夢で満ちたら
ミチルはまだ日が出て間もない時間に目が覚めた。音を立てないようゆっくりと窓を開けると、ほんのり涼しい風が吹き込んでくる。
昨日のことで目がさえてしまって、あまり寝つけなかった。
(嬉しそうな父さん、初めて見たなぁ。走るのって、そんなに楽しいんだ)
帰ってきた父の手にはスポーツ洋品店のショップバッグがあった。
売り言葉に買い言葉で乗せらとはいえ、有言実行。
夕食もそこそこに、懐中電灯片手にランニングに行った。
「水を得た魚のようねぇ」なんて、母は笑って父の背を見送った。
(叔父さんや父さんみたいに、何歳になっても夢中になれるもの、私も欲しいな)
最初の会社で挫折して何者にもなれなかったミチルだけど、これから夢を見つけたら、何かになれるかもしれない。
「おはよーー。ミチルちゃん、早いねぇ……」
「あ、起こしてごめん」
窓を閉めようとするとユメは首を左右に振る。
大きく伸びをして、声を上げる。
「よーーーっし! ミチルちゃん。せっかく早く起きたんだから走ろう。昨日の伯父ちゃんの話聞いたら、走ってみたくなったんだ」
「ユメも思い立ったが吉日タイプだよね」
「そう。今日は吉日なの!」
「仏滅だよ」
カレンダーを見ながらツッコむ。
「いいのいいの。よし、さっそく行こー!」
「元気だねぇ……」
ミチルは数年ぶりに、高校の体操着に袖を通した。タンスの肥やしのままにしておくよりはいいのかもしれない。
一階に下りると、父が風呂場から出てくるところだった。
「あれ、伯父ちゃん早起きだね」
「……まあな」
ふいっと、バツが悪そうに顔を背けて私室に向かった。
ミチルが戸惑っていると後ろから、笑いをかみ殺す母の声がする。
「駆さん、夜明け前に走ってきたのよ。本当は走りたくて仕方なかったのね」
「そうなんだ」
水を得た魚は言い得て妙だ。
これまでは夕食後は風呂に入って、テレビも見ずさっさと部屋にこもるような生活をしていたのに。
「ミチルたちはラジオ体操? まだ時間には早いと思うけれど」
「あたしたちもひとっ走りしてくる」
「そう。ならちゃんと帽子をかぶるのよ。今の時期は朝でも日差しが強いんだから」
「はーい!」
せっかくだから海を見ながら走りたい、というユメたっての希望で、稲村ヶ崎駅で電車を降りて134号線に出た。
歩道が広いため、ランナーやサーフボードを乗せた自転車もここを走っている。
「いえーーい! 海だーーー! ミチルちゃん、江ノ島に向かって走れーー! 電車を追い越せーーー!」
「ユメ、準備運動しないと怪我しちゃうよ!」
「はぁい」
軽く屈伸運動と伸びをして、ユメが全速力で走り出した。
本気で電車を追い抜くつもりかもしれない。
あっという間に背中が遠くなり、豆粒サイズになった。
ついていける気がしないので、ミチルも自分のペースでいく。
左には日が昇っていく青い空、入道雲、吹きつけるあたたかい風。
右横を江ノ電が通り過ぎていく。
ノスタルジックとでもいうのか、のどかな風景は心にしみる。
「父さんが走るのが好きって気持ち、ちょっとわかるかも」
景色を楽しめたのははじめだけで、力尽きるのも早かった。
五百メートルも走ったところで息が苦しくなった。
足がもつれ、自分のスニーカーの紐に引っかかって転んだ。
「大丈夫?」
ミチルのすぐ後ろを走っていた青年が、手を差し伸べてくれる。
スポーツウェアにサンバイザーをつけたランナーだ。
「……す、すみません。走るのに、邪魔ですよね」
「そうじゃなくて。ヒザ、擦りむいてるだろ」
邪魔だと言いたいのでなく、ただ心配してくれただけだった。
「靴紐はしっかり結んどかないと危ないからな。よかったらこれ使って」
「すみません」
青年はウエストポーチから消毒スプレーとバンソウコウを出す。
「準備がいいんですね」
「俺もよく怪我してたから、最低限必要なもの持ってるんだ」
ていねいに消毒をして、バンソウコウを貼ってくれた。靴紐を結び直し、青年の手を借りて立ち上がる。
「ありがとうございました。親切に、どうも」
「いいっていいって。走るときは気をつけなよ」
「せめてものお礼に、これをどうぞ」
ミチルは青年にいちご飴を渡す。
