短編
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不覚の赤面
『ふぅ、やれやれ……。』
月が雲に隠れた真夜中、一人で風呂場へと向かう。
今日は野外演習で戻りが遅くなった上に、全身汗と砂まみれになってしまい、この時間になってようやく風呂に入ることができるのだ。くたくたに疲れた身を引きずるようにして脱衣所を目指す。
『えっ! お風呂が……!』
脱衣所の扉の前に立ち、絶句した。そこには大きく使用禁止と書かれた木札が厳然と貼られている。
ガックリと肩を落としたものの、ふと一つの妙案を思い出す。
忍たま長屋の風呂を借りればいいのだ。
そうと決まれば、思い立ったが吉日。足早に長屋へと向かうことにした。
『……失礼しまーす。』
足音を殺し、忍ぶようにして脱衣所の扉を静かに開ける。
幸運なことに誰にも気づかれず、しかも浴槽にはまだ湯が残っていた。これ幸いと手早く薪に火をつけ、湯を温め直す。手を入れて湯加減を確かめれば、丁度いいあんばいだ。
全身の汗と砂汚れをきれいに洗い流すと、先ほど温めた湯船へとそっと身体を沈めた。
他の生徒たちが使った後の残り湯のため湯量は少なめだが、一人で浸かるにはこれで十分すぎるほどだ。真夜中ではあったが、ひと手間かけて湯を沸かした甲斐があったというものだ。
『あーっ……気持ちいいー……。』
疲労困憊の全身に、温かい湯の熱がゆっくりと染み渡っていく。揺らめく湯面へ身を委ね、小さく息を吐き出した。
いつもなら他のくノ一たちとにぎやかに入る風呂だが、こうして真夜中に一人きりで浸かる時間はまさに格別だ。時間を忘れて呑気に長湯を決め込んでも、誰も責める者はいない。手足を思い切り限界まで伸ばし、至福の風呂を満喫した。
しばらく浸かっていると、ガラッと勢いよく戸口が開いた。その瞬間、背筋がピンと直立する。
なんでこの時間に人が入ってくるのか。湯船から出ようにも出られない。湯船の縁から恐る恐る顔を覗かせると、入ってきた人物の顔がはっきりと見えた。
「んっ?……誰か居るのか?」
『えっ、文次郎!? 何で!』
「なっ! な、なんで名前が居る!?」
誰かと思えば、そこには手拭い一枚で前を隠した文次郎が立っていた。
想定外すぎる出来事に慌てて湯船の中へと身体を沈めたが、文次郎も真っ赤になって大慌てで入ってきた戸口から飛び出していく。
『わ、私は野外演習の後だから入ってたの!』
「お、俺だって鍛錬後だ!」
しまった、すっかり忘れていた。上級生にもなれば、ある程度の自由が利き、夜中でも風呂に入ることが許されているのだ。
文次郎のことだ。どうせ一人で夜遅くまで鍛錬に励みすぎて、時間を忘れていたのだろう。
「てか、何で忍たま風呂場にいるんだよ!」
『くのたま長屋のお風呂が使えなくて……。』
「はぁ!?」
『しょうがないじゃない。誰も居ないと思ったんだもん。』
湯船の中に顔を半分沈み込ませ、ぷくぷくと泡を立てる。
だって、まさか文次郎が来るとは思っていなかったのだ。
こんな気まずい状況になるのが分かっていたなら、今夜の風呂くらい我慢しておくべきだったと後悔が押し寄せてくる。
今日は充分な鍛錬ができたため、湯船に入りたい気分だった。だが、よりによって風呂場には名前が居た。
俺だって温かい湯には浸かりたいが、男女一緒の風呂など絶対にあり得ない。
あいつは男としての俺の意識など露知らず、平気な顔で呑気なことを言いやがる。しかも、前々からひそかに気になっていた女が、言葉通りの丸裸でそこにいるのだ。思わず手拭いで顔を覆い、頭を抱えてしまう。
