君と出逢うその日まで

(肆)

「手応えはどうだ」
「うーん、僕は何も感じないなあ。伽羅ちゃんはどうだい?」
「俺もこれと言っては何も」
「今回も空振りかなあ」
 光忠は目の前に鎮座する巨木を瞳に映しながら溜息を吐く。ごつごつとした黒い木肌は樹木のそれではなく、半ば石化した岩のようだ。幹囲十一メートル以上ある桜の幹は自然と抉れたような空洞うろがあり、数本の太い枝が捻れながら天へ伸びている。その枝振りも立派で野放図に梢を伸ばす様は力強く、桜の花が持つ儚さとは相容れないような印象を齎した。恰も禅僧が墨筆で豪快に、一気呵成に描いたような、そんなイメージが光忠の脳裏に浮かぶ。その樹齢故か、自力で枝を支えられないらしく、自重で折れないように随所に添え木がされていた。曇天の下に伸びる梢はいずれも花をつけておらず、芽もまだ硬そうに身を縮こませて寒風に吹かれていた。
 二月の第二週目の土曜日。
 光忠と大倶利伽羅は朝から高速バスに乗って樹齢千年を越す桜を求めて小旅行に出た。都心から約二時間半のところにある有名な花見スポット兼観光地である。花の季節がまだ先のせいか、天然記念物に指定されている桜を見物している観光客は光忠達の他皆無であり、今彼等がいる寺院の参拝客もなく、閑散としていた。空模様も相俟って物寂しいような気配が辺りを支配していた。
「やっぱり折れた刀はここにはないのかな」
 光忠は白い息を吐きながらゆっくりとした足取りで桜の周りを歩く。歩きながら頭上に広がる枝を眺めて花が満開になったらさぞかし美しいだろうと事前に調べた時に見た花盛りの写真を思い浮かべた。
 エドヒガンザクラの古木とされるこの桜は神話の武将ヤマトタケルノミコトが東征の折に植えたという伝説があるらしい。そんな立派な逸話があるのだから、刀の一つや二つ、根元に埋まっていても良さそうなものだが、今のところ何の変哲もない。今回も空振りだとしたらこれで二ヶ所目、二連敗だ。
 先月最後の土日も古の桜を求めて――折れた刀を求めて県外まで足を伸ばした。樹齢千年を数える枝垂れ桜は花をつけていないまでも迫力があり、自然の持つ力強さに圧倒されて感動を憶えたものの、肝心の捜しものは見つけることはできなかった。トンボ帰りするのも癪だったので、近くの旅館に宿を取って一泊したのも記憶に新しい。
「伽羅ちゃん達の本丸にあった万葉桜と比べてどう? この桜は似てるかな?」
「どうだろうな。あまりはっきりとは憶えてないが……大きさ的にはこんな感じだったように思う。小柄な連中が連れ立って木登りをしていたのを見たことがある」
 短刀達が競うように木に登って遊んだり、木の枝に遊具を設えて楽しげにはしゃいでいた。
「皆仲が良かったんだね」
「大体はな。色々面倒臭い奴もいたにはいたが」
 贋作だの写しだの、槍はいけ好かないだのとことあるごとに零していた刀達。当時は鬱陶しく感じて距離をおいていたが、今振り返ってみればそんな彼等が少しだけ懐かしい。
「来る前にちょっと調べてみたんだけど、この桜に願懸けをすると願いが叶うんだって」
 この桜に手を合わせ願うことによって長年患っていた病気がすっかり良くなったというエピソードがネット記事にあった。『太古の時代から永遠に続いてきた桜の力、強い生命にいつしか魂が宿り、多くの心を癒してきたのです。今もご神木として信仰の対象とする人が後を絶ちません。』とはこの寺の住職の言。
「確かにご利益がありそうな見事な大樹ではあるな」
 大倶利伽羅は言いながら天へと枝を広げる桜を見上げる。本丸の庭にあった桜がこの古木だとしたら『万葉桜』と皆が信じていたのも頷ける。
「せっかくだから僕もお願い事をしよう」
 光忠は数歩後ろにさがると神妙な面持ちで手を合わせた。――どうか折れた刀が見つかりますように。大倶利伽羅も光忠に倣って桜の古木に向かって手を合わせ、拝んだ。光忠を取り戻せますように、と。
 束の間の沈黙の後「少しこの周辺を歩こうか」光忠は大倶利伽羅を促して寺院の山門を抜け、境内を後にする。 
「都心から二時間半でこんな場所に来られるなんて、ちょっと信じられない気がするよ」
