夢で満ちたら

「わーーーい! 海だ! やっほーーー!!」
「ユメ、落ち着いて。電車の中で騒いじゃだめ」

 江ノ電に乗るのも初めてだったのか、ユメは小さい子に混じってニコニコ。座席に膝をついて窓に両手をついて、車窓の向こうに見える海を見ながら叫ぶ。

 まわりの乗客から、遠足の幼稚園児を見るような、温かい視線がそそがれている。
 隣に座っていたミチルは……それはもう、恥ずかしかった。いますぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。

design

 七里ヶ浜駅で降りたユメは、全速力で海の方に走った。
 砂浜への階段を駆け下りて、サーフボードを抱えた人たちの間を縫う。

「海だーーーー! ミチルちゃんも早く早く!」
「ま、まってユメ! 靴、靴脱がなきゃ…………って、ひゃああああ!」

 ユメはミチルの手を掴んで、スニーカーのまま波打ち際に飛び込んだ。
 靴下ごとぐしょ濡れになるのもなんのその、ユメは大はしゃぎだ。両手を広げて海の歌を歌い出す。

「すごいね、広いね、でっかいね! 海ーーーぃ!」
「…………ユメ、元気だね……」
「うん。水着あればよかったねえ。このあたり、映画で見たよ。江ノ島あんなにおっきく見えるんだね」

 ながらく引きこもりだったミチルは、もう力尽きそうだ。海風に吹き飛ばされそうな帽子を手でおさえる。スニーカーのなかに砂も入り込んで気持ち悪い。

「もう上がろうよ、ユメ。せめて水を絞らないと。こんなに濡れた靴じゃ、電車に乗れないよ。他の乗客に迷惑がかかっちゃうよ!」
「大丈夫大丈夫。そこの海の家にビーチサンダルが売ってるみたいだしさ、それ買おうよ。濡れた靴と靴下はビニール袋にいれちゃえばいいって。行ってくる!」

 止める間もなく、ユメは海の家に走っていって、二足のサンダルを買って戻ってきた。

「はい、ミチルちゃんの分。あたしのは黄色で、ミチルちゃんのは水色」

 文句を言う気も起きなくなって、ミチルは靴下とスニーカーを脱ぎ捨てて袋に詰めた。
 ビーチサンダルだから波がかかっても問題なし。

 ユメが両手で海面をすくって、水をミチルにかける。

「わ、っぷ、しょっぱ! なにするのよユメ!」
「本のとおりだ。海ってしょっぱいね」

 ユメに引っ張られながら砂浜をひたすら走って走って、仰向けに寝転んだ。
 真っ青な空が目の前に広がり、大きな入道雲が流れていく。
 海水浴客たちのはしゃぐ声、海鳥の鳴き声、波の音が耳に届く。

 頭の中を埋め尽くしていた、かつての上司の言葉も風に吹き飛ばされていく。

(こんなに息が切れるくらい必死に走ったの、いつぶりだろう)

 小学校のマラソン大会が最後だろうか。
 筆記の勉強はできても、ミチルは体育だけはからっきし。リレー選手に選ばれたことなんか小学校の六年間に一度もなかったし、マラソンは最後から数えて三人目くらい。

「あははははっ。やっぱりおもいっきり遊ぶのって楽しいねえ。ミチルちゃん息抜きになった?」
「わかんない」

 小学校中学年くらいから塾に通っていたから、友達とこんなふうにくたくたになるまで遊んだ記憶がない。

「海見たら、あとガイドブックに載ってるとこもめぐりたいね。ミチルちゃん、なんかオススメの店ある?」
「知らない。私、家と学校、家と職場の往復しかしたことないから」

 淡々と毎日をこなすだけ。面白みのない人間だなと、自分でも思う。
 ユメのように、些細なことをなんでも楽しめる心を持っていたなら、少しは彩りある学校生活を送っていたんだろうか。いまさら学生時代になんて戻れないけど。

「そんなときこそ伯母ちゃんから借りたガイドブックの出番ーって、あれぇ? ミチルちゃんこの本おかしいよ」

 起き上がってガイドブックを広げたユメが、首をひねる。

「おかしいって、なにが」

 ユメが開いてみせたおすすめショップの欄が、一部ハサミで切り取られていた。
 もくじに抜き取られた部分が載っているのかと思って一番最初のページを開いたのに、もくじも一部切り抜かれている。クーポンが載っていたというわけでもないようだ。
 一番最後のページにあるクーポンはなにも欠けていない。

 そういえば今朝資源ごみに出したガイドブックの束もこんな感じの本があったことを思い出す。

「むー。なんかこう、頭の中ボワっとするなあ。三つくらいピースがなくなったパズルをやらされているみたいで、ここだけわかんないの気持ち悪い。……あ、でもこれ最新号じゃん。てことは同じのを本屋で買えばさ、この無くなったページがなんなのかわかるよね。ミチルちゃん、本屋行こ、本屋」
「……ユメは頭がいいのか悪いのかわからないね」

 さっきのビーチサンダルを買おうを言ったこともそうだけれど、ユメは機転がきく。
 この発想力を勉強の方で活かせればいいのにと思ってしまう。

 海の家でタオルを買い、足をよく拭いてから海を離れた。



 駅近の本屋に入り、ユメは目的のガイドブックだけでなく他の本も物色する。

「あ、ファッション誌の最新号だ。これも買っとこ!」
「さっきサンダルも買ってたのに、お金足りるの?」
「お年玉に手を付けてなかったから大丈夫だよー。あたしってば計画的」
「へえ」

 あればある分だけパーッと使ってしまいそうなタイプに見えたから意外だった。

「ほら見て。今月号の表紙、Rinaだよ! あたしの憧れのモデルさん。あたしたちと同じ神奈川出身なんだって。出身が同じってだけでもうアガるよね」
「そういうものなんだ……私そういうの疎くて。ごめんね」

 ファッション雑誌なんて買ったことがない。こういう点においては、ミチルはユメから学ぶことばかりだ。

「別に、買いたい本なんて好みの問題だからなんでもよくない? それより、早く確認しよ」

 ユメは急いで会計して、店の外に出る。
 ベンチに腰を下ろして、二人で該当のページを開く。

【鎌倉エリア人気セレクトショップ特集・ワンダーウォーカー】
【今年でオープン5周年を迎えたこちらのお店。店主が自ら世界をめぐり集めた雑貨や民族衣装はどれも一見の価値あり。一点物が多いので早い者勝ちです。今年のオススメ服はアオザイ、部屋を艶やかに演出したい人にはトルコランプがオススメ】

 店内の写真も数点載っていて、クルタにサルエルを着た男性が写っている。
 ショップのマップと各種SNS、ホームページのURL、QRコードも載っている。

「わあ、あたしこういう店すごく好き! 日本にいながら海外旅行しているみたいでいいね。でもなんでこのページだけ切られてたんだろうね」

 ユメはさっとスマホを本にかざして、QRコードからホームページに飛ぶ。

「すごいね、ホームページもすっごくオシャレ。ええと、なになに……」

 ホームページを見ていたユメの手が、急に止まった。

「どうしたの、ユメ」

 ユメは黙ってスマホの画面をミチルに向ける。

【店頭にない商品の仕入れ希望などありましたら、気兼ねなく店主・蛇場見歩にお問い合わせください】   


 歩という名前の人はいくらでもいるけれど、この珍しい名字まで一致する人はそうそういない。

 ガイドブックから切り取られていたページに載っていた店は。
 二十年以上前に家を飛び出した叔父、歩が営むセレクトショップだった。




image
4/19ページ
スキ