長編
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安堵
あれから互いに言葉を交わすこともないまま、どうにか学園へと帰り着いた。
学園長先生への報告を終えると、俺と文次郎の二人は部屋を辞すよう命じられ、名前だけがその場に残された。
三人だけだった庵に、重々しい静寂が満ちる。
この忍術学園に入学するより前――私の出生や背負った過去については、すでに学園長をはじめとするに先生方に把握されていた。だからこそ、いまさら隠立てするようなことなど何一つない。
「名前。今回は失態じゃったな。」
『……はっ。すべての責任は私にございます。どのような処罰でも受ける覚悟です。』
畳に膝をつき、深く頭を垂れる。
「おもてを上げよ。」
静かな許可が降り、ゆっくりと顔を上げる。眼差しを向けると、学園長先生は慈愛と厳しさが入り混じった瞳で私を見つめ、静かに言葉を続けた。
「…仇の情報は掴めたらしいの。」
『……はい。』
「さて。ではお主は、今後どうするつもりじゃ。」
『…………』
静かだが、全てを見透かすような問いかけに、私は言葉を詰まらせた。喉の奥が固まったように、声が出てこない。
答えることなどできるはずがなかった。
これから私が果たそうとしている個人的な宿怨の決着――それが忍術学園にとって、どれほど危うい火種になり得るかなど、火を見るより明らかだったからだ。
ここで追うと言えば学園に迷惑がかかる。かといって諦めるなどという嘘を吐くことも許されない。
畳を見つめたまま固まる私を、学園長先生は咎めることもなく、ただ静かに見つめていた。
「……儂はお主に、少しばかり厳しい試練を与えようと思う。」
落とされた言葉の重みに、再び深い沈黙が庵を支配した。学園長先生は一呼吸置くと、静かに、だが揺るぎない声で言葉を繋ぐ。
「儂からの試練とは――……」
出された命令に対して、私にできることはただ一つ、静かに首を縦に振ることだけだった。
反論も余計な言い訳も一切挟まず、再び床へ深く頭を擦り付ける。
『……承知いたしました。その試練、必ずや果たしてみせます。』
あれから、名前の姿を一度も見かけないまま半月ほどの時が過ぎた。
やはりあの実習での単独行動や一連の出来事が深刻な問題になったのだろうか。
戻ってきた時のあの返り血と、最後に見た今にも崩れ落ちそうな儚い背中が頭から離れず、嫌な胸騒ぎばかりが募っていく。
「留三郎……彼女の事、心配かい?」
静かな声にハッとして視線を上げると、同室の伊作が心配そうな、どこか全てを見透かしたような眼差しでこちらを見ていた。
俺は顔や態度に出やすいたちだが、同室の奴にまであっさり見抜かれるほどだったとは。
「……伊作、……あぁ。」
開きっぱなしにしていた書物を、バタンと勢いよく閉じる。
もう誤魔化す気にもなれなかった。このまま自室で悶々と考えていたところで、何の解決にもなりはしない。
文机の上の私物を素早く片付けると、迷うことなく自身の忍具を手に取り、勢いよく立ち上がった。
「どこに行くんだい?」
背後から掛けられた伊作の引き留めるような声に、一度だけ足を止め、振り返らずに短く答える。
「……少し、夜風にあたってくるだけだ。」
「……そうか。気をつけてね。」
伊作がそれ以上野暮な追求をしてこないことに感謝しつつ、引き戸を静かに閉めて自室をあとにした。
気配を消し、月明かりだけが頼りの静まり返った裏山へと、俺は真っ直ぐ足を向けた。
静まり返った裏山には、人影どころか風の音すら響いていなかった。
胸の中に渦巻く雑念を無理やり振り払うように、俺は鉄双節棍を掴みがむしゃらに振り抜く。重厚な風切り音が夜の静寂を切り裂いた。
なぜあの時、名前を一人で行かせてしまったのか。
怒りに身を焼き、危険も顧みず突き進んでいく彼女を。何よりすべてを一人で抱え込んで行ってしまった彼女を、なぜ強引にでも引き止めなかった?
