劇場版ドクタケ忍者隊最強の軍師
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後日談③
「皆、揃ったな。」
潮江文次郎の声が、蝋燭の灯る長屋に響く。
どっぷりと夜に染まった学園。土井先生の件を経て戻ってきて以来、こうして六年生全員そして私までもが集まり穏やかな時間を過ごせるのは久しぶりだった。
ゆらゆら揺れる小さな灯火を囲み、最初の数刻は和気藹々とした会話が弾んでいた。くだらない冗談に笑い合い、相変わらずの空気に胸が温かくなる。
だが――ある話題が上った瞬間を境に、室内の空気が一変しピンと張り詰めた。
「この間の土井先生の件、どう思った?」
仙蔵が切り出すと同時に、皆がふむ……と考え込む。
静まり返った部屋の中で、蝋燭の火だけが小さく揺れていた。誰もがあの死線と背中合わせだった日々を思い出し、複雑な表情を浮かべる。
「在学中に経験できた事はでかいな。」
「でも土井先生が無事に戻って良かったよ。」
「それはそうだが、改めて実力の違いを思い知らされたのも事実だ。」
「私はもっと強くならねばと思ったな!」
「激しく同意……もそっ」
仙蔵を筆頭に、文次郎、伊作、小平太、長次と、各々が抱いていた思いをぽつりぽつりと口にし始める。
いつもなら破天荒な小平太や、穏やかな伊作の顔にも今はプロの忍びを目指す者としての厳しさと覚悟が滲んでいた。
あの過酷な戦いを全員で乗り越えたからこそ、自分の未熟さとこれから踏み出す世界の厳しさが痛いほど身に染みているのだ。
「名前はどうだ?」
『私?』
仙蔵からの問い掛けにうーんと、頭を傾げながら考える。
下手をすれば死人が出た。それだけ事態は重大であり、最上級生にまでなって思い知らされたプロとの実力の差は、あまりにも圧倒的だった。
自分たちの甘さや青さを突きつけられた恐怖は今でも鮮明に覚えている。
『確かに今まで様々な忍務をこなしてきたけど、今回みたいな件は初めてだったね。』
身じろぎせず胸の内を述べると、波打つように沈黙が室内を染める。
『何より味方が敵に、土井先生に命を狙われた事は衝撃だった。』
あの日皆、傷を負ったが致命傷になりかね無い傷を負ったのは事実だ。
特に肩を大きく斬られた小平太。
言葉にすると、あの時の生臭い血の匂いと鉄の味が冷たい刃のように脳裏をかすめる。
『…喋りすぎね。』
「いや構わない、続けてくれ。」
仙蔵の言葉はやたらと心に響き、他の六年生たちはじっと黙り込んでいる。
静かな室内でこのまま続きを発するのも正直気が引けるが、自分の中で心を決め、閉ざしかけた口を再び開いた。
『私達は弱い。学園では最上級生だけど、私達の実力は外の忍びより遥かに劣ると考えていいわ。』
黙って私の言葉に深く頷く仙蔵と伊作を視界の端に捉える。
今のこの場において、気休めの優しい言葉などは一切不要だろう。
だからこそ、私はあえて手厳しい現実を言葉にして叩きつけた。
「……否定はできねぇな。」
沈黙を破ったのは文次郎だった。悔しそうに歯の根を噛み締めながら、囲炉裏の炭を見つめている。
『でも卒業したら、もっと辛い経験や場面に対峙するわ。』
蝋燭の火がゆらりと揺らぐ。その影が室内の壁に大きく映り込み、ジジジっと小さな音を立てて蝋の雫が受け皿に流れ落ちた。
『私達は今以上に覚悟をもって、強くならないといけない。』
すべての発言を終えると、シン……と重い静寂が室内を丸ごと包み込んだ。
仙蔵、文次郎、小平太、長次、伊作、そして留三郎。
一人ひとりの顔を順に見渡していくが、誰もすぐには言葉を発しようとしない。その圧倒的な沈黙と真剣な視線に耐えかねて、私は思わずゴクリと喉を鳴らした。
「……まったくだな。」
静寂を破ったのは、腕を組み、深く目を閉じていた文次郎だった。
ゆっくりと目を開けた彼の瞳には、暗闇を射抜くような鋭い光が宿っていた。
「同感だ。名前の言う通りだ。俺たちはプロになる。甘えや慢心は死に直結するんだ。」
「ふっ……手厳しいが、まさに私たちが直面している現実そのものだな。」
仙蔵が静かに息を吐き、口元に薄い笑みを浮かべた。その瞳に冷ややかな諦めはなく、むしろ燃え上がるような意気が満ちている。
「名前が事実をはっきり言うものだから緊張しちゃったよ。」
「でもこの意見は俺らだけでは出なかったな。」
『伊作、留三郎……』
「確かに強くなるだけではだめだな! 覚悟を持って戦う時のが必要だな!」
「小平太……覚悟はいいが戦うのは…………もそっ」
『小平太、長次も……』
あえて手厳しい言葉を選んだというのに、この人たちは本当に――。
思わずふっと口元に笑みを浮かべてしまった。
そうだ。あの時、土井先生と対峙した時の皆の顔付きは、紛れもなく「忍び」そのものだった。
経験は圧倒的に足りなかったかもしれない。けれど、仲間や恩師を守るための覚悟だけは全員が剥き出しにしていた。だからこそ、あの怒涛の事態に誰も折れずに立ち向かえたのだ。
ただ、誰もが心のどこかで動揺してしまっていた。かくいう私も含めて。
仲間だと思っていた存在から命を狙われるという、あまりにも重く冷酷な経験。だがそれも、これからの私たちにとっては代えがたい大きな糧になったはずだ。
本来、情報を素早く持ち帰るために敵の追跡を撒き、極力戦闘を避けて逃げるのが忍者の鉄則だ。
けれど、どうしても戦わなければいけない瞬間は必ず訪れる。守るべきもののために、自分の命を懸けて刃を交える時が。
「……逃げるだけじゃ、守り切れない時もあるからな。」
留三郎が静かに呟く。
『……そうね。』
言葉の代わりにぽつりと零した声が、薄暗い室内に静かに染み込んでいく。
