夢で満ちたら
歩が店のレジカウンターで明日の準備をしていると、ミチルとユメが店に戻ってきた。
最初に店の前に立っていたときの、不安でいっぱいだった顔が嘘のよう。
憑き物が落ちた晴れやかな顔をしている。
「叔父さん。三十人に聞いてきたよ」
「ほら見て! ちゃんと三十人分書いた!」
ユメが口をᑌの字にしてノートを見せてくる。
ペットショップのおじいちゃんをはじめ、八百屋の奥さんや通りすがりの母娘など様々な人の夢と今を記してある。
ミチルとユメが名前を知らなくても、歩はもう何年もこの店に住んでいる。
だから簡易メモと職業で誰のことなのかおおよそ判別がつく。
一番最後に質問されたのが我が友なのには笑ってしまった。
メモに「マッドハッターさんはなんか変な人だった」とユメの感想が添え書きしてあるからなおのことおかしい。
「歩さん、何がおかしいの。ちゃんとゲームクリアしたんだからご褒美ちょーだい!」
「ええそうね。約束したもの」
歩は古びた箱をカウンターに乗せる。
幼い頃に近所の人からもらった、ドイツ土産のお菓子の箱。中身はとうの昔に食べたからもうないけれど、歩はオシャレな箱を気に入って、ずっと宝箱として使っていた。
「なんかキレーな箱だねぇ。これなに?」
「開けてみなさい」
ミチルとユメがおそるおそる、フタに手をかける。
二人とも驚いて目を丸くした。
ユメは首掛けリボンをつまんで目の高さに持ち上げる。
「わぁ!! 金メダルだ! 本物初めて見たよー! ええっと、全国高等学校陸上……男子200m1位。歩さんってもしかして金メダリスト!? めっちゃ足速いの?」
「アタシじゃないわよ。日付を見なさい。その年だとアタシはまだ小学生。高校生のインターハイに出られるわけないでしょう」
メダルに刻印されている年号は平成6年。
その年に高校生だったのは、兄の駆だ。
「…………父さんが高校の年だよね。もしかしてこれ、私の父さんがとったメダルなの? 私、小さい頃に何度もおじいちゃんの家に行っているけど、メダルや賞状が飾られているところを一度も見たことないよ」
やはりというかなんというか……父親がインターハイのメダリストだったことを、ミチルは知らないようだ。
両親に夢を奪われたこと、駆が娘に話すはずがない。
歩と駆の両親……ミチルの祖父母も、駆が陸上をしていた事実を無かったことにしている。
歩は、無かったことにしてほしくない。
「ミチル。ゲームの仕上げよ。このメダルを持って、駆に子どもの頃の夢を聞いてきなさい」
「……父さんに?」
「そうよ。あんたが一番向き合って話さなきゃいけない相手は駆。アタシじゃないわ。これを箱ごと渡せば、アタシが駆に言いたいことも伝わるはずだから」
ユメは箱の中にメダルを戻し、フタをしめてミチルに手渡す。
「駆伯父ちゃん、なんで今まで話してくれなかったんだろう。あたしだったら、全国大会優勝なんて、嬉しくてみんなに話してまわっちゃうよ? 金メダルって、すっごいことじゃん。選手になれる人数はすごく少ないんだもん。大学卒業するより難しいと思うんだけど」
「……うん。私もそう思う。なんで隠しているんだろう」
疑問に思うのはごもっとも。
なぜ話せなかったのか、ミチルとユメは事情を知らないし、まだそういう機微を理解できるほど大人ではない。
「行きなさい、二人とも。せっかくだから次に来るときは、お客様として来てくれたら嬉しいわ」
「うん。ありがとう、歩さん。あたしこういう雑貨好きだから、今度はお買い物しにくるよ!」
「ありがとう、叔父さん。会えてよかった」
二人は手を振って、店を出ていった。
二人が出ていくと、店には静けさが戻る。
歩は残りの作業を終えてひとり、ハーブティーをいれて休む。
「……あれを見て、思い出してくれたらいいわ」
幼い頃のことを思い、ぽつりとつぶやく。
歩が小学生の頃、まだ駆は陸上部だった。
高校二年の夏、全国大会で金メダルを取った。
男子200メートル1位と彫られたメダルはとても輝いている。駆は大会から帰ってきてすぐ、満面の笑みで、ずっしり重いそれを歩の首にかけてくれた。
