君と出逢うその日まで
(弐)
伽羅ちゃん大丈夫――光忠は小声で訊ねるがどう見ても大丈夫そうには見えなかった。それでも彼は光忠に気を遣ってか「問題ない」と感情が抜け落ちた顔色で応じる。あともう少しの辛抱だからと伝えると大倶利伽羅は頷いて苦しそうに息を吐いた。車両が揺れて足元がふらつき、図らずも光忠に凭れかかるような体勢になってしまう。すし詰めの車内では思うように身動きが取れない。悪い――目で謝罪すると光忠は気にしないでと僅かに頭 を振った。
朝の通勤ラッシュである。
乗車率百パーセントを超えているであろう車内は人いきれでやや蒸し暑い。仕事や学校に向かう多くの人々は皆一様に表情を硬くさせてこの稠密 空間に耐えていた。光忠も毎朝この人群れに揉まれて多少は慣れているとはいえ、やはりストレスを感じる。ラッシュ時間に初めて乗車する大倶利伽羅なら尚更だろう。躰が密着しているので表情は窺えないが、先程の様子だとかなり参っているに違いない。――やっぱりお家で留守番をお願いした方が良かったかな。光忠は今朝家を出る際のやり取りを思い返す。
「僕はこれから仕事に行くけど、伽羅ちゃんはどうする? ついてきても構わないけれど、特にすることがなくて退屈だと思う。僕も構ってあげられないし」
「あの早い乗り物に乗るのか」
「え? ああ、電車ね。乗るよ。三十分くらい。電車に乗りたいの?」
「興味はある。それにここに閉じ籠っているより、あんたについていって外に出た方が刀を捜すためにも都合が良い」
「それもそうだね。もしかしたらどこにあるのかヒントが見付かるかもしれないし」
それじゃ行こうか――意気揚々と自宅を出て冒頭に戻る。この分だと帰りの電車もラッシュ時間は避けた方が良いだろう。職場に居残って事務作業でもして時間を調整しよう――そんなことを考えているとショートグローブに包まれた手が縋るように光忠のコートを握り込んだ。――え、伽羅ちゃん本当に大丈夫? これはなかなかの重症ではないだろうか。どうしてあげることもできない歯がゆさを感じながら、光忠は一刻も早く目的の駅に着くことを願った。
程なくして次に停車する駅名がアナウンスされる。降車する駅である。減速したところで降りるよと大倶利伽羅の手を掴んで人の流れに従って窮屈な車内から出た。開放感に光忠は脱力して息を吐く。朝の冷たい空気が清々しい。改札へと向かう群衆から離れて光忠は大倶利伽羅の様子を窺う。
「何だか顔色が良くないように見えるけど……大丈夫?」
「……なんとか。この電車とらやは毎朝こうなのか。狂気の沙汰だな」
「確かに異様ではあるよね。帰りもこんな感じだし」
光忠の言葉に大倶利伽羅は露骨に顔を顰めてみせる。あ、これ駄目な奴だ。光忠は「帰りは少し時間をずらそう。その分帰宅時間が遅くなっちゃうけど」安心させるように穏やかに告げると目に見えて付喪神はほっとしたように険しい表情を緩めた。
プラットフォームから人が少なくなるのを待って階段を下り、改札を抜けて駅を出る。いつもの道を歩いていると見慣れた学生服がぽつぽつと姿を現して、光忠に気が付いた生徒達は「長船先生、おはようございます」軽く会釈をする。光忠も教師らしく朝の挨拶を返して白い息を吐きながら足早に道を歩む。
「学校とやらは随分早く始まるんだな」
物珍しそうにあちらこちらに視線を配らせていた大倶利伽羅は不思議そうに言う。
「あの子達は部活動があるから早いだけだよ。授業が始まる前にそれぞれ練習をするんだ。大会や試合で良い結果を出すためにね」
「成程」
「ところで伽羅ちゃん、捜してる刀についてはどうだい? 何か手がかりはありそう?」
「今のところは別に何も。あんたはどうだ」
「僕もこれと言っては何も感じないよ。帰りは別の道を行ってみようか。電車も途中で降りても良いし」
「そうだな」
「あ、ちょっとコンビニに寄るよ」
青い看板が目印のコンビニエンスストアの自動ドアを潜る。学校近くに店舗を構えるだけあって店内の客の殆どが光忠が勤める学校の生徒達で、彼彼女達はきゃらきゃらと賑やかにお喋りをしながら商品を吟味していた。ここでも光忠に気が付いた生徒は「せんせー、おはよー」「おはようございます」「みっちゃんせんせー、おはよー」と親しい態度で挨拶をする。
「皆おはよう」
「先生、今日って小テストある?」
「それは授業でのお楽しみかな」
「絶対テストやるでしょ、それ!」
えぇ〜やだ〜と不満気などよめきが沸き起こる。
「皆、お店では静かにね」
光忠は注意すると女子生徒の一団から離れ、温かいお茶のペットボトルを手に取ると会計を済ませて店を後にする。
「あんた、みっちゃんって呼ばれてるんだな」
大倶利伽羅がぼそりと呟くと「聞こえてた?」光忠はばつが悪そうに指先で頬を掻く。――聞こえるも何も近くにいるのだから当然だろう。隣を歩く長身を胡乱な眼差しで見遣る。
「ちゃんと長船先生って呼びなさいって指導はしてるんだけど、なかなか聞き入れてくれなくて。あの年頃は大人に対して反発したくなる頃でもあるから、注意ひとつするにも色々気を配らないと難しいよね」
「反発というよりは好かれてるように見えるが」
「確かに嫌われてはいないと思うけど、流石に十歳近くも歳が離れてる相手からのみっちゃん呼びはどうかと思うよ。教師と生徒という間柄だし」
僕教師としての威厳が足りないのかな――眉根を寄せてぼやくと「みっちゃん」隣で大倶利伽羅が呟く。
「もう、伽羅ちゃんまで」
光忠は不服そうに口角を下げる。
「俺はあんたがみっちゃんと呼ばれてるのは、そう悪くないと思うがな」
