gamblers dreaming 寄稿社長夢小説web再録
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メインフロアから漏れ聞こえる悲喜こもごものカジノ客の声をBGMに、事務所のソファに深く身を沈めた名無氏は手作りのお弁当を口に運びつつ、スマートフォンに添えた指を左右に動かしていた。
(同い年の弁護士さんか。こっちの人は銀行で働いていて……。すごく優しそうな人だなあ)
名無氏の指の動きに合わせて、にこやかな笑みを浮かべた男達の顔が次々とスマートフォンの画面上に映し出されていく。
(でも、こんなことで本当に諦めがつくのかな)
眼前の男達とは対照的な浮かない顔つきで卵焼きを頬張り、名無氏は小さくため息をついた。
遡ること数日前、友人達との楽しいランチ中に恋の悩みについて打ち明けた名無氏だったが、彼女らの反応はあたたかい声援とは言い難いものであった。
「正直難しいかもね」
パスタをクルクルと巻きながら、少し戸惑ったような顔で名無氏の対面に座る友人が言葉を続けた。
「応援したい気持ちはあるけど……聞く限りじゃちょっと愛情薄そうな人じゃない?」
「だよねー。なんか好きとか可愛いとかあんまり言ってくれなさそうだし、一緒にいても悲しい思いをしそうというか」
名無氏の右に腰掛け、注文したスフレケーキの撮影に真剣な様子の友人も同調する。浴びせられたけんもほろろな言葉にそんなこと……と反論をしようとした名無氏だったが、心当たりのある名無氏は閉口するに留まった。
左隣でシチューを頬張る友人も食い気味に答えた。
「分かる! 付き合う前から苦労するのが目に見えてるよ。どこに惹かれたの? 顔が好みとか? もしかしてすごいお金持ちとか!?」
「それそれ。後はさ、職場内恋愛って時点でけっこう難しいよね。厳しい人みたいだし。上司と部下なら尚更じゃない?」
「……そうだね」
名無氏は友人達の勢いに押され、口ごもった。 彼女は友人達に好き勝手品評されたこの男――自身の雇い主、村岡隆にあろうことにも恋心を抱いてしまったのである。
村岡は従業員に「性根が悪い」とズバッと評されるほどの自分本位な男であったが、名無氏としては仕事に対する妥協を許さない態度が好ましいと感じるし(例えそれが違法なギャンブルの話だとしても)お金の管理も甘さが無くしっかりしていてすごいなあ、と思うのだ(例えそれが違法な賭博で客から巻き上げたものであっても)
確かに物言いがキツかったりことある事に小言を繰り出すなど美点とは言い難い点もあるが、それを補って余りあるほどの良いところもある、かっこいい人だと思うと名無氏は友人達に声を大にして伝えたかった。実際のところ、こうして友人達の言葉に気圧されて意気消沈してしまっているわけだが。
「今までなんの進展もないっていうのが厄介だよね。ここはすっぱり諦めて次を見つけたらいいんじゃないかな」
名無氏が一人沈んでいる間も好き放題品評を続けていた彼女達だったが、やがてパスタを食べ終えた友人が名無氏の目の前にスマートフォンをかざし、ニッコリと笑った。
「あ〜、そういう選択肢もあるか。名無子はやったことある?マッチングアプリ」
「マッチングアプリ……?」
目の前にかざされたスマートフォンを見つめると、そこには「新しい恋活、はじめませんか?」という淡いピンクで縁取られた文字がふわふわと浮かんでいた。
こうしてあれよあれよという間に友人達の助言を受けマッチングアプリに登録してしまった名無氏だったが、いまいち熱が入らず、こうして昼休み中も卵焼きやウィンナーを咀嚼しつつなんとなく登録したてのマッチングアプリをいじって時間を潰しているのだ。
操作は簡単、いいなと思った相手に文字通り「いいね」のアイコンをタップして、向こうから反応があれば実際にやり取りに漕ぎ着けることができる、というシステムである。
雰囲気が良さそうな男や立派な経歴を持つ男の顔写真が名無氏の前に現れては消えていく。しかし、その間も村岡に対する感情はずっしりと名無氏の心にのしかかっていた。
最初はその守銭奴ぶりに辟易していたのに、自分の利益のためなら努力を惜しまない姿勢にすっかり心を奪われてしまい、その気持ちは簡単に消えてくれそうにない。むしろ多種多様な男の顔が目の前を通り過ぎる度に意識が自然と村岡に向いてしまう始末だ。
(そういえば、社長ももうすぐ休憩のはずだったな)
今日の恋活はここまで、と今後の見通しが立たないままにアプリを閉じようとしたその時。
「真っ昼間から男漁りざんすか」
聞き慣れた低い声が名無氏の鼓膜を震わせる。その言葉の意味を理解した瞬間、名無氏の背中に冷や汗がツゥと流れ落ちた。動揺を悟られないよう、なんとか平静を装って名無氏は後方を振り返った。
「社長、お疲れ様です」
そこには名無氏の雇い主兼片思いの相手である村岡がソファの背に手をつき、こちらを覗き込むようにして佇んでいた。その視線は名無氏の手にするスマートフォンの画面に注がれている。
(まずい……!)