「うわあ! すごいね兄さん。メダル、すっごくきれい。いいなあ。ねえ、ちょうだい! これ一個だけでいいから」
「しかたないなあ……。歩は本当にキラキラしたものが好きだな」
「ありがとう! 一生大事にするわ」
歩はもらったメダルをお気に入りの宝箱に入れて、大事に保管することにした。
「歩はなんでも宝箱にいれるよな」
「何でもじゃないわ。きれいなものだけよ」
「歩にとってメダルは、きれいなものなのな」
海で拾った真っ青なシーグラス、桜貝、サイダーの瓶に入っていた透明なビー玉。両親はゴミだと言って笑うが、歩にとってはキラキラした宝物だ。
「他の誰かが同じのを取ってきてもきれいじゃないよ。兄さんの夢が形になったものだからよ。いつか自分のお店を持ったら、これを店に飾るの。アタシの兄さんはチーターに負けないくらい早いのよってみんなに話すの」
毎日毎日、駆が早起きして夜明け前の海岸線を走っていたのを知っている。一位になりたくて頑張っていたのを知っている。
夢に向かって全力でがんばっていた駆を知っているから、だからこれは、駆の夢の結晶。
「ばーか。インターハイはまだ通過点だ。いつかは世界大会のメダルを取ってきてやるからな」
「うん。楽しみに待ってる」
歩が言うと、駆は照れ臭そうに笑った。
幼い頃から人と少し違う、歩のこの性質《・・》を、駆は否定しなかった。両親は「男ならもっと男らしくしろ」と叱るだけだから、親の前では男子がする言葉遣いを意識するけれど、本来の自分と違う生き方を押し付けられることが、歩には苦痛だった。
家族の中でそのままの歩を許してくれるのは、駆だけだった。
夢いっぱいで、全力で走る兄をかっこいいと思っていたし、そんな兄にあこがれていた。
二人で使っている子ども部屋には、駆がこれまでに獲得したメダルやトロフィー、賞状がたくさん飾られている。
歩はこれからもまたきっと大会でたくさん入賞すると思っていたし、駆も、この先何度でもメダルを取ると思っていたはずだ。
両親に大反対されるあの日までは。
他の階の住人まで聞こえそうなくらいの声量で、駆のテストの点が悪かったのを責め立てる。
「駆。履歴書には陸上大会の履歴なんて書く欄はどこにもないんだ。なんの役にも立たん! こんな悪い点を取るくらい足枷になるなら、陸上は今日限りで辞めてしまえ!」
「そうよ駆。こんな点とって恥ずかしい。お義父さんたちになんて言われるか。貴方には、わたしたちみたいにちゃんとした大学に行って、商社に入ってもらわないと困るわ」
歩と駆の両親は、いつも東大卒で大手商社勤めであることを自慢していた。
歩はそんな両親を恥ずかしいと思っていた。
たしかに大学に行くには頭が良くないといけないし、商社に入るのだって努力の賜物だろう。
でも、それを鼻にかけて人を見下すのは違う。
「俺は続けたい。やめたくない。世界大会、目指したいんだ。勉強も頑張るから、だから……」
両親は許さなかった。
部屋に飾ってあった賞状は額を叩き壊し、全部破り捨てた。トロフィーもメダルも燃えないゴミの袋にまとめて放り込んでいく。底がすり減ってくたくたになったシューズも、マンションのゴミ集積場に放り込んだ。
「馬鹿なことを言わないで。世界大会なんて本当に才能のある人間しか出られないの。駆より早い人間世界にゴマンといるのよ。どうせ世界なんて行けずに終わって恥をかくだけ。最初から、目指すだけ無駄なのよ」
言い争う三人の姿が、今でも頭のすみに焼き付いている。
夢のために走り続けてメダルを取った駆を、歩は誇りに思う。それなのに。
両親が大事なのはテストの結果だけ。成績が悪い駆は、この両親にとっては親不孝で駄目な息子だった。
ゴミにされてしまった努力の結晶。立ち尽くす駆の背を忘れられない。
「……ごめん。もう、走らない。ちゃんと勉強するから」
「わかってくれて良かった。駆は良い子だな」
謝罪する駆の声は、怒鳴りたいのを押し殺して、なんとか絞り出した声。
鬼の形相だった両親はそれを聞いて笑顔になった。
部屋に帰ってきた駆は、布団をかぶって泣いていた。夜が明けるまで、ずっと。