今すぐこの気まずい状況から逃げ出してしまいたい。
「早く出ろ。」
『今浸かったばかりだから、それは嫌。』
「はぁ!?」
頑なにして出ようとしない名前。
仕方ない。今晩は湯に浸かるのを諦めて、井戸の水で身体を拭くだけにしておくか。
『待って、文次郎!』
戸口を閉め、脱衣所へと上がろうと背を向けたところで、風呂場から名前が引き留めるような声を上げてきた。
「何だ?」
『入らないの?』
風呂場で声が反響し、はっきりと耳に入ってきた。
名前がとんでもないことを言い出しやがった。コイツ、己の発言の意味を分かって言っているのか。
一気に頬へと熱が集まっていくのが分かる。
「アホか! 入れる訳ないだろ!」
『でも……せっかく沸かしたお湯が冷めちゃうけど……』
「ぐっ……」
正直、今日の激しい鍛錬で全身汗と泥まみれであり、温かい浴槽にどうしても浸かりたかったのは事実だ。
だが、名前が出ないと言い張る以上、一体どうしろというのだ。
『私、絶対見ないから入っておいでよ。』
「なっ……お前なぁ!」
『こんな真夜中にそれ以上大声出したら、誰か駆けつけてくるかもよ。』
名前の言葉にぐうの音も出ない。
こんなところを他の生徒や先生方に見られた方が、よっぽど大変な問題になるからだ。想像しただけで恐ろしい身震いが走る。
「はぁ……絶対見るなよ! 本当に絶対だからな!」
『うん、見ない、見ない!』
浴槽に浸かったまま、背を向けて待っていると、覚悟を決めた文次郎が戸口から入ってきた。
約束通り見ないようにはしているものの、どうしても気になってしまう。
ザバっと湯を被る生々しい音が響く。ちらりとほんの少しだけ後ろを振り返ってみると、立ち込める風呂場の湯気の向こうに文次郎の背中が見えた。
同い年とは思えないほど筋肉が躍動し、筋骨逞しく硬く引き締まった身体は、湯気越しでもはっきりとわかる。
その圧倒的な男の身体に思わず見入ってしまい、ハッとして息を飲んだ。
まるで文次郎の身体に反応している変態じゃないかと己を恥じるものの、吸い寄せられるように目が逸らせない。
身体を洗い終わった文次郎が、湯船へ浸かろうとこちらに向かって歩いてくる。
見ていたのがバレてしまうとパニックになり、あたふたしながら急いで浴槽から上がろうとしたのだった。
『ぬ、温もったみたいだから、私先に出るね!』
「ば、馬鹿野郎! いきなり立ち上がる奴があるか!」
『へっ……?』
文次郎が真っ赤になって慌てて目を背けている。どうやら私が見ていたことには気づいていないみたいだ。その様子に一旦は安堵したものの、次の瞬間にふと我に返った。
——私は今、文次郎の目の前で何も纏っていない。完全に丸裸なのだ。
理解した瞬間、一気に顔から火が出そうなほど熱が沸騰する。
『っ……なぁっ!』
「馬鹿! 静かにしろ!」
思わず悲鳴を上げかけた瞬間、焦った文次郎の手によって乱暴に口を塞がれた。と同時に体勢を崩し、浴槽の縁でツルリと足を滑らせてしまったのだった。
『キャッ!』
「おい!」
文次郎がとっさに腕を伸ばし、頭から湯船の縁へ滑り落ちそうになった私をぐっと受け止めてくれた。
湯で濡れてしっとりと湿った文次郎の硬い胸板がダイレクトに私の素肌へと押し当てられる。
文次郎の力強く脈打つ鼓動が、肌を通してダイレクトに伝わってくる。
トクッ、トクッと規則正しく刻まれる鼓動の音が、妙に心地良い。今、私たちが身を置くこの風呂場だけがまるで世界の時間から取り残されたかのように、ゆるやかに過ぎていく感覚に囚われる。自分自身の脈拍も一気に跳ね上がり、血の巡りが先ほどよりも激しく全身を駆け巡っているのがわかる。
