●3:ブーゲンビリアの蜘蛛の糸

 人間の呻く声で、男は緩やかに目を覚ました。
 蝉の声と、清潔なカーテンと、薄暗い天井と、首を傾ければ青すぎる空。声の出所まで首を回せば、男に対し背を向け眠っているアカネの後頭部。赤く染められた髪。
「アカネ、また悪い夢を見ているの」
 寝起きの声で呼びかける。返事はなく、アカネが目覚めることもなかった。上体を起こせば申し訳程度に体に引っかかっていたタオルケットが滑り落ちる。覗き込んだ青年は脂汗を滲ませて、眉間にしわを寄せて、苦しそうにうなされていた。
 アカネはよくうなされている。男は首を傾げて見守りながら、心にそんな感想を抱く。
 そして男は先日の、赤々と燃え盛る病院のことを思い出していた。赤い炎に照らされた、アカネの表情。こちらを見上げて笑った顔。踊る炎の中の白い建物。焦げて黒く夜に塗り潰されていく人工物。
(アカネの嫌いなものを壊してあげたのにな)
 何がアカネをこれ以上に苦しめているのだろうか。男は窓からの景色を見た。ブーゲンビリアの花が今日も綺麗に咲いている。ひとけのないアスファルトの道。
 アカネが恐れ怯える病院がなくなれば、青年は幸せな日々を送れるものだと男は考えていた。あの時のアカネの表情を見て、彼はもう大丈夫なんだと思った。けれど現実はそうはならなかった。
(何がまだ、アカネの心を縫い留める?)
 空はこんなに青く、天気もいいのに。男は青年の苦しそうな声を聴きながら、ぼーっと窓に四角く切り取られた空を眺めていた。
 ――アカネが飛び起きたのは、それから間もなくだった。青年は叫んで、目を見開いて、恐慌していて、泣いていた。
「死体が、死体が!」
 パニック状態のまま、アカネは男の手首を掴んだ。男が想像した以上の力で引っ張って、転がるようにベッドから出て、まだ片付けが終わっていない廊下をよろめきながら進んで、玄関のドアを開けて――眩しい眩しい常夏の日差し――青年が喉をひゅうひゅうさせて男を連れて来た先は、あのブーゲンビリアの空き地だった。
「俺は人を殺してしまったんだ! どうしよう、どうしよう、死体が」
 男の手首を血が止まるぐらい握りながら、顔を赤くして泣くアカネは、ブーゲンビリアが生い茂るだけの場所を指さした。
「死体が……」
「死体なんてないじゃない」
 男は手首の痛みを感じながら、アカネが指さしている場所を見下ろしている。赤くて鮮やかな花だけが、棘を隠した緑の中で、たわわに咲いている。
 だが今のアカネには、その房状にこんもりとした赤色が、顔を幾度も殴打されて割れ裂けた人間の顔のように見えていた。花――正しくは花ではなく苞であるのだが――の中にポツポツとある、白い、本当のブーゲンビリアの花が、折れた歯のようにも見えたのだ。
「夢だよ」
 俯いて呆然としているアカネに、男は語りかける。
「全部夢だよ」
 もう一度言うと、アカネはようやっと男の手首を掴んでいた手を離し、そうして自らの両手をわなわなと見下ろした。擦り傷は大分と治ってきていて、かさぶたがとれたばかりのピンク色の肌が疎らにあった。
 そのままアカネは顔を両手で覆って、膝を突いて、泣き崩れてしまう。男は掴まれていた手首を擦りながら、青年を見下ろしていた。
 男には、アカネの心から消えない『罪悪感』が理解できないままでいる。
 まだ壊れ切ってしまえない青年は、どれだけ罪悪感を捨てて狂ってしまおうと足掻いても、従来の倫理観を馬鹿にしても、残酷で虚しいほどに『正気』だった。だから狂人の真似をしてみたところで、見ないふりをした心の裏側がザラついて、膿んでしまう。捨てられない。人間だった部分が、まだ。
 正気と狂気の狭間。夢と現実と妄想の境界。あちらこちらへ引っ張りだこになって、青年の精神は軋み、歪み、罅が入り、時には千切れる。
「怖い……怖い……」
「何が怖いの?」
 アカネの横にしゃがみこんで、男は問いかけた。小さな子供にするように、その頭の上に掌を置きながら。体ばかり大きい青年は嗚咽の合間に「分からない」と声を潤ませた。むずかる幼児のようだと、男はますます感じた。そうして彼がまた自らの顔や首を引っ掻いて自傷しないように、その両手を両手で握って包む。顔を覆うものがなくなったアカネの顔が、温かい午前の日差しに晒される。アカネの目に映るのは、荒れた邸宅を背景にした男の微笑だ。
