翌日
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
襖越しに、微かなパチリ、パチリと牌を打つ音が聞こえる。きっともう始まっているのだろう。改めて部屋を見渡し、この余りにも質素な和室には、自分の座る座布団、少しの本と雑誌が入った本棚、床の間…それくらいしか、物と呼べるものがなかった。本棚へざっと目を配らせるが、あまり面白そうなものは見つからない。ふぅ、と行き場のないため息を吐く。
たった今、自分を賭けたギャンブルが隣の部屋で行われている。その事実を、不思議と自然に受け入れていた。多分、慣れてしまったのだろう。思えば、こんなことは昔からよくあった。常にどこかしらでは求められ、同時に別の場所では拒まれてきた。学校という狭い社会においてそれは顕著で、それ故に今の自分に友人と呼べる存在はいない。大学に行くようになってからは幾分か変わったが、その根本自体はぴくりとも動く気配はなかった。就職しても同じだった。だからか、昔からずっと生きているという実感が湧くことは少なかった。一人でやって楽しいことは勿論沢山あるが、そこに人との関わりが入らなければ、その楽しいことはただのつまらないことに変わるのだと物心ついてからしばらくして解った。人との交流という楽しさを知ってしまったが故の、それができない空虚感ほどどうしようのないものはなくて、父に相談しても、父はそのうちできるさと真面目に取り合ってくれることはなかった。そして、そのまま死んでしまった。
しかし、その穴を埋めるように現れたのがあの赤木という人だった。勤め先の会社が給料日前に急に潰れ、葬儀で貯金も使ってしまっていたため、残った十数万を返すことができない自分は、組で働かせてもらえるというので住み込みで働く契約をするよう言われた。そしてその直前に、彼は丁度目前にあるこの襖を開けた。じろり、と鋭い視線を受けて、そこから何を感じたのか、契約書へのサインをギリギリまで引き延ばそうと決意した。住み込みではなくきっとどこかへ売られるのだろうとは周囲の雰囲気から察していて、そうでなくともここで働くということは裏の世界に入ることと同じだった。今まで半ば流されて生きてきたにしては、意外にも、それがなんとなく嫌だと思う自分に従うことにしたのだった。彼に助けを求めなどしなかったが、彼が抵抗する意思というものを提示するという形で自分を助けてくれたのは事実だった。
同時に、根拠などないが、彼は何かが違うと直感が告げていた。こんな時の直感は従うべきだと知っていたので、何も言わずに彼についていった。何も思いつかなかったのか彼は行きたいところを聞いてきて、咄嗟に家だと答えたら、意外そうに喉で笑って了承した。家に帰ってからも襲ってくることはなかったから、ますます金を蹴って自分を手にした彼の目的がわからなくなった。ただ、話すにつれてなんとなく気まぐれだったこと、しかし自分は確実に手に入れようとしていたことがわかって、微妙な気持ちだった。本当に彼を家に上げてよかったのか後悔したが、理由はどうであれ助けてくれた恩を無駄にするのは良くはないともてなすことを決めた。それもすぐに裏切られることとなって今ここにいるが、彼が負けることはないだろうという自信がどこからともなく湧き出ている。彼がした行為は良いものではないが、それでもあの時、されるがままのほうが安全だと勘で思ったので、彼を黒服達から庇うように前に立ち続けた。思えば、あの時はあの状態が"黒服が来たことを予想しておらず、かつ彼が死なない"一番自然な図だっただろうが、あの時のことを思い出して身体がぶるりと震えた。あの時も今も、感じたのは特別拒否反応のようなものでも、くすぐったさというものでもなかったが、名前のわからないむず痒い感触だった。また身体がぶるりと震えて、両肩を手のひらでさすった。
「…あの、寒ければひざ掛けなどを持ってきますが……」
一人の低い声が静寂に響いた。少し若い黒服がどうでしょう、という目線でこちらを見ている。
「…お気遣いありがとうございます、寒くはありませんから大丈夫です」
