拝啓、風見鶏だった僕へ。
休診日なのに、初田はクリニックを開けて出迎えてくれた。
待合室は空調がきいていて、すっと汗が引いた。
受付のネルがアイスティーを出してくれた。
「秤さん、診察室の用意ができるまで座ってください。コウキくんと、貴女もどうぞ。外は暑かったでしょう」
「ありがとうネルさん。いただきます」
「ありがとう」
コウキとミオはグラスを受け取って、口をつける。
センリはグラスに手を伸ばせなかった。
「……ごめん、なさい」
初田だけでなく、受付のネルまで休日出勤させてしまった。日曜の日中、本来なら予定があっただろう。
「私はここがお家なので、お気になさらず。いつもつけている名札はフルネームじゃないから、わからないですよね。私は初田ネル。初田初斗の妻です。この子は娘のミツキ」
「ミツキです」
ネルが軽く会釈をする。
ネルの後ろにいた幼い女の子が、ペコリと頭を下げる。
センリの顔をじっと見て、ミツキは手を開く。
「はかりのおにいちゃん、どこかいたいの? ミツキ、おまじないとくいなの。いたいのとんでくよ。いたいのいたいのとんでけー」
誰もが幼い頃に一度はするであろう、ごくありふれたおまじない。
気の持ちようと言われればそれまでだけれど、ほんのりと心が軽くなった。
「ありがとう、ミツキちゃん」
おまじないがきいて、ミツキは満足げだ。
診察室から出てきた初田が、ミツキの頭を軽くなでる。
「ミツキ。お兄さんはこれからパパとお話するから、絵本を読んでいてください」
「はぁい」
ミツキはいい返事をして、待合室のマガジンラックに並べてあった絵本を一冊とってコウキの隣によじ登る。
「コウキおにーちゃん、えほん」
「いいよ。ミツキちゃんは不思議の国のアリスが好きだね」
コウキは慣れた様子で絵本を開いた。
初田はミオに目を向け、受付カウンターから電子メモパッドを出した。
サラサラと書き込む。
『お名前を聞いてもいいですか。手話がいいですか? それとも筆談がいいですか?』
「ミオです。筆談で、おねがい、します」
『承知しました。秤さんと話をするので、待っていてください。何か必要なことがあれば、ネルさんに伝えてください』
書いて伝えてから、初田はネルにメモパッドを渡す。
「ネルさん。ミオさんと話すときは筆談でお願いします」
「はい、先生」
初田はミオを見ただけで聴覚障害があると気づいた。容姿ではわからないはずなのに。
「……初田先生、なんでわかったんですか」
「ショルダーバッグに、耳マークをつけているので。これは何らかの聴覚障害がある方がつけるものです」
「あ。俺はこのマークとか蝶のマークをネット記事で読んだことあったから、電車で見てわかった」
センリが知らなかっただけで、ミオのバッグについているキーホルダーは耳マークと言うらしい。
緑色の、曲がりくねった矢印のようなマークだ。
二十歳前後のコウキが知っているのに自分は知らないことがショックだった。
自分の生活に関わらないものに興味を持って生きてこなかったことの現れのような気がした。
「内閣府の認知度調査では認知度十二パーセントなので、十人中の九人が知らないくらいですね。なので知らなくても気落ちすることはないですよ、秤さん。今知ることができたので、他の人に教えてあげられます」
初田のフォローがむしろ辛い。
「さ、診察室もエアコンをつけているので快適に過ごせると思います。どうぞ」
「はい、すみません」
診察室に通されて、センリはソファに腰掛けて深く息を吐いた。
向かいに座る初田はセンリの手首を取ると懐中時計を見ながら脈をはかり、そっと下ろした。
「脈がやや早いですが、暑い中で長く歩いたことも加味すると、問題なしです」
言いながら、カルテにサラサラと書き込む。
「おおよその事情はコウキくんが電話で話してくれました。絡まれるなんて、大変でしたね」
「……すみません、あの、こんな弱くて。迷惑かけて、しまって。これから先も働くとき、きっとああいうこと言われるのは、何回もあるのに、弱すぎですよね」
申し訳なさすぎて、顔を上げられなかった。
家族団らんの時間だったはずなのに。
「病で休んだときに責められたら、誰でも辛いですよ。秤さんは弱くないです。……わたしは謝れと言っていません。迷惑とも言っていません。謝らなくていいです。わたしが開けたくて開けたんです」
前にも初田に同じことを言われた。