「アカネはなんにも悪くないよ。だからさ、朝ごはん食べよ」
 優しい声と、窓を反射する太陽の眩しさで、アカネは視線を下に落とした。その仕草は、頷きのようにも見えた。

 ●

 男から見て――
 アカネは良くうなされているし、時折発作のようにパニックを起こすし、全然眠れないようにしている時もあれば、死体のように延々とベッドから起き上がらない時もあるし、元気溌溂と掃除をがんばる時もあるし、食欲が極端にない日もあれば、異様に食べる日もあった。――失われた『世間』が言うところの情緒不安定、睡眠障害、躁鬱状態なのであるが、男にとっては「コロコロ変わっておもしろい子だな」であった。
「アカネが来てから、毎日が楽しいよ」
 あれから何日かが経過していた。今日のアカネは『元気でアクティブ』な日のようで、そこかしこのゴミを袋に詰めては、せっせと外に運び出している。男もそれを手伝っていた。昼間に動き回ると暑くて汗が出てくる。
「……俺と会うまでは、何を?」
 出会った時よりも日に焼けた肌。最初の頃、アカネは日光にずっと浴びてこなかったような病的な肌をしていたが、ここのところは健康的だ。タンクトップ姿で額に汗を浮かべた青年が顔を上げる。手元にはゴミが詰められつつある袋が大きな口を開けていた。
「僕の昔の話を聞きたいってこと?」
 男はアカネがゴミを詰め終わるのを待ちながらそう言った。「覚えてなかったら別にいいので」と作業に戻る青年を見つめ――「うん」と男は頷いて。
「覚えてるよ。僕はね、最初から『全部』を持ってた人間で。この大きな家と、父親と母親とたくさんのお金ね。働かなくてもいいよって、ずっとそう言われてきたから、好きに自由にやってたんだ。なんだって許されてた。……けっこーイイでしょ?」
 すらすらと男が答えたのを――アカネは意外に思ったようだ。下ろした顔をもう一度上げて、目を丸くしていた。
「へえ……そりゃすごいですね」
 アカネのその言葉は、男が金持ちで何一つ不自由のない生活をしていたことよりも、男が過去のことをつっかえずに話したことに関心と感心があった。まさか覚えているとは、と言外に言っている。尤も、男はそんなアカネの言葉以外の意図を察することはできずにいて、アカネに「すごいですね」と言われたので、気をよくしてフフンと笑った。
「まあ、お金はほぼ要らなくなったんだけどね。受け取る人がほとんどいなくなったから」
 くあ、とアクビをしながら男は言った。アカネは作業を再開しながら、男との会話を続ける。
「なんでもあって、何をしてもいいって、どんな感じなんですか」
「んー……楽しかったよ」
「具体的には何してたんですか? 海外行ったりとか、起業とかそういう?」
「そういう」
「へえー……」
 想像もつかないや、とアカネはゴミ袋の口を縛った。それを少し離れた場所に腕を伸ばして置くので、男はそれを掴んで持ち上げる。他にも運び待ちのゴミを腕の筋肉のキャパシティ以内で持ち上げた。
「じゃあこれ、持ってくね」
「お願いします」
「任せて」
 アカネに笑みかけ、男は歩き出す。随分と家の中が綺麗になったなぁと考えていた。アカネがいる部屋から掃除機の音が聞こえ始める――ゴミを片付け片付けしていると遂に発掘できた、文明の利器だ。お陰で床がじゃりじゃりするところがほとんどなくなった。
 男はなめらかな床の心地を足の裏で感じている。かつてここはどんな姿をしていたっけ、と目を細めた。よく分からないので、そのまま深く考えずに、玄関でサンダルをつっかけてドアを開けた。

 今日もいい天気だ。例に漏れず綺麗にされたバルコニーには布団と枕と洗濯物が干してある。じわじわ蝉が鳴いている。ぺたぺたとサンダルの足音がアスファルトに響いていく。道路にはみ出た、あるいは割れ目や隙間から生えてきた緑が色鮮やかだ。男はそんな世界を歩いて、ほどなくの場所にゴミを置いた。午前からの『がんばり』が積み上がっている。明日か明後日にでも来るゴミ収集車に回収されていくことだろう。