(アイツらにとっての“良い子”って、学業の成績が良くて大卒でいい企業務めの子だけ……。アタシも、この家にずっといたら、こうやって夢を捨てられてしまう。兄さんは、……アタシの大好きな兄さんは、あんなに、楽しそうに走って、夢を追っていたのに)
この日以来、駆は一切笑わなくなった。
大学受験でストレート合格しても、就活で大手企業からの採用通知が来たときも、大学の同級生との結婚が決まったときも。
両親はその大事なことに気づきもせずに、繰り返す。
「おめでとう駆。どこにだしても恥ずかしくない、自慢の息子だ」
なんて歪。なんて醜い。そこにいるのは、抜け殻にされた駆なのに。
笑顔を奪ったのは自分たちなのに、なんで、自慢の良い子だと言えるんだろう。
高校で初斗に出会い、親しくなり、歩は宝箱を見せて、抱えてきた気持ちを話した。
自分の性質のこと、店を持ちたいという夢、夢を奪われてしまった駆のこと。駆に、夢を諦めてほしくなかったという気持ち。
精神科医になりたいと真剣に願い、勉強している初斗ならきっと、真摯に受けて止めてくれると信じて。
「あんな家に、もういたくないわ。父さんたちの言うまま、学校に通い続けていたら、アタシも兄さんと同じにされてしまう気がするの」
「そうだね。僕、歩には自由でいてほしい。ねえ、歩が自分の店を持ったらさ、僕のクリニックの内装をお願いしたいな。僕、センスないから、自分で家具を選んだら殺風景になってしまう」
全部受け入れて、歩が夢を叶える前提で、自分の夢を話してくれる。そのことが嬉しかった。
「任されたわ。初斗ってば、母の日の贈り物に、花壇の花を毟っちゃうくらいズレているんだもの。アンタも患者も気に入るようないい家具を見繕ってあげる」
「約束だよ。不思議の国のアリスに出てくるような、帽子屋のお茶会みたいな診察室がいいんだ。僕もちゃんと医師免許を取って独立するから、歩もお店を開いてね」
初斗はテストの成績だけ見ればトップなのに、たまに変な失敗をする。花壇の花を摘むのも、本人は良かれと思ってやったからたちが悪い。
初斗がずれたことをするたびに歩が軌道修正するのがお約束となり、同級生なのに母と息子のようだとクラスメートにはよく言われた。
はたからみれば母と息子みたいなものでも、歩と初斗としては対等な友だ。
初斗に背中を押されて家を飛び出した。
家を出る日、ちょうど兄夫婦が帰省していた。もうすぐ子が生まれると報告しに来ていたのだ。
親に押し付けられた道が正解と思いたいんだろう。夢を諦めたことを正当化するには、それしかなかったんだろう。
「高校中退して親の助けもなしに何ができるっていうんだ。できるわけ無いだろう。やめておけ。お前も友達なら家出なんか手伝うな!」
夢を奪われて泣いていた駆は、かつて自分が言われたセリフを、そのまま歩に投げかけてきた。
駆が止めても、歩は立ち止まらなかった。
駆の背を見てきたからこそ、メダルが入った宝箱を背負って走った。
(必ず、必ず叶えるから。アタシがその、馬鹿で無謀なことを成し遂げたなら、そうしたら、兄さんはもう一度、走ってくれるかもしれない)
海外に出て、くじけそうになることもあったけれど、そのたびにメダルを握りしめて気合を入れ直した。
自分が夢を叶えることで、駆が夢を追うことを思い出してくれるなら。
家を飛び出してから十九年。
歩と初斗は互いに夢を叶えた。約束通り、歩は初斗のクリニックの家具を一式揃えた。
マッドハッターのお茶会のような診察室、なんて、たぶんインテリアコーディネイターに依頼したら何言ってやがると言われそうだ。
駆のもとにも開店したことを知らせる手紙を出したけれど、音沙汰は無し。
かわりに、五年経ってから兄の娘ミチルが店の扉を叩いた。
大学を出ていい会社に入るのが幸せだと言われて育ち、絶望の淵に立たされたような顔を……あの日、夢を奪われた駆と同じ顔をしていた。
駆は、両親の教えが正解であってほしくて、娘にもそう言ってきたんだろう。
大学を出ていい会社に入る。人によっては正解かもしれないけれど、きっと、駆とミチルにとっては、幸せな道ではないのだ。
だから歩は、抱えてきた宝箱をミチルに託す。