嘘だった。本音を言うならば少し寒かったし、何か一枚羽織るものがあればと内心思っていた時だった。しかし例え彼の親切心としても、ここは自分を取り戻すために一億賭けるまでした組の只中であり、彼はその一員で、軽率に信用していいはずがなかった。飲み物も、持ってきたペットボトルの水しか口にすることは出来ない。だからその理論で言えば、ありとあらゆるものをまず疑わなければならなかった。毛布を掛けようとした途端毛布で包まれて動けないようにされたら? 本に臭いをかぐだけでも効く強力な睡眠薬が染み込ませてあったら? などと、この手のものはキリがない。退屈であるのに何もできないこの状態は、まさに退屈を突き詰めた形だった。出来ることといったら、今後のことを考えるか、妄想をするか、とにかく何か考えることだけだ。父子家庭で昔から家事に仕事にとせこせこ生きてきたためか、こういう急な暇な時間には慣れていない。この暇な時間を家事や仕事のために割り当てられたらどんなにいいか、なんて不毛なことを考えていたら、急に周囲の黒服達が忙しなく動き始める。それをただ眺めていたら、目の前の襖が開かれた。あの時と同じだった。
「…クク……暇でしょ、そんなところに何もしないでずっといたら…ねぇ、ここ、開けとくよ」
彼はそう言って、こっちに来いと手招きをする。誘われるまま男のほうへ行けば、雀卓と勝負相手と数人の黒服、それに自分を得ようと必死になっている組長が目に入った。黒服もそうだが特に組長の狂気的な視線をひしひしと感じて、ぞくり、と背に悪寒が走る。自分をここに招いた本人はひどく気楽そうに、あらら、そんなに緊張しないでよ、と自分の腕を引き、彼は席に戻って自分にその隣に座るように促した。変えたばかりなのかまだ真新しい畳に正座しようとしたが、足が少し痺れてしまっているようで、そのまま足を隣に流す形に落ち着いた。すると彼はまたくつくつと笑う。
「ククク…あれだけ長いこと正座して、痺れがそれだけなんじゃ、そりゃあヤー公に狙われるわけだ……」
「…私だって足くらい痺れますけれど…どういう意味ですか?」
「クク…いいや、なんでもないさ。ところで…あんた、麻雀のルールは知ってる?」
「……簡単な基礎知識ならありますが、役や計算はあまり…」
「いや、それで十分…」
彼は腰に手を回し、ぐっと私の身体ごと引き寄せた。どくりと心拍音が身体中に響く。考える間もなく彼は少しだけ私を持ち上げ、すとん、とある定位置のようなところに落とし込んだ。それは彼の胡座の上だった。私の腹を彼は両手でぎゅっと抱え込んで、右肩の上に額を乗せる。彼の髪がちくちくと頬に擦り、くすぐったさで身体をよじっても全く離してくれる気配がない。恐らく彼は私に麻雀をやらせるつもりなのであろう。素人に打たせるなどどこまで馬鹿げたことを好む人なのだろうと思ったが、そう言えば彼のリスクは自分という存在だけだったことを思い出して、ふっと冷静になれた。
「…私に打てと言うんですか」
「…クク…そうじゃない。ブツに何かされたら困るからな…それに、このほうが寒くなくていい」
腹部に回してある彼の腕は露出していて半袖だった。しかし長ズボンであるし、梅雨の午後、雨で寒いといえど彼の服装ならそこまでではないのではないか。そんな疑問は手がかすった時の腕の体温で解決された。とても冷たい。低体温だとしてもここまではないだろう、と思う程に冷え切っていた。しかし背中と触れるような触れないような位置にある彼の腹部は並の温もりを持っていて、そこからじんわりと熱が移ってくる。
「…休憩はもういいだろう、勝負続行だ…!」
温かさに気を取られ、ふと正面から聞こえた声に少し肩を震わせて固くさせた。それが彼には直に伝わったのだろう、腹に回している腕をもう少し強く締め付けて、ああ、と返事のような声を発した。彼の右手が雀卓に乗せられると、それが合図のように洗牌が始められる。じゃらじゃらと鳴り響く一見うるさいが実は心地良い音は、確か縁起が良いのだと父が言っていたのをふと思い出し、その音が消えると同時にその記憶もフェードアウトしていった。カチャカチャと牌が積まれ、その時だけ彼の腕の拘束が解かれる。逃げるつもりなど別にないが、きつかった体勢を足をずらしたりして少し楽にした。彼は逃げられることはないと踏んでいたのか、気にかける気配すら噯気 にも出さなかったのがまた不思議だった。
