短編
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こんな私を受け入れてくれますか
『利吉くーん!』
「……何ですか。」
『もぉー、見るからに嫌そうな顔しちゃってさ。』
「………あなたが私の仕事先に、毎回毎回居るからでしょう。」
『何でそんなに怒る訳? 仕事なんだからしょうがないじゃない。』
「その仕事のたびに、何回あなたに手柄を取られたと思っているんだ!」
『あぁ、それは神様が私に味方してるからだね。』
「んな訳あるかぁ!!」
思わず張り上げた私の怒鳴り声に、彼女は悪びれもせず耳を塞ぐ。その顔には反省の二文字など欠片も見当たらない。
――ことの始まりは今朝のことだ。
今日はとある城から奪われた巻物を取り戻せとの依頼だった。
気配を消して城内へと忍び込み、目的の部屋へと辿り着く。室内があまりに静まり返っていることに違和感を覚えたものの、巻物に手を伸ばしたその瞬間――背後から、名前が姿を現したのだ。
『もう、そうやって怒鳴らないでよ。』
「あなたが邪魔をするからでしょう!」
『えー……学園の小松田さんほどじゃないじゃない。』
「それとこれとは話が別だ!」
悪びれもせずけろりと言い放つ彼女――名前は、忍術学園の卒業生であり、私と同い年だ。
「よく出来るくの一がいる」と父上から紹介されたのが最初だったが、まさか現場で顔を合わせる度こんな不毛なやり取りを繰り広げる関係になるとは思いもしなかった。
黙っていればどこに出しても恥ずかしくない美人なのだが、私に対してはご覧の有様である。
私がいくら怒りで額に青筋を立てていようと真剣に取り合わず、「そんなに私が悪いの?」とでも言いたげに首をかしげて見せる始末だ。
しかし、悔しいことに彼女は実に腕が立つ。仕事の成果でねじ伏せられている手前、文句を言いたくとも言い切れず私はただ大きなため息を吐き出すことしかできなかった。
「……ともかく、この巻物は私が引き取る。今回ばかりはあなたに譲る気はありませんよ。」
『えーっ、くれないの?』
「……あなたねぇ、少しは……っ!?」
あまりに悪びれない態度に、文句の一言でも言ってやろうと名前へ振り返った瞬間――私の言葉は喉の奥で凍りついた。
視界が揺れたと思った時には、すでに間合いを詰められている。
首筋にじわりと刺さるひんやりとした鋼の感触。いつの間に引き抜かれたのか、彼女の持つ苦無の刃先が寸分違わず私の頸脈を捉えていた。
「……何の真似だ。」
首筋に触れる冷たい感触が苦無だと理解した瞬間、額をすっと冷や汗が伝った。
見上げる名前の顔から、先ほどまでのあっけらかんとした雰囲気は完全に消え去っている。
私を見下ろす冷酷な瞳はゾッとするほどの圧迫感と異様な迫力を放っていた。
『利吉、油断は禁物よ。』
呼び捨てで落ちた静かな声に、背筋が凍りつく。
昔から彼女は、一瞬で感情を殺し、戦う者に切り替わることができる人間だった。
そこにいたはずの陽気な彼女は疾風のごとく姿を消し、いま目の前にいるのは、ただ粛々と忍務を遂行せんとする一人の冷徹なくの一だ。
本気の殺気を前に一瞬たじろぐ。
――だが、ここで引くわけにはいかない。
私は息を殺し、一瞬の隙を突いて懐から苦無を抜き放つと、首筋の刃を力任せに弾き返した。
間髪入れずに刃先を突き出すと、彼女は翼を広げた鳥のように軽々と後方へ跳躍し、間合いを取る。
流れるような身こなしに息を呑んだ次の瞬間――彼女は自身の手に握った苦無で、自らの装束を深く切り裂いた。
「何を……っ!?」
彼女のあまりに不可解な奇行に息を呑んだその瞬間だった。
部屋の外から、ドタバタと複数の足音が激しく近づいてくる。気配に気づいた時にはすでに遅く、逃げる様子も見せない彼女を前に部屋の襖が勢いよく蹴破られた。
「忍びだ! 忍びが侵入したぞ!」
「くの一をやられたか! 取り押さえろ!」
「――くの一、やれ!!」
刀や槍を構えた城兵たちの罵声が狭い室内に響き渡る。
その言葉の意味を理解した瞬間、頭を殴られたような衝撃が体を突き抜けた。
(雇われ……くの一……?)