昨日もらったいちご飴が美味しかったから、あのあと自分でも買ってポケットに入れていたのだ。
マッドハッターは、いちご飴メーカーのまわし者なのかもしれない。
飴を見たとたん、青年が大声で笑い出した。
「ど、どうしたんです?」
「あー、いや。わるいわるい。むかし、具合が悪そうな子を助けたら、お礼にって、これとおんなじ飴をくれたんだ。だから、いま君から飴をもらって、なんかおかしくって」
「ふふっ。そんな偶然、あるんですね」
青年は今回に限らず、いつでもどこでも人助けをしているらしい。
そしてミチルと同じように、お礼として飴をさし出した子がいる。
想像したら、ミチルも笑ってしまった。
「毎日ここを走っているんですか?」
「ああ。小学生の頃から陸上部だったから、もう日課になっているんだ。消防士やってるから、体力いるし」
「消防士……あなたにピッタリ」
ミチルの感想を聞いて、青年は照れて頭をかく。
「父さんがさ、「悩んでいる友達の力になれなかったのが今でも悔しい」ってよく言ってたんだ。だから俺、ガキのときから、困っている人がいたら力を貸せる人間になりたいって思って、警察官とか自衛隊とか、色々悩んだ末に目指したのが消防士だったってだけで……」
「そっか。私、前職を辞めたあと、……自分が何をしたいかわからなくて、立ち止まっていたんです。誰かのために行動するあなたの考え方、すごくいいなって思う」
誰かのためにがんばれる、それはもう素質、才能だと思う。
自分のことだけで精いっぱいのミチルには、青年の生き方が眩しく映る。
「いいじゃん。立ち止まったって、転んだって。人生長いんだからさ。今みたいにまた立ち上がればいいんだ。俺たちみんな一人で生きているわけじゃないんだから。家族や友だちに、助けてって言えばいい」
青年の言葉で気づく。
自分一人でなんとかしなきゃと思いつめるあまり、見失っていたのかもれない。
「そう、だね。うん。ありがとう。元気出た。立ち止まっても、また走ればいいだけだよね」
絶望してひきこもっても、ミチルには手を引っぱって、走ってくれる人がいる。
「ああ。あんま無理すんなよ」
青年は笑顔でミチルの肩をたたいて、颯爽と走り去った。
先を行っていたユメが戻ってくる。
「おおーい、ミチルちゃーーん! なんか転んでたみたいだけど大丈夫ーー?」
「うん。大丈夫。擦りむいたけど、あの人が手当してくれた」
ミチルのヒザには大きめのバンソウコウが貼られている。
「さっきすれ違ったお兄さんかぁ〜。なになに。青春? もしかして恋が芽生えちゃうやつ?」
「バカ言わないでよユメ。転んだ人を助けるたびに恋が芽生えていたら、あの人は八十才のおばあちゃんや幼稚園児すら恋人になっちゃうよ」
「そっちじゃなーい!」
「そっちってどっち」
ユメの脳内ラブコメが成立するなら、男女が隣の席になったら恋が始まり曲がり角でぶつかるたびに恋が始まる。
そんな世界なら、一年も経たず恋人が百人になるだろう。
言いたいのはそういうことじゃない、とユメは頬を膨らませる。
「ラブだって人の原動力でしょー?」
「はいはい」
二駅分そんな調子でゆっくりと走り、また稲村ヶ崎駅前までUターンして電車に乗り込み帰宅した。
汗だくで玄関を開けると、母がスポーツドリンクを出してくれる。
「おかえりなさい。朝から飛ばすわねぇ。体力持つの? ミチル」
「今まさに力尽きそう……」
これまでならスポーツドリンクをあまり飲まなかったのに、今日は絶品グルメかってくらい美味しく感じる。
父はとっくにスーツに着替えて食卓についていて、明け方ランニングしてきた人とは思えない、涼しい顔をしている。
朝食のあとはまたユメの勉強をみる。
英語は文法もまともに覚えていないから、家にあった映画のDVDを、英語音声の日本語字幕・英語字幕に切り替えて説明する。
家にある映画のDVDはすべて母のコレクションだ。洋画と海外のアニメ映画が多い。
「何回も聞いていると言ってること聞き取れるようになるよ」
「ほへ〜、これ日本語吹き替えで見たことある」
「ストーリーと大まかなセリフを知っているなら、覚えやすいはず」
あなたは〜だと思う?