(俺たちじゃ、足手纏いになるからか……?)
思考が悪い方へ、悪い方へと泥沼のように沈んでいく。
考えれば考えるほど答えなど出るはずもなく、自身の無力さと頼りなさに対して怒りが跳ね上がった。
「くそっ…………!!」
激しく振るっていた腕を力なくダラリと下ろす。
荒い息を吐き出しながら空を見上げても、胸を満たすやるせない不甲斐なさと焦燥感が消えることはなかった。
「……っ!?」
不意に、肌を刺すような気配が掠めた。
距離はある。だがこの研ぎ澄まされた静かな殺気――覚えがある。
確信など持てるはずもないのに、思考より先に身体が弾かれたように駆け出していた。
木々を掻き分け、辿り着いた先は深い森の奥にある湖だった。
たしか以前、小平太たちが鍛錬で話していた水場……ここは裏裏山か。
即座に茂みへ身を隠し、呼吸と気配を極限まで殺す。すぐ近くから水音が聞こえ、木の隙間から視線を向けると――そこに、探し求めていた名前の姿があった。
脱ぎ捨てられた忍装束が岸辺に置かれている。
何も身に纏わぬ姿のまま、彼女は静かに夜の湖へと足を踏み入れていた。
伏せられた目元、月夜の光を弾いて青白く輝く肌。結いを解かれた漆黒の長髪が濡れて背に零れ落ち、水面に流れる。
その息を呑むほどに美しく儚い情景に、胸を突かれたように目が釘付けになり、息をすることすら忘れていた。
――ハッと我に返り、自身の動揺を押し殺す。
彼女はただ黙々と水浴びを続けていた。……だが次の瞬間、ぴたりと手が止まる。
気配を悟られたか。彼女の鋭い視線が、正確に俺の潜む茂みの一点を見つめて射抜いた。
『……出てこい。』
闇夜を切り裂き、鋭く低い声が響き渡る。
何も纏わぬ姿のまま手元にあった苦無を静かに構え、殺気を放ちながら襲撃者を迎え撃とうとしていた。
「名前……俺だ。」
茂みを分け、ゆっくりと姿を現す。
『……留三郎。』
俺の顔を認めた瞬間、ふっと殺気が霧散した。
濡れた髪から滴る雫が月光を受けてきらりと光り、白く眩しい肌を伝っていく。
苦無を下ろすその一挙一動すら美しく、俺は気圧されたように固まってしまった。
「すまん………」
『大丈夫、気にしてない……』
普段からのあの明るい名前とは違い、冷たい重圧が感じられる声だ。
「……すまん。覗くつもりはなかったんだ。」
『大丈夫……気にしてない。』
淡々と答える名前。
いつもの冷静な立ち振る舞いとは違う、どこか己を痛めつけるような重苦しい冷たさが、彼女の声からひしひしと伝わってきた。
すくい上げた声にわずかな柔らかさが戻ったのを感じ、俺はたまらず言葉を重ねた。
彼女は問いかけには答えず、ただ無言のまま刃のような横顔を見せていた。
「俺でよければ、何でも聞く……話してくれ。」
『…………』
「……頼むから、一人で抱え込まないでくれ……っ」
振り向いてくれない背中に向かって、切羽詰まった声が絞り出される。
自分でも驚くほど必死だった。不甲斐ない自分が悔しくて、けれどそれ以上に彼女がこのまま遠くへ行ってしまいそうな恐怖で胸が押し潰されそうだった。
俺の必死の訴えに、彼女の動きがぴたりと止まる。
ゆっくりと振り返った瞳は、月光よりも冷たく、そしてどこか哀しげに俺を射抜いた。
『……なぜ、そこまで私に関わる?』
濡れた肌を隠すこともせず、水の中に佇んだまま私を射抜く瞳は、月光よりも冷たく、そしてどこか壊れそうなほど静かだった。
先日の実習で、自分の中に眠る恐ろしい本性を見せつけてしまった気がしていた。復讐に狂い容赦なく敵を血に染め、挙句の果てに仲間である文次郎にまで感情を爆発させて投げ飛ばした、あのみっともない失態。
