●2:ラベリング、ボーリング
じりじりと、夏の太陽が午前を通り過ぎた。
蝉の声は朝から変わらず、開けっ放しの窓からは生ぬるい風が吹き込んでくる。庭園では鮮烈な花々が、南国もかくやと咲き誇っていた。
「がんばったねぇ」
男は床に寝そべっている赤髪の青年を覗き込んだ。仰向けに目を閉じていた青年がゆっくりと目を開ける。
「疲れた……」
そう言って青年は目を閉じた。青年の体を途方もない疲労が包んでいる。というのも、早朝に目覚めた彼はついさっきまでそれはそれは熱心にゴミ屋敷の掃除をしていたのだ。
一先ず寝室。湿っぽい布団と枕を干して、剥いだカバー類とタオルケットは洗濯機に突っ込んだ(なお洗濯機も薄汚れていた)。
そして寝室の足元を埋めるゴミを遠慮なく、近くのゴミ捨て指定場に持って行く。この往復を何回やったことか。ゴミ収集車が無人自動運転化して久しいが、果たして無事に来るのかは不明だし、ゴミ捨ての日や分別というルールのクソもないが、青年は不衛生な場所がとにかく嫌だった。
ゴミを退かした床は、掃除機……はどこにあるか不明なので、使っていなかったタオルを引っ張り出して地道に拭いた。とにかくホコリまみれで、いちいち雑巾代わりのタオルを洗わねばならない重労働となった。掌の傷がとにかく沁みたが、背に腹は代えられなかった。化膿してくれるなと祈るのみである。
それだけ青年が熱心に掃除をしても――寝室の掃除は完了していない。空っぽのベッドの足元、青年は力尽きた。そもそも青年はあまり体力がある方ではなかった。汗びっしょりで、暑さと疲労で食欲も消えた。どうにか寝そべることができる程度には床は綺麗になった……と思いたい。
「君って潔癖っぽいんだね」
寝そべる男の隣に座り、男が言う。彼は青年の指示の下、ゴミを運ぶ程度の手伝いはしていた。今は昼食代わりのカロリーブロックを齧っている。
「……」
青年は何も返さなかった。潔癖も何も、あれだけ散らかって汚れていれば綺麗にしたくなる……と思うのだが、目の前の男にそれを熱心に語ったところで伝わらないだろうと思ったのだ。
(疲れた)
がんばりすぎた反動がどっと押し寄せる。何もしたくない気持ちが青年の心を支配する。
こんなに体を動かしたのはいつ振りだろうか。あちこちの筋肉が痛い。
「そういえばさ、聞きそびれてたんだけどさ」
次に青年が目を覚ました時、空はもう昼下がり過ぎだった。男の声で漫然と目を開き、顔を少し横向ければ、先ほどと同じ位置にいる男の姿が目に入る。青年が横になっていた時からずっと、そこにいたらしい。
「なに……」
寝すぎたな、と緩い頭痛を覚えながら、青年は乾いた声と共に上体を起こした。
「君って結局、どこから来たの。病院? どこの病院?」
横目に微笑む、ありふれた小市民の造形をした男が言う。
「……俺は」
青年は視線を落とした。腕の内側、たくさんの注射痕はまだ治らない。
ズキリとして、チクリとして、顔をしかめて青年は額を抑えた。
ああ。連れていかれる。抑えつけられる。注射の針が迫る。白い病室。白いベッド。白い服の人々。心臓がドクドクと跳ね始める。たくさんの目。たくさんの手。たくさんの針。抜け出して、走り出した時の、暗い暗い暗い廊下を覚えている。非常灯の不安を煽る緑色の列を。素足で走っていた。逃げ出した。そして。そして? 色彩が混ざる。連れ戻そうとするから。白い服。ブーゲンビリアの花。それから?
――ぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ。
いないはずの蠅共の羽音が鼓膜を這った。青年は目を見開いて顔を上げた。そうすると、蠅が一匹、寝室を横切っていた。それが幻なのか本物なのか、青年には見分けがつかない。否、幻でも本物でも、そこにいる蠅という存在を、認識した時には、もう。
「うわあああああああああああああああああああッッ!!」
叫んで叫んで絶叫して――青年は、蠅を殺そうと躍起になっていた。物を投げて暴れて、渦巻く視界が少しマシになった時には、まるで項垂れるようにまだ片付けられていないゴミの中で手足を突いていた。
「どうして」
はあ、はあ、と息を弾ませる。長く水分を摂っていなかった唇は渇いていた。
「どうして、誰も信じてくれないんだ。誰も話を聞いてくれないんだ。どうして誰も、気付かないんだ」
男の眼差しを背中で感じながら、青年はよろよろと立ち上がる。
「こんなのおかしいじゃないか。みんなが無気力になっていく。みんなが何もしなくなっていく。なのに誰も、それをどうにかしようと言わないんだ。それがおかしいって気付かないんだ。何も見やしないんだ。どうして。どうして。こんなのおかしいのに、おかしいのに」
そうだ。人類の危機なのだ。地球の温暖化は進み、人類にも未曽有の『症状』が行き渡り。でもそれを解決しようとする者や、どうにかせねばと立ち上がる者がいないのだ。それが青年には狂っているように見えた。
そうだ。青年にとって、この世界は狂っているのだ。青年の世界において、正気な人間は青年だけなのだ。
「みんな、みんな、狂っていく。どうして俺だけ正気なんだ。俺だけどうして。みんなが俺を狂人扱いするんだ」
額に爪を立てる。頬を掻く。薄暗い天井を仰ぐ。蝉の声。ずっと閉じ込められて日に晒されていなかった肌に汗が伝う。
「どうして。どうして? これは夢なのか? 俺は夢を見ているのか? まだクスリの所為で? どうして? 俺は何を間違えた? どうして俺にクスリを打つんだ! 俺は狂ってなんかない! 俺はおかしくなんかない! 俺は、俺は! もうやめてくれぇッ!」
無気力になった人間は、次第にルーティンを繰り返すのみとなる。患者の症状に関係なく、薬を何度も何度も打つだけになる病院の人々。その結果は地獄でしかなかった。患者の生死に関係なく同じ手術を繰り返す狂宴すらも、そこでは日常だった。
「お願い……だから、病院は、もう、やめてくれ。連れて行かないでくれ。クスリは嫌だ。もう嫌だ。あ、あ、頭がおかしくなるんだ、だからもう、ごめんなさいやめてくださいお願いします」
額に立てられ頬まで伝った爪は、青年の顔に容赦のない赤い傷口を作っていた。ぬるついた血がぷっくりと玉を作って、そして重力に這う一縷の川となった。
「血が出てるよ、大丈夫?」
その手首を男が掴んだ。ゴミ溜まりから、掃除された清潔な床の方へ引っ張った。青年はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら、従順に引きずり出される。そのままぺたりと、床の上にうずくまった。
「……俺は今、何を、言ってた? ボーッとする……しんどい……」
何度も瞬きをして、青年は指についた血と顔の出血にギョッとした。「なんだこれ」と慄くので、「自分でやったんだよ」と男はキョロキョロして、それからぺしゃんこになった箱ティッシュを掴み取って、開封して、数枚をごっそりとガーゼ代わりに青年の傷に押し当てた。そうすれば、男と青年の視線が合う。
「元気になったみたいだね。お水、飲む?」
男は青年の凶行または奇行を全く意に介していなかった。常識というものが欠落してしまっている。ただ、さっきみたいに喚き散らして暴れ散らかす状態から、比較的冷静になった様子を見て、落ち着いたのかなーと判断していた。
青年は男が差し出したペットボトルを受け取った。それを飲む。飲み干していく。そういえば胃袋が空っぽだった――染みていくようなぬるい水。
はあ、と青年は深く深く息を吐く。そして先程の思い出せない意識の空白に、不気味な心地を覚えていた。あのクスリのせいなのだ。クスリのせいなのだ。きっとクスリのせいなのだ。時々、意識がぐるぐるして、どろどろして、混ざり合う渦になって、何も思い出せない空白ができるのは。
「ねえ」
男が不意に青年を呼んだ。彼は未だ、ティッシュの束で青年の傷を抑えている。今一度、二人の視線が重なった。剃り残しの無精髭が残っている顔で、男は続けた。
「君の名前、アカネでいい? 君は赤色が似合うんだ」
名前――そういえば、青年は互いに名乗ってすらいなかったことを思い出す。
「アカネ……」
そして青年は気付くのだ。自分の本当の名前が、もう思い出せなくなっていることに。それがクスリの所為なのか、全人類共通の『症状』――記憶への執着欠如なのかは、もう分からない。渇いた笑いが込み上げた。心の中の何か大切な部分が、ぽっかりと損なわれてしまったような心地だった。
「……分かりました。俺の名前はアカネです。……アカネでいいです」
拭われ損ねた血が、青年の頬を涙のように一雫、伝った。ポタリ、と掃除したばかりの床に小さな赤い花を咲かせた。
「あなたの名前は」
青年――アカネも目の前の男に問うた。同時に、まるで自分はこの男の愛玩動物のようだと感じていた。
