拝啓、風見鶏だった僕へ。


 |水上《みなかみ》ミオは生まれつきの難聴だ。
 完全に聞こえないのではなく、重度の難聴という部類に入る。

 保育園で何度も先生に「もう一回言って」をお願いして怒られることが多く、両親に連れられて病院に行き、難聴だと判明した。

 他のみんなが当たり前に聞き取れているのに、なぜ自分だけこんなに聞こえないのか、ミオにはわからない。
 補聴器をつけても、耳をすませて微かに聞こえる程度だ。

「神様は乗り越えられない試練は与えないのよ」

 と、ミオの母はいつも言う。

 何をもって難聴を乗り越えることになるんだろう。
 医者には、治す方法はないと言われているのに。

 両親は「完全に聞こえないわけではないから、普通の子の中で普通の生活を送ってほしい」と願い、ミオを|聾《ろう》学校ではなく、普通の学校に通わせた。

「世の中に生まれながらに悪い人なんていないんだよ。だからみんな、助けてと言えばミオを助けてくれるよ」

 と父は言う。
 両親なりの優しさは、ミオには辛かった。

 小学校では、友だちと会話したくても、ミオと話すときだけ筆談になるのが煩わしいのか、ミオに話しかけてくれる子は次第にいなくなった。

 中学生になりスマートフォンに文字を打ち込んで会話するという方法を取れるようになって、少しはマシになった。
 けれどみんな普通に話す方が楽だからか、ミオを交えてだと会話がぎこちない。

 高校に入ってからは、より顕著になった。一度だけ、クラスメートが気を利かせて一緒に買い物に行ってくれたけれど、ミオが会話に混じった途端筆談に変えなければならないから、それ以降一緒に遊びに行こうと言ってくれる人はいなくなった。


 自分のせいで会話のリズムが崩れるのを理解して、ミオは教室の隅で一人で絵を描いたり、本を読むことが多くなった。

 ミオは、自分がどう頑張っても“普通”になれないと痛感することになった。



(お父さんとお母さんが聾学校に入れてくれていたら、同じ聞こえない子同士で、仲良くなれたのかな)

 けれど、特別支援学校の卒業だと高卒とは見なされない。
 両親の判断は、ある意味では正解なのだ。
 高校卒業後は社会に出ないといけない。

 夏休みの間に職業安定所の検索機を使って家から通勤可能な範囲をみたけれど、障害者雇用をする会社はあまりにも少ない。
 健常者の仕事はジャンルを問わず数万件あるのに、障害者枠は全職種合わせて百件程度。

 健常者なら数万の選択肢があるのに、ミオは百の中からしか選べない。

(耳が聞こえたら、なんにでもなれるのに)

 高校三年生の夏休み。
 クラスメートたちが思い出づくりで旅行だなんだと楽しんでいる中、ミオは一人で、市内にある植物園の花を描いていた。

 耳が聞こえなくても絵は描ける。
 
 夏休みだから普段より人が多い。はしゃぐ子どもたち。友だち同士で来ているらしい学生。

(いいなぁ)

 楽しくおしゃべりというのは夢のまた夢。
 花壇のすみにひっそり生えているスミレを見つけて、スケッチブックに鉛筆を走らせる。

 消しゴムを落としてしまい、近くにいた男性が拾ってくれた。

 ふわふわした猫っ毛で、そばかすのある人だ。グレーのボトムスに猫の毛がついているから、猫飼いさんだとわかる。

 何か話しかけてくれているけれど、うまく音を拾えない。口の動きを見ても、よくわからない。

「なあに? もういっかい、言って」

 男性は、今度はゆっくり大きめの声を出そうとしてくれている。でもやっぱり、うまく聞き取れなかった。

「ごめん、うまくきこえない、書いて。わたし、半分、|ろう《・・》なの。耳が、すごくとおい」

 男性の名前は、秤センリ。

 うまく会話できないミオの話に耳を傾けてくれて、嫌な顔を一つせず筆談してくれた。
 うつ病の治療中で、漢字を思い出せないからひらがなばかりになってしまうと教えてくれた。
 センリが書く文字ひらがなの比率が高い。丸みのある文字はあたたかくて、優しい言葉であふれている。

