君と出逢うその日まで
(壱)
その日、長船光忠は仕事帰りに博物館に立ち寄った。目的は日本の名刀展と銘打たれた展覧会である。短刀、脇差、太刀、打刀など歴史にその名を残してきた数多の刀剣を集めた展覧会はメディアでも取り上げられるほど盛況であったが、平日の閉館間際とだけあって館内は人も疎らで静かであった。
光忠は迷いなく経路を進んで館内の奥へ移動する。
彼がここを訪れるのは二度目である。一度目は仕事――高校の課外授業の引率のために、今日はプライベートで。 これまで時折美術館に赴き、絵画を鑑賞して楽しむことはあったが、博物館となると然程興味は湧かず、プライベートで訪れることはほぼ皆無であった。だが先日仕事で生徒達と展示された刀を見ているうちにその美しさに心搏たれ、辿ってきた歴史を知って感銘を受けた。もっとゆっくり刀剣を見たかったが、あくまでも生徒を引率するために訪れていたのでそうも言ってられず、その時は諦めて展示物を鑑賞する生徒達を少し離れたところから見ていた。それが一週間前のこと。今日は職員会議もなく、残業をしないと決めて数日前から仕事量を調節していたかいもあって、どうにか閉館前に入館できた。
光忠は逸る気持ちを抑えながら脇差が並んでいる経路を抜けて目的の刀の前に立った。
照明の光を鋭利に弾く打刀――大倶利伽羅広光。
刀身に彫られた倶利伽羅龍が特徴的なこの刀は説明書きによれば、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した刀工・広光によって作られた太刀であるらしい。それが現代では打刀として伝わっているのは大磨り上げ――長大な太刀の茎を元々の銘が無くなるほど切り縮めて刀身全体を短く仕立て直したことによるのだとか。
光忠はもっと良く見ようと一歩、ガラスに近付く。なぜか初めてこの刀を見た時から強く心惹かれた。刀の善し悪しも判らず、知識などまるで持ち合わせていなかったが、それでもこの大倶利伽羅広光は力強く、酷く美しいと思った。血を吸っても決して穢れることなく、尚も燦然と輝く刀身――うっとりと夢想する。と、不意に「おい」と呼びかけられた。落ち着いた響きのある声音に光忠は驚いて反射的に振り返る。しかし誰もいない。空耳かと思って向き直ると目の前に青年が立っていた。思わずわっと叫んでしまう。静かな館内に自分の声が響いて咄嗟に口許を手で覆う。光忠の前に立つ青年は表情を変えないまま「悪い」短く謝罪した。
「えっと……君は……?」
光忠は目を見開いて褐色の肌の男を見遣る。鳶色のやや癖がある髪は襟足が少し長く、毛先が赤い。たくし上げられた服の袖から覗く左腕には巻き付くように刻まれた鱗――龍。服装も少し変わっている。詰襟のジャケットに白いシャツ、首にかけられたペンダント、ショートグローブ、腰には草摺 を纏っている。金色の双眸は鋭い光を宿し、唇を引き結んで真っ直ぐに光忠を見据えていた。
「俺は大倶利伽羅だ。簡単に説明すれば、この刀の付喪神だ」
「はあ……?」
理解が追い付かず、光忠は気の抜けたような返事をしてしまう。――大倶利伽羅? 付喪神だって? 僕は何か夢でも見ているんだろうか。大体、付喪神ってなに。
「あんたは光忠だな。今の名は長船光忠。違うか」
「僕の名前は確かに長船光忠だけど……どうしてそれを君が知ってるの?」
「知っているから知ってるだけだ」
「それ答えになってないよ」
「他に説明しようがないんでね。仕方がないだろう。――単刀直入に言うが。俺はあるものを捜したい。だが俺はここに本体がある限り、自由に身動きが取れない。だから人間であるあんたに取り憑かせて貰う」
「は、」
大きな声で叫び出しそうになるのを、光忠はどうにか呑み込んで、目が零れ落ちそうになるまでに瞳を見開いて大倶利伽羅と名乗る青年を凝視した。
◆◆◆
そこ座って――光忠は大倶利伽羅に促して両手に持ったマグカップをダイニングテーブルの上に置く。白磁からは湯気が立ち、コーヒーの香ばしい香りが漂う。
「せっかく用意して貰って悪いが。俺には必要ない。いや、正確には飲食物を口にできない」
先に言えば良かったなと大倶利伽羅は僅かに頬を攣らせた。
博物館で奇妙な邂逅を果たした光忠は大倶利伽羅を伴って帰宅した。一体何がどうなっているのか、訊きたいことは幾らでもあったが、あの場で質問攻めにすることは流石に憚れた。 大倶利伽羅の言によれば、自分の姿は光忠にしか見えてないと言う。傍から見れば、光忠が誰もいない空間に向かって独りで喋っている状態だ。想像するとかなりアブナイ。頭がどうかしている人がいると通報されかねない。腑に落ちないことばかりだが、とにかく彼から説明して貰わなければ判断しようもないので光忠は一種の諦めを抱いて博物館を後にしたのだった。
大倶利伽羅の姿が光忠以外の人間に見えないというのは本当だった。光忠の隣にいる大倶利伽羅を誰も見ようとしなかった。かなり目立つ容姿であるにも拘わらず。電車に乗る際、改札を通っても問題は起きなかった。実体を持たない存在故なのか、ガラスや鏡といったものにも姿が映らない。付喪神というのは嘘でも冗談でもないらしいと漸く光忠は理解した。