「僕の名前?」
男は朗らかに小首を傾げる。少しの沈黙の後、こう続けた。
「名前、なんだったかな。僕のはどうでもいいじゃない。忘れちゃったんだもの」
「……そうですか」
「アカネ。アカネ。うん、君の名前は忘れないよ。忘れないようにするよ。きっと毎日呼んでれば大丈夫だよ」
「名札でも付けますか」
「それジョーク? はははおもしろいね」
男――名前が分からないままの彼は、アカネの額に宛がわれたティッシュを退けた。青年の赤い傷口に、ティッシュの繊維が幾つか付着して残る。一間を空けると傷の痛みが鮮明になってきたアカネは新しい紙を取ると、顔に伝った血を拭きながら問いかけた。
「あなたに名前がないなら、なんて呼んだらいいですか」
「なんでもいいんじゃない。言ったでしょ、僕のはどうでもいいじゃない、って。僕の名前のことはもういいでしょ?」
男は自分の名前については全く興味がないらしい。「そうですか」とアカネは答えた――男はこう言うが、玄関に表札があるだろう。それを見れば苗字は分かるか、と考える。だけど男本人が「どうでもいい」と言っているので、表札をわざわざ見ることは選択肢から外した。アカネにとっても、男の名前を知ることに重要性を感じなかった。
(……名前に何の意味があるのか)
顔を拭き、床を拭き。しかし、空虚になっていく心を正気に留めてくれている、ような気がした。アカネは血の付いたティッシュを手の中にくしゃくしゃと握り潰す。皮肉なものだ。正気を失った男との会話で、正気を保とうとしているなんて。
「赤色が本当に似合うねぇ、アカネは。ねえ、ごはん食べたらさぁ」
男が床の上にポイとティッシュを放る。
「散歩でも行かない? アカネ、この家は汚くて好きじゃないんだろ」
「……まあゴミが多いのはちょっとアレですけど」
散歩に行くことには肯定を示しつつ――ますます犬みたいだなとも考えつつ――アカネは『主人』が捨てた、自分の血が付いたゴミを拾った。そして気付く。この部屋にゴミ箱がない。
「ついでに、どっかでゴミ箱でも買いませんか。あと食糧とか水も……ああ、洗濯用の道具と掃除用具も……」
「いいよ」
二つ返事だった。「じゃあまずごはんだね」と男は踵を返す。アカネはそれについていく。干しっ放しの布団類を取り込まないとなぁ、と心の中で想いながら。
薄暗い廊下。男はあまり電気をつけるのが好きではないようで、照明のない廊下は遠くの夏空のお陰でどうにか明度を保っている。暗くて長い廊下。トンネルのようだ。気の早いひぐらしの声が一瞬だけ、どこかから聞こえた。
と、その時である。廊下をゴミをまたぎ歩いていた男が立ち止まる。
「汚いけど、汚いけど、汚いけどさ、でも、いい家でしょ――ずっとこんな家に住みたかったんだ」
それだけ言って、また、振り返りもしないで、男は歩き始める。
アカネは「そうなんですか」とだけ頷いた。それ以外のリアクションなど、思いつかなかった。
●
居間も掃除していかないとな、とアカネは溜め息を吐いた。
ゴミだらけの――特に食品関係のもの――居間は全体的に異臭がする。でも不思議とゴキブリやネズミは見かけない。小蝿もいない。生き物の気配がないのだ。そういった生き物は、もう地球にいないのかもしれない。あるいは人類のように気力を失ったのかもしれない――なんて、アカネは空想した。きっと人類がマトモであれば、生態系の異常の理由も調査したのだろうが。もう二度と、消えた小動物の謎が解き明かされることはない。
(でも、普通の蝿はいるんだよな……)
しかし蝿共はゴミには見向きもしないのだ。人間の死体にだけ集まってくるのだ。……胃袋がざわついたので思考を止め、アカネは窓を見た。居間の大きな窓は、鱗状の水垢が霞をかけていた。窓は開いている。気温は高めだけれど、殺人的なものではない。死ねない程度の温度だった。
(生き物が消えて、人間も消えて……そうしたら、地球はどうなるんだろう……)
アカネのそんな考えは、男の「カレーできたよ」という言葉で打ち止めになった。青年が視線を戻せば、レトルトの米と、そこにかけただけのレトルトカレーが、皿に盛られていた。
「あ。食べる前に」
手を叩いて思い出した仕草をした男は、机の上にゴソゴソと絆創膏を数枚おいた。それをどうするのかというと、アカネの顔の傷に遠慮なくペタペタと貼っていくのである。青年は身動ぎせず、顔の筋肉も動かさず、この狂人の好きなようにさせた。
「アカネの掌と足のケガの分までないんだよね。どっか買いに行かないと」
最後の一枚をアカネの頬に貼り終えて、男は席に座る。アカネは顔の肌に張り付いたテープの心地を感じながら「そんなに酷くないから大丈夫ですよ」と返事をした。実際、掌はちょっとした擦り傷だし、足も見かけは酷いものの、一日が経ってかさぶたがちゃんとできている。
青年は言葉を続けた。
「それに絆創膏よりも、手は掃除するんでゴム手袋とかの方がいいです」
「あ、そう? じゃあそうしよう。……ゴム手袋かぁ」
「探しに行きますか。散歩がてら」
さすがにゴミの中から発掘されたブツを手にはめるのは勘弁願いたい。アカネのそんな思いを隠した言葉に、男は「いいねぇ」と陽気に答えた。
「じゃあごはん食べちゃおうか。いただきます」
「いただきます」
――口にするのは、ありふれてありきたりなレトルトの味。カレーは中辛だった。
熱いものを食べると汗が滲む。午前中に全身の汗腺という汗腺から汗を出したアカネは、「後でシャワー浴びないとな」と考えてから、「風呂場も掃除しないとな」と溜め息を吐きたい気持ちになった。
この邸宅は大きい。ここの掃除を全てやろうと思えばどれぐらいの時間がかかるんだろう――砂漠の砂粒を数えるような労働の気配に、アカネはゴールまでの距離を想像することをやめた。
アカネが掃除にこだわるのは、「人間として不衛生な場所で過ごしたくない」という本人の気性はもちろんあるが、それ以上に――いつ『進行』していくかも分からない、無気力という『症状』への恐怖と抵抗があった。目の前にいる、整理整頓ができなくなった発症者に対し「自分だけはお前のような狂人ではない」という健気なほど哀れな優勢感があった。後者については無意識的なものである。
食事中に別段会話もない。二人とも、口をお喋りではなく食事に専念させていた。食事が終われば皿を洗う。台所は散らかりすぎて無法地帯であり、食器用洗剤もスポンジもない。水だけは綺麗……に見える。少なくとも濁りや悪臭はない。浄水や発電やらの全自動システムはまだ生きているようだ――それが人類を無為に延命させているとも知らずに。
「……食器用洗剤にスポンジも必要ですねこれ」
濡れた手を拭いてアカネは肩を竦めた。買い物リストがどんどん増えていく。尤も、最早経済というものが息をしていない状況である。金についても、例の金庫に人生が狂いそうなほど積み上げられている。
「バンソーコーと、ゴミ箱と、食べ物と飲み物と、掃除道具と、洗剤とスポンジ?」
玄関へ歩き始めた男が、指折り数える。「そうですね」とアカネは頷き、後を追った。後ろから見る男の尻ポケットには、紙幣が幾つか雑にねじこまれていた。
●
午後の蒸した道路を歩く。
朝顔が巻き付いたカーブミラーが、通り過ぎる二人を映す。萎れた朝の花がこうべを垂れている、
(ゴミがない……)
民家の庭々から繁茂した緑が氾濫こそしているとはいえ、アカネの見渡す視界にゴミが放置されているような情景は映らない。ただただ静かな、そして緑が濃厚な、そこに咲く花が鮮烈な、そんな風景である。無人運転のゴミ収集車は今も健気に活動しているようだ。……景色は清浄だ。どこまでも清らかだ。
最初に男と歩いた時は抜けきらぬ焦燥から、こうして景色をしっかりと脳で処理できる余裕もなかったものだ、とアカネは思った。小さく呼吸を一つする。
「……」
アカネは道路の真ん中で立ち尽くし、漫然と瞬きをしていた。少し先を男が歩く音がする。彼は立ち止まった青年に気付き、振り返った。
「アカネ、置いてくよ」
「……あ」
不意にアカネがフィラーめいた言葉を発した。空を見上げて、掌を胸辺りで上に向けている。
「雨――」
アカネがそう言った直後、ばらばらばら――大粒の雨が空から大量に落ちてきた。それが夕立だと二人はすぐに分かった。
「うわーすっごい雨」
「洗濯物、取り込んできてよかった」
男は雨を意に介していない顔でアカネの傍に来て、アカネは独り言を口に入道雲で覆われた空を見上げていた。
たくさんの雨。雨。アスファルトを叩く音。傘のない二人。灰色の空。濡れて揺れて踊る南国の葉。
アカネは顔を上に向けて、顔に雨を受ける。勢いのある大粒はぼたぼたと、貼ってもらって真新しい絆創膏に染み込んでいく。掌の傷にも、足の傷にも、伝っていく。