(何で私……文次郎なんかに、こんなにドキドキしてるんだろう……)
頭ではそう混乱しているはずなのに、離れなければいけないはずなのに今はもう少しだけ彼の腕の中で抱かれていたいと思ってしまう。
ふと、私の腰元へとハラリと何かが滑り落ちた。
吸い寄せられるように視線を下に向けると、それは文次郎が前を隠していたはずの、あの小さな手拭いだった。
その瞬間、濡れた空気の満ちる風呂場内が、息もできないほどの濃密な沈黙に包まれた。
ポタッ……。
静かな風呂場に、水滴が落ちる音が響いた。自分の胸元へ垂れ落ちてきたその雫に目をやると、透明な湯ではなく真っ赤な血で染まっている。だが、抱きすくめてくれている肝心の文次郎はぴくりとも動かない。
不審に思い、そっと顔を上げて文次郎の表情を窺うと、彼は大量の鼻血を流しながら、完全に固まっていた。
『ご、ごめん文次郎! 私の頭、鼻にぶつけちゃった!?』
「…………むっ……。」
『えっ?』
「……む…………ねっ……。」
『ちょ、ちょっと文次郎!!!』
蚊の泣くような声で何を呟いたのか聞き取れないまま、文次郎は白目を剥いてそのままバタンと豪快に後ろへと倒れ、気絶してしまった。
顔の血色自体は上気して赤いものの、突然の出来事に一部青白くなっている。
『ちょっと、起きてよ文次郎!』
このまま濡れた床に放置するわけにもいかず、焦った私は大急ぎで風呂場から這い上がり、脱衣所へと文次郎の巨体を必死で引っ張り出したのだった。
「……はっ!」
『文次郎!』
「名前……俺は……。」
『気絶したのよ。良かった……意識が戻って。』
うっすらと目を開く。一瞬ここがどこなのか理解できなかったが、どうやらここは風呂場へと向かう廊下のようだ。
しかも何やら頭上が柔らかくて温かい。
上を向くと視界に二つの膨らみが入り、寝巻き姿の名前が優しく俺の頭を撫でていた。
「なっ……なっ……なっ……!」
今の状況を理解し、驚きのあまりガバッと飛び起きると、申し訳なさそうに名前が苦笑いを浮かべた。
『ごめんね。服がないと風邪ひいちゃうから、勝手に寝巻きを着せたの。』
見れば、あいつ自身もすでにしっかりと寝巻きを身に着けていた。夜風に当たったおかげで、一気に血が登っていた頭が徐々に冷静を取り戻していく。
そうだ。名前の胸が直接俺に当たった際、あの何とも言えない乳房の柔らかさと温もりに理性が耐えきれず、意識が飛んでしまったのだ。
思い出せば思い出すほど、あれしきの事で気絶してしまった己の不甲斐なさが恥ずかしく、それでいて感触が今でも脳裏に鮮明に思い出せてしまう事実がとてつもなく屈辱的だった。
『どこも怪我はしてない?』
「お、俺は大丈夫だ。」
『鼻血が出てたから心配だったけど……良かった。』
そう言って名前が安堵の表情で俺に優しく微笑みかける。あいつは純粋に俺の身体を心配してくれていたのだ。
まさかお前の胸の柔らかさに理性が飛んで気絶したなどという下心が理由だと知られたら、ドン引きされるに違いない。ここは死んでも口にせず、言わぬが花というものだろう。
「俺だったから良かったものの……今度からは気をつけろよ。」
言葉選びを間違えた。咄嗟に出てきたのは、素直になれない憎まれ口ばかりだ。
しまった、と内心で焦ったが、すでに吐き出してしまった言葉は引っ込められない。
恐る恐る名前に視線を向けると、あいつは怒るどころか、変わらずふんわりと笑っていた。
『文次郎の言う通りだわ。……不注意だったね。そろそろ長屋に戻るね。ありがとう。』
名前が静かに立ち上がり、背を向けて去ろうとする。
——もう行ってしまうのか。
「待て。送る。」
『えっ、大丈夫だよ。すぐそこだし。』