「あつ……」
 強い日差しに目を細め、男は額の汗を手の甲で拭った。そうして、また邸宅へを歩き出すのだ。蝉の声以外はシンとしたものだ。隣の家も、向かいの家も、軒並み人の気配はしなかった。

 ――……一日、また一日。

 過ぎていく度、広すぎる家に溜め込まれたゴミが熱された道路に追い出されていく。
 トイレ、浴室、キッチン、寝室、居間、廊下。使うところから順番に、人間らしい生活の姿となっていく。
 アカネにとっては気の遠くなるような長丁場の作業だった。そしてまだ完遂していない。だけどアカネにとって、この終わりつつある世界で『やることがある』のは心の支えになっていた。いっそ衝動的に狂気に身を委ねようとしても、やはりアカネはアカネの普通を無意識レベルで捨てきれずにいた。
(この家、地下室まであるのか……でけえな)
 掃除が進めば必然的に行動範囲も広がっていく。ゴミで阻まれ立ち入れなかった場所や、見えなかったものが見えてくる。その中でアカネが見つけたのは、一階から地下へと続く階段だった。
(地下室って、何するんだろ)
 アカネが思い描くのは、ワインセラーとか、書斎とか、そういう大人向けの趣味の空間だった。もしくは核シェルターだったりして、なんて想像する。
(待てよ、もしシェルターだったら保存食とかがあるかも……)
 暗い廊下。ゴミの向こうの階段を見て、それからアカネは辺りを見渡した。男は今、寝室で昼寝をしている。なので「地下に何があるんですか」という質問は、今はできない。小さな質問のためだけに叩き起こすのも悪い。そもそも「忘れた」「覚えてない」など答えかねない。
 というわけで、アカネは雑多なあれこれを踏み越え掻き分けながら、下へと続く階段を目指した。一段、一段、降りるごとに暗くなる。暗さが催す不安よりも、埃っぽさの方がアカネの不快感を刺激した。
 階段の一番下は扉だった。埃が積もったドアノブを、アカネは辟易しながらも意を決して掴んで、捻った。鍵はかかっておらず、ゴミに阻まれることもなく、呆気なく開いた。
 ただ、地下室なので真っ暗闇である。何も見えない。アカネは手探りで壁を探った。彼はこの家の電気や水が活きていることを知っている。
 明かりが点いたのはほどなくだった。ぱっ、と突然照らされたので、アカネは眩しさにちょっと目をつむった。明るさにはすぐ慣れた。そもそもがムーディで控えめな照明だったのだ。
 照らされたそこは――娯楽室だろうか。質のいいソファ、壁掛けの大画面テレビと立派なスピーカー、テーブルには小洒落たチェスボード、奥には小さなカウンターとワインセラー。……物がなんやかんやと散らかっていなければ、理想的な空間だったろう。
(……ヘンなの)
 妙だな、とアカネは感じた。この部屋は散らかっていると言えば散らかっているのだが、他の場所に比べればマシなのだ。まあ地下室ゆえにあんまり足を運ばなかっただけなのかも、と適当に理由を考える。
 さて何かないものか。酒はここから見えるけども、とアカネは歩き出し、辺りを探り――
 ――見つけてしまう。部屋の隅の、白骨死体。
「ッ 、」
 息と鼓動がグッと止まった。世界がぐわんと揺れたような気がした。胃の辺りがぐるぐるした。思わず半歩、よろめくように後ずさる。反射的に振り返っていた。扉は閉まっている。
(死体――……)
 はあ。はあ。アカネの体に彼自身の呼吸が響く。おそるおそる、物言わぬ骨に近付いた。悍ましさを飲み込んで覗き込んだ。服を着た骸。三人分。男二人と女一人? 質のいい服のように見える。そしてその服は……赤黒い染みで汚れていた。良く見たら床にも。引きずったような跡。それが何なのか、考えなくても分かった。
「う」
 ショックで視界が眩む。アカネは腕で口を抑え、視線を逸らした。
 ドクドクと心臓が震えている。血の気が引いていく心地のまま後ずさる。視線を下に落としていれば、アカネは自ずと気付いてしまった。この娯楽室に散らばっているのは、写真とか、アルバムとか、携帯とか、パソコンとか、手紙とか、日記や手帳とか、そういった個人を特定できるアイテムばかりであることに。