「この乗り物は馬より随分早いな」
帰宅ラッシュをやや過ぎた電車内で大倶利伽羅が大真面目に言うものだから光忠は噴き出しそうになった。すると大倶利伽羅は「こちとら南北朝時代生まれなんでな」居心地が悪そうに肩を竦めてみせた。光忠は小声で言う。
「そうだなあ、物凄く単純に計算したら電車は馬百九十頭分の速さだからね」
「ほう。なぜ判る」
「僕は学校で数学教えてるからね。計算は得意なんだ」
「すうがく?」
「算術の先生ってこと」
「光忠が算術……」
大倶利伽羅が酷く意外そうに顔を顰めたので光忠は理由を訊ねようとしたが、降車する駅に着いたのでタイミングを逸してしまい、結局その話はそれきりになった。
光忠は大倶利伽羅の向かいの椅子に腰を下ろすと「君のことについて他にも色々と訊きたいことがある」そう前置きしてから、
「君が付喪神というのは信じても良い。僕以外に君の姿が見えないことも電車に乗ってみて判ったしね。付喪神が何かは辞書的な意味でしか僕は理解できていないけれど」
付喪神。
長い年月を経て魂が宿った道具や器物が神格化または妖怪化した存在だとされている。 古くから日本の民間信仰において百年以上使われた物が霊的な力を持つと信じられており、神として敬われることもあるが、人々を驚かせたり、いたずらをする妖怪としても描かれている――とされている。
「ああ、その認識で構わない」
「じゃあ次。君が捜したいものについて。それは何だい?」
「刀だ」
「刀? 刀の付喪神である大倶利伽羅くんが刀を捜すのかい?」
一体何のために――光忠は奇妙に思って首を傾げる。
「俺が捜したい刀は折れてしまった刀だ。別に見付けてどうこうしようとは思ってない。ただ、その刀がとても大切だったから……」
大倶利伽羅は視線を落とす。
今でも、鮮明に憶えている。
彼の最期の微笑み。冷えてゆく血汐。太刀が折れる鈍い音。
「成程、見付けて手元に置いておきたいんだね。それで、その刀の在り処は? この辺にありそうっていう目星はついてるのかい?」
「いや、全く」
「え、それじゃ捜しようがないじゃないか」
あっさり答える大倶利伽羅に光忠は唖然とする。世界は広いのだ。刀を捜して世界一周、なんてことにもなりかねない。世界一周とまでいかなくても日本全国行脚の可能性は大いにある。そうとなれば刀を見付けるのに一体何年かかるのか。僕はずっと大倶利伽羅くんに取り憑かれたまま――悪さをするような付喪神ではないだろうが、想像をすると少し薄ら寒くもある。すると大倶利伽羅は案ずるなと言う。
「あんたなら見付けられるはずだ」
「えぇ、そうかな。僕刀捜しの才能なんて持ち合わせてないよ。刀のことだって良く知らないし」
「では訊くが。なぜ光忠は俺のところへ来た。この間もじっと刀 を見ていただろう」
「なぜって……上手く言えないけれど、君の刀がとても綺麗だったからかな。どういうわけか初めて大倶利伽羅広光を見た時、ああこれだって思って……」
大倶利伽羅広光を前にした時に躰を貫いた感情をどう表現したら良いのか、光忠はその言葉を持たない。感動したと言えば間違いなくそうなのだろうが、しかし光忠が搏たれた感覚は一言で捉え切れるものではなかった。
「それが答えだ。光忠なら間違いなく刀を見付けられる」
「大倶利伽羅くんが僕に取り憑いたのもそれが理由?」
「そうだ。あんたの傍にいたら俺も捜している刀の在り処を感知できるかもしれない」
「それなら良いんだけど。でも何年もかかるかもしれないよ。僕も平日は仕事があるから捜せる範囲や時間は限られてくるし、県外にまで捜しにいくとなると土日の二日間を上手く使うしかない」
「そうか。人間は俺と違って時間の制約があるからな。――では、こうしよう。刀捜しは桜が散る頃まで」
それまでに見付からなければ諦める――大倶利伽羅は断言した。
「良いの? 今からだと三ヶ月もないけど」
光忠は金色の瞳を瞬かせて正面に座る付喪神を見、カレンダーを一瞥する。一月も半ばを過ぎている。関東圏の桜の開花は三月末頃だと今朝天気予報でアナウンスしていた。暖かい陽気が続けば散るのも早い。桜が終わるまでに刀が見付かるとは到底思えない。時間がなさすぎる。
「何十年もってなると僕も困るけれど、一、二年くらいなら刀捜しに付き合うよ。詳しい事情は判らないけれど、とても大切な刀なんだろう?」
「……あんた優しいな」
大倶利伽羅はぽつりと呟く。――その優しさ故に彼は折れてしまったというのに。彼は変わっていない。心根の優しさも白い貌 も、柔らかい声音すらも。あの頃のままで――。つい感傷に囚われてしまう思考を振り払う。
「俺の勝手な都合にいつまでもあんたを付き合わせるわけにはいかないからな。だから桜が散るまでで構わない」
