君と出逢うその日まで
(伍)
降ろされた御簾の前に正座をして居住まいを正す。通された広い座敷には近侍を務める光忠しかいなかった。
「――して、燭台切。話とは一体何ですか」
対面する御簾の向こうから穏やかに問いかけられ、光忠は静かに切り出した。
「主に折り入って頼みがあるんだ。もし、僕が折れてしまった時は刀の一部分でも良いから庭にある万葉桜の下に埋めて欲しい」
僕はこの本丸が大好きだから。
せめてもの手向けとして。
どうか頼むよ――光忠は慇懃に頭 を垂れた。
突如暗転して場面が切り替わる。
右眼が焼けるように痛む。手で触れてみたら掌に血がべったりとついた。血が頬を流れ、顎先から滴ってぽたぽたと地面に垂れた。
「みつただ……!」
真っ青になって今にも泣き出しそうな顔をしている広くんに僕は笑いかける。
「うん、大丈夫だよ。悪い大人はもういなくなったからね。大丈夫、大丈夫だよ。ちょっと怪我しちゃったけど、全然痛くないよ。広くんが無事で良かった」
◆◆◆
「光忠、急にどうしたんだ」
まだ夜中の三時だぞ――大倶利伽羅は部屋の隅に置かれたスーツケースの中を漁っている光忠の背中に話しかける。
つい五分ほど前まで光忠は大倶利伽羅を腕の中に抱いて眠っていたが、突然目を醒ましたかと思うと布団から起き出して何やらごそごそとやり出したのだ。光忠の寝顔を堪能中だった大倶利伽羅としては少し面白くない。もっと見ていたかったのに。
「一つ思い出したことがあるんだ。僕のこの右眼の怪我について」
光忠は大倶利伽羅を振り返らないまま言うと背後で一瞬、空気が張り詰めた。大丈夫だよもう過去のことだから――光忠は険しい表情をしてこちらを見ている付喪神を一瞥して言い聞かせるように穏やかに言った。
「さっきまで見ていた夢のお陰で思い出した」
断片的な夢ではあったが、あまりにもはっきりとしたそれは封印されていた記憶の扉を開け放った。光忠は幼少の頃の思い出を語り出す。
「僕が子供の頃、近所に四つ歳下の男の子が住んでてね。彼とは公園で顔を合わすうちに自然と仲良くなって一緒に遊ぶようになったんだ。物静かで聡い子だったせいかな、不思議と馬が合った。向こうも僕を本当の兄のように慕ってくれたし、僕も彼を可愛い弟みたいに思ってた。それで。そう、確か夕方だったと思う。彼と公園で遊んだ帰りに」
その日はつい遊びに夢中になってしまい、いつもより少しだけ公園を出た時間が遅くなってしまったのだ。
早く帰らないとお母さん達が心配しちゃうねえそんなことを言いながら小さな手を引いて迫る夕闇の中、家路を急いだ。
いつも通り、友達を家に送り届けて自分も帰るつもりだった。だがその日は『いつも通り』には行かなかったのだ。
路地を曲がって真っ直ぐ行けば彼の家だ――そう思って路地を右手に折れたら飛び出してきた人とぶつかった。手を繋いでいたせいもあり、反動で二人揃って転んでしまった。
――広くん、大丈夫?
身を起こし、そう声をかけようとして目に飛び込んできたのは真っ赤な夕陽を受けて光るナイフの鋭利な輝き、それを躊躇いもなく彼に振り下ろされる瞬間、恐怖のあまり恐慌をきたして動けなくなっている幼い友達。
――広くん!
「僕が咄嗟に間に入って、友達は事なきを得た。犯人は恐らく友達と僕の叫び声を聞いて驚いて逃走したんだと思う。その後の記憶は朧気だけれど、騒ぎを聞きつけた大人達も集まってきて僕は救急車に乗せられて病院に連れて行かれたんじゃないかな」
光忠は言いながら浴衣を脱いでスーツケースから取り出した衣服に袖を通す。黙って聞いていた大倶利伽羅は疑問を差し挟む。
「怪我の経緯は判ったが、なぜ今になって思い出したんだ?」
話を聞く限り、記憶を取り戻すようなきっかけがあったようには思えない。光忠と一ヶ月近く寝起きを共にしているが、思い返してもそれらしい要素は見当たらない。すると光忠は大倶利伽羅を見て意味深長な笑みを片頬に浮かべた。
「思い出したきっかけは恐らく伽羅ちゃんだ」
「俺?」
予想外の台詞に大倶利伽羅は目を見開いて長身を見返す。
「そう。友達の名前は相州広光。君の刀の名前は大倶利伽羅広光。刀工の流派は相州伝だ。広くんのことは幼い頃の姿しか記憶にないけれど、でもきっと成長した姿は君にそっくりだと思う。年頃もね。肌の色や瞳の色なんてまるりき同じだし、そもそもの顔立ちが良く似てる。それから、寝る前に僕が君に言った言葉」
「何?」
「『どこにもいかないよ、ずっと君の傍にいるよ』――恐らく、これが決め手になったんだと思う」
警察官や医療関係の大人達が集まり混乱する現場ではっきり憶えていること――思い出したことは、幼い友人が泣きじゃくりながら「みつただ、どこにも行かないで!」そう叫んでいたことだ。幼いながらもただならぬ事態を察したのだろう。光忠が大人達に取り囲まれ救急車に乗せられるのを見てもう会えなくなると勘違いしたのかもしれない。――実際はその通りになってしまったのだが。
光忠は声をあげて泣く広光を安心させて宥めるためにこう言ったのだ、うん、どこにもいかないよ。ずっと君の傍にいるよ、と。
「僕も君にかけた言葉に妙な既視感があったんだ。その時は誰に言ったのか判らなかったけれど、当時のことを夢に見て謎が解けた」
「そう、なのか。何というか、凄い偶然だな」
思わず大倶利伽羅が唸ると光忠は朗らかに笑う。
「必然は偶然を媒介として現象する、偶然とは世界を作り出す本質的な要素である――昔読んだ本にあった言葉だけれど、僕と伽羅ちゃんが出逢ったこともきっと必然で、僕達それぞれの世界を構築する大事なものを取り戻すために必要な偶然だったんだよ」
僕は喪われた記憶を。
伽羅ちゃんは折れてしまった最愛の刀を。
「それで、なぜあんたは着替えてるんだ」
一体こんな時間に何をするんだと訝しむと「神様は僕にとても素敵なプレゼントをくれたよ。燭台切光忠の刀は桜の樹の下にある。今から彼を見つけに行こうじゃないか」光忠は持参した軍手と折りたたみ式のシャベルを手に持って大倶利伽羅に見せた。
白い息を吐きつつ、暗い夜道を懐中電灯で照らしながら歩く。街灯が乏しい道は時間帯もあって不気味なほど静かだ。野良猫一匹さえ見かけない。空もまだ曇っているのか月も星も見えなかった。夜陰は身を切るように冷たく、体温を容易に奪っていく。息を吸い込むと冷気に肺が痛むような心地がした。
「都市部ならこんな時間でも明るいけど、本当の夜闇ってこんなにも暗いものなんだね。ちょっと怖いくらいだ」
「本当の闇はこんなもんじゃない。更に暗いぞ」
大倶利伽羅は光忠の隣を歩きながら夜戦や遠征に出て夜を明かした記憶を振り返る。あの時代の夜闇は躰に纏わりつくような重さと濃さがあった。
「今以上に暗いなんて想像ができないな。伽羅ちゃんは怖くなかった?」
「別に恐ろしいと思ったことはないな。それどころか俺には馴染み深い」
混じり気のない漆黒は最愛の人の色でもあったから。端正な黒、漆黒。それに包まれると酷く安心できた。
流石は南北朝時代生まれだねえ大倶利伽羅の言葉の意味を知らない光忠はそう言って笑った。
「これで寺の山門が閉まっていたら出直しだな」
「そうならないことを祈るよ」
流石に白昼堂々天然記念物の桜の根元を掘り返す勇気はない。見つかったら事だ。いや、見つからなくてもいけないことだけれど。大事な桜を傷つけたりしないから、どうか土を掘り返すことだけは赦して欲しい――光忠は誰に向けるわけでもなく内心でそんな言い訳を並べた。