かつて彼は親しげにそう呼ばれていた。みっちゃん、光坊、光忠、燭台切さん。彼を慕う刀は多かった。寧ろ光忠を嫌悪している刀は皆無だったように記憶している。現世において、燭台切光忠としての記憶がなくともやはり彼はあの光忠なのだ。長く傍にいたから判る。裡なる魂がそう言っている。長船光忠は燭台切光忠の生まれ変わりだと。
程なくして学校の前に着くと「君のことだから心配は要らないと思うけど、学校の中では大人しくしててね」光忠は大倶利伽羅に言い聞かせて、校門を潜った。
光忠の後を歩きながら大倶利伽羅は学校というものを物珍しく思いながら眺めた。次第にここは大規模な寺子屋で十代の男女が各地から通ってきているのだと知った。子供達に教えるものも読み書き算盤に留まらず、外国語や歴史、政治、科学や調理裁縫、絵を描いたり歌ったり、外で躰を動かすことなど教科は多岐に渡るらしい。教師の年齢も様々で、その中で光忠はごく若い部類に入るらしく、比較的生徒と歳が近いせいなのか、大多数の生徒は光忠に対して好意的だった。が、教えられる数学は別のようで「小テストを始めるよ」と光忠が言おうものならどこの教室でも不満そうな声が上がった。
「授業ちゃんと聞いてたら解けるはずだよ。中間テストにも似たような問題を出すからね」
皆頑張ってと光忠が言いながらプリントを配るのを、大倶利伽羅は教室の後ろの方に立って眺めていた。数学についての知識はほぼ皆無であったが、軽く雑談を挟みながらの光忠の授業は興を惹いた。小テストに不満を洩らしていた生徒達も光忠が説明することに真剣に耳を傾けている様子だった。
朝の九時頃から始まった光忠の授業は五十分で一回を三度繰り返して――授業がない時間帯は職員室で小テストの採点をしていた――午前中は終わった。
光忠が教材を抱えて職員室に戻り、自席につくと長船先生と呼びかけられた。振り返ると国語教師の秋里が立っていた。教師の中では一番光忠に年齢が近い女性教諭で、四つ年上の先輩教師でもあった。そのせいなのか彼女は何かと光忠に話しかけ、些細な頼みごとをしてくることが多かった。
「秋里先生。なんでしょう?」
「明日の夜なんですけど、空いてますか? 田中先生と伊勢崎先生と私で飲みに行こうって話してるんですけど、長船先生も宜しければどうかなと思いまして」
田中は体育教師、伊勢崎は社会科の教師である。担当している学年も教科も違うせいか、光忠は二人とは関わりが薄かった。秋里は二人の教師とは仲が良いらしく、昼休み中も三人で雑談しているのを良く目にした。
「せっかくのお誘いですが、明日は用事がありまして」
「そうなんですか。では、来週辺りはいかがですか?」
「すみません。来週もちょっと……暫くは予定があって身動き取れそうにないんです」
「あらそう。ではまた予定が空いたら教えてください。田中先生も伊勢崎先生も長船先生と飲みに行きたがっていますから」
「ええ、判りました」
光忠は事務的に応じて職員室の奥にある応接スペースで寛いでいる田中と伊勢崎に軽く会釈をする。と、向こうは何やら意味ありげに笑って軽く手を振った。何となく居心地の悪さを感じて、光忠は机の上に置いた教材を抱え直すと片手に弁当箱を提げ「ちょっと僕数学準備室に行ってきます」誰に言うのでもなく告げて職員室を後にした。
グリーンのリノリウムの廊下を歩いて職員室がある本館から別館へと繋がる廊下を進み、階段を上る。昼休みの喧騒が届かない別館は静かで漂う空気も冷たい。数学準備室と表札がある部屋の扉を開けて無人の室内に足を踏み入れると、光忠は大きく溜息を吐いて、手にした教材一式と弁当箱を机に置いた。
「あれは断って良かったのか」
成り行きを黙って見ていた大倶利伽羅が口を開く。
「刀捜しのことなら一日くらい、」
「うん。断っても別に問題ないよ。そもそも初めから行く気はなかったしね」
「だがあの女は――」
「ああ、伽羅ちゃんも気が付いた? 結構露骨だよね」
光忠は困ったように肩を竦めてみせる。
秋里からは職場の先輩以上の好意を以前から感じていた。取るに足らない用事を光忠に頼むのもその表れだ。どうにかして職場の先輩後輩以上の関係になろうとしているのが判った。光忠としては全く興味がないのだが、職場の、それも先輩となると無下にもできない。対応を間違うと後々面倒なことになるのは容易に想像できたので、光忠も当たり障りのない態度で接していた。
「嫌われるより好かれた方が良いけれど、でもちょっと怖いよね」
光忠は部屋の隅に設えられている小さな流しで手を洗うと棚からマグカップとインスタントコーヒーを取り出す。コーヒーの粉末を匙でカップに投げ入れ、電気ポットから湯を注ぐ。湯気と共に香ばしい匂いが漂う。コーヒーを淹れると陽の当たる場所に椅子ごと移動して弁当を広げた。暖房設備がないため、暖を取るには窓から差し込む陽射しで温まるしかなかった。幸い天気が良いので背中に当たる真冬の陽射しは充分温 い。独りになりたい時は大抵、今のように準備室を使う。たまに別の数学教師が顔を出すが、何かしらを察して光忠に自由にさせていた。
「怖い?」
「人の心が」
「それは――」
大倶利伽羅は眉根を寄せて光忠の白い貌 を見詰める。
長く伸ばした前髪の下、白い眼帯に覆われた右眼。
昨夜、風呂上がりの光忠を見て大倶利伽羅は酷く驚いたのだ。右眼を塞ぐように刻まれた傷跡は記憶の中にある燭台切光忠のそれと寸分違わず、妙に生々しく大倶利伽羅の双眸に映った。