「オーケー、大倶利伽羅くんがそう言うなら期限は桜が終る季節までだね。引き受けよう。刀を見付けられるように頑張るよ」
光忠がにこやかに応じると大倶利伽羅は「ああ、俺の方こそ礼を言う」短く礼を告げてから眉間に皺を立てる。
「その、大倶利伽羅くんというは辞めてくれ。何だか居心地が悪い」
「そう? じゃあ大倶利くん……いや、伽羅ちゃんかな……? うん、伽羅ちゃんだ。伽羅ちゃんの方がしっくりくる」
独り首肯する光忠に「ねえ、伽羅ちゃんって呼んでも良い?」と言われて大倶利伽羅は拒否できなかった。
「好きにしろ」
「ふふ、良かった。改めて宜しくね、伽羅ちゃん」
光忠が右手を差し出すとショートグローブに包まれた手に遠慮がちに握り返された。
話し合いの後、光忠は夕食を摂った。解凍した魚を焼き、作り置きしたおかずや味噌汁を温めてダイニングテーブルに並べる。その様を大倶利伽羅は興味深そうに眺めていた。
「伽羅ちゃんがご飯を食べられないのはちょっと残念だな」
「なぜだ」
「 こう見えて僕は料理が得意でね。君の好きなものを作ってあげたかったなって。それに自宅ではいつも独りで食事してるからあずましくないし」
光忠はいただきます、と手を合わせてから箸を手に取る。それなら――大倶利伽羅はふと思いついたことを口にする。
「口にすることはできないが、俺が作って欲しいものをあんたにリクエストする。どうだ」
すると光忠はぱっと表情を明るくして「良いね、それ。何でも好きなものをリクエストしてよ」そう言ってしまってから「あれ、でも伽羅ちゃんって人間の食べ物の知識はあるの? 付喪神ならそういう部分はあんまり知らないのかなって思ってたんだけど」首を傾げる。
「それなりに知識はあるし、昔は人と変わらないような生活を送っていたこともあるからな」
「昔っていうのは伽羅ちゃんが生まれたっていう南北朝時代?」
「いや、それよりずっと先の時代だ」
「へぇ、そうなんだ。その時は楽しかった?」
「……そうだな、色々と騒がしいこともあったが、悪くなかった」
大倶利伽羅はどこか遠くを見るような目付きでふと眦を和らげる。微かに微笑むような彼の表情に光忠は瞠目した。口許へ持っていく箸が途中で止まってしまう。と、視線に気が付いた大倶利伽羅が訝しげな眼差しを向ける。何だと問う声音はどことなく不快感が滲んで聞こえた。光忠は取り繕うように軽く咳払いし、箸に摘んだおかずを口にする。
「えっと、ご飯は食べられないけど、お風呂ならどうだい? 見たところ物理的な干渉は可能みたいだし」
姿は鏡に映らず、光忠以外には見えないが、今のように椅子に座ったり、光忠が手を触れることは可能だ。よくある幽霊のように物理法則を無視して壁やら物を通り抜けることはない。
「付喪神である君の体感とかは僕には判らないけれど、今の時期は冷えるし、お風呂で温まると気持ちが良いよ」
「あんたは俺を人のように扱うんだな」
「ごめん、いけなかったかな?」
付喪神って名前の通り神様だものね――光忠はへらりと笑って眉尻を下げる。腰に纏っている草摺こそ奇異に映るものの、それ以外はごく普通で年齢も自分とそう違わないように見えるものだからつい人と同じように――客人をもてなすような態度を取ってしまう。光忠がそう言えば大倶利伽羅は「いけないわけではないが……」困惑に眉根を寄せて視線を惑わせる。――付喪神と言っても俺は神様などというそんな大層なものではないのだが。
光忠の接し方や振る舞いは大倶利伽羅にとって予想外だった。常識を逸した存在である自分を恐れず、疑うことなく、こうもあっさりと受け入れられるとは思ってもいなかったのだ。あまつさえ人と同じように接するなど考えてもみなかった。刀捜しについて説得をするのに長期戦を覚悟していたくらいだ。
「君にその気がないのなら無理強いしないけれど、せっかく博物館から外へ出られたんだから、ここにいる間は人らしい生活を楽しんでみたらどうかな。昔もそんなふうに暮らしていたんだろう?」
確かに光忠が言うことも一理ある――大倶利伽が「あんたがそこまで言うなら」と控えめに答えると「じゃあ決まり。ご飯食べたらお風呂用意するね」光忠はにこやかに応じた。
程なくして食事を終えた光忠は宣言通り風呂に湯を張り、大倶利伽羅にシャワーの使い方やシャンプーはこれ、コンディショナーはこっち、ボディソープはここと一通り説明する。入浴剤も好きなものを選ばせた。彼が選んだのは炭酸効果のある柑橘系の香りだった。
「着替えは僕の服だけど、大丈夫? ちょっと大きいかな? あ、下着は新品だから心配しないで」
「……ああ」
バスタオルと着替え一式を受け取りながら大倶利伽羅は気圧される。――光忠はこんな奴だったか? いや、こんな奴だったな。優しくて、世話焼きで、心配性で。
「問題はないと思うけど、困ったことがあったら呼んでね」
ゆっくり温まってくるんだよと家主は言い残して脱衣所を出ていく。大倶利伽羅は深く息を吐くと草摺の腰帯を解いた。