「……僕、思うんです。今日絡んできた先輩以外のみんなも、彼と同じ気持ちなんじゃないかって…………。休んで迷惑だって、もしかしたら、蛇場見課長も」
「あなたの職場の他の人を知らないので断言できません。でも、駆さんだけはそういう人ではないので、安心してください。彼は頭が硬そうに見えて、根っこは弟思いのお兄さんなんです。週一で弟の店に通うくらい」
蛇場見が初田を知っている風だったが、やはり二人は知り合いらしい。
「弟さん?」
「はい。わたしの高校時代からの友人に|歩《あゆむ》という人がいまして。駆さんは歩の兄なんです。秤さんと駆さんが同じ会社だと聞いて、世間は狭いなと思いました」
初田はテーブルに用意してあったティーポットを傾け、二つのカップにお茶を注ぐ。
「秤さん、紅茶をどうぞ。今日はジャムティーにしてみました。ブルーベリージャムを入れています」
「……でも」
「おかわり自由なので何杯でもいいですよ。遠慮はいりません。帽子屋のお茶会は終わらないものですから」
「帽子屋?」
「はった、ハッター。だから|狂った帽子屋《マッドハッター》。先輩につけられたあだ名です」
確かに初田には変なところがあるから、マッドハッターは言い得て妙だ。
センリは断りきれず、ジャムティーに口をつけた。味が薄い。でも、温かい。
「また今回のようなことがあったら、休診日でもわたしを呼んでくれて構いません。わたしは、ここにいます」
初田は穏やかに微笑む。
「……はい」
センリは一口だけジャムティーを飲んで、テーブルに置く。
「僕、強くなりたい。コウキが、先輩を言い負かしたみたいに」
「絡まれていたとしか聞いてなかったのですが、言い負かしたとは?」
「おじさんいい年してそのポスター読めないの? 電車内では静かにしろって文字は、中学生でも読めるのに……って。強いなって、思った」
コウキはセンリを助けるつもりで田井多に物申したわけではなかった。
多くの人はコウキの立場で同じ状況を目の当たりにしても、口を挟めないし、関わろうとしないだろう。
センリも、第三者の立場なら「絡まれた人がかわいそう」だとは思う。
でも思うだけで、助けに行かない、行けない。
昨今は、喧嘩のはずみで人を殺すなんていう事件が横行している。
口論の末に妻を殴り殺した夫。
喧嘩で相手を駅のホームに突き飛ばす人。
そういう事例を想像してしまい、助けたら自分の身が危険に晒されると考えてしまう。
初田はこめかみに手を当て、難しそうな表情になる。
「……何年も主治医をしてきた身としては、コウキくんの勇気を褒めるべきか、無謀を叱るべきか、悩むところです」
センリが想像したような悪い結末を迎える可能性は、ゼロではない。
田井多が人目を気にしてあの場で退いたから、最悪の事態にならなかっただけ。
「僕、先生が言ったように、どうしても先のこと、相手の顔色を気にして、言葉を飲み込んでしまうから、ダメなんです。だって、職場の先輩はこれからも毎日顔を合わせる相手だから……下手に機嫌を損ねたら、やりにくくなる。そう思うのに、僕は町ですれ違うだけの赤の他人を助けるためですら、動けない」
「怖くなるのは仕方がないでしょう。調和を乱すもの、出る杭が打たれるのも、また常です。日本人は特にそういう傾向が強いですから」
「どうすれば、怖くなくなりますか」
「そうですね、秤さんが特に相手の顔色を窺う傾向が特に強く現れるのは、職場とご近所さんでしょう。関係が壊れたら今後の生活に支障が出る相手」
初田はポットを持ち上げ、センリのカップに紅茶をつぎ足す。一口しか飲んでいなかったから、ほんの少し足されただけで溢れそうだ。
「このティーカップが心の限界値で、お茶がストレスだとしたら、秤さんは我慢をしすぎて臨界状態です。少しずつ、ストレスを逃がす場所を作りましょう」
センリは決壊寸前になったティーカップを見下ろす。
「……ストレスを、逃がす先……」
「スイーツ食べ放題に行く、カラオケ、スポーツ、ストレスの逃し方は人によります。秤さんは誰にも言えなくて抱え込んでしまっているので、まずわたし相手に本音を言葉にしましょう。わたしで慣れたら家族、心を許せる友人に」
センリの心の限界値がこの|器《ティーカップ》なのだとしたら、たくさんの患者を抱えた上で、休診日なのにセンリのためにクリニックを開けてくれた初田の器は、どれほど大きいのだろう。
ティーカップどころか海かもしれない。
「……ありがとう、ございます」