幼い頃に父母を失い、誰にも守られなくなった自分一人が生き残るためだけに、技術を磨き、知識を叩き込んできた。父や母のように呆気なく殺されないために、いつか現れる仇を凌ぐ力をつけるために。それだけで生きてきたはずだった。
それなのに――長年追い続けた敵の正体を目にした瞬間、抑えつけていた感情が決壊した。
うまくいっていたはずだった。忍術学園でくのたまとして馴染み、うまく立ち回っていたはずの日常は、あの一夜で全て滅茶苦茶になった。
(……あんな凄惨な姿を見せて、幻滅されたに決まっている)
学園長先生から与えられた過酷な試練にも耐え抜いてきた。けれどこうして二人の前に顔を出す勇気など、もうどこにも残っていない。
自嘲気味に口元を歪め、私は濡れた髪を振り払うことすら忘れて、呆然と留三郎を見つめていた。
『……幻滅したでしょう?』
「そんなわけ……っ!」
『でもこれが本当の私。憎悪に塗れれば血が滾り、味方にすら刃を向ける、ただの狂気。』
「…………」
『……これまで親しくしてくれて、ありがとう。』
静かに別れを告げ、冷え切った水から上がろうと岸辺へ足を向けた――その瞬間。
――ザブンッ!!
爆音のような水音が夜の静寂を激しく打ち破った。
驚いて振り向いた視線の先で、留三郎が忍装束のまま勢いよく湖へ飛び込んでいた。
濡れた衣服の重さもいとわず、強引に水をかき分けてこちらへと突き進んでくる。
彼が力強く動くたび大きく波立った湖面が月光を乱反射させ、眩いばかりの光の粒を撒き散らしていた。
あっという間に間合いを詰められ、眼前で足が止まる。
息を荒げた留三郎の真っ直ぐな瞳が、逃がさぬように私をじっと射抜いた。
拒絶の言葉を失い、吸い寄せられるようにその瞳を見つめ返した瞬間――力強い腕が伸ばされ、私の身体は彼の熱い胸の中へと一気に抱き寄せられていた。
『留三郎……』
「……お前の過去は、知っている。」
投げかけられた言葉に、伏せかけていた瞳を大きく見開いた。
私の生い立ちは、学園内でもごく限られた教員しか知らないはずの秘密。同級生である彼が知り得るはずのない情報だった。動揺が波打ち、動悸が跳ね上がる。けれど、この期に及んでこれ以上の弱さや乱れを見せたくないという小さな意地が、私を辛うじて踏みとどまらせた。
『……そう。』
「親の仇だ。憎くて当然だ……俺だって、同じ立場なら血を吐く思いで敵を追っていただろう。」
『……………』
「……だが、それを全部お前一人が背負い込む必要なんて、どこにもない。」
忍びとして一人で立ち、誰にも負けず誰に対しても器用に笑ってみせる彼女。けれどその心の最奥だけは、誰一人として踏み込ませない頑なさがあった。
すべては、己の力だけを頼りに生き抜くしかなかった過酷な環境が生み出した、哀しい自立の証だったのだろう。
「…………今まで、よく頑張ったな。」
力強く抱きすくめる腕に、さらにぐっと重い熱がこもる。
その一言が耳に届いた瞬間――堰を切ったように、私の目から溢れた雫が頬を静かに伝い落ちた。
誰かに気づいてほしかったわけでも、優しい言葉で慰めてほしかったわけでもない。
けれど、ずっと重く肩にのしかかっていた冷たい呪縛がふっと消え去ったような安堵が胸を満たし、止めようとしても涙が次から次へと溢れ出して止まらない。
『うっ……く……っ……。』
しゃくりあげ、声を押し殺して涙を流す私を、留三郎は壊れものを慈しむように、さらに強くその胸の中へ抱き留めてくれた。
彼の濡れた衣服にしがみつき、その温もりに縋るように泣きじゃくる。
今だけは――この夜の静寂の中だけは、彼の腕の中で子供のように泣いてしまっても許されるだろうか。
あれから互いに言葉を交わすこともないまま、どうにか学園へと帰り着いた。