宿泊しているホテルから桜のある寺院まで六キロほどの距離にある。歩いて行ける範囲にあって良かったとつくづく思う。ただ、こんな時間なのでホテルから抜け出るのには少々骨が折れた。フロントに無理を言って――夜行性の野生動物の生態調査のために外出したいとでたらめを言ってロビーの入口を開けて貰ったのだ。嘘を吐いたことに些か良心が咎めたが、この場合はやむを得ないと光忠は己を納得させて折り合いをつけた。
夜陰に紛れて黙々と一時間半ほど歩き、辿り着いた寺院の山門は幸いにも開かれたままであった。良かったと光忠はほっと胸を撫で下ろして闇に聳える門を潜った。真っ直ぐに桜の古木に向かう。光忠は天へ大きく張り出した太い枝を一瞥すると懐中電灯で足元を照らしながら桜の周りを歩いた。その様子を少し離れたところから眺めていた大倶利伽羅は「この桜のことも夢に見たのか」気になっていたことを訊ねた。
「実際にこの桜が出てきたわけじゃないけれど、彼が誰かに――主っていう人に頼んでたんだ。もし刀が折れたら一部分でも良いから庭にある万葉桜の下に埋めて欲しいって」
「何だと」
大倶利伽羅は愕然として必死に記憶の糸を手繰る。
光忠が折れた後、その刀はどうした? 俺が持ち帰ったのか? 記憶が曖昧だ。それとも誰か別の刀が持ち帰って主に手渡した? あいつが俺に刀を託したか? いや、それはない。そうであったなら初めから刀の在り処は判っていたはずだ。他の刀が主に折れた刀の破片を手渡している場は見ていない。誰も主に刀を渡してはいなかった。そのはずだ。誰も折れた刀を持ち帰ってはいなかった。あいつの望み通り、万葉桜の下にあるのだとしたら。主が何らかの力、能力を使って折れた刀を回収し、自らの手で桜の下に埋めたのだ。
光忠は鞄から軍手を取り出し両手にはめるとシャベルで地面を掘り始めた。思いの外、土が硬い。掘り返すのに大分骨が折れそうだ。
「悪いけど伽羅ちゃんもちょっと手伝ってくれないかな」
鞄の中にスコップと軍手があるからと顎をしゃくる。大倶利伽羅は言われた通り、スコップを手にして光忠の横に屈み、傍らに置いた懐中電灯の明かりを頼りに土を掘り返しにかかる。
「ここにあるのか」
「うーん、どうだろう。僕の勘で掘っているだけって言ったらかなりいい加減だけど……」
「いや、あんたがそう言うならそれが正しい」
光忠が光忠である限り、自分の刀の在り処が判らないはずがない。刀は己の分身であり、魂だ。
「そう? 随分僕の山勘を信用してくれてるんだね」
「あんたが刀 に惹き付けられたような感覚でここを選んでいるのなら正解だ」
「そう言われるとちょっと自信がないかも」
「大丈夫だ、光忠なら見つけられる。俺はあんたを信じている」
「激励どうもありがとう」
そんな言葉を交わしながら土を掘り進めていく。木の根を傷つけないように慎重に。暫く掘り進めるとシャベルの先が何か硬いものに当たった。石だろうかと懐中電灯で照らしてみると、違った。
「箱……?」
手で土を払うと現れたのは二十センチ四方の白っぽい小箱だった。蓋の中央に貼り紙がしてあるが、変色して黒ずみ、書かれている文字も色褪せて判読不能だった。だが確信があった。光忠は無言で隣を見ると付喪神は小さく頷いた。スコップを受け取り、箱周りの土を掘り崩してから小箱を手に取った。長い時間土中にあったせいか、木製の箱は傷み具合が激しく部分的に腐食していた。光忠は逸る胸を抑えながらそっと箱の蓋を開けた。紫色の布――袱紗 だろうか――が現れる。軍手を外し、指先で布包みを開くと錆びた欠片が覗いた。
その刹那、光忠の中にどっと記憶が流れ込んできた。一本のフィルムを早回しするように膨大な量の映像が頭の中でオーバーラップする。政宗公から名前を貰った時のこと、大倶利伽羅や鶴丸国永、太鼓鐘貞宗との出会い、その別れ、暗い蔵の中、関東大震災の際に焼失したこと、それから数百年の時を経て人の身を得、刀剣男士として顕現したこと、本丸での仲間との出逢いと再会、繰り返される戦と遠征、畑や馬の世話をし、厨に立って仲間と楽しく料理をする穏やかな日常、皆と楽しんだ四季折々の行事、賑やかな酒宴、最愛の刀と交わした愛と約束、主への願い事、そして最後の戦い、折れたその瞬間。
――……伽羅ちゃん、ごめん……、僕はまた……君を置いていってしまう……、
――君が無事で、良かっ……、
見開いた光忠の左眼から雫が落ちた。
「……どうして僕はこんなに大事なことを今まで忘れていたんだろう……」
「光忠、あんた記憶が……っ」
呆然として涙を流す光忠を信じられない気持ちで大倶利伽羅は見た。
「うん、全部、全部、思い出したよ……! 僕が君が捜していた燭台切光忠だったんだね……っ」
光忠は地面に膝をつく大倶利伽羅を強く抱き締めた。
「伽羅ちゃん、ごめんね、置いていってごめん、傷つけて、寂しい思いをさせてごめん、でも僕は……っ」
喪いたくなかった。無くしたくなかった。あまりにも大事で大切でとても愛していたから。仮令、自分がいなくなったとしても。愛そのものの彼を無くしたくなかったのだ。
「もう良いんだ、光忠。あんたは命の限り俺を愛してくれてた。そして今、全てを思い出してくれた。それで充分だ」
大倶利伽羅は涙に慄 える広い背中を優しく抱き返す。それからそっと肩を押し返して涙に濡れた白い貌 を真っ直ぐに見詰めた。
あの頃と何一つ変わらない顔立ち、その姿形。魂の形。金の瞳が燃えるように輝いている。孤高の月がある。
――ああ、とても綺麗だ。
大倶利伽羅は涙を滲ませて微笑む。
「光忠、おかえり」
「うん、伽羅ちゃん、ただいま」
光忠も微笑する。白い手を伸ばし、大俱利伽羅の濡れた眦を親指の腹で優しく拭うと無垢な色の唇に口付けた。
不意に桜の梢が風にざわめく。と、夜闇に薄紅の欠片が舞った。二人ははっとして頭上に視線を放った。
「桜が……」
今や古の桜は満開だった。夥しい薄紅を咲かせて密やかに花を零し、微風 に枝を重たげに震わせていた。その命を燃え立たせる如く爛漫と咲き誇る桜花は時を超えて再会を果たした彼等を祝福しているかのようだった。
「とても綺麗だね」
「そうだな」
光忠と大倶利伽羅は寒さも忘れて寄り添いながら地面に座り込み、夢のように咲き乱れる桜を眺めた。と、光忠が「あ、そうだ」ふと思い出したように声をあげる。
「何だ」
「僕のこと一発殴らなくても良いの?」
光忠の言葉にそういえばそんなことも言ったなと大倶利伽羅は一ヶ月前のやり取りを思い出す。
「殴って欲しいのか」
「伽羅ちゃんの気がそれで済むなら僕は構わないよ」
光忠はさらりと何でもないことのように言う。――本当にあんたは。こういうところがいかにも光忠らしい。
「そうか。なら、目を瞑って歯を食いしばれ」
「オーケー、思い切りやってくれ」
光忠は言われた通りぎゅっと固く目を瞑って唇を引き結んだ。いくぞ――大倶利伽羅は声をかけてから光忠の胸倉を掴み、ぐっと引き寄せると一拍間をおいてから唇に口付けた。するとぱっと閉じられていた瞳が開かれ、驚いたように大倶利伽羅を見た。
「俺はあんたを殴るより、キスがしたい」
「うっわ熱烈……」
みるみるうちに白い頬が赤みを帯びる。
