雨の日の夜に
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はる、というその女は、アパートの二階の一番奥、1LDKという一人暮らしには少し広過ぎるような部屋に住んでいた。しかし部屋を見ればこの女以外の人の気配はなく、どこか安堵する自分がいた。…ああ、さっきから何故だか不快だと思っていたのはこのせいだったのか。乾いた笑いで自嘲する。はるにとって大切な、あるいはそうでなくとも男は部屋にあげるといった考えをこの女に存在させたかもしれない、存在すらしていない奴に妬くなんて一目惚れにも程がある。
キッチンで湯が沸くのを待つ女はただ椅子に座り、急須と湯飲みを用意して待っていた。その瞳はまた、何も宿していない。自分はこれに惹かれたのだろう。無性に、この女の瞳に何かを宿したかった。それは喜び、悲しみといったあらゆる感情であり、快感のようなあらゆる感覚すらも含んでいる。要するに自分は、女を意のままに、それも独占的にそうしたいのだというただの惚れ込んだ男の心理であっただけだった。
「一人で住んでるのか、ここ」
聞けば、ゆっくりと顔を上げ、また何も言わずに頷いた。喋るのが嫌いなのか口数はとても少なく、惜しいとさえ思う。あんたの、はるの声が聞きたい。
「…急に、声が聞きたいと言われても」
そう答えた女に、自分が今の考えを口にしてしまっていたのだとすぐ理解した。言っていないつもりだったのだが、それを勘付かれていないようだからまあいいだろう。何もなかったかのような顔で続ける。
「聞きたいね。馬鹿なくらいに聞きたい」
女は答える。
「声なんて、話していれば自然と耳に入るものではないでしょうか」
「だから何か話してよ。あんたのこと、そうじゃないことも」
それでもまだ、瞳には何も宿さない。並大抵ではだめだ。あの時この女が驚きを見せたのも、きっとあそこから出ることはない、出られないと強く思っていたからという前提があったからだろう。この女の前提を覆すような、何かとてつもない衝撃を与えうるようなものでないといけない。火を止めてお湯を湯飲みに注ぎ入れるはるの手つきは手慣れていて、この手はいつも誰にこうして茶を淹れてもてなしているのかと思うと何かが歪んだ。女は湯飲みから急須へお湯を移し替える。指先は少し熱そうながらも落とす気配がなかった。
「…じゃあ」
沈黙を破ったのははるのほうだった。視線が合わさる。
「あなたの名前も、教えてくれますか」
まっすぐ自分を見て言うその眼には、自分のいる風景が黒に美しく映っている。それが自分の口角を上げさせた。
「ああ、まだ言ってなかったな。赤木しげるだ。好きに呼ぶといい」
「……赤木さん、ですか」
女はすこしだけ目を見開いてそう呟く。その眼の奥は自分に対する興味のような、関心が示されている。喉から笑いが漏れた。
「赤木さんはお金に興味がない方、なんでしょうか。そう思ったのですが」
女はそう聞いてきた。自分への関心が少しずつ高まっているようで、ちりちりとした快感が胸に走る。
「さあね。今日はあんたがいたから相手方が拒否できないくらいに跳ね上げて跳ね上げたまでさ」
女の瞳に電光によるハイライトが映る。また関心を買えたようだ。案外扱いやすいのだろうか。しかしすぐにそれはないと直感が告げる。また、喉の奥が鳴った。
「…今日は、楽しめましたか」
女はまた自分をまっすぐに見て言う。ほら、やっぱり。この女は、自分の奥を見ながら話しているのだ。初対面の相手にそんなふうに接する奴はなかなかいるものじゃない。
「…そうでもない。正直、差し勝負をふっかけたのもあんた目的だったからと言えばそうなる」
「…じゃあ、少しは楽しめたんですね」
女は急須に手を伸ばし、二つの湯飲みに茶を注ぎならがそう言った。眼は少し伏せられていて、口角はかすかに上がっている。コトン、と前に湯飲みが出された。どうぞ、と女は言う。ああ、と答えて、湯飲みを手に取った。ズズズ、とお茶をすする。
「もう遅いですが、お風呂、つくったら入りますか。着替えなら一応父のものがあります」
「ああ、じゃあ頼もうかな……」
自分はただこの女の、はるの対応を不思議に思った。素性も知らない、しかも自分をあの場所から掻っ攫った相手に対して、礼というには過ぎたものばかりだった。いくら雨が降っていたとはいえ、自分が代打ちの報酬を受け取ったのをこの女は見ていたはずだ。
「…あんたも物好きだね。俺みたいな男を家にあげて、もてなすまでするなんて」
