●1:ハローの赤色

 蝉が鳴いている。
 眩しいほどに青い空だ。
 ゴミの散らばったバルコニーで、男は素足のまま夏の風景を眺めていた。
 放置された庭園からは、鬱蒼と南国の植物が溢れかえり、隣の空き地すらも半ば飲み込んでいた。鮮烈なビリジアンの混沌の中には、ブーゲンビリアの花が赤々と、どこまでも赤々と咲き乱れている。
 男は赤い花を見下ろしていた。茂みが揺れている。それは空き地に二人の人間がいるからだ。
 男は見下ろしている。二人の人間は叫び、喚きながら取っ組み合って、もんどりうって、もつれあうように花の中へ倒れ込む。
 男は見ていた。倒れた二人の内、馬乗りになったのは青年の方だった。彼が振り上げた手には欠けたレンガが握られていた。
 ――鈍い音が繰り返される。蝉の声がする夏の下、赤い赤いブーゲンビリアの中、広がっていく血だまりの上。
 赤色。そのあまりにも明るい赤色に、印象的な色彩に、バルコニーの男は目を細めた。視線を逸らすことができなかった。壮絶なほど、懸命な色だった。
 やがて。
 辺りには、蝉の声と青年の荒い息の音しか聞こえなくなる。青年は凶器を手からこぼすと、頭を抱えて泣き始めた。恐怖と不安がいっぱいにつまった、混乱の嗚咽だった。彼の両手は真っ赤だった。
 男は青年を見下ろしていた。男が中空に手をかざせば、遠近感の関係から、青年は男の手の中にすっぽりと収まる大きさに見えた。
 と。男は指の隙間から、青年が顔を上げてこちらを見上げていることに気が付いた。焦燥しきった青年は目を見開いて、遠くからでも震えているのが目についた。
 なのでバルコニーの男は微笑んで、青年にかざしたままの手を振ったのだ。ゆっくりと。
「うちに上がりなよ」
 返事はなかった。ただ、青年が狼狽しきって立ち上がれずにいるのは分かった。なので男は家の中に引っ込むと玄関のドアを開け、やっぱり素足のまま熱いタイルの上を歩いて、ツタの絡んだ門を開けた。男が出てきた家は、いわゆる豪邸と呼ばれる立派なものだった。
 男が出てきた音を、青年は空き地から聞いていたのだろう。男が門で待っていると、おそるおそるといった様子で青年が顔を見せ、遠巻きに様子を窺っている。
「ちょっと散らかってるけど、いい家だろう」
 男が笑う。おいで、と手招きをした。
 青年は唇を噛んで、視線を彷徨わせた。その顔色はすこぶる悪い。ふらついているのを見るに、精神的な混乱に脳貧血でも起こしているのだろう。ゆえに――気を失ったのは間もなくだった。

 ●

 蝉が鳴いている。

 青年が目を覚ましたのは、他人のにおいがするベッドの上だった。お世辞にも清潔感はない。くたびれたタオルケットが一枚、青年の体の上に敷かれていた。
 意識がどこかボーッとする。上体を起こし、青年は自分の体を改めた。患者衣。日に焼けていない肌。おびただしい注射痕。素足と掌に、雑多に貼られた絆創膏。ガーゼの向こうに血が滲んでいる……。
 部屋の中は暗い。窓はカーテンで遮られていた。擦ったように痛む掌で青年がカーテンを開けば――埃っぽい感触がした――眩しいほどに青い空だ。途端に部屋は明るくなる。ガラスは閉められておらず開きっ放しで、夏の風が吹き込んだ。
 そうして明るくなったそこを見渡して、青年はぎょっと顔をしかめた。
 いわゆる――ゴミ屋敷。あれやこれやで溢れかえって、整理整頓とは真逆の様相を呈しているではないか。
「なんだよこれ……」
 青年が顔をしかめて呟いた。そうすれば、小さく人間のうめき声がした。ベッド脇の床からだった。青年がそちらを見やれば、あのバルコニーの男が――年の頃は中年ほどに見える――わずかな床のスペースで横になっていたのだ。
 寝起きの顔で、男が青年の方を見る。すると彼はあくびと伸びを同時にしながら起き上がった。