 光忠は澄んだ空気を味わうように深呼吸をして物珍しそうに周囲を見渡す。辺り一帯に広がるのは田畑で家屋らしきものは殆ど見当たらない。田畑も今は作付けがされておらず、乾いた土ばかりの姿で蕭条しょうじょうとしている。視軸を左手に転じればくすんだ山の稜線が見えた。高い建物がない分、空がやたらと広く感じられた。晴れていたら気持ちの良い、どこまでも澄んだ青空が見えただろう。都会の喧騒から離れたひなびた景色は光忠の心を寛がせた。
「静かで良いものだね」
「俺はここの景色を懐かしく感じる」
 大倶利伽羅はすんと土の匂いを嗅ぎながら呟く。今まで忘れていた大地の匂いが遠くなった記憶を連れてくる。
「こういうところで暮らしていたことがあったのかい?」
 以前、大倶利伽羅は刀剣男士として人と同じような暮らしをしていたと光忠に説明したが、二二○五年が一体どんな世界なのか具体的な像が浮かばない。
「ああ。俺達が暮らしていた本丸があった場所と似ている」
 本丸の近くには川も山も海もあった。その反対側には町があった。
「本丸での生活はほぼ自給自足でな。畑で季節ごとの野菜を作っていた」
「へえ、それは凄いね。刀を持って戦う伽羅ちゃん達が畑仕事をしているのは想像するとちょっと面白いけど」
 刀の代わりに農具を振るう――ちょっとどころかなかなかシュールな光景だ。と、光忠の空想を見抜いたように「流石に畑仕事をする時はこの格好ではなかったがな」大倶利伽羅は註釈する。
「畑の世話もしたし、馬の世話もした」
「馬も飼ってたんだ。ペットとしてじゃないよね?」
「勿論違う。戦で使うためだ」
「成程。映画やテレビの合戦のシーンで見たことあるよ。馬に乗ってる武将の姿。――他にはどんなことをして過ごしてたんだい?」
 光忠が水を向けると大倶利伽羅は少しの間何かを考える素振りをしてから再度口を開く。
「あんた達とそう変わらないさ。春になれば花見をし、夏になれば水遊びに興じて花火を見物して、秋になれば月見、収穫した薩摩芋を庭で焼いたり、正月も祝えばクリスマスとやらも賑やかに過ごした」
 思えばいつも誰かしらの掛け声で季節ごとの行事を楽しんでいたように思う。もしかしたら現代を忙しなく生きる人間達よりも日々を大切にして大いに楽しみ、移ろう季節を味わっていたかもしれない。刀剣男士であった頃は人より人らしく生きていた――今になって大倶利伽羅は実感を新たにする。
「敵と戦うって聞いたからもっと殺伐とした生活を送っていたのかと思ったよ」
 光忠が意外そうな口振りで言うと「俺も顕現したばかりの頃はぬるま湯に浸かるような暮らしぶりは好かなかったが、途中からそう悪くないと思うようになった」大倶利伽羅は遥か遠くを見詰めるような目付きになる。
「そこでの暮らしが楽しかったから?」
「……まあ、そうだな。何より俺にそれを教えた奴がいた」
「燭台切光忠かい?」
 そうだ、と付喪神は短く頷く。
「彼……って言って良いのかな、どんな性格の刀だったの?」
 あんたに良く似ている――僅かに頬を緩めて光忠を振り返った。初めて見る彼の柔らかな表情に不意に光忠の胸が乱れた。――この表情は、知っている。
「誰に対しても分け隔てなく優しくて誠実で料理好き、誰よりも格好良さに拘る伊達男、戦に出れば多くの誉を取り、畑や馬の世話も喜んでこなす。世話焼きで心配性、意外と寂しがり屋で誰かと一緒に過ごすのを好んでいた。――そんな刀だ」
 ――ああ、そうか。だから。
 光忠はふと歩みを止め、瞳を眇めて付喪神の横顔を見た。
 大倶利伽羅が燭台切光忠について語る顔色や声の調子で判った。判ってしまった。なぜ彼が折れてしまった燭台切光忠を捜しているのかも。
「――君は彼のことを愛してるんだね」
 すると付喪神はたれたように金色の両の眼を見開いた。なぜそれをと言いたげな彼を制して光忠は言葉を継ぐ。
「少し不思議に思っていたんだ。仲間を大切に思う気持ちは判る。でもそれにしては君の行動は些か行き過ぎているようにも思えた。折れた刀が本当にどこかにあるのなら僕達が必死になって捜し回らなくてもいずれ誰かの手によって見つかる。所蔵されていたミュージアムから忽然と消えたと公に報じられているなら尚更ね。時間の問題だ。でも君は自らの手で――僕の手を借りてでも彼を見つけようとしていた。彼が折れてしまったことの責任を感じているせいかなとも思ったけれど、実際はそうじゃなかった。伽羅ちゃんは燭台切光忠を愛してる。今でも」