そう言うと女は顔を上げて、少し目を丸くしたと思ったら柔らかく微笑んだ。雨が包む静寂に小さな笑い声が映える。
「何をおっしゃるんです、こんな夜遅くの、しかも雨の日なのに助けてくださった人を追い出す馬鹿じゃありません」
お風呂つくってきますね、と立ち上がり去っていくはるを目で追いながら、まだ温かい緑茶をすすった。
キッチンで湯が沸くのを待つ女はただ椅子に座り、急須と湯飲みを用意して待っていた。その瞳はまた、何も宿していない。自分はこれに惹かれたのだろう。無性に、この女の瞳に何かを宿したかった。それは喜び、悲しみといったあらゆる感情であり、快感のようなあらゆる感覚すらも含んでいる。要するに自分は、女を意のままに、それも独占的にそうしたいのだというただの惚れ込んだ男の心理であっただけだった。
「一人で住んでるのか、ここ」
聞けば、ゆっくりと顔を上げ、また何も言わずに頷いた。喋るのが嫌いなのか口数はとても少なく、惜しいとさえ思う。あんたの、はるの声が聞きたい。
「…急に、声が聞きたいと言われても」
そう答えた女に、自分が今の考えを口にしてしまっていたのだとすぐ理解した。言っていないつもりだったのだが、それを勘付かれていないようだからまあいいだろう。何もなかったかのような顔で続ける。
「聞きたいね。馬鹿なくらいに聞きたい」
女は答える。
「声なんて、話していれば自然と耳に入るものではないでしょうか」
「だから何か話してよ。あんたのこと、そうじゃないことも」
それでもまだ、瞳には何も宿さない。並大抵ではだめだ。あの時この女が驚きを見せたのも、きっとあそこから出ることはない、出られないと強く思っていたからという前提があったからだろう。この女の前提を覆すような、何かとてつもない衝撃を与えうるようなものでないといけない。火を止めてお湯を湯飲みに注ぎ入れるはるの手つきは手慣れていて、この手はいつも誰にこうして茶を淹れてもてなしているのかと思うと何かが歪んだ。女は湯飲みから急須へお湯を移し替える。指先は少し熱そうながらも落とす気配がなかった。
「…じゃあ」
沈黙を破ったのははるのほうだった。視線が合わさる。
「あなたの名前も、教えてくれますか」
まっすぐ自分を見て言うその眼には、自分のいる風景が黒に美しく映っている。それが自分の口角を上げさせた。
「ああ、まだ言ってなかったな。赤木しげるだ。好きに呼ぶといい」
「……赤木さん、ですか」
女はすこしだけ目を見開いてそう呟く。その眼の奥は自分に対する興味のような、関心が示されている。喉から笑いが漏れた。
「赤木さんはお金に興味がない方、なんでしょうか。そう思ったのですが」
女はそう聞いてきた。自分への関心が少しずつ高まっているようで、ちりちりとした快感が胸に走る。
「さあね。今日はあんたがいたから相手方が拒否できないくらいに跳ね上げて跳ね上げたまでさ」
女の瞳に電光によるハイライトが映る。また関心を買えたようだ。案外扱いやすいのだろうか。しかしすぐにそれはないと直感が告げる。また、喉の奥が鳴った。
「…今日は、楽しめましたか」
女はまた自分をまっすぐに見て言う。ほら、やっぱり。この女は、自分の奥を見ながら話しているのだ。初対面の相手にそんなふうに接する奴はなかなかいるものじゃない。
「…そうでもない。正直、差し勝負をふっかけたのもあんた目的だったからと言えばそうなる」
「…じゃあ、少しは楽しめたんですね」
女は急須に手を伸ばし、二つの湯飲みに茶を注ぎならがそう言った。眼は少し伏せられていて、口角はかすかに上がっている。コトン、と前に湯飲みが出された。どうぞ、と女は言う。ああ、と答えて、湯飲みを手に取った。ズズズ、とお茶をすする。
「もう遅いですが、お風呂、つくったら入りますか。着替えなら一応父のものがあります」
「ああ、じゃあ頼もうかな……」
自分はただこの女の、はるの対応を不思議に思った。素性も知らない、しかも自分をあの場所から掻っ攫った相手に対して、礼というには過ぎたものばかりだった。いくら雨が降っていたとはいえ、自分が代打ちの報酬を受け取ったのをこの女は見ていたはずだ。
「…あんたも物好きだね。俺みたいな男を家にあげて、もてなすまでするなんて」
そう言うと女は顔を上げて、少し目を丸くしたと思ったら柔らかく微笑んだ。雨が包む静寂に小さな笑い声が映える。
「何をおっしゃるんです、こんな夜遅くの、しかも雨の日なのに助けてくださった人を追い出す馬鹿じゃありません」
お風呂つくってきますね、と立ち上がり去っていくはるを目で追いながら、まだ温かい緑茶をすすった。