見られた。よりによって意中の相手にマッチングアプリの画面なんてものを。
「あの、私、もう食べ終わったのですぐどきます」
とにかくこの場から離れなければ。名無氏は顔を強張らせてソファから勢いよく立ち上がる。が、予想外の出来事に慌ててしまったせいかその手からスマートフォンが滑り落ちてしまった。ゴトン、と鈍い音を立てて床に着地したそれは、食べかけの弁当箱が置かれたテーブルの下に吸い込まれていってしまった。
(ああ、もう……! )
名無氏は急いでテーブルの下に手を伸ばすが、骨張った手が名無氏のそれより早くスマートフォンを拾い上げる。
「……ありがとうございます。」
名無氏は骨張った手の持ち主である村岡に短く礼を告げた。しかし、当の村岡は名無氏にスマートフォンを返さないどころか、その画面をジロジロと眺めて口の端をあげて笑っているではないか。
「ちょっと、勝手に見ないでください!」
自分の持ち物を取り戻そうと腕を伸ばした名無氏だったが、その抵抗を見越していたかのように、村岡の手が名無氏の片腕をがっしりと掴んでしまう。
「こんな狭いところで暴れないでほしいざんす」
「わっ……」
村岡はバランスを崩した名無氏の体を無理やりソファに留まらせ、自身も彼女の隣にどかりと座る。度重なる喫煙ですっかり村岡に染み付いたハイライトの匂いが名無氏の鼻をくすぐった。その重たくまとわりついてくる強かな匂いに名無氏は胸の鼓動が速くなってくるのを否応なしに理解した。
「……なにするんですか」
すぐ隣に腰掛ける村岡との距離にドキリとするも、なんとか邪な気持ちを振るい払った名無氏は自身の雇い主に抗議の視線を向けた。
「別に? 随分面白いもの見てるようだから気になっただけざんす」
対する村岡はニヤニヤとした笑みを崩さず名無氏のスマートフォンに長い指を這わせ、勝手に画面をスクロールしていく。相変わらず睡眠不足らしく、クマで縁取られた顔がブルーライトに照らされている。
「随分素っ気ないざんすね。こんなので男が集まってくるとは思えないざんすが」
村岡が見つけたのは名無氏のプロフィール画面だった。雰囲気が分かる程度に顔下が映った写真に、短い一言が添えられている。
『はじめまして、気の合う方と色々お話してみたいです。よろしくお願いいたします』
村岡の無遠慮な指摘に、恥ずかしさからカッと顔を赤くした名無氏は口早に告げる。
「社長、早く返してください」
「ふうん……」
名無氏の制止も虚しく村岡はアプリの色々な箇所をタップしては好き放題物色をしている。
「よく分からんが……。こんなのでお前の男漁りが上手くいくとは思えないざんす」
面白おかしいといった調子で呟かれた村岡の言葉に、名無氏は胸の中が仄暗い感情で澱んでいくのを感じた。
名無氏とて村岡に何のアプローチもせずに日々を過ごしていたわけじゃない。仕事中は少しでも村岡から良い評価を得ようと難しいゲームの決まり事を頭に叩き込んだり、損得勘定を念頭に置いて客をあしらう等々、努力してきた。休憩の時間に偶然を装って村岡と2人きりになれるよう、同僚に根回しもしたし(その度に向けられる生暖かい視線にも耐えてきたのだ)村岡の好意を得られるよう、名無氏なりに行動してきたつもりだ。
友人の率直過ぎる言葉で改めて思ったが、それらに対して村岡から良い反応が返ってきた試しがない、と名無氏は思う。
裏カジノのオーナーという職業柄、細かなことにも良く目が行き届く村岡は、従業員のミスや客のイカサマは目ざとく気がつくのに、名無氏の気配りや努力などはまるで目に入っていないようだった。名無氏がヘアスタイルを変えて、他の従業員がそれを褒めたり珍しいものを見るような視線を向ける中、肝心の村岡は軽く一瞥しただけで帳簿との睨めっこを再開した時などは、名無氏は酷く落ち込んだものだった。
自分なりに誘いかけてみても、村岡から全く意識されていない、というのは彼女の心をへこませるのに充分だった。
自分の行動にはなんの意味もない。友人達との会食で名無氏のその気持ちはさらに膨れ上がった。
だから忘れようとしているのに、諦めようとしてるのに。そのために慣れないマッチングアプリなんてものまで使っているのに。やがてそんな気持ちは自棄めいたものとなって彼女の口から飛び出した。
「つまらないもの見せてすみませんでした。でも、社長には関係ないことでしょう? もう休憩も終わりますから返してください」
やり場の無い鬱屈した気持ちを抱えたまま、名無氏は村岡の手からスマートフォンをひったくろうとする。その時、ピコン、という場違いな音が2人しかいない事務所に鳴り響いた。
「ん……」
村岡が訝しげに手の中のスマートフォンを見つめる。通知欄に何らかのメッセージが表示されているらしい。勝手に目を通している村岡に負けじと近づき名無氏が画面をのぞき込むと、それはマッチングアプリからの通知だった。
「○○さん他3名からメッセージが届いています」
その文面に名無氏は「え」と小さく声を漏らす。○○さん他3名、というのはつい先程名無氏がなんとなくいいねを送り付けた相手達である。かっこいいなとか、優しそうだなとか、本当にちょっとした気持ちでいいねをつけただけだったのだが、まさか反応が返ってくるとは。
「社長、何か連絡が来たみたいなので……」
名無氏はなんとなくドキドキした気持ちを抱えて村岡の手からするりとスマートフォンを抜き取った。不思議と村岡からの抵抗は無かった。メッセージを見るために画面に目を落とす。
「はじめまして。プロフィールを読んで素敵な方だなと思い連絡しました。よければ名無氏さんとやり取りをしてみたいです。仲良くなれたら食事なども行ってみたいです」
(わあ……)
面識のない相手とはいえ、こうやって自分に好意的なメッセージが届くとつい口元が緩んでしまう。当たり前のようにその文面を横からしげしげと眺めていた村岡は、やがて咎めるかのように眉根を寄せた。
「素敵な方って、随分抽象的な……。お前、まさかこんな下手な誘い文句を有難がってるのか?」
「別にそんな訳じゃ……」
たしかにやや具体性の欠けた内容ではあるが、初めてのやりとりとしては妥当なほうだろう。今現在目の前にいる男に恋愛対象として意識してもらえない名無氏は、自身に欠片でも興味を持ってくれている相手が現れたという事実に多少なりとも浮き足立ってしまう。
(とりあえず、何か返事をしなきゃ……)
相手にどんな言葉を送ろうかと名無氏は画面の上でウロウロと指をさまよわせる。
(……?)
しかし、すぐ隣からじいっと視線を感じ、名無氏はそちらにちらりと顔を向けた。村岡が無言のまま名無氏のスマートフォンを睨んでいる。苛立ちを感じるのは気のせいだろうか。
「どうしたんですか社長。私が男の人に誘われるのがおかしいんですか」
冗談交じりで名無氏がそう問いかけてみると、その言葉で余計に村岡の眉間にシワが寄る。
「おかしいもなにも、今が何時か分かってるのか?」
「あ……! 」
不意に発せられた村岡の言葉に、名無氏はハッとしてスマートフォンに再度視線を落とした。時計のウィジェットは、名無氏の昼休みの終わりが間近に迫っていることを示していた。
「も、もうすぐ交代の時間ですね。社長、お先に失礼します」