「――ふ」
アカネの喉に込み上げてきたのは、『笑い』だった。
狂った世界。自分だけが正気と共に取り残された世界。
名前も忘れて、そんな狂気へと緩やかに迎合していく精神。
今や狂人の飼い犬に成り下がって、手も足も顔も傷だらけで。
「あはは。あはははは。あはははははははは! ああ、ああ馬鹿馬鹿しい」
小さな悩みや不安がどうでもよくなるほどに、吐いた言葉は万能感になった。
馬鹿馬鹿しい。あまりにも滑稽で滑稽でおかしくておかしい。
何をしても無駄なのか。もうどこにも行けないのか。どうにもならず、どうしようもないのか。考えれば考えるほどに袋小路で、行き止まりで、行き詰まりで、選択肢は「諦める」以外が消えていく。救われない。報われない。助からない。何をしても。何をしても。考えても。足掻いても。もう。もう。何も。何も。何もない。何もない。何もない。何もない。何もない。何もなかった。
「あはははははははははははははははははははははははははは」
気付いて、分かって、アカネは異様なほどの昂揚に哄笑する。その昂りが、壊れかけの精神が催す躁状態だとは気付かないまま。
笑って、濡れたアスファルトの上を駆ける。突発的に肉体が動作を求めたのだ。そうすればほどなくして半ば水辺となった水没の道にざぶりと足が着く。ざぶ。ざぶ。たくさんの雨で波紋が踊る水の上を、青年は若い四肢で行く。
「なあ――おい、早く早く――」
振り返って男へと手を振った。男の名前を知らないので、「なあ」とか「おい」がその代わりになっていた。
男は土砂降りの中で溌溂と笑う青年に目を細めた。ずぶ濡れで、傷まみれで、楽しそうで、笑っていて、注射の痕と擦り傷の白い手を力いっぱい振っている。
「泣いたり怒ったり笑ったり、元気な子だなぁ」
眩しいなぁと男は穏やかな心地に満たされた。「すぐ行くよ」と雨の中を濡れながら進んでいく。水の音の中、ころころ笑う青年が口角を吊っている。
「アカネ、楽しいかい」
「分からない。分からないけど、おかしいんだ」
「おかしいのかい」
「この世界が。分かるだろう」
「そう。よかった。アカネが楽しいのならそれでいいよ」
男が追いつく寸前に青年は水を駆け、少し先に行って、振り返って、手を振る。なので男は少し早歩きにアカネを追う。赤い花の記憶に浸りながら。楽しいと思った。男の頭の中には、それだけしかなかった。
何度繰り返しただろう。いつの間にか夕立も止んでいた。空が見える。あまりにも鮮烈な、血のような、赤い赤い夕焼けだ。浮かぶ雲すら赤に染まり、まるで千切れて飛んだふわふわの肉片のようである。
「俺は狂ってなんかないよな」
雨上がりだけれど空に虹はかからなかった。立ち止まった青年は頬に顎に水を滴らせて、ざぶざぶと歩いて来た男に問いかけた。
「知らない。精神科医じゃないから」
男はいつもの口調で答えた。アカネはクッと笑った。嘘でも「狂ってなんかないよ」と言って欲しかった自分への自嘲だ。
「虹、見当たらないねぇ。はははビショビショだ」
男はシャツの端を絞る。溢れた雨水が落ちていく。「また雨が降ったら虹探しに行こうか」と、男は立ち止まった青年の正面に立った。西日に背を向けて。そうすれば長い影がアカネの体に伸びる。男の視界からは、東の空から這い上がる暗闇が見えていた。なのでアカネの顔の絆創膏に滲んだ、赤い色に視線を移した。
「……虹なんて、ずっとずっと見てないな……」
アカネの焦点はどこか漫然としていた。落ちる太陽が眩しくて、直視ができない。
「綺麗だよね、虹。すぐ消えるけど」
男は首を傾げて言う。
「アカネ、君といると楽しいよ。もっと君を知りたいな」
「でもどうせ、いつか忘れるんでしょ。記憶に執着しないくせに」
「じゃあまた覚えるよ。それでいい?」
「忘れることを何とも思わないんですね」
「しょうがないよ。そうなってるんだもん。みんな同じだよ」
「……みんな同じ、か」
「アカネは違うの?」
「分からない、今となっては。……もう、自分がマトモだって疑いなく言えないんです」
自嘲めいて歪んで笑う。「ひとつずつ分からなくなって、どうでもよくなっていくんだ」とアカネは喉を震わせた。
「何が不安でおかしかったのかも分からなくなって。頭がまっさらになっていって。感情もなくなって。思い出せなくなって。どうでもよくなって。怖いことすら分からなくなって。どうにもならない。どうしてそうなるのかも分からない――」
怖い。
自分が失われていく未来が。
自棄めいた興奮に身を委ねても。
アカネは俯いた。濡れた足と、夕日を返すキラキラした水面。蘇った蝉の声。湿度の高い暑さ。濡れた服の冷たさ。
――ぶぶぶ。ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
遠く遠くで蠅の羽音。
開けっ放しの民家の窓、風鈴がチリンと揺れる。その部屋ではゴミに囲まれた人間が、生きる為の気力を失った成れの果てが、仰向けに天井を見つめていた。見開かれた眼球に蠅が降り立ち、伝って歩く。ゴミには目もくれないで。
風鈴が鳴っている。涼しいガラスの音を奏でている。
「じゃあさぁ」
男は世界を見渡した後、アカネの顔を真っ直ぐ見て、俯く彼の両肩に手を置いた。
「アカネの嫌なもの、燃やしにいこ」
優しい笑顔で男は言った。
「アカネは怖いんだね。病院がすごく嫌いなんでしょ? じゃあ病院がなくなれば少しは怖いのもマシになる? アカネの好きなものだけの世界にしようよ。手伝うよ」
突拍子もない上に、理屈も意味不明で、倫理観も道徳観もない台詞だった。
アカネは目を見開いて顔を上げる。男の笑顔はどこまでも無垢だ。細められた目の瞳は真っ黒で、もう何色にも染まらない。
「いいでしょ。いいよね。行こう行こう」
――おかしいことを言うんだね。
アカネの脳裏に蘇るのは、いつかの誰かの言葉だった。
地球の温暖化も人類の無気力化にも腰を上げなかったのに、連中、自分にはアッサリと心の病という烙印を押して。思い出すだけでアカネは気分が悪くなる。
最初は陰謀を感じたものだ。誰かが真実を隠そうとしているのではないか。であるのなら、この異常現象は誰かが仕組んだのではないか。誰が? 地球人? 宇宙人? 全ては延々と、狂っていく人間が繰り返す投薬ルーチンに溶けて壊れた。
「うん」
アカネは男の言葉に頷いた。両肩に、男の掌の温度を感じながら。
「行く。行こう」
そう答えると、男は本当に嬉しそうに笑った。
(狂ってる)
けれどアカネは頷いてしまった。復讐心と憎悪がないと言えば嘘になる。あんな狂った場所、壊れてしまえとどれだけ願っていただろう。その帰結に人死にが発生しようとも。
(……狂っている)
後戻りはもうできないのだな、と。「行こう」と笑って手を引く男を見て、アカネは歩き出した。茜色の水面を踏みながら。
●
ショッピングセンターに人はほとんどいなかった。冷房だけが静かに利いて、誰も声を発することなく、霊安室めいた静寂が横たわっていた。
そんな中で、男とアカネは賑やかに足音を立てている。今から放火する人間のそれとは思えないほどの軽やかさで。
濡れ切った服は店のものに着替えた。男は陽気なアロハシャツに。アカネは手首が隠れるようなシャツに。
食べ物と水と、絆創膏と、ゴミ箱と、掃除道具と、洗剤とスポンジ。その他もろもろ、生活用品と『必要な道具』。ビニールで手から提げるのが億劫なので、大きめのリュックサックにまとめて入れた。
「なんか旅行っぽい見た目になったね」
男は気取ってサングラスなど着けている。荷物は二人で半分こした。男のサングラスに、帽子を被りリュックを背負ったアカネの姿が映っていた。
「はは。……ホントだ」
アカネもアカネで、アロハシャツにリュックという南国に観光に来たような姿の男に小さく笑った。
必要なものはそろった。店員がいたりいなかったりする店を通り過ぎながら、男は問いかける。
「アカネは病院の場所は覚えてるの」
「……大体は」
思い出したくもないけど、と言いたげな物言いだった。
ショッピングモールから出れば、昼よりはいくらかマシになった熱気と、暗い夜空と、虫の声と。
もう夜だ。だがそんなこともお構いなく、りんりんと虫のさざめく黒いアスファルトを男が歩いていく。その少し前を青年が歩く。どろどろとした記憶を引っ張り出して、ひっくり返して、曖昧な道。最初は恐慌と混乱と焦燥のまま、素足で駆けた灼熱のアスファルトを思い出しながら。
「……う」
一歩の度に気持ち悪い。思い出してしまう痛みと吐き気。どうしてわざわざ嫌なことを思い出して嫌な場所に向かっているんだろう――アカネは自問して、「あそこをぶっ潰すんだ」と自らの言葉で自答した。「燃えてしまえばいいんだ」と吐き捨てた。そうすれば。そうすれば。そうすれば……?