昔、私が大切なものを全て奪われたあの日のように。
言葉を持たぬ弱者は何も守ることができず、ただ奪われ、踏みにじられるだけ。この過酷な世界で命を繋ぎ、愛する者の手を握り続けることができるのは、生き残る強さを得た者だけなのだ。
冷徹で哀しくて、けれど決して背けることのできない世界の真理。
忍びとして生きる私たちは皆、その傷と覚悟を言葉には出さずとも、それぞれ心の奥底に深く秘めて生きている。
『……実際、私達が死んでも変わりはいる。』
「名前、怖い事を言わないで。」
『あら、でもこれは事実よ。一人、二人抜けても歯車が回るように忍務は続行される。』
「名前、お前死ぬ気なのか?」
『馬鹿、例えの話。』
伊作と文次郎の青ざめた表情に、苦笑いを浮かべながら返す。
「お前は時に何処かの忍びなのかと思う程大人びているな。」
「しかもあの土井先生とまともに戦ってたしな。」
『伊達に色々経験してるからね。』
仙蔵に軽くVサインをしながら視線を向けると、ずっと静かだった留三郎がおもむろに立ち上がった。
そして私のすぐ隣へと押し通るように座り込む。
そうだ。あの件の本当の恐ろしさを、そして私の過去や戦う理由を知っているのは、一緒に死線を潜り抜けてくれた留三郎だけだ。
彼がそっと私の背後から大きな手を伸ばし、力強く、けれどどこか愛おしむように腰を抱き寄せてきた。
「冗談でも死ぬなんて言うな。」
耳元に落ちてきた留三郎の声は、低く少しだけ震えていた。
背中に当たる胸の鼓動が、驚くほど速く打っているのが伝わってくる。
「歯車がどうあろうと関係ねぇ。俺にとって……お前の代わりなんて、この世のどこを探したっていねぇんだよ。」
周囲の六年生たちが一瞬「お前ら……?」と呆気にとられた表情を浮かべたが、留三郎はそんな視線すら意に介さず、私を自分に引き寄せる腕の力を緩めなかった。
「それはお前らがくっつくきっかけに関係しているのか?」
留三郎のあからさまな行動に、文次郎が眉をしかめながら疑問をぶつけてくる。
「野暮だぞ、文次郎。」
『文次郎……』
「以前の野外実習の時、お前はいなくなった。何故だ。」
文次郎が言っているのは、以前城に忍び込んだあの野外実習の件だ。
あの晩、忍び込んだ城には私の家族を討った敵がいた。あの一夜の出来事には、私自身の暗い過去が深く関わっている。
自分自身でケリはつけた。けれど正直なところ自分の過去をわざわざ掘り返して語るような真似は余りしたくなかった。
嫌な記憶を自ら巻き戻すのは苦しい。
だが全員でこうして膝を突き合わせているこの機会を逃せば、この先互いの肚を割って話せる機会なんて二度と訪れないかもしれない。
私が小さく息を飲んだ瞬間、腰を抱く留三郎の手にぐっと力がこもった。
「話したくなければ、俺が――」と言いかけた留三郎の言葉を制するように、私は彼の手の上に自分の手をそっと重ねる。
『……いいのよ、留三郎。』
皆の視線が私に集まる。
蝋燭の火がゆらゆらと揺れ、室内に静かな緊張が走った。
「名前、無理はするな。」
留三郎が私の手を握りしめる。彼が手を握った事で気付いた。自身の手が震えていることに。過去を話す事で彼らに突き放されたらどうしよう。そんな不安が頭をよぎる。
『留三郎……』
「俺がいる。何があってもお前のそばを離れないから。」
不安を打ち消すように向けられた彼のまっすぐな笑顔と、伝わってくる確かな温もりが私を包み込んでくれる。
そうだ。今の私は、あの日一人で絶望していた弱者じゃない。
彼の存在が、私を暗闇から救い出してくれる。
『……ならちょっと昔話をしましょうか。』
私は顔を上げ、静かに自分を見つめる仙蔵や文次郎、伊作たちの瞳を正面から見据えた。
静まり返る室内に、私の声だけが深く通っていく。
隠し続けてきた暗い過去と、あの日血煙の中で断ち切った因縁。
留三郎の温もりに支えられながら、私はすべての過去を隠すことなく打ち明けた。
『………以上が私の過去。』
自身が元は豪族の出であり、幼い頃に勢力を広げる盗賊の襲撃を受けて手当たり次第に金品を奪われ、父母を目の前で手にかけられたこと。
学園に入学するまではたった一人で生き延び、生きるための知識と力を泥這うようにして身につけてきたこと。
すべての過去を話し終えると、室内には重く冷たい沈黙が立ち込めた。
『貴方達がどう思っても構わないわ。』
正直、この戦乱の世において、戦で親を失い家を追われること自体は決して特別な話ではない。
飢饉に孤児、弱者が自分の身を守るためには、どんな手段を使ってでも知識や力をつけるしかない。そうしなければ野垂れ死ぬだけだ。私はただ、運良く生き延びて忍術学園に拾われたに過ぎないのだから。
「……構わない、わけないだろ。」
低く静かな声で沈黙を破ったのは文次郎だった。
腕を組んだままじっと畳を見つめていた彼は、ゆっくりと顔を上げ真剣そのものの眼差しで私を見据えた。
「運だろうが何だろうが……お前がそこから死に物狂いで生き残って、俺たちと同じ六年生としてここにいる。その事実だけで十分だ。」
「そうだね。」
伊作が胸のすくような優しい笑みを向け、深く頷く。
「ふっ……自分の力で血のケリをつけ、今ここに立っている。見事な生き様じゃないか。」
仙蔵が誇らしげに目を細めた。長次も黙って力強く頷き、小平太は「お前は強い! さすが私の仲間だ!」と豪快に破顔した。
軽蔑も拒絶もなく、ただ『仲間』として私という存在そのものを受け入れてくれる温かい言葉たち。
「……先生方はこの事を分かっていたんだね。」
『伊作、それはどういう事?』