そのまま村岡の返事も待たずに弁当箱をいそいそと片付け、スマートフォンと共に自身のロッカーに放り込むと、名無氏は慌ただしくメインフロアへかけていった。
「……」
シンと静まり返った事務所に一人残される形となった村岡は、名無氏が去ったことで空きスペースができたソファに足をかけ、行儀悪く横になった。懐から煙草を取り出し火を点けたかと思うと、依然として不機嫌そうな表情でその口元から煙を吐き出す。
「……チッ」
お気に入りのハイライトが肺を満たしていく感覚ですら、彼の苛立ちを治めるのには不十分だったようだ。
「どうせそのうちすぐ飽きるざんしょ……」
ため息とともにそう呟くと、テーブルから乱暴に灰皿を引きずり、煙草をぐりぐりと押し付けたのだった。
それからというものの、名無氏はアプリのやり取りに苦心する日々が続いた。お互いの趣味や仕事――職務内容についてはもちろんかなりぼかして話している――のことなど、最初こそ話題が盛り上がったものの、次第に今日の天気はどうとか、当たり障りのない会話に終始してしまっていた。どうにも一歩関係を進めるような話ができないでいる。
中には「とてもお綺麗な方でびっくりしました。次の日曜日に出かけませんか」と唐突すぎる文面が送り付けられる日もあった。お綺麗も何も、顔が写ってない写真しかアプリ上にあげてないはずだけど……と名無氏は困惑しつつ対応に追われていた。
そんな中でも、次から次へと「お話したいです」「お会いしませんか」といったメッセージが名無氏の元に届き続けていた。
その度に名無氏はうんうんと唸りながら返信を考え、さらに他の相手からメッセージが届き、再びその対応にあくせくするといったことを繰り返しており、名無氏はすっかり疲弊しかけていた。
(なんか、思ったより大変かも)
迷った名無氏は、アプリを勧めてくれた友人にヘルプのメッセージを飛ばした。返答はというと。
『そんなもんだよ。だから気になる男に絞ってやってみな』
もっともな内容であったが、名無氏は再び頭を抱えた。
(気になる人を探すのも大変なんだよな……)
そもそも自分が気になる男性はどういう人なんだろう。
(私が気になる人……)
休日の終わり、月明かりが薄暗く照らす自室で布団にくるまりながら名無氏は思考を巡らせる。
(ちゃんと自分を持っていて、真面目で、かっこよくて)
色々な要素をあげながら、マッチングアプリを開いて登録者の男性を品定めしていく。次第にイメージが鮮明になってきた気がする、良い調子だと名無氏は思考を深めていく。
(頭が良くて、ちょっとずる賢いくらいがいいかも……。背は少し高い方がいいかな。仕事は厳しいけど、普段は明るくて……)
そこまで考えが巡ったところで、名無氏は壮大なため息をついた。それって社長じゃん、と。
(もう、今日はやめよう……)
アプリを閉じて、布団を頭まで被った名無氏はギュッと目をつぶった。一度好きな相手のことを考えてしまったせいか、心がざわざわと落ち着かない……。
翌日、出社してきた名無氏を村岡は訝しそうな顔で見つめた。
「なんざんすか、そんなクマなんか浮かべて……」
社長には言われたくないです、と言い返したいのを我慢して、名無氏は寝不足気味の顔をどうすることもできないまま、唇をキュッと結んだ。
結局、友人のアドバイスを生かすことができないまま名無氏の不毛な日々が続いたのだった。
ある日の昼休み、ソファの上で身を縮こまらせ、今日も今日とて返信内容に迷う名無氏に低い声が投げかけられる。
「まだ続けてるざんすか、それ」
「社長、お疲れ様です。ええ、順調ですから」
昼休憩のために事務所へ入ってきた村岡の声を聞き、名無氏はしゃんと背を正した。
(元はと言えば社長を諦めるために登録したんだから、頑張らないと)
当初の目的を思い出した名無氏は、村岡に悟られないよう小さく深呼吸をした。
「順調ねえ。そんな顔には見えないざんすが」
村岡はそれが当然というばかりに名無氏の座るソファに体を無理やり収める。
「……狭いんですけど」
ギュウギュウと触れる村岡の体に、名無氏はその痩身ながらもしっかりとした男性らしい体躯をつい意識してしまうが、気取られまいと何とか非難の言葉を絞り出し、スマートフォンの液晶に目を落とす。
村岡は名無氏の文句を介せず、目の前にテーブルに置かれた菓子パンの袋に手を伸ばした。――袋の表面に「三好」と油性ペンで書かれていたことに気がついた名無氏が「あ」と声を発する前に、村岡は乱暴に封を開けると中身をかじり出した。
(すみません、三好さん……)
村岡の凶行を止められなかった名無氏は、パンの持ち主への謝罪を心の中で呟く。直後、ピコンと通知音が名無氏の手元から鳴った。間を置かず、同じ音が3、4度と響き渡る。
「あ、返信が。ええと……」
スマートフォンに目をやると、何人かからメッセージが返ってきたという通知が表示されていた。
「随分色んな男を相手にしてるんだな」
菓子パンを頬張る村岡の冷ややかな視線を感じながら名無氏は答える。
「そういうものなんですよ、こういうアプリって」
「ふーん」
その後も名無氏は黙々と返信作業を続けるが、依然として村岡のとげとげしい視線が自分に注がれているのを感じた。
(普段はこんなに私に興味を持ってくれないくせに)
心の中で暗い気持ちを吐露しつつ、名無氏は指を無理やり動かす。しかし、不特定多数の相手とやり取りしているのを好きな男性にまじまじ見られるというのは、名無氏としてはとてもいたたまれない気持ちになる。集中力も欠けてきた……。視線に耐えかねた名無氏は適当に思いついたことを口走ることにした。
「社長から見て、この人ってどうですか?」
「あ?」
「この人、予定が合えば来週にでもご飯にいかないかって連絡くれて……」
名無氏はとある人物のプロフィール写真を見せる。穏やかな笑みが印象的な青年だ。
「どうですか?」
「どうって……」
村岡は菓子パンを咀嚼しながらじっと青年の写真を見つめた。その表情は次第に不機嫌そうなものに変わっていった。名無氏は口の中の甘ったるい味に嫌気が差したんだろうなと思った。
(甘いもの苦手なのに菓子パンなんか食べるから……)
やがて、顔をしかめながら村岡は名無氏に苦言を呈した。
「お前、たかだか数日やり取りしただけでこんな冴えない男と飯に行くつもりざんすか」
村岡はあからさまに呆れた様子だ。
「だからそういうものなんですよ、こういうアプリって」
やや小馬鹿にしたような村岡の態度にムッとしつつ、名無氏はそっけなく答える。そんな名無氏に、村岡はため息をついて言葉を続けた。
「お前はもう少し見る目を磨いたほうがいいざんすよ」
そのまま名無氏のスマートフォンに指を滑らせ、名無氏を食事に誘った男のプロフィール画面をタップした。
「32歳、金融業で年収が4桁万超え……。それにしては身なりが質素ざんすね。こういう業界のがっついた男ならせめて腕時計くらいもう少しマシなもの見繕いそうなものざんすが」
「……社長? 」
村岡はさらに別の男性のプロフィール画面に目を走らせる。
「こっちは26歳、スタートアップの自営業……。ご丁寧に立地と年商まで書いてあるがおかしいざんすね。この地域でこれだけの額を稼ぐ会社なんて聞いた事ないざんすよ。もし本当に存在してるならさっさと営業かけにいってるはずざんすから、わしが知らないわけないし」
