君と出逢うその日まで

(参)

 帰宅し、大倶利伽羅のリクエスト通りにもやしをたっぷりのせた醤油ラーメンで夕食を済ませた後、光忠は食後のコーヒーを淹れると早速話を切り出した。
「それで。君が捜している刀ってどんな刀なの?」
「――燭台切光忠。長船派の刀だ」
 大倶利伽羅の言葉に光忠は瞳を瞬かせて「あれ、その刀って今行不明になってるとかじゃなかった?」確か先日買い求めた雑誌にそう書かれていたはずだと思い出す。名前が自分と似ているから良く憶えている。思わず何か自分の家系と関係があるのかとネットで調べてしまったほどだ。無論、そんな事実は何もなかったし、それとなく家族に訊いてみても「単なる偶然だよ。うちは代々普通の会社員の家系だし」とおかしそうに笑って否定されてしまった。
「ああ、どうやらそうらしいな。あんたの寝室にあった雑誌を見て俺も初めて知った」
「君も捜している刀が行方不明だとは知らなかった? でも刀は折れてしまったのだろう? 折れて現存しないというのなら行方不明という表現は少し変だし、雑誌には忽然と消えたって……」
 それこそ現存しない、損壊の上喪失したと表現した方が正確だろう。だが雑誌の記述は違う。あったものが無くなった、何者かによって盗み出された――そんなニュアンスの言葉が並んでいた。。
 消えた刀剣と折れてしまったという刀剣。長船の祖が一振、燭台切光忠。
 どうにも良く判らない――光忠が釈然としない表情で向かいに座る大倶利伽羅を見遣るとこれは俺の推測だが――付喪神は静かに口を開く。
「雑誌に書かれていたことは嘘ではないと思う。本当に所蔵されていた場所から刀は消えたんだ。それは何者かが盗んだんじゃない。刀が折れてしまったことによってその存在が消えたんだ。刀が折れたから、燭台切光忠の歴史が書き換えられたんだ」
「それはどういうこと?」
 彼の言わんとしていることがいまいち呑み込めず光忠が首を捻ると付喪神は一瞬躊躇うような表情を見せてから言葉を継いだ。
「俄には信じられないと思うが、俺は――俺達刀の付喪神はかつて人の身を得て刀剣男士として歴史改変を目論む敵と戦っていたんだ」
 西暦二二○五年。現代より一五○年以上も先の未来で『物の心を励起する技』を持つ審神者の力によって、名だたる刀剣の付喪神達は人間の姿形を与えられた。
「俺達は何年も、何十年も歴史を変えようとする時間遡行軍と戦った。奴等から歴史を守るのが刀剣男士の使命だったからな」
 戦に明け暮れる傍らで人間ひとと同じように日常生活を営んだ。寝て起きて畑を耕し、馬の世話をして食卓を皆と囲みながら他愛もない言葉を交わす。桜が咲けば春の訪れを寿ことほぎ花見をし、月が出ればその美しさを愛でながら仲睦まじく酒を酌み交わした。苛烈な戦の裏で移ろう季節を愛おしむ、そんな穏やかな生活があったのだ。今ではもう遠くなってしまった過去みらいだけれど。
「俺達は長きにわたる戦の末、時間遡行軍に打ち勝った。役目を終えた俺達は人の身からただの刀に戻った。他の連中も今はひっそりとあるべき場所で眠っているだろうな」
「燭台切光忠が折れたっていうのは」
「あいつが折れたのは時間遡行軍との最後の戦でだった。あいつは、光忠は俺を庇って――」