駆が、夢を追っていた頃の気持ちを思い出してくれると信じて。
最初に店の前に立っていたときの、不安でいっぱいだった顔が嘘のよう。
憑き物が落ちた晴れやかな顔をしている。
「叔父さん。三十人に聞いてきたよ」
「ほら見て! ちゃんと三十人分書いた!」
ユメが口をᑌの字にしてノートを見せてくる。
ペットショップのおじいちゃんをはじめ、八百屋の奥さんや通りすがりの母娘など様々な人の夢と今を記してある。
ミチルとユメが名前を知らなくても、歩はもう何年もこの店に住んでいる。
だから簡易メモと職業で誰のことなのかおおよそ判別がつく。
一番最後に質問されたのが我が友なのには笑ってしまった。
メモに「マッドハッターさんはなんか変な人だった」とユメの感想が添え書きしてあるからなおのことおかしい。
「歩さん、何がおかしいの。ちゃんとゲームクリアしたんだからご褒美ちょーだい!」
「ええそうね。約束したもの」
歩は古びた箱をカウンターに乗せる。
幼い頃に近所の人からもらった、ドイツ土産のお菓子の箱。中身はとうの昔に食べたからもうないけれど、歩はオシャレな箱を気に入って、ずっと宝箱として使っていた。
「なんかキレーな箱だねぇ。これなに?」
「開けてみなさい」
ミチルとユメがおそるおそる、フタに手をかける。
二人とも驚いて目を丸くした。
ユメは首掛けリボンをつまんで目の高さに持ち上げる。
「わぁ!! 金メダルだ! 本物初めて見たよー! ええっと、全国高等学校陸上……男子200m1位。歩さんってもしかして金メダリスト!? めっちゃ足速いの?」
「アタシじゃないわよ。日付を見なさい。その年だとアタシはまだ小学生。高校生のインターハイに出られるわけないでしょう」
メダルに刻印されている年号は平成6年。
その年に高校生だったのは、兄の駆だ。
「…………父さんが高校の年だよね。もしかしてこれ、私の父さんがとったメダルなの? 私、小さい頃に何度もおじいちゃんの家に行っているけど、メダルや賞状が飾られているところを一度も見たことないよ」
やはりというかなんというか……父親がインターハイのメダリストだったことを、ミチルは知らないようだ。
両親に夢を奪われたこと、駆が娘に話すはずがない。
歩と駆の両親……ミチルの祖父母も、駆が陸上をしていた事実を無かったことにしている。
歩は、無かったことにしてほしくない。
「ミチル。ゲームの仕上げよ。このメダルを持って、駆に子どもの頃の夢を聞いてきなさい」
「……父さんに?」
「そうよ。あんたが一番向き合って話さなきゃいけない相手は駆。アタシじゃないわ。これを箱ごと渡せば、アタシが駆に言いたいことも伝わるはずだから」
ユメは箱の中にメダルを戻し、フタをしめてミチルに手渡す。
「駆伯父ちゃん、なんで今まで話してくれなかったんだろう。あたしだったら、全国大会優勝なんて、嬉しくてみんなに話してまわっちゃうよ? 金メダルって、すっごいことじゃん。選手になれる人数はすごく少ないんだもん。大学卒業するより難しいと思うんだけど」
「……うん。私もそう思う。なんで隠しているんだろう」
疑問に思うのはごもっとも。
なぜ話せなかったのか、ミチルとユメは事情を知らないし、まだそういう機微を理解できるほど大人ではない。
「行きなさい、二人とも。せっかくだから次に来るときは、お客様として来てくれたら嬉しいわ」
「うん。ありがとう、歩さん。あたしこういう雑貨好きだから、今度はお買い物しにくるよ!」
「ありがとう、叔父さん。会えてよかった」
二人は手を振って、店を出ていった。
二人が出ていくと、店には静けさが戻る。
歩は残りの作業を終えてひとり、ハーブティーをいれて休む。
「……あれを見て、思い出してくれたらいいわ」
幼い頃のことを思い、ぽつりとつぶやく。
歩が小学生の頃、まだ駆は陸上部だった。
高校二年の夏、全国大会で金メダルを取った。
男子200メートル1位と彫られたメダルはとても輝いている。駆は大会から帰ってきてすぐ、満面の笑みで、ずっしり重いそれを歩の首にかけてくれた。
「うわあ! すごいね兄さん。メダル、すっごくきれい。いいなあ。ねえ、ちょうだい! これ一個だけでいいから」
