傘下のひとりごと
「新訳 エマニエル夫人」より抜粋
2024/12/31 02:14「ああ!そうね、わたしたちはひとつなのね。わたしはあなたの体の一部。あなたはわたしから生まれた男なのよ」
(新訳エマニエル夫人 p74)
「僕はイヴの味方だっただろうね」ジャンは言った。「禁断の果実が好きで、公園の管理人を嫌う女性が完全に悪いということはない」
(新訳エマニエル夫人 p129)
「ひとりの男、ひとりの女が、他者より多く語るべきことを持っているかどうか? その答えを知るためには、すべての他者を知らなければならない。そんなことは不可能だとおっしゃるかもしれない。しかし、思考の出現は、われわれ人類を多く無謀な計画へと導いたが、素晴らしい共感力を授けてもくれた。自分自身が表現したいと熱望する意味をすべての人がそこに見いだせるように、皆を代表して誰かが話す言語、音や形、聴覚、視覚、触覚の言語であり、すばらしく短い言葉で指し示すことができるもの、“芸術”です。この言葉は非常に短いので、それぞれの精神と欲望の可能性に応じて拡張しなければならない。何千年、何百万年という歳月をかけてわらわれの偶然の世界を創造された世界にしているのは、秘密裏にあるいは声高く語られるこうした無限の累積なのです」
(新訳エマニエル夫人 p156)
「くだらない! 安っぽい好奇心は、機械や知恵遊びほどにも美しくありません。失われていくものにこそ芸術がありました。堕落していく女性にしか芸術は存在しないのです。芸術は肉体の堕落です。保たれるもの、存続するものに美を見いだすことを期待してはいけません。すべての創造物は、生まれたときから死んでいるのです」
(新訳エマニエル夫人 p157-p158)
愛の言葉なんて、手の才能に比べれば意味が乏しい。
(新訳エマニエル夫人 p173)
「とても美しい脚だ! そして何よりも、爪先から腰までは純粋に色欲の器官なのです」
そして指先で、小麦色に日焼けした脛のラインに軽く触れる。
「明白なことですが、その機能は歩くのに使うものではありません」
(新訳エマニエル夫人 p190)
「エロティシズムは社会で楽しむための方法のマニュアルではありません。人間の運命の概念であり、基準であり、規範であり、掟であり、典礼であり、芸術であり、学校である。それはまた科学であり、それよりむしろ、選ばれた果実、科学の最後の果実なのです。その法則は、盲信ではなく理性に基づいています。恐怖ではなく信頼のうえに築かれているのです。そして、死の神秘思想というよりむしろ、生の流儀のうえにあるのです」
「エロティシズムは退廃の産物ではなく、進歩です。なぜならそれは、セックスにまつわることを世俗化するのを助けるからで、精神的にも社会的にも健康によい道具なのです。そして私は、エロティシズムは精神的地位向上に必要な要素であると主張します。なぜならそれは人格教育を前提としていて、明晰さへの情念のために、幻想に対する情念を放棄するからです」
(新訳エマニエル夫人 p197-p198)
「なぜなら、われわれの人生は途方もなく単純だからです。この世には知性以外に義務はなく、愛以外の運命も、美以外の善のしるしもありません」
(新訳エマニエル夫人 p198)
「ですが、よくおぼえておいてください。あなたが出合うであろう美は、完成された作品にあるのではありません。美は結晶ではないのです。忠実な労働者に約束された楽園でもなければ、仕事に勤しんだあとの黄昏の静けさでもありません。けっして黙することのない創造的な冒涜の言葉であり、何ものも満足させることのない問いかけであり、けっして飽きることのない前進なのです。美は挑戦であり、努力です。美には切迫した挑戦と無限の努力があります。われわれのなかで、偶然の産物であるわれわれの肉体の破滅に至る不可解な部分に立ち向かうものなのです。美はわれわれの運命の英雄的行為そのものなのです」
(新訳エマニエル夫人 p199-p200)
「女性同士の肉体交渉は、生物学的に不条理です、不可能なのです。エロティシズムは、即座に、この非現実的な発明を現実に変えます。肛門性交は自然に対する挑戦ですが、人間はそれをします。五人でセックスをすることは自然ではありませんが、人間はそれを想像し、順序立てて、実行します。その勝利のひとつひとつが美しいのです。たしかに、エロティシズムが花開くためには、必ずしもこのような特別な趣向が必要なわけではありません。必要なのは、若さと精神の自由、真実の愛、慣行や慣習に負うところのない純粋さだけです。エロティシズムは勇気の情念なのです」
(新訳エマニエル夫人 p200-p201)
「悪徳、とおっしゃいましたか? それはどういう意味でしょうか? 悪徳とは欠陥のことです。エロティシズムはまさしく人間の行為で、欠陥、過失、再度の転落がないわけではありません。もしそうであるなら、悪徳はエロティシズムの代償であり、影、滓です。しかし、けっして存在しえないものがあります。恥ずべきエロティシズムです。官能的な行為を生み出すために必要な資質、すなわち、何よりもまず論理性と確固とした精神力、想像力、ユーモア、大胆さ、さらには信念を貫く力と組織力、センスの良さ、美的直感、そして、それがあらゆる試みが失敗に終わるであろう壮大な感覚こそが、エロティシズムを誇り高く、寛大で、ほかを圧倒するものにすることができるのです」