 先日、大倶利伽羅は言った。あいつは俺を庇って折れたのだと。そこから導き出される答えはひとつだ。燭台切光忠もまた大倶利伽羅を愛していたのだ。彼等は人と同じように相手を想い、慈しみ、愛し合っていた。
「……刀である俺達が人の真似事をしているのをあんたは嗤うか」
 大倶利伽羅は眉根を寄せて少し離れたところに佇む光忠を見返す。と、隻眼は瞳を瞬かせた後「嗤ったりしないよ」至極真面目な語調で否定した。
「伽羅ちゃん達が刀であろうと何だろうと関係ない。それに相手が誰であれ、誰かを愛せることはとても素敵なことだよ」
 僕にはできないことだ――力なく呟いて光忠は視線を足元に落とす。雲間から薄日が差して地面に薄らと影が落ちる。かそけき影は頼りなく、恰も光忠の寄る辺なさを表しているかのようであった。薄日が翳り、程なくして儚い輪郭を描いていた影が消え失せ、寂寞とした寒風が白い頬を撫でていく。
「――光忠。俺が言ったことを忘れたか」
「え?」
 大倶利伽羅の言葉に弾かれたように目線を上げる。 怖いまでの強い眸とぶつかった。瞬きすらも赦されないような眼差しに光忠は怯んだが目を逸らせなかった。
「あんたは誰かを深く信頼して愛することができる人間だと」
「それは――」
 大倶利伽羅は落ち着きのある声音で断言する。揺るぎない確信に支えられた言葉は真っ直ぐに光忠の胸へ届き、貫いた。
「俺はあんたが誰よりも優しい人間であることを知っている。そして誰からも愛される人物であることもな。今すぐじゃなくても良い。焦らなくても良い。何も恐れることはない。ただあんたが望みさえすれば良いんだ」
 相手の傍にずっといたいと。ただそれだけで愛は果たされるのだと。
「み、光忠……⁉」
 大倶利伽羅は驚愕に瞠目して柄になく酷く狼狽えた。突然光忠がぽろぽろと左眼から大粒の涙を零したので。大倶利伽羅は慌てて長身に歩み寄り、俯く白い顔を覗き込んだ。
「お、おい、どうした? 大丈夫か? すまない、俺が妙なことを言ったばかりに――」
「……違う、君は何も悪くない……僕は……、僕はずっと……、今君が言ってくれた言葉が欲しかったんだ、」
 いつからかずっと抱え続けてきた人を信じきれないことの不全感、人を愛しきれないことの欠乏感。心底から誰かを信頼し、愛することができない自分は常に何かが足りなくて駄目な人間だと思っていた。人の愛し方も知らない駄目な大人。そのくせ自分はいつも誰かに愛されたいとどこかで望んでいた。そんな自分の身勝手さを嫌悪した。高じていく自己嫌悪はいつしか諦念となって光忠の裡に深く根ざした。本当の意味で人を信じられず愛せない自分は誰からも愛されるに値しない人間だと自然と諦めるようになったのだ。
 それなのに。
 こんなどうしようもない自分を大倶利伽羅は誰よりも優しい人間だと言う。誰からも愛される人間だと。それは愛を乞い、自ら望んで良いという赦しの言葉として光忠に響いた。自分にも愛が赦されているのだと思ったら、勝手に涙が出てしまった。
「……ごめ……、僕今ものすごくかっこ悪い……、」
 泣くつもりなんてなかったのに――光忠は頬を流れる涙を手の甲で拭う。
「いい。気にするな。誰も見ていない」
 大倶利伽羅は涙にふるえる広い背をそっと抱いた。と、縋るように白い額が肩口に伏せられ強く抱き締められた。あの頃と変わらない腕の強さと温かさに自分まで涙が出そうになってしまう。大倶利伽羅は溢れそうになる涙を唇を噛み締めて堪えながら黒い髪を優しく撫でた。
「……伽羅ちゃん、ごめん。それから、」
 ――どうもありがとう。
 くぐもった涙で濡れた声音は微かに笑みを含んでいた。
「ああ、礼には及ばない。あんたが泣き止むまではこうしててやる」
 鈍色の寒空の下、二人は暫くの間無言で抱き合っていた。

 ◆◆◆

 適当な場所で少し遅めの昼食を済ませた光忠は予約していたホテルにチェックインした。
 こじんまりとしたホテルは三階建てで外観はどこにでもあるような洋風のシンプルな造りだが、建物の内部は全て純和風造りだった。ロビーの一角には高床の畳敷きのスペースがあり、掘りごたつが設えられていた。掘りごたつが珍しいのか、あるいは懐かしいのか、大倶利伽羅は関心を示していたが、ひとまず光忠はフロントで手続きをして客室に案内を乞うた。