「起きた? 全然起きないから死んでるのかと思っちゃった」
 危機感やら懐疑やらの一切ない声だった。その対応に青年は何とも言えない顔をしながら、問いかけてみる。
「……あの、あなたは」
「僕? 見れば分かるでしょ、どう見ても人間」
 悪びれない様子で答える。青年はそういう意味で質問したのではなかったのだが――目の前の男、このゴミ屋敷の主が、自分を害するつもりはないのだろうことは察した。青年は安堵の息を小さくこぼした。
「……手当、あなたが?」
「そうだよ。探すの大変だった、バンソーコー。気を付けなよ、あの花、トゲがあるから。ブーゲンビリア」
「ブーゲンビリア……」
 赤い――花。太陽を浴びて熱気に晒され、どこまでも鮮やかな花。
 その赤さが……赤色が、赤い色が、脳裏を引っ掻くような不快感がして、青年は固く目をつむる。
(でも、大丈夫だ、ひとまず、ここは……。それにこの人も……おそらく、発症者だ……)
 ゆっくりと目を開けて、青年は片付けられていない部屋を一瞥した――青年は知っている。この男をはじめ、人類に降りかかった災厄を。目の前のこの男も、その『犠牲者』であるのだろうことを。部屋が散らかる、すなわち片付けられなくなることが、その症例の典型であることを。
 青年は男に視線を戻した。
「すいません、あの……服、貸してもらってもいいですか」
「いいよ。ちょっと待ってて――」
 二つ返事で、男は踵を返していた。ゴミを踏み越えて歩いていって、姿が見えなくなってほどなく、戻って来た彼はハーフパンツと半袖シャツを持ってくる。畳まれていた痕跡がないのを見るに、干しっ放しだったものだろう。
 清潔さの保証には今は目をつむって、青年は渡された服に着替えた。着替えてから、長袖のものを要請すべきだったと手の内側の注射痕に後悔した。
「お腹空かない?」
 そんな彼を近くで観察していた男が、唐突に言う。「はい?」と青年が顔を上げれば、男は言葉を続けた。
「今ちょうど切らしてて。君がお腹空いてるなら、買いに行こうかなって」
「ああ――それはどうも」
「じゃあ一緒に行こうか」
 男がニコリと言う。
(一緒か……)
 青年は逡巡した。「じゃあ帽子も貸してもらえますか」と言いかけて、この不衛生な場所の帽子を被る、ということに耐えられなくて、結局は「分かりました」と頷いた。
 それから男に「こっち」と案内されるまま、青年はゴミを踏み越え歩く――この家は随分と大きいようだ。そして高級感がある。尤も、そこかしこを占有する雑多物のせいで全て台無しだが。そして青年が見るに、この家にいるのはどうやら男一人だけらしい。階段の吹き抜けには豪奢な照明がぶら下がっていた。埃まみれだが。
 電気の点いていない家の中は暗い。対照的に窓から見える夏はどこまでも眩しい。光が強いほど影は増す、という言葉を例えているかのように。
 そんな中、男が立ち止まる。目の前にはガラクタに囲まれた立派な金庫があった。それは半ば開いていて、男がふたを開くと中には大量の金が押し込んであった。
「すごいでしょ」
 その内の数枚を雑につかみ取って、乾いた紙きれをひらひらさせて、男は後ろの青年にどこか得意気に眉を上げる。「そうですね」と青年は呆気に取られていた。男は自身のダボついたハーフパンツのポケットに金をねじ込むと、「行こ」と玄関を目指し歩き始める。

 ●

 鍵もしないで外に出た。屋敷の中は冷房がついていなかったので、外とそんなに気温の差異はない。
 蝉が鳴き続ける真夏。黒々としたアスファルトは高温を保っている。あちらこちらに、暑い所でよく育つ植物がその繁殖力を見せつけていた。野生化した南国産まれのそれらは、常夏色の鮮やかな花を咲き誇らせている。
 二人は坂道を下りていく。ひとけのない住宅街。二人分のサンダルの足音が響いている。