伊作が唐突に発した意味深な言葉に、私は首をかしげた。
どういうことだ。私がかつて語った過去や血の因縁について、先生方が外部の人間や他の生徒に不用意に漏らすはずがない。
けれど、今の伊作の発言は明らかに「先生方が私の過去とあの敵の存在を最初から知っていた」と確信している口振りだった。
戸惑う私に、留三郎が静かな声で助け船を出した。
「名前。お前は知らないと思うが、伊作は過去に先生方が医務室であの件を話していたのを偶然聞いてしまったんだ。」
「うん……」
伊作がどこか申し訳なさそうに視線を落とし、あの日の記憶をたどるようにぽつりと語り始める。
「『最近になり、過去にくのたまの一族を手にかけ各地方で盗賊紛いをしてきた者が勢力をつけ、城にまで付け入り地位を得た』……ってね。学園長先生や山田先生たちが、ひどく痛ましい顔で話しておられたんだ。」
伊作が知っていたという事実に、私は驚きのあまり目を見開いた。
それにしてもいくら学園内とはいえいつ誰が聞き耳を立てているか分からない医務室で先生方もそんな重要で繊細な話をするなんて。
普段の厳格さを思えば些か不用意に思えたが、それほど先生方にとっても心に引っかかる重い事象だったのかもしれない。
でもその言葉が落ちた瞬間、私は息を飲んだ。
あの野外実習。あの城への潜入忍務。
たまたま運悪く宿敵の城へ行き当たったのだと思っていた。だが、もしも先生方がすべてを把握した上で、私に『最後の手引き』あるいは『試練』としてあの実習を割り振っていたとしたら――。
「……先生方は、お前に過去を乗り越えさせるために黙っていたのかもしれないな。」
背後から私を抱きしめる留三郎が、私の耳元で低く呟いた。
腰に回された腕に込められた温もりと力が、不気味な衝撃に揺れそうになった私の心をしっかりと繋ぎ止めてくれる。
学園はただ忍びを育てるだけの場所ではない。
先生方は私たちの背負う陰の部分まで知り尽くした上で、私たちが一人の忍びとして、一人の人間として立つのを見守ってくれていたのだ。
『……そう、だったのね。』
驚きとともに胸に広がっていったのは、冷たい怒りではなく、深い感謝と学園への愛着だった。
先生方の導きがあり、仲間がいて、そして何より留三郎がいてくれたからこそ、私は過去を断ち切り、今ここで笑っていられるのだから。
『伊作、嫌な事を聞いたでしょう。ごめんなさい。』
「名前は悪くない! 名前に非なんかある訳ない!!!」
伊作が珍しく身を乗り出して声を張り上げた。その目には大きな涙が浮かんでいる。
温厚で優しい伊作の感情的な反応に一瞬圧倒されたが、自分のこと以上に私の身を案じ、痛みを分かち合おうとしてくれている様子に胸がじんわりと温かくなり口元が緩んでしまう。
その時、ずっと私の手を力任せに握りしめてくれていた留三郎の指先からすっと緊張が抜けていくのが分かった。
話している間中、彼は私の痛みを分かち合うように強く握り締めてくれていたのだ。
ふと隣を見上げると、留三郎は固く眉を顰めていたが、その瞳は「辛くないか」「大丈夫か」と私をどこまでも優しく気遣う色に満ちていた。
『文次郎。あの晩、私は自身の宿敵をようやく見つけたの。感情が制御出来なくて悪かったわ。』
そっと留三郎の手を離すと、文次郎の目の前へ向かい合うように移動し、静かに膝をついた。
あの晩、奴の正体が分かった後、何も成し遂げることができなかったやるせない自身を抑えることができず、負の感情に飲まれかけた。
城から戻った時、真っ先に掴み掛かってきた文次郎に対し、私は感情の赴くままに怒りと不満をぶつけたのだ。今思えば、感情に左右された自分があまりにも情けない。時と場合が違っていれば、仲間の命を危険に晒していたかもしれないのだから。
不甲斐ない自身に対するけじめだ。許しを乞うためではなく、ごく自然に床へ額をつける。
「……名前、頭を上げろ。」
正直、文次郎がどんな表情をしているのか怖かった。
けれど文次郎の低い声を合図にゆっくりと頭を上げると、そこにいた彼は眉間に深い皺を寄せ、ひどく決まずそうに罰の悪そうな表情を浮かべていた。
「俺はお前にそんな事を求めていない。だから謝罪などいらん。」
『文次郎……』
「俺も何も知らなかったとはいえ、悪かった……」
いつもはいがみ合ったり、強情な態度を崩さなかったりするあの文次郎が、私を心から思いやり、素直に謝罪の言葉まで口にしてくれている。
『いいのよ。私は気にしてないわ。』
「いやだいぶ気にするぞ、そこは。」
私と文次郎のやり取りに、頭の後ろで腕を組みながら口を尖らせる小平太の言動に思わずぶっ!と吹き出してしまう。
『小平太、台無しだわ。』
「だって名前はようやく見つけた敵を逃したんだろう? そんな中、文次郎が突っかかってきたら私なら戦っているな!」
「小平太……余計な事をするな……もそっ」
「さっきまでの空気はどこに行ったのやら……」
小平太と長次のやり取りに、伊作が呆れ顔で目を細めている。けれど、私の胸の内をすべて明かせたことで、重く冷たく溜まっていた心のつかえは、綺麗さっぱり取れていた。
これで皆に隠し事は無くなったはずだ。
忍びとして、そして同じ苦楽を共にしてきた同期として、私たちは本当の意味で腹を割り合えたのだと実感する。
「だが名前、お前の敵はその後どうなった。」
仙蔵の鋭い質問が私を捉える。
奴は私が息の根を止めた。だが、その詳細な報告は、あまりにも生々しく酷なものだ。
「名前は一人でケリをつけた。あの晩、一緒にいた俺が証明する。」
留三郎が私を守るように立ちはだかり、仙蔵をまっすぐに見据える。
