拝啓、風見鶏だった僕へ。

 センリの体調が落ち着いてきて、チヨと利男はひとまず胸をなで下ろした。

 好転と悪化を繰り返すものだと聞いているから、今日の体調がいいからといって安心はできない。
 それでも、センリが朝に起きて「おはよう」と言えるだけで涙が出そうだった。

 チヨはパート先の喫茶店で時計を見ながらテーブルの片付けをしていた。
 まだ夕食時まで二時間はあるから、店内の半分は空席だ。
 常連の女性が参考書を開きながらコーヒーを飲んでいる。

「おや、秤さんのお祖母様。お疲れ様です」
「これは先生。いらっしゃいませ」

 店のドアベルが鳴り、初田が奥さんと娘のミツキを連れて来店した。
 最近は週末になると、よく三人で来てくれる。

「お子さん用の椅子をお持ちしますね」
「いつもありがとうございます、助かります。ミツキ、ちっちゃい椅子に座ろうね」
「あーい」
 
 ミツキは小さな手をあげて元気よく答える。

「ママ。ミツキ、ぷりんたべゆ!」
「プリンね。すみませんプリンひとつください」
「はい、プリンお一つですね」

 初田がメニュー表を見て追加注文する。

「飲み物はミルクティーを二つホットで。それからオレンジジュースを一杯」
「かしこまりました」

 頼むものがミルクティーとオレンジジュース、プリン固定なのも、いまやすっかりお馴染みだ。
 お気に入りのものがあるとそればかり食べてしまうのは小さな子によくある話。
 センリも幼稚園の頃は駄菓子屋でコーヒー牛乳を飲むのが好きだったと思いだして、微笑ましくなる。

 その店はもう二十年前に後継者がいなくて閉店してしまったけれど、嬉しそうにコーヒー牛乳を飲むセンリの姿を今でも覚えている。


 店長はチヨが注文を聞く前から、茶葉の準備を始めていた。 
 
 
「はっはっは。いつ見ても仲の良さそうなご家族だねぇ」
「ええ、本当に」

 ゆったりした時間は、次に入ってきた人物によって破られた。

 店内にいた人間が驚いて扉の方を見てしまうほど乱暴に、扉が強く押し開けられた。

 一瞬、呆気にとられてしまった。

 三十代半ばくらいの男性が、火のついたタバコをくわえながら入ってきたのだ。
 
「い、いらっしゃいませ。お、お客様。当店は禁煙で……」

 店の入り口にも店内完全禁煙のポスターを掲示してある。
 にもかかわらず、タバコの煙をチヨに吹きかけながら反論してきた。

「うるせぇんだよこっちは客だぞ。ったく。さっさと席に案内しろよ」
「チヨさんは二番テーブルの配膳を頼むよ。ここは私がご案内するから」

 女性店員を見下すタイプの人物だと判断し、店長がさりげなくチヨを厨房にやった。
 この喫茶店の店長は六〇代の男性だ。あまりがたいがいい方ではないが、チヨよりは侮られない。
 男性が首から下げている社員証のデザインに見覚えがあった。センリが勤めている会社のものだ。


「席に案内する前に、タバコの火を消してください。他のお客様に迷惑です」
「チッ」

 男性二人は忌々しそうに、タバコを床に落として靴底で消した。店の床に黒い跡がつく。
 店長が眉間にシワを寄せるが、男性は無視して空いた席に勝手に座った。

「カツカレー大盛り、コーヒーセットな」
「……かしこまりました」

 店長は唇をかんで伝票に注文を書き付けた。
 チヨが店員でなく、この人がお客様でなければ説教したいところだ。
 迂闊なことを言えば、ネットにありもしない悪評を書き込むのが今の若い人間。
 最近も近くの店がそれで廃業に追い込まれた。