 高度が下がって行けば、やがて町の風景は半ば水に沈んだかのような様相となる。遥かイタリア、ベネチアのようでもある。常夏の温暖と化した地球は水位が上昇していた。その現象の一端だ。
「ケガ、痛くない?」
 水位はすねの中頃まである。男は構わずざぶざぶと歩き始めながら、顔を横向け青年へ振り返った。彼はブーゲンビリアのトゲで傷付いた青年の脚を気遣っていた。
「……」
 青年は無言だった。ただ、顔色を悪くして、水底の黒いアスファルトを見つめている。水はどこまでも透明で、夏の日差しにキラキラしていた。
「どうしたの」
 男が立ち止まって問うた。青年は顔をしかめて、傷付いた掌で口を抑えた。
「視線が……視線が、視線が、視線が、俺を見ている」
 震える彼が恐慌しているのは明らかだった。先ほどまで落ち着いていたのに、発作のように怯え始めたのだ。男は首を傾げ、周囲を見渡してから、青年の傍に水を踏んで歩み寄る。
「大丈夫、誰もいないよ。……君は変わってるね、さっき人を元気に殺しておいて……あ、あの死体、処理しないとね」
 朗らかに、しかし淡々と男が言う。青年は目を見開いた。
「人を殺した?」
「そうだよ。あれ、覚えてないの? まあ、忘れっぽいのはみんな同じさ」
「――……」
 青年は足元を凝視する。澄んだ水面に自らの顔が映っていた。その脳を過ぎるのは、猛烈な色彩の渦。
 黙り込んだままの青年の手首を男が握った。青年はビクリと肩を震わせたが、何か言う前には男は歩きだしていて――青年の絆創膏だらけの脚が、生ぬるい水に浸かった。途端に傷がチクリと傷んだ。
「もうすぐスーパーにつくよ。こっち。大丈夫、怖くなんかないさ。あ、水、傷に沁みちゃった? ごめんごめん」
 ざぶ。ざぶ。歩みを圧す水は、まるで夢の中を歩いているかのようだった。
 青年は眩暈を覚えながら、男に手を引かれるまま、痛い足でどうにか、夢遊病のように歩いていく。

 そうして到着したのは、ありふれたスーパーだ。少し高い位置にあるので水没は免れている。
 冷房の効いた店内はガラガラだった。それは人間的な意味であり、品物的な意味でもある。レジには老いた女がボーッと、口を開けて立っていた。目は虚ろだ。そしてそれらと相反するように、店内は明るくコミカルなテーマBGMが漫然と流れていた。
「この辺りのご飯もなくなってきたなぁ」
 全く危機感のない声だった。男は適当にレトルト食品や缶詰や冷凍食品を買い物カゴに入れて、人のいないレジへと持っていく。そしてポケットの金を適当に置いて、ビニール袋を勝手に失敬して、その場で詰め始める。割り箸も雑につっこむ。
 青年はその後ろ姿を眺めていた。彼は嫌悪感を以て、このスーパーの風景を見つめていた。
「……こんなのおかしい」
「みんなそうでしょ、君は違うの?」
 ビニール袋を持った男が青年を見る。それから、袋から一つのパッケージを取り出した。それはヘアカラーリング剤だった。赤色に染めるものだった。
「君さ、白髪交じりでおじさんみたいでしょ、若いのに。帰ったら綺麗にしてあげる」
「……白髪?」
 青年の視点からは自分の髪は見えない。強いて言うなら長くなった前髪の毛先が至近距離で見えるだけだ。男は「若白髪があるって苦労してたんだね」と悠長に言って、また歩き出しながらこう言った。
「ああ。……髪を染める前に、死体の処理だっけ」
 青年は唇を噛んだ。
「こんなの、おかしい……」
 スーパーの自動ドアが開く。熱気と共に、蝉の声。「はやくおいでよ」と男が言う。青年は、歩き出す他にできることなど一つもなかった。

 またあの道を辿る。熱されたアスファルト、水に沈んでいく町並み、南の花と蝉の歌。
 青年は水に沁みる脚の痛みで、どうにか現実感を保っていた。
