2 青信号

青信号 1

 引ったくり! と叫び声が聞こえたのは、高校からの帰り道でのことだった。

 学校の授業というものは退屈でならんね、と愚痴をこぼす少年姿のテスカトリポカが、道に落ちていた程よい長さの木の棒を見つけて、途端に上機嫌になった日。
 江戸川少年は、そんなしたながテスカを苦笑しながら眺め、そして前を歩く毛利蘭としたなが明を見る。
したながさんって運動神経いいの? 体育の授業でソフトボールしたけど、速い球を投げてたし」
「あー……どうだろう? そこそこかな? いろいろ走り回って体力はついてるかも知れないけど」
 曖昧な返事をする明を見て、江戸川コナンは先日のことを思い出していた。したながという、珍しい名字について訊ねたときのことを。
 どこの出身なのか、探りを入れた時だった。さらりと「知らない」と答えた明は、特に気分を害した風でもなく、「記憶がないから」と続けたのだ。これにはコナン少年も面食らった。
 一体、どういった理由で過去のことを覚えていないのか。何がきっかけで記憶を失うことになったのか。非常に気にかかる。もしかしたら、明は何らかの事件によってその記憶を──
 ポコッ!
「いてっ!?」
 それは唐突な一撃だった。江戸川コナンは、頭に軽い衝撃を受けて唖然とした。隣に立つ褐色の少年……テスカが、木の棒を振り回しているのが見えた。
「何を考えているのかは知らんがね、少年」
 お前も少年だろう、と江戸川コナンは思った。
 テスカは気にせず言葉を続ける。
「人のきょうだいを不躾に観察するのは、頂けないなあ……ああ! 頂けないとも!」
 この褐色の小学2年生は、江戸川少年の思考をどこまで見抜いているのだろう。コナンが言葉に詰まっていると、その褐色の少年の頭を小突く者がいた。
「こら」
 したなが明その人だった。
「木の棒を振り回すな。江戸川くんに当たっただろうが。ちゃんと謝っとけ。分かった?」
「わざとではないのだがね?」
「わざとじゃなくても、ぶつけたら、ごめんなさい、だろ」
「むぅ」
 まったく、とため息をつく明は、再び毛利蘭と並んで歩こうと数歩進み……悲鳴を聞いたのだった。
 引ったくり! と、女性の声が響いた。

 見れば、向こう側からこちらに向かって、二人乗りのバイクが走ってくるではないか。後ろに乗ったリュックを背負った男が、女性ものの小さめなカバンを手にしているのが、明には見えた。
 バイクは直進してくる。スピードを緩める気配はない。
 明は駆け出した。毛利蘭の制止する声も聞かず、バイクに向かって走っていった。
 跳び上がり、ガードレールを足場に3歩走る。バイクとのすれ違いざま、思い切り運転手の顔に横蹴りを繰り出した。
 突然の出来事に対応しきれなかったのだろう。運転手はハンドルを思い切り切って、バランスを崩した。バイクが横転する。幸いにも車の通りはなく、事故には至らなかった。
 パニックになった同乗者が、慌ててリュックの中身をぶちまけながら立ち上がる。リュックからはガスボンベを使用するタイプのバーナーに、バール、やや分厚い封筒や貴金属がバラバラと出てきた。拾う余裕もないらしい。男二人はバイクを捨てて、怪我をした足を引きずりながら、走って逃げようとしている。
 明は男の手から、女性もののカバンを奪い取った。
 それに構わず、男たちは逃げいく。
 江戸川コナンは、自身の腰に装着しているベルトに手をかけた。犯罪を起こす者を見過ごせない。ベルトからボールを飛び出させ、ようとした瞬間。

 細長い棒のようなシルエットが、風を切ってまっすぐに、男めがけて飛んでいくのが見えた。

 ドシュ、と音を立てて、木の棒が男の脇腹に突き刺さる。
「な、なんだ!?」
 怯えたような男の声が響き、逃走する二人が立ち止まった。二人のうち一人が、自身の脇腹を……正確には、ダボつく上着の脇腹部分──空白のそこに目をやる。
 木の棒が後ろから前へ、上着を貫通してぶら下がっている……。それを見て、服を駄目にされたほうが盛大に尻餅をついていた。
「おや、貫くものを間違えたなあ」
 のんきに声を上げるのは、江戸川少年の隣にいる褐色の男児である。バールを手に、片方の眉を上げて引ったくり犯たちを見ている。
 バールの折れ曲がっている部分。そこに木の棒を縦に引っ掛けて、テコの原理で遠投したのだと、江戸川コナンには見当がついた。
「次は喉を狙ってみようか」
 テスカが抑揚を抑えた声で告げるものだから、引ったくり犯たちは怯んで動けない。明はカバンを蘭に預けると、二人組の男の前に歩を進める。
 そして、言う。
「喉を貫かれるか、骨を折られるか、警察に保護・・されるか、3つに1つだよ」
 骨を折られる、という選択肢に、男二人は言葉を失う。おそらく、目の前の明によって折られるのだろうと、予想がついた。
 思い出したかのように、毛利蘭がスマホを手にする。急いで通報。
 学校からの帰り道での出来事だ。
 あまりにも目立った。

 警察官が到着して、引ったくり2名は連行された。したなが明は、クラスメイトに囲まれていた。
「すげーな、したなが!」
 そう声をかけてきたのは、たしか沢田くんと言ったか……B組の男子だ。
「いや、別に、私が捕まえたわけじゃないし」
「でもガードレール走ったろ!」
「3歩ね」
「バイクに蹴り食らわせて倒してたし! つえーな、お前!」
 そうでもないよ、と返す明を、沢田くんは「かっけえ」「かっけえ」と、しきりに褒め倒していた。
 明としては、何も特別なことはしていないつもりだ。前にいた世界の東京では権能ルールを使って暴れる者もいたから、それに対抗する多少の手荒い真似は習得していた。
 それが役に立ったというだけだ。
 蘭が被害者の女性にカバンを返却しているのを見て安堵した明は、自身を囲んでいるクラスメイトたちをかき分け、蘭やテスカと合流する。
 テスカはポカンとした表情で、明を見上げていた。
 まるで、予想外のことが起きたかのように。
 江戸川少年も、明を見上げている。……いや、視線が明の頭の向こうを向いていた。
 何かあったのか。
 明は振り向いた。

 白い長髪をポニーテールにした、長身の美男子……ケツァルコアトルが、明の後ろで、不機嫌そうに立っていた。
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