Do you think〜
ミチルはノートに書き出していく。
作中では主人公が、「ねえパパ。私って変な子かしら? みんなが私を変だと言うのよ」と父親にたずねる。
「テストでもよく使われるから覚えるといいよ。今回のシーンではI'm odd、私は変。この文と繋げれば、私を変な子だと思う? I'm eerieに変えれば、私を怖いと思う?」
「おー! 応用ってやつだ」
ノリ気になってくれたようで安心した。映画作戦はユメに合っていたようだ。
麦茶を持ってきた母が横からのぞき込んで感心する。
「ミチルは教えるのがうまいわねぇ。このまま家庭教師を本業にしちゃえば? 塾だと大勢の生徒を見ないといけないけど、一対一なら大丈夫そう」
「そう見える?」
「嫌なら無理強いしないわよ。ミチルはどうすれば楽しく勉強してくれるか考えているでしょう? わたしは人と勉強するのが苦手だったから羨ましいわ。ほら、テスト勉強してる? って聞かれて、してるって言ってもしてないって言っても角が立つああいうのが嫌でね」
「へぇ〜。あたしなんて勉強してるって言っても誰も信じてくれないよー。失礼しちゃう」
テストの点数が全てを物語っているから、ユメの「勉強した」を信じる人がいないのは当然だ。言ったら拗ねてしまいそうだから、心の中にしまっておく。
映画のセリフを通して一通り英文を教えて、気づけばお昼時になっていた。
家の電話が鳴って、母に呼ばれる。
「ミチル。沙優から電話。この先も家庭教師を続けてくれるかしら? って。ミチルが自分で答えて」
「ん」
今日が、約束した最初の三日目。
続けるかどうかはミチルの気持ち次第。
母から受話器を受け取ると、懐かしい叔母の声がする。
〈ミチルちゃん、久しぶり。ありがとう、ユメの勉強を見てくれて。あの子、迷惑かけてない?〉
「大丈夫。迷惑かけてないよ。……私のほうこそ、ありがとう、叔母さん」
こんなことでもないと、ミチルは部屋から出ない自宅警備員を続けていただろうから。
ユメと外に出て、叔父やいろんな人と出会って、少しずつ……空っぽだったミチルの中に募り、満ちていく何かがある。
「私、最後まで付き合うよ。それで、これが終わったら就職活動がんばる。私にできること、きっと何かあると思うから」
ミチルは、何もしてこなかった自分にサヨナラしようと決めた。
あの青年が言ってくれたように、立ち止まっても、転んでも、また立ち上がって走ればいい。
これまでのようにあてもなく闇雲に歩くのではなく、今度はちゃんと、自分なりのゴールを決めて。
〈ありがとう、ミチルちゃん。……あの子ね、勉強が嫌い学校辞めたいって泣いてたから……だから、ミチルちゃんに教えてもらって続けるって思ってくれたらいいなって考えていたの〉
「そうだったんだ……」
ユメはうちに来てからも、何度も溢していた。
わかんないし将来役に立つか不明なことやりたくない、好きなことだけしていたい。
「私は続けたいけど、ユメもそう思っているかどうかはわからないよ。電話代わるから、ユメに聞いてみて」
ユメを呼んで、今度はユメが叔母と話しこむ。
ミチルはリビングに戻って散らばったペンやノートの整理をする。
ここでユメが「やっぱり勉強嫌だから帰りたい」と言う可能性もゼロではない。
ユメの天真爛漫で引っ張ってくれるところは、少なからずミチルにいい影響をもたらしてくれた。
けれど、この三日間がユメにとってプラスに働いているかと聞かれるとわからない。
「ふぃ〜〜。お母さんと話してきたよー」
五分ほどして、ユメが戻ってきた。
テーブルについてすぐに足を伸ばす。
「どうするの?」
「あたし、がんばる。夏休み終わるまでよろしくね」
「こちらこそ。最後までよろしく」
ユメは三日前と違ってやる気だ。
ミチルも笑って応える。
右手を上げて軽くハイタッチする。
夏休みはまだまだ、はじまったばかり。
ミチルはまず、このオテンバ生徒の家庭教師道を走るのだ。
昨日のことで目がさえてしまって、あまり寝つけなかった。