 額入りの写真の中では『三人』の人間が寄り添って微笑んでいる。質のいい服を着た若い男、老いた男と女。家族写真であることは明らかだ。夫婦とその息子。アカネは震える手で写真を拾い上げた。瞬きを忘れて、写真を凝視した。
「……アイツじゃない」
 写真の中で笑顔を浮かべる若い男は――見慣れた『あの男』ではなかった。
「嘘だろ、嘘だろじゃあアイツは」
 ゾッとしたものを覚えて、アカネは辺りの写真を片っ端から拾い上げて注視する。これも違う。それも違う。アイツがいない。これにもいない、どこにもいない、どの写真にも写っていない。どこにも、いない。
 ばらばらとアルバムをめくる。手汗が滲む。この家に住んでいるのは三人。富豪の男とその妻と息子。いかにも金持ちらしい豪華なバカンスの記録。愛されて育った息子の成長記録。やはり『あの男』はいない。では次のアルバムはどうか、とアカネは遮二無二手を伸ばした。掴んだのは、中学校の卒業アルバムだった。あの若い男の子供の頃の記録と思われる。
 気付けばアカネは、それを一ページ一ページめくっていた。探していた。どこかにいないかと、あの人畜無害そうに見える小市民の造形を。
 そうして。
 そうして。
 遂にアカネは『あの男』を見付けたのだ。『若い男』と同じクラスだった。小学校の卒業アルバムにもいた。子供時代の写真だけれど、面影を見間違う筈はなかった。
「――……」
 白骨が眠る部屋。アカネは天井を仰いだ。
 ここは墓場だ。かつてここの家に住んでいた者達の。誰かがここに、死体と『記録』を廃棄したんだ。
 その『誰か』とは?
(アイツがやったのか)
 心当たりは、ある。あの男はやたらとこの家を自慢したがるきらいがあった。「いい家だろう」と、ことあるごとに口にしたものだ。見せびらかすような。承認欲求のような。……まるで嫉妬の裏返しのような。とてもじゃないが裕福で不自由なくて愛されて余裕のある人間の振る舞いには見えなかった。
 それが動機だったのではないかとアカネは推測する。幼い頃からずっと見てきた、見せつけられてきた、全てにおいて恵まれた存在。人生の絶対勝利者。それに、羨望を煮詰めた復讐を叩きつけたのだろうか。そうして成り変わったのか、ずっと憧れていた、この家の存在に。
(アイツは……人殺しだったんだ)
 先日の放火のことを思い出す。それより前に、何のためらいもなく死体を焼いていたことも。死体。死体。あんなにも死体に動じないのは、情動の希薄化だけではなく、殺人者だったから?
 死体――アカネは頭の中がどろどろと渦巻くような心地を覚えた。
 同時に。
 視界の片隅に映る白骨が、中途半端に肉を帯びて、アカネの方を見ていることに、気付いた。
 青年は叫んでいた。床いっぱいに散らばった写真の中の人間が、ぎょろりと一斉に目玉を動かしアカネを見た。
 目だ。見ている、目だ、目だ、目、目、目――奇異なモノを見る目が渦巻いている。狂人を憐れむ目で見ている。眼球だけが異様に大きく見開かれている。途端に部屋が、まるで電子レンジにかけられたかのように、どろりと崩れ始めた。それが現実なのか妄想なのか眩暈なのかアカネには判別がつかない。
(幻覚だ、妄想だ、クスリの後遺症だ、だってこんなのありえない)
 アカネはうずくまって、強く目を閉じて、耳を塞いで、そのまま床に額を打ち付けた。肺がスポンジのようで酸素を取り込んでくれない。息が苦しい。ぐるぐると世界が回る心地に、アカネはそのまま汚れた床に倒れ込んだ。
 大丈夫だ、と己に語りかけ続ける。一方で、狂気に落ちるべきなのか正気で抵抗すべきなのか、アカネには分からないでいた。分からないまま、自分に無責任な「大丈夫だから」を繰り返した。
 目を閉じたまま床を這う。背中に眼差しがのしかかっている。手探りでドアを探した。掴んだ。無我夢中で開いた――まるで水面からようやっと浮上したかのように、アカネは呼吸を取り戻すと共に瞳を開いた。
 そうすれば視界に入ったのは階段。一段、また一段――その上に、脚が。脚が見える。誰かの足。冷ややかな裸足。階段の上の方に立っている誰か。アカネを見下ろしている誰かがいる。じっと、そこにいる。