 けれど悲しそうな顔をする。


『ぼくは、シゴトでひととかかわるのが、こわくてツライ。だからこうしてここにいる』

 耳が聞こえれば幸せになれると思っていた。
 でも、耳が聞こえる世界のセンリは涙が止まらなくなるくらい辛くて苦しい思いをしている。

 ミオがどう頑張っても辿り着けない試練の向こう側は、ときに病んでしまうくらい辛くて苦しいこともたくさんある世界。

(音に満ちた世界が、きれいなものしかないところじゃなくて、良かった。センリはこんなに苦しんでいるのに、そんなこと思うの、ひどいよね)

 公園で出会ってから、センリと友だちになった。
 連絡先を交換して、たまにメッセージを送り合う。

 起きていることすら辛い日もあると言っていて、センリからの返事は少し時間がかかる。
 時間がかかるけれど、ちゃんと応えてくれる。

 ミオは好きな食べ物の話や、あこがれのモデルの話、なんでも話した。
 センリも飼い猫の豆大福ちゃんの写真を送ってくれたりして、なんてことないやり取りが楽しい。

 ようやく、聞こえないミオのままで受け入れてくれる友だちができて、嬉しかった。



 これまで家族以外のまともな話し相手は、高二から家庭教師をしてくれているミチルくらいだ。
 学校の授業で教師の声が聞き取れない分、どうしても他の生徒より学力が劣る。それを補うために家庭教師を依頼するようになったのだ。

 ミチルはミオより七つ年上の女性で、とても面倒みがいい。
 何度でも復習で読み返せるように、電子パッドでなく、ノートでの筆談を選ぶ人だ。

 授業の合間に悩み相談をしても、真剣に応えてくれる。

「ミチル先生、わたし、卒業したら、ちゃんと仕事につけるかな」

『ミオさんは何になりたいの?』

「かわいい服のお店で、働きたい。でも、担任の先生が、水上は普通の会話ができないから、接客業は諦めなさいって」

 聞こえないから接客は無理、わかっていることを改めて言われると辛かった。

『ミオさん。これは昔、私がある人から教わったことなんだけどね。ミオさんが好きな服は、たくさんの人の夢が詰まっているの。店頭販売員だけが全てじゃないよ。デザイン部や管理部、製造部、広報部、いろんな部署の人たちがいるからできている。どんな形でなら服に関わる仕事をできるか、調べてみようよ』

「うん。ありがとうミチル先生。そうだよね、わたしにも、できることあるよね、きっと」


 以前、ミチル先生はどうして家庭教師になったの、と聞いたときに教えてくれた。

『誰かの夢を応援できる人になりたいから』

 まさにミオはミチルに背中を押してもらえた。
 ミチルのような人に、自分もなりたいと思った。


 そして今日。
 センリにお願いして買い物につきあってもらい、前から欲しかった服のお取り寄せ申し込みをすることに成功した。
 次の店に行こうと電車に乗ったところで事件は起きた。


 見知らぬ男性が現れて、センリに何か言う。
 センリが迷惑そうに眉を寄せて口を閉ざす。センリはこの人のことが苦手なのだと察せられた。
 かすかにしか聞き取れないから何を言っているかわからない。男性が口を開くたびにセンリの顔色は悪くなる。


