愛してくれよ、手遅れになる前にさ。

 11月の、冬も始まるかという頃だった。
 15の少年ミヒャエル・カイザーは婚姻届を片手に重厚な扉の前に佇んでいた。
 ミュンヘン郊外のマナーハウスである。
 背後には透き通った池と小ぶりの花々が広がり、穏やかな風がカイザーの頬を静かに撫でている。
 彼は目だけで鈍色の空を見上げた。
 少年カイザーはモーニングコートで見てくれを整えられたが、彼に馴染みがあるのは頭上を覆う重い曇天だけだった。

 背後でプツンと電子音が鳴り、同行していたクラブスタッフがカイザーに向かって話しかけた。
 マナーハウスに到着したことを告げる電話を終えたらしい。彼は振り返らずにそれを聞いた。
 クラブスタッフはマナーハウスの主からの伝言をカイザーに話したあと、停めていた車に乗り込む前に一言、

「くれぐれも粗相のないように。幸運を祈る」
「……Ja」

 カイザーは背を向けたまま答えた。
 基本クラブのスタッフは選手に介入しないし、このように鼓舞の言葉をかけることもない。しかし今回は「それほど」ということなのだろう。
 渡されたファイルをグッと握った。

 彼はこれから、契約書を片手にプロポーズをする。
 
 初対面の貴族のオヒメサマに己を売り込み、サインを貰わなくてはならない。
 それが彼を見つけ出したレイ・ダークからの命令であり、彼がサッカーをするために必要なことだった。
 今でこそ泣かせた女は数知れず、付き合いたい男NO.1、皇帝カイザーとどうにかなってしまいたい、と寄せられる秋波の数々をブルーのまなざし一つで黄色い悲鳴に変えてしまう色男だが、このころは恋を知らない少年で、幼かった。
 だからどう口説いてサインをもらえばいいのか全く見当もつかないし、恋愛をスラムの暴力と強姦と行きずりのセックスでしか知らないので、今すぐ帰りたいと思っていた。
 勝てない勝負はしない、知らないものには近づかない。スラムで身に付けた生きのびるコツである。よって今すぐ逃げたいと思っていた。
 しかし命令は命令だ。逆らうことは許されない。

 少年はフッと鼻から息を吐いたあと、意を決して扉を開け指定された部屋へ向かった。
 中は案外暗かったが、小綺麗に並ぶ調度品の質の良さは一目でわかった。
 大理石のタイルや、芝生のようにフカフカの絨毯、磨かれた装飾の数々が、薄暗い屋敷の中でも重厚な艶を帯びていた。

 カイザーは自分を包むモーニングコートが途端にひどく不格好なものに見えた。これまで過ごした環境とこのお屋敷が別世界すぎて、都会に突き放されたおのぼりさんのような気分になったのだ。無意識にモーニングの襟をつかんでいた。その手には恥ずかしさと孤独が混ざっている。彼はまだ、あの街を出てから1週間しか経っていない。
 身分の差を嫌でも突き付けられた。
 しかしその足取りに淀みはない。
 心でどう思っていようと体は滞りなく動く。そうでなければ生き延びることなどできなかったから。

 規則正しく動く革靴が鈍く艶めいた。
 もとより、逃げることなど不可能である
 カイザーは冬の美貌で一条の息を吐いた。
 彼がこれから成すこともまた、不可能に近い。

 灰色の光が差す廊下を進む。
 一体どんな温室育ちの女だろうかと重たい足取りで考えた。一体どう口説けばいいのやら、と。
 立ち振る舞いも魅力的な会話も何一つわからない。
 丸裸で猛獣の檻に入れられた気分である。ナイフの一つすら持たせてもらえなかった。

 敗北は濃厚。
 カイザーは瞼を伏せた。
 嫌に息苦しい。首が青薔薇に締め付けられているみたいだった。
 持たない者に世界は厳しい。
 曇天が太陽を覆い隠し、窓からは灰色の静寂が流れ込む。
 しかしふいに視界が開けた。
 ついに長い廊下を抜け、約束の部屋にたどり着いたのだ。