この城の警護として雇われていたのか。だから私の潜入を阻み、手柄を奪いそして今刃を向けたのか。
城兵たちを背に、彼女がゆらりと立ち上がる。
自ら切り裂いた装束から覗く冷ややかな肌と、その奥にある氷のように鋭い眼光がまっすぐに私を射抜いた。
そこには、先ほどまで私をおちょくって無邪気に笑っていた彼女の面影など微塵もない。まるで、まったく見知らぬ冷酷な暗殺者と対峙しているかのような錯覚に陥る。
苦無を握りしめる私の手が、かすかに震えた。
彼女と戦うことなんてできるわけがない。
ポン、と軽い音とともに彼女の懐から転がり出たのは――煙玉だった。
瞬時に爆発した濃厚な煙が室内へ一気に充満し、城兵たちの姿を覆い隠していく。
『くせ者! 逃がさないわよ!』
芝居がかった一声が響いたかと思うと、彼女は追撃を装って壁へ数本の棒手裏剣を立て続けに打ち込んだ。
呆然とする私を置き去りに、名前は烈火のごとき勢いで突進してくると、私の腕を強引に掴み取った。
「え……っ!?」
そのまま勢いを殺さず、木造の窓枠を豪快に突き破る。
ガラガラと木片が飛び散り、一瞬で背後を夜風が駆け抜けた。
浮遊感のあと襲い来るのは猛烈な重力だ。
地面へ吸い込まれるように、二人して真っ逆さまに落ちていく。
死と隣り合わせの落下の最中、あろうことか私を抱え込む彼女は、月明かりの下で――満足気な満面の笑みを浮かべて笑っていた。
地表が間近に迫ったその瞬間、彼女は素早く懐から鉤縄を取り出すとしなやかな動作で城壁の突出部へ引っ掛けた。
ギチッと綱が軋み、強烈なショックとともに落下の勢いが殺される。
そのまま縄を滑らせるようにして、私たちは何事もなかったかのようにしなやかに地面へと降り立った。
『利吉、逃げるわよ!』
不敵な笑みを絶やさぬまま、彼女は闇の中へと疾風のごとく駆け出した。
月明かりの下、しなやかな身こなしで夜風を切る背中。
その破天荒ぶりに呆れつつも、私もすぐさま地を蹴り、彼女のあとを追う。
つい先ほどまで刃を交えていたはずなのに――私たちは今、同じ夜を並んで駆け抜けていた。
『今日、利吉があの城に潜入するって噂が回っていたの。だから咄嗟にね。』
「敵を騙すには、まず味方から……か。」
『そういうこと。』
追手の及ばない川下まで逃げ延び、ようやく名前は真実を口にした。
自ら装束を切り裂いたのは私に襲われたと見せかけるため。
窓を豪快に突き破ったのは、無理やり連れ去られたように装い城兵の追撃の目を欺くため。
あのまま彼女が介入しなければ、私は城の罠に嵌まり命を落としていたかもしれない。
フリーのプロとして潜り抜けてきた死線の数は伊達ではないつもりだったが――まさか、そこまで巧みに張り巡らされた網に気づかず、逆に彼女に救われていたとは。
『ふふん、私のおかげね。』
胸を張り、これ以上ないほど誇らしげな笑みを浮かべる名前。
悔しいが――今回ばかりはぐうの音も出ないほど彼女の言う通りだった。
借りを認めた瞬間に付け込んで、ここぞとばかりに何か対価を要求してくるに決まっている。
私は呆れ半分、諦め半分の溜め息をひとつ吐く。
「……で、何が望みだ。」
『えっ?』
「どうせ君のことだ。助けた見返りに何か要求があるんでしょう。」
『別に、何も要らないわよ。』
さらりと平然と言い放つ彼女に、思わず目を丸くする。
普段の彼女ならここぞとばかりに手柄や貸しを盾にして難題を突きつけてくるはずだ。
それが何も要らないとは、一体どういう風の吹き回しなのか。
予想外すぎる返答に毒気を抜かれ、私は口を開けたまま固まってしまった。
『命あって何より。……けど今回は流石にヒヤヒヤしたけど。』
そう言って胸を撫で下ろした直後、彼女は『でも仕事が〜』とぼやいているが彼女はいつもの調子で軽口を叩き、けらけらと笑った。