「お前な、少しは危機感を持て。」
『文次郎……。』
好いた奴をこんな真夜中に一人で帰らせる男が、一体どこにいるというのだ。
名前と肩を並べ、静まり返った夜の学園をゆっくりと歩み進める。
隣を歩く名前から、風呂上がりの甘く心地良い石鹸の香りがふわりと漂い、鼻腔をくすぐった。
今だけは、この香りは俺と同じなんだと思うと、胸の奥からじんわりと込み上げてくる嬉しさがあったが、そんな甘い表情は絶対に顔に出してやるものかと引き締める。
何度も通り慣れ、見慣れたはずの学園内の景色だというのに、こうしてコイツと二人きりで並んで歩いているだけでまるで全く知らない別の場所にいるかのような錯覚に陥っていた。
「着いたぞ。」
『ありがとう。』
くのたま長屋のすぐ近くまでやってきた。
これ以上俺が進むと、くノ一たちが仕掛けた厳重な罠が作動してしまうため、俺と名前の夜道はここまでとなる。
「今日のことは……全部忘れろよ。」
念のため、釘を刺すように言い渡す。だが、名前の表情は先ほどまでの申し訳なさそうな顔とはうって変わり、 ニヤニヤと楽しげな含み笑いを浮かべていた。
「なんだ、その笑いは。」
『別に〜?』
「ふん、なら俺は帰る。」
笑いの意図が理解できず、背を向けて踵を返そうとした。
すると、名前が忍び足で俺の耳元まで顔を寄せ、低く甘い声で囁いてきた。
『でも、文次郎の身体……すごく格好良かったよ。』
「なっ……! お前、見てたのか!!!」
『あはは! 怒った怒った。おやすみ、文次郎!』
キャッキャッと楽しそうに声を弾ませながら、闇の中へとすばしっこく姿を消し、くのたま長屋へと帰っていく名前
あいつのそんな無邪気で何も考えていないような様子を、心底可愛いと思ってしまう俺は、相当重症なのだろうか。
夜風の吹き抜ける暗がりの中、俺はぽりぽりと頭を掻きながら、深い溜め息をひとつ吐くのだった。
『ふぅ、やれやれ……。』
月が雲に隠れた真夜中、一人で風呂場へと向かう。
今日は野外演習で戻りが遅くなった上に、全身汗と砂まみれになってしまい、この時間になってようやく風呂に入ることができるのだ。くたくたに疲れた身を引きずるようにして脱衣所を目指す。
『えっ! お風呂が……!』
脱衣所の扉の前に立ち、絶句した。そこには大きく使用禁止と書かれた木札が厳然と貼られている。
ガックリと肩を落としたものの、ふと一つの妙案を思い出す。
忍たま長屋の風呂を借りればいいのだ。
そうと決まれば、思い立ったが吉日。足早に長屋へと向かうことにした。
『……失礼しまーす。』
足音を殺し、忍ぶようにして脱衣所の扉を静かに開ける。
幸運なことに誰にも気づかれず、しかも浴槽にはまだ湯が残っていた。これ幸いと手早く薪に火をつけ、湯を温め直す。手を入れて湯加減を確かめれば、丁度いいあんばいだ。
全身の汗と砂汚れをきれいに洗い流すと、先ほど温めた湯船へとそっと身体を沈めた。
他の生徒たちが使った後の残り湯のため湯量は少なめだが、一人で浸かるにはこれで十分すぎるほどだ。真夜中ではあったが、ひと手間かけて湯を沸かした甲斐があったというものだ。
『あーっ……気持ちいいー……。』
疲労困憊の全身に、温かい湯の熱がゆっくりと染み渡っていく。揺らめく湯面へ身を委ね、小さく息を吐き出した。
いつもなら他のくノ一たちとにぎやかに入る風呂だが、こうして真夜中に一人きりで浸かる時間はまさに格別だ。時間を忘れて呑気に長湯を決め込んでも、誰も責める者はいない。手足を思い切り限界まで伸ばし、至福の風呂を満喫した。
しばらく浸かっていると、ガラッと勢いよく戸口が開いた。その瞬間、背筋がピンと直立する。