 ざぶ。水底のマンホールを踏んだ。下水は溢れていないのだろうかと、ふと青年は物思う。悪臭もなければ水も澄んでいる、ように見えるが。
「今日も暑いね」
 青年の少し前を歩く男が振り返らずに言う。歩く飛沫でハーフパンツが濡れることも気にしていない様子だ。青年は顔を上げて――視界の端に、車が停まっているのを見つけた。そして、運転席に死体らしき物体が、シートベルトをしたまま蒸されている姿を見た。瞬きと共に目を逸らす。
「そうか、もう人がほとんどいないから」
「なんか言ったー?」
「いや。独り言です」
 振り返った男に独り合点の結論を答え、青年はざぶざぶと歩き続ける。
「……暑いですね」
 ワンテンポ遅れて、青年は「今日も暑いね」への返事をした。長らく日を浴びていなかった気がする。青年は眩しすぎる太陽に対し顔を俯けていた。そうすれば、ふやけた絆創膏だらけの足が見える。水は不思議なことにボウフラが湧いていることもない。もしかしたら、生物に適さないほど清潔すぎるのかもしれない……なんて、青年は想像した。
 水から出る。坂道を上る。濡れた足に夏の風が心地いい。水のついた足跡は、少し歩いただけで消えていく。
「死体……」
 青年が重い口調で呟く。
「本当にあるんですか」
「見れば分かるんじゃないかな」
「……」
 また一歩、あの空き地へと近付いていく。青年の顔を汗が伝う。じりじりと、責めるような太陽が首の肌を焼いている。
 青年の心臓が嫌な跳ね方をした。
 赤い花の空き地。
 たくさんの虫の羽の音。
 棘だらけの上に、大の字の物体。
 そこに群がっている、大量の蝿。
 暑さにやられた肉。花に散った血糊。
 ――ブーゲンビリアの赤色が、あまりにも鮮やかで。
 まるでそこかしこに血肉が飛び散っているかのようだった。
「う――」
 青年は口を押さえて後ずさった。
 死体だ。頭と顔が割れて咲いた死体。満開の花のよう。
「本当に俺がやったのか」
 呆然と呟いた青年に、男は瞬きをひとつする。
「本当に覚えてないんだ。記憶がブツブツなのかな」
「し……死体がある、のに、あなたはどうしてそんな……」
「そんなって、どんな?」
 男のその態度に、青年はどうしようもなく自分との乖離を覚えた。狂気を感じた、とも表現できた。
 一方で男もまた、手ずからの殺人を覚えておらず、目の前の死体に酷く動揺している青年を不思議だと感じていた。けれど男は嫌悪感なんてちっともないのだ。
「君とはなんだか仲良くなれそうな気がするんだ。親近感とか、直感っていうのかな? こういうのって」
「な、何を……」
「こんなこと初めてかも。凄く眩しく見えたんだ――」
 男は目を細めて青年を見つめた。
 まだ今日の内の出来事というのが、男には信じがたかった。変わらぬ日々の繰り返しの中――赤い花、赤い血、泣き叫ぶ青年。
「晴天のヘキレキ」
 で、あってる? と男は軽く笑った。「ヘキレキって、絶対漢字で書けないよね」と冗談めいて付け加えた。
「いい家に住んでるんだけど、やることなくて退屈だからさ。ドキドキしてるよ。……ねえ、これどうしよっか。とりあえず燃やそっか」
 男が顎で死体を示す。青年は呆然としたまま動けないでいた。だから男が全てやった。空き地のブーゲンビリアが及んでいない場所に火かき棒で死体を引きずっていくと、花の棘で死体がより傷ついた。死体についていた大量の蝿がワッと飛んだ。男は表情を何も変えず、ガソリンを死体の体にぶちまけていく。火の点いたマッチを投げるまで、男の行動に躊躇いは一切なかった。
 ば、と火が上がる。入道雲の空の下、赤々と火が燃えていく。踊る舌のようにも見える。蝿の卵と人が燃える臭い。
「警察なんか来ないよ。あの人たちが動かないのは前々からだし」