 扉はすでに開いていた。
 果たしてそこには、

「遅かったね。窓からきみを待つうちに、僕は白髪になってしまうかと思ったよ」

 黒のガウンから細く滑らかな足を投げ出して、玲瓏なる美少年が窓枠に腰掛けていた。

「……それは、間に合ったようで何よりだ」

 一拍あけて、何とか返した。

 困惑である。
 極度の緊張からの解放と、なぜ女ではなく男がいる? という疑問が、カイザーを安堵のような怪訝そうなようなよくわからない表情にさせていた。
 しかしその玉貌をしかと見て、遅れて気が付く。
カイザーはブルーの瞳を大きく見開いた。
見覚えがある。

 どんなオヒメサマを口説くのかと身構えていたら、見覚えのある美少年が出てきた。
 
 はじめは逆光でよく見えなかったが、間違いない。光に馴染んだ目で確信する。というか、こんな絶世の美少年が二人といるわけがない。

(いや、だとしても、なぜお前がここにいる?)

 ガウンを着た少年は軽やかに窓枠から降りた。
 同時に黒曜石の髪が艶めく。
 陽を知らぬ真珠の白肌は血管が透けるほどであった。
 まさしく月灯篭の美貌。

「君とはどうやら縁があるらしいね」

 美少年はブルーグレイの瞳を勝気に細めて、皮肉げに笑った。
 
 
 事の発端は2日前に遡る。





 レイ・ダークにより釈放され、バスタードミュンヘンのユースチームへ所属することになった少年ミヒャエル・カイザーであったが、一つの問題に直面することになる。
 そう、お金である。

 初週の練習が終わった後、カイザーはミーティングルームに呼び出された。
 そこには監督とFIFA公認エージェントレイ・ダークが座っており、彼には以下の話がなされた。
 浪々と流れる説明をカイザーが理解したところによると、こうである。

 スポーツをするにはお金がかかる。
 彼は家に帰れないため、遠方から来た選手が暮らす用の寮に入る必要がある。その寮費はもちろん、他にも食事や、サッカーシューズなどの道具、練習試合の遠征など、様々なところで費用がかかる。
 サッカーボールをポンと置いて、「ボールがあればサッカーができます」というわけにはいかないのだ。
 クラブの「望まれて生まれた人間」たちは親が工面してくれるが、カイザーにはそれがない。
 なんの成果もあげていない刑務所上がりの子供を援助するほどチームは優しくないし、父親には期待できない。彼は自分でどうにか工面しなくてはいけないのだ。
 単身でフットボールの世界に飛び込んだ彼の前に立ちはだかる、最初の壁であった。

 そこでFIFAからの使者レイ・ダークが示したのは、「初めの一か月は援助する。その代わり、こちらが指定した娘と婚約し金銭的援助を受けろ」ということであった。
 要するに、媚びを売って婚約しパトロンを得なさい、ということである。ついでにFIFAは新たな大口スポンサー候補とつながりを作れる。
 そういう話をカイザーは「ふうん」という顔をしながら聞いていた。

 カイザーとFIFA、双方に利益があるのは間違いなかった。
 カイザーはフットボールをすることを条件として刑務所から釈放されたのだから、途中でそれを放り出すことはできない。彼にとってフットボールとはまさしく生きることであり、命綱である。
 そしてそのためには、金が要る。

 そこまで聞いて、カイザーはしかし、と思う。
 しかし相手の家――ドイツ伯爵家かつ世界的大企業経営者一家であるジルバークランツ家が了承するかどうかは、別ではないかと。
 向こうからすれば、愛娘をどこの馬の骨とも知れぬ野蛮人に差し出さなくてはならないうえに、金まで払えときた。突っぱねられるのは目に見えている。
 現に監督は「ただ、ユースリーグで活躍してスポンサーがつけば、金銭の心配はしなくてよくなるから」とフォローを入れている。
 不可能だとわかっているのだ。

 提案者の彼はどう思っているんだと、ふと見やる。
 レイ・ダークは檻の中で出会ったときと同じ顔でカイザーを見つめていた。
 彼は「あ、」と思う。
 これを提案した彼が、その程度のことに気が付いていないわけがない。
 つまり彼は、不可能だとわかったうえで、やれと言っている。

 サッカーはスポーツで、ピッチでは強さが全てだ。
 しかしFIFAは資本主義で、レイ・ダークはカイザーに「投資」した。

 彼は問うているのだ。
 スポーツがエンタメとなり、サッカー選手にタレント性が求められる社会で、ミヒャエル・カイザーに「才能」はあるのかと。
サッカーの才能はあのとき刑務所で認めた。
 次は「熱狂を生む、人を惹きつける才能を示してみせろ」と、銀色のまなざしで命令しているのである。