「熱烈大歓迎、嬉しいだろう」
大倶利伽羅が悪戯っぽく笑うと光忠は弱りきったように眉尻を下げて「本当に伽羅ちゃんには敵わないなあ」いつかのように零した。それから真顔になってショートグローブの手を恭しく握り、思いの丈を紡ぐ。
「伽羅ちゃん。僕を捜してくれてありがとう。君のお陰で僕はまた君に逢えた。大事なことも思い出せた。本当にありがとう」
「俺は何もしていない。刀が見つかったのも、記憶を取り戻したのもあんたが俺を信じて行動してくれたからだ。俺は単なるきっかけにすぎない。寧ろ礼を言わなければならないのは俺の方だ。――光忠。俺の大切なものを取り戻してくれてありがとう」
大倶利伽羅は白い手を握り返して慇懃に謝意を伝えた。すると何の前触れもなく大倶利伽羅の躰が淡い光に包まれた。大俱利伽羅は遂にその時がきたのだと悟った。
「どうやらここでお別れのようだな」
「そんな……! 待って伽羅ちゃん! せっかく君と再会できたのに……っ」
こんなのは厭だよ――光忠は今にも泣き出しそうに顔を歪めて輪郭が透けて形が崩れていく大倶利伽羅を抱き締めようとする。
「光忠、泣かないでくれ。あんたにそんな表情 は似合わない」
こうなって初めて気づく。置いていく側もまた途方もない痛みと寂しさを感じることを。悲しませたくない。泣いて欲しくない。どうかそんなに苦しそうな顔はしないでくれ。最期はせめて、笑顔のままで。――あの時の光忠もこんな気持ちだったのだろう。
強まる光の中で大倶利伽羅は微笑む。
「光忠。愛してる、ずっと」
「僕も……! 僕も、愛してる! 伽羅ちゃんのことずっと……っ」
一際光が強く輝く。酷く眩しい。目を開けていられなくなる。ザァッと強い風が吹き抜けて桜を揺らし、一面夥しい桜吹雪に染め抜かれる。伽羅ちゃんいかないで――再び瞳を開いた時には強い光はなく、あれだけ狂い咲いていた桜もなく、大倶利伽羅の姿も跡形もなく消え失せて、ただ静寂を孕んだ冷えた闇があるばかりだった。
「……そんな……伽羅ちゃん……」
光忠はがっくりと項垂れて地面に無造作に転がる朽ちかけた小箱をぼんやりと瞳に映した。
錆びた刀の欠片は重々しい沈黙を纏っていた。
やがて、東の空が白み始める。
◆◆◆
月日は瞬く間に過ぎた。
気がつけば冬も終わり、あちらこちらで桜の便りが聞かれるようになり、光忠が住まう地域も花の盛りを迎えていた。
三月の終わりの日。
仕事が休みだった光忠は午前中に粗方家事を済ませ、昼食は外食することに決めて外に出た。食事の後はスーパーに寄って一週間分の食料品を買って帰ろう献立はどうしようかな筍ご飯でも作ろうかそういえば春キャベツが安かったな――つらつらと考えながら歩き慣れた道を行く。
春の柔らかい陽射しは暖かく、街路を彩る満開の桜の色も相俟って道を行く人達は皆心做しか幸せそうだ。明るく幸福に満ち溢れた世界。そんな景色を目の当たりにして自分だけが別の世界にいるような気分になり、自然と足取りが重くなる。
あれから――大倶利伽羅と別れて一ヶ月半が経つが、もう随分と昔の出来事のように感じた。今世で大倶利伽羅と生活を共にしたのも約一ヶ月と短い期間だったが、もっと長く一緒にいたように錯覚して、改めて彼の存在の大きさを実感し、また強い喪失感を憶えた。彼と暮らし、刀捜しをしていたこと自体が夢か幻だったのではないかとすら思ってしまう。だが、あれは紛れもない現実だった。現実だったからこそ、今光忠はこんなにも打ちのめされたような気分になっているのだ。
彼がいなくなってからというもの、今まで平気だったことが平気ではなくなった。まず、独りで食べるご飯が美味しくない。味気ない。あれだけ好きだった料理もあまり楽しくない。誰にも煩わされず、気兼ねなく独りで過ごす時間も気に入っていたのに、今では持て余すばかりだ。気晴らしに出掛けてみてもつまらない。伽羅ちゃんと一緒に来たかったなとつい考えてしまう。大倶利伽羅と出逢ううまで一体自分はどうやって生活していたのか上手く思い出せなかった。そんな時に彼が言った「光忠は意外と寂しがり屋」という言葉が思い出され、今自分はとても寂しいのだなと自覚を新たにした。しかし幾ら寂しいからといって新しく恋人を作る気にはまるでなれなかった。いなくなっても、会えなくなっても、大倶利伽羅が自分の恋人で最愛の人なのは変わらなかった。
「伽羅ちゃんは凄いなあ。独りでずっとこんな寂しさを抱えていたなんて」
自分と――燭台切光忠と離れていた年月がどれくらいなのかは判らないが、一年やそこらではないのは確実だ。寂しくて死んじゃいそう、なんてフィクションの中だけの言葉だと思っていたが、真逆自分がそう思う時がくるとは夢にも思わなかった。しかもいい歳をした大人が。はっきり言って重症だ。
寂しい。
伽羅ちゃんに会いたい。
会って抱き締めてキスしたい。
もう僕から離れないで独りにしないでずっと一緒にいて傍にいてお願いだから――恥も外聞もプライドさえかなぐり捨ててみっともなく縋ってしまいたい。
「……あの桜の樹にもう一度お願いしに行こうかなあ。伽羅ちゃんと会わせてくださいって……」
溜息混じりに呟いて信号待ちで立ち止まる。天気が良く休日とだけあって人出が多い。この分だと近くのカフェは混雑しているかもしれない。やっぱりお昼ご飯は適当にスーパーのお弁当で済ませてしまおうかな海苔弁か幕の内弁当があればそれでも――何気なく視線を向けた道路を挟んだ向こう側の歩道の人群れに。
褐色の肌、金色の瞳、柔らかそうな鳶色の髪、すらりとした体躯。
記憶の中にある面影と重なる。忘れもしない、思い出したばかりの、酷く懐かしい、求めていた、ずっと寂しかった、やっと取り戻した記憶の、声をあげて泣きたいくらい、大好きな、とても愛おしい、可愛い、僕の。
光忠は大きく目を見開いて大声で叫んだ。
「――広光くん !」
金色の双眸が振り返って光忠を捉えた。
◆◆◆
「悪い、待たせた。駅で少し迷ってしまった」
「ううん、待ってないから大丈夫だよ。一緒に来たら良かったね」
数分遅れて待ち合わせ場所にやってきた広光に光忠は穏やかに笑いかけると「さ、行こうか」強い夏の陽射しが降り注ぐ中、手を繋いでゆったりと歩き出した。目指すのは大倶利伽羅と初めて出逢った場所――最寄り駅から徒歩五分のところにある博物館である。今日のデートのメインは博物館で開催されている日本刀の展示鑑賞で、その後は広光の行きたがっていたレストランで食事をする予定だ。
四ヶ月前。
「――伽羅ちゃん !」
信号待ちをしていると突然大声で名前を呼ばれ、声がした方を見て酷く驚いた。人群れから頭一つ二つ分飛び出している長身――光忠がいたからだ。
信号が青になった途端、モデルばりの長身イケメンが全速力で飛び出してきてこちらに走り寄って来たと思ったら、衆目を憚ることなくその場で思い切り抱き締められた。物凄い勢いで抱き着かれた広光は呆気に囚われて状況を理解するまで数分を要した。
「広くん、広くんだよね⁉ ねえ、僕のこと憶えてるっ? 君が小さい頃近所に住んでいた長船光忠。事件の後、何も言わないで引っ越しちゃったけど……、ね、判る? 判るよねっ⁉」
恐ろしいまでに真剣な面持ちで迫りならがっしりと肩を掴まれ、今にもがくがくと躰を揺さぶらん勢いで早口で問われる。あまりにも必死な形相がおかしくて広光は思わず噴き出した。道行く人々が二人の様子を好奇の目で一瞥して足早に通り過ぎていく。