彼の驚きように光忠もそこで初めて眼帯の装着を忘れていたことに気が付いたのだった。驚かせてごめんね――本来なら詫びるべきは大倶利伽羅の方であったのに、光忠は心底申し訳なさそうに眉尻を下げて謝罪した。右眼の傷について訊ねるのは不躾だと判っていたが、かといって無視するのも不自然だ。
「その傷はどうしたんだ」
答えたくなければ無視して良い――大倶利伽羅が問うと今更隠しても仕方がないからと光忠は素直に打ち明けた。この傷はね――皮膚が引き攣れたようなその場所に触れながら穏やかな口調で告げる。
「子供の頃事故に――正確に言うと事件かな――遭ってね。その時に怪我をして失明してしまったんだ。傷跡が目立つからそれを隠すためにいつも眼帯をしてるんだ。人から見てもあんまり気持ちの良いものじゃないし、びっくりしちゃうからね」
普段光忠が通勤や移動に車を使わないのも片目が不自由だからだと言う。
「幸いと言って良いのか、この怪我を負った時の記憶やそれまでの記憶が僕にはないんだ。医者の話では記憶喪失は一種の防衛反応らしい。子供の僕は余程怖い思いをしたんだね、きっと」
暫くの間、光忠は病院に入り、怪我の治療と心の療養を余儀なくされた。無事に退院してからは両親が光忠を気遣って忌まわしい記憶が残る土地を離れて県外へ転居した。子供だった光忠は一体自分の身に何が起きたのかきちんと知りたかったが、周りにいる大人達は決してそのことについて口にしなかったし、外部から齎される情報も光忠の耳に入らないように気を配り、遮断した。
記憶が戻らないまま長じた光忠はネットや図書館のデータベースを使って当時の記録が残ってないか調べた。するとそれらしい新聞記事が見付かった。小学三年生男児襲われる通り魔的犯行か――そんな見出しだった。
「朧気だけど大人達が何度もお見舞いだって病室に来てたから、あれは刑事さんだったのかもね」
程なくして犯人は逮捕され、求刑通りの刑が下ったと後日報道されていた。
一連の出来事を聞いて大倶利伽羅は腸が煮えくり返った。幼い子供を、光忠を傷付けたのが赦せなかった。怒気を露わにする大倶利伽羅を見て光忠は優しく笑った。――ありがとう。僕のために怒ってくれて。
光忠は自ら作った彩り豊かな弁当を食べながら言う。
「人の心は態度や言葉である程度予測はできるけれど、でも完全には判らない。何かの切っ掛けで好意が憎しみに変わることだって良くあるし、その理屈がまるで理解できないこともある。感情は道理も理屈も、理性すら簡単に捻じ伏せてしまう。人の心は数学みたいに理路整然として明瞭明確、一たす一は二、という絶対的な真理と解がない。それが僕には恐ろしく感じてしまう」
その言葉を聞いて大倶利伽羅は光忠が数学を好んでいる理由が判った気がした。彼にとって数学はこの不条理な世界で少しでも息がしやすくなるための方便なのだ。
「子供達のことは恐ろしくないのか」
「生徒の皆のことは怖いと思ったことはないかな。教師と生徒って言う明確な線引きがあるし、仕事だからね」
「じゃあ俺は」
「伽羅ちゃんのこと?」
光忠は隻眼を瞬かせて大倶利伽羅を見る。
「あんたから見たら俺はそこらにいる人間よりもっと訳の判らない存在だろう。やろうと思えば危害を加えることだって簡単だ」
大倶利伽羅は強い眼差しを光忠に向ける。と、受け止める隻眼の眦がふと緩んだ。
「伽羅ちゃんは僕を傷付けたりしないよ」
「なぜ言い切れる」
「刀捜しの協力を求めている時点でそれは成立しない。僕がいないと困るのは君の方だし、悪意がないのも判るよ。君が僕に危害を加えるとしたら、その時は僕が何か余程伽羅ちゃんに酷いことをした時じゃないかな」
違うかい? と逆に問われて大倶利伽羅は頷くしかなかった。
「先に言っておく。俺はあんたのことを傷付けない。何があっても。――光忠」
「なんだい?」
「少し顔に触れて良いか」
「え、うん」
大倶利伽羅は左手のショートグローブを外すと、やや戸惑った表情を浮かべている光忠の白い頬に触れた。それから前髪で隠れている眼帯の表面をそっと親指の腹でなぞる。
光忠は深く傷付いている。
心底では人を信じられないほどに。
彼はこんなふうに傷付いて良い人間ではない。
右眼の傷ごと癒してあげたいと思う。
しかし自分はその術を持たない。
どうすれば良い。
どうすれば。
不意に光忠が小さく笑った。
「伽羅ちゃんの手、思ったより温かいね」
実体を持たないはずの彼なのに温もりを感じるのが不思議だった。掌から伝わる体温は光忠の深部へと沁み入るようだった。その温かさはきっと大倶利伽羅の優しさだと思った。光忠は褐色の素手に触れながら「何だかずっと前からこの手を知っているような気がするよ」微笑むと付喪神は一瞬、搏たれように金色の瞳を見開き、そうかと曖昧に頷いて手を引いた。
四十分の昼休憩を挟んで午後の授業が始まる。午前中そうしてたように大倶利伽羅は教室の後ろの方で教壇に立つ光忠を眺めていた。時折、窓の外へ視線を向けて冬の陽射しに晒される景色を見遣った。本丸にいた頃のそれと比べると高層の建物が多く、空が随分と狭く感じられた。季節的にも色彩が乏しい眺望は乾いていて詫びしげだった。
刀剣男士として受肉し、暮らした日々は四季折々の鮮やかな彩りがあった。庭には冬でも心を慰める美しい花があり、畑には旬の野菜が実り、厩 には毛艶の良い馬がいた。度重なる出陣、遠征、本丸での穏やかかつ賑やかな生活。あの頃が懐かしかった。戻りたいかと言われれば即答はできないが、遡行軍との最終決戦をやり直すことができるなら躊躇わず頷くだろう。光忠を死なせないために。今なら判る。遡行軍の執拗な歴史改変の試みが。あるべき過去を捻じ曲げてでも、どんな犠牲を払ってでも得たいものがある――。歴史を守り抜いた者として、決して望んではいけないことだけれど。