 こちらのお部屋になります――通されたのは最上階にある一番見晴らしの良い十二畳ほどの部屋だった。藺草いぐさの香りが薄らと漂う室内は掃除が行き届いており、いかにも清潔そうで床の間には色鮮やかな赤椿が活けられていた。
 食事の時間、大浴場や売店の利用可能時間、フロントへの連絡手段など、細々としたことを若女将と名乗る女が茶を振る舞いながら一通り説明するとご用がございましたら何なりとお申し付けくださいませと三つ指揃えて丁寧にこうべを垂れ、静かな所作で客室を出て行った。それを見送ってから「どうだい、この部屋。なかなか良いだろう?」光忠はぱっと表情を明るくして部屋の隅に所在なげに立っていた大倶利伽羅に話かけながら窓辺に寄った。
 窓の外、眼下に広がるのは長閑のどかな町並みだ。遠くには白く霞んだ山の稜線があり、山頂の辺りは重たげな雨雲に隠れていた。先程訪ねた寺もここから見えた。桜の季節になると辺り一面薄紅色と菜の花の鮮やかな黄色の絨毯が拝めるのだとか。今はまだ色彩の乏しい景色ばかりで特に見るべきものはなかった。ただどこまでも広く拓けた展望は眺めていて気持ちが良かった。
「確かに眺望は良いが。あんたの金だから俺がとやかく言う権利はないが一体幾らしたんだ、この部屋」
 現代の世俗に疎い大倶利伽羅とて、部屋の造りを見れば何となく察するものはある。オフシーズンとはいえ、それ相応の値がするのは必至だ。そもそも自分と光忠二人だけならこんなに広い部屋は必要ない。恐らくこの客室はファミリー層向けだ。
 大倶利伽羅がそんなことを言うと「僕の懐具合を心配してくれてるのかい? まあ毎回こういうホテルに泊まるとなると厳しいけれど、たまにはこういう贅沢も良いかなと思ってね。それにこの部屋を選んだのはちゃんと理由があるんだ」こっちに来てごらんよと光忠が手招く。光忠が洗面所の左手奥にあるドアを開けると板張りのスペースが現れ、その奥には磨りガラスの引き戸があった。光忠は板張りの床を進んで引き戸を開けた。と、温気うんきと湯気がふわりと漂った。
「風呂だな」
 大倶利伽羅が言う通り、磨りガラスの戸の向こうにあったのは大人二人一緒に入っても充分余裕がある風呂場だった。壁にあたる部分は全てガラス張りという、これまた酷く眺望が良い造りとなっている。ひのき造りの浴槽からはこんこんと湯が溢れて洗い場の床を濡らしていた。
「この風呂がどうかしたか?」
「伽羅ちゃんもお風呂が楽しめるようにと思ってね。大浴場だといつ人が来るかも判らないし、もし伽羅ちゃんが頭を洗っているところに他の人が入って来たら――」
「……泡だけ宙に浮いているように見えるな」
「ご名答。そんな場面を見てしまった人は大パニックに陥るだろうし、下手したらホテル中大騒ぎになっちゃうからね。だからそういう事態を避けるためにも内風呂がある部屋を選んだんだよ」
 前回旅館に泊まった時はそこまで気が回らなくて申し訳なかったから――光忠はへらりと眉尻を下げて弱々しく笑った。
――なんだ、そんなことを気にしていたのか、光忠は。付喪神である自分には風呂など必要ではないのに。本当に、光忠あんたは。ふっと大倶利伽羅は薄く微笑む。
「そうか。心遣い痛み入る」
「良かった、じゃあ早速一緒に入ろう」
「は、」
 我が耳を疑った。――今光忠は何て言った? 一緒に入る? 風呂にか? お互い裸になって? 嘘だろおい。
「あ、大丈夫。伽羅ちゃんの着替えもちゃんとあるから心配しないで良いよ」
 大倶利伽羅の驚きと混乱を他所に光忠はにこにこと上機嫌に湯加減も丁度良さそうだし、躰の冷えや肩凝り、頭痛なんかにも効くようだよと歌うように告げた。
「光忠待て。なぜ一緒に風呂に入る前提なんだ」  
「え? だって一緒に旅行に――と言って良いか判らないけれど――来てるじゃないか」
 光忠はさも当たり前のような顔をする。
「いやそもそもその前提がおかしくないか?」
「別におかしくなんてないけど。所謂、裸の付き合いってやつだよ。家族や気のおけない友達と旅行に来たら一緒にお風呂入って親睦を深めるというか」
 本丸で生活していた時は大所帯であったから、個別に入るような風呂はなく、大浴場で数振りずつまとめて入浴していたが、それは状況的に仕方なかっただけで別に親睦を深めるためでも何でもない。人間の考えることがいまいち良く判らない。大体なんだその裸の付き合いとやらは。