十五分後、風呂から上がった大倶利伽羅がリビングへ行くと光忠はダイニングテーブルでノートパソコンを広げていた。 傍らに置いた書類と液晶画面とを見比べてキーを叩く。作業に没頭しているらしく、大倶利伽羅の存在に気が付いていない様子だった。
「おい、あがったぞ」
「あ、おかえり。随分早かったね。ちゃんと温まってきたかい?」
「ああ」
「髪の毛、濡れてる。ちゃんと乾かさないと風邪ひいちゃうよ」
光忠は席を立って大倶利伽羅に近付くと首にかけたタオルでやや癖のある鳶色の髪を拭う。
「付喪神は風邪などひかないが」
「そう言えばそっか。でも濡れたままだと良くないから乾かした方が良いよ」
ちょっと待っててねと言い置いてリビングを出て行くとドライヤーを手にして戻って来る。大倶利伽羅にソファの前に座るように促してから光忠はドライヤーのスイッチを入れて熱風を濡れた髪に当てた。
「伽羅ちゃんの髪の毛、柔らかいね。僕のとは大違いだ。ふわふわで触り心地が良いよ」
光忠は手触りを楽しむように手櫛を入れて乾かしていく。彼の手付きに自然と大倶利伽羅の瞼が重くなる。本来、付喪神である自分には休息や眠りは必要ない。この反応は恐らく人の身があった頃の記憶を引き摺っているせいだろうと推測して思い出す。――昔もこんなふうに光忠に。
はいおしまい、と不意に熱風が止んで微睡みそうになる意識が引き戻された。
「ありがとう」
「どういたしまして。――さて、僕もお風呂に入ってこようかな」
光忠はドライヤーを片付け、ダイニングテーブルに広げたパソコンの電源を落とす。大倶利伽羅はぼんやりと彼のすることを眺めて「何かやることはないか」と訊ねた。すると光忠は意外そうに目を丸くする。
「一方的に借りを作るのは好まない」
「君って物凄く真面目だね。いや、優しいのかな」
そう言うと大倶利伽羅は厭そうに顔を顰めてみせる。そんな表情 しないでよ――光忠は苦笑いしてから「今は特にないかなあ。お皿洗いも済ませちゃったし。僕としては別に君に何かして貰いたいとは思ってないけど、伽羅ちゃんの気がどうしてもすまないというなら、君にお願いする仕事を何か考えておくよ」手持ち無沙汰ならテレビを見るか寝室に本棚があるから好きに本読んで良いよと告げると大倶利伽羅は判ったと小さく頷いた。
バスタオルと着替えを抱えてリビングを出て行く光忠を見送ってから大倶利伽羅はローテーブルに置かれたテレビのリモコンを手にして適当にボタンを押す。どのボタンを押しても画面に映るのは似たような年格好をした人間ばかりで大して興味を惹かれなかった。それよりも騒々しい音声が耐えられず、直ぐに電源を落とした。静かになった室内を改めて見回す。
モノトーンで統一されたリビングはすっきり片付いており、日頃からまめに掃除をしていることが窺えた。寝室を覗いてみる。ベッドと小振りの棚、本棚で占められた寝室も綺麗に整えられていた。 本棚の前に立って並んだ背表紙を眺める。数学教師というだけあって、それらしい本が並ぶ中に料理のレシピ本が幾つかある。小説の文庫本、ハンディタイプの辞書、雑誌。日本刀の文字に惹かれてムック本を取り出す。最近買い求めたばかりなのか真新しい。
ぱらぱらとページを捲るとフルカラーの刀剣の写真とその説明書きが続く。写真に収められた刀剣はどれも大倶利伽羅が見知ったものばかりだ。遠い過去――現代から見たら遠い未来でもある――共に戦った刀剣達。永きに渡る時間遡行軍との最後の戦いを終えた後、本丸は解体された。彼等は然るべき場所へと還り、大事に仕舞われ、また神前に奉納されて今は沈黙を守っている。
あの頃を懐かしく思いながらページを捲ると「失われた刀剣――燭台切光忠の行方」という文言が視界に飛び込んできた。大倶利伽羅は食い入るように印刷された文章を読む。
『……所蔵されていたミュージアムから忽然と消えた燭台切光忠。一体誰が盗み去ったのか? はたまた見えざる手の働きによるものか。この刀剣は過去にも強引に奪われたらしい逸話があり……』
最後の戦で折れてしまった燭台切光忠は、現代では「盗み出されて無くなった」あるいは「人智を超えた力によって消えた」ことになっているらしい。歴史を大局的に見れば燭台切光忠が無くなったことは些細な出来事であり、歴史改変とまでは言えないが、しかし大倶利伽羅にとっては違う。燭台切光忠は決して失われてはならない刀なのだ。後世まで末永く受け継がれ、その歴史を語り続けなければいけない。そうでなければ一体何のために時間遡行軍と戦っていたのか、まるで意味がなくなってしまう。
初めはただ、光忠恋しさにその欠片が欲しいと思った。せめて手元に置いておきたかった。だが、考えが変わった。
折れた燭台切光忠を見つけ出し、あるべき場所へ還す。仮令、折れた刀の欠片だったとしても、形があること、何より「燭台切光忠が戻ってきた」という事実が重要だ。その昔、焼失した彼は新たに打ち直された過去を持つ。欠片が見付かれば再び打ち直される可能性が高い。
――刀身が蘇っても彼は自分のことを何も憶えてないかもしれないけれど。