言葉とともに涙があふれた。
待合室は空調がきいていて、すっと汗が引いた。
受付のネルがアイスティーを出してくれた。
「秤さん、診察室の用意ができるまで座ってください。コウキくんと、貴女もどうぞ。外は暑かったでしょう」
「ありがとうネルさん。いただきます」
「ありがとう」
コウキとミオはグラスを受け取って、口をつける。
センリはグラスに手を伸ばせなかった。
「……ごめん、なさい」
初田だけでなく、受付のネルまで休日出勤させてしまった。日曜の日中、本来なら予定があっただろう。
「私はここがお家なので、お気になさらず。いつもつけている名札はフルネームじゃないから、わからないですよね。私は初田ネル。初田初斗の妻です。この子は娘のミツキ」
「ミツキです」
ネルが軽く会釈をする。
ネルの後ろにいた幼い女の子が、ペコリと頭を下げる。
センリの顔をじっと見て、ミツキは手を開く。
「はかりのおにいちゃん、どこかいたいの? ミツキ、おまじないとくいなの。いたいのとんでくよ。いたいのいたいのとんでけー」
誰もが幼い頃に一度はするであろう、ごくありふれたおまじない。
気の持ちようと言われればそれまでだけれど、ほんのりと心が軽くなった。
「ありがとう、ミツキちゃん」
おまじないがきいて、ミツキは満足げだ。
診察室から出てきた初田が、ミツキの頭を軽くなでる。
「ミツキ。お兄さんはこれからパパとお話するから、絵本を読んでいてください」
「はぁい」
ミツキはいい返事をして、待合室のマガジンラックに並べてあった絵本を一冊とってコウキの隣によじ登る。
「コウキおにーちゃん、えほん」
「いいよ。ミツキちゃんは不思議の国のアリスが好きだね」
コウキは慣れた様子で絵本を開いた。
初田はミオに目を向け、受付カウンターから電子メモパッドを出した。
サラサラと書き込む。
『お名前を聞いてもいいですか。手話がいいですか? それとも筆談がいいですか?』
「ミオです。筆談で、おねがい、します」
『承知しました。秤さんと話をするので、待っていてください。何か必要なことがあれば、ネルさんに伝えてください』
書いて伝えてから、初田はネルにメモパッドを渡す。
「ネルさん。ミオさんと話すときは筆談でお願いします」
「はい、先生」
初田はミオを見ただけで聴覚障害があると気づいた。容姿ではわからないはずなのに。
「……初田先生、なんでわかったんですか」
「ショルダーバッグに、耳マークをつけているので。これは何らかの聴覚障害がある方がつけるものです」
「あ。俺はこのマークとか蝶のマークをネット記事で読んだことあったから、電車で見てわかった」
センリが知らなかっただけで、ミオのバッグについているキーホルダーは耳マークと言うらしい。
緑色の、曲がりくねった矢印のようなマークだ。
二十歳前後のコウキが知っているのに自分は知らないことがショックだった。
自分の生活に関わらないものに興味を持って生きてこなかったことの現れのような気がした。
「内閣府の認知度調査では認知度十二パーセントなので、十人中の九人が知らないくらいですね。なので知らなくても気落ちすることはないですよ、秤さん。今知ることができたので、他の人に教えてあげられます」
初田のフォローがむしろ辛い。
「さ、診察室もエアコンをつけているので快適に過ごせると思います。どうぞ」
「はい、すみません」
診察室に通されて、センリはソファに腰掛けて深く息を吐いた。
向かいに座る初田はセンリの手首を取ると懐中時計を見ながら脈をはかり、そっと下ろした。
「脈がやや早いですが、暑い中で長く歩いたことも加味すると、問題なしです」
言いながら、カルテにサラサラと書き込む。
「おおよその事情はコウキくんが電話で話してくれました。絡まれるなんて、大変でしたね」
「……すみません、あの、こんな弱くて。迷惑かけて、しまって。これから先も働くとき、きっとああいうこと言われるのは、何回もあるのに、弱すぎですよね」
申し訳なさすぎて、顔を上げられなかった。
家族団らんの時間だったはずなのに。
「病で休んだときに責められたら、誰でも辛いですよ。秤さんは弱くないです。……わたしは謝れと言っていません。迷惑とも言っていません。謝らなくていいです。わたしが開けたくて開けたんです」
前にも初田に同じことを言われた。