 大倶利伽羅の顔が悲痛そうに歪む。今にも泣き出しそうな痛ましい顔色に光忠の胸も痛む心地だった。
 あの時、目の前に迫った大太刀の斬撃が避けきれず、殺られる――大倶利伽羅は咄嗟に折れる覚悟をしたのだ。恐怖も口惜しさも怒りもなかった。ただ「俺はここで折れるのか」と酷く醒めた気持ちがあった。独りで戦い、独りで死ぬ。初めから決めていたことだ。だから瞼を閉じようとした。首を斬られる覚悟をして。だが実際は全く違う覚悟を強いられた。大切な仲間を喪うことを。愛している者を亡くすことを。己の目の前で。
「あいつは折れて良い刀じゃなかった」
 誰からも好かれ慕われて、当たり前のように皆に優しかった。無惨に焼失した過去を持ちながらもそれを悟らせない強さと朗らかさがあった。何をやらせても卒なくこなす彼はいつも仲間達の中心にいて、主からの信頼も篤かった。誰よりも強くて優しい刀。それが燭台切光忠という刀だった。だから光忠が折れたと知った時の周囲の反応は恐ろしいくらいで皆激しく動揺していた。大倶利伽羅とて、燭台切光忠が折れた後のことははっきりと思い出せないほど混乱し、動転していた。 今でもあの戦を終えた後どうやって帰城したのか、その後の記憶も曖昧で朧気だ。
「あの時、俺が折れれば良かったんだ。そうすれば――」
 大倶利伽羅はきつく唇を噛んでテーブルの上で拳を握る。と、白い大きな手がそっと包むようにショートグローブの手を握った。その温かさにたれたように目線をあげて正面を見る。光忠は悲しそうに眉を曇らせていた。
「僕がこんなことを言うのはおかしいかも知れないけれど、そんなふうに言わないで。君を助けた燭台切光忠も悲しく思うよ。彼がどんな思いで君を助けたのかは僕には判らないけれど、でも自分が折れることを厭わないくらいには君のことを大事に思っていたんだろう? それに君が折れていたらと思うと僕も悲しい」
「なぜ……あんたが悲しむ?」
 大倶利伽羅は訝しんで僅かに目を見開く。するとテーブルを挟んで向かいに座る男は薄く微笑んでみせた。
「なぜって、君が折れてしまっていたら僕は君と出逢えなかっただろう?」
「……まるで俺と出逢ったことが良いことのように言うんだな」
 こう言ってはなんだが、厄介なことを持ちかけられたと不満を言われこそすれ、有り難がられる謂れはないと思うのだが。大倶利伽羅がそんなことを言えば「僕は君と出逢えて良かったと思っているよ。世の中には色んな人がいて、出逢う人間全てが善人で僕に対して友好的とは限らないけれど、それでもその人と出逢わなければ良かったとは思わないし、思いたくない」光忠は生真面目な語調で告げた。
「あんたを傷つける相手でもか」
 大倶利伽羅は長い前髪の下から覗く白い眼帯を見詰める。隠された痛ましい傷跡を思う。今の彼を形作る傷跡。
「うん。確かに過去の事件のことで僕は人が怖くもあるけれど……でもそのことばかりに囚われていても駄目だと思うんだ。なかなか難しいけれどね。それに伽羅ちゃんは僕を傷つけたりしない。そうだろう?」
 昼間、自分の頬に触れた褐色の手を思い出す。慈しむようにそっと眼帯に触れた指先も掌の仄かな温もりも優しかった。武器である刀を握る手とは思えないほどに。
「ああ、勿論だ。俺は光忠を傷つけないし、寧ろ守りたい」