「ええと……」
困惑する名無氏に、村岡はふんぞり返って続けた。
「大方、手っ取り早く女を捕まえようとして適当言ってる連中ざんす。こんな怪しげな男ばかり相手して何になるっていうんだ。時間の無駄ざんすよ」
(怪しげっていうのは言い過ぎだと思うけど……)
名無氏の今までの徒労をバッサリ切るような物言いだったが、名無氏は不思議と嫌な気持ちにはならなかった。名無氏としても思い当たるところがある。
自分の簡素なプロフィールに対し、相手の男性は若年の経営者だったり投資で生計を立てていたりと、なぜ自分に声をかけてくれたのか、と思うほど立派な経歴の持ち主が多かった。彼らとのやり取りでも、仕事や趣味の話を不自然にはぐらかされたり、煙に巻く様なメッセージが多かったのも確かだ。
「じゃあ、この人達はもしかしたら嘘をついてるかもしれないってことですか」
「嘘というか見栄を張っているというか……。まあ、そういうくだらない男も中にはいるってことざんす」
「……」
「どこで聞いたか忘れたが、実際の医師の登録数より、こういうので医者と言い張る奴らの数が上回ってるとかいう笑い話があるざんすよ」
あほくさ、と村岡は馬鹿にしたように笑った。 真偽はともかく、一連の村岡の話で名無氏は元より低かったマッチングアプリに対するやる気がしゅんと萎んでしまった感じがした。
同時に名無氏は思う。村岡への気持ちを諦めるために始めたのに、アプリを開いている間も彼のことを未練がましく考えてしまっている時点で、自分に諦めるという選択肢は向いていなかったのだと。
あんなにたくさんの相手を目にしたのにも関わらず、自分が思いを向ける相手は、やっぱり変わりそうになくて……。
「そうそう、そんなに男を見つけたいんなら、お前も考え方を変えないといけないざんすよ」
「え」
思いふけっていた名無氏の耳に、ククと喉を鳴らし実に楽しそうな村岡の笑い声が響く。
「医者に弁護士、銀行員ざんすか。堅実な男選びざんすが、ちょっと強欲すぎやしないか?」
「え……」
挙げられた職業に心当たりがあり過ぎる名無氏はボンッと音がするほど顔を紅潮させてしまう。名無氏がよくいいねを送り付けている男達の職業がまさにそれだったのだ。気がつけば村岡は名無氏のいいね履歴を確認できるページにアクセスしていた。見たのか。勝手に。村岡の楽しそうな視線を感じ、名無氏はそのまま顔を覆ってしまいたくなった。
(だってそれくらい努力して、仕事を頑張ってるかっこいい人達じゃないと、社長のことを諦められないって思ったんです)
名無氏のそんな思いは結局声になることもなく彼女の胸のうちにひっそりと留められた。
「気持ちは分からないこともないが、もっと誠実な男を見繕ったほうがいいんじゃないか。どうせならちゃんと素性が分かるやり方がいいざんすね。意外と身近にいる可能性も……」
そんな名無氏の心の内を知らずに村岡はぐだぐだと話を続けている。そんな村岡の話を遮るように、名無氏は言葉を発した。
「分かりました、分かりましたから……。私、マッチングアプリは向いてなかったみたいです。でも、一つ良いことはありましたよ」
上機嫌な村岡に、名無氏はつんと澄ました顔で言葉を続ける。
「普段、男の人に素敵とか綺麗とか言ってもらえること少ないですから、アプリの男の人にそういうこと言ってもらえたのは嬉しかったですし」
そう語る名無氏に村岡は理解できないものを見る目で答えた。
「そんな見え透いた言葉で持ち上げられて何が嬉しいんだか」
村岡はどうやら自分の心にも無い言葉で持ち上げられては下卑た笑みで持ち金を吐き出すカジノ客を思い浮かべたらしかった。
「嬉しいですよ。今回は社長の言う通り、遊び相手になる女を捕まえたかっただけかもしれないですけど、私はそういう事言ってくれる人が良いです」
普段の村岡の態度への意趣返しを含め、名無氏は短く息をつく。
「気分を良くさせるためのお世辞かもしれないけど……無視されるよりずっといいです」
「……別に無視なんか」
ぽつりとこぼされた村岡の言葉は、彼にしては歯切れが悪すぎたたせいか、名無氏の耳に届くことはなかった。
「自分に少しでも興味を持ってもらえたらってだけです。髪型が変わったら気づいて何か言ってくれるとか、それだけで充分なんです」
「……」
そこまで言って名無氏はハッとした。気恥しいことを喋りすぎた気がする……。村岡を見やると何か考え込んでいる様子だったが、気まずい雰囲気が漂っていることだけは確かだった。
(……どうしよう)
迷った末、名無氏はスマートフォンをじっくり見つめてこう言った。
「あ、もうこんな時間ですね……。私、交代の時間ですから行かないと」
「は……?」
話をぶつ切りする名無氏の一言に村岡は困惑した様子だったが、気に止める余裕もなく名無氏はソファからすくっと立ち上がった。
「お先に失礼します」
そう言い残して名無氏はメインフロアに繋がる扉へ一直線に向かった。村岡が何かを言いかけたが、名無氏は聞こえない振りをして、扉の向こうへ去っていった。
「……」
いつかのように一人事務所に取り残された村岡は、少し疲れたような表情を浮かべていた。
「時間まで全然余裕があるざんすけどね……」
名無氏のわざとらしい言動に村岡はため息をつく。
「まあ、邪魔な男が減っただけ良しとするか……?」
ぶつぶつと呟く村岡だったが、直後、事務所の扉が開いた。
「社長、お疲れ様です。ちょっと早いですけど休憩で……。あっ、それ俺の昼ご飯なのに……!」
村岡が握りしめている食べかけの菓子パンを見つけ、事務所に入ってきた三好が悲痛な声を上げた。当の村岡は三好の声が聞こえていないのか、何かを難しい顔で考え込んでいるようだった。
「このアプリ、意外と容量大きかったんだな」
村岡にあれこれ言われてからというものの、名無氏はすっかりマッチングアプリに対する意欲を失い、日に日にアプリを開く時間も少なくなっていた。村岡の指摘を考えるとどうにも気が進まず返信作業も疎かになってきてしまっていた。
結局、名無氏はアプリをアインストールすることにしたのだ。せっかく様々な相手からアプローチを受けたのにも関わらず、結果は徒労に終わってしまった。
アプリの削除が済んで、容量が軽くなったスマートフォンを名無氏はぼんやりと見つめる。だが、決して収穫が0だったわけではないのがせめてもの救いだと名無氏は思った。
(あれから社長に話しかけてもらえることが多くなった気がする。からかってるだけだと思うけど)
以前は名無氏に対して業務上の小言や連絡しか言ってこなかった村岡だったが、現在は名無氏の昼食を眺めては
「それっぽちで足りるのか?途中で倒れても労災はつけられないざんすよ」
だとか、終業後に帰宅の準備をしている姿を見咎めては
「人気のある道を選んで帰るざんすよ。妙な気を起こした客にとっ捕まっても知らんからな」
などと突っかかってきたり、内容はともかく、以前より村岡から名無氏に対する接触が増えたのだ。素直に喜ばしいことだと名無氏は思う。
(アプリは失敗してしまったけど、いいきっかけにはなったよね?)