 アカネは見上げる勇気がない。
(誰――)
 誰なんだ。あんたは誰なんだ。唇は震えるばかりで、声は出ない。アカネの頭を占めるのは写真の男だ。眼差しだ。白骨だ。
 目の前の脚は動かないし喋らない――アカネの視点からでは手や上半身は見えない。『誰か』が何を持っているのか、どんな顔をしているのか、分からない。
(現実なのか、俺の妄想なのか、クスリのせいの幻覚なのか)
 あの手にナイフが握られている妄想。あの顔が不気味なほど口が裂けて笑っている妄想。強迫的な心理が止まらない。
「どうしたの」
 聞こえた声は――あの男の、声だった。人畜無害の顔をしている、いつも微笑みの表情を浮かべている、アカネを畜生のように愛玩する、この家の本当の主人ではない、あの狂人だ。
「また悪夢?」
 ぺた。
 足音が響いた。男が階段を一段下りたのだ。
 アカネは地下娯楽室を男に見られたくなくて――まるであの白骨死体を作ったのはアカネであるかのような心のやましさで――後ろ手にすぐドアを閉めた。そうしている間にも裸足の足音が迫っていて。気付けば目の前だった。
「アカネ?」
 アカネの顔を覗き込んだ、男。穏やかな表情と声音だけれど、アカネはぞわっとしたものを感じた。
「大きな声が聞こえたからさ。こんなとこでお昼寝してたの?」
 男は先ほどのアカネの叫びを、悪夢にうなされた結果だと思い込んでいるらしい。アカネはイエスもノーも答えられないままでいた。
「大丈夫です、俺は」
 どうにか絞り出した震え声。「そっか」と男はにこやかに納得するのだ。その悪意など塵もない透明な表情を見て、「嗚呼」とアカネは悟る。この男に、娯楽室で見たことをありのままに伝えたとて、きっと何の意味もないだろうことを。
 アカネのすぐ背中にはドアがある。その裏側に白骨死体共が縋りついて、聞き耳をじいと立てている妄想が、青年の背骨を舐めた。ドアを背中で抑えていないと、この家の3人の主が今にも這い出してきそうだった。同時に今、アカネは殺人鬼に袋小路へ追い詰められているような心地を覚えた。後ろに退路はなく、目の前に殺人者。
(殺人者――……)
 不意に頭痛がして、アカネは額を抑えた。
(俺も、同じ、)
 レンガの感触。ブーゲンビリアの赤い花。暑い太陽と青い空。
(本当に、あれは人間だったんだろうか)
 レンガを振り下ろした先、には?
 思い出そうとすると、アカネの頭に溢れるのは燦々とした赤い花ばかりだ。
 自分の正気と記憶に自信が持てない。アカネは顔を歪めた。
「俺は人を殺した? 本当に殺した? 何を殺してしまったんだ? 人間を、俺は?」
 思い出せない。人を殺した、と、思う、多分、という生ぬるい感触だけがある。
 男は俯いていくアカネの為に、しゃがんで更に下からその顔を見上げることにした。
「うんっ」
 にこりと笑って。
「アカネが覚えてなくても、僕が覚えてるから、安心して」
 下から伸ばされた男の両手は、青年の両手をそれぞれ握った。
「悪夢、治るといいね」
 男の表情は柔らかくて優しくて。そんな顔をしてあんたは人を殺したのか、とアカネは言葉を飲み込んだ。その間に男は立ち上がって、まるで泳げない子供を水中で導くように、アカネの両手を持ったまま後ろ向きに階段を上り始める。ゆっくりと。一段ずつ。アカネはそれに、抵抗なく従う。
 ――まるで棘だらけの蜘蛛の糸を登らされているかのような。
 どうにかいい方向へ向かいたいのに、救われたいと登るほど、手がズタズタになっていく。
 ブーゲンビリアには鋭い棘があるという。
「全部、夢だったらいいのに」
 昼下がりの蝉の声を遠く遠くに聞きながら、アカネは掠れた小声で呟いた。全てが白昼夢のようだと感じながら。
(俺はあとどれぐらい、人間でいられるんだろう)
 アカネの虚ろな目は、男に両手を引っ張られて階段を上る自分の裸足を眺めていた。

 ●

 掃除をして。昼寝をして。ぼーっとして。散歩をして。食事をして。シャワーを浴びて。電気を点けない寝室で、夜を漫然と過ごす。