 誰よりも優しく、また脆い部分を抱えた彼をあらゆるものから守ってやりたい。もう二度と傷つかなくて済むように。ずっと笑顔でいられるように。光忠との出逢いに意味があるとするならば、今度こそ彼を守り、癒しがたい傷を癒してやることなのだろう。
「守りたいだなんて初めて言われよ」
 光忠はおかしそうに笑いながら白いマグカップに口を付ける。恋人として付き合った相手にすら言ったことのない台詞だ。何かを守る、誰かを守るということは簡単に言えるほど容易くも、軽くもない言葉だが、しかし不思議と大倶利伽羅のそれは信じられるような気がした。
「不快だったか」
「真逆そんなことないよ。少し驚いたけれどね。伽羅ちゃんが守ってくれるのならとても心強いよ。君の倶利伽羅龍は不動明王の化身だものね」
「そうだ。それに刀は人を斬る武器としての面と悪しきものを退ける神聖な物としての意味もある。俺の刀は神刀ではないが、刀剣男士の中には神刀や霊力を持つとされる連中もいた」
 石切丸や太郎太刀を初めとする大太刀達、天下五剣にも名を連ねる大典太光世もそうだった。彼等は今は決して人目には触れない場所にいる。大切に仕舞われ、奉られて。いずれは自分もまた日の当たらない場所へと還る日が来る。
「確かに神社なんかに刀が奉納されててそれが御神体っていうのは聞いたことはあるよ。――ねえ、伽羅ちゃんが良ければだけど、君の刀を見せてくれないかな」
 光忠がふと思いついたように言うと大倶利伽羅は意外そうに金色の瞳を瞬かせた。
「今か?」
「うん、今。勿論、無理にとは言わないよ」
「それは構わないが……」
 大倶利伽羅はやや驚きつつ立ち上がると腰に差した刀に手をかけて流れるような仕草で抜刀した。すらりとした白銀の刀身が照明を受けて鋭利な輝きを放つ。光の加減のせいか博物館で見た時とはまるで印象が違うそれに光忠は「凄い……」我知らず呟いて瞠目した。
「綺麗だ」
 大倶利伽羅の手に握られた刀は生き生きとして光忠の瞳に映った。恰も刀自体が生命と意志とを有しているかのように。煌めく白刃は大倶利伽羅の褐色の素肌や戦装束に映えて美しかった。光忠は目の前で刀を構える付喪神を陶然とした眼差しで見詰めながら鮮やかな太刀筋で敵を斬り捨てる姿を思い浮かべた。と、大倶利伽羅が「そら」と刀を差し出す。
「え、」
「握ってみろ」
「わっ、」
 半ば強引に刀を握らされて光忠は慌てた。落としたりしたら大変だ――初めて手にした刀は思いの外軽いように感じた。大体一キロくらいだろうか。光忠はしげしげと僅かに反る白銀の刀身を見る。彫り込まれた龍と目が合った。ぎょろりと剥いた目玉に睨まれてどきりとしてしまう。
「日本刀なんて初めて触ったけど、なんか凄いね。これで相手を斬るなんて僕にはできそうにもないよ」
 手にした当初は軽いと感じたが、一キロもある重さのものを長時間振り回すのはかなり体力が消耗しそうだ。
「まあこの時代の人間には縁のない代物だからな」
 大倶利伽羅は言いながら刀を握る光忠を何か眩しいものを見るかのように瞳をすがめて眺めた。脳裏に在りし日の光忠の姿が浮かぶ。黒い戦装束に身を包み、華麗な太刀捌きで刀を振るう姿を。
 ――格好良く決めたいよね!