「そ、そうなのか?」
「そうだよ。背中を流し合ってのんびりお湯に浸かってとりとめもない話をしたりしてさ。男同士、別に恥ずかしがることでもないだろう?」
 いやそれが一番問題なのだが。今の光忠には刀剣男士だった頃の記憶はない。ましてや自分とどんな関係であったのかも憶えていない。しかし光忠の姿形は声も含めてあの頃と寸分違わずそっくりそのまま、しかもこちらは彼のことを全て憶えているときた。そういう状況ではないと判っていても、光忠の裸を見て自分がどんな反応をしてしまうかも判らない。――とは、口が裂けても絶対言えない。
「夕飯前にさっぱりしようじゃないか」
 大倶利伽羅が断りの文句を言いあぐねているのを、光忠は了承と解して着替え取ってくるねと脱衣場から出て行った。

 肩の龍の彫り物凄く格好良いねえ光忠は大倶利伽羅の背中を流しながらしみじみとした口調で言う。
「一度どんなふうなのか見てみたかったんだよね」
「そうか」
 大倶利伽羅は努めて素っ気なく答えながら意識がおかしな方向に走り出さないように気を引き締める。時折意図せず素肌に触れる光忠の手にいちいち過去の記憶が思い出されて、その度に躰が慄えてしまうのをどうにか堪えていた。
――一体なんの拷問なんだ、これは。
先程髪の毛を洗われた時、白い指先が耳を掠めた瞬間は危うかった。喉元まで変な声が出かけたほどだ。人の躰を喪って久しいのに、まだ光忠の手指を仔細に憶えていることにも驚いた。それは裏を返せば、やはり今自分の背中を無邪気に流している男はあの光忠であるということだ。この躰を隈なく愛し、慈しんだ男もまた、自分の背後で無防備な姿でいる。
 いけないと思いながら、ちらと僅かに振り返る。露わになった肩のライン、首筋、胸元。日に焼けない白い肌が眩しい。それどころか目の毒すぎる。
「うん? どうかした?」
 光忠は首を傾げてみせる。そんな些細な仕草すら変に色っぽい。
「いや、別に。前は自分で洗う。タオルを貸してくれ」
「ああ、うん」
 はいどうぞと差し出された泡だらけのタオルを受け取って躰の裡側で湧き起こる煩悩ごと洗い流すようにごしごしと強く肌を擦る。あらゆる罪障と煩悩を焼き尽くす不動明王の化身が聞いて呆れる。やや乱暴に躰を洗ってシャワーで泡を洗い流した。
「せっかくだ。あんたの背中も流してやる。頭は力加減が難しそうだから遠慮しておく。自分で洗ってくれ」
 大倶利伽羅は腰掛けていた椅子を光忠の背後に移動させると彼からナイロンタオルを受け取り、持ち込んだボディソープを適量取って泡立てる。すると光忠は声を弾ませて鏡の中で微笑した。
「伽羅ちゃんとこうして一緒に背中を流し合う仲になるとは思わなかったよ」
「随分嬉しそうだな」
「うん。こういうのは本当に久し振りだからね」
「真逆あんた友人がいないのか」
 一ヶ月近く共に行動をしているが、彼がプライベートで誰かと会ったり連絡を取っている姿を見たことがない。と、光忠は心外だと言わんばかりにやや口吻を尖らす。
「流石に友人の一人や二人はいるよ。社会人になるとお互い忙しくてなかなか会うのも難しいから、連絡もそんなに取ってないけれど」
「じゃあ恋人は、」
「ええ、それ訊くのかい?」
 光忠は困ったように眉を曇らせて大倶利伽羅を振り返る。
「ああ、ぜひ聞きたいな」
「いないよ、ずっと」
 最後に付き合った相手の名前も顔も遠くに霞んで上手く思い出せない。
「あんたのことだ、その気になればすぐ恋人の一人や二人できるだろうよ」
 どこかぶっきらぼうに答える光忠に大倶利伽羅は軽い調子で応じながらちくりと微細な痛みを憶えた。
「ねえ伽羅ちゃん。燭台切光忠は僕に似てるって言ってたけれど、容姿はどんなふうだった? 見た目も僕に似てたりするのかな?」
 光忠は正面に備え付けられている鏡を見る。――少しだけでも自分に似ていたら良いな、なんて。
「燭台切光忠の容姿はあんたに」
 ――そっくりだ。
「全然似てないな」
 大倶利伽羅はうそぶいて断言する。
「え、そうなの?」
 期待をあっさり裏切られて思わず声が大きくなる。
「ああ、共通点があるとすれば色白なところくらいか。しかし、あんた本当に肌が真っ白だな」
