三日月
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「あー。いい湯だぜ。」
「親父。」
「あ?」
いつからだろう。
頭の中で言葉を並べる時、日本語が不意をついて出るようになったのは。
いつからだろう。
迷いない筈だった自分の行動が、
後悔の念を持つようになったのは。
いつからだろう。
あいつが頭をかすめるようになったのは。
白く煙る銭湯の湯船で、
振り切ろうとするがどうしようもない記憶の締めくくりに、最後に見た笑顔を思い出す。
“好きです。”
“私はあなたが好きです。”
身体が一つも動かなかった。
ただ走り去っていくあいつを目で追うしか、自分にはできなかった。
例えばあそこで抱き締めていれば?
俺もそうだと言っていれば?
糞だ。
そんなこと、出来るわけがない。
「嵐、今日も会えねぇな。」
その言葉に苛立ちを隠せず、
手で形を作り水を男の目元に飛ばす。
ぶべっと情けない音を立てて奴が肩をビクつかせる。
「ガキみてぇなことすんな!」
腕で目をこすりながら、
一端の大人の様に自分を叱る。
確かにな。
と思う。
確かに奴はもう、自分よりも数倍大人だ。
自分はこんなところで立ち止まり、
女の一挙一動に悩まされている。
それはもう、
ガキとしか言いようがないだろう。
認めざるを得ない。
「ていうかよぉ。お前この仕事終わったらどうすんだ?」
大学講師の短期契約。
そういえば、もう一月半も経つのか。
時間の感覚はいつもよく分からないが、
今年は物凄く早く感じるように思う。
「さぁな。」
湯船の淵に腕をつき、壁のでかでかと描かれた富士を見やる。
「さぁなって、金もう随分溜まったろ。」
「ああ。」
「つーか、んなに稼いで何に使うつもりなんだよ。」
「ほっとけ。」
「お前は何も言わねぇのな。」
「別にいいけどよ。」と言いながら
ザバッと音を立て、男は風呂から上がる。
その背中には、目立たないが小さく丸い傷がある。
それは、
人間が普通に生きていては絶対につかない傷跡だ。
銃創 。
別段それに興味はないが、
腐った過去に口を開かないのはこいつだって同じだ。
そんな傷を持ちながら、
こいつは今、自分より何倍も逞ましく
人間らしく生きているように思う。
奪いぬいたのだ。
奴は“足りないネジ”を確実に手に入れた。
俺にだって出来るんじゃないのか。
そんな希望的観測が、
自分の胸をより一層締め付ける。
この穴を、埋める術がこの世にまだあるのだろうか。
熱い湯に浸かりながら、そんなことを考えた。
「やっぱ、来なかったなー嵐」
何をそんなに気にかけているのか、
懲りずに言葉をかけてくる。
「いい加減、しつこいね。」
「いい加減なのはお前だっつの!」
ただでさえ暑苦しいそのフォルムが、
拍車が掛かって疎ましい。
そんなことは御構い無しに
あ、そうだと言って奴はポケットから携帯を取り出す。
「そういや、嵐の番号知ってんだった。」
「掛けたら殺す。」
自分もなかなかドスの利いた声が出せるものだ。
「何でだよ。あ、さてはお前。」
一瞬ひるんだ奴の顔、みるみるうちににやけた表情に変わっていく。
「何か。」
「妬いてんだろ。
あいつの番号知らねぇから。」
奴の向こう脛に一発蹴りを入れてから
先の道を歩き出す。
涙目の男はうんとかすんとか言いながら自分の後を追ってくる。
糞野郎。
何の為に努力して、距離を取っていると思ってるのか。
何の為に?
いや違う。
自分はただ怖いだけだ。
そんなこと知っている。
怖いのだ。
今まで無かった筈のことが起こるのが。
ただの遊びならいい。
どうでもいい女ならいい。
女なんて、ただ柔らかいだけの生き物じゃないか。
そうだ。
今までの女と何処が違う?
器量も人並、頭も人並。
何処にでもいる普通の女だろう。
その辺の女とどう違う?