「……僕、思うんです。今日絡んできた先輩以外のみんなも、彼と同じ気持ちなんじゃないかって…………。休んで迷惑だって、もしかしたら、蛇場見課長も」
「あなたの職場の他の人を知らないので断言できません。でも、駆さんだけはそういう人ではないので、安心してください。彼は頭が硬そうに見えて、根っこは弟思いのお兄さんなんです。週一で弟の店に通うくらい」
蛇場見が初田を知っている風だったが、やはり二人は知り合いらしい。
「弟さん?」
「はい。わたしの高校時代からの友人に|歩《あゆむ》という人がいまして。駆さんは歩の兄なんです。秤さんと駆さんが同じ会社だと聞いて、世間は狭いなと思いました」
初田はテーブルに用意してあったティーポットを傾け、二つのカップにお茶を注ぐ。
「秤さん、紅茶をどうぞ。今日はジャムティーにしてみました。ブルーベリージャムを入れています」
「……でも」
「おかわり自由なので何杯でもいいですよ。遠慮はいりません。帽子屋のお茶会は終わらないものですから」
「帽子屋?」
「はった、ハッター。だから|狂った帽子屋《マッドハッター》。先輩につけられたあだ名です」
確かに初田には変なところがあるから、マッドハッターは言い得て妙だ。
センリは断りきれず、ジャムティーに口をつけた。味が薄い。でも、温かい。
「また今回のようなことがあったら、休診日でもわたしを呼んでくれて構いません。わたしは、ここにいます」
初田は穏やかに微笑む。
「……はい」
センリは一口だけジャムティーを飲んで、テーブルに置く。
「僕、強くなりたい。コウキが、先輩を言い負かしたみたいに」
「絡まれていたとしか聞いてなかったのですが、言い負かしたとは?」
「おじさんいい年してそのポスター読めないの? 電車内では静かにしろって文字は、中学生でも読めるのに……って。強いなって、思った」
コウキはセンリを助けるつもりで田井多に物申したわけではなかった。
多くの人はコウキの立場で同じ状況を目の当たりにしても、口を挟めないし、関わろうとしないだろう。
センリも、第三者の立場なら「絡まれた人がかわいそう」だとは思う。
でも思うだけで、助けに行かない、行けない。
昨今は、喧嘩のはずみで人を殺すなんていう事件が横行している。
口論の末に妻を殴り殺した夫。
喧嘩で相手を駅のホームに突き飛ばす人。
そういう事例を想像してしまい、助けたら自分の身が危険に晒されると考えてしまう。
初田はこめかみに手を当て、難しそうな表情になる。
「……何年も主治医をしてきた身としては、コウキくんの勇気を褒めるべきか、無謀を叱るべきか、悩むところです」
センリが想像したような悪い結末を迎える可能性は、ゼロではない。
田井多が人目を気にしてあの場で退いたから、最悪の事態にならなかっただけ。
「僕、先生が言ったように、どうしても先のこと、相手の顔色を気にして、言葉を飲み込んでしまうから、ダメなんです。だって、職場の先輩はこれからも毎日顔を合わせる相手だから……下手に機嫌を損ねたら、やりにくくなる。そう思うのに、僕は町ですれ違うだけの赤の他人を助けるためですら、動けない」
「怖くなるのは仕方がないでしょう。調和を乱すもの、出る杭が打たれるのも、また常です。日本人は特にそういう傾向が強いですから」
「どうすれば、怖くなくなりますか」
「そうですね、秤さんが特に相手の顔色を窺う傾向が特に強く現れるのは、職場とご近所さんでしょう。関係が壊れたら今後の生活に支障が出る相手」
初田はポットを持ち上げ、センリのカップに紅茶をつぎ足す。一口しか飲んでいなかったから、ほんの少し足されただけで溢れそうだ。
「このティーカップが心の限界値で、お茶がストレスだとしたら、秤さんは我慢をしすぎて臨界状態です。少しずつ、ストレスを逃がす場所を作りましょう」
センリは決壊寸前になったティーカップを見下ろす。
「……ストレスを、逃がす先……」
「スイーツ食べ放題に行く、カラオケ、スポーツ、ストレスの逃し方は人によります。秤さんは誰にも言えなくて抱え込んでしまっているので、まずわたし相手に本音を言葉にしましょう。わたしで慣れたら家族、心を許せる友人に」
センリの心の限界値がこの|器《ティーカップ》なのだとしたら、たくさんの患者を抱えた上で、休診日なのにセンリのためにクリニックを開けてくれた初田の器は、どれほど大きいのだろう。
ティーカップどころか海かもしれない。
「……ありがとう、ございます」
言葉とともに涙があふれた。