旅
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赤木しげるという人と出会ってから一週間ほどになる。彼はあれから、ずっとここに落ち着いていて、どちらかと言えば同棲に近いようなことをしている。一人では出歩くなと頑なに彼は言うので、私のほうは、未だに根無し草だった。彼は、シャツにジーパンというラフな服装でありながら年季の入った革鞄は度々、複数の万札束の姿を覗かせるような人であるから、こっちは貯蓄皆無だのに、知らぬ間に諸々の費用が支払われていたり、父の使っていた本棚に、仕舞ったはずの本が幾らか、戻されているだけでなく、目新しいのが加わっていたり、とにかくに、働いていないながら不自由のない生活には、一寸恐々とさせられていた。家事だって大抵手伝ってくれるものだから、どうしようかと、ここ3日は内心で独り言ちていた。
そして昨日とうとう、そんなのを口にしてしまえば、彼はニヤっとして、少し付き合ってくれと、そう言ったのだった。
下着をひとつとお金だけ持って、彼に手を引かれながら、久々に表に出た。梅雨らしい雨降りだったが、自分のものは前に無くしてしまって父の分しかなく、二人でひとつの傘に入っている。傘の下では少しの音でも響くのに雨音はあまり聞こえないから、傘の外の世界と線引かれているようで不思議だった。家を出て黒く大振りな、すこし錆びっぽい傘を広げたとき、何か胸が痛んだから、父のことを辛く思わず済む日はまだ先であると悟って、不安と安堵とが同時に湧き起こった。
「どこに行くんですか」
「そう焦らなくてもいいじゃない。着けばわかる」
すぐそばの彼を見遣って言えば、彼は目線だけ向けて答えた。彼の肩は雨に濡れていた。
「傘、いいですよ、こちらに傾け過ぎでしょう」
彼は何を口にするでもなく立ち止まり、傘を右から左に持ち替えた。空いた右手が伸びて来て、私の左手に掠め触れた。するり、と皮膚擦れの音が響いて、柔く触れ合った両手は、指と指が絡まって握られた。背筋に震えが走る。彼は読めない顔だったが、不機嫌ではないという様子で、そのまま手を引いて歩き出した。その肩は雨曝しのままだった。
切符を買って電車に乗り込む。平日だから人はそう多くない。端の席に腰を下ろすと、扇風機の風があたって、肩が少し震えた。年季の入った列車は、笛の音を合図に扉を閉めた。プシュウと空気の抜けたような音が、ガーガー言っている扇風機の音に重なった。
「はる」
ぼうっとしていると不意に名前を呼ばれ、肩が揺れた。はい、と返事をする。
「おたく、旅行はしたことあるの」
「……旅行って、どういうものが旅行になるんでしょう」
「…さぁ……それは手前で決めるんじゃない」
「…そうですか。それならまあ…人並みには、あるかもしれません」
「そう。どこに行ったの」
「……海外」
一瞬の躊躇はその一言を引き出して、膝に向かった唇から音になって漏れ、容赦なく彼に届いたらしかった。
へぇ、海外。
パァーと汽笛が鳴って、走行音が一段階高くなる。乗っているのと反対方向に過ぎっていく車両の残像が視界の隅に映っている。
「でも観光じゃありません。私は英語もできないし。親に連れられてあちこちの病院とか大学とかに行ったんです。それも本当に昔のことで、」
そんなに、と続けた言葉が車両の中に響いて、咄嗟に口を止めた。過ぎ去って急に静かになったのだと、一拍遅れて理解して、何か間違えた気がして目を瞑った。
「フフ……大丈夫だよ」
何故か彼はそれだけ言って、切符を指先でちょっと遊ばせて、すぐやめた。薄橙の東京行きが二枚、無骨な掌に収まっていた。二人ともそれから喋ることはなかった。
そして昨日とうとう、そんなのを口にしてしまえば、彼はニヤっとして、少し付き合ってくれと、そう言ったのだった。
下着をひとつとお金だけ持って、彼に手を引かれながら、久々に表に出た。梅雨らしい雨降りだったが、自分のものは前に無くしてしまって父の分しかなく、二人でひとつの傘に入っている。傘の下では少しの音でも響くのに雨音はあまり聞こえないから、傘の外の世界と線引かれているようで不思議だった。家を出て黒く大振りな、すこし錆びっぽい傘を広げたとき、何か胸が痛んだから、父のことを辛く思わず済む日はまだ先であると悟って、不安と安堵とが同時に湧き起こった。
「どこに行くんですか」
「そう焦らなくてもいいじゃない。着けばわかる」
すぐそばの彼を見遣って言えば、彼は目線だけ向けて答えた。彼の肩は雨に濡れていた。
「傘、いいですよ、こちらに傾け過ぎでしょう」
彼は何を口にするでもなく立ち止まり、傘を右から左に持ち替えた。空いた右手が伸びて来て、私の左手に掠め触れた。するり、と皮膚擦れの音が響いて、柔く触れ合った両手は、指と指が絡まって握られた。背筋に震えが走る。彼は読めない顔だったが、不機嫌ではないという様子で、そのまま手を引いて歩き出した。その肩は雨曝しのままだった。
切符を買って電車に乗り込む。平日だから人はそう多くない。端の席に腰を下ろすと、扇風機の風があたって、肩が少し震えた。年季の入った列車は、笛の音を合図に扉を閉めた。プシュウと空気の抜けたような音が、ガーガー言っている扇風機の音に重なった。
「はる」
ぼうっとしていると不意に名前を呼ばれ、肩が揺れた。はい、と返事をする。
「おたく、旅行はしたことあるの」
「……旅行って、どういうものが旅行になるんでしょう」
「…さぁ……それは手前で決めるんじゃない」
「…そうですか。それならまあ…人並みには、あるかもしれません」
「そう。どこに行ったの」
「……海外」
一瞬の躊躇はその一言を引き出して、膝に向かった唇から音になって漏れ、容赦なく彼に届いたらしかった。
へぇ、海外。
パァーと汽笛が鳴って、走行音が一段階高くなる。乗っているのと反対方向に過ぎっていく車両の残像が視界の隅に映っている。
「でも観光じゃありません。私は英語もできないし。親に連れられてあちこちの病院とか大学とかに行ったんです。それも本当に昔のことで、」
そんなに、と続けた言葉が車両の中に響いて、咄嗟に口を止めた。過ぎ去って急に静かになったのだと、一拍遅れて理解して、何か間違えた気がして目を瞑った。
「フフ……大丈夫だよ」
何故か彼はそれだけ言って、切符を指先でちょっと遊ばせて、すぐやめた。薄橙の東京行きが二枚、無骨な掌に収まっていた。二人ともそれから喋ることはなかった。
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