 口許に好戦的な笑みを浮かべて豪快に敵を薙ぎ倒す姿は文句なしに格好良かった。初めて一緒に出陣した時、思わず見惚れてしまったくらいだ。彼の一切無駄のない動きは舞踏のようでもあった。
 ――今もまだ、こんなにも鮮明に思い出せる。
 不思議そうにめつ眇めつしながら己の刀を握っている光忠を見て大倶利伽羅は胸底が引き攣れるような痛みを憶え、奥歯を噛み締めた。自分が愛した光忠はもういない。彼は確かにあの光忠ではあるが、目の前にいるのは何も知らない光忠だ。その昔、自分達がどんな関係にあったのか、想像すらし得ないだろう。唇も、この躰さえも赦し合った仲であったと告白したら目の前の男はどんな顔をするのだろう。驚愕して戦くか、穢らわしいと蔑むか。それとも。
「伽羅ちゃん? どうしたの? 大丈夫かい?」
 間近で顔を覗き込まれて大倶利伽羅は我に返った。すぐそこに無垢な色の唇があって図らずも胸があやしくときめいてしまう。が、それと気取られぬよう平静を装って「何でもない」とゆるくかぶりを振った。
「刀、見せてくれてありがとう」
 光忠は手にした刀を大倶利伽羅へ手渡す。
「もう良いのか」
「うん。この刀が、君が僕を守ってくれるんだなって思ったら、 全てが上手くいくような気がしたというか……これから起こること全部を信じられる気がしたよ」
 良い予感がする、と光忠は白い歯を見せて朗笑した。大倶利伽羅も僅かに頬を緩めて「そうか」と短く頷いた。
 それで話を戻すけれど――光忠は椅子に座り直すと燭台切光忠について大倶利伽羅に訊ねる。
「現存していた燭台切光忠が所蔵されていた場所から消えたのは、伽羅ちゃんが刀剣男士として生きていた時代に折れてしまったから――つまり未来が現在である二○二五年に干渉したってことだね」
「恐らくな。詳しい原因は判らないが、そう考えた方が自然だろうな。未来が過去に干渉するのは少し奇異に感じるが、あり得ないことでもない。あんたから見たら俺が刀剣男士として生きていた時代は遠い未来だが、今の俺にとっては遠い過去でもあるからな。審神者や政府の関係者がいればその辺もはっきりするだろうが、彼等を探している暇もないし、調べたところで俺の目的が達成できるとも思えないから無視するが」
 あくまでも大倶利伽羅の目的と望みは折れてしまった燭台切光忠の刀を見つけること、そして打ち直されることだ。それ以外はどうでも良いし、探る気もない。ただし彼を見つけるために必要ならば話は変わってくる。審神者と政府関係者に接触しなければならないとなれば到底光忠との約束の期限内に刀は見つけられないだろう。この場合、刀捜しは諦めるより他ない。今はそんな事態にならないことを祈るばかりだ。
「君の言っている『さにわ』や『政府』というのがいまいち僕には判らないけど、無視しても良いなら今は訊かないでおくよ。何だか込み入った事情がありそうだし。――燭台切光忠が折れてしまったのは敵との最後の戦いだって言っていたよね。場所はどの辺りだろう? その場所が判れば――」
「場所は俺達の拠点である本丸の近くだ」
 あの日、遡行軍は本丸諸共叩き潰そうとして過去ではなく、二二○五年の現在に姿を現したのだ。
「本丸?」
「俺達が寝起きしていた城というか、家屋だな。刀剣男士数十人がそこで共同生活を送っていたんだ。ただ――本丸があった場所の特定は難しいだろうな」
 あの場所は特殊な空間――ある種の神域でもあったから。
「本丸があった場所は俺達刀に人形ひとがたを与えた審神者の霊力で作られた空間だったからこの現実世界とは切り離された全く別の場所と考えた方が良い」
 戦が終わり、本丸が解体された今、神気を辿ってその痕跡を見つけるのも難しいだろう。そうでなくてもあの頃と現代とでは景色や風景が違いすぎるのだ。
「うーん、そうなると本当に刀を見つけるのは至難の業だね。せめて何か目印があれば良かったんだけど……」
「目印……目印か」
 大倶利伽羅は口の中で呟いて「万葉桜があったな」ふと思い出したように言った。
「万葉桜?」
「ああ、誰が言い出したのかは知れないが本丸の庭に自生していた大樹が一万年に一度花を咲かせる桜の樹だと……そして、それを見た者は願いが叶うとされていた」