なんでこの時間に人が入ってくるのか。湯船から出ようにも出られない。湯船の縁から恐る恐る顔を覗かせると、入ってきた人物の顔がはっきりと見えた。
「んっ?……誰か居るのか?」
『えっ、文次郎!? 何で!』
「なっ! な、なんで名前が居る!?」
誰かと思えば、そこには手拭い一枚で前を隠した文次郎が立っていた。
想定外すぎる出来事に慌てて湯船の中へと身体を沈めたが、文次郎も真っ赤になって大慌てで入ってきた戸口から飛び出していく。
『わ、私は野外演習の後だから入ってたの!』
「お、俺だって鍛錬後だ!」
しまった、すっかり忘れていた。上級生にもなれば、ある程度の自由が利き、夜中でも風呂に入ることが許されているのだ。
文次郎のことだ。どうせ一人で夜遅くまで鍛錬に励みすぎて、時間を忘れていたのだろう。
「てか、何で忍たま風呂場にいるんだよ!」
『くのたま長屋のお風呂が使えなくて……。』
「はぁ!?」
『しょうがないじゃない。誰も居ないと思ったんだもん。』
湯船の中に顔を半分沈み込ませ、ぷくぷくと泡を立てる。
だって、まさか文次郎が来るとは思っていなかったのだ。
こんな気まずい状況になるのが分かっていたなら、今夜の風呂くらい我慢しておくべきだったと後悔が押し寄せてくる。
今日は充分な鍛錬ができたため、湯船に入りたい気分だった。だが、よりによって風呂場には名前が居た。
俺だって温かい湯には浸かりたいが、男女一緒の風呂など絶対にあり得ない。
あいつは男としての俺の意識など露知らず、平気な顔で呑気なことを言いやがる。しかも、前々からひそかに気になっていた女が、言葉通りの丸裸でそこにいるのだ。思わず手拭いで顔を覆い、頭を抱えてしまう。
今すぐこの気まずい状況から逃げ出してしまいたい。
「早く出ろ。」
『今浸かったばかりだから、それは嫌。』
「はぁ!?」
頑なにして出ようとしない名前。
仕方ない。今晩は湯に浸かるのを諦めて、井戸の水で身体を拭くだけにしておくか。
『待って、文次郎!』
戸口を閉め、脱衣所へと上がろうと背を向けたところで、風呂場から名前が引き留めるような声を上げてきた。
「何だ?」
『入らないの?』
風呂場で声が反響し、はっきりと耳に入ってきた。
名前がとんでもないことを言い出しやがった。コイツ、己の発言の意味を分かって言っているのか。
一気に頬へと熱が集まっていくのが分かる。
「アホか! 入れる訳ないだろ!」
『でも……せっかく沸かしたお湯が冷めちゃうけど……』
「ぐっ……」
正直、今日の激しい鍛錬で全身汗と泥まみれであり、温かい浴槽にどうしても浸かりたかったのは事実だ。
だが、名前が出ないと言い張る以上、一体どうしろというのだ。
『私、絶対見ないから入っておいでよ。』
「なっ……お前なぁ!」
『こんな真夜中にそれ以上大声出したら、誰か駆けつけてくるかもよ。』
名前の言葉にぐうの音も出ない。
こんなところを他の生徒や先生方に見られた方が、よっぽど大変な問題になるからだ。想像しただけで恐ろしい身震いが走る。
「はぁ……絶対見るなよ! 本当に絶対だからな!」
『うん、見ない、見ない!』
浴槽に浸かったまま、背を向けて待っていると、覚悟を決めた文次郎が戸口から入ってきた。
約束通り見ないようにはしているものの、どうしても気になってしまう。
ザバっと湯を被る生々しい音が響く。ちらりとほんの少しだけ後ろを振り返ってみると、立ち込める風呂場の湯気の向こうに文次郎の背中が見えた。
同い年とは思えないほど筋肉が躍動し、筋骨逞しく硬く引き締まった身体は、湯気越しでもはっきりとわかる。