 ミオには聞こえない、痛くて苦しい言葉の刃がセンリを突き刺している?
 聞こえないから、憶測でしかない。

 耳が聞こえるのは、幸せばかりじゃない。センリを見ているとわかる。
 トゲトゲの言葉で刺されて、センリは傷だらけだ。

 若い男の子が割って入って、男性を止めた。二言三言言われて、男性は舌打ちして別の車両に行ってしまった。

 センリが青ざめたまま座り込む。


「口の動きしか見えないけど、あの人は、たぶん、よくないこと言ってた。センリは、あの人がいる間、つらそうだった。ごめんね、センリ、つらそう。今日はもう帰ろう」

 センリは人と関わるのが怖いって言っていたのに、軽率に買い物の手伝いを頼んでしまったことを後悔する。

『ごめん、ミオ』

 センリの口の動きでなんとか理解する。

 出会って間もないけれど、センリはいつも謝る。

 ーーごめん、ありがとう、大丈夫。

 その三つの言葉が多い。
 何かにおびえて謝り、大丈夫だと自分に言い聞かせている。

 センリと知り合いなのか、男の子はセンリになにか言ってセンリの肩を支えた。

 スマホに文字を打ち込んでミオに見せてくる。

『センリを主治医のとこに連れて行く。君はどうする?』
「わたしも行く。わたしがついてって、言わなければ、センリはこうならなかった」

 主治医という人に診てもらうのが最善なら、力になりたかった。


 ミオはセンリが落としてしまったバッグを拾い、男の子と一緒にセンリを支えて電車を降り、病院に向かった。




【初田ハートクリニック】という病院の入り口には、水曜日と日曜日休診と書かれている。

 男の子は慣れた様子で扉を引いた。

 中は冷房が効いていて、涼しい。
 出迎えてくれたのはツインシニヨンの女性と小さな女の子。待合室のソファに座るとアイスティーを出してくれた。

 背の高い男性がミオのカバンについている耳マークを見て、『あなたと話すときは筆談しますね』と電子メモパッドに書いてくれた。

 センリが先生と診察室に行く。
 お茶を出してくれた女性はメモパッドに書く。

『ミオさんはじめまして。私はネル。クリニックの受付をしています。こちらは娘のミツキです。秤さんをここまで連れてきてくれて、ありがとうございます』
「ありがとうって、……わたしが、買い物に行きたいって言わなかったら、センリは、怖い人に会わずに済んだ」

 療養中なのに無理なお願いをして、むしろ悪化させてしまったのではと思う。

 ミツキに絵本を読んでいた男の子が、ミオにスマホの画面を見せる。

『悪いのはセンリに変なこと言ったあのうるさいおじさんで、君じゃないでしょ』

 男の子はネルに何か伝えて、ネルはミオに向き直る。

『この子はコウキくん。ここの患者なの。コウキくんが言うように、秤さんはミオさんを責めていないよ。あなたも、自分を責めないで』

 二人に言われて、ミオは少しだけ胸の痛みが軽くなった。

「わたし、センリが元気になるためにできることある?」
『歩調をあわせて、一緒に歩くだけでいいです。必要なのは、心と体を休める時間』

 ネルは続けて書く。

『私は高校生のとき、難病で留年の危機だった。でも、にいさんが手を引いて、大丈夫だと言って一緒に歩いてくれた。人は、それだけで救われるの』

「ネルさんも、なにか病気あるの?」

『ナルコレプシーという、どこでも急に眠ってしまう睡眠の病気。今も治療を続けています。できることを見つけて、今ここにいます』

 ミオの難聴とは違うけれど、重い病気を抱えて社会に出て働いている人がいる。

 これは希望だ。障害を抱えていても、働ける方法がある。

 できないこと、制限が多いけれど、それでもその中からできること。

 ミオは自分にできることを考える。

 同じ歩調で歩いてセンリが救われるなら、歩きたい。
 センリが屈んで、ミオと同じ目線で筆談してくれるように。

『うつ病は、良くなったり悪くなったりを繰り返していくから、のんびりつきあうんです。猫さんのお昼寝みたいなものです』


 猫のお昼寝なんて初めて聞く例えで、ミオは笑ってしまった。



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