 男がそう言っても、青年は返事をできないでいる。臭い火を直視することなんてできなかった。逸らした視線の先に、血のついたレンガ片が転がっていて――途端に、青年は泣き崩れた。
「俺じゃない、俺はやってない、違う、思い出せない、分からない、赤い色しか思い出せない――俺がやったのか? 俺が、やったのか?」
 青年は『また』、数多の視線を全身に感じていた。責めるような、奇特なものを嘲笑うような、目、目、目、目、目。だが消え入りそうな理性の片端で、その眼差し達が自らの妄想であることを青年は理解していた。理解してしまえば、自分がおかしいことに向き合わなければならない。普通の人間は強迫妄想に苛まれたりはしない。
 眩暈がした――思い出そうとすればするほど、どろどろと溶けるような眩しい赤色の混沌しか思い出せないのだ。
 青年は膝をついて頭を抱えて、子供のように怯えて泣いて震えている。
「そんな泣くことないじゃない」
 男は青年を見下ろしている。それから、ふと――現在進行形で燃えている死体をチラと見た。
 あの死体は白い服を着ていた。白い服、で男は白衣を連想した。実際に死体が着ていたのは白衣ではないが、もしかしたら患者衣を着ていたこの青年は、あの死体を医者と見間違えたのかもしれない。なるほど、と男は合点した。彼は注射や点滴がすこぶる嫌いなので、医者を憎む気持ちがよく分かった。
「きっとビックリしちゃったんだね」
 慰めるように男はそう言って、うずくまる青年のぼさぼさの髪を優しく撫でてやった。白髪混じりの黒髪だ。些か伸びてしまっているその髪を掻き分けてやれば、白いうなじが晒される。薄い皮膚の下に、背骨の凹凸が並んでいた。
「背骨だね」
 男は感じたことをそのまま意味のない言葉にして、若い骨の凹凸を指先でなぞる。青年は泣いていなければ、くすぐったさに文句の一つも言っただろうか。
「君が女の子じゃなくってよかった。だってセックスしたくて声かけたみたいに見えるでしょ。ほら、うちでごはん食べよ」
 そう言われても、青年には分からなかった。この男が奇妙なほど親しくしてくる理由も。『今』が、なぜこのようになってしまったのかも。自分がこれからどうすればいいのかも。

 ●

 食事をしようと男が言って、青年を外見は立派な邸宅に連れ込んだ。
 しかしとてもじゃないが、青年は食事ができる精神状態ではなかった。燃えていく死体が頭にこびりついて、ぐるぐると蝿群と共に回って蕩けて、気持ち悪くて仕方がない。あの熱気に浮かされた羽音が、生理的嫌悪をもたらす臭気が。
 現実感が酷く希薄だ。「俺は夢でも見ているのだろうか」と呟いた。「知らない」と男はにべもなかった。なので青年は「食欲がない」と脈絡なく言った。
「食欲がない? そっか。じゃあ先に髪の毛、綺麗にしよっか」
 玄関にサンダルを脱ぎ捨てて廊下に上がりながら男が言う。「お風呂場こっち。ついでにシャワー浴びようか」と案内しようとしている。青年は未だ治らない吐き気と共に眉根を寄せた。
「……でも、あの」
「君には赤色が似合うから」
「だけど」
 他人に、それも初対面の男に髪を弄られることに、青年は躊躇を覚える。「髪色は気にしてないので大丈夫です」と答えるが、「気にしてないなら何色にしてもいいじゃない」と言われてしまえば、反論のカードがない。
「……確かに、あなたに恩はありますが」
 そう、青年にとって、この男は『見ず知らずの人間を自宅で保護してくれている、奇特なれどありがたい存在』なのだ。常識的に考えると、立場としては『男>青年』であり、青年にとって男の機嫌を損ねる行為は悪手なのである。ゆえに青年は強くNOを言えないでいた。
「うまくやるから大丈夫大丈夫」
 一方で男はすっかり、まるで拾った犬を洗うかのように、その気のようである。その朗らかさと図々しいほどのなつっこさは、先ほど死体を表情一つ変えずに焼いた男の言論とは、あまりにも感じ難かった。