だがそれでも構わない。永久に燭台切光忠が失われることの痛みより、余程マシだ。
「必ず、あんたを見付け出す」
燭台切光忠と書かれた文字を指先でなぞる。
ああ伽羅ちゃんここにいたんだ――不意に声がして紙面から顔を上げると大倶利伽羅ははっと息を呑んだ。
「光忠、あんたその右眼――」
その日、長船光忠は仕事帰りに博物館に立ち寄った。目的は日本の名刀展と銘打たれた展覧会である。短刀、脇差、太刀、打刀など歴史にその名を残してきた数多の刀剣を集めた展覧会はメディアでも取り上げられるほど盛況であったが、平日の閉館間際とだけあって館内は人も疎らで静かであった。
光忠は迷いなく経路を進んで館内の奥へ移動する。
彼がここを訪れるのは二度目である。一度目は仕事――高校の課外授業の引率のために、今日はプライベートで。 これまで時折美術館に赴き、絵画を鑑賞して楽しむことはあったが、博物館となると然程興味は湧かず、プライベートで訪れることはほぼ皆無であった。だが先日仕事で生徒達と展示された刀を見ているうちにその美しさに心搏たれ、辿ってきた歴史を知って感銘を受けた。もっとゆっくり刀剣を見たかったが、あくまでも生徒を引率するために訪れていたのでそうも言ってられず、その時は諦めて展示物を鑑賞する生徒達を少し離れたところから見ていた。それが一週間前のこと。今日は職員会議もなく、残業をしないと決めて数日前から仕事量を調節していたかいもあって、どうにか閉館前に入館できた。
光忠は逸る気持ちを抑えながら脇差が並んでいる経路を抜けて目的の刀の前に立った。
照明の光を鋭利に弾く打刀――大倶利伽羅広光。
刀身に彫られた倶利伽羅龍が特徴的なこの刀は説明書きによれば、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した刀工・広光によって作られた太刀であるらしい。それが現代では打刀として伝わっているのは大磨り上げ――長大な太刀の茎を元々の銘が無くなるほど切り縮めて刀身全体を短く仕立て直したことによるのだとか。
光忠はもっと良く見ようと一歩、ガラスに近付く。なぜか初めてこの刀を見た時から強く心惹かれた。刀の善し悪しも判らず、知識などまるで持ち合わせていなかったが、それでもこの大倶利伽羅広光は力強く、酷く美しいと思った。血を吸っても決して穢れることなく、尚も燦然と輝く刀身――うっとりと夢想する。と、不意に「おい」と呼びかけられた。落ち着いた響きのある声音に光忠は驚いて反射的に振り返る。しかし誰もいない。空耳かと思って向き直ると目の前に青年が立っていた。思わずわっと叫んでしまう。静かな館内に自分の声が響いて咄嗟に口許を手で覆う。光忠の前に立つ青年は表情を変えないまま「悪い」短く謝罪した。
「えっと……君は……?」
光忠は目を見開いて褐色の肌の男を見遣る。鳶色のやや癖がある髪は襟足が少し長く、毛先が赤い。たくし上げられた服の袖から覗く左腕には巻き付くように刻まれた鱗――龍。服装も少し変わっている。詰襟のジャケットに白いシャツ、首にかけられたペンダント、ショートグローブ、腰には
「俺は大倶利伽羅だ。簡単に説明すれば、この刀の付喪神だ」
「はあ……?」
理解が追い付かず、光忠は気の抜けたような返事をしてしまう。――大倶利伽羅? 付喪神だって? 僕は何か夢でも見ているんだろうか。大体、付喪神ってなに。
「あんたは光忠だな。今の名は長船光忠。違うか」
「僕の名前は確かに長船光忠だけど……どうしてそれを君が知ってるの?」
「知っているから知ってるだけだ」
「それ答えになってないよ」
「他に説明しようがないんでね。仕方がないだろう。――単刀直入に言うが。俺はあるものを捜したい。だが俺はここに本体がある限り、自由に身動きが取れない。だから人間であるあんたに取り憑かせて貰う」
「は、」
大きな声で叫び出しそうになるのを、光忠はどうにか呑み込んで、目が零れ落ちそうになるまでに瞳を見開いて大倶利伽羅と名乗る青年を凝視した。
◆◆◆
そこ座って――光忠は大倶利伽羅に促して両手に持ったマグカップをダイニングテーブルの上に置く。白磁からは湯気が立ち、コーヒーの香ばしい香りが漂う。
「せっかく用意して貰って悪いが。俺には必要ない。いや、正確には飲食物を口にできない」
先に言えば良かったなと大倶利伽羅は僅かに頬を攣らせた。
博物館で奇妙な邂逅を果たした光忠は大倶利伽羅を伴って帰宅した。一体何がどうなっているのか、訊きたいことは幾らでもあったが、あの場で質問攻めにすることは流石に憚れた。 大倶利伽羅の言によれば、自分の姿は光忠にしか見えてないと言う。傍から見れば、光忠が誰もいない空間に向かって独りで喋っている状態だ。想像するとかなりアブナイ。頭がどうかしている人がいると通報されかねない。腑に落ちないことばかりだが、とにかく彼から説明して貰わなければ判断しようもないので光忠は一種の諦めを抱いて博物館を後にしたのだった。