 カイザーは寮の自室に戻り、ベッドに腰かけた。
 まだ才能が完全に認められたわけではない。だから見事婚約して見せることでそれを示し、レイ・ダークの投資は間違っていなかったと証明しなくてならない。
 厳しいが、結果がすべての勝負の世界で、この程度の証明は当たり前に求められることである。

 カイザーはボフンと後ろに倒れ込み、天井を見上げた。
 全く、賢いことである。
 FIFAが援助するにはカイザーは成果が少なすぎる。だからといってその才能を手放すのは惜しい。そこで一つ飛ばしてしまって、才能が証明されてから援助しようとなるところを、それらを同時に済ませてしまえと言うのだ。
 援助を勝ち取ることで、才能も証明しろということである。
 実に合理的で、資本主義者な彼らしい。

「婚約……、結婚。」

 首を動かして、窓からミュンヘンの夜空を見る。
 婚約するということは、いつか結婚するということで。
 そこでの愛の有無なんて、……と考えて、目を閉じた。
 慣れない場所で、慣れないフットボール。疲労は当たり前に溜まっている。
 少年カイザーは背中を丸めてうずくまり、顔の前で手を組んだ。それはまるで祈っているようだった。
 今夜、月は見えなかった。
 じきに冬が来る。
 寒くて寒くて、仕方なかった。




 翌朝、息も白む早朝。カイザーは一人ミュンヘンの街を歩いていた。
 彼の故郷ベルリンは高層ビルも並ぶモダンな街並みだったが、ここミュンヘンは昔ながらの建物がそのまま残っている。
 カイザーは石畳を進みながらウィンドブレーカーの襟元に顔をうずめた。
 今日は週に一度のオフである。
 だからこうして散歩に出かけていた。

 これは彼の昔からの習慣であった。
 父親も眠っている朝、陽が昇る前にこっそりと抜け出して通りを歩く。
 道には酔いつぶれた男やトんだまま倒れている薬物中毒者が転がり、売人やストリートギャングは静まり返っている。
 それらを横目に通り抜け、地区のはずれにある古いアパートメントの外階段を上る。ある程度登ったら途中の踊り場でしゃがみこんで、あらかじめ手に入れていたパンの耳をかじる。
 そのままふと見上げると、東の空で、紫金が夜明け前の鮮烈なブルーを塗りつぶしている。
 そうしたらちょうど陽光が地平から漏れ出して、彼の横顔をなぞるように照らしつける。
 煙と犯罪にまみれた灰色の街に、黄金のハニエルが浮かび上がる。
 一陣の風が吹き、彫刻の美男子が荘厳に輝く。
 
 パンの耳を半分食べたころ、灰色の地平から朝日が昇る。
 それが彼のガラス玉の瞳に反射する。
 彼の瞳は夜明けのブルーをそのまま移し取った色だった。
 あふれ出る陽光は彼のブロンドと同じ輝きである。
 そうやって金糸を風になびかせながら、カイザーはパンの耳をムシャ…と食べ、ただ日の出を眺めていた。
 
 これはカイザーが唯一気を抜いている瞬間だった。
 食事すら落ち着いて取れないあの場所を見下ろしながら、ひたすらに朝日を眺める。
 何も考えず、何も気にせず、空っぽの心地で座っていられる。
 何事にも心を煩わさないでいられる時間は、ともすればこの街で一番の贅沢だった。

 ミュンヘンで暮らし始めてもそれは変わらなかった。
 学校があり午前練習がない平日(カイザーは学校に通っていないが)とオフの日は、こうして散歩し街の高台で朝食を食べていた。
 食堂でもらったサンドイッチをほおばりながら、ボーっと昇る朝日を眺める。

 古びたパーカーを着て、サンドイッチ屋の捨てるパンの耳を食べていた数週間前。
 真新しいウィンドブレーカーを着て、具がいっぱいに詰まったサンドイッチを食べている今……。

 包み紙をグシャっとまとめ、来た道を戻る。
 早朝のブルーの影の中を進みながら、スと鼻をすすった。
 まずい、体が冷えたかもしれない。
 ポケットに手をグッと入れて、肩をすくめた。
 もう11月も末である。
 早朝が一番寒い。
 なぜなら夜が残した冷気がそのまま体を包むから。