 なぜ――それを青年は知っている。男を始め、地球の人類は、ほとんどが『こう』なのだ。
 ――地球にいつからか発生した災厄。
 それは隕石でも病気でもなく、「人類が無気力になっていく」という現象だった。
 まるで鬱病末期のように欲求が薄れていき、自らの記憶に執着もしなくなり、無為な廃人になっていく――漫然とルーティンを繰り返すだけから、やがて、生きる為の必要な行動すらもしなくなり、衰弱死していく。
 原因究明は行われなかった。皆、無気力を『発症』したから。だから温暖化もほったらかしになり、今、地球の大地は水に沈みつつあった。
 青年の目に映る男に『正常な執着心』というものはない。死体に慄く倫理感、人を殺める道徳観、滅びゆく世界への危機感。そういったものに執着し理解を示し行動する気力が、男からはゴッソリと失われていたのだ。
 ――眩暈がする。青年は、廊下の奥の暗闇に、レンガ片で顔を割られた人間が立っている幻覚を見た。その頭部は満開のブーゲンビリアだった。青年の喉が空気を吸い損ねて、ひゅっと鳴った。
 ――立っていられない。言いようのない不安。焦燥。うつむいた青年は「俺はやっていない」と縋るように言葉を吐いた。蒸した温度が背中を撫でる。気付けば青年は膝をついていた。
「大丈夫? またヘンな感じになってるの? そういう病気なのかな」
 そのまま床に倒れそうな青年の肩を、男が支えた。「俺は病気なんかじゃない」と青年は声を震わせた。「でも入院する人が着てる服を着てたじゃない」と男は答えた。見下ろす目に非難はないが、やれやれしょうがないな、といった色合いだった。
「違う、違う、俺は、俺は――俺は……」
 支えられる手を掴んで青年は訴える。チクチクと痛い。足が、腕が、針、棘、刺さる、皮膚が破ける、痛い、血が、薬が、意識が遠退いていく。遠退いていく。
 遠退いていく。

 ●

 虫の声が聞こえる。
 青年は暗闇の中で目を覚ました。他人のにおい、布の感触……星と月と街灯に照らされてぼんやりと辺りが見える。あの『寝室』だった。
 意識がボンヤリして、視界がフワフワして、まるで一枚のフィルター越しに世界を見ているかのようだ。
「……ゆめ、……?」
 ブーゲンビリアの花。朗らかな顔で死体を焼く男。入道雲。脳に残った歪な記憶を、青年は手繰り寄せる。現実感がない。だけど自分の服が患者衣ではないことに気付いて、それらの記憶の断片が夢ではないことを悟った。
 窓の外は夜だ。星がとても綺麗に見える――だけど空き地を見たくはなくて、青年は『外』というものから意識を逸らした。
 と、その時である。いいにおいが漂ってきた。それから別室で人の気配も。
 青年は寝室を見渡した。あの男の姿はない。彼は物音がする部屋にいるのだろうか。
(そういえば「ごはんを食べよう」とか言ってたな……)
 気分が悪くて食欲がない……と言いたいところだったが、青年の本能的な欲求はどうしても、胃が痛いほど食事を求めていた。まともに水分も摂っていないことも思い出す。意識すれば途端に口が渇いた。浅ましいものだな、と青年は自嘲した。
 なので青年はベッドから降り、男がいると思しき場所へ向かった。暗い廊下、なんどもゴミにつまずいてゲンナリしながら。
 そこは居間、だったろう場所だった。電気で照らされたその場所は、例によってあれやこれやで散らかっている。テーブルの上には雑多に物が置かれていて――いつかの新聞紙を鍋敷き代わりに、底深のフライパンが雑く置かれていた。いいにおいの正体はこれだった。インスタント麺に、冷凍の野菜とシーフードを突っ込んだだけのジャンクフード。取り皿二つと箸二膳。
「あ、起きた? すごい寝てたね。疲れてたのかな」