(少しは明日がマシになるのか)
もう何が正しいとか、悪いとか、罪悪感とか、倫理観とか、そういうものが頭の中で希薄になっていくのをアカネは感じた。あるいはこれも、発症しつつある無気力の一端なのか。
足の感触が虚ろだ。等間隔の街灯。車のいない道路。漫然と灯る信号。ざぶ、と足に水が着いた。
「夜の水辺ってさぁ」
アカネの横に並ぶ男が、同じように水辺を歩きながら言う。
「底が見えなくてさぁ。真っ暗でさぁ。なんか、底なし沼みたいに見えるよね」
そう言われ、アカネは足元を見てみる。暗い夜の中の水辺は、確かに足が着いているはずなのに、真っ暗で底が見えなくて深淵のようだった。
「……嫌なものを壊してしまえば、こんな気持ちも、楽になるのか」
今度はアカネが口を開いた。
「そうだよ」
男は平然と即答した。迷いなく淀みなく、真っ直ぐに前を見据えていた。アカネは顔を上げ、男の方を少しだけ見る。
「まるで一回、やったことあるみたいな言い方ですね」
嫌なものを壊してしまえば楽になれる――そんな経験があるのかと、アカネは問いかけた。男は相変わらずの調子でこう答えた。
「そうかも」
「覚えてない?」
「よく分からないな」
男が言い終わった直後、近くの線路を電車が通り過ぎて行った。まだ動いている電車があるらしい。無人の自動運転か、中に人がいるのかは、分からない。
「本当に覚えてないんですか」
電車が通り過ぎ終わって、残響が夜を震わせる中、アカネは言葉を続ける。男の少し前を歩く彼からは、件の男の顔は見えない。
「そんなに知りたい?」
男が立ち止まった。足が水を掻く音が止まる。
アカネもまた足を止め、振り返った――その顔を、男は片方の掌で掴もうとしていて。迫る手にアカネは息を忘れて飛び退いた。バシャリ、と飛沫が足元で上がる。アカネの顔を掴み損ねた男の手が、何もない場所で中途半端にかざされている。
男は自分の指の隙間から、アカネは男の掌越しから、それぞれを見つめた。張り詰めるような刹那が流れた。
「あはは!」
男が笑う。「ビックリした?」と目を細める。手を下ろす。歩き始める。「もうしないよ」とアカネの横を通り過ぎていく。その瞬間、男はアカネの帽子をパッと取ってしまうと、アカネが何かするよりも先に夜の向こう側に投げ捨ててしまった。そうすれば、派手なほど赤く染められたアカネの髪が街灯に露わになる。
「帽子ない方がいいよ」
ざぶ、ざぶ。手をひらひらさせて歩いていく男の背中を、アカネは半ば呆然と眺めていた。
「ほら、アカネ、行こうよ。きっと楽しいよ。嫌なこと全部に、思い知らせてやろうよ。手伝うよ。早く行こうよ。おいでおいで」
その言葉に、態度に、見えない眼差しに。アカネはゾッとするほどの深淵を感じた。まるで人のカタチをした何かのように見えた。「それもそうか」と内心で呟く。アカネの基準で正気な人間など、人間のままの人間など、もうこの世界には。
「……うん」
リュックを背負い直し、アカネは再び歩き始める。こんな夜でも、トラウマの元凶へと向かう道でも、前を向いて歩けてしまうものだな、と感じながら。
●
今が何時なのか分からない。
血の気の失せた顔で、アカネは病院を見上げていた。電気はどこもついていない。ひとけもない。ともすれば廃墟のようにも見える。
「行こう行こう」
男は鼻歌交じりで遠慮もなく歩き出す。車が疎らな駐車場を病院目指して突っ切って、リュックを置いて、「じゃーん」と笑顔で取り出したのは油と着火剤と古新聞の束。まるで今から花火で遊ぶかのような表情だった。
「ほら、アカネも」
同じアイテムを、男はアカネに半ば押し付ける。アカネはぼうっとした心地のまま、それらを受け取った。「ヤケドしないようにね」と言われ、虚ろなまま頷きを返す。
――これで楽になるのか、少しはマシになるのか、救われるのか。
マッチ箱を握り締める。今はそれに信じて縋ろう。マッチ売りの少女が、火の中に幸福の幻影を見たように。
きっと楽になれる。きっとマシになれる。きっと救われる。……男の平穏な笑顔を見ていると、アカネはなんだかそんな気がしてきた。倫理観や常識からすると、どうあがいても『おかしい』ことであろうとも。
ああ、でも、男のメソッドは狂気ではあるが正しいのかもしれない。嫌なものを一つずつ壊していけば、『自分の世界』は幸せで楽しいものだけになる。自分を害するモノなんて何もない、世界平和だ。
「あはは。アハハハハハ」
男は笑いながら着火の為の準備をしている。堂々と病院の中に押し入り、誰もいないフロアで好き放題に。本当に楽しそうに。きっと「どうしてそんなに楽しそうなんですか」とアカネが問えば、彼は「アカネの幸せの為だから」と即答するのだろう。それが予想できて、アカネは口を噤む。そうして同時に、こんなことをしてまで自分の幸福を願ってくれる人が、果たして過去にいただろうかと自らの人生を顧みた。もう顔も思い出せない親でさえこんなことはしないだろう。そう思うと――アカネは気の抜けるような笑みが自然と喉からこぼれてくるのを感じた。
「は、」
間違いなく、今、世界で一番アカネを大切に想ってくれているのは、あの男だ。それは愛でもないし、ましてや恋でもないし、友情、ともまた異なるモノな気がする。そうしてアカネは思うのだ。自分の世界の幸せの為なら躊躇を忘れたあの男が、もしアカネを『自分の世界には要らないモノ』と認識したその時、アカネはあの男に殺されるのだろう。何の躊躇もなく、表情も変えずに。
じゃあ男の興味を引いて『延命』する為に媚びる、というのを、アカネはする気は起きなかった。きっと無気力の症状が進んでいるからだ、とアカネは自らに結論付けた。自棄であるとも解釈できた。
(もう、どうなっても――いい)
どうせ。つまるところ『どうせ』に全て帰結するのだ。
どうせ、アカネはゆっくりと人間性を失っていく。どうせ、この世界は滅ぶ。どうせ、どうせ――目の前には終末と終焉だ。
――とく、とく、とく。油が撒かれていく音がする。
それを伏せ目に見つめながら、アカネは自分の過去を思い出そうとした。でもどうにも遠くて、霞んでいて、抜け落ちていて、分からなくて、幸せだったのか不幸だったのか、それすらも思い出せなくて。自分だけは正気で、自分だけは大丈夫だと、思っていたのに。
瞬きをひとつ、ゆっくりとした。理由も分からない涙が一雫だけ、アカネの片方の目から滑り落ちた。
顔を上げる。隣にあの男がいる。彼の手には油を染み込ませた新聞紙。「ほら」と傾けられて示されるので、アカネはポケットに入っていたマッチを取り出し、擦った。小さな赤い炎。それは新聞紙に寄せられた途端、めらりと燃え上った。
「いいよ」
男が松明のように燃える新聞をアカネの手に握らせた。アカネは頷いて、その赤い火種を――投げる。
暗い夜の白い病院に、赤い色。
ゆっくりと、少しずつ、燃え上っていく。
赤い色。明るい色。踊るようにゆらゆらと、夢を遊び泳ぐように、空へと手を伸ばして燃えている。
火事だ、と叫ぶ人間はいない。ぱちぱちと爆ぜる音のままに炎は広がっていく。あの病院にどれだけ人間がいるのだろう、とアカネは考えた。どうだってよかった。どうだってよかった。だってどうにもならないから。
でも。
なんだか軽くなったような気がする。胸の中が。
度し難い破壊行動がこんなにも心を換気するなんて知らなかった。
「俺を、信じなかったからだ」
アカネは吐き捨てる。赤々と燃える火は、離れていても青年の顔を温かく焙った。
「この世界はおかしくなってる……それを信じてくれていたら、こんなことには」
澄み渡る心地の理由にアカネは気付いた。肯定だ。あの炎はアカネの心を肯定してくれている。
これでよかったんだ。こうするしかなかったんだ。だって悪いのはアイツらで、正しいのは自分なのだから。嫌なことをしてきたのだから、やり返して何が悪い? 罪悪感など抱くだけ馬鹿馬鹿しい。最早この世界には警察も法律も『ない』のだから。
「荷物、軽くなったね」
駐車場の放置されていた車の上に座って、炎を見つめる男が言った。アスファルトの上のアカネは彼を見上げた。
「それは、比喩的な意味?」
柔く眉尻を下げて笑って、アカネは問いかけた。男は笑顔のまま首を傾げ、ちょっと考えてから、「ああ、心が的な意味で?」と肩を揺らした。
「じゃあアカネ、心は軽くなった?」
「うん」
「元気出た?」
「うん」
「よかったぁ~」
ぽん、と手を叩いて、男は上機嫌だ。
「アカネが嬉しいと僕も嬉しいな」
「……どうして?」
アカネは率直な疑問を問いかける。前にも問うたが、意味不明な言葉で返されて分からず仕舞いだったのだ。
男は迷うことなく答えた。
「アカネは僕と同じだから。同じだから、アカネが嬉しいと僕が嬉しいんだ。分かる?」
「俺とあなたが……同じ? まさか生き別れの一卵性双生児とか言い出しませんよね」
「何それぇ、僕ら顔ぜんぜん似てないじゃーん! あっはっはっはっはっはっは」
男は手を叩いて大笑いする。そんなに笑うのか、とアカネが少し呆れるほどに。それから男はこう続けた。
「肉の問題じゃないよ。そうじゃないんだ。もっと、こう――肉と皮と骨を剥いだところの話ね。……『みんな一緒』は、安心するでしょ。それと似たようはものだよ」
分かるようで分からない。だが男にとっては何か揺るぎない真理が見えているようだった。男の眼差しはどこまでも真剣で真っ直ぐで純粋だった。
「ね。赤色。綺麗だね。眩しいね。本当に。知ってる? 目蓋の裏は赤いんだよ。だから目を閉じたら、本当は赤色なんだよね」