 泡立てた白い泡を掌で広い背中に塗り広げる。――この肌が官能の血汐に色付くのを知っている。しみ一つ、ほくろ一つない白皙に立てた爪痕から薄らと血が滲む様を知っている。
「うん。どうも僕は日焼けしても赤くなるだけで黒くはならないタイプみたいでね。ないものねだりなのかもしれないけれど、伽羅ちゃんみたいな深いような肌色はとても格好良くて素敵だなって。少し羨ましいよ……って、伽羅ちゃん、あの、」
 光忠は半ば狼狽えて視線をこちらに投げて寄こす。
「何だどうした」
「ちょっと擽ったいっていうか、えっと、ナイロンタオル使ってる?」
「いや、使っていない。うっかり力加減を間違えてあんたの肌を傷つけそうでな」
 大倶利伽羅は空惚けながら泡を素肌に塗り込むようにして背中に触れる。そうしながら光忠の慾望の在り処を探った――彼の性感帯を。やられっぱなしは性に合わない。これくらいの悪戯なら赦されるだろう――肩甲骨の辺り、隆起した筋肉をなぞるように掌を這わせ、広い肩のラインを辿る。ぴくりと光忠の肩が揺れる。肌にはりついた襟足を撫で上げ項を掌で愛撫し、仄かに染まった耳へ唇を寄せてそっと吐息を吹きかけた。と、耳の血色が濃くなった。大倶利伽羅は密着していた背中からぱっと身を離した。
「終わりだ」
「え、ああ。ありがとう、」
「俺は先にあがる」
 大倶利伽羅は躰ついた泡をシャワーで洗い流すと光忠が呼び止めるのを無視して風呂を出た。引き戸を後ろ手で閉め、棚に置いたバスタオルを頭から被ってその場にうずくまり、盛大に溜息を吐いた。
「……何やってるんだ、俺は」
 ほんの少しの、彼がその意味に気づくかどうかの軽い戯れ、 隠した意趣返し――のつもりだったのに。仕掛けた自分が逆に煽られてしまった。とんだ藪蛇である。というか、大莫迦者だ。
 朱に染まった白い耳を思い出す。俯いていたから光忠がどんな表情をしていたのかは確認できなかったが、想像はつく。悩ましげに眉根を寄せてその瞳を熱く潤ませて、薄く開いた唇からあえかな吐息を零して――伽羅、僕の可愛い大倶利伽羅、ねえ、大好きだよ。そんな甘い声で、睦言を。
「……クソッ」
 鼓膜の奥で蘇る光忠の声を振り切るようにがしがしと乱暴な所作で濡れた頭をタオルで拭った。

 風呂からあがってから夕食までの時間、客室にあったテレビを見て寛いだ。大倶利伽羅は風呂場で仕出かしたことについて苦く思いながら光忠の反応や態度をそれとなく窺ったが、特段変わった様子はなく、いつも通りの彼だった。あれは彼の中でなかったことになっているのかもしれない。それなら好都合だ。
 午後六時になって部屋に豪勢な膳が運ばれてきた。刺身の盛り合わせから野菜の天ぷら、茶碗蒸しに吸物、郷土料理の三種の小鉢に小さな鉄鍋はすき焼きだ。霜降りの和牛に添えられた茸類、白菜、長ネギ、焼き豆腐。地酒の飲み比べとして白青緑の三種の一合瓶が並ぶ。光忠は「とっても美味しそうだね」にこやかに告げて箸をつける前に記念にと携帯電話のカメラで卓に並ぶご馳走の写真を撮った。
「伽羅ちゃんにも食べさせてあげたいなあ」
「あんたこの間も同じこと言っていたな」
 どこか呆れたような顔色を浮べる大倶利伽羅に「だってこんなに美味しそうなものを食べる楽しみがないなんて、勿体ないっていうか。食事は生きる上でも大切な行為だし」光忠はかつて聞いたようなことを口にした。
「俺はあんたが美味そうに食っている姿を見ているだけで満足だ。だから気にするな」
 それは嘘ではない。光忠はどんな料理でも美味しそうに食べる。食べ方も綺麗だから傍から見ていて気持ちが良い。刀剣男士だった頃、光忠が「伽羅ちゃんがご飯食べてるところを見ているのが僕の幸せ」と良く言っていたが、今ならその言葉の意味が判る。
「そうかい? それなら良いんだけれど」
 光忠はいただきます、と手を合わせて箸を手に取る。まずは新鮮そうな鯛の刺身から。軽くわさび醤油をつけて口に運ぶ。
「うん、美味しい」
「そりゃ良かったな。せっかくだ、酌をしてやる」
「え、良いよ。手酌するから」
「何だ、俺の酒が飲めないのか」
「うーん、ちょっと言葉の使いどころが違うかな」
「良いから。ほら、どれを飲むんだ。猪口を出せ」