自分の見た目に関し、これといって
思うところなど何もないが、
自分の胸の穴を埋めるに事欠いたことなど一度もなかった。
自分から女に擦り寄ったことなど一度も。
あいつは、嵐は、どうだっただろう。
自分から、初めて声を掛けたような気がする。
そう思うと胸の中がガチャガチャ音を立てて、何かが暴れ出す。
畜生。
こんなのは俺じゃない。
眉間に皺を寄せると、
また頭で誰かが言う。
“それは嘘だ”
そんなことは分かっている。
分かっているくせに。
俺は滑稽で惨めで愚鈍な痴 れ者だ。
「そんなに自分を卑下するな。」
と老人の言葉を思い出す。
「卑下は、俯瞰や謙虚ではない。
安らぎは、怠惰や甘えとは違う。」
と柔らかいが鋭い眼差しで、
自分を射抜くように言うに違いない。
この台詞はあの歌の次に、
耳にタコが出来て潰れるほど、
老人がよく口にした言葉だった。
意味は分かる。
ただ実感はできない。
今でも。
今の自分をみたら、それに加えてこう言うだろう。
「いい女じゃないか。
“己”に気づかせてくれる女はそうそういない。」
タバコを燻らせ、笑いながら、
それからタラタラと鬱陶しい説教が始まるだろう。
臭いドブの海の側で、
日本にいつか行ってみたいと思いながら、
あの歌を聴いて寝転んで。
本当にそうだったらいいのに。
いや、しかし老人がまだ生きていたとしたら
自分がこうして日本に来ることもなかったかもしれない。
そしたら俺は、
あいつに会うこともなかったのかもしれないー
こちらが頼んでもいない癖に
浮かび上がってくる妄想を、
一つ残らず握り潰したくてタバコに火つけ息を吐く。
全く。
何年経ったと思ってるんだ。
けれど、自分は気づいている。
もう何年も前から聞こえる頭の声も、
老人の台詞も、
自分が出している答えの一つに過ぎないと。
自分が一番分かっている。
“好きです。”
“あなたが好きです。”
あいつが、
嵐が、
自分にとってとんでもないぐらい
特別だということが。
「おい、何ぼーっとしてんだ。
のぼせたかよ。」
「…ああ、そうね。重症みたいね。」
そう少しだけ笑いながら、
そんな自分にほとほと呆れ、
暗い夜道を歩いていく。
「親父。」
「あ?」
いつからだろう。
頭の中で言葉を並べる時、日本語が不意をついて出るようになったのは。
いつからだろう。
迷いない筈だった自分の行動が、
後悔の念を持つようになったのは。
いつからだろう。
あいつが頭をかすめるようになったのは。
白く煙る銭湯の湯船で、
振り切ろうとするがどうしようもない記憶の締めくくりに、最後に見た笑顔を思い出す。
“好きです。”
“私はあなたが好きです。”
身体が一つも動かなかった。
ただ走り去っていくあいつを目で追うしか、自分にはできなかった。
例えばあそこで抱き締めていれば?
俺もそうだと言っていれば?
糞だ。
そんなこと、出来るわけがない。
「嵐、今日も会えねぇな。」
その言葉に苛立ちを隠せず、
手で形を作り水を男の目元に飛ばす。
ぶべっと情けない音を立てて奴が肩をビクつかせる。
「ガキみてぇなことすんな!」
腕で目をこすりながら、
一端の大人の様に自分を叱る。
確かにな。
と思う。
確かに奴はもう、自分よりも数倍大人だ。
自分はこんなところで立ち止まり、
女の一挙一動に悩まされている。
それはもう、
ガキとしか言いようがないだろう。
認めざるを得ない。
「ていうかよぉ。お前この仕事終わったらどうすんだ?」
大学講師の短期契約。
そういえば、もう一月半も経つのか。
時間の感覚はいつもよく分からないが、
今年は物凄く早く感じるように思う。
「さぁな。」
湯船の淵に腕をつき、壁のでかでかと描かれた富士を見やる。
「さぁなって、金もう随分溜まったろ。」
「ああ。」
「つーか、んなに稼いで何に使うつもりなんだよ。」
「ほっとけ。」
「お前は何も言わねぇのな。」
「別にいいけどよ。」と言いながら
ザバッと音を立て、男は風呂から上がる。
その背中には、目立たないが小さく丸い傷がある。