会話はどんどん意味不明なものに逸れていく。男は本当に赤色に対し並々ならぬ執着と信仰を向けているようだ。
(じゃあ自分の髪を真っ赤にすりゃあいいのにな)
アカネはギャングすらも視線を逸らしそうな赤すぎる髪に少し指で触れた。一方の男の髪は、染められた痕跡のない真っ黒だった。
「……あ。自分の髪は自分で見えないからか」
なるほど、とアカネは独り言ちた。相当長くしなければ、なかなか自分の髪とは視界に映らない。鏡を前にした時だけだ。だから男は自分の髪は染めてないのだろう。アカネはそんな推理を頭に浮かべた。
男はそれを察したか、車から下りながらこう言った。
「いや? 面倒くさかったから」
「……なんだそりゃ」
男の行動力の琴線が分からない。アカネは肩を竦めた。「それよりも」と男は更に燃えていく病院を指さした。
「綺麗だね」
「……うん」
「ふふふふふ」
男の笑い声は本当に無邪気だ。――アカネは知っている。無気力となりゆく人間は、記憶障害や執着希薄化に伴い幾らかの幼児退行を起こすことを。
「……もう夜も更けてきましたし、そろそろ帰りますか」
温かな火。緩やかな疲労と睡魔を感じて、アカネは横の男に言った。「そうだね」と男は伸びをした。
もう、アカネの心に「こんなのおかしい」という気持ちはなかった。チクチクと腕を刺す幻痛も消え果てていた。清々しいほどの自棄がそこにあった。今だけは、とても心が楽だった。
――りんりんりん、と名前の知らない虫が鳴いている。
ブーゲンビリアの花が揺れている。夜のぬるい風。
開けっ放しの窓。洗濯の終わった綺麗なカーテンがふわりとなびいた。
清潔な布団とタオルケット。使える寝具は一人用しかない。アカネは床で寝ようとしたが、男が一緒に寝ようとしつこくせがんだ。そんな男二人で狭苦しい……とアカネは逡巡したが、男の行動力に負けた。ベッドは存外に広い。安物ではないようで、この邸宅に似合う贅沢な大きさだ。青年はそのことに大いに感謝した。
チープな男女の関係ではない。同じベッドにいるからとセックスに発展することもない。ペニスで論ずるような関係性ではない。ただただ二人は眠っている。安らかに、穏やかに。
やがて東の空から、朝日が這い上がって来る。蝉の声が始まる。今日も夏が始まる。鮮やかな朝顔が赤に青と咲き誇る。自動運転のゴミ収集車が道路を走る。それは道路に転がっていた死体を発見すると、早急に片付けを行った。AI曰く、死んだ人間とは『ゴミ』らしい。眩しい夏空に、蠅が飛んで行った。
蝉の声は朝から変わらず、開けっ放しの窓からは生ぬるい風が吹き込んでくる。庭園では鮮烈な花々が、南国もかくやと咲き誇っていた。
「がんばったねぇ」
男は床に寝そべっている赤髪の青年を覗き込んだ。仰向けに目を閉じていた青年がゆっくりと目を開ける。
「疲れた……」
そう言って青年は目を閉じた。青年の体を途方もない疲労が包んでいる。というのも、早朝に目覚めた彼はついさっきまでそれはそれは熱心にゴミ屋敷の掃除をしていたのだ。
一先ず寝室。湿っぽい布団と枕を干して、剥いだカバー類とタオルケットは洗濯機に突っ込んだ(なお洗濯機も薄汚れていた)。
そして寝室の足元を埋めるゴミを遠慮なく、近くのゴミ捨て指定場に持って行く。この往復を何回やったことか。ゴミ収集車が無人自動運転化して久しいが、果たして無事に来るのかは不明だし、ゴミ捨ての日や分別というルールのクソもないが、青年は不衛生な場所がとにかく嫌だった。
ゴミを退かした床は、掃除機……はどこにあるか不明なので、使っていなかったタオルを引っ張り出して地道に拭いた。とにかくホコリまみれで、いちいち雑巾代わりのタオルを洗わねばならない重労働となった。掌の傷がとにかく沁みたが、背に腹は代えられなかった。化膿してくれるなと祈るのみである。
それだけ青年が熱心に掃除をしても――寝室の掃除は完了していない。空っぽのベッドの足元、青年は力尽きた。そもそも青年はあまり体力がある方ではなかった。汗びっしょりで、暑さと疲労で食欲も消えた。どうにか寝そべることができる程度には床は綺麗になった……と思いたい。
「君って潔癖っぽいんだね」
寝そべる男の隣に座り、男が言う。彼は青年の指示の下、ゴミを運ぶ程度の手伝いはしていた。今は昼食代わりのカロリーブロックを齧っている。
「……」
青年は何も返さなかった。潔癖も何も、あれだけ散らかって汚れていれば綺麗にしたくなる……と思うのだが、目の前の男にそれを熱心に語ったところで伝わらないだろうと思ったのだ。
(疲れた)
がんばりすぎた反動がどっと押し寄せる。何もしたくない気持ちが青年の心を支配する。
こんなに体を動かしたのはいつ振りだろうか。あちこちの筋肉が痛い。
「そういえばさ、聞きそびれてたんだけどさ」
次に青年が目を覚ました時、空はもう昼下がり過ぎだった。男の声で漫然と目を開き、顔を少し横向ければ、先ほどと同じ位置にいる男の姿が目に入る。青年が横になっていた時からずっと、そこにいたらしい。
「なに……」
寝すぎたな、と緩い頭痛を覚えながら、青年は乾いた声と共に上体を起こした。
「君って結局、どこから来たの。病院? どこの病院?」
横目に微笑む、ありふれた小市民の造形をした男が言う。
「……俺は」
青年は視線を落とした。腕の内側、たくさんの注射痕はまだ治らない。
ズキリとして、チクリとして、顔をしかめて青年は額を抑えた。
ああ。連れていかれる。抑えつけられる。注射の針が迫る。白い病室。白いベッド。白い服の人々。心臓がドクドクと跳ね始める。たくさんの目。たくさんの手。たくさんの針。抜け出して、走り出した時の、暗い暗い暗い廊下を覚えている。非常灯の不安を煽る緑色の列を。素足で走っていた。逃げ出した。そして。そして? 色彩が混ざる。連れ戻そうとするから。白い服。ブーゲンビリアの花。それから?
――ぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ。
いないはずの蠅共の羽音が鼓膜を這った。青年は目を見開いて顔を上げた。そうすると、蠅が一匹、寝室を横切っていた。それが幻なのか本物なのか、青年には見分けがつかない。否、幻でも本物でも、そこにいる蠅という存在を、認識した時には、もう。
「うわあああああああああああああああああああッッ!!」
叫んで叫んで絶叫して――青年は、蠅を殺そうと躍起になっていた。物を投げて暴れて、渦巻く視界が少しマシになった時には、まるで項垂れるようにまだ片付けられていないゴミの中で手足を突いていた。
「どうして」
はあ、はあ、と息を弾ませる。長く水分を摂っていなかった唇は渇いていた。
「どうして、誰も信じてくれないんだ。誰も話を聞いてくれないんだ。どうして誰も、気付かないんだ」
男の眼差しを背中で感じながら、青年はよろよろと立ち上がる。
「こんなのおかしいじゃないか。みんなが無気力になっていく。みんなが何もしなくなっていく。なのに誰も、それをどうにかしようと言わないんだ。それがおかしいって気付かないんだ。何も見やしないんだ。どうして。どうして。こんなのおかしいのに、おかしいのに」
そうだ。人類の危機なのだ。地球の温暖化は進み、人類にも未曽有の『症状』が行き渡り。でもそれを解決しようとする者や、どうにかせねばと立ち上がる者がいないのだ。それが青年には狂っているように見えた。
そうだ。青年にとって、この世界は狂っているのだ。青年の世界において、正気な人間は青年だけなのだ。
「みんな、みんな、狂っていく。どうして俺だけ正気なんだ。俺だけどうして。みんなが俺を狂人扱いするんだ」
額に爪を立てる。頬を掻く。薄暗い天井を仰ぐ。蝉の声。ずっと閉じ込められて日に晒されていなかった肌に汗が伝う。
「どうして。どうして? これは夢なのか? 俺は夢を見ているのか? まだクスリの所為で? どうして? 俺は何を間違えた? どうして俺にクスリを打つんだ! 俺は狂ってなんかない! 俺はおかしくなんかない! 俺は、俺は! もうやめてくれぇッ!」
無気力になった人間は、次第にルーティンを繰り返すのみとなる。患者の症状に関係なく、薬を何度も何度も打つだけになる病院の人々。その結果は地獄でしかなかった。患者の生死に関係なく同じ手術を繰り返す狂宴すらも、そこでは日常だった。
「お願い……だから、病院は、もう、やめてくれ。連れて行かないでくれ。クスリは嫌だ。もう嫌だ。あ、あ、頭がおかしくなるんだ、だからもう、ごめんなさいやめてくださいお願いします」
額に立てられ頬まで伝った爪は、青年の顔に容赦のない赤い傷口を作っていた。ぬるついた血がぷっくりと玉を作って、そして重力に這う一縷の川となった。
「血が出てるよ、大丈夫?」
その手首を男が掴んだ。ゴミ溜まりから、掃除された清潔な床の方へ引っ張った。青年はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら、従順に引きずり出される。そのままぺたりと、床の上にうずくまった。
「……俺は今、何を、言ってた? ボーッとする……しんどい……」
何度も瞬きをして、青年は指についた血と顔の出血にギョッとした。「なんだこれ」と慄くので、「自分でやったんだよ」と男はキョロキョロして、それからぺしゃんこになった箱ティッシュを掴み取って、開封して、数枚をごっそりとガーゼ代わりに青年の傷に押し当てた。そうすれば、男と青年の視線が合う。
「元気になったみたいだね。お水、飲む?」