 遠慮して断り続けるのも却って失礼だと思い直して光忠は青い一合瓶を選んで猪口を大倶利伽羅に差し出した。とろりとした液体が猪口を満たすとふわりと酒精の香気が広がった。一口飲んでみると「美味いか」すかさず大倶利伽羅が訊ねてくる。
「とっても美味しいよ。口当たりが柔らかくて甘めだね。伽羅ちゃんは刀剣男士やってた時はお酒も飲んだりしてたの?」
「多少は。酒好きの連中も多かったからな。だが俺は莫迦騒ぎするのは好まなかったから飲む時は大抵あいつとサシで飲んでたな」
 あいつとは燭台切光忠のことである。良い酒が手に入ったから、新しいレシピでおつまみを作ってみたから、そんなふうにして光忠の方から誘ってくることが多かった。そしてその後は大抵肌を合わせた。今思えば酒の誘いは閨事の口実だったのが判る。何でも器用にこなす男だったのにいつまで経っても恋仲の相手を直裁に閨へ誘うことができない初心うぶで奥手な一面を知って今更のように胸が締め付けられた。
 大倶利伽羅は光忠が食べるペースに合わせて酌をしてやり、他愛もない会話を交わす。光忠は膳に並んでいる物を食べながら美味しいと度々繰り返して「これうちでも作れないかな」そんなことも零した。やがて話題は刀捜しに及ぶ。
「念のためにもう一泊できるように手配してあるんだけど、どうしようか。明日もう一度、お寺の桜を見に行くかい?」
「ああ、そうだな。それからまた周辺にある桜を一応見て回るか」
「そうだねえこんなこと言うのはちょっと気が引けるけど、とりあえず今は桜の古木を目印に刀を捜しているけれど、それ自体が果たして正しいのか、本当は間違ってるんじゃないかって時々思うよ。数式自体が間違っていたら永遠に正しい解答には辿り着かない」
 今回空振りであったなら目ぼしい桜の名所――樹齢千年を越すのはあと一ヶ所しかない。そこも空振りだった場合、次の作戦をまた考えなくてはならない。約束の期限までおよそ二ヶ月あるが、三月に入れば教職の光忠も輪をかけて忙しくなる。土日全て刀捜しに当てられる保証はどこにもない。
「随分弱気だな」
「あ、ごめん。刀捜しを諦めてるとかじゃないんだ。全然手がかりも手応えもないから、今のやり方で大丈夫なのかなって思って」
 光忠は取り繕うように弱々しく笑む。
 ――折れた刀が本当にどこかにあるのなら僕達が必死になって捜し回らなくてもいずれ誰かの手によって見つかる。所蔵されていたミュージアムから忽然と消えたと公に報じられているなら尚更ね。
 昼間、そう光忠は言った。確かに彼の言う通りだ。何も自分達が時間も労力もかけて刀を捜し回る必要はない。無関係な光忠を巻き込んでまですることなのか。折れた燭台切光忠を見つけたいと望むのは大倶利伽羅の身勝手な都合でしかない。今回、見つからなければ諦めてもう光忠を解放してやるのが正しい判断ではないのか。
「――もう辞めるか」
「え?」
 大倶利伽羅の突然の言葉に光忠は箸に摘んでいた筍の天ぷらを取り落としそうになった。
「今回駄目だったら刀捜しを辞める。これ以上、あんたに迷惑はかけられない」
 毅然とした態度で告げる大倶利伽羅に光忠は慌てた。
「待って。どうして急にそんなことを言うんだい? 僕はちっとも迷惑なんかじゃないよ。こうして伽羅ちゃんと小旅行もできるし……って言うと不謹慎に聞こえるかもしれないけれど。それに約束の期限までまだ日にちはある。ねえ、伽羅ちゃん。結果はどうなるかは判らないけれど――勿論刀は見つけるつもりでいるけど――最後まで刀捜しをさせてくれないかな。君に恩返しがしたいんだ」
「恩返し?」
 予期せぬ言葉に大倶利伽羅が首を傾げて問い返すと光忠は微笑みながら頷く。
「昼間のこと。君の前でみっともなく泣いてしまったけれど、伽羅ちゃんからの言葉がとても嬉しかったんだ。僕は人が怖くて本当の意味では信じられなくて、だからずっと誰からも愛されるに値しない、誰も愛せない駄目な人間だと思っていたから。でも伽羅ちゃんはそんな思いを否定してくれた。誰かを愛したり、誰かから愛されたり、本当は僕にも愛が赦されていたんだなって気づかせてくれた」
 愛はとてもシンプルだ。
 ただ望みさえすれば良い。
 相手の傍にずっといたいと。
 ただそれだけで愛は果たされる。
 難しく考えたり身構える必要はない。大倶利伽羅が光忠に与えた言葉通り、何も恐れることはないのだ。
