拝啓、風見鶏だった僕へ。
十月末。
センリは久しぶりに職場に顔を出した。
勤務開始は明日からだが、事務課に置いたままになっている私物を回収する必要があった。それに、これまでお世話になった挨拶もしておかないと。
十一月からは、新しい人が来て、センリが使っていた席を使うことになっている。
田井多と顔を合わせたくないが、そこは社会人として次の人のためにやらなければならないことだ。
センリは電話で言われていた通り、まずは人事課に顔を出す。
「蛇場見課長。お久しぶりです」
「来たか、秤。煩わせてすまないな。大事なものと処分していいもの、本人でなければわからないからな」
「いえ。こちらこそ、何か月も置きっぱなしですみません」
頭を下げると、蛇場見は軽くセンリの腕をたたく。
「このあとは秤が入ることになる製造部について説明するから、私物をまとめたらここに戻ってきてくれ」
「はい」
重い足取りで事務課に入った。
当然と言えば当然だが、視線がセンリに集中した。
私物の回収と挨拶、たったそれだけのことなのに胃が痛い。
「秤先輩。大丈夫ですか」
「まだ本調子とまではいかないけど、起きていられるくらいにはなってる。ごめん、抜けることになって」
隣の席の後輩が、一番先に声をかけてきた。
「いいんです。あんなのに目をつけられ続けたら、ぼくだって病んじゃいますって」
(それ、本人に聞かれたら君が絡まれるんじゃ)
何も言わなくても誰を指しているのかわかる。急いで部署を見まわしたけれど、そこに田井多の姿はなかった。
こういうとき真っ先に嫌味を言いに来そうなのに。
「田井多さんなら謹慎処分中だからいませんよ」
「謹慎処分!?」
「なんでも、喫茶店で迷惑行為をして、そこの店長から名指しで会社に苦情が入ったんだって。社員証ぶら下げたまんまで|あの調子《・・・・》だったらしくて。店の床を焦がした修理費も給料から天引き」
センリや後輩に対してやっていることを、赤の他人、それも飲食店でやっているなら苦情が入るのもやむなし。
「そうだったんだ」
「遅かれ早かれこうなると思ってましたけどね。謹慎を言い渡されたとき「俺は悪くない」って人事部で暴れたらしくて、本来なら二週間だったところを一か月の謹慎。馬鹿ですよね」
後輩も常々、田井多に迷惑をかけられていたから、「あの人の顔を見なくてよくなって仕事の効率が爆上がりですよー」なんて笑う。
三か月ぶりに会ったみんなが元気そうで安心した。
なぜ部署移動するんだと責められることを想像していたけれど、むしろみんなセンリの体調を気遣ってくれて、不安は杞憂に終わった。
ペンやメモ帳、ファイルなど回収して、専務やみんなに挨拶をして事務課を後にした。
蛇場見に案内されて別棟に向かう。
製造部といっても細分するといろいろ業務があり、センリが担当するのは検品だった。
「ここからは実際にやっている製造部の人間のほうが詳しいから、任せてある。彼女は秤の教育担当、|川崎《かわさき》だ」
紹介されたのは、センリより少しだけ若い女性だ。
「川崎です。話は蛇場見課長から聞いています。よろしくお願いします、秤さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
挨拶の動作のひとつひとつがきれいで、真面目に仕事に向き合う人なのだとわかる。
作業用ユニフォームをもらい、従業員用通用口と打刻の説明も受ける。
「出勤退勤の際はこちらから入ってください。そこの更衣室でユニフォームに着替え終わってから打刻。男性は奥の更衣室です。この機械に社員証のコードをかざすと通った時間が記録されます」
「わかりました」
ちょうど今から勤務開始なようで、男性が一人更衣室から出てきた。
「|知野《ちの》さん。前に話していた秤さんよ。明日から一緒に働くの」
「知野です。どうも」
「秤です。よろしくお願いします、知野さん」
知野はゆったりした動作でお辞儀をして、センリも頭を下げる。歩き去る知野の、片足の足音が違うような気がして、義足なのだと気づく。
今日は作業しないけれど、作業場内に入るために、ユニフォームに着替えて仕事を見せてもらう。
広い机が向かい合わせでずらりと並び、みんな黙々と製品を見て左右に振り分けている。
「機械で作るものも完ぺきではないから、中には不良品もあるの。だから、型崩れのもの、部品が足りていないものは不良品ボックスにいれる。良品んはこちらに梱包する。こういうのが不良品。良品と見比べてみて」
川崎が、たったいま知野が弾いた不良品から一つ見本に取り出してセンリに見せる。
良品に比べると部品が少し歪んで見える。
「この違いを一瞬で見分けられるなんてすごいです」
「経験を積めばすぐ見分けがつくようになるわ。知野さんも、もう十年検品をしているからここのメンバーでも大ベテランなのよ。お客様にいい品を届けるためにも、検品は欠かせない仕事なの」
「はい」
事務課とは全然違う仕事内容だけれど、ここで自分にできることがある。
「まだ様子見だから一日三時間で週三日、だったわね」
「はい。先生と相談して、そうなっています」
「体調が悪くなったらすぐに言うのよ」
「はい。ありがとうございます」
一通りの案内が終わって私服に着替え、会社を後にする。
マナーモードにしていたから気づかなかったけれど、チヨからメッセージが来ていた。
『会社、大丈夫だった?』
今日は事務課に顔を出すと言ったら、ものすごく心配していた。
『だいじょうぶ。これから帰るよ』
メッセージを返して、私物の入った紙袋を持ち直す。
うつは環境が変わると症状が出てしまうことがあるから、くれぐれも無理をしないようにと初田に言われている。
明日から復帰本番。
まだ不安もあるけれど、センリは深呼吸して駅までの道を歩き出した。