大倶利伽羅の姿が光忠以外の人間に見えないというのは本当だった。光忠の隣にいる大倶利伽羅を誰も見ようとしなかった。かなり目立つ容姿であるにも拘わらず。電車に乗る際、改札を通っても問題は起きなかった。実体を持たない存在故なのか、ガラスや鏡といったものにも姿が映らない。付喪神というのは嘘でも冗談でもないらしいと漸く光忠は理解した。
「この乗り物は馬より随分早いな」
帰宅ラッシュをやや過ぎた電車内で大倶利伽羅が大真面目に言うものだから光忠は噴き出しそうになった。すると大倶利伽羅は「こちとら南北朝時代生まれなんでな」居心地が悪そうに肩を竦めてみせた。光忠は小声で言う。
「そうだなあ、物凄く単純に計算したら電車は馬百九十頭分の速さだからね」
「ほう。なぜ判る」
「僕は学校で数学教えてるからね。計算は得意なんだ」
「すうがく?」
「算術の先生ってこと」
「光忠が算術……」
大倶利伽羅が酷く意外そうに顔を顰めたので光忠は理由を訊ねようとしたが、降車する駅に着いたのでタイミングを逸してしまい、結局その話はそれきりになった。
光忠は大倶利伽羅の向かいの椅子に腰を下ろすと「君のことについて他にも色々と訊きたいことがある」そう前置きしてから、
「君が付喪神というのは信じても良い。僕以外に君の姿が見えないことも電車に乗ってみて判ったしね。付喪神が何かは辞書的な意味でしか僕は理解できていないけれど」
付喪神。
長い年月を経て魂が宿った道具や器物が神格化または妖怪化した存在だとされている。 古くから日本の民間信仰において百年以上使われた物が霊的な力を持つと信じられており、神として敬われることもあるが、人々を驚かせたり、いたずらをする妖怪としても描かれている――とされている。
「ああ、その認識で構わない」
「じゃあ次。君が捜したいものについて。それは何だい?」
「刀だ」
「刀? 刀の付喪神である大倶利伽羅くんが刀を捜すのかい?」
一体何のために――光忠は奇妙に思って首を傾げる。
「俺が捜したい刀は折れてしまった刀だ。別に見付けてどうこうしようとは思ってない。ただ、その刀がとても大切だったから……」
大倶利伽羅は視線を落とす。
今でも、鮮明に憶えている。
彼の最期の微笑み。冷えてゆく血汐。太刀が折れる鈍い音。
「成程、見付けて手元に置いておきたいんだね。それで、その刀の在り処は? この辺にありそうっていう目星はついてるのかい?」
「いや、全く」
「え、それじゃ捜しようがないじゃないか」
あっさり答える大倶利伽羅に光忠は唖然とする。世界は広いのだ。刀を捜して世界一周、なんてことにもなりかねない。世界一周とまでいかなくても日本全国行脚の可能性は大いにある。そうとなれば刀を見付けるのに一体何年かかるのか。僕はずっと大倶利伽羅くんに取り憑かれたまま――悪さをするような付喪神ではないだろうが、想像をすると少し薄ら寒くもある。すると大倶利伽羅は案ずるなと言う。
「あんたなら見付けられるはずだ」
「えぇ、そうかな。僕刀捜しの才能なんて持ち合わせてないよ。刀のことだって良く知らないし」
「では訊くが。なぜ光忠は俺のところへ来た。この間もじっと
「なぜって……上手く言えないけれど、君の刀がとても綺麗だったからかな。どういうわけか初めて大倶利伽羅広光を見た時、ああこれだって思って……」
大倶利伽羅広光を前にした時に躰を貫いた感情をどう表現したら良いのか、光忠はその言葉を持たない。感動したと言えば間違いなくそうなのだろうが、しかし光忠が搏たれた感覚は一言で捉え切れるものではなかった。
「それが答えだ。光忠なら間違いなく刀を見付けられる」
「大倶利伽羅くんが僕に取り憑いたのもそれが理由?」
「そうだ。あんたの傍にいたら俺も捜している刀の在り処を感知できるかもしれない」
「それなら良いんだけど。でも何年もかかるかもしれないよ。僕も平日は仕事があるから捜せる範囲や時間は限られてくるし、県外にまで捜しにいくとなると土日の二日間を上手く使うしかない」
「そうか。人間は俺と違って時間の制約があるからな。――では、こうしよう。刀捜しは桜が散る頃まで」
それまでに見付からなければ諦める――大倶利伽羅は断言した。
「良いの? 今からだと三ヶ月もないけど」
光忠は金色の瞳を瞬かせて正面に座る付喪神を見、カレンダーを一瞥する。一月も半ばを過ぎている。関東圏の桜の開花は三月末頃だと今朝天気予報でアナウンスしていた。暖かい陽気が続けば散るのも早い。桜が終わるまでに刀が見付かるとは到底思えない。時間がなさすぎる。
「何十年もってなると僕も困るけれど、一、二年くらいなら刀捜しに付き合うよ。詳しい事情は判らないけれど、とても大切な刀なんだろう?」
「……あんた優しいな」
大倶利伽羅はぽつりと呟く。――その優しさ故に彼は折れてしまったというのに。彼は変わっていない。心根の優しさも白い
「俺の勝手な都合にいつまでもあんたを付き合わせるわけにはいかないからな。だから桜が散るまでで構わない」