あの晩、留三郎も一緒に戦ってくれた。そして「行け」と背中を押し、私をあの男のもとへ送り出してくれたのだ。
彼も少なからず勘づいているはずだ。私がどんな手で、どうやって過去と決別したのかを。
『えぇ。もう終わらせた……。』
「…………そうか」
勘のいい仙蔵も、私の言葉と瞳の奥にある静寂から真意を悟ったのだろう。深くは追及せず、ただ短く頷いた。
思えば、心残りがあるとすれば関係のない留三郎を巻き込んでしまったことだった。
私の過去とは何の関係もない彼がこうして隣にいてくれるのは、単なる同情や憐れみからなのではないかと不安に苛まれた時期もあった。
けれど、それはまったくの杞憂だった。
彼は私の抱える血と陰謀のすべてを知った上で、その手を離さず、ありのままを受け入れてくれたのだ。
泥と血に塗れた私の生き様ごと包み込んでくれる彼の圧倒的な器と包容力に、私は心の底から魅了されていた。
『でもあまり気のいい事ではないわね。』
留三郎にそっと目を向け、そのまま身体を預ける。
黙ってすべてを受け止めてくれる彼の腕の中に、深い心地よさと安らぎを感じていた。
幼い頃から私を縛り続けていた過去の呪縛も、血の匂いも仲間への秘密も。
すべてを明かし、受け入れられたことで私はようやく本当の意味で解放されたのだ。
もう、過去に思い残す事は何一つない。今ここにある温もりを、ただ大切にしたい。
「名前……話してくれてありがとう。」
仙蔵の真っ直ぐな温かい瞳が私を捉える。
彼はそっと手を伸ばすと、私と留三郎の間に入り込むようにして両手で私の手を包み込んだ。
長年苦楽を共にしてきた同期としての深い慈愛と労いが込められた体温。
「…おい仙蔵。どさくさに紛れて何してる。」
留三郎が額に青筋を立て、口元を引きつらせながら仙蔵を睨みつける。
その鋭い視線の先には、仙蔵にしっかりと握られている私の手があった。
流石にまずいと思って咄嗟に手を離そうとしたが仙蔵の手が緩まる気配は一切ない。どころか、わざとらしく角度を変えて留三郎に見せつけるように、指を絡めて優しく握り直してくる。
「何って、仲間として心の底から感謝と労いを伝えているだけだが? 何か問題でも?」
優雅に微笑みながらすました顔で言い放つ仙蔵。その瞳には明らかに留三郎をからかって楽しむ悪戯心が宿っていた。
「大ありだ! 触るんじゃねぇ! 名前も何されるがままになってんだ!」
「仙蔵、お前も懲りない奴だな……」
文次郎が呆れ果てた顔で額を押さえ、伊作は苦笑い、小平太と長次は面白そうにその様子を眺めている。
留三郎はがばりと私の上半身を仙蔵から引き剥がすように抱き寄せると、私を背中に隠して仙蔵の手を払いのけた。
「あいつら、見せつけてくれるな。」
「仙蔵が悪いでしょ。」
「あいつらいちゃつきやがって。でもな、もし今後我々が主の命令で命を狙う事があったらどうする?」
「なっ! 俺はそんなの無理だ!」
「留三郎は甘いな。」
「何だと文次郎!」
「はぁー、また始まったよ。」
言い合いを始めた留三郎と文次郎に、伊作が大きな溜め息を漏らす。
プロとして別々の主君に仕えれば互いに刃を向け合う局面に立たされるかもしれない。文次郎の指摘はあまりにも現実的で重かった。
『そうね……』
「俺は級友なんか手にかける事が出来ない。仮に敵になったとしてもだ。」
喧嘩していた筈の留三郎が戻ってきて、私の隣にドカリと座り込む。
これが彼の甘い所だ。仲間にどこまでも優しく、情を完全に捨て去る事が出来ない。
けれど私だって、苦楽を共にしてきた級友達と戦うことなんて絶対にしたくない。できることなら回避したいのが本音だ。
「なぁ、忍者は情報を持って逃げる事が先なんだろ? なら私達の誰かが出会っても戦わないで逃げたらいいのではないか?」
小平太のどこまでもまっすぐな発言に、部屋にいた全員が一斉に彼へ顔を向けた。
一瞬の静寂のあと、伊作が「小平太……」と感極まったように目を潤ませる。
「馬鹿かお前は。そんな甘っちょろい事ができる訳ないだろ。」
「待て、文次郎。確かに小平太の言う通り、手にかける事は第一ではない。」
情報を持ち帰るのが忍びの第一の務め。確かに小平太の考えには一理ある。戦う必要のない無駄な血は流さなくていいはずだ。
『小平太の考えに一理あるわ。』
「お前もか…」
『あら、文次郎。貴方はそんなに内々同士で戦いたいの?』
「そうなのか? 文次郎は気性が荒いな!」
「小平太、お前には言われたくねぇ!」
また揉め事が始まった。呆れ顔で小平太と文次郎に視線を向けるが、一向に止まる気配のない騒動に、仲裁に入る気すら起きない。
「僕も小平太の考えに賛成かな。あともし、その場に居合わせた事を想像するとお前達に無駄な治療を施す僕の身にもなってよ。」
伊作が放つ黒い空気に圧倒され、重苦しい雰囲気が二人の喧嘩をピタッと止める。
伊作の背後には恐ろしいほどの黒いオーラが淀み、当の本人はニコリと完璧な笑みを浮かべていた。
「「すみません……」」
「はい、ならこれでこの話は終わり!」
伊作の一言で、今晩の集まりは解散となった。
だが学園を卒業したら、嫌でもその時が訪れる。その時、皆はどう動くのだろう。
……だが、今考えても埒が明かない。
失うのが嫌なら強くなればいいのだ。時には例外もあるけれど。
仲間たちが部屋を出ていく中、留三郎だけが最後まで残り、私の手を強く握り直した。
「……文次郎たちの前じゃ言わねぇが、俺はお前を絶対に失わねぇ。そのためなら何だって強くなってやる。だからお前も俺を信じろ。」
『ええ、約束するわ。私はもう逃げないし、貴方の手を離さない。』
答えると、留三郎は安堵したように額をそっと重ねてきた。