何でもない日常では私を揶揄い、窮地になれば一瞬で感情を殺して思考を切り替える。何が最優先か、現場の状況を瞬時に分析し行動に移せる凄腕のくの一。
悔しいが――完全に、彼女に出し抜かれた。
だが、そんな彼女の底知れなさと何より自分に向けられた密やかな情に激しく惹かれている自分がいた。
「名前」
『だから、何も要らないって言ってるでしょ……んむっ……!』
なおも軽口を叩こうとする唇を強引に奪い去る。
言葉を遮るように重ねた自身の唇から、抑えきれないやるせない想いをそのまま押し当てた。驚きに身を硬くする彼女を逃がさぬよう抱き寄せ、その柔らかく温かな感触を噛み締めるように堪能する。
――私はフリーのプロ忍者だ。
常に依頼人の期待に応え、誰の前でも隙のない「完璧な山田利吉」であり続けなければならない。本当の自分を理解し曝け出せる存在などこの世にいないのだと、どこかで諦めにも似た割り切りを抱いて生きてきた。
だが、彼女という存在はそんな私の冷えた内面を容赦なく引っかき回していく。
仮面を取り繕う暇さえ与えてくれず、格好悪い素の自分を思わず曝け出してしまうのは、後にも先にも彼女の前だからこそできることなのだ。
『はぁっ……っ、利吉……』
「少し、静かにしといてくれ。」
乱れる息を整えようと揺れる名前の唇の間から、容赦なく舌を滑り込ませ、その小さな歯列を舐めなぞる。
たまらず逃げようとする彼女の舌先を逃がさず捉え、じっくりと深く絡め取っていく。
滑らかな唾液が混じり合い、甘く熱を帯びた吐息ごと飲み干すような濃密な口吸い。
彼女のすべてを浸食していく感覚に胸の奥がじんりと疼くような心地よさを覚える。
目の前でとろりと瞳を潤わせ、自分に翻弄されている彼女の表情に抑えきれない男心がひどくくすぐられていた。
『ん……っ、利吉……っ!』
胸元をぐっと強く押され、名残惜しくも唇を離す。
名残のように引かれた透明な銀糸が、夜風にさらされてぷつりと切れた。
名前はよろめくように後ずさり、顔を真っ赤に染め上げたまま肩を大きく上下させている。
追いつかない呼吸の中、恥ずかしさに耐えかねたように口元を手で覆う――その姿は私がこれまで一度も見たことのない彼女の素顔だった。
たった一度の口づけでこれほどまでに動揺し、赤くなっているなんて。
――ああ、駄目だ。
蕩けた顔を目の当たりにした瞬間、理性の糸が跳ね上がるのを感じた。
今、私の中で燻っているのは心を満たしたいという想いだけではない。身体の奥底から彼女のすべてを暴き、貪り尽くしたいという強烈な欲望が渦巻いていた。
『あっ! ちょっと、それ巻物!』
「――今回は、私の勝ちということだね。」
どさくさに紛れて取り返しておいた巻物を懐から覗かせると、彼女は苦虫を噛み潰したような悔しそうな顔をした。
だが正直なところ、そんな仕事の成果など今の私には二の次だ。何より重要なのは、目の前にいるこの愛おしいくの一をどう攻略するか、なのだから。
「君が私を救ってくれたんだろう?」
『なっ……!』
「なら、最後まで責任を取ってもらおう。」
『責任って……んむっ!』
「――まだまだ、こんなもので終わらせるつもりはないよ。」
抵抗する暇さえ与えず、再びその唇を塞ぐ。
甘い痺れを与えるように何度も引き寄せ、本能のままに貪り尽くしたくなる衝動を抑えきれない。
(今まで散々揶揄ってくれた御礼だ…)
格好をつける必要なんてない。格好悪い自分も、理性を失った素の自分もすべてを受け止めてくれた彼女だからこそ――
これから如何にして私から逃げられないように惚れ抜かせるか。
月明かりの下、私の頭の中はその企みでいっぱいに満たされていた。
『利吉くーん!』
「……何ですか。」
『もぉー、見るからに嫌そうな顔しちゃってさ。』
「………あなたが私の仕事先に、毎回毎回居るからでしょう。」