男は青年の凶行または奇行を全く意に介していなかった。常識というものが欠落してしまっている。ただ、さっきみたいに喚き散らして暴れ散らかす状態から、比較的冷静になった様子を見て、落ち着いたのかなーと判断していた。
青年は男が差し出したペットボトルを受け取った。それを飲む。飲み干していく。そういえば胃袋が空っぽだった――染みていくようなぬるい水。
はあ、と青年は深く深く息を吐く。そして先程の思い出せない意識の空白に、不気味な心地を覚えていた。あのクスリのせいなのだ。クスリのせいなのだ。きっとクスリのせいなのだ。時々、意識がぐるぐるして、どろどろして、混ざり合う渦になって、何も思い出せない空白ができるのは。
「ねえ」
男が不意に青年を呼んだ。彼は未だ、ティッシュの束で青年の傷を抑えている。今一度、二人の視線が重なった。剃り残しの無精髭が残っている顔で、男は続けた。
「君の名前、アカネでいい? 君は赤色が似合うんだ」
名前――そういえば、青年は互いに名乗ってすらいなかったことを思い出す。
「アカネ……」
そして青年は気付くのだ。自分の本当の名前が、もう思い出せなくなっていることに。それがクスリの所為なのか、全人類共通の『症状』――記憶への執着欠如なのかは、もう分からない。渇いた笑いが込み上げた。心の中の何か大切な部分が、ぽっかりと損なわれてしまったような心地だった。
「……分かりました。俺の名前はアカネです。……アカネでいいです」
拭われ損ねた血が、青年の頬を涙のように一雫、伝った。ポタリ、と掃除したばかりの床に小さな赤い花を咲かせた。
「あなたの名前は」
青年――アカネも目の前の男に問うた。同時に、まるで自分はこの男の愛玩動物のようだと感じていた。
「僕の名前?」
男は朗らかに小首を傾げる。少しの沈黙の後、こう続けた。
「名前、なんだったかな。僕のはどうでもいいじゃない。忘れちゃったんだもの」
「……そうですか」
「アカネ。アカネ。うん、君の名前は忘れないよ。忘れないようにするよ。きっと毎日呼んでれば大丈夫だよ」
「名札でも付けますか」
「それジョーク? はははおもしろいね」
男――名前が分からないままの彼は、アカネの額に宛がわれたティッシュを退けた。青年の赤い傷口に、ティッシュの繊維が幾つか付着して残る。一間を空けると傷の痛みが鮮明になってきたアカネは新しい紙を取ると、顔に伝った血を拭きながら問いかけた。
「あなたに名前がないなら、なんて呼んだらいいですか」
「なんでもいいんじゃない。言ったでしょ、僕のはどうでもいいじゃない、って。僕の名前のことはもういいでしょ?」
男は自分の名前については全く興味がないらしい。「そうですか」とアカネは答えた――男はこう言うが、玄関に表札があるだろう。それを見れば苗字は分かるか、と考える。だけど男本人が「どうでもいい」と言っているので、表札をわざわざ見ることは選択肢から外した。アカネにとっても、男の名前を知ることに重要性を感じなかった。
(……名前に何の意味があるのか)
顔を拭き、床を拭き。しかし、空虚になっていく心を正気に留めてくれている、ような気がした。アカネは血の付いたティッシュを手の中にくしゃくしゃと握り潰す。皮肉なものだ。正気を失った男との会話で、正気を保とうとしているなんて。
「赤色が本当に似合うねぇ、アカネは。ねえ、ごはん食べたらさぁ」
男が床の上にポイとティッシュを放る。
「散歩でも行かない? アカネ、この家は汚くて好きじゃないんだろ」
「……まあゴミが多いのはちょっとアレですけど」
散歩に行くことには肯定を示しつつ――ますます犬みたいだなとも考えつつ――アカネは『主人』が捨てた、自分の血が付いたゴミを拾った。そして気付く。この部屋にゴミ箱がない。
「ついでに、どっかでゴミ箱でも買いませんか。あと食糧とか水も……ああ、洗濯用の道具と掃除用具も……」
「いいよ」
二つ返事だった。「じゃあまずごはんだね」と男は踵を返す。アカネはそれについていく。干しっ放しの布団類を取り込まないとなぁ、と心の中で想いながら。
薄暗い廊下。男はあまり電気をつけるのが好きではないようで、照明のない廊下は遠くの夏空のお陰でどうにか明度を保っている。暗くて長い廊下。トンネルのようだ。気の早いひぐらしの声が一瞬だけ、どこかから聞こえた。
と、その時である。廊下をゴミをまたぎ歩いていた男が立ち止まる。
「汚いけど、汚いけど、汚いけどさ、でも、いい家でしょ――ずっとこんな家に住みたかったんだ」
それだけ言って、また、振り返りもしないで、男は歩き始める。
アカネは「そうなんですか」とだけ頷いた。それ以外のリアクションなど、思いつかなかった。
●
居間も掃除していかないとな、とアカネは溜め息を吐いた。
ゴミだらけの――特に食品関係のもの――居間は全体的に異臭がする。でも不思議とゴキブリやネズミは見かけない。小蝿もいない。生き物の気配がないのだ。そういった生き物は、もう地球にいないのかもしれない。あるいは人類のように気力を失ったのかもしれない――なんて、アカネは空想した。きっと人類がマトモであれば、生態系の異常の理由も調査したのだろうが。もう二度と、消えた小動物の謎が解き明かされることはない。
(でも、普通の蝿はいるんだよな……)
しかし蝿共はゴミには見向きもしないのだ。人間の死体にだけ集まってくるのだ。……胃袋がざわついたので思考を止め、アカネは窓を見た。居間の大きな窓は、鱗状の水垢が霞をかけていた。窓は開いている。気温は高めだけれど、殺人的なものではない。死ねない程度の温度だった。
(生き物が消えて、人間も消えて……そうしたら、地球はどうなるんだろう……)
アカネのそんな考えは、男の「カレーできたよ」という言葉で打ち止めになった。青年が視線を戻せば、レトルトの米と、そこにかけただけのレトルトカレーが、皿に盛られていた。
「あ。食べる前に」
手を叩いて思い出した仕草をした男は、机の上にゴソゴソと絆創膏を数枚おいた。それをどうするのかというと、アカネの顔の傷に遠慮なくペタペタと貼っていくのである。青年は身動ぎせず、顔の筋肉も動かさず、この狂人の好きなようにさせた。
「アカネの掌と足のケガの分までないんだよね。どっか買いに行かないと」
最後の一枚をアカネの頬に貼り終えて、男は席に座る。アカネは顔の肌に張り付いたテープの心地を感じながら「そんなに酷くないから大丈夫ですよ」と返事をした。実際、掌はちょっとした擦り傷だし、足も見かけは酷いものの、一日が経ってかさぶたがちゃんとできている。
青年は言葉を続けた。
「それに絆創膏よりも、手は掃除するんでゴム手袋とかの方がいいです」
「あ、そう? じゃあそうしよう。……ゴム手袋かぁ」
「探しに行きますか。散歩がてら」
さすがにゴミの中から発掘されたブツを手にはめるのは勘弁願いたい。アカネのそんな思いを隠した言葉に、男は「いいねぇ」と陽気に答えた。
「じゃあごはん食べちゃおうか。いただきます」
「いただきます」
――口にするのは、ありふれてありきたりなレトルトの味。カレーは中辛だった。
熱いものを食べると汗が滲む。午前中に全身の汗腺という汗腺から汗を出したアカネは、「後でシャワー浴びないとな」と考えてから、「風呂場も掃除しないとな」と溜め息を吐きたい気持ちになった。
この邸宅は大きい。ここの掃除を全てやろうと思えばどれぐらいの時間がかかるんだろう――砂漠の砂粒を数えるような労働の気配に、アカネはゴールまでの距離を想像することをやめた。
アカネが掃除にこだわるのは、「人間として不衛生な場所で過ごしたくない」という本人の気性はもちろんあるが、それ以上に――いつ『進行』していくかも分からない、無気力という『症状』への恐怖と抵抗があった。目の前にいる、整理整頓ができなくなった発症者に対し「自分だけはお前のような狂人ではない」という健気なほど哀れな優勢感があった。後者については無意識的なものである。
食事中に別段会話もない。二人とも、口をお喋りではなく食事に専念させていた。食事が終われば皿を洗う。台所は散らかりすぎて無法地帯であり、食器用洗剤もスポンジもない。水だけは綺麗……に見える。少なくとも濁りや悪臭はない。浄水や発電やらの全自動システムはまだ生きているようだ――それが人類を無為に延命させているとも知らずに。
「……食器用洗剤にスポンジも必要ですねこれ」
濡れた手を拭いてアカネは肩を竦めた。買い物リストがどんどん増えていく。尤も、最早経済というものが息をしていない状況である。金についても、例の金庫に人生が狂いそうなほど積み上げられている。
「バンソーコーと、ゴミ箱と、食べ物と飲み物と、掃除道具と、洗剤とスポンジ?」
玄関へ歩き始めた男が、指折り数える。「そうですね」とアカネは頷き、後を追った。後ろから見る男の尻ポケットには、紙幣が幾つか雑にねじこまれていた。
●
午後の蒸した道路を歩く。
朝顔が巻き付いたカーブミラーが、通り過ぎる二人を映す。萎れた朝の花がこうべを垂れている、
(ゴミがない……)
民家の庭々から繁茂した緑が氾濫こそしているとはいえ、アカネの見渡す視界にゴミが放置されているような情景は映らない。ただただ静かな、そして緑が濃厚な、そこに咲く花が鮮烈な、そんな風景である。無人運転のゴミ収集車は今も健気に活動しているようだ。……景色は清浄だ。どこまでも清らかだ。
最初に男と歩いた時は抜けきらぬ焦燥から、こうして景色をしっかりと脳で処理できる余裕もなかったものだ、とアカネは思った。小さく呼吸を一つする。
「……」
アカネは道路の真ん中で立ち尽くし、漫然と瞬きをしていた。少し先を男が歩く音がする。彼は立ち止まった青年に気付き、振り返った。