どれほど過酷な未来が待っていようと、この温もりがあれば、私はもう孤独ではない。
「皆、揃ったな。」
潮江文次郎の声が、蝋燭の灯る長屋に響く。
どっぷりと夜に染まった学園。土井先生の件を経て戻ってきて以来、こうして六年生全員そして私までもが集まり穏やかな時間を過ごせるのは久しぶりだった。
ゆらゆら揺れる小さな灯火を囲み、最初の数刻は和気藹々とした会話が弾んでいた。くだらない冗談に笑い合い、相変わらずの空気に胸が温かくなる。
だが――ある話題が上った瞬間を境に、室内の空気が一変しピンと張り詰めた。
「この間の土井先生の件、どう思った?」
仙蔵が切り出すと同時に、皆がふむ……と考え込む。
静まり返った部屋の中で、蝋燭の火だけが小さく揺れていた。誰もがあの死線と背中合わせだった日々を思い出し、複雑な表情を浮かべる。
「在学中に経験できた事はでかいな。」
「でも土井先生が無事に戻って良かったよ。」
「それはそうだが、改めて実力の違いを思い知らされたのも事実だ。」
「私はもっと強くならねばと思ったな!」
「激しく同意……もそっ」
仙蔵を筆頭に、文次郎、伊作、小平太、長次と、各々が抱いていた思いをぽつりぽつりと口にし始める。
いつもなら破天荒な小平太や、穏やかな伊作の顔にも今はプロの忍びを目指す者としての厳しさと覚悟が滲んでいた。
あの過酷な戦いを全員で乗り越えたからこそ、自分の未熟さとこれから踏み出す世界の厳しさが痛いほど身に染みているのだ。
「名前はどうだ?」
『私?』
仙蔵からの問い掛けにうーんと、頭を傾げながら考える。
下手をすれば死人が出た。それだけ事態は重大であり、最上級生にまでなって思い知らされたプロとの実力の差は、あまりにも圧倒的だった。
自分たちの甘さや青さを突きつけられた恐怖は今でも鮮明に覚えている。
『確かに今まで様々な忍務をこなしてきたけど、今回みたいな件は初めてだったね。』
身じろぎせず胸の内を述べると、波打つように沈黙が室内を染める。
『何より味方が敵に、土井先生に命を狙われた事は衝撃だった。』
あの日皆、傷を負ったが致命傷になりかね無い傷を負ったのは事実だ。
特に肩を大きく斬られた小平太。
言葉にすると、あの時の生臭い血の匂いと鉄の味が冷たい刃のように脳裏をかすめる。
『…喋りすぎね。』
「いや構わない、続けてくれ。」
仙蔵の言葉はやたらと心に響き、他の六年生たちはじっと黙り込んでいる。
静かな室内でこのまま続きを発するのも正直気が引けるが、自分の中で心を決め、閉ざしかけた口を再び開いた。
『私達は弱い。学園では最上級生だけど、私達の実力は外の忍びより遥かに劣ると考えていいわ。』
黙って私の言葉に深く頷く仙蔵と伊作を視界の端に捉える。
今のこの場において、気休めの優しい言葉などは一切不要だろう。
だからこそ、私はあえて手厳しい現実を言葉にして叩きつけた。
「……否定はできねぇな。」
沈黙を破ったのは文次郎だった。悔しそうに歯の根を噛み締めながら、囲炉裏の炭を見つめている。
『でも卒業したら、もっと辛い経験や場面に対峙するわ。』
蝋燭の火がゆらりと揺らぐ。その影が室内の壁に大きく映り込み、ジジジっと小さな音を立てて蝋の雫が受け皿に流れ落ちた。
『私達は今以上に覚悟をもって、強くならないといけない。』
すべての発言を終えると、シン……と重い静寂が室内を丸ごと包み込んだ。
仙蔵、文次郎、小平太、長次、伊作、そして留三郎。
一人ひとりの顔を順に見渡していくが、誰もすぐには言葉を発しようとしない。その圧倒的な沈黙と真剣な視線に耐えかねて、私は思わずゴクリと喉を鳴らした。
「……まったくだな。」
静寂を破ったのは、腕を組み、深く目を閉じていた文次郎だった。
ゆっくりと目を開けた彼の瞳には、暗闇を射抜くような鋭い光が宿っていた。
「同感だ。名前の言う通りだ。俺たちはプロになる。甘えや慢心は死に直結するんだ。」
「ふっ……手厳しいが、まさに私たちが直面している現実そのものだな。」
仙蔵が静かに息を吐き、口元に薄い笑みを浮かべた。その瞳に冷ややかな諦めはなく、むしろ燃え上がるような意気が満ちている。
「名前が事実をはっきり言うものだから緊張しちゃったよ。」
「でもこの意見は俺らだけでは出なかったな。」
『伊作、留三郎……』
「確かに強くなるだけではだめだな! 覚悟を持って戦う時のが必要だな!」
「小平太……覚悟はいいが戦うのは…………もそっ」
『小平太、長次も……』
あえて手厳しい言葉を選んだというのに、この人たちは本当に――。
思わずふっと口元に笑みを浮かべてしまった。
そうだ。あの時、土井先生と対峙した時の皆の顔付きは、紛れもなく「忍び」そのものだった。
経験は圧倒的に足りなかったかもしれない。けれど、仲間や恩師を守るための覚悟だけは全員が剥き出しにしていた。だからこそ、あの怒涛の事態に誰も折れずに立ち向かえたのだ。
ただ、誰もが心のどこかで動揺してしまっていた。かくいう私も含めて。
仲間だと思っていた存在から命を狙われるという、あまりにも重く冷酷な経験。だがそれも、これからの私たちにとっては代えがたい大きな糧になったはずだ。
本来、情報を素早く持ち帰るために敵の追跡を撒き、極力戦闘を避けて逃げるのが忍者の鉄則だ。
けれど、どうしても戦わなければいけない瞬間は必ず訪れる。守るべきもののために、自分の命を懸けて刃を交える時が。
「……逃げるだけじゃ、守り切れない時もあるからな。」
留三郎が静かに呟く。
『……そうね。』
言葉の代わりにぽつりと零した声が、薄暗い室内に静かに染み込んでいく。
昔、私が大切なものを全て奪われたあの日のように。