 そして、あの男がいた。ちょうどコップと水入りペットボトルを持ってきたところだった。彼はそれらをいそいそと狭いテーブルに置くと、同じテーブルに置きっぱなしだった手鏡を取って「じゃじゃーん」と青年の方へ向けた。
「……うわ」
 青年は顔をひきつらせた。鏡に映っていたのは、真っ赤な髪の青年自身だった。しかも無駄に洒落たツーブロックにまでされている。
「ね、うまくやるって言ったでしょ」
 男は得意気だ。年齢に似つかわしくないVサインまでしてみせる。
「昔、いろいろ自力でやったなー……髪の毛ちょっとしかカットしないのに散髪屋にケッコーなお金払うの、バカらしくない? とか、なんか、そういうの、多分ね」
「あ、赤色。派手すぎませんかね」
「赤色でいいんだよ。いいの。だって君はすごく赤色だったから」
 支離滅裂で理解不能な言葉だ。しかし青年は、まだ男の『症状』が軽い方であることに感謝した。少なくとも生きるための最低限はできる。意思疎通もなんとかできる。とはいえ、いきなり髪を好き放題されたことに関しては複雑な気持ちだ。
「ていうか、風呂場でやったんですか……もしかして裸に?」
「染めた後に洗ったりするでしょ。まあ男同士だし別いいじゃない。グッタリしてて大変だったけど、じっとしてたからやり易かったよ」
「は、はぁ……」
「ほらラーメン食べよ。のびるよ」
 男は手鏡を置いて椅子に座った。青年も複雑な気持ちを飲み込んで、促されるように着席する。
「いただきます」
「……いただきます」
 手を合わせた。食事が始まる。とにもかくにも喉が渇いていた青年は、コップに注いだ水を一気に飲み干した。それをもう一度繰り返してから、ようやっとラーメンに手をつける。体に染み渡る濃い味だ。温かい。雑に入れられた具材すらも、空腹のせいで狂おしいほど美味に感じた。
 胃が満ちていく。生きるために他ならない行為に、青年はじわりと涙が浮かびそうになった。不安と安堵、相反する感情がそこにあった。
「おいしい」
「ありがと」
 湯気の向こう、男はニコニコと微笑んでいた。「誰かと食事なんて久しぶりだなぁ」と貝柱を頬張って、言葉を続ける。
「君とはきっと、友達になれると思ったんだ。僕ら、似た者同士だから」
「似た者同士……?」
「分からない? 君が分からないなら、分からない。でも、僕には分かるよ。すぐ分かった」
 意味が分からないチグハグな言葉だ。返事に困った青年は「そうなんですか」と無難な言葉を返しておく。すると男はとてもとても楽しそうに笑った。
「よろしくね。ずっとここにいていいからね。ここ、いい家だろ?」
「……あなたは、この家が随分とお気に入りのようですね」
 いい家だろ。その言葉を青年が聞くのは、初めてではない気がした。青年の言葉に男は「両親と一緒に住んでる大事な家だからね」と答える。
(両親……)
 だがこの家に、男と青年以外の人間の気配はない。青年は昼間に見た、車の中で朽ちていた人間を思い出す。男の両親も……生命維持活動の気力を失い、衰弱死したのだろうか。そう考えると、青年は男に両親のことを言及するなんてできなかった。なのでどうにか、ぎこちなく笑い返して、こう言った。
「いい家ですね。折角だから、後で掃除をしても?」
 なにせここはゴミ屋敷だ。青年は汚い場所で過ごすことが、些か耐えられそうになかった。男は表情をぱっとさせて、「君って最高」と声を弾ませた。
 同時に青年はふと気付く。紛れもなく、今、青年が心に安堵を感じていることを。苦しくて気持ち悪くて不安だったのに、食事をしながら笑えているという事実を。そして、こんな時でも笑顔が作れるのだな、という皮肉を。
 なんだか――酷く懐かしい、心地だった。
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