「アカネ、置いてくよ」
「……あ」
不意にアカネがフィラーめいた言葉を発した。空を見上げて、掌を胸辺りで上に向けている。
「雨――」
アカネがそう言った直後、ばらばらばら――大粒の雨が空から大量に落ちてきた。それが夕立だと二人はすぐに分かった。
「うわーすっごい雨」
「洗濯物、取り込んできてよかった」
男は雨を意に介していない顔でアカネの傍に来て、アカネは独り言を口に入道雲で覆われた空を見上げていた。
たくさんの雨。雨。アスファルトを叩く音。傘のない二人。灰色の空。濡れて揺れて踊る南国の葉。
アカネは顔を上に向けて、顔に雨を受ける。勢いのある大粒はぼたぼたと、貼ってもらって真新しい絆創膏に染み込んでいく。掌の傷にも、足の傷にも、伝っていく。
「――ふ」
アカネの喉に込み上げてきたのは、『笑い』だった。
狂った世界。自分だけが正気と共に取り残された世界。
名前も忘れて、そんな狂気へと緩やかに迎合していく精神。
今や狂人の飼い犬に成り下がって、手も足も顔も傷だらけで。
「あはは。あはははは。あはははははははは! ああ、ああ馬鹿馬鹿しい」
小さな悩みや不安がどうでもよくなるほどに、吐いた言葉は万能感になった。
馬鹿馬鹿しい。あまりにも滑稽で滑稽でおかしくておかしい。
何をしても無駄なのか。もうどこにも行けないのか。どうにもならず、どうしようもないのか。考えれば考えるほどに袋小路で、行き止まりで、行き詰まりで、選択肢は「諦める」以外が消えていく。救われない。報われない。助からない。何をしても。何をしても。考えても。足掻いても。もう。もう。何も。何も。何もない。何もない。何もない。何もない。何もない。何もなかった。
「あはははははははははははははははははははははははははは」
気付いて、分かって、アカネは異様なほどの昂揚に哄笑する。その昂りが、壊れかけの精神が催す躁状態だとは気付かないまま。
笑って、濡れたアスファルトの上を駆ける。突発的に肉体が動作を求めたのだ。そうすればほどなくして半ば水辺となった水没の道にざぶりと足が着く。ざぶ。ざぶ。たくさんの雨で波紋が踊る水の上を、青年は若い四肢で行く。
「なあ――おい、早く早く――」
振り返って男へと手を振った。男の名前を知らないので、「なあ」とか「おい」がその代わりになっていた。
男は土砂降りの中で溌溂と笑う青年に目を細めた。ずぶ濡れで、傷まみれで、楽しそうで、笑っていて、注射の痕と擦り傷の白い手を力いっぱい振っている。
「泣いたり怒ったり笑ったり、元気な子だなぁ」
眩しいなぁと男は穏やかな心地に満たされた。「すぐ行くよ」と雨の中を濡れながら進んでいく。水の音の中、ころころ笑う青年が口角を吊っている。
「アカネ、楽しいかい」
「分からない。分からないけど、おかしいんだ」
「おかしいのかい」
「この世界が。分かるだろう」
「そう。よかった。アカネが楽しいのならそれでいいよ」
男が追いつく寸前に青年は水を駆け、少し先に行って、振り返って、手を振る。なので男は少し早歩きにアカネを追う。赤い花の記憶に浸りながら。楽しいと思った。男の頭の中には、それだけしかなかった。
何度繰り返しただろう。いつの間にか夕立も止んでいた。空が見える。あまりにも鮮烈な、血のような、赤い赤い夕焼けだ。浮かぶ雲すら赤に染まり、まるで千切れて飛んだふわふわの肉片のようである。
「俺は狂ってなんかないよな」
雨上がりだけれど空に虹はかからなかった。立ち止まった青年は頬に顎に水を滴らせて、ざぶざぶと歩いて来た男に問いかけた。
「知らない。精神科医じゃないから」
男はいつもの口調で答えた。アカネはクッと笑った。嘘でも「狂ってなんかないよ」と言って欲しかった自分への自嘲だ。
「虹、見当たらないねぇ。はははビショビショだ」
男はシャツの端を絞る。溢れた雨水が落ちていく。「また雨が降ったら虹探しに行こうか」と、男は立ち止まった青年の正面に立った。西日に背を向けて。そうすれば長い影がアカネの体に伸びる。男の視界からは、東の空から這い上がる暗闇が見えていた。なのでアカネの顔の絆創膏に滲んだ、赤い色に視線を移した。
「……虹なんて、ずっとずっと見てないな……」
アカネの焦点はどこか漫然としていた。落ちる太陽が眩しくて、直視ができない。
「綺麗だよね、虹。すぐ消えるけど」
男は首を傾げて言う。
「アカネ、君といると楽しいよ。もっと君を知りたいな」
「でもどうせ、いつか忘れるんでしょ。記憶に執着しないくせに」
「じゃあまた覚えるよ。それでいい?」
「忘れることを何とも思わないんですね」
「しょうがないよ。そうなってるんだもん。みんな同じだよ」
「……みんな同じ、か」
「アカネは違うの?」
「分からない、今となっては。……もう、自分がマトモだって疑いなく言えないんです」
自嘲めいて歪んで笑う。「ひとつずつ分からなくなって、どうでもよくなっていくんだ」とアカネは喉を震わせた。
「何が不安でおかしかったのかも分からなくなって。頭がまっさらになっていって。感情もなくなって。思い出せなくなって。どうでもよくなって。怖いことすら分からなくなって。どうにもならない。どうしてそうなるのかも分からない――」
怖い。
自分が失われていく未来が。
自棄めいた興奮に身を委ねても。
アカネは俯いた。濡れた足と、夕日を返すキラキラした水面。蘇った蝉の声。湿度の高い暑さ。濡れた服の冷たさ。
――ぶぶぶ。ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
遠く遠くで蠅の羽音。
開けっ放しの民家の窓、風鈴がチリンと揺れる。その部屋ではゴミに囲まれた人間が、生きる為の気力を失った成れの果てが、仰向けに天井を見つめていた。見開かれた眼球に蠅が降り立ち、伝って歩く。ゴミには目もくれないで。
風鈴が鳴っている。涼しいガラスの音を奏でている。
「じゃあさぁ」
男は世界を見渡した後、アカネの顔を真っ直ぐ見て、俯く彼の両肩に手を置いた。
「アカネの嫌なもの、燃やしにいこ」
優しい笑顔で男は言った。
「アカネは怖いんだね。病院がすごく嫌いなんでしょ? じゃあ病院がなくなれば少しは怖いのもマシになる? アカネの好きなものだけの世界にしようよ。手伝うよ」
突拍子もない上に、理屈も意味不明で、倫理観も道徳観もない台詞だった。
アカネは目を見開いて顔を上げる。男の笑顔はどこまでも無垢だ。細められた目の瞳は真っ黒で、もう何色にも染まらない。
「いいでしょ。いいよね。行こう行こう」
――おかしいことを言うんだね。
アカネの脳裏に蘇るのは、いつかの誰かの言葉だった。
地球の温暖化も人類の無気力化にも腰を上げなかったのに、連中、自分にはアッサリと心の病という烙印を押して。思い出すだけでアカネは気分が悪くなる。
最初は陰謀を感じたものだ。誰かが真実を隠そうとしているのではないか。であるのなら、この異常現象は誰かが仕組んだのではないか。誰が? 地球人? 宇宙人? 全ては延々と、狂っていく人間が繰り返す投薬ルーチンに溶けて壊れた。
「うん」
アカネは男の言葉に頷いた。両肩に、男の掌の温度を感じながら。
「行く。行こう」
そう答えると、男は本当に嬉しそうに笑った。
(狂ってる)
けれどアカネは頷いてしまった。復讐心と憎悪がないと言えば嘘になる。あんな狂った場所、壊れてしまえとどれだけ願っていただろう。その帰結に人死にが発生しようとも。
(……狂っている)
後戻りはもうできないのだな、と。「行こう」と笑って手を引く男を見て、アカネは歩き出した。茜色の水面を踏みながら。
●
ショッピングセンターに人はほとんどいなかった。冷房だけが静かに利いて、誰も声を発することなく、霊安室めいた静寂が横たわっていた。
そんな中で、男とアカネは賑やかに足音を立てている。今から放火する人間のそれとは思えないほどの軽やかさで。
濡れ切った服は店のものに着替えた。男は陽気なアロハシャツに。アカネは手首が隠れるようなシャツに。
食べ物と水と、絆創膏と、ゴミ箱と、掃除道具と、洗剤とスポンジ。その他もろもろ、生活用品と『必要な道具』。ビニールで手から提げるのが億劫なので、大きめのリュックサックにまとめて入れた。
「なんか旅行っぽい見た目になったね」
男は気取ってサングラスなど着けている。荷物は二人で半分こした。男のサングラスに、帽子を被りリュックを背負ったアカネの姿が映っていた。
「はは。……ホントだ」
アカネもアカネで、アロハシャツにリュックという南国に観光に来たような姿の男に小さく笑った。
必要なものはそろった。店員がいたりいなかったりする店を通り過ぎながら、男は問いかける。
「アカネは病院の場所は覚えてるの」
「……大体は」
思い出したくもないけど、と言いたげな物言いだった。
ショッピングモールから出れば、昼よりはいくらかマシになった熱気と、暗い夜空と、虫の声と。
もう夜だ。だがそんなこともお構いなく、りんりんと虫のさざめく黒いアスファルトを男が歩いていく。その少し前を青年が歩く。どろどろとした記憶を引っ張り出して、ひっくり返して、曖昧な道。最初は恐慌と混乱と焦燥のまま、素足で駆けた灼熱のアスファルトを思い出しながら。
「……う」
一歩の度に気持ち悪い。思い出してしまう痛みと吐き気。どうしてわざわざ嫌なことを思い出して嫌な場所に向かっているんだろう――アカネは自問して、「あそこをぶっ潰すんだ」と自らの言葉で自答した。「燃えてしまえばいいんだ」と吐き捨てた。そうすれば。そうすれば。そうすれば……?