「な、何で笑うの⁉」
先程とは打って変わって今度は狼狽えて泣きそうな顔になる。まるで迷子になってしまった子供みたいだ。――ちょっと可愛い。
「いや、悪い。あんたがあんまりも必死な顔をしているものだからな。少し落ち着け。燭台切光忠」
「え、」
どうしてその名前を――光忠は瞠目して広光を見遣る。
「こんなに早くあんたと再会するとは思わなかったな。元気そうで何よりだ」
「え、え? 待って、君は相州広光くん……ですよね?」
目の前の男はすっかり混乱しているらしく、今度は片頬を引き攣らせて青くなっている。広光は落ち着きを払って口を開いた。
「何で突然丁寧語になるんだ。そうだ、俺は相州広光だ。幼い頃暴漢からあんたに助けて貰ったガキだ。そして過去世において大倶利伽羅と呼ばれていた。あんたと裸の付き合いをした仲だ」
「は、」
爆弾発言とも言える広光の台詞に光忠はフリーズした。
「――あんたのあの時の顔、傑作だったな」
広光は二度目の再会を果たした時のことを思い返して小さく笑う。鳩が豆鉄砲を食らったよう、というのはまさにあの時の光忠のことを言うのだろう。ぽかんと大きく口を開け、目玉が飛び出さんばかりに瞳を大きく見開いて。――写真に撮っておけば良かったな。惜しいことをした。
「もう、その時のことは忘れてくれよ。あの時の僕は冷静じゃなかったんだよ」
光忠は弱りきって眉尻と口角を下げる。
「俺もいきなり抱き着かれて酷く驚いたがな。周りにいた人間も皆俺達を見ていた」
「だってあの時、丁度君のこと考えてたら、ひょっこり目の前にいるんだもの」
考えるより先に躰が動いていた。奇異の目で見られようが笑われようが、どうでも良かった。もう逃がさない、もう離れない、それしか頭になかったのだ。
「俺が大倶利伽羅としての記憶を取り戻していたから良かったものの、そうでなかったらあんたただの変質者だったぞ。下手したら仕事も停職処分になっていただろうな」
広光の正論にぐう音も出ない。
そうなのだ。広光の話によれば、大倶利伽羅としての記憶を取り戻したのは往来で光忠から熱烈な抱擁を受けた数日前だったらしい。何気なく訪れた博物館で展示されていた大俱利伽羅広光を見たのがきっかけだと言う。「もしかしたら刀に呼ばれたのかもしれない」広光はそう光忠に語った。
「記憶を取り戻して、少し落ち着いたらあんたのマンションに訪ねて行くつもりだったんだがな」
「そうだったんだ」
光忠はにこりと笑って、指を絡めて繋いだ手に軽く力を込める。
「光忠、俺と再会してから顔が緩みっぱなしだな」
鼻の下が伸びてるぞと指摘すると恋人は堂々と開き直った。
「だって仕方ないじゃないか。君のことが大好きなんだから」
「刀剣男士だった頃はもう少し自制心があったように思うぞ」
「あの頃は周りの環境が環境だったからね。今は特に僕達の関係を隠す必要はないだろう? それとも今の僕は嫌い?」
光忠は瞳を瞬かせて広光の顔を覗き込む。――その顔はずるい。言い方もずるい。嫌いなわけがない。好きに決まっている。だってずっと昔から好きだったのだ。大倶利伽羅としての記憶がなかった頃から。いつだって優しく接してくれる彼が大好きだった。そして怖い大人から身を呈して守ってくれた彼は永遠のヒーローだった。
「あんたのことを嫌いになる方法があるなら、聞いてみたいくらいだ」
そんなものは世界中探したって見つかりっこない。
博物館のエントランスに入る。空調の冷風にほっと躰が緩んだ。列に並んで前もって買っておいたチケットをそれぞれ手にし、係員の確認を経て中へ進む。経路に従って展示室に足を踏み入れた。
世間は夏休み、しかも日曜日ということもあって館内は思ったより人が多く、子供の姿が多く目についた。もしかしたら自由研究の題材にでもするのかもしれない。
光忠と広光は展示されている刀剣をゆっくり見て回りながら刀剣男士時代の話に花を咲かせた。あんなこともあった、こんなこともあったと、過去世を懐かしむ。
「皆、姿が見えないだけでここにいるのかな」
「さあどうだろうな」
「僕達が当時の記憶を持って転生していることを知ったらびっくりするだろうね」
「鶴丸当たりは『こりゃあ驚いた』って大袈裟に騒ぐだろうな」
「ふふ、そうだね。貞ちゃんは『流石はみっちゃんと伽羅だぜ』って言ってくれそうだけど」
「『俺も転生したい』って言い出しかねないな、あいつは」
「貞ちゃんと鶴さんももし現世に転生しているなら、いつか会いたいな」
「そうだな。いつかどこかで会えると良いな」
声を潜ませて会話しながら今回の展覧会の目玉とされている刀が展示されている特別展示室へ移動する。展示物のガラスケースの前には人集りができていた。後ろに並んで順番を待つ。
「何だかちょっと変な気分」
光忠は小さくぼやいた。
「まあ、確かに奇妙と言えばそうだな。皆燭台切光忠 を珍しがって見物にきているんだからな」
目の前にいた一団が去って光忠と広光はガラスケースの前に立った。二人の視線の先にはあの日、天然記念物の桜の樹の下から掘り出した錆びた刀の欠片があった。
神出鬼没! 所蔵のミュージアムから忽然と姿を消した燭台切光忠、およそ二○○年の時を旅して再び姿を現す――そんな煽り文句がメディアに喧伝されたのはまだ新緑が眩しい頃だった。
桜の下から刀の欠片を見つけ出した光忠は流石にそのまま放っておくことはできず、かといって元々所蔵していた施設に連絡することも憚られて、結局箱ごと寺院の本堂の前に置いて立ち去ったのだった。掘り返した穴も埋めはしたが、一度掘り返した部分はどうしたって元には戻らない。不自然さが残る。もし通報されて騒ぎになったら潔く名乗り出ようと光忠は覚悟していたが、今のところそんな事態に至らずに済んでいる。
出土した刀はどういう経緯を辿ったのかは詳しくは判らないが、諸々の鑑定の結果、消えたはずの燭台切光忠と判明した。恐らく箱に貼られた紙が役に立ったのだろう。肉眼では文字は判読できなかったが、最新の機械を使えば調べるのもそう難しくはなかったのだろう。消えた燭台切光忠が戻ってきたことは喜ばしいニュースとしてメディアでも報じられたが、大いなる謎も残った。
所蔵されていた刀がなぜ消えて、しかも見つかった時は折れた状態でこんなに錆びてぼろぼろの古い箱に収められていたのか――科学者も考古学者も、その道の専門家皆説明がつけられずお手上げ状態だった。そんなふうであったから燭台切光忠は不思議な力を持つ妖刀である、といった妖しい噂まで出回るようになってしまった。
「僕は妖刀なんかじゃなかったんだけどなあ」
ネットのニュースを見て光忠は困ったように笑っていた。
「僕の刀、また新しく打ち直している最中みたいだね」
展示ケースの横に解説が書かれたパネルがあり、そこには一度目打ち直された時と同じようにして燭台切光忠復元プロジェクトが目下進行中であると記されていた。解説によれば仕上がりは来年の夏頃だという。そうしたらまたお披露目があるだろう。二度も蘇った不屈の刀として。
「やっぱりあんたは格好良いな」
広光は錆びた欠片を見詰めながら呟く。青銅の燭台さえも斬ったとされる鋭利な刀。どんな刀よりも強く美しく、格好良い。そしてとても心優しい刀。
「歴史を守り、俺を守ってくれた」
