camera obscura

石原吉郎詩文集から抜粋

2025/01/11 14:11
〈死〉
死はそれほどにも出発である。
死はすべての主題の始まりであり
生は私には逆向きにしか始まらない
死を〈背後〉にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きとした死になるのだ

〈失語と沈黙のあいだ〉
平凡なことですが、ものの価値は、それがうしなわれてみて、はじめてわかる。うしなうということは、いうまでもなく不幸なことです。しかし、その不幸なことによってしか、私たちは、ものごとの存在の重みを知ることができないのです。

神の想念は問いとなり警告となって絶えずわれわれにつきまとう。(カール・バルト)

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ
吉野弘「奈々子に」

不条理がたしかに不条理となる場所が自分自身である。従って、自分自身が事実上存在しない場所では、不条理は存在せず、世界もまた存在しない。不条理は自己に対する切実な関心(sorge)から生まれる。不条理の深さは、自己への関心の深さである。

この、無意味な世界を生きるに値するものということは、無意味を意味におきかえることではない。無意味とたたかいつづけることである。

私は虚無へ引きかえす
帰るべき故郷を待つもののように

痛みはその生に固有なものである。死がその生に固有なものであるように。固有であることが痛みにおいて謙虚をしいられる理由である。なんびとも他者の痛みを痛むことができない。それがたましいの所業であるとき痛みはさらに固有であるだろう。そしてこの固有であることが人が痛みにおいてついに孤独であることのさいごの理由である。痛みはなんらかの結果として起きる。人はその意味で痛みの理由を自己以外のすべてに求めることができる。だが痛みそのものを引き受けるのは彼である。そして「痛みやすい」という事実が窮極の理由として残る。人はその痛みの最後の主人公である。
最後に痛みはついに癒されねばならぬ。治癒は方法ではない。痛みの目的である。痛む。それが痛みの主張である。痛みにおいて孤独であったように治癒においてもまた孤独でなければならない。
以上が痛みが固有であることの説明である。実はこの説明の過程で痛みの主体はすでに脱落している。癒されることへの拒否はそのときから進行していたのだ。痛みの自己主張。この世界の主人は痛みそのものだという最後の立場がその最後にのこる。

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