(新訳エマニエル夫人 p201-p202)
(新訳エマニエル夫人 p74)
「僕はイヴの味方だっただろうね」ジャンは言った。「禁断の果実が好きで、公園の管理人を嫌う女性が完全に悪いということはない」
(新訳エマニエル夫人 p129)
「ひとりの男、ひとりの女が、他者より多く語るべきことを持っているかどうか? その答えを知るためには、すべての他者を知らなければならない。そんなことは不可能だとおっしゃるかもしれない。しかし、思考の出現は、われわれ人類を多く無謀な計画へと導いたが、素晴らしい共感力を授けてもくれた。自分自身が表現したいと熱望する意味をすべての人がそこに見いだせるように、皆を代表して誰かが話す言語、音や形、聴覚、視覚、触覚の言語であり、すばらしく短い言葉で指し示すことができるもの、“芸術”です。この言葉は非常に短いので、それぞれの精神と欲望の可能性に応じて拡張しなければならない。何千年、何百万年という歳月をかけてわらわれの偶然の世界を創造された世界にしているのは、秘密裏にあるいは声高く語られるこうした無限の累積なのです」
(新訳エマニエル夫人 p156)
「くだらない! 安っぽい好奇心は、機械や知恵遊びほどにも美しくありません。失われていくものにこそ芸術がありました。堕落していく女性にしか芸術は存在しないのです。芸術は肉体の堕落です。保たれるもの、存続するものに美を見いだすことを期待してはいけません。すべての創造物は、生まれたときから死んでいるのです」
(新訳エマニエル夫人 p157-p158)
愛の言葉なんて、手の才能に比べれば意味が乏しい。
(新訳エマニエル夫人 p173)
「とても美しい脚だ! そして何よりも、爪先から腰までは純粋に色欲の器官なのです」
そして指先で、小麦色に日焼けした脛のラインに軽く触れる。
「明白なことですが、その機能は歩くのに使うものではありません」
(新訳エマニエル夫人 p190)
「エロティシズムは社会で楽しむための方法のマニュアルではありません。人間の運命の概念であり、基準であり、規範であり、掟であり、典礼であり、芸術であり、学校である。それはまた科学であり、それよりむしろ、選ばれた果実、科学の最後の果実なのです。その法則は、盲信ではなく理性に基づいています。恐怖ではなく信頼のうえに築かれているのです。そして、死の神秘思想というよりむしろ、生の流儀のうえにあるのです」
「エロティシズムは退廃の産物ではなく、進歩です。なぜならそれは、セックスにまつわることを世俗化するのを助けるからで、精神的にも社会的にも健康によい道具なのです。そして私は、エロティシズムは精神的地位向上に必要な要素であると主張します。なぜならそれは人格教育を前提としていて、明晰さへの情念のために、幻想に対する情念を放棄するからです」
(新訳エマニエル夫人 p197-p198)
「なぜなら、われわれの人生は途方もなく単純だからです。この世には知性以外に義務はなく、愛以外の運命も、美以外の善のしるしもありません」
(新訳エマニエル夫人 p198)
「ですが、よくおぼえておいてください。あなたが出合うであろう美は、完成された作品にあるのではありません。美は結晶ではないのです。忠実な労働者に約束された楽園でもなければ、仕事に勤しんだあとの黄昏の静けさでもありません。けっして黙することのない創造的な冒涜の言葉であり、何ものも満足させることのない問いかけであり、けっして飽きることのない前進なのです。美は挑戦であり、努力です。美には切迫した挑戦と無限の努力があります。われわれのなかで、偶然の産物であるわれわれの肉体の破滅に至る不可解な部分に立ち向かうものなのです。美はわれわれの運命の英雄的行為そのものなのです」
(新訳エマニエル夫人 p199-p200)
「女性同士の肉体交渉は、生物学的に不条理です、不可能なのです。エロティシズムは、即座に、この非現実的な発明を現実に変えます。肛門性交は自然に対する挑戦ですが、人間はそれをします。五人でセックスをすることは自然ではありませんが、人間はそれを想像し、順序立てて、実行します。その勝利のひとつひとつが美しいのです。たしかに、エロティシズムが花開くためには、必ずしもこのような特別な趣向が必要なわけではありません。必要なのは、若さと精神の自由、真実の愛、慣行や慣習に負うところのない純粋さだけです。エロティシズムは勇気の情念なのです」
(新訳エマニエル夫人 p200-p201)
「悪徳、とおっしゃいましたか? それはどういう意味でしょうか? 悪徳とは欠陥のことです。エロティシズムはまさしく人間の行為で、欠陥、過失、再度の転落がないわけではありません。もしそうであるなら、悪徳はエロティシズムの代償であり、影、滓です。しかし、けっして存在しえないものがあります。恥ずべきエロティシズムです。官能的な行為を生み出すために必要な資質、すなわち、何よりもまず論理性と確固とした精神力、想像力、ユーモア、大胆さ、さらには信念を貫く力と組織力、センスの良さ、美的直感、そして、それがあらゆる試みが失敗に終わるであろう壮大な感覚こそが、エロティシズムを誇り高く、寛大で、ほかを圧倒するものにすることができるのです」
(新訳エマニエル夫人 p201-p202)