(少しは明日がマシになるのか)
もう何が正しいとか、悪いとか、罪悪感とか、倫理観とか、そういうものが頭の中で希薄になっていくのをアカネは感じた。あるいはこれも、発症しつつある無気力の一端なのか。
足の感触が虚ろだ。等間隔の街灯。車のいない道路。漫然と灯る信号。ざぶ、と足に水が着いた。
「夜の水辺ってさぁ」
アカネの横に並ぶ男が、同じように水辺を歩きながら言う。
「底が見えなくてさぁ。真っ暗でさぁ。なんか、底なし沼みたいに見えるよね」
そう言われ、アカネは足元を見てみる。暗い夜の中の水辺は、確かに足が着いているはずなのに、真っ暗で底が見えなくて深淵のようだった。
「……嫌なものを壊してしまえば、こんな気持ちも、楽になるのか」
今度はアカネが口を開いた。
「そうだよ」
男は平然と即答した。迷いなく淀みなく、真っ直ぐに前を見据えていた。アカネは顔を上げ、男の方を少しだけ見る。
「まるで一回、やったことあるみたいな言い方ですね」
嫌なものを壊してしまえば楽になれる――そんな経験があるのかと、アカネは問いかけた。男は相変わらずの調子でこう答えた。
「そうかも」
「覚えてない?」
「よく分からないな」
男が言い終わった直後、近くの線路を電車が通り過ぎて行った。まだ動いている電車があるらしい。無人の自動運転か、中に人がいるのかは、分からない。
「本当に覚えてないんですか」
電車が通り過ぎ終わって、残響が夜を震わせる中、アカネは言葉を続ける。男の少し前を歩く彼からは、件の男の顔は見えない。
「そんなに知りたい?」
男が立ち止まった。足が水を掻く音が止まる。
アカネもまた足を止め、振り返った――その顔を、男は片方の掌で掴もうとしていて。迫る手にアカネは息を忘れて飛び退いた。バシャリ、と飛沫が足元で上がる。アカネの顔を掴み損ねた男の手が、何もない場所で中途半端にかざされている。
男は自分の指の隙間から、アカネは男の掌越しから、それぞれを見つめた。張り詰めるような刹那が流れた。
「あはは!」
男が笑う。「ビックリした?」と目を細める。手を下ろす。歩き始める。「もうしないよ」とアカネの横を通り過ぎていく。その瞬間、男はアカネの帽子をパッと取ってしまうと、アカネが何かするよりも先に夜の向こう側に投げ捨ててしまった。そうすれば、派手なほど赤く染められたアカネの髪が街灯に露わになる。
「帽子ない方がいいよ」
ざぶ、ざぶ。手をひらひらさせて歩いていく男の背中を、アカネは半ば呆然と眺めていた。
「ほら、アカネ、行こうよ。きっと楽しいよ。嫌なこと全部に、思い知らせてやろうよ。手伝うよ。早く行こうよ。おいでおいで」
その言葉に、態度に、見えない眼差しに。アカネはゾッとするほどの深淵を感じた。まるで人のカタチをした何かのように見えた。「それもそうか」と内心で呟く。アカネの基準で正気な人間など、人間のままの人間など、もうこの世界には。
「……うん」
リュックを背負い直し、アカネは再び歩き始める。こんな夜でも、トラウマの元凶へと向かう道でも、前を向いて歩けてしまうものだな、と感じながら。
●
今が何時なのか分からない。
血の気の失せた顔で、アカネは病院を見上げていた。電気はどこもついていない。ひとけもない。ともすれば廃墟のようにも見える。
「行こう行こう」
男は鼻歌交じりで遠慮もなく歩き出す。車が疎らな駐車場を病院目指して突っ切って、リュックを置いて、「じゃーん」と笑顔で取り出したのは油と着火剤と古新聞の束。まるで今から花火で遊ぶかのような表情だった。
「ほら、アカネも」
同じアイテムを、男はアカネに半ば押し付ける。アカネはぼうっとした心地のまま、それらを受け取った。「ヤケドしないようにね」と言われ、虚ろなまま頷きを返す。
――これで楽になるのか、少しはマシになるのか、救われるのか。
マッチ箱を握り締める。今はそれに信じて縋ろう。マッチ売りの少女が、火の中に幸福の幻影を見たように。
きっと楽になれる。きっとマシになれる。きっと救われる。……男の平穏な笑顔を見ていると、アカネはなんだかそんな気がしてきた。倫理観や常識からすると、どうあがいても『おかしい』ことであろうとも。
ああ、でも、男のメソッドは狂気ではあるが正しいのかもしれない。嫌なものを一つずつ壊していけば、『自分の世界』は幸せで楽しいものだけになる。自分を害するモノなんて何もない、世界平和だ。
「あはは。アハハハハハ」
男は笑いながら着火の為の準備をしている。堂々と病院の中に押し入り、誰もいないフロアで好き放題に。本当に楽しそうに。きっと「どうしてそんなに楽しそうなんですか」とアカネが問えば、彼は「アカネの幸せの為だから」と即答するのだろう。それが予想できて、アカネは口を噤む。そうして同時に、こんなことをしてまで自分の幸福を願ってくれる人が、果たして過去にいただろうかと自らの人生を顧みた。もう顔も思い出せない親でさえこんなことはしないだろう。そう思うと――アカネは気の抜けるような笑みが自然と喉からこぼれてくるのを感じた。
「は、」
間違いなく、今、世界で一番アカネを大切に想ってくれているのは、あの男だ。それは愛でもないし、ましてや恋でもないし、友情、ともまた異なるモノな気がする。そうしてアカネは思うのだ。自分の世界の幸せの為なら躊躇を忘れたあの男が、もしアカネを『自分の世界には要らないモノ』と認識したその時、アカネはあの男に殺されるのだろう。何の躊躇もなく、表情も変えずに。
じゃあ男の興味を引いて『延命』する為に媚びる、というのを、アカネはする気は起きなかった。きっと無気力の症状が進んでいるからだ、とアカネは自らに結論付けた。自棄であるとも解釈できた。
(もう、どうなっても――いい)
どうせ。つまるところ『どうせ』に全て帰結するのだ。
どうせ、アカネはゆっくりと人間性を失っていく。どうせ、この世界は滅ぶ。どうせ、どうせ――目の前には終末と終焉だ。
――とく、とく、とく。油が撒かれていく音がする。
それを伏せ目に見つめながら、アカネは自分の過去を思い出そうとした。でもどうにも遠くて、霞んでいて、抜け落ちていて、分からなくて、幸せだったのか不幸だったのか、それすらも思い出せなくて。自分だけは正気で、自分だけは大丈夫だと、思っていたのに。
瞬きをひとつ、ゆっくりとした。理由も分からない涙が一雫だけ、アカネの片方の目から滑り落ちた。
顔を上げる。隣にあの男がいる。彼の手には油を染み込ませた新聞紙。「ほら」と傾けられて示されるので、アカネはポケットに入っていたマッチを取り出し、擦った。小さな赤い炎。それは新聞紙に寄せられた途端、めらりと燃え上った。
「いいよ」
男が松明のように燃える新聞をアカネの手に握らせた。アカネは頷いて、その赤い火種を――投げる。
暗い夜の白い病院に、赤い色。
ゆっくりと、少しずつ、燃え上っていく。
赤い色。明るい色。踊るようにゆらゆらと、夢を遊び泳ぐように、空へと手を伸ばして燃えている。
火事だ、と叫ぶ人間はいない。ぱちぱちと爆ぜる音のままに炎は広がっていく。あの病院にどれだけ人間がいるのだろう、とアカネは考えた。どうだってよかった。どうだってよかった。だってどうにもならないから。
でも。
なんだか軽くなったような気がする。胸の中が。
度し難い破壊行動がこんなにも心を換気するなんて知らなかった。
「俺を、信じなかったからだ」
アカネは吐き捨てる。赤々と燃える火は、離れていても青年の顔を温かく焙った。
「この世界はおかしくなってる……それを信じてくれていたら、こんなことには」
澄み渡る心地の理由にアカネは気付いた。肯定だ。あの炎はアカネの心を肯定してくれている。
これでよかったんだ。こうするしかなかったんだ。だって悪いのはアイツらで、正しいのは自分なのだから。嫌なことをしてきたのだから、やり返して何が悪い? 罪悪感など抱くだけ馬鹿馬鹿しい。最早この世界には警察も法律も『ない』のだから。
「荷物、軽くなったね」
駐車場の放置されていた車の上に座って、炎を見つめる男が言った。アスファルトの上のアカネは彼を見上げた。
「それは、比喩的な意味?」
柔く眉尻を下げて笑って、アカネは問いかけた。男は笑顔のまま首を傾げ、ちょっと考えてから、「ああ、心が的な意味で?」と肩を揺らした。
「じゃあアカネ、心は軽くなった?」
「うん」
「元気出た?」
「うん」
「よかったぁ~」
ぽん、と手を叩いて、男は上機嫌だ。
「アカネが嬉しいと僕も嬉しいな」
「……どうして?」
アカネは率直な疑問を問いかける。前にも問うたが、意味不明な言葉で返されて分からず仕舞いだったのだ。
男は迷うことなく答えた。
「アカネは僕と同じだから。同じだから、アカネが嬉しいと僕が嬉しいんだ。分かる?」
「俺とあなたが……同じ? まさか生き別れの一卵性双生児とか言い出しませんよね」
「何それぇ、僕ら顔ぜんぜん似てないじゃーん! あっはっはっはっはっはっは」
男は手を叩いて大笑いする。そんなに笑うのか、とアカネが少し呆れるほどに。それから男はこう続けた。
「肉の問題じゃないよ。そうじゃないんだ。もっと、こう――肉と皮と骨を剥いだところの話ね。……『みんな一緒』は、安心するでしょ。それと似たようはものだよ」
分かるようで分からない。だが男にとっては何か揺るぎない真理が見えているようだった。男の眼差しはどこまでも真剣で真っ直ぐで純粋だった。
「ね。赤色。綺麗だね。眩しいね。本当に。知ってる? 目蓋の裏は赤いんだよ。だから目を閉じたら、本当は赤色なんだよね」
会話はどんどん意味不明なものに逸れていく。男は本当に赤色に対し並々ならぬ執着と信仰を向けているようだ。
(じゃあ自分の髪を真っ赤にすりゃあいいのにな)
アカネはギャングすらも視線を逸らしそうな赤すぎる髪に少し指で触れた。一方の男の髪は、染められた痕跡のない真っ黒だった。
「……あ。自分の髪は自分で見えないからか」
なるほど、とアカネは独り言ちた。相当長くしなければ、なかなか自分の髪とは視界に映らない。鏡を前にした時だけだ。だから男は自分の髪は染めてないのだろう。アカネはそんな推理を頭に浮かべた。
男はそれを察したか、車から下りながらこう言った。
「いや? 面倒くさかったから」
「……なんだそりゃ」
男の行動力の琴線が分からない。アカネは肩を竦めた。「それよりも」と男は更に燃えていく病院を指さした。
「綺麗だね」
「……うん」
「ふふふふふ」
男の笑い声は本当に無邪気だ。――アカネは知っている。無気力となりゆく人間は、記憶障害や執着希薄化に伴い幾らかの幼児退行を起こすことを。
「……もう夜も更けてきましたし、そろそろ帰りますか」
温かな火。緩やかな疲労と睡魔を感じて、アカネは横の男に言った。「そうだね」と男は伸びをした。
もう、アカネの心に「こんなのおかしい」という気持ちはなかった。チクチクと腕を刺す幻痛も消え果てていた。清々しいほどの自棄がそこにあった。今だけは、とても心が楽だった。
――りんりんりん、と名前の知らない虫が鳴いている。
ブーゲンビリアの花が揺れている。夜のぬるい風。
開けっ放しの窓。洗濯の終わった綺麗なカーテンがふわりとなびいた。
清潔な布団とタオルケット。使える寝具は一人用しかない。アカネは床で寝ようとしたが、男が一緒に寝ようとしつこくせがんだ。そんな男二人で狭苦しい……とアカネは逡巡したが、男の行動力に負けた。ベッドは存外に広い。安物ではないようで、この邸宅に似合う贅沢な大きさだ。青年はそのことに大いに感謝した。
チープな男女の関係ではない。同じベッドにいるからとセックスに発展することもない。ペニスで論ずるような関係性ではない。ただただ二人は眠っている。安らかに、穏やかに。
やがて東の空から、朝日が這い上がって来る。蝉の声が始まる。今日も夏が始まる。鮮やかな朝顔が赤に青と咲き誇る。自動運転のゴミ収集車が道路を走る。それは道路に転がっていた死体を発見すると、早急に片付けを行った。AI曰く、死んだ人間とは『ゴミ』らしい。眩しい夏空に、蠅が飛んで行った。