学園長先生への報告を終えると、俺と文次郎の二人は部屋を辞すよう命じられ、名前だけがその場に残された。
三人だけだった庵に、重々しい静寂が満ちる。
この忍術学園に入学するより前――私の出生や背負った過去については、すでに学園長をはじめとするに先生方に把握されていた。だからこそ、いまさら隠立てするようなことなど何一つない。
「名前。今回は失態じゃったな。」
『……はっ。すべての責任は私にございます。どのような処罰でも受ける覚悟です。』
畳に膝をつき、深く頭を垂れる。
「おもてを上げよ。」
静かな許可が降り、ゆっくりと顔を上げる。眼差しを向けると、学園長先生は慈愛と厳しさが入り混じった瞳で私を見つめ、静かに言葉を続けた。
「…仇の情報は掴めたらしいの。」
『……はい。』
「さて。ではお主は、今後どうするつもりじゃ。」
『…………』
静かだが、全てを見透かすような問いかけに、私は言葉を詰まらせた。喉の奥が固まったように、声が出てこない。
答えることなどできるはずがなかった。
これから私が果たそうとしている個人的な宿怨の決着――それが忍術学園にとって、どれほど危うい火種になり得るかなど、火を見るより明らかだったからだ。
ここで追うと言えば学園に迷惑がかかる。かといって諦めるなどという嘘を吐くことも許されない。
畳を見つめたまま固まる私を、学園長先生は咎めることもなく、ただ静かに見つめていた。
「……儂はお主に、少しばかり厳しい試練を与えようと思う。」
落とされた言葉の重みに、再び深い沈黙が庵を支配した。学園長先生は一呼吸置くと、静かに、だが揺るぎない声で言葉を繋ぐ。
「儂からの試練とは――……」
出された命令に対して、私にできることはただ一つ、静かに首を縦に振ることだけだった。
反論も余計な言い訳も一切挟まず、再び床へ深く頭を擦り付ける。
『……承知いたしました。その試練、必ずや果たしてみせます。』
あれから、名前の姿を一度も見かけないまま半月ほどの時が過ぎた。
やはりあの実習での単独行動や一連の出来事が深刻な問題になったのだろうか。
戻ってきた時のあの返り血と、最後に見た今にも崩れ落ちそうな儚い背中が頭から離れず、嫌な胸騒ぎばかりが募っていく。
「留三郎……彼女の事、心配かい?」
静かな声にハッとして視線を上げると、同室の伊作が心配そうな、どこか全てを見透かしたような眼差しでこちらを見ていた。
俺は顔や態度に出やすいたちだが、同室の奴にまであっさり見抜かれるほどだったとは。
「……伊作、……あぁ。」
開きっぱなしにしていた書物を、バタンと勢いよく閉じる。
もう誤魔化す気にもなれなかった。このまま自室で悶々と考えていたところで、何の解決にもなりはしない。
文机の上の私物を素早く片付けると、迷うことなく自身の忍具を手に取り、勢いよく立ち上がった。
「どこに行くんだい?」
背後から掛けられた伊作の引き留めるような声に、一度だけ足を止め、振り返らずに短く答える。
「……少し、夜風にあたってくるだけだ。」
「……そうか。気をつけてね。」
伊作がそれ以上野暮な追求をしてこないことに感謝しつつ、引き戸を静かに閉めて自室をあとにした。
気配を消し、月明かりだけが頼りの静まり返った裏山へと、俺は真っ直ぐ足を向けた。
静まり返った裏山には、人影どころか風の音すら響いていなかった。
胸の中に渦巻く雑念を無理やり振り払うように、俺は鉄双節棍を掴みがむしゃらに振り抜く。重厚な風切り音が夜の静寂を切り裂いた。
なぜあの時、名前を一人で行かせてしまったのか。
怒りに身を焼き、危険も顧みず突き進んでいく彼女を。何よりすべてを一人で抱え込んで行ってしまった彼女を、なぜ強引にでも引き止めなかった?