「僕凄く伽羅ちゃんに感謝してるんだ。どうやってそれを言葉で伝えて良いのか判らないくらい。だから僕にできることなら何でもしたいんだ。それにきっと君の恋人も待ってる」
 見つけ出されるのを。どこかで。ずっと。
 光忠が俺を待っている――そう思って、つんと鼻の奥が痛くなる。
「……あんた、本当に優しいな」
 大倶利伽羅はくしゃりと顔を歪めて呟いた。記憶がなくても彼は変わらない。底抜けに優しくてお人好し。そんな優しさに何度救われてきただろう。昔も、今も。
「別に優しくはないよ」
「あんたが優しくないというなら他の奴らは全員極悪人だな」
 ふんと鼻で嗤って涙が出そうになるのを誤魔化す。光忠はそうかなあと言いながら無邪気に笑った。
「必ず刀は見つけるよ。最後まで頑張るから、期待しててね」

 ◆◆◆

 酔いと日中の疲れも手伝って光忠は早々に延べられた布団に入った。一体ホテル側にどう説明したのか、律儀にも大倶利伽羅の分の床も用意されていた。
「眠りは必要ないっていうけど、ふかふかの布団に横になるのも気持ち良いよ」
 光忠がそう言うので大倶利伽羅も布団に身を横たえた。確かに宿泊施設らしく、寝心地が良い。
 もぞりと身動みじろぎして横向きになり、白い容貌と向き合う。と、少し眠そうな声で光忠が呟く。
「明日は晴れるそうだから、今日よりは暖かいと良いね」
「そうだな」
「桜が咲いたらまたここへ来たいな。伽羅ちゃんと一緒に」
「……友人じゃなくて俺か」
「うん。君と一緒に見たいなって思ったから。桜の下にいる伽羅ちゃんは凄く綺麗なんだろうなって……」
 大倶利伽羅は桜の下に佇む光忠を思い出す。烏玉ぬばたまの髪と身に纏う黒い戦装束に薄紅色が映えてとても美しかった。桜に攫われるという言葉がふと脳裏に浮かぶ。桜に連れて行かれたのなら、きっと桜の下に彼はいる。迎えに来るのを待っている。
 会いたい。
 光忠に、会いたい。
 一度そう思ったら抑えきれなくなってしまった。
 手を伸ばし、無造作に置かれた白い手を握る。
「伽羅ちゃん? どうしたの?」
「そちらへ行って良いか」
「え、うん。それは、構わないけれど……」
 些か困惑しつつ光忠が身を布団の端に寄せると邪魔するぞと大倶利伽羅が潜り込んでくる。光忠は躰が触れ合わないようにどうにかして距離を取ろうとするが、独り寝用の布団では無理があった。というより、大倶利伽羅の方から身を寄せてくるのだからどうしようもない。
「伽羅ちゃん本当にどうしたの。もしかして彼のことを思い出して寂しくなっちゃった?」
「……別にどうもしない」
 どうもしないのに他人ひとの布団の中に入ってくることは普通ではないんだけど――光忠はそう思ったが口にしなかった。
 大倶利伽羅は光忠の頬に触れ、長く伸びた前髪の下に隠された右眼の傷を親指の腹でなぞった。
 光忠の瑕疵きず、光忠を形作る傷跡。
 今も昔も何一つ変わらない。
 愛しい者の形。
 みつただ、とどこか舌っ足らずに名を呼んで甘えるように鼻先を擦り合わせ、深く潤んだ金眼を見詰める。唇を寄せる。吐息が触れ合う。無垢な色の唇が何かを言いかけるのを押し留めるように大倶利伽羅は口付けた。と、光忠の瞳が大きく見開かれた。
「なんで――」
「今は何も言ってくれるな」
 頼む、と懇願する瞳は揺れていた。痛ましいまでの切なそうな表情にそれ以上光忠は問いただすことができなかった。躊躇いがちに背中に腕を回すとぎゅうと大倶利伽羅が抱き着いてくる。
「光忠」
「うん」
「光忠」
「うん」
「俺を置いてもうどこにもいかないでくれ」
「うん。どこにもいかないよ。ずっと君の傍にいるよ」
 言いながら光忠は奇妙な既視感に囚われた。――前にもこんなことを言ったような気がする。いつ? 誰に? 伽羅ちゃんに?
 再び唇を求められて光忠は薄く開かれたそこへ唇を重ねた。彼には大切な想い人がいるのは判っていたが、今はこうするのが正しいように思えた。大倶利伽羅が声もなく泣いていたから。涙に慄える背を抱く腕に力を込める。
「大丈夫だよ、伽羅ちゃん。もう泣かないで。僕は君とこれからもずっと一緒にいるよ」
 優しく言いながら、この台詞も以前誰かに言ったような気がした。
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