 そうして白い息をついた瞬間だった。

 視界の端で影がぐらりと傾いた。
 それは花瓶が倒れるようにくるりと回る。

 気づいたときには腕をつかんでいた。

 ハッと息をつく。
 耳元で心臓が鳴っていた。空気の冷たさに肺が痛む。

 ここは橋で、下には川が流れている。
 一拍置いて血が全身にめぐった。頬がグワと熱くなる。
 一気に目が覚めた。
 脳に直接冷や水をかけられた心地だった。

 カイザーの反射は正しく働いたらしかった。
 少年は欄干の外側に立っていて、川に背を向けて今にも倒れ込みそうな恰好をしている。
 橋のヘリにかかとをひっかけて、かろうじて立っているだけだった。カイザーが手を離せばすぐにドボンと落ちるだろう。

「なにを、している」

 額に玉汗を浮かべながらカイザーは少年を見つめた。

「なにって。見ればわかるだろう」

 少年は薄く笑いながら言った。
形式的な笑みである。
 カイザーが彼の腰に手を回せば、ワルツでも踊り出しそうな風であった。

 グッと腕を引っ張ると、少年はそのまま直立した。
 カイザーは改めて少年を見た。
 そして(これほど美しい人間が存在するのか)とブルーの目でまばたいた。
 年はカイザーと同じ程度に見えるが、ひどく垢抜けた印象を受けた。表情の一瞬一瞬がドラマチックに映る。
 黒曜石の髪に、真珠の白肌。
 甘美でいながら儚さを感じさせる、銀林の雪景色がごとき美少年。
 カイザーは無意識にグ、と息をとめた。
 カイザーが息をのむような黄金の美少年であるとするのなら、少年は息が詰まるような黒檀の美少年であった。
 今まさに川に飛び込んで入水自殺をしようとしていたのもあってか、少年のいで立ちは文学的にさえ見えた。
 それほど静謐で美しかった。

 コートの形を整えて、少年はアイスブルーの瞳でカイザーを見た。
 それだけでカイザーの体にわずかな緊張が走った。
 美しさとは力であるからだ。目線一つで身構えさせてしまう。

「今度こそと思ったのに。君のおかげで失敗だ」

 芝居がかった風に肩をすくめた。
 少年は欄干をまたぎ、髪をフッとかき上げる。
 優雅な仕草である。

 一方、カイザーは自分の手のひらを見つめていた。
 他人が傷つこうと知らないと思っていたし、自殺だって勝手にすればいいと思っていたはずだ。だというのに、手を伸ばしていた。
 完全な無意識だった。

(……………………。)

 カイザーはひとまず、邪魔したかったのかもしれない、と結論付けた。
 だってあんまりきれいに倒れるから。愛する人のハグを受け止めて、そのまま倒れ込むみたいだったから。まるで恋しているみたいに川に向かってゆくから。
 それを台無しにしたくて、助けたのだと。

 少年は格好を整え終わると、クルリとカイザーを見た。
 その手に持つサンドイッチの包みをチラッと見て、「きみ、ツヴァイター・フリューシュトゥックはまだ?」と言った。「プレッツェルを食べないか? バターもある」
 食事に誘っているらしい。ツヴァイなんたらが何のことかさっぱりだったが、

「Ja(食う)」

 これもまた、無意識であった。
 あえて理由をつけるとすれば、ただ、この美しい少年をもう少し眺めていたいと思ったのだ。
 美しいものは良い。旅行者が落としたネックレスや指輪、盗んだ宝石。美しいものはそれだけで値が付く。価値がある。金を得られる。
 しかし、のちに振り替えると、カイザーが真に美しさを理解したのはこのときであった。
 朝の青空を背に、黒髪の少年に一緒にご飯を食べようよと言われた、このときである。

 彼の瞳には憐憫も軽蔑も好奇心もなかった。助けられたことに対する恩義も、飛び降りを邪魔されたことへの怒りも浮かんでいなかった。
 食事に誘ったのはカイザーがそこにいいたから。カイザーに腕をつかんで話しかけられたから。
 なんとなく。
 あえて理由をつけるとすれば、一人で食べるのは寂しかったから。