 もうこの世界に労働も義務も何もなく、時計の数字も意味を成さない。
 昼間の地下娯楽室での出来事が、まるで遠い過去か夢だったように感じる。アカネは窓から見える夜空を見上げながら、暗闇の中で緩やかに息をしていた。今日は月が大きいようで、月明かりがベッドに射し込んでいる。
 アカネは異臭やざらつきがやっとなくなった大きなベッドに横たわっている。そのベッドの縁には、あの男が腰かけていた。アカネが首を動かせば、男の背中が見える。
 このベッドの下、床の下、地面の下に、白骨死体が三つある。この家の本当の主人が誰だったのかを示すモノがある。偽りの『主人』はそのことを覚えているのか、気付いているのか、分かっているのか、アカネには分からない。
 ――アレをどうすればいいのだろう。
 アカネはずっと考えている。地下室の死体のこと、『真実』のこと。
 処分すべきなのだろうか。男に隠れて? 死体は幸いにして白骨化している。まとめてゴミ袋に入れて、収集車が永久処分してしまうのを待つ? その過程で男にバレやしないだろうかとアカネは危惧する。バレたら、見られたら、気付かれたら、どうなるのだろう。薄ら寒い心地に、アカネは少し目を細めた。
(でも俺があの地下室から出て来たのを、こいつは何も追及しなかった……)
「どうしたの」「そこで何をしてたの」「何を見たの」――そういった類の言葉は、アカネには一切かけられなかった。忘れている、のだろうか。ここで起こったこと、彼がやったのだろうこと。
 どうかそのままバレないでいて欲しい、とアカネはいつの間にか祈っていた。どうしてあの死体を『死体』にしたのは自分じゃないのに、犯人のような心持なのだろうか――青年は心の中で自嘲する。罪悪感。死体をそのままにしていることについて? 分からない。
(死体……)
 肉を帯びてアカネを見つめていた、あの白骨。見間違いだ、妄想だ幻覚だと、アカネは忘れようとした。だが忘れようと意識するほど、あの光景が脳裏に焼き付いてしまう。「またあんな幻覚が現れるんじゃないか」と、暗闇が怖くなる。
 死体、と、赤色。炎の色。血の色。花の色。傷の色。
 死体が転がっている家で、殺人犯が眠るベッドで、心から安らぐことができないでいる。人間でいたい気持ち。狂ってしまって早く楽になりたい気持ち。人間でなくなっていくことが怖い気持ち。どれもアカネには真実だ。
 ――今更、放火をしたことを後悔し始めている。中途半端に狂気に落ちてしまえと足を突っ込んだことを。破滅と諦念に逃げたことを。あそこで人間性を保っていれば、今のように『どっちつかず』の苦痛に苛まれずに済んだのだろうか。もうどうなってもいいなどと諦めを嘯きながら、それでもまだどこかで好転するのではないかと期待していた自らの浅ましさに、アカネは吐き気を催した。
「今日は月がすごく大きいねぇ」
 ふと、沈黙を男の声が破った。彼は上体を捻って窓を見ていた。それから、視線をアカネの方へと下ろす。おもむろに伸ばされた男の手は、寝そべっている青年の赤い髪を撫でた。そこから額を撫でる掌の心地に、アカネはぐるぐるとわだかまっていた思考を止める。
「ふふ。いいこだね。いいこいいこ」
 良い子なものか、とアカネは心の中だけで答えた。目蓋を閉ざすように男が撫でるので、アカネはそのまま目を閉じた。男の掌はゆったりを、大人しい人間を愛玩している。
「アカネ、眠たい?」
「……このまま目を閉じていれば、眠りそうです」
「そう」
 男の動作は、「じゃあ撫でていてあげる」と言わんばかりだった。柔らかな手、体温。他者からの温度に安堵を覚えてしまうのは、優しい接触に心が解されるのは、一人では生きられない人間のサガか。
「絆創膏、全部とれてよかったね」
「化膿しなくてよかったです」
「ほんとに。綺麗に治ったね」
「……俺達、どうなるんですかね」
「アカネはどうなりたいの」
 アカネの鼻の天辺を、男が指先でつついている。青年は目を閉じたまま少しだけ考えて、こう言った。
「少しでもマシになればいい」
 何に対して、とか、具体性とかはかなぐり捨てた回答だった。男は「ふぅん」とフラットに相槌を打った。あまり会話の内容は重要ではないようで、次に口にした言葉は全く前後関係のない話題だった。