唐突に記憶がフラッシュバックする。
――……伽羅ちゃん、ごめん……、僕はまた……君を置いていってしまう……、
ああ、本当に。
「何度俺を置き去りにすればあんたは気が済むんだ」
大倶利伽羅は静かに呟いて白いチョークで数式を書く光忠の背中を見詰めていた。
◆◆◆
光忠が退勤したのは午後七時を過ぎてからだった。帰宅ラッシュを避けるためである。朝ほどの過密さはないが、今朝の大倶利伽羅の様子を思えば回避するのが無難だった。すっかり暗くなった道を歩きながら「刀捜しはどこから始めようか」光忠は隣を歩く付喪神に問う。
「……こっちに何かある」
大倶利伽羅はふと足を止めたかと思うと左手の細い路地へ足を踏み入れる。待って伽羅ちゃん――光忠も慌てて後を追う。街灯の光が乏しい路地がどこへ続いてるのか光忠は知らなかった。大倶利伽羅は足早に道を歩む。何かがある。良く知った気配のようなものが自分を呼んでる――引き寄せられるようにして進むとT字路に出、正面には夜闇に厳しく聳える切妻破風門が現れた。門には注連縄 が飾られており、一目見て寺社仏閣だと知れた。
「神社かな? こんなところにあるなんて知らなかった」
光忠が呟くと大倶利伽羅は「行くぞ」短く告げて道路を横断し、注連縄の下を潜った。光忠も後に続く。
「捜してる刀がありそう?」
「いや、どうだろうな」
境内の入口に立って大倶利伽羅は周囲に視線を巡らす。境内はそれほど広くはない。本尊が祀られているらしい社も大仰なものではなく、こじんまりとしている。左手奥には墓石のようなものが幾つか並んでおり、境内を取り囲むように林立する樹木はどれも葉を落として夜空にか細い梢を伸ばしていた。暗いために良く見えないが、長く雨風に晒された社はあまり手入れがされていないのか、所々白茶けて傷んでるように見受けられた。当然ながら光忠と大倶利伽羅以外、誰もいなかった。
「何か水の匂いがするな」
「水?」
「あっちだ」
大倶利伽羅は境内の右奥を指さす。光忠が視軸を転じると小さな立て札があり「湧水池」と矢印と共に記されていた。こんなところに池があるのかと光忠が驚いていると大倶利伽羅は社へと歩み寄ってその前に立ち、閉じられた格子戸の奥へ視線を注ぐ。
「――ハズレだ」
「え?」
「刀じゃなかった」
俺の勘違いだった――大倶利伽羅は些かばつが悪そうに片頬を攣らせる。光忠も社の前に立って中を覗こうとしたが蟠る影に呑まれて判然としない。一体何が祀られているのか――光忠が訝しく思っていると大倶利伽羅は確かめるように周囲を見回しながら口を開く。
「良く知った気配を感じたから辿ってみたが、刀じゃない。これは――俺だ」
「伽羅ちゃん? どういうこと?」
「正確には俺と似たものだ。この中にあるのは、倶利伽羅龍の石像だ」
「倶利伽羅龍って――あ」
大倶利伽羅広光という刀にはその名が示すように刀身に倶利伽羅龍が彫り込まれている。その黒龍はあらゆる罪障を焼き尽くす不動明王の化身であり、不動明王が持つ破邪の剣に巻きついている姿で表されるという。
光忠が後に調べたところ、ここは倶利伽羅不動尊といって、大倶利伽羅が言ったように本尊は倶利伽羅龍だった。境内の奥、裏手にある湧水池は現在では小さな池となっているが、この不動尊が建立された頃は小滝となって流れ、僧侶達の修行場にもなっていたらしい。龍は水の神でもあることから、こんこんと湧き出る清水を霊験あらたかに思ってこの不動尊が建立されたとも説明されていた。
「無駄足を踏ませて悪かった」
「ううん、気にしないで。まだ刀捜しは始まったばかりだしね。伽羅ちゃんは第六感というか、目に見えないものを感じ取れるんだね」
「まあこれでも付喪神だからな。とはいえ、全てを感じ取れるわけではないが」
「そうなんだ。――せっかくだからお参りして行こうか」
賽銭箱も鳴らすべき本坪鈴 もないが、光忠は敬虔な気持ちで本尊に向かって手を合わせた。大倶利伽羅は自分の似姿を拝むのは妙な気がしたので、ただぼんやりと光忠の白い横顔を眺めていた。
光忠が参拝を終えるのを待ってから「随分と熱心に手を合わせていたな」一体何をそんなに願っていたのか大倶利伽羅が訊ねると「無事に刀が見付かるようにお願いしてたんだよ」そんな答えが帰ってくる。
「そういえばまだ聞いてなかったけど、伽羅ちゃんが捜してる刀ってどんな刀だい?」
昨日、大倶利伽羅はとても大切な刀だと言っていた。真逆不動明王が持つ破邪の剣ではあるまい。刀を捜す上でも情報は少しでも多い方が良い。すると彼は少し何かを考えるような顔をしてから「それについては家に戻ってから話す」と言った。
「オーケー、それじゃあ今日は帰ろうか」
肩を並べて不動尊の境内を後にする。元来た道を辿りながら、
「伽羅ちゃん。夕ご飯は何が良い?」
唐突に訊ねられて一瞬、大倶利伽羅はなぜそんなことを訊くのかと怪訝に思ったが、直ぐに昨晩のやり取りを思い出した。
「……醤油ラーメン」
意外な単語に光忠は隻眼を丸くして付喪神を見た。
「なんだ、駄目か」
「そうじゃなくて伽羅ちゃんの口からそんなメニューが出てくるとは思わなかったから」
「あんた俺のこと何だと思っているんだ」