『何でそんなに怒る訳? 仕事なんだからしょうがないじゃない。』
「その仕事のたびに、何回あなたに手柄を取られたと思っているんだ!」
『あぁ、それは神様が私に味方してるからだね。』
「んな訳あるかぁ!!」
思わず張り上げた私の怒鳴り声に、彼女は悪びれもせず耳を塞ぐ。その顔には反省の二文字など欠片も見当たらない。
――ことの始まりは今朝のことだ。
今日はとある城から奪われた巻物を取り戻せとの依頼だった。
気配を消して城内へと忍び込み、目的の部屋へと辿り着く。室内があまりに静まり返っていることに違和感を覚えたものの、巻物に手を伸ばしたその瞬間――背後から、名前が姿を現したのだ。
『もう、そうやって怒鳴らないでよ。』
「あなたが邪魔をするからでしょう!」
『えー……学園の小松田さんほどじゃないじゃない。』
「それとこれとは話が別だ!」
悪びれもせずけろりと言い放つ彼女――名前は、忍術学園の卒業生であり、私と同い年だ。
「よく出来るくの一がいる」と父上から紹介されたのが最初だったが、まさか現場で顔を合わせる度こんな不毛なやり取りを繰り広げる関係になるとは思いもしなかった。
黙っていればどこに出しても恥ずかしくない美人なのだが、私に対してはご覧の有様である。
私がいくら怒りで額に青筋を立てていようと真剣に取り合わず、「そんなに私が悪いの?」とでも言いたげに首をかしげて見せる始末だ。
しかし、悔しいことに彼女は実に腕が立つ。仕事の成果でねじ伏せられている手前、文句を言いたくとも言い切れず私はただ大きなため息を吐き出すことしかできなかった。
「……ともかく、この巻物は私が引き取る。今回ばかりはあなたに譲る気はありませんよ。」
『えーっ、くれないの?』
「……あなたねぇ、少しは……っ!?」
あまりに悪びれない態度に、文句の一言でも言ってやろうと名前へ振り返った瞬間――私の言葉は喉の奥で凍りついた。
視界が揺れたと思った時には、すでに間合いを詰められている。
首筋にじわりと刺さるひんやりとした鋼の感触。いつの間に引き抜かれたのか、彼女の持つ苦無の刃先が寸分違わず私の頸脈を捉えていた。
「……何の真似だ。」
首筋に触れる冷たい感触が苦無だと理解した瞬間、額をすっと冷や汗が伝った。
見上げる名前の顔から、先ほどまでのあっけらかんとした雰囲気は完全に消え去っている。
私を見下ろす冷酷な瞳はゾッとするほどの圧迫感と異様な迫力を放っていた。
『利吉、油断は禁物よ。』
呼び捨てで落ちた静かな声に、背筋が凍りつく。
昔から彼女は、一瞬で感情を殺し、戦う者に切り替わることができる人間だった。
そこにいたはずの陽気な彼女は疾風のごとく姿を消し、いま目の前にいるのは、ただ粛々と忍務を遂行せんとする一人の冷徹なくの一だ。
本気の殺気を前に一瞬たじろぐ。
――だが、ここで引くわけにはいかない。
私は息を殺し、一瞬の隙を突いて懐から苦無を抜き放つと、首筋の刃を力任せに弾き返した。
間髪入れずに刃先を突き出すと、彼女は翼を広げた鳥のように軽々と後方へ跳躍し、間合いを取る。
流れるような身こなしに息を呑んだ次の瞬間――彼女は自身の手に握った苦無で、自らの装束を深く切り裂いた。
「何を……っ!?」
彼女のあまりに不可解な奇行に息を呑んだその瞬間だった。
部屋の外から、ドタバタと複数の足音が激しく近づいてくる。気配に気づいた時にはすでに遅く、逃げる様子も見せない彼女を前に部屋の襖が勢いよく蹴破られた。
「忍びだ! 忍びが侵入したぞ!」
「くの一をやられたか! 取り押さえろ!」
「――くの一、やれ!!」
刀や槍を構えた城兵たちの罵声が狭い室内に響き渡る。
その言葉の意味を理解した瞬間、頭を殴られたような衝撃が体を突き抜けた。
(雇われ……くの一……?)