(嬉しそうな父さん、初めて見たなぁ。走るのって、そんなに楽しいんだ)
帰ってきた父の手にはスポーツ洋品店のショップバッグがあった。
売り言葉に買い言葉で乗せらとはいえ、有言実行。
夕食もそこそこに、懐中電灯片手にランニングに行った。
「水を得た魚のようねぇ」なんて、母は笑って父の背を見送った。
(叔父さんや父さんみたいに、何歳になっても夢中になれるもの、私も欲しいな)
最初の会社で挫折して何者にもなれなかったミチルだけど、これから夢を見つけたら、何かになれるかもしれない。
「おはよーー。ミチルちゃん、早いねぇ……」
「あ、起こしてごめん」
窓を閉めようとするとユメは首を左右に振る。
大きく伸びをして、声を上げる。
「よーーーっし! ミチルちゃん。せっかく早く起きたんだから走ろう。昨日の伯父ちゃんの話聞いたら、走ってみたくなったんだ」
「ユメも思い立ったが吉日タイプだよね」
「そう。今日は吉日なの!」
「仏滅だよ」
カレンダーを見ながらツッコむ。
「いいのいいの。よし、さっそく行こー!」
「元気だねぇ……」
ミチルは数年ぶりに、高校の体操着に袖を通した。タンスの肥やしのままにしておくよりはいいのかもしれない。
一階に下りると、父が風呂場から出てくるところだった。
「あれ、伯父ちゃん早起きだね」
「……まあな」
ふいっと、バツが悪そうに顔を背けて私室に向かった。
ミチルが戸惑っていると後ろから、笑いをかみ殺す母の声がする。
「駆さん、夜明け前に走ってきたのよ。本当は走りたくて仕方なかったのね」
「そうなんだ」
水を得た魚は言い得て妙だ。
これまでは夕食後は風呂に入って、テレビも見ずさっさと部屋にこもるような生活をしていたのに。
「ミチルたちはラジオ体操? まだ時間には早いと思うけれど」
「あたしたちもひとっ走りしてくる」
「そう。ならちゃんと帽子をかぶるのよ。今の時期は朝でも日差しが強いんだから」
「はーい!」
せっかくだから海を見ながら走りたい、というユメたっての希望で、稲村ヶ崎駅で電車を降りて134号線に出た。
歩道が広いため、ランナーやサーフボードを乗せた自転車もここを走っている。
「いえーーい! 海だーーー! ミチルちゃん、江ノ島に向かって走れーー! 電車を追い越せーーー!」
「ユメ、準備運動しないと怪我しちゃうよ!」
「はぁい」
軽く屈伸運動と伸びをして、ユメが全速力で走り出した。
本気で電車を追い抜くつもりかもしれない。
あっという間に背中が遠くなり、豆粒サイズになった。
ついていける気がしないので、ミチルも自分のペースでいく。
左には日が昇っていく青い空、入道雲、吹きつけるあたたかい風。
右横を江ノ電が通り過ぎていく。
ノスタルジックとでもいうのか、のどかな風景は心にしみる。
「父さんが走るのが好きって気持ち、ちょっとわかるかも」
景色を楽しめたのははじめだけで、力尽きるのも早かった。
五百メートルも走ったところで息が苦しくなった。
足がもつれ、自分のスニーカーの紐に引っかかって転んだ。
「大丈夫?」
ミチルのすぐ後ろを走っていた青年が、手を差し伸べてくれる。
スポーツウェアにサンバイザーをつけたランナーだ。
「……す、すみません。走るのに、邪魔ですよね」
「そうじゃなくて。ヒザ、擦りむいてるだろ」
邪魔だと言いたいのでなく、ただ心配してくれただけだった。
「靴紐はしっかり結んどかないと危ないからな。よかったらこれ使って」
「すみません」
青年はウエストポーチから消毒スプレーとバンソウコウを出す。
「準備がいいんですね」
「俺もよく怪我してたから、最低限必要なもの持ってるんだ」
ていねいに消毒をして、バンソウコウを貼ってくれた。靴紐を結び直し、青年の手を借りて立ち上がる。
「ありがとうございました。親切に、どうも」
「いいっていいって。走るときは気をつけなよ」
「せめてものお礼に、これをどうぞ」
ミチルは青年にいちご飴を渡す。
昨日もらったいちご飴が美味しかったから、あのあと自分でも買ってポケットに入れていたのだ。