燭台切光忠として。また長船光忠として。
「俺は光忠を誇りに思う」
「――うん。どうもありがとう、広くん」
光忠は含羞むように笑った。
錆びた燭台切光忠の欠片は柔らかな照明の下、誇らしげに沈黙を守っている。
(了)
降ろされた御簾の前に正座をして居住まいを正す。通された広い座敷には近侍を務める光忠しかいなかった。
「――して、燭台切。話とは一体何ですか」
対面する御簾の向こうから穏やかに問いかけられ、光忠は静かに切り出した。
「主に折り入って頼みがあるんだ。もし、僕が折れてしまった時は刀の一部分でも良いから庭にある万葉桜の下に埋めて欲しい」
僕はこの本丸が大好きだから。
せめてもの手向けとして。
どうか頼むよ――光忠は慇懃に
突如暗転して場面が切り替わる。
右眼が焼けるように痛む。手で触れてみたら掌に血がべったりとついた。血が頬を流れ、顎先から滴ってぽたぽたと地面に垂れた。
「みつただ……!」
真っ青になって今にも泣き出しそうな顔をしている広くんに僕は笑いかける。
「うん、大丈夫だよ。悪い大人はもういなくなったからね。大丈夫、大丈夫だよ。ちょっと怪我しちゃったけど、全然痛くないよ。広くんが無事で良かった」
◆◆◆
「光忠、急にどうしたんだ」
まだ夜中の三時だぞ――大倶利伽羅は部屋の隅に置かれたスーツケースの中を漁っている光忠の背中に話しかける。
つい五分ほど前まで光忠は大倶利伽羅を腕の中に抱いて眠っていたが、突然目を醒ましたかと思うと布団から起き出して何やらごそごそとやり出したのだ。光忠の寝顔を堪能中だった大倶利伽羅としては少し面白くない。もっと見ていたかったのに。
「一つ思い出したことがあるんだ。僕のこの右眼の怪我について」
光忠は大倶利伽羅を振り返らないまま言うと背後で一瞬、空気が張り詰めた。大丈夫だよもう過去のことだから――光忠は険しい表情をしてこちらを見ている付喪神を一瞥して言い聞かせるように穏やかに言った。
「さっきまで見ていた夢のお陰で思い出した」
断片的な夢ではあったが、あまりにもはっきりとしたそれは封印されていた記憶の扉を開け放った。光忠は幼少の頃の思い出を語り出す。
「僕が子供の頃、近所に四つ歳下の男の子が住んでてね。彼とは公園で顔を合わすうちに自然と仲良くなって一緒に遊ぶようになったんだ。物静かで聡い子だったせいかな、不思議と馬が合った。向こうも僕を本当の兄のように慕ってくれたし、僕も彼を可愛い弟みたいに思ってた。それで。そう、確か夕方だったと思う。彼と公園で遊んだ帰りに」
その日はつい遊びに夢中になってしまい、いつもより少しだけ公園を出た時間が遅くなってしまったのだ。
早く帰らないとお母さん達が心配しちゃうねえそんなことを言いながら小さな手を引いて迫る夕闇の中、家路を急いだ。
いつも通り、友達を家に送り届けて自分も帰るつもりだった。だがその日は『いつも通り』には行かなかったのだ。
路地を曲がって真っ直ぐ行けば彼の家だ――そう思って路地を右手に折れたら飛び出してきた人とぶつかった。手を繋いでいたせいもあり、反動で二人揃って転んでしまった。
――広くん、大丈夫?
身を起こし、そう声をかけようとして目に飛び込んできたのは真っ赤な夕陽を受けて光るナイフの鋭利な輝き、それを躊躇いもなく彼に振り下ろされる瞬間、恐怖のあまり恐慌をきたして動けなくなっている幼い友達。
――広くん!
「僕が咄嗟に間に入って、友達は事なきを得た。犯人は恐らく友達と僕の叫び声を聞いて驚いて逃走したんだと思う。その後の記憶は朧気だけれど、騒ぎを聞きつけた大人達も集まってきて僕は救急車に乗せられて病院に連れて行かれたんじゃないかな」
光忠は言いながら浴衣を脱いでスーツケースから取り出した衣服に袖を通す。黙って聞いていた大倶利伽羅は疑問を差し挟む。
「怪我の経緯は判ったが、なぜ今になって思い出したんだ?」
話を聞く限り、記憶を取り戻すようなきっかけがあったようには思えない。光忠と一ヶ月近く寝起きを共にしているが、思い返してもそれらしい要素は見当たらない。すると光忠は大倶利伽羅を見て意味深長な笑みを片頬に浮かべた。
「思い出したきっかけは恐らく伽羅ちゃんだ」
「俺?」
予想外の台詞に大倶利伽羅は目を見開いて長身を見返す。
「そう。友達の名前は相州広光。君の刀の名前は大倶利伽羅広光。刀工の流派は相州伝だ。広くんのことは幼い頃の姿しか記憶にないけれど、でもきっと成長した姿は君にそっくりだと思う。年頃もね。肌の色や瞳の色なんてまるりき同じだし、そもそもの顔立ちが良く似てる。それから、寝る前に僕が君に言った言葉」
「何?」
「『どこにもいかないよ、ずっと君の傍にいるよ』――恐らく、これが決め手になったんだと思う」
警察官や医療関係の大人達が集まり混乱する現場ではっきり憶えていること――思い出したことは、幼い友人が泣きじゃくりながら「みつただ、どこにも行かないで!」そう叫んでいたことだ。幼いながらもただならぬ事態を察したのだろう。光忠が大人達に取り囲まれ救急車に乗せられるのを見てもう会えなくなると勘違いしたのかもしれない。――実際はその通りになってしまったのだが。
光忠は声をあげて泣く広光を安心させて宥めるためにこう言ったのだ、うん、どこにもいかないよ。ずっと君の傍にいるよ、と。
「僕も君にかけた言葉に妙な既視感があったんだ。その時は誰に言ったのか判らなかったけれど、当時のことを夢に見て謎が解けた」
「そう、なのか。何というか、凄い偶然だな」
思わず大倶利伽羅が唸ると光忠は朗らかに笑う。
「必然は偶然を媒介として現象する、偶然とは世界を作り出す本質的な要素である――昔読んだ本にあった言葉だけれど、僕と伽羅ちゃんが出逢ったこともきっと必然で、僕達それぞれの世界を構築する大事なものを取り戻すために必要な偶然だったんだよ」
僕は喪われた記憶を。
伽羅ちゃんは折れてしまった最愛の刀を。
「それで、なぜあんたは着替えてるんだ」
一体こんな時間に何をするんだと訝しむと「神様は僕にとても素敵なプレゼントをくれたよ。燭台切光忠の刀は桜の樹の下にある。今から彼を見つけに行こうじゃないか」光忠は持参した軍手と折りたたみ式のシャベルを手に持って大倶利伽羅に見せた。
白い息を吐きつつ、暗い夜道を懐中電灯で照らしながら歩く。街灯が乏しい道は時間帯もあって不気味なほど静かだ。野良猫一匹さえ見かけない。空もまだ曇っているのか月も星も見えなかった。夜陰は身を切るように冷たく、体温を容易に奪っていく。息を吸い込むと冷気に肺が痛むような心地がした。
「都市部ならこんな時間でも明るいけど、本当の夜闇ってこんなにも暗いものなんだね。ちょっと怖いくらいだ」
「本当の闇はこんなもんじゃない。更に暗いぞ」
大倶利伽羅は光忠の隣を歩きながら夜戦や遠征に出て夜を明かした記憶を振り返る。あの時代の夜闇は躰に纏わりつくような重さと濃さがあった。
「今以上に暗いなんて想像ができないな。伽羅ちゃんは怖くなかった?」
「別に恐ろしいと思ったことはないな。それどころか俺には馴染み深い」
混じり気のない漆黒は最愛の人の色でもあったから。端正な黒、漆黒。それに包まれると酷く安心できた。
流石は南北朝時代生まれだねえ大倶利伽羅の言葉の意味を知らない光忠はそう言って笑った。
「これで寺の山門が閉まっていたら出直しだな」