その圧倒的な男の身体に思わず見入ってしまい、ハッとして息を飲んだ。
まるで文次郎の身体に反応している変態じゃないかと己を恥じるものの、吸い寄せられるように目が逸らせない。
身体を洗い終わった文次郎が、湯船へ浸かろうとこちらに向かって歩いてくる。
見ていたのがバレてしまうとパニックになり、あたふたしながら急いで浴槽から上がろうとしたのだった。
『ぬ、温もったみたいだから、私先に出るね!』
「ば、馬鹿野郎! いきなり立ち上がる奴があるか!」
『へっ……?』
文次郎が真っ赤になって慌てて目を背けている。どうやら私が見ていたことには気づいていないみたいだ。その様子に一旦は安堵したものの、次の瞬間にふと我に返った。
——私は今、文次郎の目の前で何も纏っていない。完全に丸裸なのだ。
理解した瞬間、一気に顔から火が出そうなほど熱が沸騰する。
『っ……なぁっ!』
「馬鹿! 静かにしろ!」
思わず悲鳴を上げかけた瞬間、焦った文次郎の手によって乱暴に口を塞がれた。と同時に体勢を崩し、浴槽の縁でツルリと足を滑らせてしまったのだった。
『キャッ!』
「おい!」
文次郎がとっさに腕を伸ばし、頭から湯船の縁へ滑り落ちそうになった私をぐっと受け止めてくれた。
湯で濡れてしっとりと湿った文次郎の硬い胸板がダイレクトに私の素肌へと押し当てられる。
文次郎の力強く脈打つ鼓動が、肌を通してダイレクトに伝わってくる。
トクッ、トクッと規則正しく刻まれる鼓動の音が、妙に心地良い。今、私たちが身を置くこの風呂場だけがまるで世界の時間から取り残されたかのように、ゆるやかに過ぎていく感覚に囚われる。自分自身の脈拍も一気に跳ね上がり、血の巡りが先ほどよりも激しく全身を駆け巡っているのがわかる。
(何で私……文次郎なんかに、こんなにドキドキしてるんだろう……)
頭ではそう混乱しているはずなのに、離れなければいけないはずなのに今はもう少しだけ彼の腕の中で抱かれていたいと思ってしまう。
ふと、私の腰元へとハラリと何かが滑り落ちた。
吸い寄せられるように視線を下に向けると、それは文次郎が前を隠していたはずの、あの小さな手拭いだった。
その瞬間、濡れた空気の満ちる風呂場内が、息もできないほどの濃密な沈黙に包まれた。
ポタッ……。
静かな風呂場に、水滴が落ちる音が響いた。自分の胸元へ垂れ落ちてきたその雫に目をやると、透明な湯ではなく真っ赤な血で染まっている。だが、抱きすくめてくれている肝心の文次郎はぴくりとも動かない。
不審に思い、そっと顔を上げて文次郎の表情を窺うと、彼は大量の鼻血を流しながら、完全に固まっていた。
『ご、ごめん文次郎! 私の頭、鼻にぶつけちゃった!?』
「…………むっ……。」
『えっ?』
「……む…………ねっ……。」
『ちょ、ちょっと文次郎!!!』
蚊の泣くような声で何を呟いたのか聞き取れないまま、文次郎は白目を剥いてそのままバタンと豪快に後ろへと倒れ、気絶してしまった。
顔の血色自体は上気して赤いものの、突然の出来事に一部青白くなっている。
『ちょっと、起きてよ文次郎!』
このまま濡れた床に放置するわけにもいかず、焦った私は大急ぎで風呂場から這い上がり、脱衣所へと文次郎の巨体を必死で引っ張り出したのだった。
「……はっ!」
『文次郎!』
「名前……俺は……。」
『気絶したのよ。良かった……意識が戻って。』
うっすらと目を開く。一瞬ここがどこなのか理解できなかったが、どうやらここは風呂場へと向かう廊下のようだ。
しかも何やら頭上が柔らかくて温かい。
上を向くと視界に二つの膨らみが入り、寝巻き姿の名前が優しく俺の頭を撫でていた。
「なっ……なっ……なっ……!」