「オーケー、大倶利伽羅くんがそう言うなら期限は桜が終る季節までだね。引き受けよう。刀を見付けられるように頑張るよ」
光忠がにこやかに応じると大倶利伽羅は「ああ、俺の方こそ礼を言う」短く礼を告げてから眉間に皺を立てる。
「その、大倶利伽羅くんというは辞めてくれ。何だか居心地が悪い」
「そう? じゃあ大倶利くん……いや、伽羅ちゃんかな……? うん、伽羅ちゃんだ。伽羅ちゃんの方がしっくりくる」
独り首肯する光忠に「ねえ、伽羅ちゃんって呼んでも良い?」と言われて大倶利伽羅は拒否できなかった。
「好きにしろ」
「ふふ、良かった。改めて宜しくね、伽羅ちゃん」
光忠が右手を差し出すとショートグローブに包まれた手に遠慮がちに握り返された。
話し合いの後、光忠は夕食を摂った。解凍した魚を焼き、作り置きしたおかずや味噌汁を温めてダイニングテーブルに並べる。その様を大倶利伽羅は興味深そうに眺めていた。
「伽羅ちゃんがご飯を食べられないのはちょっと残念だな」
「なぜだ」
「 こう見えて僕は料理が得意でね。君の好きなものを作ってあげたかったなって。それに自宅ではいつも独りで食事してるからあずましくないし」
光忠はいただきます、と手を合わせてから箸を手に取る。それなら――大倶利伽羅はふと思いついたことを口にする。
「口にすることはできないが、俺が作って欲しいものをあんたにリクエストする。どうだ」
すると光忠はぱっと表情を明るくして「良いね、それ。何でも好きなものをリクエストしてよ」そう言ってしまってから「あれ、でも伽羅ちゃんって人間の食べ物の知識はあるの? 付喪神ならそういう部分はあんまり知らないのかなって思ってたんだけど」首を傾げる。
「それなりに知識はあるし、昔は人と変わらないような生活を送っていたこともあるからな」
「昔っていうのは伽羅ちゃんが生まれたっていう南北朝時代?」
「いや、それよりずっと先の時代だ」
「へぇ、そうなんだ。その時は楽しかった?」
「……そうだな、色々と騒がしいこともあったが、悪くなかった」
大倶利伽羅はどこか遠くを見るような目付きでふと眦を和らげる。微かに微笑むような彼の表情に光忠は瞠目した。口許へ持っていく箸が途中で止まってしまう。と、視線に気が付いた大倶利伽羅が訝しげな眼差しを向ける。何だと問う声音はどことなく不快感が滲んで聞こえた。光忠は取り繕うように軽く咳払いし、箸に摘んだおかずを口にする。
「えっと、ご飯は食べられないけど、お風呂ならどうだい? 見たところ物理的な干渉は可能みたいだし」
姿は鏡に映らず、光忠以外には見えないが、今のように椅子に座ったり、光忠が手を触れることは可能だ。よくある幽霊のように物理法則を無視して壁やら物を通り抜けることはない。
「付喪神である君の体感とかは僕には判らないけれど、今の時期は冷えるし、お風呂で温まると気持ちが良いよ」
「あんたは俺を人のように扱うんだな」
「ごめん、いけなかったかな?」
付喪神って名前の通り神様だものね――光忠はへらりと笑って眉尻を下げる。腰に纏っている草摺こそ奇異に映るものの、それ以外はごく普通で年齢も自分とそう違わないように見えるものだからつい人と同じように――客人をもてなすような態度を取ってしまう。光忠がそう言えば大倶利伽羅は「いけないわけではないが……」困惑に眉根を寄せて視線を惑わせる。――付喪神と言っても俺は神様などというそんな大層なものではないのだが。
光忠の接し方や振る舞いは大倶利伽羅にとって予想外だった。常識を逸した存在である自分を恐れず、疑うことなく、こうもあっさりと受け入れられるとは思ってもいなかったのだ。あまつさえ人と同じように接するなど考えてもみなかった。刀捜しについて説得をするのに長期戦を覚悟していたくらいだ。
「君にその気がないのなら無理強いしないけれど、せっかく博物館から外へ出られたんだから、ここにいる間は人らしい生活を楽しんでみたらどうかな。昔もそんなふうに暮らしていたんだろう?」
確かに光忠が言うことも一理ある――大倶利伽が「あんたがそこまで言うなら」と控えめに答えると「じゃあ決まり。ご飯食べたらお風呂用意するね」光忠はにこやかに応じた。
程なくして食事を終えた光忠は宣言通り風呂に湯を張り、大倶利伽羅にシャワーの使い方やシャンプーはこれ、コンディショナーはこっち、ボディソープはここと一通り説明する。入浴剤も好きなものを選ばせた。彼が選んだのは炭酸効果のある柑橘系の香りだった。
「着替えは僕の服だけど、大丈夫? ちょっと大きいかな? あ、下着は新品だから心配しないで」
「……ああ」
バスタオルと着替え一式を受け取りながら大倶利伽羅は気圧される。――光忠はこんな奴だったか? いや、こんな奴だったな。優しくて、世話焼きで、心配性で。
「問題はないと思うけど、困ったことがあったら呼んでね」
ゆっくり温まってくるんだよと家主は言い残して脱衣所を出ていく。大倶利伽羅は深く息を吐くと草摺の腰帯を解いた。