「そうならないことを祈るよ」
流石に白昼堂々天然記念物の桜の根元を掘り返す勇気はない。見つかったら事だ。いや、見つからなくてもいけないことだけれど。大事な桜を傷つけたりしないから、どうか土を掘り返すことだけは赦して欲しい――光忠は誰に向けるわけでもなく内心でそんな言い訳を並べた。
宿泊しているホテルから桜のある寺院まで六キロほどの距離にある。歩いて行ける範囲にあって良かったとつくづく思う。ただ、こんな時間なのでホテルから抜け出るのには少々骨が折れた。フロントに無理を言って――夜行性の野生動物の生態調査のために外出したいとでたらめを言ってロビーの入口を開けて貰ったのだ。嘘を吐いたことに些か良心が咎めたが、この場合はやむを得ないと光忠は己を納得させて折り合いをつけた。
夜陰に紛れて黙々と一時間半ほど歩き、辿り着いた寺院の山門は幸いにも開かれたままであった。良かったと光忠はほっと胸を撫で下ろして闇に聳える門を潜った。真っ直ぐに桜の古木に向かう。光忠は天へ大きく張り出した太い枝を一瞥すると懐中電灯で足元を照らしながら桜の周りを歩いた。その様子を少し離れたところから眺めていた大倶利伽羅は「この桜のことも夢に見たのか」気になっていたことを訊ねた。
「実際にこの桜が出てきたわけじゃないけれど、彼が誰かに――主っていう人に頼んでたんだ。もし刀が折れたら一部分でも良いから庭にある万葉桜の下に埋めて欲しいって」
「何だと」
大倶利伽羅は愕然として必死に記憶の糸を手繰る。
光忠が折れた後、その刀はどうした? 俺が持ち帰ったのか? 記憶が曖昧だ。それとも誰か別の刀が持ち帰って主に手渡した? あいつが俺に刀を託したか? いや、それはない。そうであったなら初めから刀の在り処は判っていたはずだ。他の刀が主に折れた刀の破片を手渡している場は見ていない。誰も主に刀を渡してはいなかった。そのはずだ。誰も折れた刀を持ち帰ってはいなかった。あいつの望み通り、万葉桜の下にあるのだとしたら。主が何らかの力、能力を使って折れた刀を回収し、自らの手で桜の下に埋めたのだ。
光忠は鞄から軍手を取り出し両手にはめるとシャベルで地面を掘り始めた。思いの外、土が硬い。掘り返すのに大分骨が折れそうだ。
「悪いけど伽羅ちゃんもちょっと手伝ってくれないかな」
鞄の中にスコップと軍手があるからと顎をしゃくる。大倶利伽羅は言われた通り、スコップを手にして光忠の横に屈み、傍らに置いた懐中電灯の明かりを頼りに土を掘り返しにかかる。
「ここにあるのか」
「うーん、どうだろう。僕の勘で掘っているだけって言ったらかなりいい加減だけど……」
「いや、あんたがそう言うならそれが正しい」
光忠が光忠である限り、自分の刀の在り処が判らないはずがない。刀は己の分身であり、魂だ。
「そう? 随分僕の山勘を信用してくれてるんだね」
「あんたが
「そう言われるとちょっと自信がないかも」
「大丈夫だ、光忠なら見つけられる。俺はあんたを信じている」
「激励どうもありがとう」
そんな言葉を交わしながら土を掘り進めていく。木の根を傷つけないように慎重に。暫く掘り進めるとシャベルの先が何か硬いものに当たった。石だろうかと懐中電灯で照らしてみると、違った。
「箱……?」
手で土を払うと現れたのは二十センチ四方の白っぽい小箱だった。蓋の中央に貼り紙がしてあるが、変色して黒ずみ、書かれている文字も色褪せて判読不能だった。だが確信があった。光忠は無言で隣を見ると付喪神は小さく頷いた。スコップを受け取り、箱周りの土を掘り崩してから小箱を手に取った。長い時間土中にあったせいか、木製の箱は傷み具合が激しく部分的に腐食していた。光忠は逸る胸を抑えながらそっと箱の蓋を開けた。紫色の布――
その刹那、光忠の中にどっと記憶が流れ込んできた。一本のフィルムを早回しするように膨大な量の映像が頭の中でオーバーラップする。政宗公から名前を貰った時のこと、大倶利伽羅や鶴丸国永、太鼓鐘貞宗との出会い、その別れ、暗い蔵の中、関東大震災の際に焼失したこと、それから数百年の時を経て人の身を得、刀剣男士として顕現したこと、本丸での仲間との出逢いと再会、繰り返される戦と遠征、畑や馬の世話をし、厨に立って仲間と楽しく料理をする穏やかな日常、皆と楽しんだ四季折々の行事、賑やかな酒宴、最愛の刀と交わした愛と約束、主への願い事、そして最後の戦い、折れたその瞬間。
――……伽羅ちゃん、ごめん……、僕はまた……君を置いていってしまう……、
――君が無事で、良かっ……、
見開いた光忠の左眼から雫が落ちた。
「……どうして僕はこんなに大事なことを今まで忘れていたんだろう……」
「光忠、あんた記憶が……っ」
呆然として涙を流す光忠を信じられない気持ちで大倶利伽羅は見た。
「うん、全部、全部、思い出したよ……! 僕が君が捜していた燭台切光忠だったんだね……っ」
光忠は地面に膝をつく大倶利伽羅を強く抱き締めた。
「伽羅ちゃん、ごめんね、置いていってごめん、傷つけて、寂しい思いをさせてごめん、でも僕は……っ」
喪いたくなかった。無くしたくなかった。あまりにも大事で大切でとても愛していたから。仮令、自分がいなくなったとしても。愛そのものの彼を無くしたくなかったのだ。
「もう良いんだ、光忠。あんたは命の限り俺を愛してくれてた。そして今、全てを思い出してくれた。それで充分だ」
大倶利伽羅は涙に
あの頃と何一つ変わらない顔立ち、その姿形。魂の形。金の瞳が燃えるように輝いている。孤高の月がある。
――ああ、とても綺麗だ。
大倶利伽羅は涙を滲ませて微笑む。
「光忠、おかえり」
「うん、伽羅ちゃん、ただいま」
光忠も微笑する。白い手を伸ばし、大俱利伽羅の濡れた眦を親指の腹で優しく拭うと無垢な色の唇に口付けた。
不意に桜の梢が風にざわめく。と、夜闇に薄紅の欠片が舞った。二人ははっとして頭上に視線を放った。
「桜が……」
今や古の桜は満開だった。夥しい薄紅を咲かせて密やかに花を零し、
「とても綺麗だね」
「そうだな」
光忠と大倶利伽羅は寒さも忘れて寄り添いながら地面に座り込み、夢のように咲き乱れる桜を眺めた。と、光忠が「あ、そうだ」ふと思い出したように声をあげる。
「何だ」
「僕のこと一発殴らなくても良いの?」
光忠の言葉にそういえばそんなことも言ったなと大倶利伽羅は一ヶ月前のやり取りを思い出す。
「殴って欲しいのか」
「伽羅ちゃんの気がそれで済むなら僕は構わないよ」
光忠はさらりと何でもないことのように言う。――本当にあんたは。こういうところがいかにも光忠らしい。
「そうか。なら、目を瞑って歯を食いしばれ」
「オーケー、思い切りやってくれ」
光忠は言われた通りぎゅっと固く目を瞑って唇を引き結んだ。いくぞ――大倶利伽羅は声をかけてから光忠の胸倉を掴み、ぐっと引き寄せると一拍間をおいてから唇に口付けた。するとぱっと閉じられていた瞳が開かれ、驚いたように大倶利伽羅を見た。
「俺はあんたを殴るより、キスがしたい」
「うっわ熱烈……」
みるみるうちに白い頬が赤みを帯びる。
「熱烈大歓迎、嬉しいだろう」
大倶利伽羅が悪戯っぽく笑うと光忠は弱りきったように眉尻を下げて「本当に伽羅ちゃんには敵わないなあ」いつかのように零した。それから真顔になってショートグローブの手を恭しく握り、思いの丈を紡ぐ。