(俺たちじゃ、足手纏いになるからか……?)
思考が悪い方へ、悪い方へと泥沼のように沈んでいく。
考えれば考えるほど答えなど出るはずもなく、自身の無力さと頼りなさに対して怒りが跳ね上がった。
「くそっ…………!!」
激しく振るっていた腕を力なくダラリと下ろす。
荒い息を吐き出しながら空を見上げても、胸を満たすやるせない不甲斐なさと焦燥感が消えることはなかった。
「……っ!?」
不意に、肌を刺すような気配が掠めた。
距離はある。だがこの研ぎ澄まされた静かな殺気――覚えがある。
確信など持てるはずもないのに、思考より先に身体が弾かれたように駆け出していた。
木々を掻き分け、辿り着いた先は深い森の奥にある湖だった。
たしか以前、小平太たちが鍛錬で話していた水場……ここは裏裏山か。
即座に茂みへ身を隠し、呼吸と気配を極限まで殺す。すぐ近くから水音が聞こえ、木の隙間から視線を向けると――そこに、探し求めていた名前の姿があった。
脱ぎ捨てられた忍装束が岸辺に置かれている。
何も身に纏わぬ姿のまま、彼女は静かに夜の湖へと足を踏み入れていた。
伏せられた目元、月夜の光を弾いて青白く輝く肌。結いを解かれた漆黒の長髪が濡れて背に零れ落ち、水面に流れる。
その息を呑むほどに美しく儚い情景に、胸を突かれたように目が釘付けになり、息をすることすら忘れていた。
――ハッと我に返り、自身の動揺を押し殺す。
彼女はただ黙々と水浴びを続けていた。……だが次の瞬間、ぴたりと手が止まる。
気配を悟られたか。彼女の鋭い視線が、正確に俺の潜む茂みの一点を見つめて射抜いた。
『……出てこい。』
闇夜を切り裂き、鋭く低い声が響き渡る。
何も纏わぬ姿のまま手元にあった苦無を静かに構え、殺気を放ちながら襲撃者を迎え撃とうとしていた。
「名前……俺だ。」
茂みを分け、ゆっくりと姿を現す。
『……留三郎。』
俺の顔を認めた瞬間、ふっと殺気が霧散した。
濡れた髪から滴る雫が月光を受けてきらりと光り、白く眩しい肌を伝っていく。
苦無を下ろすその一挙一動すら美しく、俺は気圧されたように固まってしまった。
「すまん………」
『大丈夫、気にしてない……』
普段からのあの明るい名前とは違い、冷たい重圧が感じられる声だ。
「……すまん。覗くつもりはなかったんだ。」
『大丈夫……気にしてない。』
淡々と答える名前。
いつもの冷静な立ち振る舞いとは違う、どこか己を痛めつけるような重苦しい冷たさが、彼女の声からひしひしと伝わってきた。
すくい上げた声にわずかな柔らかさが戻ったのを感じ、俺はたまらず言葉を重ねた。
彼女は問いかけには答えず、ただ無言のまま刃のような横顔を見せていた。
「俺でよければ、何でも聞く……話してくれ。」
『…………』
「……頼むから、一人で抱え込まないでくれ……っ」
振り向いてくれない背中に向かって、切羽詰まった声が絞り出される。
自分でも驚くほど必死だった。不甲斐ない自分が悔しくて、けれどそれ以上に彼女がこのまま遠くへ行ってしまいそうな恐怖で胸が押し潰されそうだった。
俺の必死の訴えに、彼女の動きがぴたりと止まる。
ゆっくりと振り返った瞳は、月光よりも冷たく、そしてどこか哀しげに俺を射抜いた。
『……なぜ、そこまで私に関わる?』
濡れた肌を隠すこともせず、水の中に佇んだまま私を射抜く瞳は、月光よりも冷たく、そしてどこか壊れそうなほど静かだった。
先日の実習で、自分の中に眠る恐ろしい本性を見せつけてしまった気がしていた。復讐に狂い容赦なく敵を血に染め、挙句の果てに仲間である文次郎にまで感情を爆発させて投げ飛ばした、あのみっともない失態。