マッドハッターは、いちご飴メーカーのまわし者なのかもしれない。
飴を見たとたん、青年が大声で笑い出した。
「ど、どうしたんです?」
「あー、いや。わるいわるい。むかし、具合が悪そうな子を助けたら、お礼にって、これとおんなじ飴をくれたんだ。だから、いま君から飴をもらって、なんかおかしくって」
「ふふっ。そんな偶然、あるんですね」
青年は今回に限らず、いつでもどこでも人助けをしているらしい。
そしてミチルと同じように、お礼として飴をさし出した子がいる。
想像したら、ミチルも笑ってしまった。
「毎日ここを走っているんですか?」
「ああ。小学生の頃から陸上部だったから、もう日課になっているんだ。消防士やってるから、体力いるし」
「消防士……あなたにピッタリ」
ミチルの感想を聞いて、青年は照れて頭をかく。
「父さんがさ、「悩んでいる友達の力になれなかったのが今でも悔しい」ってよく言ってたんだ。だから俺、ガキのときから、困っている人がいたら力を貸せる人間になりたいって思って、警察官とか自衛隊とか、色々悩んだ末に目指したのが消防士だったってだけで……」
「そっか。私、前職を辞めたあと、……自分が何をしたいかわからなくて、立ち止まっていたんです。誰かのために行動するあなたの考え方、すごくいいなって思う」
誰かのためにがんばれる、それはもう素質、才能だと思う。
自分のことだけで精いっぱいのミチルには、青年の生き方が眩しく映る。
「いいじゃん。立ち止まったって、転んだって。人生長いんだからさ。今みたいにまた立ち上がればいいんだ。俺たちみんな一人で生きているわけじゃないんだから。家族や友だちに、助けてって言えばいい」
青年の言葉で気づく。
自分一人でなんとかしなきゃと思いつめるあまり、見失っていたのかもれない。
「そう、だね。うん。ありがとう。元気出た。立ち止まっても、また走ればいいだけだよね」
絶望してひきこもっても、ミチルには手を引っぱって、走ってくれる人がいる。
「ああ。あんま無理すんなよ」
青年は笑顔でミチルの肩をたたいて、颯爽と走り去った。
先を行っていたユメが戻ってくる。
「おおーい、ミチルちゃーーん! なんか転んでたみたいだけど大丈夫ーー?」
「うん。大丈夫。擦りむいたけど、あの人が手当してくれた」
ミチルのヒザには大きめのバンソウコウが貼られている。
「さっきすれ違ったお兄さんかぁ〜。なになに。青春? もしかして恋が芽生えちゃうやつ?」
「バカ言わないでよユメ。転んだ人を助けるたびに恋が芽生えていたら、あの人は八十才のおばあちゃんや幼稚園児すら恋人になっちゃうよ」
「そっちじゃなーい!」
「そっちってどっち」
ユメの脳内ラブコメが成立するなら、男女が隣の席になったら恋が始まり曲がり角でぶつかるたびに恋が始まる。
そんな世界なら、一年も経たず恋人が百人になるだろう。
言いたいのはそういうことじゃない、とユメは頬を膨らませる。
「ラブだって人の原動力でしょー?」
「はいはい」
二駅分そんな調子でゆっくりと走り、また稲村ヶ崎駅前までUターンして電車に乗り込み帰宅した。
汗だくで玄関を開けると、母がスポーツドリンクを出してくれる。
「おかえりなさい。朝から飛ばすわねぇ。体力持つの? ミチル」
「今まさに力尽きそう……」
これまでならスポーツドリンクをあまり飲まなかったのに、今日は絶品グルメかってくらい美味しく感じる。
父はとっくにスーツに着替えて食卓についていて、明け方ランニングしてきた人とは思えない、涼しい顔をしている。
朝食のあとはまたユメの勉強をみる。
英語は文法もまともに覚えていないから、家にあった映画のDVDを、英語音声の日本語字幕・英語字幕に切り替えて説明する。
家にある映画のDVDはすべて母のコレクションだ。洋画と海外のアニメ映画が多い。
「何回も聞いていると言ってること聞き取れるようになるよ」
「ほへ〜、これ日本語吹き替えで見たことある」
「ストーリーと大まかなセリフを知っているなら、覚えやすいはず」
あなたは〜だと思う?