心外だと口をへの字に曲げると「伽羅ちゃん南北朝時代生まれって言っただろう? だから違和感があるというか」光忠は考え込みながら言う。醤油ラーメンをリクエストするということは、それを一度でも口にしたことがあるということだ。知らないものはリクエストしようがない。人と同じような生活を送っていたことがあるとも言っていたが、考えてみればそれも良く判らない 。光忠がそんな疑問を口にすると「その話も後でする」とだけ返ってくる。
「判ったよ。醤油ラーメン、買い置きしてないからスーパーに行かなくちゃ」
光忠は腕時計を見る。間もなく八時になろうとしていた。途端に空腹感を憶えて腹の虫が鳴った。その音が聞こえたのか、大倶利伽羅はおかしそうに笑った。
伽羅ちゃん大丈夫――光忠は小声で訊ねるがどう見ても大丈夫そうには見えなかった。それでも彼は光忠に気を遣ってか「問題ない」と感情が抜け落ちた顔色で応じる。あともう少しの辛抱だからと伝えると大倶利伽羅は頷いて苦しそうに息を吐いた。車両が揺れて足元がふらつき、図らずも光忠に凭れかかるような体勢になってしまう。すし詰めの車内では思うように身動きが取れない。悪い――目で謝罪すると光忠は気にしないでと僅かに
朝の通勤ラッシュである。
乗車率百パーセントを超えているであろう車内は人いきれでやや蒸し暑い。仕事や学校に向かう多くの人々は皆一様に表情を硬くさせてこの
「僕はこれから仕事に行くけど、伽羅ちゃんはどうする? ついてきても構わないけれど、特にすることがなくて退屈だと思う。僕も構ってあげられないし」
「あの早い乗り物に乗るのか」
「え? ああ、電車ね。乗るよ。三十分くらい。電車に乗りたいの?」
「興味はある。それにここに閉じ籠っているより、あんたについていって外に出た方が刀を捜すためにも都合が良い」
「それもそうだね。もしかしたらどこにあるのかヒントが見付かるかもしれないし」
それじゃ行こうか――意気揚々と自宅を出て冒頭に戻る。この分だと帰りの電車もラッシュ時間は避けた方が良いだろう。職場に居残って事務作業でもして時間を調整しよう――そんなことを考えているとショートグローブに包まれた手が縋るように光忠のコートを握り込んだ。――え、伽羅ちゃん本当に大丈夫? これはなかなかの重症ではないだろうか。どうしてあげることもできない歯がゆさを感じながら、光忠は一刻も早く目的の駅に着くことを願った。
程なくして次に停車する駅名がアナウンスされる。降車する駅である。減速したところで降りるよと大倶利伽羅の手を掴んで人の流れに従って窮屈な車内から出た。開放感に光忠は脱力して息を吐く。朝の冷たい空気が清々しい。改札へと向かう群衆から離れて光忠は大倶利伽羅の様子を窺う。
「何だか顔色が良くないように見えるけど……大丈夫?」
「……なんとか。この電車とらやは毎朝こうなのか。狂気の沙汰だな」
「確かに異様ではあるよね。帰りもこんな感じだし」
光忠の言葉に大倶利伽羅は露骨に顔を顰めてみせる。あ、これ駄目な奴だ。光忠は「帰りは少し時間をずらそう。その分帰宅時間が遅くなっちゃうけど」安心させるように穏やかに告げると目に見えて付喪神はほっとしたように険しい表情を緩めた。
プラットフォームから人が少なくなるのを待って階段を下り、改札を抜けて駅を出る。いつもの道を歩いていると見慣れた学生服がぽつぽつと姿を現して、光忠に気が付いた生徒達は「長船先生、おはようございます」軽く会釈をする。光忠も教師らしく朝の挨拶を返して白い息を吐きながら足早に道を歩む。
「学校とやらは随分早く始まるんだな」
物珍しそうにあちらこちらに視線を配らせていた大倶利伽羅は不思議そうに言う。
「あの子達は部活動があるから早いだけだよ。授業が始まる前にそれぞれ練習をするんだ。大会や試合で良い結果を出すためにね」
「成程」
「ところで伽羅ちゃん、捜してる刀についてはどうだい? 何か手がかりはありそう?」
「今のところは別に何も。あんたはどうだ」
「僕もこれと言っては何も感じないよ。帰りは別の道を行ってみようか。電車も途中で降りても良いし」
「そうだな」
「あ、ちょっとコンビニに寄るよ」
青い看板が目印のコンビニエンスストアの自動ドアを潜る。学校近くに店舗を構えるだけあって店内の客の殆どが光忠が勤める学校の生徒達で、彼彼女達はきゃらきゃらと賑やかにお喋りをしながら商品を吟味していた。ここでも光忠に気が付いた生徒は「せんせー、おはよー」「おはようございます」「みっちゃんせんせー、おはよー」と親しい態度で挨拶をする。
「皆おはよう」
「先生、今日って小テストある?」
「それは授業でのお楽しみかな」
「絶対テストやるでしょ、それ!」
えぇ〜やだ〜と不満気などよめきが沸き起こる。
「皆、お店では静かにね」
光忠は注意すると女子生徒の一団から離れ、温かいお茶のペットボトルを手に取ると会計を済ませて店を後にする。
「あんた、みっちゃんって呼ばれてるんだな」
大倶利伽羅がぼそりと呟くと「聞こえてた?」光忠はばつが悪そうに指先で頬を掻く。――聞こえるも何も近くにいるのだから当然だろう。隣を歩く長身を胡乱な眼差しで見遣る。
「ちゃんと長船先生って呼びなさいって指導はしてるんだけど、なかなか聞き入れてくれなくて。あの年頃は大人に対して反発したくなる頃でもあるから、注意ひとつするにも色々気を配らないと難しいよね」
「反発というよりは好かれてるように見えるが」
「確かに嫌われてはいないと思うけど、流石に十歳近くも歳が離れてる相手からのみっちゃん呼びはどうかと思うよ。教師と生徒という間柄だし」
僕教師としての威厳が足りないのかな――眉根を寄せてぼやくと「みっちゃん」隣で大倶利伽羅が呟く。