この城の警護として雇われていたのか。だから私の潜入を阻み、手柄を奪いそして今刃を向けたのか。
城兵たちを背に、彼女がゆらりと立ち上がる。
自ら切り裂いた装束から覗く冷ややかな肌と、その奥にある氷のように鋭い眼光がまっすぐに私を射抜いた。
そこには、先ほどまで私をおちょくって無邪気に笑っていた彼女の面影など微塵もない。まるで、まったく見知らぬ冷酷な暗殺者と対峙しているかのような錯覚に陥る。
苦無を握りしめる私の手が、かすかに震えた。
彼女と戦うことなんてできるわけがない。
ポン、と軽い音とともに彼女の懐から転がり出たのは――煙玉だった。
瞬時に爆発した濃厚な煙が室内へ一気に充満し、城兵たちの姿を覆い隠していく。
『くせ者! 逃がさないわよ!』
芝居がかった一声が響いたかと思うと、彼女は追撃を装って壁へ数本の棒手裏剣を立て続けに打ち込んだ。
呆然とする私を置き去りに、名前は烈火のごとき勢いで突進してくると、私の腕を強引に掴み取った。
「え……っ!?」
そのまま勢いを殺さず、木造の窓枠を豪快に突き破る。
ガラガラと木片が飛び散り、一瞬で背後を夜風が駆け抜けた。
浮遊感のあと襲い来るのは猛烈な重力だ。
地面へ吸い込まれるように、二人して真っ逆さまに落ちていく。
死と隣り合わせの落下の最中、あろうことか私を抱え込む彼女は、月明かりの下で――満足気な満面の笑みを浮かべて笑っていた。
地表が間近に迫ったその瞬間、彼女は素早く懐から鉤縄を取り出すとしなやかな動作で城壁の突出部へ引っ掛けた。
ギチッと綱が軋み、強烈なショックとともに落下の勢いが殺される。
そのまま縄を滑らせるようにして、私たちは何事もなかったかのようにしなやかに地面へと降り立った。
『利吉、逃げるわよ!』
不敵な笑みを絶やさぬまま、彼女は闇の中へと疾風のごとく駆け出した。
月明かりの下、しなやかな身こなしで夜風を切る背中。
その破天荒ぶりに呆れつつも、私もすぐさま地を蹴り、彼女のあとを追う。
つい先ほどまで刃を交えていたはずなのに――私たちは今、同じ夜を並んで駆け抜けていた。
『今日、利吉があの城に潜入するって噂が回っていたの。だから咄嗟にね。』
「敵を騙すには、まず味方から……か。」
『そういうこと。』
追手の及ばない川下まで逃げ延び、ようやく名前は真実を口にした。
自ら装束を切り裂いたのは私に襲われたと見せかけるため。
窓を豪快に突き破ったのは、無理やり連れ去られたように装い城兵の追撃の目を欺くため。
あのまま彼女が介入しなければ、私は城の罠に嵌まり命を落としていたかもしれない。
フリーのプロとして潜り抜けてきた死線の数は伊達ではないつもりだったが――まさか、そこまで巧みに張り巡らされた網に気づかず、逆に彼女に救われていたとは。
『ふふん、私のおかげね。』
胸を張り、これ以上ないほど誇らしげな笑みを浮かべる名前。
悔しいが――今回ばかりはぐうの音も出ないほど彼女の言う通りだった。
借りを認めた瞬間に付け込んで、ここぞとばかりに何か対価を要求してくるに決まっている。
私は呆れ半分、諦め半分の溜め息をひとつ吐く。
「……で、何が望みだ。」
『えっ?』
「どうせ君のことだ。助けた見返りに何か要求があるんでしょう。」
『別に、何も要らないわよ。』
さらりと平然と言い放つ彼女に、思わず目を丸くする。
普段の彼女ならここぞとばかりに手柄や貸しを盾にして難題を突きつけてくるはずだ。
それが何も要らないとは、一体どういう風の吹き回しなのか。
予想外すぎる返答に毒気を抜かれ、私は口を開けたまま固まってしまった。
『命あって何より。……けど今回は流石にヒヤヒヤしたけど。』
