツを咄嗟に脱ぐ。「とりあえずこれで血を拭いて」と男に押し付けた。
(止血、止血しないと……)
ワセリンを塗ってラップフィルムを巻けばいいとどこかで読んだことがある。結論から言うとラップフィルムは見つからなかったが、ワセリンについてはリップ保湿用の小さなチューブがあった。やむをえまい、とアカネはそれを手に取る。
「すごい、アカネいろいろ知ってるんだね」
男が血を拭きながらのんびりと言う。アカネはそれに何も返せないまま、痛々しい傷口に軟膏を塗って保護すると、男に渡していたシャツで腕を巻いてきつく縛った。
「ガーゼと包帯、家にありましたよね。戻って処置しましょう。……しばらくケガした腕は心臓より高い位置に。そこの……レジに座っていいんで、血が止まるまでじっとしてて下さい」
「はー、お医者さんみたい」
ようやっと男は『死体』から足を退けた。アカネは努めて死体が視界に入らないように――精神的な意味も含む――努めていた。
ゆっくり歩いた男がレジ台に「よいしょ」と腰を下ろす。アカネの言いつけ通り、傷口は心臓より高い位置に持ち上げていた。その傍にアカネは立ち――ようやっと、深く息を吐いた。
「あ、の、大丈夫ですか」
「痛いけどまあ大丈夫だよ」
もし噛まれたのが首筋で、ただならぬ大出血だったら――アカネはそんなことを想像し、一度目を固く閉じてグロテスクなビジョンを脳内から追い出そうとした。なのに連鎖反応のように、男に殺されるあの人間の、赤くなっていく肌色を思い出してしまう。死体。死体だ。そうして目をこじ開けて顔を上げれば、男と目が合った。
「アカネこそ大丈夫? 顔色悪いよ」
「……大丈夫です」
「隣、座りなよ。しんどそうだし」
少し男が位置をずらし、余白を示した。脳貧血を起こしかけているアカネはふらふらしながらそこに座って、項垂れた。
「ありがとうね、アカネ」
男がケガをしていない方の手で、アカネの頭を撫でた。青年は黙ってそれを受け入れていた。ついさっき、人間を殺した掌。親指はぬるぬるした血で染まっている。攻撃の間、男は表情一つ変えなかったし、唸り声も呻き声もなかった。ひたすらフラットに、淡々と、躊躇いなく、人間を殺していた。攻撃性だけは、不気味に高く。
「ねえこっち向いて」
さっきまで暴力をふるっていた掌はとても優しく、慈しみを以て、俯くアカネの顎に触れた。手の動きに促されるままアカネが男の方を見れば、彼はアカネの瞳を真っ直ぐに見据え、柔らかく微笑んだ。
「アカネ、君と僕は同じだよ」
――またその話。アカネは男の黒い瞳を眺めながら、譫言のように尋ねた。
「何が同じなんですか」
「人間を殺したことがある人間、なのが、同じ」
顔を寄せた男が囁く。まるで耳打ちで重大な秘密を共有し合う子供のように。
「一目で分かった。だって君はあの時、現在進行形で人を殺していたから。そりゃあ見れば分かるよ。やってたんだもん。キラキラして見えたんだ。嗚呼おんなじだ、って分かった。僕も殺したことがあるんだよ。知ってる? おんなじことって、嬉しいよね。僕は君、君は僕、分かち合えているんだよ。嬉しいね、アカネ」
血の付いた親指がアカネの唇をなぞる。口角に辿り着いた指は、青年を笑ませるように口の端を押し上げた。
「一緒だから安心する。同じだから。世界はそういう風にできてるんだ、少しずつだけどね。僕ら一つになるんだよ。ね、アカネ、だからなんにも、怖くなんかないでしょ。そんなに真っ青になって震えないで。心配するよ」
「同じ……」
「ひとりはイヤでしょ」
「……」
アカネは視線を惑わせた。それが雄弁な肯定だった。白昼夢の只中を揺蕩うような心地だった。
「ケガもそんな酷くないから。心配しないで。急に変な人が出てきたから、ビックリしちゃったんだよね。よしよし」
男は青年を愛玩する。青年はそれを受け入れる他にない。かつての倫理観からすれば酷く歪な人間関係だ。
店の片隅では死体が浅い水に横たわっている。窓の外は黄昏時だ。街灯がぽつぽつと灯り始める。
(ひとりは……)
アカネはぼうっとしたまま言葉を咀嚼する。
ひとりは嫌。――そうだ。その通りだ。世界がおかしくなって、そのことをおかしいと認識しているのは自分だけで、味方がいなくて。世界から切り離されたような心地。自分だけが宇宙人のような気持ち。孤独。孤絶。怖い。護ってくれるものが何もないのは、怖くて寂しくて悲しくてたまらない。
恐ろしいこと、嫌なこと、それらがひとつずつ消えていけばいいのに。永遠に麻薬のような白昼夢に浸っていたいと、ショックと恐怖に弱った心は軋んでいた。
男が背中をさすってくれる。アカネは俯いたまま、泣いた。そうして気付く。自分にも帰る場所が、居場所がある喜びを。だから泣きながら笑っていた。嗚咽のように笑い続けていた。脚からサンダルが滑り落ちて、血が途方もなく稀釈された水に、沈んだ。