 大倶利伽羅の記憶では庭にあった桜は一万年に一度どころか、毎年綺麗な花をつけていた。花の盛りには皆その樹の下に集まり昼間から酒盛りをして賑やかに花見をした思い出がある。だからあの樹は本当は万葉桜でも何でもない、ただの桜であり、千年を越える樹齢やその立派な枝振り、溢れるばかりの花の付け方から神秘的な力を秘めた万葉桜と呼ばれるようになった――そう認識している。
 光忠は大倶利伽羅の言葉を聞きながら手元にある携帯電話でネットを開き『万葉桜』を検索してみたが、そのような品種は存在せず、架空の桜だということが判った。検索結果に出てくるものといえば同名のジュエリーブランドや飲食店ばかりだ。しかし裏を返せば自生していたというその桜の樹は別の名前で実在するということでもある。
「折れた刀が必ずしもその桜の近くにあるとは限らないけれど、捜す手がかりとしてはありだと思う。千年もの樹齢を持つ桜ならお花見スポットとしても有名だろうし、捜しやすいんじゃないかな」
 樹齢千年の桜は国内に何ヶ所かある。数はそう多くはないから近場から当たってみるのが良いだろう。
「そうだな。本丸の痕跡を捜すよりはずっと容易くて確実だな。それに桜は俺達刀剣男士にとっても特別な花だ。もしかしたら本当にあいつの刀が桜の下にあるかもしれない」
「オーケー、次の休みの日には早速目ぼしい桜の名所に行ってみようじゃないか」
 光忠は頭の中でざっとスケジュールを組む。
「ああ。折れた刀が見つかると良いんだがな」
「ところで刀が見つかった場合、消えたとされる燭台切光忠はどうなるんだろ? 忽然と消えたのなら同じように所蔵場所に戻ってるとか?」
 光忠はふと浮かんだ疑問に首を捻る。
「それはどうだろうな。折れたから消えた、という事実が優先されるならば折れた刀を見つけたところで全てが元通りとはいかないんじゃないか。恐らく現代の燭台切光忠は『消えた刀が折れて見つかった』ことになるんだと思う。それである部分での、一定の辻褄が合うことになる。だがこれでは不充分だ。あいつが折れたままでは駄目なんだ。未来のためにもな。だから打ち直させる」
「打ち直させる? それはどういう――」
「刀を見つけたら、燭台切光忠を見つけたと所蔵されていた施設にでも連絡すれば良い」
 突拍子もないことを至極真面目な口調で告げる大倶利伽羅を光忠は目を見開いて見遣った。
「それ、信用して貰えるかな? というか君はそれで良いの? 大事な刀なんだろう? 手元に置いておきたいんじゃなかったのかい?」
「現世でこんなことになっているとは思わなかったからな。初めはただ見つかれば良いと思っていたが、こうなったらただ見つけるだけでは済まされない。さっきも言ったが、あいつは折れて良い刀じゃないんだ。伊達家と徳川家に伝わった名刀として後世に末永く受け継がれなくてはいけない刀なんだ」
 そのためなら俺はなんだってする――大倶利伽羅は恐ろしいまでの真剣な面持ちで言いながら込み上げてくる苦い後悔と喪失の痛みを呑み下した。俺のせいで折れてしまったのだから、俺がなんとかするべきだ。光忠の手を借りなくてはいけないことが今では歯がゆく、不甲斐なかった。かつてのように人の躰があったならと思ってしまう。
「伽羅ちゃんは余っ程燭台切光忠のことが大事なんだね」
 光忠はすっかり冷めてしまったコーヒーに口を付けながらしみじみとして言った。折れてしまった刀について語る大倶利伽羅の態度は大切な戦友を喪った以上のものを感じさせた。まるで自分の半身を亡くしてしまったかのようだ。そう指摘すると「光忠とは元の主が同じだからな。その分付き合いも長い」そんな答えが返ってきた。
「そっか。家族みたいなものなのかな。――もしもの話だけれど、折れた刀が見つかって目の前に燭台切光忠の付喪神が現れたら、伽羅ちゃんはどうする?」
 考えてもみなかった問いに大倶利伽羅は金色の双眸を見開いて真向かいにいる男を見た。刀剣男士であった燭台切光忠と瓜二つの容姿を持つ長船光忠を。容貌も背丈も声音すら、あの頃のままで。――漆黒の戦装束を身に纏った光忠が再び姿を現したら、俺は。みっともなく泣いてしまうかもしれない。泣いてなぜ俺を庇ったのだと詰って怒って、もう置いていくなとその躰に縋って抱き締めて、それで。