言葉を持たぬ弱者は何も守ることができず、ただ奪われ、踏みにじられるだけ。この過酷な世界で命を繋ぎ、愛する者の手を握り続けることができるのは、生き残る強さを得た者だけなのだ。
冷徹で哀しくて、けれど決して背けることのできない世界の真理。
忍びとして生きる私たちは皆、その傷と覚悟を言葉には出さずとも、それぞれ心の奥底に深く秘めて生きている。
『……実際、私達が死んでも変わりはいる。』
「名前、怖い事を言わないで。」
『あら、でもこれは事実よ。一人、二人抜けても歯車が回るように忍務は続行される。』
「名前、お前死ぬ気なのか?」
『馬鹿、例えの話。』
伊作と文次郎の青ざめた表情に、苦笑いを浮かべながら返す。
「お前は時に何処かの忍びなのかと思う程大人びているな。」
「しかもあの土井先生とまともに戦ってたしな。」
『伊達に色々経験してるからね。』
仙蔵に軽くVサインをしながら視線を向けると、ずっと静かだった留三郎がおもむろに立ち上がった。
そして私のすぐ隣へと押し通るように座り込む。
そうだ。あの件の本当の恐ろしさを、そして私の過去や戦う理由を知っているのは、一緒に死線を潜り抜けてくれた留三郎だけだ。
彼がそっと私の背後から大きな手を伸ばし、力強く、けれどどこか愛おしむように腰を抱き寄せてきた。
「冗談でも死ぬなんて言うな。」
耳元に落ちてきた留三郎の声は、低く少しだけ震えていた。
背中に当たる胸の鼓動が、驚くほど速く打っているのが伝わってくる。
「歯車がどうあろうと関係ねぇ。俺にとって……お前の代わりなんて、この世のどこを探したっていねぇんだよ。」
周囲の六年生たちが一瞬「お前ら……?」と呆気にとられた表情を浮かべたが、留三郎はそんな視線すら意に介さず、私を自分に引き寄せる腕の力を緩めなかった。
「それはお前らがくっつくきっかけに関係しているのか?」
留三郎のあからさまな行動に、文次郎が眉をしかめながら疑問をぶつけてくる。
「野暮だぞ、文次郎。」
『文次郎……』
「以前の野外実習の時、お前はいなくなった。何故だ。」
文次郎が言っているのは、以前城に忍び込んだあの野外実習の件だ。
あの晩、忍び込んだ城には私の家族を討った敵がいた。あの一夜の出来事には、私自身の暗い過去が深く関わっている。
自分自身でケリはつけた。けれど正直なところ自分の過去をわざわざ掘り返して語るような真似は余りしたくなかった。
嫌な記憶を自ら巻き戻すのは苦しい。
だが全員でこうして膝を突き合わせているこの機会を逃せば、この先互いの肚を割って話せる機会なんて二度と訪れないかもしれない。
私が小さく息を飲んだ瞬間、腰を抱く留三郎の手にぐっと力がこもった。
「話したくなければ、俺が――」と言いかけた留三郎の言葉を制するように、私は彼の手の上に自分の手をそっと重ねる。
『……いいのよ、留三郎。』
皆の視線が私に集まる。
蝋燭の火がゆらゆらと揺れ、室内に静かな緊張が走った。
「名前、無理はするな。」
留三郎が私の手を握りしめる。彼が手を握った事で気付いた。自身の手が震えていることに。過去を話す事で彼らに突き放されたらどうしよう。そんな不安が頭をよぎる。
『留三郎……』
「俺がいる。何があってもお前のそばを離れないから。」
不安を打ち消すように向けられた彼のまっすぐな笑顔と、伝わってくる確かな温もりが私を包み込んでくれる。
そうだ。今の私は、あの日一人で絶望していた弱者じゃない。
彼の存在が、私を暗闇から救い出してくれる。
『……ならちょっと昔話をしましょうか。』
私は顔を上げ、静かに自分を見つめる仙蔵や文次郎、伊作たちの瞳を正面から見据えた。
静まり返る室内に、私の声だけが深く通っていく。
隠し続けてきた暗い過去と、あの日血煙の中で断ち切った因縁。
留三郎の温もりに支えられながら、私はすべての過去を隠すことなく打ち明けた。
『………以上が私の過去。』
自身が元は豪族の出であり、幼い頃に勢力を広げる盗賊の襲撃を受けて手当たり次第に金品を奪われ、父母を目の前で手にかけられたこと。
学園に入学するまではたった一人で生き延び、生きるための知識と力を泥這うようにして身につけてきたこと。
すべての過去を話し終えると、室内には重く冷たい沈黙が立ち込めた。
『貴方達がどう思っても構わないわ。』
正直、この戦乱の世において、戦で親を失い家を追われること自体は決して特別な話ではない。
飢饉に孤児、弱者が自分の身を守るためには、どんな手段を使ってでも知識や力をつけるしかない。そうしなければ野垂れ死ぬだけだ。私はただ、運良く生き延びて忍術学園に拾われたに過ぎないのだから。
「……構わない、わけないだろ。」
低く静かな声で沈黙を破ったのは文次郎だった。
腕を組んだままじっと畳を見つめていた彼は、ゆっくりと顔を上げ真剣そのものの眼差しで私を見据えた。
「運だろうが何だろうが……お前がそこから死に物狂いで生き残って、俺たちと同じ六年生としてここにいる。その事実だけで十分だ。」
「そうだね。」
伊作が胸のすくような優しい笑みを向け、深く頷く。
「ふっ……自分の力で血のケリをつけ、今ここに立っている。見事な生き様じゃないか。」
仙蔵が誇らしげに目を細めた。長次も黙って力強く頷き、小平太は「お前は強い! さすが私の仲間だ!」と豪快に破顔した。
軽蔑も拒絶もなく、ただ『仲間』として私という存在そのものを受け入れてくれる温かい言葉たち。
「……先生方はこの事を分かっていたんだね。」
『伊作、それはどういう事?』
伊作が唐突に発した意味深な言葉に、私は首をかしげた。