「もう、伽羅ちゃんまで」
光忠は不服そうに口角を下げる。
「俺はあんたがみっちゃんと呼ばれてるのは、そう悪くないと思うがな」
かつて彼は親しげにそう呼ばれていた。みっちゃん、光坊、光忠、燭台切さん。彼を慕う刀は多かった。寧ろ光忠を嫌悪している刀は皆無だったように記憶している。現世において、燭台切光忠としての記憶がなくともやはり彼はあの光忠なのだ。長く傍にいたから判る。裡なる魂がそう言っている。長船光忠は燭台切光忠の生まれ変わりだと。
程なくして学校の前に着くと「君のことだから心配は要らないと思うけど、学校の中では大人しくしててね」光忠は大倶利伽羅に言い聞かせて、校門を潜った。
光忠の後を歩きながら大倶利伽羅は学校というものを物珍しく思いながら眺めた。次第にここは大規模な寺子屋で十代の男女が各地から通ってきているのだと知った。子供達に教えるものも読み書き算盤に留まらず、外国語や歴史、政治、科学や調理裁縫、絵を描いたり歌ったり、外で躰を動かすことなど教科は多岐に渡るらしい。教師の年齢も様々で、その中で光忠はごく若い部類に入るらしく、比較的生徒と歳が近いせいなのか、大多数の生徒は光忠に対して好意的だった。が、教えられる数学は別のようで「小テストを始めるよ」と光忠が言おうものならどこの教室でも不満そうな声が上がった。
「授業ちゃんと聞いてたら解けるはずだよ。中間テストにも似たような問題を出すからね」
皆頑張ってと光忠が言いながらプリントを配るのを、大倶利伽羅は教室の後ろの方に立って眺めていた。数学についての知識はほぼ皆無であったが、軽く雑談を挟みながらの光忠の授業は興を惹いた。小テストに不満を洩らしていた生徒達も光忠が説明することに真剣に耳を傾けている様子だった。
朝の九時頃から始まった光忠の授業は五十分で一回を三度繰り返して――授業がない時間帯は職員室で小テストの採点をしていた――午前中は終わった。
光忠が教材を抱えて職員室に戻り、自席につくと長船先生と呼びかけられた。振り返ると国語教師の秋里が立っていた。教師の中では一番光忠に年齢が近い女性教諭で、四つ年上の先輩教師でもあった。そのせいなのか彼女は何かと光忠に話しかけ、些細な頼みごとをしてくることが多かった。
「秋里先生。なんでしょう?」
「明日の夜なんですけど、空いてますか? 田中先生と伊勢崎先生と私で飲みに行こうって話してるんですけど、長船先生も宜しければどうかなと思いまして」
田中は体育教師、伊勢崎は社会科の教師である。担当している学年も教科も違うせいか、光忠は二人とは関わりが薄かった。秋里は二人の教師とは仲が良いらしく、昼休み中も三人で雑談しているのを良く目にした。
「せっかくのお誘いですが、明日は用事がありまして」
「そうなんですか。では、来週辺りはいかがですか?」
「すみません。来週もちょっと……暫くは予定があって身動き取れそうにないんです」
「あらそう。ではまた予定が空いたら教えてください。田中先生も伊勢崎先生も長船先生と飲みに行きたがっていますから」
「ええ、判りました」
光忠は事務的に応じて職員室の奥にある応接スペースで寛いでいる田中と伊勢崎に軽く会釈をする。と、向こうは何やら意味ありげに笑って軽く手を振った。何となく居心地の悪さを感じて、光忠は机の上に置いた教材を抱え直すと片手に弁当箱を提げ「ちょっと僕数学準備室に行ってきます」誰に言うのでもなく告げて職員室を後にした。
グリーンのリノリウムの廊下を歩いて職員室がある本館から別館へと繋がる廊下を進み、階段を上る。昼休みの喧騒が届かない別館は静かで漂う空気も冷たい。数学準備室と表札がある部屋の扉を開けて無人の室内に足を踏み入れると、光忠は大きく溜息を吐いて、手にした教材一式と弁当箱を机に置いた。
「あれは断って良かったのか」
成り行きを黙って見ていた大倶利伽羅が口を開く。
「刀捜しのことなら一日くらい、」
「うん。断っても別に問題ないよ。そもそも初めから行く気はなかったしね」
「だがあの女は――」
「ああ、伽羅ちゃんも気が付いた? 結構露骨だよね」
光忠は困ったように肩を竦めてみせる。
秋里からは職場の先輩以上の好意を以前から感じていた。取るに足らない用事を光忠に頼むのもその表れだ。どうにかして職場の先輩後輩以上の関係になろうとしているのが判った。光忠としては全く興味がないのだが、職場の、それも先輩となると無下にもできない。対応を間違うと後々面倒なことになるのは容易に想像できたので、光忠も当たり障りのない態度で接していた。
「嫌われるより好かれた方が良いけれど、でもちょっと怖いよね」
光忠は部屋の隅に設えられている小さな流しで手を洗うと棚からマグカップとインスタントコーヒーを取り出す。コーヒーの粉末を匙でカップに投げ入れ、電気ポットから湯を注ぐ。湯気と共に香ばしい匂いが漂う。コーヒーを淹れると陽の当たる場所に椅子ごと移動して弁当を広げた。暖房設備がないため、暖を取るには窓から差し込む陽射しで温まるしかなかった。幸い天気が良いので背中に当たる真冬の陽射しは充分
「怖い?」
「人の心が」
「それは――」
大倶利伽羅は眉根を寄せて光忠の白い
長く伸ばした前髪の下、白い眼帯に覆われた右眼。
昨夜、風呂上がりの光忠を見て大倶利伽羅は酷く驚いたのだ。右眼を塞ぐように刻まれた傷跡は記憶の中にある燭台切光忠のそれと寸分違わず、妙に生々しく大倶利伽羅の双眸に映った。