村岡への気持ちを諦める、という当初の計画は頓挫してしまったし、かといって甘い雰囲気にも程遠いが、それでもどこかに転びはしたのだ、と名無氏は自分を納得させる。
「なんの進展もないっていうのが厄介だからね」
友人たちとのランチでもらったアドバイスを思い出しながら、名無氏はそう言えば、と考えた。
(諦められないって相談しないと)
手厳しい友人達のことである。きっとまた正直過ぎる言葉をもらうだろう。それでも、このまま停滞の一途を辿るよりはずっと言いに違いない。
「名無氏、聞いてるざんすか」
「はい、午後からの新しい割り振りですよね」
オープン前のミーティングにて、村岡のじとっとした視線が名無氏に飛ぶ。しかし、名無氏が返事をした後も村岡の視線は名無氏から動かない。
「髪」
「……?」
唐突な村岡の一言に名無氏はぽかんとした。
「見てて暑苦しいざんす。昨日みたいに括ってから客前に出ろ」
そう言い切ると村岡は今度こそ名無氏から目を逸らしてミーティングを再開した。あんたのも十分暑苦しいよ、という従業員の視線に気づいた様子は全くない。
(気づいてもらえた)
昨日まで髪を結わえていた名無氏は、今日はそれを肩の後ろに自然に流していたのだった。不評ではあったものの、今までになかった村岡の反応に、名無氏は体がぽかぽかと心地いい熱を帯びていくのを感じた。
(……集中しないと)
村岡の立つホワイトボードに何とか視線を合わせ、名無氏は彼の言葉に耳を傾けた
終
(同い年の弁護士さんか。こっちの人は銀行で働いていて……。すごく優しそうな人だなあ)
名無氏の指の動きに合わせて、にこやかな笑みを浮かべた男達の顔が次々とスマートフォンの画面上に映し出されていく。
(でも、こんなことで本当に諦めがつくのかな)
眼前の男達とは対照的な浮かない顔つきで卵焼きを頬張り、名無氏は小さくため息をついた。
遡ること数日前、友人達との楽しいランチ中に恋の悩みについて打ち明けた名無氏だったが、彼女らの反応はあたたかい声援とは言い難いものであった。
「正直難しいかもね」
パスタをクルクルと巻きながら、少し戸惑ったような顔で名無氏の対面に座る友人が言葉を続けた。
「応援したい気持ちはあるけど……聞く限りじゃちょっと愛情薄そうな人じゃない?」
「だよねー。なんか好きとか可愛いとかあんまり言ってくれなさそうだし、一緒にいても悲しい思いをしそうというか」
名無氏の右に腰掛け、注文したスフレケーキの撮影に真剣な様子の友人も同調する。浴びせられたけんもほろろな言葉にそんなこと……と反論をしようとした名無氏だったが、心当たりのある名無氏は閉口するに留まった。
左隣でシチューを頬張る友人も食い気味に答えた。
「分かる! 付き合う前から苦労するのが目に見えてるよ。どこに惹かれたの? 顔が好みとか? もしかしてすごいお金持ちとか!?」
「それそれ。後はさ、職場内恋愛って時点でけっこう難しいよね。厳しい人みたいだし。上司と部下なら尚更じゃない?」
「……そうだね」
名無氏は友人達の勢いに押され、口ごもった。 彼女は友人達に好き勝手品評されたこの男――自身の雇い主、村岡隆にあろうことにも恋心を抱いてしまったのである。
村岡は従業員に「性根が悪い」とズバッと評されるほどの自分本位な男であったが、名無氏としては仕事に対する妥協を許さない態度が好ましいと感じるし(例えそれが違法なギャンブルの話だとしても)お金の管理も甘さが無くしっかりしていてすごいなあ、と思うのだ(例えそれが違法な賭博で客から巻き上げたものであっても)
確かに物言いがキツかったりことある事に小言を繰り出すなど美点とは言い難い点もあるが、それを補って余りあるほどの良いところもある、かっこいい人だと思うと名無氏は友人達に声を大にして伝えたかった。実際のところ、こうして友人達の言葉に気圧されて意気消沈してしまっているわけだが。
「今までなんの進展もないっていうのが厄介だよね。ここはすっぱり諦めて次を見つけたらいいんじゃないかな」
名無氏が一人沈んでいる間も好き放題品評を続けていた彼女達だったが、やがてパスタを食べ終えた友人が名無氏の目の前にスマートフォンをかざし、ニッコリと笑った。
「あ〜、そういう選択肢もあるか。名無子はやったことある?マッチングアプリ」
「マッチングアプリ……?」
目の前にかざされたスマートフォンを見つめると、そこには「新しい恋活、はじめませんか?」という淡いピンクで縁取られた文字がふわふわと浮かんでいた。
こうしてあれよあれよという間に友人達の助言を受けマッチングアプリに登録してしまった名無氏だったが、いまいち熱が入らず、こうして昼休み中も卵焼きやウィンナーを咀嚼しつつなんとなく登録したてのマッチングアプリをいじって時間を潰しているのだ。
操作は簡単、いいなと思った相手に文字通り「いいね」のアイコンをタップして、向こうから反応があれば実際にやり取りに漕ぎ着けることができる、というシステムである。
雰囲気が良さそうな男や立派な経歴を持つ男の顔写真が名無氏の前に現れては消えていく。しかし、その間も村岡に対する感情はずっしりと名無氏の心にのしかかっていた。
最初はその守銭奴ぶりに辟易していたのに、自分の利益のためなら努力を惜しまない姿勢にすっかり心を奪われてしまい、その気持ちは簡単に消えてくれそうにない。むしろ多種多様な男の顔が目の前を通り過ぎる度に意識が自然と村岡に向いてしまう始末だ。
(そういえば、社長ももうすぐ休憩のはずだったな)
今日の恋活はここまで、と今後の見通しが立たないままにアプリを閉じようとしたその時。
「真っ昼間から男漁りざんすか」
聞き慣れた低い声が名無氏の鼓膜を震わせる。その言葉の意味を理解した瞬間、名無氏の背中に冷や汗がツゥと流れ落ちた。動揺を悟られないよう、なんとか平静を装って名無氏は後方を振り返った。
「社長、お疲れ様です」
そこには名無氏の雇い主兼片思いの相手である村岡がソファの背に手をつき、こちらを覗き込むようにして佇んでいた。その視線は名無氏の手にするスマートフォンの画面に注がれている。
(まずい……!)
見られた。よりによって意中の相手にマッチングアプリの画面なんてものを。
「あの、私、もう食べ終わったのですぐどきます」
とにかくこの場から離れなければ。名無氏は顔を強張らせてソファから勢いよく立ち上がる。が、予想外の出来事に慌ててしまったせいかその手からスマートフォンが滑り落ちてしまった。ゴトン、と鈍い音を立てて床に着地したそれは、食べかけの弁当箱が置かれたテーブルの下に吸い込まれていってしまった。
(ああ、もう……! )
名無氏は急いでテーブルの下に手を伸ばすが、骨張った手が名無氏のそれより早くスマートフォンを拾い上げる。
「……ありがとうございます。」
名無氏は骨張った手の持ち主である村岡に短く礼を告げた。しかし、当の村岡は名無氏にスマートフォンを返さないどころか、その画面をジロジロと眺めて口の端をあげて笑っているではないか。
「ちょっと、勝手に見ないでください!」
自分の持ち物を取り戻そうと腕を伸ばした名無氏だったが、その抵抗を見越していたかのように、村岡の手が名無氏の片腕をがっしりと掴んでしまう。
「こんな狭いところで暴れないでほしいざんす」
「わっ……」