「伽羅ちゃん。僕を捜してくれてありがとう。君のお陰で僕はまた君に逢えた。大事なことも思い出せた。本当にありがとう」
「俺は何もしていない。刀が見つかったのも、記憶を取り戻したのもあんたが俺を信じて行動してくれたからだ。俺は単なるきっかけにすぎない。寧ろ礼を言わなければならないのは俺の方だ。――光忠。俺の大切なものを取り戻してくれてありがとう」
大倶利伽羅は白い手を握り返して慇懃に謝意を伝えた。すると何の前触れもなく大倶利伽羅の躰が淡い光に包まれた。大俱利伽羅は遂にその時がきたのだと悟った。
「どうやらここでお別れのようだな」
「そんな……! 待って伽羅ちゃん! せっかく君と再会できたのに……っ」
こんなのは厭だよ――光忠は今にも泣き出しそうに顔を歪めて輪郭が透けて形が崩れていく大倶利伽羅を抱き締めようとする。
「光忠、泣かないでくれ。あんたにそんな
こうなって初めて気づく。置いていく側もまた途方もない痛みと寂しさを感じることを。悲しませたくない。泣いて欲しくない。どうかそんなに苦しそうな顔はしないでくれ。最期はせめて、笑顔のままで。――あの時の光忠もこんな気持ちだったのだろう。
強まる光の中で大倶利伽羅は微笑む。
「光忠。愛してる、ずっと」
「僕も……! 僕も、愛してる! 伽羅ちゃんのことずっと……っ」
一際光が強く輝く。酷く眩しい。目を開けていられなくなる。ザァッと強い風が吹き抜けて桜を揺らし、一面夥しい桜吹雪に染め抜かれる。伽羅ちゃんいかないで――再び瞳を開いた時には強い光はなく、あれだけ狂い咲いていた桜もなく、大倶利伽羅の姿も跡形もなく消え失せて、ただ静寂を孕んだ冷えた闇があるばかりだった。
「……そんな……伽羅ちゃん……」
光忠はがっくりと項垂れて地面に無造作に転がる朽ちかけた小箱をぼんやりと瞳に映した。
錆びた刀の欠片は重々しい沈黙を纏っていた。
やがて、東の空が白み始める。
◆◆◆
月日は瞬く間に過ぎた。
気がつけば冬も終わり、あちらこちらで桜の便りが聞かれるようになり、光忠が住まう地域も花の盛りを迎えていた。
三月の終わりの日。
仕事が休みだった光忠は午前中に粗方家事を済ませ、昼食は外食することに決めて外に出た。食事の後はスーパーに寄って一週間分の食料品を買って帰ろう献立はどうしようかな筍ご飯でも作ろうかそういえば春キャベツが安かったな――つらつらと考えながら歩き慣れた道を行く。
春の柔らかい陽射しは暖かく、街路を彩る満開の桜の色も相俟って道を行く人達は皆心做しか幸せそうだ。明るく幸福に満ち溢れた世界。そんな景色を目の当たりにして自分だけが別の世界にいるような気分になり、自然と足取りが重くなる。
あれから――大倶利伽羅と別れて一ヶ月半が経つが、もう随分と昔の出来事のように感じた。今世で大倶利伽羅と生活を共にしたのも約一ヶ月と短い期間だったが、もっと長く一緒にいたように錯覚して、改めて彼の存在の大きさを実感し、また強い喪失感を憶えた。彼と暮らし、刀捜しをしていたこと自体が夢か幻だったのではないかとすら思ってしまう。だが、あれは紛れもない現実だった。現実だったからこそ、今光忠はこんなにも打ちのめされたような気分になっているのだ。
彼がいなくなってからというもの、今まで平気だったことが平気ではなくなった。まず、独りで食べるご飯が美味しくない。味気ない。あれだけ好きだった料理もあまり楽しくない。誰にも煩わされず、気兼ねなく独りで過ごす時間も気に入っていたのに、今では持て余すばかりだ。気晴らしに出掛けてみてもつまらない。伽羅ちゃんと一緒に来たかったなとつい考えてしまう。大倶利伽羅と出逢ううまで一体自分はどうやって生活していたのか上手く思い出せなかった。そんな時に彼が言った「光忠は意外と寂しがり屋」という言葉が思い出され、今自分はとても寂しいのだなと自覚を新たにした。しかし幾ら寂しいからといって新しく恋人を作る気にはまるでなれなかった。いなくなっても、会えなくなっても、大倶利伽羅が自分の恋人で最愛の人なのは変わらなかった。
「伽羅ちゃんは凄いなあ。独りでずっとこんな寂しさを抱えていたなんて」
自分と――燭台切光忠と離れていた年月がどれくらいなのかは判らないが、一年やそこらではないのは確実だ。寂しくて死んじゃいそう、なんてフィクションの中だけの言葉だと思っていたが、真逆自分がそう思う時がくるとは夢にも思わなかった。しかもいい歳をした大人が。はっきり言って重症だ。
寂しい。
伽羅ちゃんに会いたい。
会って抱き締めてキスしたい。
もう僕から離れないで独りにしないでずっと一緒にいて傍にいてお願いだから――恥も外聞もプライドさえかなぐり捨ててみっともなく縋ってしまいたい。
「……あの桜の樹にもう一度お願いしに行こうかなあ。伽羅ちゃんと会わせてくださいって……」
溜息混じりに呟いて信号待ちで立ち止まる。天気が良く休日とだけあって人出が多い。この分だと近くのカフェは混雑しているかもしれない。やっぱりお昼ご飯は適当にスーパーのお弁当で済ませてしまおうかな海苔弁か幕の内弁当があればそれでも――何気なく視線を向けた道路を挟んだ向こう側の歩道の人群れに。
褐色の肌、金色の瞳、柔らかそうな鳶色の髪、すらりとした体躯。
記憶の中にある面影と重なる。忘れもしない、思い出したばかりの、酷く懐かしい、求めていた、ずっと寂しかった、やっと取り戻した記憶の、声をあげて泣きたいくらい、大好きな、とても愛おしい、可愛い、僕の。
光忠は大きく目を見開いて大声で叫んだ。
「――
金色の双眸が振り返って光忠を捉えた。
◆◆◆
「悪い、待たせた。駅で少し迷ってしまった」
「ううん、待ってないから大丈夫だよ。一緒に来たら良かったね」
数分遅れて待ち合わせ場所にやってきた広光に光忠は穏やかに笑いかけると「さ、行こうか」強い夏の陽射しが降り注ぐ中、手を繋いでゆったりと歩き出した。目指すのは大倶利伽羅と初めて出逢った場所――最寄り駅から徒歩五分のところにある博物館である。今日のデートのメインは博物館で開催されている日本刀の展示鑑賞で、その後は広光の行きたがっていたレストランで食事をする予定だ。
四ヶ月前。
「――
信号待ちをしていると突然大声で名前を呼ばれ、声がした方を見て酷く驚いた。人群れから頭一つ二つ分飛び出している長身――光忠がいたからだ。
信号が青になった途端、モデルばりの長身イケメンが全速力で飛び出してきてこちらに走り寄って来たと思ったら、衆目を憚ることなくその場で思い切り抱き締められた。物凄い勢いで抱き着かれた広光は呆気に囚われて状況を理解するまで数分を要した。
「広くん、広くんだよね⁉ ねえ、僕のこと憶えてるっ? 君が小さい頃近所に住んでいた長船光忠。事件の後、何も言わないで引っ越しちゃったけど……、ね、判る? 判るよねっ⁉」
恐ろしいまでに真剣な面持ちで迫りならがっしりと肩を掴まれ、今にもがくがくと躰を揺さぶらん勢いで早口で問われる。あまりにも必死な形相がおかしくて広光は思わず噴き出した。道行く人々が二人の様子を好奇の目で一瞥して足早に通り過ぎていく。
「な、何で笑うの⁉」
先程とは打って変わって今度は狼狽えて泣きそうな顔になる。まるで迷子になってしまった子供みたいだ。――ちょっと可愛い。
「いや、悪い。あんたがあんまりも必死な顔をしているものだからな。少し落ち着け。燭台切光忠」