十五分後、風呂から上がった大倶利伽羅がリビングへ行くと光忠はダイニングテーブルでノートパソコンを広げていた。 傍らに置いた書類と液晶画面とを見比べてキーを叩く。作業に没頭しているらしく、大倶利伽羅の存在に気が付いていない様子だった。
「おい、あがったぞ」
「あ、おかえり。随分早かったね。ちゃんと温まってきたかい?」
「ああ」
「髪の毛、濡れてる。ちゃんと乾かさないと風邪ひいちゃうよ」
光忠は席を立って大倶利伽羅に近付くと首にかけたタオルでやや癖のある鳶色の髪を拭う。
「付喪神は風邪などひかないが」
「そう言えばそっか。でも濡れたままだと良くないから乾かした方が良いよ」
ちょっと待っててねと言い置いてリビングを出て行くとドライヤーを手にして戻って来る。大倶利伽羅にソファの前に座るように促してから光忠はドライヤーのスイッチを入れて熱風を濡れた髪に当てた。
「伽羅ちゃんの髪の毛、柔らかいね。僕のとは大違いだ。ふわふわで触り心地が良いよ」
光忠は手触りを楽しむように手櫛を入れて乾かしていく。彼の手付きに自然と大倶利伽羅の瞼が重くなる。本来、付喪神である自分には休息や眠りは必要ない。この反応は恐らく人の身があった頃の記憶を引き摺っているせいだろうと推測して思い出す。――昔もこんなふうに光忠に。
はいおしまい、と不意に熱風が止んで微睡みそうになる意識が引き戻された。
「ありがとう」
「どういたしまして。――さて、僕もお風呂に入ってこようかな」
光忠はドライヤーを片付け、ダイニングテーブルに広げたパソコンの電源を落とす。大倶利伽羅はぼんやりと彼のすることを眺めて「何かやることはないか」と訊ねた。すると光忠は意外そうに目を丸くする。
「一方的に借りを作るのは好まない」
「君って物凄く真面目だね。いや、優しいのかな」
そう言うと大倶利伽羅は厭そうに顔を顰めてみせる。そんな
バスタオルと着替えを抱えてリビングを出て行く光忠を見送ってから大倶利伽羅はローテーブルに置かれたテレビのリモコンを手にして適当にボタンを押す。どのボタンを押しても画面に映るのは似たような年格好をした人間ばかりで大して興味を惹かれなかった。それよりも騒々しい音声が耐えられず、直ぐに電源を落とした。静かになった室内を改めて見回す。
モノトーンで統一されたリビングはすっきり片付いており、日頃からまめに掃除をしていることが窺えた。寝室を覗いてみる。ベッドと小振りの棚、本棚で占められた寝室も綺麗に整えられていた。 本棚の前に立って並んだ背表紙を眺める。数学教師というだけあって、それらしい本が並ぶ中に料理のレシピ本が幾つかある。小説の文庫本、ハンディタイプの辞書、雑誌。日本刀の文字に惹かれてムック本を取り出す。最近買い求めたばかりなのか真新しい。
ぱらぱらとページを捲るとフルカラーの刀剣の写真とその説明書きが続く。写真に収められた刀剣はどれも大倶利伽羅が見知ったものばかりだ。遠い過去――現代から見たら遠い未来でもある――共に戦った刀剣達。永きに渡る時間遡行軍との最後の戦いを終えた後、本丸は解体された。彼等は然るべき場所へと還り、大事に仕舞われ、また神前に奉納されて今は沈黙を守っている。
あの頃を懐かしく思いながらページを捲ると「失われた刀剣――燭台切光忠の行方」という文言が視界に飛び込んできた。大倶利伽羅は食い入るように印刷された文章を読む。
『……所蔵されていたミュージアムから忽然と消えた燭台切光忠。一体誰が盗み去ったのか? はたまた見えざる手の働きによるものか。この刀剣は過去にも強引に奪われたらしい逸話があり……』
最後の戦で折れてしまった燭台切光忠は、現代では「盗み出されて無くなった」あるいは「人智を超えた力によって消えた」ことになっているらしい。歴史を大局的に見れば燭台切光忠が無くなったことは些細な出来事であり、歴史改変とまでは言えないが、しかし大倶利伽羅にとっては違う。燭台切光忠は決して失われてはならない刀なのだ。後世まで末永く受け継がれ、その歴史を語り続けなければいけない。そうでなければ一体何のために時間遡行軍と戦っていたのか、まるで意味がなくなってしまう。
初めはただ、光忠恋しさにその欠片が欲しいと思った。せめて手元に置いておきたかった。だが、考えが変わった。
折れた燭台切光忠を見つけ出し、あるべき場所へ還す。仮令、折れた刀の欠片だったとしても、形があること、何より「燭台切光忠が戻ってきた」という事実が重要だ。その昔、焼失した彼は新たに打ち直された過去を持つ。欠片が見付かれば再び打ち直される可能性が高い。
――刀身が蘇っても彼は自分のことを何も憶えてないかもしれないけれど。
だがそれでも構わない。永久に燭台切光忠が失われることの痛みより、余程マシだ。
「必ず、あんたを見付け出す」
燭台切光忠と書かれた文字を指先でなぞる。
ああ伽羅ちゃんここにいたんだ――不意に声がして紙面から顔を上げると大倶利伽羅ははっと息を呑んだ。
「光忠、あんたその右眼――」