「しかたないなあ……。歩は本当にキラキラしたものが好きだな」
「ありがとう! 一生大事にするわ」
歩はもらったメダルをお気に入りの宝箱に入れて、大事に保管することにした。
「歩はなんでも宝箱にいれるよな」
「何でもじゃないわ。きれいなものだけよ」
「歩にとってメダルは、きれいなものなのな」
海で拾った真っ青なシーグラス、桜貝、サイダーの瓶に入っていた透明なビー玉。両親はゴミだと言って笑うが、歩にとってはキラキラした宝物だ。
「他の誰かが同じのを取ってきてもきれいじゃないよ。兄さんの夢が形になったものだからよ。いつか自分のお店を持ったら、これを店に飾るの。アタシの兄さんはチーターに負けないくらい早いのよってみんなに話すの」
毎日毎日、駆が早起きして夜明け前の海岸線を走っていたのを知っている。一位になりたくて頑張っていたのを知っている。
夢に向かって全力でがんばっていた駆を知っているから、だからこれは、駆の夢の結晶。
「ばーか。インターハイはまだ通過点だ。いつかは世界大会のメダルを取ってきてやるからな」
「うん。楽しみに待ってる」
歩が言うと、駆は照れ臭そうに笑った。
幼い頃から人と少し違う、歩のこの性質《・・》を、駆は否定しなかった。両親は「男ならもっと男らしくしろ」と叱るだけだから、親の前では男子がする言葉遣いを意識するけれど、本来の自分と違う生き方を押し付けられることが、歩には苦痛だった。
家族の中でそのままの歩を許してくれるのは、駆だけだった。
夢いっぱいで、全力で走る兄をかっこいいと思っていたし、そんな兄にあこがれていた。
二人で使っている子ども部屋には、駆がこれまでに獲得したメダルやトロフィー、賞状がたくさん飾られている。
歩はこれからもまたきっと大会でたくさん入賞すると思っていたし、駆も、この先何度でもメダルを取ると思っていたはずだ。
両親に大反対されるあの日までは。
他の階の住人まで聞こえそうなくらいの声量で、駆のテストの点が悪かったのを責め立てる。
「駆。履歴書には陸上大会の履歴なんて書く欄はどこにもないんだ。なんの役にも立たん! こんな悪い点を取るくらい足枷になるなら、陸上は今日限りで辞めてしまえ!」
「そうよ駆。こんな点とって恥ずかしい。お義父さんたちになんて言われるか。貴方には、わたしたちみたいにちゃんとした大学に行って、商社に入ってもらわないと困るわ」
歩と駆の両親は、いつも東大卒で大手商社勤めであることを自慢していた。
歩はそんな両親を恥ずかしいと思っていた。
たしかに大学に行くには頭が良くないといけないし、商社に入るのだって努力の賜物だろう。
でも、それを鼻にかけて人を見下すのは違う。
「俺は続けたい。やめたくない。世界大会、目指したいんだ。勉強も頑張るから、だから……」
両親は許さなかった。
部屋に飾ってあった賞状は額を叩き壊し、全部破り捨てた。トロフィーもメダルも燃えないゴミの袋にまとめて放り込んでいく。底がすり減ってくたくたになったシューズも、マンションのゴミ集積場に放り込んだ。
「馬鹿なことを言わないで。世界大会なんて本当に才能のある人間しか出られないの。駆より早い人間世界にゴマンといるのよ。どうせ世界なんて行けずに終わって恥をかくだけ。最初から、目指すだけ無駄なのよ」
言い争う三人の姿が、今でも頭のすみに焼き付いている。
夢のために走り続けてメダルを取った駆を、歩は誇りに思う。それなのに。
両親が大事なのはテストの結果だけ。成績が悪い駆は、この両親にとっては親不孝で駄目な息子だった。
ゴミにされてしまった努力の結晶。立ち尽くす駆の背を忘れられない。
「……ごめん。もう、走らない。ちゃんと勉強するから」
「わかってくれて良かった。駆は良い子だな」
謝罪する駆の声は、怒鳴りたいのを押し殺して、なんとか絞り出した声。
鬼の形相だった両親はそれを聞いて笑顔になった。
部屋に帰ってきた駆は、布団をかぶって泣いていた。夜が明けるまで、ずっと。