「え、」
どうしてその名前を――光忠は瞠目して広光を見遣る。
「こんなに早くあんたと再会するとは思わなかったな。元気そうで何よりだ」
「え、え? 待って、君は相州広光くん……ですよね?」
目の前の男はすっかり混乱しているらしく、今度は片頬を引き攣らせて青くなっている。広光は落ち着きを払って口を開いた。
「何で突然丁寧語になるんだ。そうだ、俺は相州広光だ。幼い頃暴漢からあんたに助けて貰ったガキだ。そして過去世において大倶利伽羅と呼ばれていた。あんたと裸の付き合いをした仲だ」
「は、」
爆弾発言とも言える広光の台詞に光忠はフリーズした。
「――あんたのあの時の顔、傑作だったな」
広光は二度目の再会を果たした時のことを思い返して小さく笑う。鳩が豆鉄砲を食らったよう、というのはまさにあの時の光忠のことを言うのだろう。ぽかんと大きく口を開け、目玉が飛び出さんばかりに瞳を大きく見開いて。――写真に撮っておけば良かったな。惜しいことをした。
「もう、その時のことは忘れてくれよ。あの時の僕は冷静じゃなかったんだよ」
光忠は弱りきって眉尻と口角を下げる。
「俺もいきなり抱き着かれて酷く驚いたがな。周りにいた人間も皆俺達を見ていた」
「だってあの時、丁度君のこと考えてたら、ひょっこり目の前にいるんだもの」
考えるより先に躰が動いていた。奇異の目で見られようが笑われようが、どうでも良かった。もう逃がさない、もう離れない、それしか頭になかったのだ。
「俺が大倶利伽羅としての記憶を取り戻していたから良かったものの、そうでなかったらあんたただの変質者だったぞ。下手したら仕事も停職処分になっていただろうな」
広光の正論にぐう音も出ない。
そうなのだ。広光の話によれば、大倶利伽羅としての記憶を取り戻したのは往来で光忠から熱烈な抱擁を受けた数日前だったらしい。何気なく訪れた博物館で展示されていた大俱利伽羅広光を見たのがきっかけだと言う。「もしかしたら刀に呼ばれたのかもしれない」広光はそう光忠に語った。
「記憶を取り戻して、少し落ち着いたらあんたのマンションに訪ねて行くつもりだったんだがな」
「そうだったんだ」
光忠はにこりと笑って、指を絡めて繋いだ手に軽く力を込める。
「光忠、俺と再会してから顔が緩みっぱなしだな」
鼻の下が伸びてるぞと指摘すると恋人は堂々と開き直った。
「だって仕方ないじゃないか。君のことが大好きなんだから」
「刀剣男士だった頃はもう少し自制心があったように思うぞ」
「あの頃は周りの環境が環境だったからね。今は特に僕達の関係を隠す必要はないだろう? それとも今の僕は嫌い?」
光忠は瞳を瞬かせて広光の顔を覗き込む。――その顔はずるい。言い方もずるい。嫌いなわけがない。好きに決まっている。だってずっと昔から好きだったのだ。大倶利伽羅としての記憶がなかった頃から。いつだって優しく接してくれる彼が大好きだった。そして怖い大人から身を呈して守ってくれた彼は永遠のヒーローだった。
「あんたのことを嫌いになる方法があるなら、聞いてみたいくらいだ」
そんなものは世界中探したって見つかりっこない。
博物館のエントランスに入る。空調の冷風にほっと躰が緩んだ。列に並んで前もって買っておいたチケットをそれぞれ手にし、係員の確認を経て中へ進む。経路に従って展示室に足を踏み入れた。
世間は夏休み、しかも日曜日ということもあって館内は思ったより人が多く、子供の姿が多く目についた。もしかしたら自由研究の題材にでもするのかもしれない。
光忠と広光は展示されている刀剣をゆっくり見て回りながら刀剣男士時代の話に花を咲かせた。あんなこともあった、こんなこともあったと、過去世を懐かしむ。
「皆、姿が見えないだけでここにいるのかな」
「さあどうだろうな」
「僕達が当時の記憶を持って転生していることを知ったらびっくりするだろうね」
「鶴丸当たりは『こりゃあ驚いた』って大袈裟に騒ぐだろうな」
「ふふ、そうだね。貞ちゃんは『流石はみっちゃんと伽羅だぜ』って言ってくれそうだけど」
「『俺も転生したい』って言い出しかねないな、あいつは」
「貞ちゃんと鶴さんももし現世に転生しているなら、いつか会いたいな」
「そうだな。いつかどこかで会えると良いな」
声を潜ませて会話しながら今回の展覧会の目玉とされている刀が展示されている特別展示室へ移動する。展示物のガラスケースの前には人集りができていた。後ろに並んで順番を待つ。
「何だかちょっと変な気分」
光忠は小さくぼやいた。
「まあ、確かに奇妙と言えばそうだな。皆
目の前にいた一団が去って光忠と広光はガラスケースの前に立った。二人の視線の先にはあの日、天然記念物の桜の樹の下から掘り出した錆びた刀の欠片があった。
神出鬼没! 所蔵のミュージアムから忽然と姿を消した燭台切光忠、およそ二○○年の時を旅して再び姿を現す――そんな煽り文句がメディアに喧伝されたのはまだ新緑が眩しい頃だった。
桜の下から刀の欠片を見つけ出した光忠は流石にそのまま放っておくことはできず、かといって元々所蔵していた施設に連絡することも憚られて、結局箱ごと寺院の本堂の前に置いて立ち去ったのだった。掘り返した穴も埋めはしたが、一度掘り返した部分はどうしたって元には戻らない。不自然さが残る。もし通報されて騒ぎになったら潔く名乗り出ようと光忠は覚悟していたが、今のところそんな事態に至らずに済んでいる。
出土した刀はどういう経緯を辿ったのかは詳しくは判らないが、諸々の鑑定の結果、消えたはずの燭台切光忠と判明した。恐らく箱に貼られた紙が役に立ったのだろう。肉眼では文字は判読できなかったが、最新の機械を使えば調べるのもそう難しくはなかったのだろう。消えた燭台切光忠が戻ってきたことは喜ばしいニュースとしてメディアでも報じられたが、大いなる謎も残った。
所蔵されていた刀がなぜ消えて、しかも見つかった時は折れた状態でこんなに錆びてぼろぼろの古い箱に収められていたのか――科学者も考古学者も、その道の専門家皆説明がつけられずお手上げ状態だった。そんなふうであったから燭台切光忠は不思議な力を持つ妖刀である、といった妖しい噂まで出回るようになってしまった。
「僕は妖刀なんかじゃなかったんだけどなあ」
ネットのニュースを見て光忠は困ったように笑っていた。
「僕の刀、また新しく打ち直している最中みたいだね」
展示ケースの横に解説が書かれたパネルがあり、そこには一度目打ち直された時と同じようにして燭台切光忠復元プロジェクトが目下進行中であると記されていた。解説によれば仕上がりは来年の夏頃だという。そうしたらまたお披露目があるだろう。二度も蘇った不屈の刀として。
「やっぱりあんたは格好良いな」
広光は錆びた欠片を見詰めながら呟く。青銅の燭台さえも斬ったとされる鋭利な刀。どんな刀よりも強く美しく、格好良い。そしてとても心優しい刀。
「歴史を守り、俺を守ってくれた」
燭台切光忠として。また長船光忠として。
「俺は光忠を誇りに思う」
「――うん。どうもありがとう、広くん」
光忠は含羞むように笑った。
錆びた燭台切光忠の欠片は柔らかな照明の下、誇らしげに沈黙を守っている。
(了)
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