「……一発、殴るだろうな」
「え、」
「勝手なことをするなと怒って殴る」
 光忠がしたことは彼なりの愛情表現なのは判っている。逆の立場ならきっと自分も同じことをしただろう。だが光忠は判っていないと思うのだ。置いていかれる側がどれほどの痛みと悲しみを味わうのか。埋めようのない喪失感が心を蝕んでいくことも。
 燭台切光忠が仙台藩から水戸藩に移された時、初めて味わった寂寥感に心が凍り付くようだった。貞宗も鶴丸も傍にいたが、彼等がいても尚、抜け落ちた裡側が埋まることはなかった。自分の一部をどこかに落として無くしてしまったかのように。だから刀剣男士として顕現し、再会した時は心底嬉しかった。光忠が傍にいる――誇張ではなく、それだけで涙が出そうになったくらいだ。本丸での穏やかな暮らしは永遠には続かないと理解していたが、真逆光忠を喪う形で終わるとは予想だにしていなかった。こんな一方的に、手を振りほどかれるような別離をするなど。
「それは……なんていうか、熱烈だね」
 光忠が微苦笑を洩らすと「ああ、熱烈な歓迎だろう」大倶利伽羅は真面目くさった顔色で頷いた。
「一発ぶん殴る是非はおくとして、何だか伽羅ちゃん達が羨ましいよ」
「羨ましい?」
 彼の言っている意味が判らず、鸚鵡おうむ返しに問うと光忠は眉尻を下げて曖昧な笑みを片頬に浮かべた。
「君の話を聞いていると燭台切光忠ととても強い信頼関係というか、絆があるんだろうなって判るから。僕には持ちえないものだ」
「それは――」
 僅かに伏せられた目の奥に揺曳する寂寥の翳に大倶利伽羅の胸底がざわめく。肉の器はもうないのに、心臓が鷲掴みにされたようにふるえた。――そんな表情かおをしてくれるな。そんな表情はあんたには似合わない。
「俺は、あんたを信じてる」
 大倶利伽羅はテーブルの上に無造作に置かれた白い手を掴んで握る。と、隻眼が真っ直ぐに大倶利伽羅を捉えた。
「刀捜しを依頼しているからじゃない。知り合って間もないが共に過ごしてみて、あんたの優しさや誠実さはよく判ったし、過去の辛い出来事があるにも拘わらず、それでもどうにか人を信じようとしているところも、光忠の美点かつ信頼に足る部分だ」
 色々な事情があるのだろうし、特に意識してのことではないのかもしれないが、現在彼が人と関わる仕事を生業としているのは、喪われた他者への信頼を回復しようとする試みなのだろう。本当に人を恐れて厭うならば彼は今頃教鞭を執ってはいないはずだ。少なくとも大倶利伽羅にはそう見えたし、解釈していた。他者を恐れながらも手を伸ばす――そんな彼の白い手を優しく握り返してやりたいと思う。
「あんたは誰かを深く信頼して愛することができる人間だ。俺が保証する」
「……なんか面と言われると照れちゃうね」
 光忠はへらりと眉尻を下げて含羞はにかんだ。照れているのは本当らしく、仄かに白い頬に赤みが差していた。
「気を悪くしたらすまない」
 大倶利伽羅は少し慌てたように握っていた手を離す。
「ううん、そんなことはないよ。寧ろ君にそう言って貰えるのは嬉しい」
 どうもありがとう――光忠は気恥しさに頬を染めたままにこりと莞爾かんじした。

 ◆◆◆

 辺りは酷く暗い。ここは一体どこだろう――周囲を見回す。埃っぽいような匂いが鼻を突く。手を伸ばして目の前の闇に触れてみる。冷たくざらついた感触に壁だと知る。目を凝らす。次第に闇に目が慣れてきて見分けがつくようになってくる。棚、整然と並んだ大小の箱、夥しい数の細長い袋包み――刀。それらを見て蔵の中に自分はいるのだと理解した。暗い暗い、蔵の中。
 すると突然、足元が大きく揺れた。棚から物が次々と落ちて派手な音を立てる。地鳴りのような低い音が聞こえる。建物全体も大きく揺れて厭な音を立てた。あまりの揺れの大きさに立っていられなくなって、その場にしゃがみ込んだ。地震だ。とても大きな。外の様子がどうなっているのかは窓がないため判らない。身を低めて耳をそばだてる。蔵の外が騒がしい。人々の悲鳴、逃げろという怒号、火事だという叫び声。
 火事――燃える。燃えてしまう。
 迫りくる真っ赤な火を想像して怖気が立った。早くここから逃げなければ。――でも、どうやって?