「アカネが男の子で良かった」
「女だとセックス目的に思われるから、でしたっけ。こないだも言ってました」
「うん」
 男はくすくすと笑う。同性でも性愛は成り立つけれど、男の目や動作に性的な意図は欠片もなかった。この男の性別がどちらにせよ、自分の性別が何にせよ、性行為を強要されないのはよかった、とアカネは思う。
 そして会話は一度途切れる。互いの呼吸の音が少しだけ聞こえるぐらい、静かだ。
「……あなたは『どうなりたいの』」
 そんな中、アカネは男に問う。「自分達がどうなるか」について、男がそのままアカネに投げかけた質問だ。
「どうにもなりたくないけど。今みたいな感じのままで、僕は別に」
 男は即答した。未来にこうありたいと願う姿は特にない、と。あまりに淀みない物言いだった。アカネは少し目を開く。撫でる手の影の向こうに、男のいつもの表情が見える。
「それは……あなたの『今』に不満がないから?」
「ん、不満? 不満かー。うーん……アカネが寝てる時にうなされたり、時々元気じゃなくなるのは不満というか、心配かな」
「……それはどうも」
「アカネ、なんにも心配いらないからね。君はいいこだ。なんにも悪くなんかないさ」
 大丈夫だからね、と男は穏やかな声で言った。その温かい掌が、アカネの視界を黒く覆った。
 真っ暗。アカネは目蓋越しに男が生きている温度を感じる。そうしてふと、思い出すのは地下娯楽室にて見つけたアルバム。並んだ顔写真。人畜無害な顔の少年。そこに、記されていた名前。個人情報を示す文字の列。アカネは無意識的に、吐息のような呟きで、その言葉を口にしていた
「――『エンドウ』さん」
 エンドウ。
 そう。この男の顔写真の下に記されていたのは、そんな名前だった。アカネは確かに見たのだ。妄想などではない……と思う。この男の名前は、エンドウ。
「んー……」
 男――エンドウは、アカネの目から手を退けないまま含み笑った。
「誰それ。そんな貧乏くさそうな男の名前、知らないよ」
 あっけらかんと。あまりにも。
「僕の名前は――……なんだったかな。まあ表札に書いてあるんじゃないかな。この家、立派で素敵でしょ。お金もいっぱいあるし、庭も広いし」
 その表札に記されているのは男の名前ではなく。
 立派な邸宅はゴミで散らかり。
 たくさんあるお金も最早、価値はなく。
 広い庭も、ブーゲンビリアが散々支配してしまっている。
 ――何もない男。
「そうですか」
 ではこの男をエンドウと呼ぶのは、きっと間違っていることなのだろう。
 アカネは暗闇の中で目を閉じた。――男に対し、初めて『憐憫』という感情が湧いた。
(起きたら、死体とアルバムを捨てに行こう)
 気付けばアカネは、殺人犯が死体処理に戸惑う心理から、サンタを信じる子供に「サンタはいる」と嘘を吐くような心地になっていた。自分のためではなく、この男のために、それを成そうと気持ちを抱いた。
 この男は、どうせ元には戻らない。だったら壊れたまま、都合のいい夢を見ていたって、いいだろうと思った。狂って壊れて終わり逝く人間にも、せめて一刺しの救いがあったっていい。そうあって欲しい、と――アカネは窓の外の大きな月に、心の中で独り言ちた。

 ●

 悪夢は日常と化していた。尤もアカネにとってはそれが悪夢なのか幻聴なのか、実際のところは分かっていない。
 お前が悪い。お前が悪い。お前が悪い。責める言葉が繰り返されている。たくさんの目が覗き込んで、たくさんの手が抑えつけてきて、お前がおかしい、お前が悪い、と針と言葉を突き立て続けるのである。目玉のついた『彼ら』の顔は、あの白骨死体であり、ブーゲンビリアの花のような割れた顔だったり、燃えて焦げた顔だったり。
 お前が悪い。お前がおかしい。お前に非がある。お前はいてはいけない人間だ。死ぬべきだ。消えるべきだ。否定。否定。自罰。自責。こんなことはおかしい、こんなことは許されるべきではない。狂気に逃げるな。現実逃避するな。お前が悪い。
「いいこだね」
 最中に思い出したのはそんな言葉だった。優しい声。温かな掌。