村岡はバランスを崩した名無氏の体を無理やりソファに留まらせ、自身も彼女の隣にどかりと座る。度重なる喫煙ですっかり村岡に染み付いたハイライトの匂いが名無氏の鼻をくすぐった。その重たくまとわりついてくる強かな匂いに名無氏は胸の鼓動が速くなってくるのを否応なしに理解した。
「……なにするんですか」
すぐ隣に腰掛ける村岡との距離にドキリとするも、なんとか邪な気持ちを振るい払った名無氏は自身の雇い主に抗議の視線を向けた。
「別に? 随分面白いもの見てるようだから気になっただけざんす」
対する村岡はニヤニヤとした笑みを崩さず名無氏のスマートフォンに長い指を這わせ、勝手に画面をスクロールしていく。相変わらず睡眠不足らしく、クマで縁取られた顔がブルーライトに照らされている。
「随分素っ気ないざんすね。こんなので男が集まってくるとは思えないざんすが」
村岡が見つけたのは名無氏のプロフィール画面だった。雰囲気が分かる程度に顔下が映った写真に、短い一言が添えられている。
『はじめまして、気の合う方と色々お話してみたいです。よろしくお願いいたします』
村岡の無遠慮な指摘に、恥ずかしさからカッと顔を赤くした名無氏は口早に告げる。
「社長、早く返してください」
「ふうん……」
名無氏の制止も虚しく村岡はアプリの色々な箇所をタップしては好き放題物色をしている。
「よく分からんが……。こんなのでお前の男漁りが上手くいくとは思えないざんす」
面白おかしいといった調子で呟かれた村岡の言葉に、名無氏は胸の中が仄暗い感情で澱んでいくのを感じた。
名無氏とて村岡に何のアプローチもせずに日々を過ごしていたわけじゃない。仕事中は少しでも村岡から良い評価を得ようと難しいゲームの決まり事を頭に叩き込んだり、損得勘定を念頭に置いて客をあしらう等々、努力してきた。休憩の時間に偶然を装って村岡と2人きりになれるよう、同僚に根回しもしたし(その度に向けられる生暖かい視線にも耐えてきたのだ)村岡の好意を得られるよう、名無氏なりに行動してきたつもりだ。
友人の率直過ぎる言葉で改めて思ったが、それらに対して村岡から良い反応が返ってきた試しがない、と名無氏は思う。
裏カジノのオーナーという職業柄、細かなことにも良く目が行き届く村岡は、従業員のミスや客のイカサマは目ざとく気がつくのに、名無氏の気配りや努力などはまるで目に入っていないようだった。名無氏がヘアスタイルを変えて、他の従業員がそれを褒めたり珍しいものを見るような視線を向ける中、肝心の村岡は軽く一瞥しただけで帳簿との睨めっこを再開した時などは、名無氏は酷く落ち込んだものだった。
自分なりに誘いかけてみても、村岡から全く意識されていない、というのは彼女の心をへこませるのに充分だった。
自分の行動にはなんの意味もない。友人達との会食で名無氏のその気持ちはさらに膨れ上がった。
だから忘れようとしているのに、諦めようとしてるのに。そのために慣れないマッチングアプリなんてものまで使っているのに。やがてそんな気持ちは自棄めいたものとなって彼女の口から飛び出した。
「つまらないもの見せてすみませんでした。でも、社長には関係ないことでしょう? もう休憩も終わりますから返してください」
やり場の無い鬱屈した気持ちを抱えたまま、名無氏は村岡の手からスマートフォンをひったくろうとする。その時、ピコン、という場違いな音が2人しかいない事務所に鳴り響いた。
「ん……」
村岡が訝しげに手の中のスマートフォンを見つめる。通知欄に何らかのメッセージが表示されているらしい。勝手に目を通している村岡に負けじと近づき名無氏が画面をのぞき込むと、それはマッチングアプリからの通知だった。
「○○さん他3名からメッセージが届いています」
その文面に名無氏は「え」と小さく声を漏らす。○○さん他3名、というのはつい先程名無氏がなんとなくいいねを送り付けた相手達である。かっこいいなとか、優しそうだなとか、本当にちょっとした気持ちでいいねをつけただけだったのだが、まさか反応が返ってくるとは。
「社長、何か連絡が来たみたいなので……」
名無氏はなんとなくドキドキした気持ちを抱えて村岡の手からするりとスマートフォンを抜き取った。不思議と村岡からの抵抗は無かった。メッセージを見るために画面に目を落とす。
「はじめまして。プロフィールを読んで素敵な方だなと思い連絡しました。よければ名無氏さんとやり取りをしてみたいです。仲良くなれたら食事なども行ってみたいです」
(わあ……)
面識のない相手とはいえ、こうやって自分に好意的なメッセージが届くとつい口元が緩んでしまう。当たり前のようにその文面を横からしげしげと眺めていた村岡は、やがて咎めるかのように眉根を寄せた。
「素敵な方って、随分抽象的な……。お前、まさかこんな下手な誘い文句を有難がってるのか?」
「別にそんな訳じゃ……」
たしかにやや具体性の欠けた内容ではあるが、初めてのやりとりとしては妥当なほうだろう。今現在目の前にいる男に恋愛対象として意識してもらえない名無氏は、自身に欠片でも興味を持ってくれている相手が現れたという事実に多少なりとも浮き足立ってしまう。
(とりあえず、何か返事をしなきゃ……)
相手にどんな言葉を送ろうかと名無氏は画面の上でウロウロと指をさまよわせる。
(……?)
しかし、すぐ隣からじいっと視線を感じ、名無氏はそちらにちらりと顔を向けた。村岡が無言のまま名無氏のスマートフォンを睨んでいる。苛立ちを感じるのは気のせいだろうか。
「どうしたんですか社長。私が男の人に誘われるのがおかしいんですか」
冗談交じりで名無氏がそう問いかけてみると、その言葉で余計に村岡の眉間にシワが寄る。
「おかしいもなにも、今が何時か分かってるのか?」
「あ……! 」
不意に発せられた村岡の言葉に、名無氏はハッとしてスマートフォンに再度視線を落とした。時計のウィジェットは、名無氏の昼休みの終わりが間近に迫っていることを示していた。
「も、もうすぐ交代の時間ですね。社長、お先に失礼します」
そのまま村岡の返事も待たずに弁当箱をいそいそと片付け、スマートフォンと共に自身のロッカーに放り込むと、名無氏は慌ただしくメインフロアへかけていった。
「……」
シンと静まり返った事務所に一人残される形となった村岡は、名無氏が去ったことで空きスペースができたソファに足をかけ、行儀悪く横になった。懐から煙草を取り出し火を点けたかと思うと、依然として不機嫌そうな表情でその口元から煙を吐き出す。
「……チッ」
お気に入りのハイライトが肺を満たしていく感覚ですら、彼の苛立ちを治めるのには不十分だったようだ。
「どうせそのうちすぐ飽きるざんしょ……」
ため息とともにそう呟くと、テーブルから乱暴に灰皿を引きずり、煙草をぐりぐりと押し付けたのだった。
それからというものの、名無氏はアプリのやり取りに苦心する日々が続いた。お互いの趣味や仕事――職務内容についてはもちろんかなりぼかして話している――のことなど、最初こそ話題が盛り上がったものの、次第に今日の天気はどうとか、当たり障りのない会話に終始してしまっていた。どうにも一歩関係を進めるような話ができないでいる。
中には「とてもお綺麗な方でびっくりしました。次の日曜日に出かけませんか」と唐突すぎる文面が送り付けられる日もあった。お綺麗も何も、顔が写ってない写真しかアプリ上にあげてないはずだけど……と名無氏は困惑しつつ対応に追われていた。