そう言って胸を撫で下ろした直後、彼女は『でも仕事が〜』とぼやいているが彼女はいつもの調子で軽口を叩き、けらけらと笑った。
何でもない日常では私を揶揄い、窮地になれば一瞬で感情を殺して思考を切り替える。何が最優先か、現場の状況を瞬時に分析し行動に移せる凄腕のくの一。
悔しいが――完全に、彼女に出し抜かれた。
だが、そんな彼女の底知れなさと何より自分に向けられた密やかな情に激しく惹かれている自分がいた。
「名前」
『だから、何も要らないって言ってるでしょ……んむっ……!』
なおも軽口を叩こうとする唇を強引に奪い去る。
言葉を遮るように重ねた自身の唇から、抑えきれないやるせない想いをそのまま押し当てた。驚きに身を硬くする彼女を逃がさぬよう抱き寄せ、その柔らかく温かな感触を噛み締めるように堪能する。
――私はフリーのプロ忍者だ。
常に依頼人の期待に応え、誰の前でも隙のない「完璧な山田利吉」であり続けなければならない。本当の自分を理解し曝け出せる存在などこの世にいないのだと、どこかで諦めにも似た割り切りを抱いて生きてきた。
だが、彼女という存在はそんな私の冷えた内面を容赦なく引っかき回していく。
仮面を取り繕う暇さえ与えてくれず、格好悪い素の自分を思わず曝け出してしまうのは、後にも先にも彼女の前だからこそできることなのだ。
『はぁっ……っ、利吉……』
「少し、静かにしといてくれ。」
乱れる息を整えようと揺れる名前の唇の間から、容赦なく舌を滑り込ませ、その小さな歯列を舐めなぞる。
たまらず逃げようとする彼女の舌先を逃がさず捉え、じっくりと深く絡め取っていく。
滑らかな唾液が混じり合い、甘く熱を帯びた吐息ごと飲み干すような濃密な口吸い。
彼女のすべてを浸食していく感覚に胸の奥がじんりと疼くような心地よさを覚える。
目の前でとろりと瞳を潤わせ、自分に翻弄されている彼女の表情に抑えきれない男心がひどくくすぐられていた。
『ん……っ、利吉……っ!』
胸元をぐっと強く押され、名残惜しくも唇を離す。
名残のように引かれた透明な銀糸が、夜風にさらされてぷつりと切れた。
名前はよろめくように後ずさり、顔を真っ赤に染め上げたまま肩を大きく上下させている。
追いつかない呼吸の中、恥ずかしさに耐えかねたように口元を手で覆う――その姿は私がこれまで一度も見たことのない彼女の素顔だった。
たった一度の口づけでこれほどまでに動揺し、赤くなっているなんて。
――ああ、駄目だ。
蕩けた顔を目の当たりにした瞬間、理性の糸が跳ね上がるのを感じた。
今、私の中で燻っているのは心を満たしたいという想いだけではない。身体の奥底から彼女のすべてを暴き、貪り尽くしたいという強烈な欲望が渦巻いていた。
『あっ! ちょっと、それ巻物!』
「――今回は、私の勝ちということだね。」
どさくさに紛れて取り返しておいた巻物を懐から覗かせると、彼女は苦虫を噛み潰したような悔しそうな顔をした。
だが正直なところ、そんな仕事の成果など今の私には二の次だ。何より重要なのは、目の前にいるこの愛おしいくの一をどう攻略するか、なのだから。
「君が私を救ってくれたんだろう?」
『なっ……!』
「なら、最後まで責任を取ってもらおう。」
『責任って……んむっ!』
「――まだまだ、こんなもので終わらせるつもりはないよ。」
抵抗する暇さえ与えず、再びその唇を塞ぐ。
甘い痺れを与えるように何度も引き寄せ、本能のままに貪り尽くしたくなる衝動を抑えきれない。
(今まで散々揶揄ってくれた御礼だ…)
格好をつける必要なんてない。格好悪い自分も、理性を失った素の自分もすべてを受け止めてくれた彼女だからこそ――
これから如何にして私から逃げられないように惚れ抜かせるか。
月明かりの下、私の頭の中はその企みでいっぱいに満たされていた。