 刀である自分にはここから自らの意思では逃げ出せない。誰かに蔵の中から運び出して貰わなければ。早く。早く。早く。蔵が燃える前に。
「誰か、誰かいませんか! ここを開けてください!」
 這うようにして出入口の扉まで移動し、固く閉ざされた鉄扉を叩いて叫ぶが、外には届かないのか誰かが気づいた様子はない。ただ扉の向こうで慌ただしい物音がするだけだ。
 次第に蔵の中は焦げ臭い匂いが漂い、黒煙が充満していく。背後を振り返ると燃えやすいものがあったらしい一角が赤々とした炎に呑まれていた。火は瞬く間に大きくなり、壁や天井まで燃え広がった。燃え盛る火が爆ぜ、火の粉が舞う。
 ――ああ、もう駄目だ。
 見開いた左眼が熱くて眩しい。 
 僕はここで焼けて朽ちる。
 誰にも顧みられることなく、蔵の中に仕舞われたまま。
 たった独りで。
 僕は、燃えていく。
 燃えて……、

「……だ、光忠、おい、」
 肩を揺すられてはっと光忠は目を醒ました。視界いっぱいに広がる褐色の端正な顔。
「あ……伽羅ちゃん……」
「大丈夫か。随分うなされていたぞ」
 余程厭な夢を見ていたのか光忠の顔色は蒼褪めて色をなくしていた。汗をかいたのか秀でた額に前髪がはりついている。
光忠はベッドの上に身を起こすと顔を片手で覆って深く息を吐いた。まだ夢の中で感じていた恐怖を引き摺っているのか、動悸が治まらない。光忠が俯いたまま黙っているので「おい、本当に大丈夫か?」心配になって大倶利伽羅が顔を覗き込むと「……蔵の中に閉じ込められて火事に遭う夢を見た」色の抜けた唇が呟いた。彼の言葉に大倶利伽羅は我が耳を疑って項垂れている彼を凝視した。何だって? それは――その夢は。
「あんたもしかして記憶が――」
 戻ったのか――とは言えなかった。光忠が怪訝そうな顔をしたので。
「記憶? 何のことだい?」
「……いや、何でもない。少し待ってろ」
 大倶利伽羅は短く言うと寝室を出、水が入ったコップを手にして戻ってくる。そら、と差し出されたコップを光忠は驚いたように束の間眺めてから、ありがとうと受け取って一口飲んだ。冷たい水が躰の中へ流れ落ちる感覚に眼裏まなうらで翻る悪夢の残影が洗い流されていく。すっかり水を飲み干すと人心地ついた。おかわりは要るかと訊ねられて光忠はゆるくかぶりを振った。
「もう大丈夫。煩くしちゃってごめんね」
「別に謝る必要はない。俺ははなから眠ってなどいなかったからな」
「え、嘘。もしかして昨日の夜もずっと起きてたのかい?」
 光忠はベッドの隣――床に敷かれた布団を見る。確かに今も使ったような形跡はない。床を延べた時のまっさらな状態だ。
「俺は人間と違って食事も睡眠も必要ないんでね」
「そうか。でも何時間もずっと独りで起きてるのは退屈だろう? 昨晩はリビングでテレビでも見てたの?」
「いや、あんたの寝顔を眺めてた」
「えぇ、本当に? もしかして一晩中?」
 しれっと答える付喪神に光忠はぎょっとした。
「ああ。一晩中だ。あんたの寝顔は可愛いな」
「わあ辞めてよ。可愛いだなんて、アラサーの成人男性に向ける言葉じゃないよ」
「そうか? 別に年齢や性別は関係ないと思うがな」