たった今、自分を賭けたギャンブルが隣の部屋で行われている。その事実を、不思議と自然に受け入れていた。多分、慣れてしまったのだろう。思えば、こんなことは昔からよくあった。常にどこかしらでは求められ、同時に別の場所では拒まれてきた。学校という狭い社会においてそれは顕著で、それ故に今の自分に友人と呼べる存在はいない。大学に行くようになってからは幾分か変わったが、その根本自体はぴくりとも動く気配はなかった。就職しても同じだった。だからか、昔からずっと生きているという実感が湧くことは少なかった。一人でやって楽しいことは勿論沢山あるが、そこに人との関わりが入らなければ、その楽しいことはただのつまらないことに変わるのだと物心ついてからしばらくして解った。人との交流という楽しさを知ってしまったが故の、それができない空虚感ほどどうしようのないものはなくて、父に相談しても、父はそのうちできるさと真面目に取り合ってくれることはなかった。そして、そのまま死んでしまった。
しかし、その穴を埋めるように現れたのがあの赤木という人だった。勤め先の会社が給料日前に急に潰れ、葬儀で貯金も使ってしまっていたため、残った十数万を返すことができない自分は、組で働かせてもらえるというので住み込みで働く契約をするよう言われた。そしてその直前に、彼は丁度目前にあるこの襖を開けた。じろり、と鋭い視線を受けて、そこから何を感じたのか、契約書へのサインをギリギリまで引き延ばそうと決意した。住み込みではなくきっとどこかへ売られるのだろうとは周囲の雰囲気から察していて、そうでなくともここで働くということは裏の世界に入ることと同じだった。今まで半ば流されて生きてきたにしては、意外にも、それがなんとなく嫌だと思う自分に従うことにしたのだった。彼に助けを求めなどしなかったが、彼が抵抗する意思というものを提示するという形で自分を助けてくれたのは事実だった。
同時に、根拠などないが、彼は何かが違うと直感が告げていた。こんな時の直感は従うべきだと知っていたので、何も言わずに彼についていった。何も思いつかなかったのか彼は行きたいところを聞いてきて、咄嗟に家だと答えたら、意外そうに喉で笑って了承した。家に帰ってからも襲ってくることはなかったから、ますます金を蹴って自分を手にした彼の目的がわからなくなった。ただ、話すにつれてなんとなく気まぐれだったこと、しかし自分は確実に手に入れようとしていたことがわかって、微妙な気持ちだった。本当に彼を家に上げてよかったのか後悔したが、理由はどうであれ助けてくれた恩を無駄にするのは良くはないともてなすことを決めた。それもすぐに裏切られることとなって今ここにいるが、彼が負けることはないだろうという自信がどこからともなく湧き出ている。彼がした行為は良いものではないが、それでもあの時、されるがままのほうが安全だと勘で思ったので、彼を黒服達から庇うように前に立ち続けた。思えば、あの時はあの状態が"黒服が来たことを予想しておらず、かつ彼が死なない"一番自然な図だっただろうが、あの時のことを思い出して身体がぶるりと震えた。あの時も今も、感じたのは特別拒否反応のようなものでも、くすぐったさというものでもなかったが、名前のわからないむず痒い感触だった。また身体がぶるりと震えて、両肩を手のひらでさすった。
「…あの、寒ければひざ掛けなどを持ってきますが……」
一人の低い声が静寂に響いた。少し若い黒服がどうでしょう、という目線でこちらを見ている。
「…お気遣いありがとうございます、寒くはありませんから大丈夫です」