彼の驚きように光忠もそこで初めて眼帯の装着を忘れていたことに気が付いたのだった。驚かせてごめんね――本来なら詫びるべきは大倶利伽羅の方であったのに、光忠は心底申し訳なさそうに眉尻を下げて謝罪した。右眼の傷について訊ねるのは不躾だと判っていたが、かといって無視するのも不自然だ。
「その傷はどうしたんだ」
答えたくなければ無視して良い――大倶利伽羅が問うと今更隠しても仕方がないからと光忠は素直に打ち明けた。この傷はね――皮膚が引き攣れたようなその場所に触れながら穏やかな口調で告げる。
「子供の頃事故に――正確に言うと事件かな――遭ってね。その時に怪我をして失明してしまったんだ。傷跡が目立つからそれを隠すためにいつも眼帯をしてるんだ。人から見てもあんまり気持ちの良いものじゃないし、びっくりしちゃうからね」
普段光忠が通勤や移動に車を使わないのも片目が不自由だからだと言う。
「幸いと言って良いのか、この怪我を負った時の記憶やそれまでの記憶が僕にはないんだ。医者の話では記憶喪失は一種の防衛反応らしい。子供の僕は余程怖い思いをしたんだね、きっと」
暫くの間、光忠は病院に入り、怪我の治療と心の療養を余儀なくされた。無事に退院してからは両親が光忠を気遣って忌まわしい記憶が残る土地を離れて県外へ転居した。子供だった光忠は一体自分の身に何が起きたのかきちんと知りたかったが、周りにいる大人達は決してそのことについて口にしなかったし、外部から齎される情報も光忠の耳に入らないように気を配り、遮断した。
記憶が戻らないまま長じた光忠はネットや図書館のデータベースを使って当時の記録が残ってないか調べた。するとそれらしい新聞記事が見付かった。小学三年生男児襲われる通り魔的犯行か――そんな見出しだった。
「朧気だけど大人達が何度もお見舞いだって病室に来てたから、あれは刑事さんだったのかもね」
程なくして犯人は逮捕され、求刑通りの刑が下ったと後日報道されていた。
一連の出来事を聞いて大倶利伽羅は腸が煮えくり返った。幼い子供を、光忠を傷付けたのが赦せなかった。怒気を露わにする大倶利伽羅を見て光忠は優しく笑った。――ありがとう。僕のために怒ってくれて。
光忠は自ら作った彩り豊かな弁当を食べながら言う。
「人の心は態度や言葉である程度予測はできるけれど、でも完全には判らない。何かの切っ掛けで好意が憎しみに変わることだって良くあるし、その理屈がまるで理解できないこともある。感情は道理も理屈も、理性すら簡単に捻じ伏せてしまう。人の心は数学みたいに理路整然として明瞭明確、一たす一は二、という絶対的な真理と解がない。それが僕には恐ろしく感じてしまう」
その言葉を聞いて大倶利伽羅は光忠が数学を好んでいる理由が判った気がした。彼にとって数学はこの不条理な世界で少しでも息がしやすくなるための方便なのだ。
「子供達のことは恐ろしくないのか」
「生徒の皆のことは怖いと思ったことはないかな。教師と生徒って言う明確な線引きがあるし、仕事だからね」
「じゃあ俺は」
「伽羅ちゃんのこと?」
光忠は隻眼を瞬かせて大倶利伽羅を見る。
「あんたから見たら俺はそこらにいる人間よりもっと訳の判らない存在だろう。やろうと思えば危害を加えることだって簡単だ」
大倶利伽羅は強い眼差しを光忠に向ける。と、受け止める隻眼の眦がふと緩んだ。
「伽羅ちゃんは僕を傷付けたりしないよ」
「なぜ言い切れる」
「刀捜しの協力を求めている時点でそれは成立しない。僕がいないと困るのは君の方だし、悪意がないのも判るよ。君が僕に危害を加えるとしたら、その時は僕が何か余程伽羅ちゃんに酷いことをした時じゃないかな」
違うかい? と逆に問われて大倶利伽羅は頷くしかなかった。
「先に言っておく。俺はあんたのことを傷付けない。何があっても。――光忠」
「なんだい?」
「少し顔に触れて良いか」
「え、うん」
大倶利伽羅は左手のショートグローブを外すと、やや戸惑った表情を浮かべている光忠の白い頬に触れた。それから前髪で隠れている眼帯の表面をそっと親指の腹でなぞる。
光忠は深く傷付いている。
心底では人を信じられないほどに。
彼はこんなふうに傷付いて良い人間ではない。
右眼の傷ごと癒してあげたいと思う。
しかし自分はその術を持たない。
どうすれば良い。
どうすれば。
不意に光忠が小さく笑った。
「伽羅ちゃんの手、思ったより温かいね」
実体を持たないはずの彼なのに温もりを感じるのが不思議だった。掌から伝わる体温は光忠の深部へと沁み入るようだった。その温かさはきっと大倶利伽羅の優しさだと思った。光忠は褐色の素手に触れながら「何だかずっと前からこの手を知っているような気がするよ」微笑むと付喪神は一瞬、搏たれように金色の瞳を見開き、そうかと曖昧に頷いて手を引いた。
四十分の昼休憩を挟んで午後の授業が始まる。午前中そうしてたように大倶利伽羅は教室の後ろの方で教壇に立つ光忠を眺めていた。時折、窓の外へ視線を向けて冬の陽射しに晒される景色を見遣った。本丸にいた頃のそれと比べると高層の建物が多く、空が随分と狭く感じられた。季節的にも色彩が乏しい眺望は乾いていて詫びしげだった。
刀剣男士として受肉し、暮らした日々は四季折々の鮮やかな彩りがあった。庭には冬でも心を慰める美しい花があり、畑には旬の野菜が実り、
唐突に記憶がフラッシュバックする。
――……伽羅ちゃん、ごめん……、僕はまた……君を置いていってしまう……、
ああ、本当に。
「何度俺を置き去りにすればあんたは気が済むんだ」
大倶利伽羅は静かに呟いて白いチョークで数式を書く光忠の背中を見詰めていた。