どういうことだ。私がかつて語った過去や血の因縁について、先生方が外部の人間や他の生徒に不用意に漏らすはずがない。
けれど、今の伊作の発言は明らかに「先生方が私の過去とあの敵の存在を最初から知っていた」と確信している口振りだった。
戸惑う私に、留三郎が静かな声で助け船を出した。
「名前。お前は知らないと思うが、伊作は過去に先生方が医務室であの件を話していたのを偶然聞いてしまったんだ。」
「うん……」
伊作がどこか申し訳なさそうに視線を落とし、あの日の記憶をたどるようにぽつりと語り始める。
「『最近になり、過去にくのたまの一族を手にかけ各地方で盗賊紛いをしてきた者が勢力をつけ、城にまで付け入り地位を得た』……ってね。学園長先生や山田先生たちが、ひどく痛ましい顔で話しておられたんだ。」
伊作が知っていたという事実に、私は驚きのあまり目を見開いた。
それにしてもいくら学園内とはいえいつ誰が聞き耳を立てているか分からない医務室で先生方もそんな重要で繊細な話をするなんて。
普段の厳格さを思えば些か不用意に思えたが、それほど先生方にとっても心に引っかかる重い事象だったのかもしれない。
でもその言葉が落ちた瞬間、私は息を飲んだ。
あの野外実習。あの城への潜入忍務。
たまたま運悪く宿敵の城へ行き当たったのだと思っていた。だが、もしも先生方がすべてを把握した上で、私に『最後の手引き』あるいは『試練』としてあの実習を割り振っていたとしたら――。
「……先生方は、お前に過去を乗り越えさせるために黙っていたのかもしれないな。」
背後から私を抱きしめる留三郎が、私の耳元で低く呟いた。
腰に回された腕に込められた温もりと力が、不気味な衝撃に揺れそうになった私の心をしっかりと繋ぎ止めてくれる。
学園はただ忍びを育てるだけの場所ではない。
先生方は私たちの背負う陰の部分まで知り尽くした上で、私たちが一人の忍びとして、一人の人間として立つのを見守ってくれていたのだ。
『……そう、だったのね。』
驚きとともに胸に広がっていったのは、冷たい怒りではなく、深い感謝と学園への愛着だった。
先生方の導きがあり、仲間がいて、そして何より留三郎がいてくれたからこそ、私は過去を断ち切り、今ここで笑っていられるのだから。
『伊作、嫌な事を聞いたでしょう。ごめんなさい。』
「名前は悪くない! 名前に非なんかある訳ない!!!」
伊作が珍しく身を乗り出して声を張り上げた。その目には大きな涙が浮かんでいる。
温厚で優しい伊作の感情的な反応に一瞬圧倒されたが、自分のこと以上に私の身を案じ、痛みを分かち合おうとしてくれている様子に胸がじんわりと温かくなり口元が緩んでしまう。
その時、ずっと私の手を力任せに握りしめてくれていた留三郎の指先からすっと緊張が抜けていくのが分かった。
話している間中、彼は私の痛みを分かち合うように強く握り締めてくれていたのだ。
ふと隣を見上げると、留三郎は固く眉を顰めていたが、その瞳は「辛くないか」「大丈夫か」と私をどこまでも優しく気遣う色に満ちていた。
『文次郎。あの晩、私は自身の宿敵をようやく見つけたの。感情が制御出来なくて悪かったわ。』
そっと留三郎の手を離すと、文次郎の目の前へ向かい合うように移動し、静かに膝をついた。
あの晩、奴の正体が分かった後、何も成し遂げることができなかったやるせない自身を抑えることができず、負の感情に飲まれかけた。
城から戻った時、真っ先に掴み掛かってきた文次郎に対し、私は感情の赴くままに怒りと不満をぶつけたのだ。今思えば、感情に左右された自分があまりにも情けない。時と場合が違っていれば、仲間の命を危険に晒していたかもしれないのだから。
不甲斐ない自身に対するけじめだ。許しを乞うためではなく、ごく自然に床へ額をつける。
「……名前、頭を上げろ。」
正直、文次郎がどんな表情をしているのか怖かった。
けれど文次郎の低い声を合図にゆっくりと頭を上げると、そこにいた彼は眉間に深い皺を寄せ、ひどく決まずそうに罰の悪そうな表情を浮かべていた。
「俺はお前にそんな事を求めていない。だから謝罪などいらん。」
『文次郎……』
「俺も何も知らなかったとはいえ、悪かった……」
いつもはいがみ合ったり、強情な態度を崩さなかったりするあの文次郎が、私を心から思いやり、素直に謝罪の言葉まで口にしてくれている。
『いいのよ。私は気にしてないわ。』
「いやだいぶ気にするぞ、そこは。」
私と文次郎のやり取りに、頭の後ろで腕を組みながら口を尖らせる小平太の言動に思わずぶっ!と吹き出してしまう。
『小平太、台無しだわ。』
「だって名前はようやく見つけた敵を逃したんだろう? そんな中、文次郎が突っかかってきたら私なら戦っているな!」
「小平太……余計な事をするな……もそっ」
「さっきまでの空気はどこに行ったのやら……」
小平太と長次のやり取りに、伊作が呆れ顔で目を細めている。けれど、私の胸の内をすべて明かせたことで、重く冷たく溜まっていた心のつかえは、綺麗さっぱり取れていた。
これで皆に隠し事は無くなったはずだ。
忍びとして、そして同じ苦楽を共にしてきた同期として、私たちは本当の意味で腹を割り合えたのだと実感する。
「だが名前、お前の敵はその後どうなった。」
仙蔵の鋭い質問が私を捉える。
奴は私が息の根を止めた。だが、その詳細な報告は、あまりにも生々しく酷なものだ。
「名前は一人でケリをつけた。あの晩、一緒にいた俺が証明する。」
留三郎が私を守るように立ちはだかり、仙蔵をまっすぐに見据える。
あの晩、留三郎も一緒に戦ってくれた。そして「行け」と背中を押し、私をあの男のもとへ送り出してくれたのだ。