そんな中でも、次から次へと「お話したいです」「お会いしませんか」といったメッセージが名無氏の元に届き続けていた。
その度に名無氏はうんうんと唸りながら返信を考え、さらに他の相手からメッセージが届き、再びその対応にあくせくするといったことを繰り返しており、名無氏はすっかり疲弊しかけていた。
(なんか、思ったより大変かも)
迷った名無氏は、アプリを勧めてくれた友人にヘルプのメッセージを飛ばした。返答はというと。
『そんなもんだよ。だから気になる男に絞ってやってみな』
もっともな内容であったが、名無氏は再び頭を抱えた。
(気になる人を探すのも大変なんだよな……)
そもそも自分が気になる男性はどういう人なんだろう。
(私が気になる人……)
休日の終わり、月明かりが薄暗く照らす自室で布団にくるまりながら名無氏は思考を巡らせる。
(ちゃんと自分を持っていて、真面目で、かっこよくて)
色々な要素をあげながら、マッチングアプリを開いて登録者の男性を品定めしていく。次第にイメージが鮮明になってきた気がする、良い調子だと名無氏は思考を深めていく。
(頭が良くて、ちょっとずる賢いくらいがいいかも……。背は少し高い方がいいかな。仕事は厳しいけど、普段は明るくて……)
そこまで考えが巡ったところで、名無氏は壮大なため息をついた。それって社長じゃん、と。
(もう、今日はやめよう……)
アプリを閉じて、布団を頭まで被った名無氏はギュッと目をつぶった。一度好きな相手のことを考えてしまったせいか、心がざわざわと落ち着かない……。
翌日、出社してきた名無氏を村岡は訝しそうな顔で見つめた。
「なんざんすか、そんなクマなんか浮かべて……」
社長には言われたくないです、と言い返したいのを我慢して、名無氏は寝不足気味の顔をどうすることもできないまま、唇をキュッと結んだ。
結局、友人のアドバイスを生かすことができないまま名無氏の不毛な日々が続いたのだった。
ある日の昼休み、ソファの上で身を縮こまらせ、今日も今日とて返信内容に迷う名無氏に低い声が投げかけられる。
「まだ続けてるざんすか、それ」
「社長、お疲れ様です。ええ、順調ですから」
昼休憩のために事務所へ入ってきた村岡の声を聞き、名無氏はしゃんと背を正した。
(元はと言えば社長を諦めるために登録したんだから、頑張らないと)
当初の目的を思い出した名無氏は、村岡に悟られないよう小さく深呼吸をした。
「順調ねえ。そんな顔には見えないざんすが」
村岡はそれが当然というばかりに名無氏の座るソファに体を無理やり収める。
「……狭いんですけど」
ギュウギュウと触れる村岡の体に、名無氏はその痩身ながらもしっかりとした男性らしい体躯をつい意識してしまうが、気取られまいと何とか非難の言葉を絞り出し、スマートフォンの液晶に目を落とす。
村岡は名無氏の文句を介せず、目の前にテーブルに置かれた菓子パンの袋に手を伸ばした。――袋の表面に「三好」と油性ペンで書かれていたことに気がついた名無氏が「あ」と声を発する前に、村岡は乱暴に封を開けると中身をかじり出した。
(すみません、三好さん……)
村岡の凶行を止められなかった名無氏は、パンの持ち主への謝罪を心の中で呟く。直後、ピコンと通知音が名無氏の手元から鳴った。間を置かず、同じ音が3、4度と響き渡る。
「あ、返信が。ええと……」
スマートフォンに目をやると、何人かからメッセージが返ってきたという通知が表示されていた。
「随分色んな男を相手にしてるんだな」
菓子パンを頬張る村岡の冷ややかな視線を感じながら名無氏は答える。
「そういうものなんですよ、こういうアプリって」
「ふーん」
その後も名無氏は黙々と返信作業を続けるが、依然として村岡のとげとげしい視線が自分に注がれているのを感じた。
(普段はこんなに私に興味を持ってくれないくせに)
心の中で暗い気持ちを吐露しつつ、名無氏は指を無理やり動かす。しかし、不特定多数の相手とやり取りしているのを好きな男性にまじまじ見られるというのは、名無氏としてはとてもいたたまれない気持ちになる。集中力も欠けてきた……。視線に耐えかねた名無氏は適当に思いついたことを口走ることにした。
「社長から見て、この人ってどうですか?」
「あ?」
「この人、予定が合えば来週にでもご飯にいかないかって連絡くれて……」
名無氏はとある人物のプロフィール写真を見せる。穏やかな笑みが印象的な青年だ。
「どうですか?」
「どうって……」
村岡は菓子パンを咀嚼しながらじっと青年の写真を見つめた。その表情は次第に不機嫌そうなものに変わっていった。名無氏は口の中の甘ったるい味に嫌気が差したんだろうなと思った。
(甘いもの苦手なのに菓子パンなんか食べるから……)
やがて、顔をしかめながら村岡は名無氏に苦言を呈した。
「お前、たかだか数日やり取りしただけでこんな冴えない男と飯に行くつもりざんすか」
村岡はあからさまに呆れた様子だ。
「だからそういうものなんですよ、こういうアプリって」
やや小馬鹿にしたような村岡の態度にムッとしつつ、名無氏はそっけなく答える。そんな名無氏に、村岡はため息をついて言葉を続けた。
「お前はもう少し見る目を磨いたほうがいいざんすよ」
そのまま名無氏のスマートフォンに指を滑らせ、名無氏を食事に誘った男のプロフィール画面をタップした。
「32歳、金融業で年収が4桁万超え……。それにしては身なりが質素ざんすね。こういう業界のがっついた男ならせめて腕時計くらいもう少しマシなもの見繕いそうなものざんすが」
「……社長? 」
村岡はさらに別の男性のプロフィール画面に目を走らせる。
「こっちは26歳、スタートアップの自営業……。ご丁寧に立地と年商まで書いてあるがおかしいざんすね。この地域でこれだけの額を稼ぐ会社なんて聞いた事ないざんすよ。もし本当に存在してるならさっさと営業かけにいってるはずざんすから、わしが知らないわけないし」
「ええと……」
困惑する名無氏に、村岡はふんぞり返って続けた。
「大方、手っ取り早く女を捕まえようとして適当言ってる連中ざんす。こんな怪しげな男ばかり相手して何になるっていうんだ。時間の無駄ざんすよ」
(怪しげっていうのは言い過ぎだと思うけど……)
名無氏の今までの徒労をバッサリ切るような物言いだったが、名無氏は不思議と嫌な気持ちにはならなかった。名無氏としても思い当たるところがある。
自分の簡素なプロフィールに対し、相手の男性は若年の経営者だったり投資で生計を立てていたりと、なぜ自分に声をかけてくれたのか、と思うほど立派な経歴の持ち主が多かった。彼らとのやり取りでも、仕事や趣味の話を不自然にはぐらかされたり、煙に巻く様なメッセージが多かったのも確かだ。
「じゃあ、この人達はもしかしたら嘘をついてるかもしれないってことですか」
「嘘というか見栄を張っているというか……。まあ、そういうくだらない男も中にはいるってことざんす」
「……」
「どこで聞いたか忘れたが、実際の医師の登録数より、こういうので医者と言い張る奴らの数が上回ってるとかいう笑い話があるざんすよ」
あほくさ、と村岡は馬鹿にしたように笑った。 真偽はともかく、一連の村岡の話で名無氏は元より低かったマッチングアプリに対するやる気がしゅんと萎んでしまった感じがした。
