夢で満ちたら

「わあ、おっきいくも。とおくまでいけるのかな。ねー、ミチルおねーちゃん。ユメ、おっきくなったらくもになる」

 ミチルと手を繋いでいた五つ下の従妹、ユメが空を指差しながらはしゃぐ。
 ユメはまだ四歳だから、人間じゃなれないものでもなりたがる。
 祖父母宅の庭で遊んでいたふたり。
 ユメはさっきからなりたいものが、それこそ雲のようにもりもり増えていく。

「さっきまでネコになるって言ってたよね。その前には風になるって」
「うん。あ、スズメかわいい」

 スズメは駆けてきたユメにおどろいて飛びさっていく。

「どこにとんでくのかな。とりになったら、ガイコクもいける?」
「行けるんじゃないかな。スズメは無理だけど、渡り鳥って、外国から日本に来てまた遠い国に飛び立つから」

 本で得た知識を話しただけなのに、ユメはまるでヒーローを見るような目をする。

「すごい。ミチルおねーちゃん、なんでもしってるんだね! なら、ユメ、とりにもなりたい。かぜになって、くもになって、ネコになって、とりにもなるの」
「そっか。なれるといいね」
「うん!」

 無邪気に笑うユメは、一日の間になりたいものが十個増えていた。
 


 それから十数年。



 大人になったミチルは空っぽだった。

 満たされた人生を送れますようにという意味を込めて、母が名付けたらしい。名前負けにも程がある。

 父のかけるが「俺の母校に行くように」というから高校を選び、高卒より就職に有利になるぞと言われたから大学に入った。

 大学の就職活動が解禁されて、自分には何もないと気づいてしまった。

 ミチルの履歴書は、学歴欄以外は真っ白だった。

 学年首席を取れても、履歴書にはテストの順位を書く欄なんてない。 

 面接対策本を参考になんとかそれらしい理由を書いて、担任が何度も面接練習をしてくれた。
 四十件面接に行き全敗というのが、ミチルの全てを物語っている。

 多くが圧迫面接で、心が折れる。リクルートスーツに袖を通すだけで吐き気を覚えるようになった。

 中年の男性面接官の言い放った言葉が、心臓に深く刺さって抜けない。



「あのねぇ、大学出るだけの人間なら、毎年五十万人以上いるわけよ。去年もその前もね。
 大卒しただけの人間は、君より前の時間に面接に来た十人、君以降に控えている二十人も同じなんだよ。
 あー……ドングリの背比べっつうの? 学歴だけならね。君、他の子よりどこか一つでも優れているとこ、ある? ないんでしょ。
 何したくて大学行ったの。何したくてうちを受けたの。そんなんでうちを受けて何ができるの?」



 正論すぎて、何一つ返す言葉が出てこなかった。

 大卒は同じ年度だけで五十万人もいる。来年も、その次も、どんどんと同じ大卒の肩書を持つ人は増える。
 大卒なんて、武器にも何もならない。

 夢を持ち、そのために資格の勉強などを怠らなかった人は最強。
 ミチルは、教わったそれっぽい面接対策のセリフを暗唱するだけ。

 父親に強いられたレールを言われるまま歩くだけだった。

 そんな人間が、ここに来るために努力を惜しまなかった人間に勝てるはずがなかった。


 なんとか卒業前に採用通知が来た会社に入社したら、真っ黒黒だった。

 なんとかマニュアル通りの仕事を覚えても、
「言わなくても察しろ」
「そんな簡単なこといちいち聞くな」
「自分で勝手に判断するな言われたことだけやれ」
「言われたことだけしかできないやつは無能だ」
 二転三転する上司の言葉に踊らされ、何が正解かわからないまま罵倒される。
 サービス残業は月五十時間を超えた。

 三ヶ月でもう辞めたいと上司に言ったが平手打ちされる。
 父にも泣きついたのに、「石の上にも三年と言うだろう。最低でも三年頑張ってから言いなさい」と諌められる。

 父の言葉に従って働き続けたが、半年で精神もボロボロになり辞職したいと直属の上司に改めて告げ、退職願いを出した。

「辞めるなんて許さん!」と元職場からの鬼電が五分おきにあったせいでスマホの着信音も怖くなり、衝動的にスマホを解約した。


 そして今日まで、自室警備員となっていた。
 風呂とトイレ以外では部屋から出ない。
 母の美優みゆうが簡単な食事を部屋の前に置いてくれる。食べられる精神状態の時だけ食べている。


 今日が西暦何年の何月何日なのかもわからない。

 人形のように生きていたある日の朝、母がミチルの部屋の扉をノックした。
 食事を置いていくときは物音でわかる。だから、あえてノックしてくるのはこれまでなかった。

「ねえ、ミチル。覚えている? わたしの妹……沙優さゆの娘のユメちゃん。今年高三でね、明日から夏休みなのよ」

「……ユメが、なに?」

「その、成績があまり良くなくて卒業できるか怪しいらしいの。だから、ミチル。ユメちゃんの家庭教師、してあげてくれない? ユメちゃんも、ミチルが先生なら安心して勉強できると思うの。もちろん、引き受けてくれるなら、家庭教師のお給料を払うからって沙優がお願いしてきたの」

 叔母も、今のミチルを知っているはずなのに。
 引きこもりに家庭教師を頼むなんて、正気と思えなかった。

 母はなおも続ける。

「ミチルがオーケーしてくれるなら、夏休みの間ユメちゃんにうちに住んでもらおうかと思う。あなたたち、仲良しだったから……赤の他人なら無理でも、ユメちゃんなら、大丈夫じゃないかしら。ね? ミチル」

 労わるような、優しい声音だ。母は仕事を辞める時も、一度もミチルを責めたりはしなかった。
 こうして引きこもりになったミチルを怒鳴り散らしてもいいはずなのに。根性無しだと怒鳴ったのは父の方。
 うつむくと、この数年で伸び放題になってしまった髪が顔を隠す。

 ミチルが培ってきたものなんて、社会ではなんの役にも立たなかった。
 小さい頃、キラキラした目でミチルを見ていたユメ。
 今のミチルを見たらどう思うだろう。
 こんな情けない姿になっているなんて思わなかった、と幻滅されるだろうか。

 答えに迷っていると、母が続ける。

「ミチル、あのね。あなたもずっと今のままでいいとは思っていないでしょう。三日、三日だけ試してみて、それで無理なら帰ってもらうし、大丈夫そうなら一ヶ月。どうかしら」

 一生このままでいいわけではないのはわかっている。
 いつかは外に出て働かないといけない。

 でも、またあんな風にボロクソに罵られながら働くのはどうしたってできない。
 思い出すだけで心臓が冷えて、体が震える。
 吐き気がして、両手で口をおおった。

 気心れた従妹との三日、たった三日。
 それができるなら、まだミチルは起き上がれるかもしれないと、母と叔母が、ミチルの心のリハビリがわりに提案してくれたんだと何となくわかった。

「…………わかった。三日ね」
「ありがとう、ミチル! 沙優とユメちゃんに話しておくわ!」

 足音が遠ざかる。きた時よりも嬉しそうな、軽い足どり。
 ミチルがたった三日、家庭教師をすると言っただけなのに、母にとってはスキップしたくなるくらい嬉しい出来事なのだ。
 
 ミチルがやり直すための第一歩。
 昨日までと違う新しい三日が、始まる。
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