今の状況を理解し、驚きのあまりガバッと飛び起きると、申し訳なさそうに名前が苦笑いを浮かべた。
『ごめんね。服がないと風邪ひいちゃうから、勝手に寝巻きを着せたの。』
見れば、あいつ自身もすでにしっかりと寝巻きを身に着けていた。夜風に当たったおかげで、一気に血が登っていた頭が徐々に冷静を取り戻していく。
そうだ。名前の胸が直接俺に当たった際、あの何とも言えない乳房の柔らかさと温もりに理性が耐えきれず、意識が飛んでしまったのだ。
思い出せば思い出すほど、あれしきの事で気絶してしまった己の不甲斐なさが恥ずかしく、それでいて感触が今でも脳裏に鮮明に思い出せてしまう事実がとてつもなく屈辱的だった。
『どこも怪我はしてない?』
「お、俺は大丈夫だ。」
『鼻血が出てたから心配だったけど……良かった。』
そう言って名前が安堵の表情で俺に優しく微笑みかける。あいつは純粋に俺の身体を心配してくれていたのだ。
まさかお前の胸の柔らかさに理性が飛んで気絶したなどという下心が理由だと知られたら、ドン引きされるに違いない。ここは死んでも口にせず、言わぬが花というものだろう。
「俺だったから良かったものの……今度からは気をつけろよ。」
言葉選びを間違えた。咄嗟に出てきたのは、素直になれない憎まれ口ばかりだ。
しまった、と内心で焦ったが、すでに吐き出してしまった言葉は引っ込められない。
恐る恐る名前に視線を向けると、あいつは怒るどころか、変わらずふんわりと笑っていた。
『文次郎の言う通りだわ。……不注意だったね。そろそろ長屋に戻るね。ありがとう。』
名前が静かに立ち上がり、背を向けて去ろうとする。
——もう行ってしまうのか。
「待て。送る。」
『えっ、大丈夫だよ。すぐそこだし。』
「お前な、少しは危機感を持て。」
『文次郎……。』
好いた奴をこんな真夜中に一人で帰らせる男が、一体どこにいるというのだ。
名前と肩を並べ、静まり返った夜の学園をゆっくりと歩み進める。
隣を歩く名前から、風呂上がりの甘く心地良い石鹸の香りがふわりと漂い、鼻腔をくすぐった。
今だけは、この香りは俺と同じなんだと思うと、胸の奥からじんわりと込み上げてくる嬉しさがあったが、そんな甘い表情は絶対に顔に出してやるものかと引き締める。
何度も通り慣れ、見慣れたはずの学園内の景色だというのに、こうしてコイツと二人きりで並んで歩いているだけでまるで全く知らない別の場所にいるかのような錯覚に陥っていた。
「着いたぞ。」
『ありがとう。』
くのたま長屋のすぐ近くまでやってきた。
これ以上俺が進むと、くノ一たちが仕掛けた厳重な罠が作動してしまうため、俺と名前の夜道はここまでとなる。
「今日のことは……全部忘れろよ。」
念のため、釘を刺すように言い渡す。だが、名前の表情は先ほどまでの申し訳なさそうな顔とはうって変わり、 ニヤニヤと楽しげな含み笑いを浮かべていた。
「なんだ、その笑いは。」
『別に〜?』
「ふん、なら俺は帰る。」
笑いの意図が理解できず、背を向けて踵を返そうとした。
すると、名前が忍び足で俺の耳元まで顔を寄せ、低く甘い声で囁いてきた。
『でも、文次郎の身体……すごく格好良かったよ。』
「なっ……! お前、見てたのか!!!」
『あはは! 怒った怒った。おやすみ、文次郎!』
キャッキャッと楽しそうに声を弾ませながら、闇の中へとすばしっこく姿を消し、くのたま長屋へと帰っていく名前
あいつのそんな無邪気で何も考えていないような様子を、心底可愛いと思ってしまう俺は、相当重症なのだろうか。
夜風の吹き抜ける暗がりの中、俺はぽりぽりと頭を掻きながら、深い溜め息をひとつ吐くのだった。