それは、
人間が普通に生きていては絶対につかない傷跡だ。
別段それに興味はないが、
腐った過去に口を開かないのはこいつだって同じだ。
そんな傷を持ちながら、
こいつは今、自分より何倍も逞ましく
人間らしく生きているように思う。
奪いぬいたのだ。
奴は“足りないネジ”を確実に手に入れた。
俺にだって出来るんじゃないのか。
そんな希望的観測が、
自分の胸をより一層締め付ける。
この穴を、埋める術がこの世にまだあるのだろうか。
熱い湯に浸かりながら、そんなことを考えた。
「やっぱ、来なかったなー嵐」
何をそんなに気にかけているのか、
懲りずに言葉をかけてくる。
「いい加減、しつこいね。」
「いい加減なのはお前だっつの!」
ただでさえ暑苦しいそのフォルムが、
拍車が掛かって疎ましい。
そんなことは御構い無しに
あ、そうだと言って奴はポケットから携帯を取り出す。
「そういや、嵐の番号知ってんだった。」
「掛けたら殺す。」
自分もなかなかドスの利いた声が出せるものだ。
「何でだよ。あ、さてはお前。」
一瞬ひるんだ奴の顔、みるみるうちににやけた表情に変わっていく。
「何か。」
「妬いてんだろ。
あいつの番号知らねぇから。」
奴の向こう脛に一発蹴りを入れてから
先の道を歩き出す。
涙目の男はうんとかすんとか言いながら自分の後を追ってくる。
糞野郎。
何の為に努力して、距離を取っていると思ってるのか。
何の為に?
いや違う。
自分はただ怖いだけだ。
そんなこと知っている。
怖いのだ。
今まで無かった筈のことが起こるのが。
ただの遊びならいい。
どうでもいい女ならいい。
女なんて、ただ柔らかいだけの生き物じゃないか。
そうだ。
今までの女と何処が違う?
器量も人並、頭も人並。
何処にでもいる普通の女だろう。
その辺の女とどう違う?
自分の見た目に関し、これといって
思うところなど何もないが、
自分の胸の穴を埋めるに事欠いたことなど一度もなかった。
自分から女に擦り寄ったことなど一度も。
あいつは、嵐は、どうだっただろう。
自分から、初めて声を掛けたような気がする。
そう思うと胸の中がガチャガチャ音を立てて、何かが暴れ出す。
畜生。
こんなのは俺じゃない。
眉間に皺を寄せると、
また頭で誰かが言う。
“それは嘘だ”
そんなことは分かっている。
分かっているくせに。
俺は滑稽で惨めで愚鈍な
「そんなに自分を卑下するな。」
と老人の言葉を思い出す。
「卑下は、俯瞰や謙虚ではない。
安らぎは、怠惰や甘えとは違う。」
と柔らかいが鋭い眼差しで、
自分を射抜くように言うに違いない。
この台詞はあの歌の次に、
耳にタコが出来て潰れるほど、
老人がよく口にした言葉だった。
意味は分かる。
ただ実感はできない。
今でも。
今の自分をみたら、それに加えてこう言うだろう。
「いい女じゃないか。
“己”に気づかせてくれる女はそうそういない。」
タバコを燻らせ、笑いながら、
それからタラタラと鬱陶しい説教が始まるだろう。
臭いドブの海の側で、
日本にいつか行ってみたいと思いながら、
あの歌を聴いて寝転んで。
本当にそうだったらいいのに。
いや、しかし老人がまだ生きていたとしたら
自分がこうして日本に来ることもなかったかもしれない。
そしたら俺は、
あいつに会うこともなかったのかもしれないー
こちらが頼んでもいない癖に
浮かび上がってくる妄想を、
一つ残らず握り潰したくてタバコに火つけ息を吐く。
全く。
何年経ったと思ってるんだ。
けれど、自分は気づいている。
もう何年も前から聞こえる頭の声も、
老人の台詞も、
自分が出している答えの一つに過ぎないと。
自分が一番分かっている。
“好きです。”
“あなたが好きです。”
あいつが、
嵐が、
自分にとってとんでもないぐらい
特別だということが。
「おい、何ぼーっとしてんだ。
のぼせたかよ。」
「…ああ、そうね。重症みたいね。」
そう少しだけ笑いながら、
そんな自分にほとほと呆れ、
暗い夜道を歩いていく。