幼い頃に父母を失い、誰にも守られなくなった自分一人が生き残るためだけに、技術を磨き、知識を叩き込んできた。父や母のように呆気なく殺されないために、いつか現れる仇を凌ぐ力をつけるために。それだけで生きてきたはずだった。
それなのに――長年追い続けた敵の正体を目にした瞬間、抑えつけていた感情が決壊した。
うまくいっていたはずだった。忍術学園でくのたまとして馴染み、うまく立ち回っていたはずの日常は、あの一夜で全て滅茶苦茶になった。
(……あんな凄惨な姿を見せて、幻滅されたに決まっている)
学園長先生から与えられた過酷な試練にも耐え抜いてきた。けれどこうして二人の前に顔を出す勇気など、もうどこにも残っていない。
自嘲気味に口元を歪め、私は濡れた髪を振り払うことすら忘れて、呆然と留三郎を見つめていた。
『……幻滅したでしょう?』
「そんなわけ……っ!」
『でもこれが本当の私。憎悪に塗れれば血が滾り、味方にすら刃を向ける、ただの狂気。』
「…………」
『……これまで親しくしてくれて、ありがとう。』
静かに別れを告げ、冷え切った水から上がろうと岸辺へ足を向けた――その瞬間。
――ザブンッ!!
爆音のような水音が夜の静寂を激しく打ち破った。
驚いて振り向いた視線の先で、留三郎が忍装束のまま勢いよく湖へ飛び込んでいた。
濡れた衣服の重さもいとわず、強引に水をかき分けてこちらへと突き進んでくる。
彼が力強く動くたび大きく波立った湖面が月光を乱反射させ、眩いばかりの光の粒を撒き散らしていた。
あっという間に間合いを詰められ、眼前で足が止まる。
息を荒げた留三郎の真っ直ぐな瞳が、逃がさぬように私をじっと射抜いた。
拒絶の言葉を失い、吸い寄せられるようにその瞳を見つめ返した瞬間――力強い腕が伸ばされ、私の身体は彼の熱い胸の中へと一気に抱き寄せられていた。
『留三郎……』
「……お前の過去は、知っている。」
投げかけられた言葉に、伏せかけていた瞳を大きく見開いた。
私の生い立ちは、学園内でもごく限られた教員しか知らないはずの秘密。同級生である彼が知り得るはずのない情報だった。動揺が波打ち、動悸が跳ね上がる。けれど、この期に及んでこれ以上の弱さや乱れを見せたくないという小さな意地が、私を辛うじて踏みとどまらせた。
『……そう。』
「親の仇だ。憎くて当然だ……俺だって、同じ立場なら血を吐く思いで敵を追っていただろう。」
『……………』
「……だが、それを全部お前一人が背負い込む必要なんて、どこにもない。」
忍びとして一人で立ち、誰にも負けず誰に対しても器用に笑ってみせる彼女。けれどその心の最奥だけは、誰一人として踏み込ませない頑なさがあった。
すべては、己の力だけを頼りに生き抜くしかなかった過酷な環境が生み出した、哀しい自立の証だったのだろう。
「…………今まで、よく頑張ったな。」
力強く抱きすくめる腕に、さらにぐっと重い熱がこもる。
その一言が耳に届いた瞬間――堰を切ったように、私の目から溢れた雫が頬を静かに伝い落ちた。
誰かに気づいてほしかったわけでも、優しい言葉で慰めてほしかったわけでもない。
けれど、ずっと重く肩にのしかかっていた冷たい呪縛がふっと消え去ったような安堵が胸を満たし、止めようとしても涙が次から次へと溢れ出して止まらない。
『うっ……く……っ……。』
しゃくりあげ、声を押し殺して涙を流す私を、留三郎は壊れものを慈しむように、さらに強くその胸の中へ抱き留めてくれた。
彼の濡れた衣服にしがみつき、その温もりに縋るように泣きじゃくる。
今だけは――この夜の静寂の中だけは、彼の腕の中で子供のように泣いてしまっても許されるだろうか。