 そういうふうに誘われた。
 カイザーに対して何の感情も向けないまま、与えてくれた。
 その美しさは宗教画に似ていた。
 ただそこにあるだけで、人は勝手に救いを見出す。与えてくれたと感じる。
 そういう美しさを、カイザーは彼から感じたのだ。



「僕はレヴィン。君は?」

 机に焼いたプレッツェルとバター、それからコーヒーを並べた後、美少年はカイザーに向かい合って座ってからそう名乗った。

「ミヒャエル・カイザー」

 レヴィンがプレッツェルに手を付けてからカイザーも食べ始めた。レヴィンはバターを塗りながら「いい名前だ」と言った。

 ミュンヘンの一般的なアパートメントの一室である。どこで食べるのだろうとカイザーが付いていくと、そこはレヴィンの自宅だった。
 一人暮らしだからか物が少なく広々としているが、部屋のあちこちに積まれた本が雑多な雰囲気を出していた。
 外からは小鳥の澄んだ鳴き声が聞こえる。ミュンヘンのアパートは低層が主であるので、ここは5階だが最上階であり、青空が良く見えた。

「こんな早朝になにしてたの?」
「それは一般には、こちらのセリフだと思うが?」
「はは確かに」レヴィンは右手をどうぞ、の形にして言った。「僕は川に飛び込んで自殺しようとしてた。君は?」
「……散歩だ」
「へえ、健康的だ。いつもこの時間に?」
「なぜそんなことを?」
「だって、また邪魔されたらたまったものじゃない」
「そんなふうには見えないが」

 レヴィンはキョトン、とした。それからフッと考えて、「誰かと朝ご飯を食べるのが初めてだからかも」と薄く笑った。「嬉しいんだ。きっと」

 ずいぶんと素直に感情を表すんだな、とカイザーはそれを見た。と同時に、からかわれている、とも思った。
 レヴィンの笑みは挑発的でありながら、どこか自嘲的だった。本心を誤魔化しで飾って伝える癖のついている人間の笑い方である。
 カイザーも薄く笑って返した。

「へえ、それは光栄だ」

 レヴィンは片眉をクッと上げた。コーヒーを一口飲む。
カイザーはレヴィンに倣ってプレッツェルにバターを塗って噛んだ。

 カイザーは不思議と、与えられることに対して抵抗がなかった。
 バスタードのクラブでチームメイトに食事プレートを差し出されたときはとてつもない不快感が腹の中を駆け巡ったというのに、目の前のプレッツェルはただそこにあった。こんがりと焼けたプレッツェルが静かに皿の上に収まっていた。
 きっと、カイザーが一切の好意をレヴィンから感じ取らなかったからだろう。レヴィンはカイザーがプレッツェルを捨てようと食べようと気にしなかったに違いない。ここでカイザーが急に立ち上がって無言のまま帰宅しても、彼は目線も向けずに朝食を続ける。そういう確信があった。
 だからカイザーは気が楽だった。スラムの外階段で朝日を眺めるときと同じ気持ちで、彼の前に座っていられた。
 窓の外で青空が高く澄んでいた。


 それから二人は無言のまま朝食を終えた。
 晴れた日曜日の午前のことである。




 そして翌日。
 ミュンヘン郊外のマナーハウス。
 そこでさあオヒメサマとご対面、もうどうにでもな~れと扉の先を見ると、そこにはあの美少年レヴィンがいたというわけである。
 酸いも甘いも経験した19歳のカイザーならなるほどねとちょっと首をかしげながら適当に口説いて終わったかもしれないが、15の幼い少年カイザーは当然困惑した。
 彼は女だった? それともゲイ? 男でいい相手が見つからないから適当に見繕って済ませようとしたのか? それともオヒメサマに会う前にふさわしい相手かどうか試されている?
 カイザーの怪訝そうなブルーの瞳をフッと笑って、レヴィンは疑問に答えるように口を開いた。

「昨日ぶりだね、Mr.カイザー。きみと婚約する予定だった女の子は今はモルディブでダイビング中だ。そして君のパートナーには代わりに僕が立候補した。」

 教授が説明するように右手を示しながら、レヴィンはカイザーの前に立った。

「きみには僕のパートナーになってもらう。と、言っても」

 カイザーの手から契約書のファイルを抜き取りサッと中を見てサインをした後、別の紙を握らせながら言った。レヴィンのアイスグレーがカイザーのブルーを見つめる。

「捜査協力者として、だけどね」

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