センリは久しぶりに職場に顔を出した。
勤務開始は明日からだが、事務課に置いたままになっている私物を回収する必要があった。それに、これまでお世話になった挨拶もしておかないと。
十一月からは、新しい人が来て、センリが使っていた席を使うことになっている。
田井多と顔を合わせたくないが、そこは社会人として次の人のためにやらなければならないことだ。
センリは電話で言われていた通り、まずは人事課に顔を出す。
「蛇場見課長。お久しぶりです」
「来たか、秤。煩わせてすまないな。大事なものと処分していいもの、本人でなければわからないからな」
「いえ。こちらこそ、何か月も置きっぱなしですみません」
頭を下げると、蛇場見は軽くセンリの腕をたたく。
「このあとは秤が入ることになる製造部について説明するから、私物をまとめたらここに戻ってきてくれ」
「はい」
重い足取りで事務課に入った。
当然と言えば当然だが、視線がセンリに集中した。
私物の回収と挨拶、たったそれだけのことなのに胃が痛い。
「秤先輩。大丈夫ですか」
「まだ本調子とまではいかないけど、起きていられるくらいにはなってる。ごめん、抜けることになって」
隣の席の後輩が、一番先に声をかけてきた。
「いいんです。あんなのに目をつけられ続けたら、ぼくだって病んじゃいますって」
(それ、本人に聞かれたら君が絡まれるんじゃ)
何も言わなくても誰を指しているのかわかる。急いで部署を見まわしたけれど、そこに田井多の姿はなかった。
こういうとき真っ先に嫌味を言いに来そうなのに。
「田井多さんなら謹慎処分中だからいませんよ」
「謹慎処分!?」
「なんでも、喫茶店で迷惑行為をして、そこの店長から名指しで会社に苦情が入ったんだって。社員証ぶら下げたまんまで|あの調子《・・・・》だったらしくて。店の床を焦がした修理費も給料から天引き」
センリや後輩に対してやっていることを、赤の他人、それも飲食店でやっているなら苦情が入るのもやむなし。
「そうだったんだ」
「遅かれ早かれこうなると思ってましたけどね。謹慎を言い渡されたとき「俺は悪くない」って人事部で暴れたらしくて、本来なら二週間だったところを一か月の謹慎。馬鹿ですよね」
後輩も常々、田井多に迷惑をかけられていたから、「あの人の顔を見なくてよくなって仕事の効率が爆上がりですよー」なんて笑う。
三か月ぶりに会ったみんなが元気そうで安心した。
なぜ部署移動するんだと責められることを想像していたけれど、むしろみんなセンリの体調を気遣ってくれて、不安は杞憂に終わった。
ペンやメモ帳、ファイルなど回収して、専務やみんなに挨拶をして事務課を後にした。
蛇場見に案内されて別棟に向かう。
製造部といっても細分するといろいろ業務があり、センリが担当するのは検品だった。
「ここからは実際にやっている製造部の人間のほうが詳しいから、任せてある。彼女は秤の教育担当、|川崎《かわさき》だ」
紹介されたのは、センリより少しだけ若い女性だ。
「川崎です。話は蛇場見課長から聞いています。よろしくお願いします、秤さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
挨拶の動作のひとつひとつがきれいで、真面目に仕事に向き合う人なのだとわかる。
作業用ユニフォームをもらい、従業員用通用口と打刻の説明も受ける。
「出勤退勤の際はこちらから入ってください。そこの更衣室でユニフォームに着替え終わってから打刻。男性は奥の更衣室です。この機械に社員証のコードをかざすと通った時間が記録されます」
「わかりました」
ちょうど今から勤務開始なようで、男性が一人更衣室から出てきた。
「|知野《ちの》さん。前に話していた秤さんよ。明日から一緒に働くの」
「知野です。どうも」
「秤です。よろしくお願いします、知野さん」
知野はゆったりした動作でお辞儀をして、センリも頭を下げる。歩き去る知野の、片足の足音が違うような気がして、義足なのだと気づく。
今日は作業しないけれど、作業場内に入るために、ユニフォームに着替えて仕事を見せてもらう。
広い机が向かい合わせでずらりと並び、みんな黙々と製品を見て左右に振り分けている。
「機械で作るものも完ぺきではないから、中には不良品もあるの。だから、型崩れのもの、部品が足りていないものは不良品ボックスにいれる。良品んはこちらに梱包する。こういうのが不良品。良品と見比べてみて」
川崎が、たったいま知野が弾いた不良品から一つ見本に取り出してセンリに見せる。
良品に比べると部品が少し歪んで見える。
「この違いを一瞬で見分けられるなんてすごいです」
「経験を積めばすぐ見分けがつくようになるわ。知野さんも、もう十年検品をしているからここのメンバーでも大ベテランなのよ。お客様にいい品を届けるためにも、検品は欠かせない仕事なの」
「はい」
事務課とは全然違う仕事内容だけれど、ここで自分にできることがある。
「まだ様子見だから一日三時間で週三日、だったわね」
「はい。先生と相談して、そうなっています」
「体調が悪くなったらすぐに言うのよ」
「はい。ありがとうございます」
一通りの案内が終わって私服に着替え、会社を後にする。
マナーモードにしていたから気づかなかったけれど、チヨからメッセージが来ていた。
『会社、大丈夫だった?』
今日は事務課に顔を出すと言ったら、ものすごく心配していた。
『だいじょうぶ。これから帰るよ』
メッセージを返して、私物の入った紙袋を持ち直す。
うつは環境が変わると症状が出てしまうことがあるから、くれぐれも無理をしないようにと初田に言われている。
明日から復帰本番。
まだ不安もあるけれど、センリは深呼吸して駅までの道を歩き出した。