嘘だった。本音を言うならば少し寒かったし、何か一枚羽織るものがあればと内心思っていた時だった。しかし例え彼の親切心としても、ここは自分を取り戻すために一億賭けるまでした組の只中であり、彼はその一員で、軽率に信用していいはずがなかった。飲み物も、持ってきたペットボトルの水しか口にすることは出来ない。だからその理論で言えば、ありとあらゆるものをまず疑わなければならなかった。毛布を掛けようとした途端毛布で包まれて動けないようにされたら? 本に臭いをかぐだけでも効く強力な睡眠薬が染み込ませてあったら? などと、この手のものはキリがない。退屈であるのに何もできないこの状態は、まさに退屈を突き詰めた形だった。出来ることといったら、今後のことを考えるか、妄想をするか、とにかく何か考えることだけだ。父子家庭で昔から家事に仕事にとせこせこ生きてきたためか、こういう急な暇な時間には慣れていない。この暇な時間を家事や仕事のために割り当てられたらどんなにいいか、なんて不毛なことを考えていたら、急に周囲の黒服達が忙しなく動き始める。それをただ眺めていたら、目の前の襖が開かれた。あの時と同じだった。
「…クク……暇でしょ、そんなところに何もしないでずっといたら…ねぇ、ここ、開けとくよ」
彼はそう言って、こっちに来いと手招きをする。誘われるまま男のほうへ行けば、雀卓と勝負相手と数人の黒服、それに自分を得ようと必死になっている組長が目に入った。黒服もそうだが特に組長の狂気的な視線をひしひしと感じて、ぞくり、と背に悪寒が走る。自分をここに招いた本人はひどく気楽そうに、あらら、そんなに緊張しないでよ、と自分の腕を引き、彼は席に戻って自分にその隣に座るように促した。変えたばかりなのかまだ真新しい畳に正座しようとしたが、足が少し痺れてしまっているようで、そのまま足を隣に流す形に落ち着いた。すると彼はまたくつくつと笑う。
「ククク…あれだけ長いこと正座して、痺れがそれだけなんじゃ、そりゃあヤー公に狙われるわけだ……」
「…私だって足くらい痺れますけれど…どういう意味ですか?」
「クク…いいや、なんでもないさ。ところで…あんた、麻雀のルールは知ってる?」
「……簡単な基礎知識ならありますが、役や計算はあまり…」
「いや、それで十分…」
彼は腰に手を回し、ぐっと私の身体ごと引き寄せた。どくりと心拍音が身体中に響く。考える間もなく彼は少しだけ私を持ち上げ、すとん、とある定位置のようなところに落とし込んだ。それは彼の胡座の上だった。私の腹を彼は両手でぎゅっと抱え込んで、右肩の上に額を乗せる。彼の髪がちくちくと頬に擦り、くすぐったさで身体をよじっても全く離してくれる気配がない。恐らく彼は私に麻雀をやらせるつもりなのであろう。素人に打たせるなどどこまで馬鹿げたことを好む人なのだろうと思ったが、そう言えば彼のリスクは自分という存在だけだったことを思い出して、ふっと冷静になれた。
「…私に打てと言うんですか」
「…クク…そうじゃない。ブツに何かされたら困るからな…それに、このほうが寒くなくていい」
腹部に回してある彼の腕は露出していて半袖だった。しかし長ズボンであるし、梅雨の午後、雨で寒いといえど彼の服装ならそこまでではないのではないか。そんな疑問は手がかすった時の腕の体温で解決された。とても冷たい。低体温だとしてもここまではないだろう、と思う程に冷え切っていた。しかし背中と触れるような触れないような位置にある彼の腹部は並の温もりを持っていて、そこからじんわりと熱が移ってくる。
「…休憩はもういいだろう、勝負続行だ…!」
温かさに気を取られ、ふと正面から聞こえた声に少し肩を震わせて固くさせた。それが彼には直に伝わったのだろう、腹に回している腕をもう少し強く締め付けて、ああ、と返事のような声を発した。彼の右手が雀卓に乗せられると、それが合図のように洗牌が始められる。じゃらじゃらと鳴り響く一見うるさいが実は心地良い音は、確か縁起が良いのだと父が言っていたのをふと思い出し、その音が消えると同時にその記憶もフェードアウトしていった。カチャカチャと牌が積まれ、その時だけ彼の腕の拘束が解かれる。逃げるつもりなど別にないが、きつかった体勢を足をずらしたりして少し楽にした。彼は逃げられることはないと踏んでいたのか、気にかける気配すら