 居心地が悪そうに肩を竦める光忠を大倶利伽羅は懐かしい気持ちで眺めた。――昔も彼に可愛いと言ったら困ったような顔をされた。僕は可愛いより格好良いって言われたいかな。それに可愛いのは伽羅ちゃんの方だよ。そんなふうに光忠は柔らかく笑って。
「まあそれはともかく。夜明けはまだ遠い。寝ろ」
 怖い夢を見ないように見張っててやると大倶利伽羅はベッドに横になる光忠の手を握る。
「伽羅ちゃんの気持ちはとってもありがたいけれど、僕子供じゃないんだけど……」
 気恥しさに布団を引き上げて顔を隠す。
「南北朝時代生まれの俺からみたらあんたは赤子も同然だがな」
「生まれた時代を持ち出されたら返す言葉もないよ」
 光忠は小さく笑ってショートグローブに包まれた手をそっと握り返す。必要ないと振りほどくこともできたがそうしなかった。彼の優しさが嬉しかったので。大倶利伽羅とは知り合ってまだ二日しか経っていないが、それでも彼がとても優しく、真っ直ぐな性格なのは良く判った。刀剣男士として過ごしていた時代もその性格から仲間に頼られ、信頼されていたに違いない。刀で戦う伽羅ちゃんはきっと凄く格好良かっただろうな――光忠は目の前で抜刀して見せてくれた大倶利伽羅の姿を思い出して密かに頬を緩めた。
「伽羅ちゃん、おやすみ」
「ああ、おやすみ。光忠」
 目を閉じた光忠から程なくして穏やかな寝息が聞こえてくる。深く寝入っているのを確かめてから繋いだ手を離そうとして引っ張られた。恐らく無意識なのだろうがいとけないような仕草にふと大倶利伽羅は眦を和らげた。
「光忠、」
 あの頃のように愛おしさをのせて小声で名前を呼んでみる。それから光忠が見た夢の意味を考えた。
 蔵の中に閉じ込められて火事に遭う夢――光忠は多くは語らなかったが、彼が魘されていたのは十中八九、焼失時の記憶の夢だ。刀剣男士として再会した光忠から詳しくは聞いていないが、調べたらすぐ判ることだ。
 ――燭台切光忠は関東大震災の際に起きた火災により焼失。
 歴史に名を残す人物達が欲しがった名刀の悲しい末路。
 戦火で焼け喪われた刀はそれこそごまんとあり、珍しくもないが、しかし光忠はどうだろう。世が平和になり、武器としての刀はその存在意義を失い、やがて美術品、骨董品として暗い場所に、日の当たらない場所へ深く仕舞い込まれる――その末の焼失。さぞかし無念であったろう。多くの刀達と共に灼熱に呑まれながらも、酷く孤独だったに違いない。
 光忠が消失時の夢を見たのは、単なる偶然なのだろうか。それとも彼の閾下いきかで密かに燭台切光忠だった頃の記憶を取り戻しつつあるのか。もし、そうであるならば。
「俺を思い出してくれ」
 もう一度、愛してると言って欲しい。
 もう一度、愛してると伝えたい。
 もう一度、その唇に――大倶利伽羅は吸い寄せられるように無防備な寝顔を晒している光忠に顔を近づけた。息が触れ合う。
「……何を莫迦なことを……」
 大倶利伽羅はふいと顔を背けて深く息を吐いた。そうして健やかな寝息を聞きながらまんじりともせず夜が明けるのを待つのだった。
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