彼も少なからず勘づいているはずだ。私がどんな手で、どうやって過去と決別したのかを。
『えぇ。もう終わらせた……。』
「…………そうか」
勘のいい仙蔵も、私の言葉と瞳の奥にある静寂から真意を悟ったのだろう。深くは追及せず、ただ短く頷いた。
思えば、心残りがあるとすれば関係のない留三郎を巻き込んでしまったことだった。
私の過去とは何の関係もない彼がこうして隣にいてくれるのは、単なる同情や憐れみからなのではないかと不安に苛まれた時期もあった。
けれど、それはまったくの杞憂だった。
彼は私の抱える血と陰謀のすべてを知った上で、その手を離さず、ありのままを受け入れてくれたのだ。
泥と血に塗れた私の生き様ごと包み込んでくれる彼の圧倒的な器と包容力に、私は心の底から魅了されていた。
『でもあまり気のいい事ではないわね。』
留三郎にそっと目を向け、そのまま身体を預ける。
黙ってすべてを受け止めてくれる彼の腕の中に、深い心地よさと安らぎを感じていた。
幼い頃から私を縛り続けていた過去の呪縛も、血の匂いも仲間への秘密も。
すべてを明かし、受け入れられたことで私はようやく本当の意味で解放されたのだ。
もう、過去に思い残す事は何一つない。今ここにある温もりを、ただ大切にしたい。
「名前……話してくれてありがとう。」
仙蔵の真っ直ぐな温かい瞳が私を捉える。
彼はそっと手を伸ばすと、私と留三郎の間に入り込むようにして両手で私の手を包み込んだ。
長年苦楽を共にしてきた同期としての深い慈愛と労いが込められた体温。
「…おい仙蔵。どさくさに紛れて何してる。」
留三郎が額に青筋を立て、口元を引きつらせながら仙蔵を睨みつける。
その鋭い視線の先には、仙蔵にしっかりと握られている私の手があった。
流石にまずいと思って咄嗟に手を離そうとしたが仙蔵の手が緩まる気配は一切ない。どころか、わざとらしく角度を変えて留三郎に見せつけるように、指を絡めて優しく握り直してくる。
「何って、仲間として心の底から感謝と労いを伝えているだけだが? 何か問題でも?」
優雅に微笑みながらすました顔で言い放つ仙蔵。その瞳には明らかに留三郎をからかって楽しむ悪戯心が宿っていた。
「大ありだ! 触るんじゃねぇ! 名前も何されるがままになってんだ!」
「仙蔵、お前も懲りない奴だな……」
文次郎が呆れ果てた顔で額を押さえ、伊作は苦笑い、小平太と長次は面白そうにその様子を眺めている。
留三郎はがばりと私の上半身を仙蔵から引き剥がすように抱き寄せると、私を背中に隠して仙蔵の手を払いのけた。
「あいつら、見せつけてくれるな。」
「仙蔵が悪いでしょ。」
「あいつらいちゃつきやがって。でもな、もし今後我々が主の命令で命を狙う事があったらどうする?」
「なっ! 俺はそんなの無理だ!」
「留三郎は甘いな。」
「何だと文次郎!」
「はぁー、また始まったよ。」
言い合いを始めた留三郎と文次郎に、伊作が大きな溜め息を漏らす。
プロとして別々の主君に仕えれば互いに刃を向け合う局面に立たされるかもしれない。文次郎の指摘はあまりにも現実的で重かった。
『そうね……』
「俺は級友なんか手にかける事が出来ない。仮に敵になったとしてもだ。」
喧嘩していた筈の留三郎が戻ってきて、私の隣にドカリと座り込む。
これが彼の甘い所だ。仲間にどこまでも優しく、情を完全に捨て去る事が出来ない。
けれど私だって、苦楽を共にしてきた級友達と戦うことなんて絶対にしたくない。できることなら回避したいのが本音だ。
「なぁ、忍者は情報を持って逃げる事が先なんだろ? なら私達の誰かが出会っても戦わないで逃げたらいいのではないか?」
小平太のどこまでもまっすぐな発言に、部屋にいた全員が一斉に彼へ顔を向けた。
一瞬の静寂のあと、伊作が「小平太……」と感極まったように目を潤ませる。
「馬鹿かお前は。そんな甘っちょろい事ができる訳ないだろ。」
「待て、文次郎。確かに小平太の言う通り、手にかける事は第一ではない。」
情報を持ち帰るのが忍びの第一の務め。確かに小平太の考えには一理ある。戦う必要のない無駄な血は流さなくていいはずだ。
『小平太の考えに一理あるわ。』
「お前もか…」
『あら、文次郎。貴方はそんなに内々同士で戦いたいの?』
「そうなのか? 文次郎は気性が荒いな!」
「小平太、お前には言われたくねぇ!」
また揉め事が始まった。呆れ顔で小平太と文次郎に視線を向けるが、一向に止まる気配のない騒動に、仲裁に入る気すら起きない。
「僕も小平太の考えに賛成かな。あともし、その場に居合わせた事を想像するとお前達に無駄な治療を施す僕の身にもなってよ。」
伊作が放つ黒い空気に圧倒され、重苦しい雰囲気が二人の喧嘩をピタッと止める。
伊作の背後には恐ろしいほどの黒いオーラが淀み、当の本人はニコリと完璧な笑みを浮かべていた。
「「すみません……」」
「はい、ならこれでこの話は終わり!」
伊作の一言で、今晩の集まりは解散となった。
だが学園を卒業したら、嫌でもその時が訪れる。その時、皆はどう動くのだろう。
……だが、今考えても埒が明かない。
失うのが嫌なら強くなればいいのだ。時には例外もあるけれど。
仲間たちが部屋を出ていく中、留三郎だけが最後まで残り、私の手を強く握り直した。
「……文次郎たちの前じゃ言わねぇが、俺はお前を絶対に失わねぇ。そのためなら何だって強くなってやる。だからお前も俺を信じろ。」
『ええ、約束するわ。私はもう逃げないし、貴方の手を離さない。』
答えると、留三郎は安堵したように額をそっと重ねてきた。
どれほど過酷な未来が待っていようと、この温もりがあれば、私はもう孤独ではない。