◆◆◆
光忠が退勤したのは午後七時を過ぎてからだった。帰宅ラッシュを避けるためである。朝ほどの過密さはないが、今朝の大倶利伽羅の様子を思えば回避するのが無難だった。すっかり暗くなった道を歩きながら「刀捜しはどこから始めようか」光忠は隣を歩く付喪神に問う。
「……こっちに何かある」
大倶利伽羅はふと足を止めたかと思うと左手の細い路地へ足を踏み入れる。待って伽羅ちゃん――光忠も慌てて後を追う。街灯の光が乏しい路地がどこへ続いてるのか光忠は知らなかった。大倶利伽羅は足早に道を歩む。何かがある。良く知った気配のようなものが自分を呼んでる――引き寄せられるようにして進むとT字路に出、正面には夜闇に厳しく聳える切妻破風門が現れた。門には
「神社かな? こんなところにあるなんて知らなかった」
光忠が呟くと大倶利伽羅は「行くぞ」短く告げて道路を横断し、注連縄の下を潜った。光忠も後に続く。
「捜してる刀がありそう?」
「いや、どうだろうな」
境内の入口に立って大倶利伽羅は周囲に視線を巡らす。境内はそれほど広くはない。本尊が祀られているらしい社も大仰なものではなく、こじんまりとしている。左手奥には墓石のようなものが幾つか並んでおり、境内を取り囲むように林立する樹木はどれも葉を落として夜空にか細い梢を伸ばしていた。暗いために良く見えないが、長く雨風に晒された社はあまり手入れがされていないのか、所々白茶けて傷んでるように見受けられた。当然ながら光忠と大倶利伽羅以外、誰もいなかった。
「何か水の匂いがするな」
「水?」
「あっちだ」
大倶利伽羅は境内の右奥を指さす。光忠が視軸を転じると小さな立て札があり「湧水池」と矢印と共に記されていた。こんなところに池があるのかと光忠が驚いていると大倶利伽羅は社へと歩み寄ってその前に立ち、閉じられた格子戸の奥へ視線を注ぐ。
「――ハズレだ」
「え?」
「刀じゃなかった」
俺の勘違いだった――大倶利伽羅は些かばつが悪そうに片頬を攣らせる。光忠も社の前に立って中を覗こうとしたが蟠る影に呑まれて判然としない。一体何が祀られているのか――光忠が訝しく思っていると大倶利伽羅は確かめるように周囲を見回しながら口を開く。
「良く知った気配を感じたから辿ってみたが、刀じゃない。これは――俺だ」
「伽羅ちゃん? どういうこと?」
「正確には俺と似たものだ。この中にあるのは、倶利伽羅龍の石像だ」
「倶利伽羅龍って――あ」
大倶利伽羅広光という刀にはその名が示すように刀身に倶利伽羅龍が彫り込まれている。その黒龍はあらゆる罪障を焼き尽くす不動明王の化身であり、不動明王が持つ破邪の剣に巻きついている姿で表されるという。
光忠が後に調べたところ、ここは倶利伽羅不動尊といって、大倶利伽羅が言ったように本尊は倶利伽羅龍だった。境内の奥、裏手にある湧水池は現在では小さな池となっているが、この不動尊が建立された頃は小滝となって流れ、僧侶達の修行場にもなっていたらしい。龍は水の神でもあることから、こんこんと湧き出る清水を霊験あらたかに思ってこの不動尊が建立されたとも説明されていた。
「無駄足を踏ませて悪かった」
「ううん、気にしないで。まだ刀捜しは始まったばかりだしね。伽羅ちゃんは第六感というか、目に見えないものを感じ取れるんだね」
「まあこれでも付喪神だからな。とはいえ、全てを感じ取れるわけではないが」
「そうなんだ。――せっかくだからお参りして行こうか」
賽銭箱も鳴らすべき
光忠が参拝を終えるのを待ってから「随分と熱心に手を合わせていたな」一体何をそんなに願っていたのか大倶利伽羅が訊ねると「無事に刀が見付かるようにお願いしてたんだよ」そんな答えが帰ってくる。
「そういえばまだ聞いてなかったけど、伽羅ちゃんが捜してる刀ってどんな刀だい?」
昨日、大倶利伽羅はとても大切な刀だと言っていた。真逆不動明王が持つ破邪の剣ではあるまい。刀を捜す上でも情報は少しでも多い方が良い。すると彼は少し何かを考えるような顔をしてから「それについては家に戻ってから話す」と言った。
「オーケー、それじゃあ今日は帰ろうか」
肩を並べて不動尊の境内を後にする。元来た道を辿りながら、
「伽羅ちゃん。夕ご飯は何が良い?」
唐突に訊ねられて一瞬、大倶利伽羅はなぜそんなことを訊くのかと怪訝に思ったが、直ぐに昨晩のやり取りを思い出した。
「……醤油ラーメン」
意外な単語に光忠は隻眼を丸くして付喪神を見た。
「なんだ、駄目か」
「そうじゃなくて伽羅ちゃんの口からそんなメニューが出てくるとは思わなかったから」
「あんた俺のこと何だと思っているんだ」
心外だと口をへの字に曲げると「伽羅ちゃん南北朝時代生まれって言っただろう? だから違和感があるというか」光忠は考え込みながら言う。醤油ラーメンをリクエストするということは、それを一度でも口にしたことがあるということだ。知らないものはリクエストしようがない。人と同じような生活を送っていたことがあるとも言っていたが、考えてみればそれも良く判らない 。光忠がそんな疑問を口にすると「その話も後でする」とだけ返ってくる。
「判ったよ。醤油ラーメン、買い置きしてないからスーパーに行かなくちゃ」
光忠は腕時計を見る。間もなく八時になろうとしていた。途端に空腹感を憶えて腹の虫が鳴った。その音が聞こえたのか、大倶利伽羅はおかしそうに笑った。
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