Do you think〜
ミチルはノートに書き出していく。
作中では主人公が、「ねえパパ。私って変な子かしら? みんなが私を変だと言うのよ」と父親にたずねる。
「テストでもよく使われるから覚えるといいよ。今回のシーンではI'm odd、私は変。この文と繋げれば、私を変な子だと思う? I'm eerieに変えれば、私を怖いと思う?」
「おー! 応用ってやつだ」
ノリ気になってくれたようで安心した。映画作戦はユメに合っていたようだ。
麦茶を持ってきた母が横からのぞき込んで感心する。
「ミチルは教えるのがうまいわねぇ。このまま家庭教師を本業にしちゃえば? 塾だと大勢の生徒を見ないといけないけど、一対一なら大丈夫そう」
「そう見える?」
「嫌なら無理強いしないわよ。ミチルはどうすれば楽しく勉強してくれるか考えているでしょう? わたしは人と勉強するのが苦手だったから羨ましいわ。ほら、テスト勉強してる? って聞かれて、してるって言ってもしてないって言っても角が立つああいうのが嫌でね」
「へぇ〜。あたしなんて勉強してるって言っても誰も信じてくれないよー。失礼しちゃう」
テストの点数が全てを物語っているから、ユメの「勉強した」を信じる人がいないのは当然だ。言ったら拗ねてしまいそうだから、心の中にしまっておく。
映画のセリフを通して一通り英文を教えて、気づけばお昼時になっていた。
家の電話が鳴って、母に呼ばれる。
「ミチル。沙優から電話。この先も家庭教師を続けてくれるかしら? って。ミチルが自分で答えて」
「ん」
今日が、約束した最初の三日目。
続けるかどうかはミチルの気持ち次第。
母から受話器を受け取ると、懐かしい叔母の声がする。
〈ミチルちゃん、久しぶり。ありがとう、ユメの勉強を見てくれて。あの子、迷惑かけてない?〉
「大丈夫。迷惑かけてないよ。……私のほうこそ、ありがとう、叔母さん」
こんなことでもないと、ミチルは部屋から出ない自宅警備員を続けていただろうから。
ユメと外に出て、叔父やいろんな人と出会って、少しずつ……空っぽだったミチルの中に募り、満ちていく何かがある。
「私、最後まで付き合うよ。それで、これが終わったら就職活動がんばる。私にできること、きっと何かあると思うから」
ミチルは、何もしてこなかった自分にサヨナラしようと決めた。
あの青年が言ってくれたように、立ち止まっても、転んでも、また立ち上がって走ればいい。
これまでのようにあてもなく闇雲に歩くのではなく、今度はちゃんと、自分なりのゴールを決めて。
〈ありがとう、ミチルちゃん。……あの子ね、勉強が嫌い学校辞めたいって泣いてたから……だから、ミチルちゃんに教えてもらって続けるって思ってくれたらいいなって考えていたの〉
「そうだったんだ……」
ユメはうちに来てからも、何度も溢していた。
わかんないし将来役に立つか不明なことやりたくない、好きなことだけしていたい。
「私は続けたいけど、ユメもそう思っているかどうかはわからないよ。電話代わるから、ユメに聞いてみて」
ユメを呼んで、今度はユメが叔母と話しこむ。
ミチルはリビングに戻って散らばったペンやノートの整理をする。
ここでユメが「やっぱり勉強嫌だから帰りたい」と言う可能性もゼロではない。
ユメの天真爛漫で引っ張ってくれるところは、少なからずミチルにいい影響をもたらしてくれた。
けれど、この三日間がユメにとってプラスに働いているかと聞かれるとわからない。
「ふぃ〜〜。お母さんと話してきたよー」
五分ほどして、ユメが戻ってきた。
テーブルについてすぐに足を伸ばす。
「どうするの?」
「あたし、がんばる。夏休み終わるまでよろしくね」
「こちらこそ。最後までよろしく」
ユメは三日前と違ってやる気だ。
ミチルも笑って応える。
右手を上げて軽くハイタッチする。
夏休みはまだまだ、はじまったばかり。
ミチルはまず、このオテンバ生徒の家庭教師道を走るのだ。