(アイツらにとっての“良い子”って、学業の成績が良くて大卒でいい企業務めの子だけ……。アタシも、この家にずっといたら、こうやって夢を捨てられてしまう。兄さんは、……アタシの大好きな兄さんは、あんなに、楽しそうに走って、夢を追っていたのに)
この日以来、駆は一切笑わなくなった。
大学受験でストレート合格しても、就活で大手企業からの採用通知が来たときも、大学の同級生との結婚が決まったときも。
両親はその大事なことに気づきもせずに、繰り返す。
「おめでとう駆。どこにだしても恥ずかしくない、自慢の息子だ」
なんて歪。なんて醜い。そこにいるのは、抜け殻にされた駆なのに。
笑顔を奪ったのは自分たちなのに、なんで、自慢の良い子だと言えるんだろう。
高校で初斗に出会い、親しくなり、歩は宝箱を見せて、抱えてきた気持ちを話した。
自分の性質のこと、店を持ちたいという夢、夢を奪われてしまった駆のこと。駆に、夢を諦めてほしくなかったという気持ち。
精神科医になりたいと真剣に願い、勉強している初斗ならきっと、真摯に受けて止めてくれると信じて。
「あんな家に、もういたくないわ。父さんたちの言うまま、学校に通い続けていたら、アタシも兄さんと同じにされてしまう気がするの」
「そうだね。僕、歩には自由でいてほしい。ねえ、歩が自分の店を持ったらさ、僕のクリニックの内装をお願いしたいな。僕、センスないから、自分で家具を選んだら殺風景になってしまう」
全部受け入れて、歩が夢を叶える前提で、自分の夢を話してくれる。そのことが嬉しかった。
「任されたわ。初斗ってば、母の日の贈り物に、花壇の花を毟っちゃうくらいズレているんだもの。アンタも患者も気に入るようないい家具を見繕ってあげる」
「約束だよ。不思議の国のアリスに出てくるような、帽子屋のお茶会みたいな診察室がいいんだ。僕もちゃんと医師免許を取って独立するから、歩もお店を開いてね」
初斗はテストの成績だけ見ればトップなのに、たまに変な失敗をする。花壇の花を摘むのも、本人は良かれと思ってやったからたちが悪い。
初斗がずれたことをするたびに歩が軌道修正するのがお約束となり、同級生なのに母と息子のようだとクラスメートにはよく言われた。
はたからみれば母と息子みたいなものでも、歩と初斗としては対等な友だ。
初斗に背中を押されて家を飛び出した。
家を出る日、ちょうど兄夫婦が帰省していた。もうすぐ子が生まれると報告しに来ていたのだ。
親に押し付けられた道が正解と思いたいんだろう。夢を諦めたことを正当化するには、それしかなかったんだろう。
「高校中退して親の助けもなしに何ができるっていうんだ。できるわけ無いだろう。やめておけ。お前も友達なら家出なんか手伝うな!」
夢を奪われて泣いていた駆は、かつて自分が言われたセリフを、そのまま歩に投げかけてきた。
駆が止めても、歩は立ち止まらなかった。
駆の背を見てきたからこそ、メダルが入った宝箱を背負って走った。
(必ず、必ず叶えるから。アタシがその、馬鹿で無謀なことを成し遂げたなら、そうしたら、兄さんはもう一度、走ってくれるかもしれない)
海外に出て、くじけそうになることもあったけれど、そのたびにメダルを握りしめて気合を入れ直した。
自分が夢を叶えることで、駆が夢を追うことを思い出してくれるなら。
家を飛び出してから十九年。
歩と初斗は互いに夢を叶えた。約束通り、歩は初斗のクリニックの家具を一式揃えた。
マッドハッターのお茶会のような診察室、なんて、たぶんインテリアコーディネイターに依頼したら何言ってやがると言われそうだ。
駆のもとにも開店したことを知らせる手紙を出したけれど、音沙汰は無し。
かわりに、五年経ってから兄の娘ミチルが店の扉を叩いた。
大学を出ていい会社に入るのが幸せだと言われて育ち、絶望の淵に立たされたような顔を……あの日、夢を奪われた駆と同じ顔をしていた。
駆は、両親の教えが正解であってほしくて、娘にもそう言ってきたんだろう。
大学を出ていい会社に入る。人によっては正解かもしれないけれど、きっと、駆とミチルにとっては、幸せな道ではないのだ。
だから歩は、抱えてきた宝箱をミチルに託す。
駆が、夢を追っていた頃の気持ちを思い出してくれると信じて。