「ずっとここにいていいからね」
 ――殺人犯の言うことを聞くのか。
 罪人の狂気に安寧を見出すというのか。
 哀れな被害者の家で、のうのうと暮らすのか。
 裁かれることもなく、罰せられることもなく。
 そんなのは、おかしいことだ。
 ――いいや、どうせ自分も同じではないか。
 人を殺した。火を放った。
 もうこれ以上は何も望まない。我儘を言わない。欲張りをしない。
 ただ、少しだけ、少しでいいから、マシになりたいだけ――。
「……――」
 譫言のように名前を呼んだ。『何もない男』の名前。
 救いや安寧を求めることは悪いことなのだろうか、と少しだけ考えた。

 ――目蓋を開いたら、太陽が昇る寸前の朝だった。

 夢のせいで眠った気がしないが、アカネは霞がかった意識のまま上体を起こした。
 男は眠っている。ちょうどいい、と彼を起こさないようベッドから降りた。
 早朝は昼間よりもいくらか涼しい。薄暗い廊下をアカネは一人で歩く。
 昨日のことを思うと地下室へ向かうのは気が引ける。それでも、と足を進めた。あの光景は全て幻覚、目を閉じていた時のことは全て夢、死人に口はない。冷えた階段を裸足のまま、降りていく。扉を開ける――電気は点けっぱなしだった。ああそういえばスイッチを切っていなかった、とアカネは思い出した。
 しかし、死んでしまえば呆気ないものだと思い知る。盛者必衰、とは言い得て妙だ。
 アカネはかつてここで暮らしていた人間達の残骸を、思い出を、黒いゴミ袋に詰めていく。黒ずんだ床の上の茶色い骨。知らない誰かの記録。そんなに量は多くなく、時間にすれば長くはなかった。直接死体に触るのがはばかられて、手にはゴム手袋が着けられていた。
(……こんなものなのか)
 簡易な感想。人が死ぬこと、それが生きた証拠。あまりにも呆気ない。誰からも忘れられた時、人間は本当の意味で死ぬのだということをありありと痛感した。
(俺が死んでも、同じなんだろうな)
 誰にも覚えられず、弔われることもなく。
 ビニール袋を部屋の外に出した。電気を消した地下室は真っ暗になる。お前のせいだ、とどこかで声が聞こえた気がした。ゴミ袋の中で骨が蠢き呻いているような気がした。謝罪を求めるような静かな圧に、アカネは黙ったまま、階段を上っていった。

 ●

 少しずつ朝になっていく。世界にまた光が満ちる。
 アカネは額の汗を腕で拭った。青年の足元には、誰かの生きた証が黒いビニールに包まれて、アスファルトの上に無造作に積まれている。ふう、とアカネは小さく息を吐いた。落とした視線の先、ビニール袋から白骨死体達が「出してくれ」と嘆願している。
「死ねば楽になるのか?」
 アカネは死者共に問いかけた。
「死にたくなかった」
 屍は袋の奥で答えた。
「そりゃそうだろうさ」
 青年は溜息のように言った。そうして考える。この死体達は『正気』のまま死んだのか。それとも失われていく欲求の中、この世界に何も間違いがないと信じ込んだまま死んだのか。どちらが幸福な終わりだったのだろう。否、どのみち殺人という不本意な強制終了だったのだ。幸福のクソもあるまい。
「おーい」
 声が聞こえる。アカネはボンヤリと、滑らかな黒いビニールを見つめたままその声を聞いていた。
「おーぅい」
 もう一度聞こえた。背後の――やや遠く、少し上の方からだった。その声が幻聴でないと気付き、アカネは振り返る。
「アカネ、おはよー」
 邸宅の窓から男が手を振っていた。さっき起きたばかりらしい、声が明らかに寝起きだ。
「うん」
 アカネはその背で『ゴミ』を隠すように体ごと男へ向いた。男は嬉しそうで、そして穏やかな笑みを浮かべたまま、まだ手を振っている。何がそんなに嬉しいのか、青年にとっては不思議なほどに。
(……今日は何をしようかな)
 また一つ、人間であることを手放しながら、アカネは純真無垢な男に手を振り返した。そうして『死体』にさよならを告げる。ようやっと、受け入れた上で廃棄する。嫌なものを捨てていけば最後には幸せが残ると、いつかの狂人の理論を肯定することにした。
 蝉が鳴き始める。
1/1ページ
スキ