camera obscura

愛らしい未来/高原英理より抜粋

2025/01/25 18:08
人の執着に理由はない、とある人は言った。偶然なのだと。偶然という語は世界の在り方を人の狭い思考で計ろうとしたときあらわれる最後のため息である。
(夢の通路 p75)

海は夢を見ている。海の見る夢が揺れると人々の心底に泡が浮く。今も海は夢見ている。わたしの心底にあなたの面影を持つ泡を浮かべよう。泡を包む言葉という膜、空虚を抱いた言葉の膜が許されている。守ることは死に近づくことだった。
(夢の通路 p83)

つながっている? 何に?
知らない。
それで何が起きる?
何も。
それ、ただつながっているだけではないの?
何もないから何もない、のではない。
何があると言うのだろう。
それを心というんだ。
心は無力ということ?
無力だから祈り続ける。祈り続けている間はそれが全部無力だったのだという結果の見定めが遅れる。だから人は、言葉を持つ。言葉は動かせない岩を動けと言い続ける。その営為が生きること。
(夢の通路 p83-84)

あなたが一番言ってほしくないことを。
なに?
あなたの肌が裂けて液状の心がしたたり落ちるようなこと。
それはなに?
知らない。
知らないことは永遠のいたわりである。
(夢の通路 p86)

死は眠りと違う。死の向こうに夢はない。けれども、起きてわたしを、欠落した自分を意識していることの厭さに、つい眠りの代わりに死を願いそうになる。
(夢の通路 p87)

わたしは待っている。
ある朝、突然に訪れる、死の香りをした何かの大きな異変を、それはきっとわたしが死んで二度と目醒めない日のことだ。無用となったわたしの代わりに異変が訪れる。
わたしは待っている。
(夢の通路 p88-p89)

太陽。首の切り口。
という詩を憶えている。床に、濡れた太陽が来た。
(れいめい p97)

世界には、僅か微かな、わずかすの真理があちこちに半ば埋まって、反応する人を待つ。反応できる人たちは、僅かしかいないが、それも微かにだが、わずかすな喜びが、どこかに、ある。
(れいめい p124)

「意識は何かに向いているときだけ意識なので、人といないとき、誰かのことを考えていないときあなたという意識はない」
(れいめい p138)

「それから、ゲームをする。本を読む。仕事をする。何かにかかりきりっているとき、あなたはいない。そこには強く対象に向かう意識はあるけれども、それはあなたである必然性がなくて、誰かであればいいですね。あなたという自意識からは離れて動くことができる。多くのひとは、自意識を意識していないときを幸せと思いがち。自意識はつらいから」
(れいめい p139)

「言葉があるから自意識もある」
そして言葉が自意識を決める。
(れいめい p139)

「廻らない独楽は死んだ独楽だ。ぶざまに寝ているのがいやなら、どうしても廻らなければならない。
しかし独楽は、巧く行けば、澄む。独楽が澄んだきとほど、物事が怖ろしい正確さに達するときはない。いずれ又惰力を失って傾いて転んで、廻転をやめることはわかっているが、澄んでいるあいだの独楽には、何か不気味な能力が具わっている。それはほとんど全能でありながら、自分の姿を完全に隠してしまって見せないのである。それはもはや独楽ではなくて、何か透明な兇器に似たものになっている。しかも独楽自身はそれに気がつかずに、軽やかに歌っているのである」(三島由紀夫)
正確な何かに触れるとき、人は、自分が何か、知らない。自分が何かわからないとき、真が見える。でもそれは自分でないから自分の経験として記憶されない。
(れいめい p141-142)

「人が本当に目を覚ますのは死ぬ一瞬だけ」と告げ割れた。
(れいめい p151 )

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