同時に名無氏は思う。村岡への気持ちを諦めるために始めたのに、アプリを開いている間も彼のことを未練がましく考えてしまっている時点で、自分に諦めるという選択肢は向いていなかったのだと。
あんなにたくさんの相手を目にしたのにも関わらず、自分が思いを向ける相手は、やっぱり変わりそうになくて……。
「そうそう、そんなに男を見つけたいんなら、お前も考え方を変えないといけないざんすよ」
「え」
思いふけっていた名無氏の耳に、ククと喉を鳴らし実に楽しそうな村岡の笑い声が響く。
「医者に弁護士、銀行員ざんすか。堅実な男選びざんすが、ちょっと強欲すぎやしないか?」
「え……」
挙げられた職業に心当たりがあり過ぎる名無氏はボンッと音がするほど顔を紅潮させてしまう。名無氏がよくいいねを送り付けている男達の職業がまさにそれだったのだ。気がつけば村岡は名無氏のいいね履歴を確認できるページにアクセスしていた。見たのか。勝手に。村岡の楽しそうな視線を感じ、名無氏はそのまま顔を覆ってしまいたくなった。
(だってそれくらい努力して、仕事を頑張ってるかっこいい人達じゃないと、社長のことを諦められないって思ったんです)
名無氏のそんな思いは結局声になることもなく彼女の胸のうちにひっそりと留められた。
「気持ちは分からないこともないが、もっと誠実な男を見繕ったほうがいいんじゃないか。どうせならちゃんと素性が分かるやり方がいいざんすね。意外と身近にいる可能性も……」
そんな名無氏の心の内を知らずに村岡はぐだぐだと話を続けている。そんな村岡の話を遮るように、名無氏は言葉を発した。
「分かりました、分かりましたから……。私、マッチングアプリは向いてなかったみたいです。でも、一つ良いことはありましたよ」
上機嫌な村岡に、名無氏はつんと澄ました顔で言葉を続ける。
「普段、男の人に素敵とか綺麗とか言ってもらえること少ないですから、アプリの男の人にそういうこと言ってもらえたのは嬉しかったですし」
そう語る名無氏に村岡は理解できないものを見る目で答えた。
「そんな見え透いた言葉で持ち上げられて何が嬉しいんだか」
村岡はどうやら自分の心にも無い言葉で持ち上げられては下卑た笑みで持ち金を吐き出すカジノ客を思い浮かべたらしかった。
「嬉しいですよ。今回は社長の言う通り、遊び相手になる女を捕まえたかっただけかもしれないですけど、私はそういう事言ってくれる人が良いです」
普段の村岡の態度への意趣返しを含め、名無氏は短く息をつく。
「気分を良くさせるためのお世辞かもしれないけど……無視されるよりずっといいです」
「……別に無視なんか」
ぽつりとこぼされた村岡の言葉は、彼にしては歯切れが悪すぎたたせいか、名無氏の耳に届くことはなかった。
「自分に少しでも興味を持ってもらえたらってだけです。髪型が変わったら気づいて何か言ってくれるとか、それだけで充分なんです」
「……」
そこまで言って名無氏はハッとした。気恥しいことを喋りすぎた気がする……。村岡を見やると何か考え込んでいる様子だったが、気まずい雰囲気が漂っていることだけは確かだった。
(……どうしよう)
迷った末、名無氏はスマートフォンをじっくり見つめてこう言った。
「あ、もうこんな時間ですね……。私、交代の時間ですから行かないと」
「は……?」
話をぶつ切りする名無氏の一言に村岡は困惑した様子だったが、気に止める余裕もなく名無氏はソファからすくっと立ち上がった。
「お先に失礼します」
そう言い残して名無氏はメインフロアに繋がる扉へ一直線に向かった。村岡が何かを言いかけたが、名無氏は聞こえない振りをして、扉の向こうへ去っていった。
「……」
いつかのように一人事務所に取り残された村岡は、少し疲れたような表情を浮かべていた。
「時間まで全然余裕があるざんすけどね……」
名無氏のわざとらしい言動に村岡はため息をつく。
「まあ、邪魔な男が減っただけ良しとするか……?」
ぶつぶつと呟く村岡だったが、直後、事務所の扉が開いた。
「社長、お疲れ様です。ちょっと早いですけど休憩で……。あっ、それ俺の昼ご飯なのに……!」
村岡が握りしめている食べかけの菓子パンを見つけ、事務所に入ってきた三好が悲痛な声を上げた。当の村岡は三好の声が聞こえていないのか、何かを難しい顔で考え込んでいるようだった。
「このアプリ、意外と容量大きかったんだな」
村岡にあれこれ言われてからというものの、名無氏はすっかりマッチングアプリに対する意欲を失い、日に日にアプリを開く時間も少なくなっていた。村岡の指摘を考えるとどうにも気が進まず返信作業も疎かになってきてしまっていた。
結局、名無氏はアプリをアインストールすることにしたのだ。せっかく様々な相手からアプローチを受けたのにも関わらず、結果は徒労に終わってしまった。
アプリの削除が済んで、容量が軽くなったスマートフォンを名無氏はぼんやりと見つめる。だが、決して収穫が0だったわけではないのがせめてもの救いだと名無氏は思った。
(あれから社長に話しかけてもらえることが多くなった気がする。からかってるだけだと思うけど)
以前は名無氏に対して業務上の小言や連絡しか言ってこなかった村岡だったが、現在は名無氏の昼食を眺めては
「それっぽちで足りるのか?途中で倒れても労災はつけられないざんすよ」
だとか、終業後に帰宅の準備をしている姿を見咎めては
「人気のある道を選んで帰るざんすよ。妙な気を起こした客にとっ捕まっても知らんからな」
などと突っかかってきたり、内容はともかく、以前より村岡から名無氏に対する接触が増えたのだ。素直に喜ばしいことだと名無氏は思う。
(アプリは失敗してしまったけど、いいきっかけにはなったよね?)
村岡への気持ちを諦める、という当初の計画は頓挫してしまったし、かといって甘い雰囲気にも程遠いが、それでもどこかに転びはしたのだ、と名無氏は自分を納得させる。
「なんの進展もないっていうのが厄介だからね」
友人たちとのランチでもらったアドバイスを思い出しながら、名無氏はそう言えば、と考えた。
(諦められないって相談しないと)
手厳しい友人達のことである。きっとまた正直過ぎる言葉をもらうだろう。それでも、このまま停滞の一途を辿るよりはずっと言いに違いない。
「名無氏、聞いてるざんすか」
「はい、午後からの新しい割り振りですよね」
オープン前のミーティングにて、村岡のじとっとした視線が名無氏に飛ぶ。しかし、名無氏が返事をした後も村岡の視線は名無氏から動かない。
「髪」
「……?」
唐突な村岡の一言に名無氏はぽかんとした。
「見てて暑苦しいざんす。昨日みたいに括ってから客前に出ろ」
そう言い切ると村岡は今度こそ名無氏から目を逸らしてミーティングを再開した。あんたのも十分暑苦しいよ、という従業員の視線に気づいた様子は全くない。
(気づいてもらえた)
昨日まで髪を結わえていた名無氏は、今日はそれを肩の後ろに自然に流していたのだった。不評ではあったものの、今までになかった村岡の反応に、名無氏は体がぽかぽかと心地いい熱を帯びていくのを感じた。
(……集中しないと)
村岡の立つホワイトボードに何とか視線を合わせ、名無氏は彼の言葉に耳を傾けた
終
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