 本を読んでいた常連の女性は、男性客を見て顔をしかめ、早々に会計をして出ていった。
 チヨは急いで紅茶とジュース、プリンを二番テーブルに運んで注意に戻る。


 男性客はスマホを取り出し、大声でどこかに電話をし始めた。

「あー、田中、どうよ最近。今夜あたり合コン開きたいんだけどー。え、彼女いるから嫌だって? クソ、ごみカスが」

 相手に切られたのかまた次に電話をかける。何人かに声をかけて断られたようで、どんどん機嫌が悪くなっていく。

 スーツのネクタイを緩めて鞄を空いた席に投げ、ソファに足を乗せた。

「あ~クソ。秤のやつが休んでからろくな事がねーぜ。あいつのせいで残業押し付ける相手がいねーから合コンの回数は減るし、イイ女いねーし、まじ使えねぇ。しかも復帰しねーで他部署にいくとか頭おかしいんじゃねーの。誰が俺の仕事やるんだよ」

 男性のひとり事を聞いて、ゾッとした。

 秤という名字は珍しい部類で、そう多くない。
 そして休職中の、秤の名字を持つ人がセンリ以外に、同時期にいるとも考えにくい。

(もしかしてこの人が、センリに残業させていた、先輩という人なの?)

 センリが心を病んでしまった原因の一端を持つ人物なのたろうか。
 センリは相手の名前を言わなかったから、憶測でしかない。

 それでも、もしもこの人がセンリの職場の先輩なのだとしたら。
 怒りとも悲しみともつかない感情が、胸の中に渦巻く。

(この人のせいで、センリが苦しい思いをしている?)

 あまりにも声が大きくて、店長が「店内での通話はやめてください」と注意をするが、男性は「うっせぇ。メシの金払うんだからてめーにカンケーねだろ!」と聞く耳を持たない。


 それまで黙って紅茶を飲んでいた初田が、席を立ってツカツカと男性の方に歩み寄った。


「Please stop using your phone and be quiet, sir?」
「は? 何言ってんだテメェ」

「英語がダメならドイツ語がいいですか。それともイタリア語? 通訳のできる友人がいるので呼びましょうか」
「バカにしてんのかオッサン。俺は日本人だよ!!」
「日本語が通じるなら黙ってください。あなたはとてもうるさいです。『店内はおしずかに』、という背後に貼られた張り紙をよく読みましょうね。小学校で習う漢字ですよ」

 男性が怒鳴っても、初田はひるまない。男性より初田の方が上背あるから、男性は見下される形だ。

 初田の言葉を聞いて、他のお客様はクスクス笑いをこらえている。

「ほんと。うちの小五の子でも読めるわよ、あの張り紙」
「小学生でも、店長に注意されたらやめるわよね」

 男性は歯ぎしりして、耳まで真っ赤になる。

「業務妨害と器物損壊で通報されたくなかったら、今この瞬間に店から出ていくことをオススメします。あなたは客ではありません。ただの迷惑な人です。ソファに土足で乗れば、他のお客様が座るとき服が汚れます。あなたがタバコを捨てた床は焦げています。店のルールを守れない人間は客ではありませんよ」

 初田は店長に視線をうつし、ニッコリ笑う。

「店長。こういうときはどうぞ、気兼ねなく110番してください」
「あ、はい。わかりました」

 店長が店の電話に手を伸ばすと、男性は慌てた様子で鞄を掴み、逃げるように店を出ていった。

 固唾を飲んで見守っていた他のお客様から拍手が起こる。

「せっかくのきれいな床材なのに、黒焦げになってしまいましたね」
「いえ。この程度で済んでよかった。下手すれば火事になる。あとでペンキでも塗ってごまかします。……ありがとうございました、先生」
「いえいえ」

 初田はゆうゆうと歩いて席に戻っていった。


 食事を終えた初田が会計をするときに、店長がいまいちど、深々頭を下げる。

「先生。今日のお礼と言っては何ですが、お代を無料にします」
「きちんと払いますよ。お礼は不要です。あの人を追い出したのは、わたしが勝手にやったことです」

 初田は会釈して、チヨに向き直る。

「ああいう人はどこの世界にも一人はいるものです。だから、職場復帰したあともお孫さんを支えてあげてくださいね」

 それだけ言って、家族で手を繋いで帰っていった。
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