暗愚な名君フェリクスの軌跡

 約束の日になり、ラーラはアンネリーゼに「お世話になります」と頭を下げた。

 住み込みで働くという契約なので、トランク一つを持って、生まれ育った家を出た。

 
 アンネリーゼは馬車で迎えに来てくれた。

 屋敷に着いて、目を奪われた。
 実家の宿屋よりも大きくて、装飾も美麗。庭の手入れもされていて、夏の花が咲き誇っている。
 深呼吸すると甘い香りが鼻をくすぐる。

「すごい。ここが、リゼ様のお屋敷ですか……」
「ここは別邸。基本的にわたくしの住まいはこちらなの。本邸にはお父様とお母様、それからお祖母様が住んでいるわ。本邸よりは規模が小さいけれど、わたくしは気に入っているの」
「こんなにも大きなお屋敷がいくつもあるなんて、本当にすごいです」

 ラーラは広い世界を見てみたいと思っていたけれど、国内にも知らないことがたくさんある。

 使用人一同の前でアンネリーゼ専属通訳として紹介され、挨拶する。

 侍女という、身の回りのことをしてくれる人までいる。侍女は男爵家の娘なのだという。
 掃除洗濯はメイドが担い、食事担当の者もいる。

 屋敷の中をひと通り案内されて、そこでも驚きの連続だ。

 一階にお風呂があった。
 平民は家に風呂がないため、大衆浴場に行くしかない。
 調理場には立派な石窯があって、宿屋にもこのサイズの窯が欲しいなんて思った。

「そしてここがラーラの部屋。好きに使ってくれて構わないわ」

 ベッドのサイズはダブル。
 テーブルセットは高級な木材。
 ウォークインクローゼットも、ラーラが持ってきた服をかけてもスペースが有り余る。

 夢じゃないかと目を疑った。

「ラーラの仕事用の服もあつらえましょうね。明日仕立て屋を呼ぶから、採寸してもらいましょう」
「ええええっ。仕立て屋って」
「まずは礼服数着。ドレスも何着か必要ね。それから普段着も。ざっと十着作ってもらうことになるかしら」
「ま、ま、待ってください、そんなに仕立てるんですか!? そこまでしていただくわけには」

 服なんて春物冬物あわせて四着しかない。今着ているブラウスとロングスカートの組み合わせも、持っている中で綺麗な方。冬のコートは母から譲り受けたものを繕い直して使っている。
 平民の多くは服をあまり持っていない。ラーラの四着も、持っている方に入る。

 そんな服事情のラーラには、クローゼットを埋めつくす勢いでオーダーする気のアンネリーゼが信じられなかった。

「いいですこと、ラーラ。取引する相手は、わたくしだけでなく、わたくしの側付きの者のことも見ます。貴女の服装で、バルテル家の財力をはかるのです。貴女がどれほどの給料をもらっているか」

 取引の際にラーラが平民暮らしのままの着古した服を着ていたなら、毎回同じ服を着ていたら「従者がまともに服を買えないなんて、バルテル家と商売して大丈夫だろうか」と思われることになる。
 
 貴族には相手の弱みを握ろうとする者も少なくないから、服や装飾品は絶対に必要なのだ。


「だからグーテンベルクで最先端の技術を駆使したいい服をあつらえる必要があるの。貴女の服とドレスを揃えるのは必要経費です」
「取引の場に立つために礼服を着るのは理解しました。ドレスは何故」
「ひと月後に、グーテンベルクの王城で舞踏会があります。各国の貴族が呼ばれています。勿論、わたくしも。そこで貴女をわたくしの側近、通訳としてお披露目します。舞踏会で繋がりを持てば、今後取引の交渉をしやすいでしょう」

 初の仕事が、異国の貴族が集う舞踏会での通訳。
 ラーラはあまりの大仕事に固まってしまう。

「服を仕立てている間に文字の勉強をしましょう。話せるけど読み書きに自信はないと言っていたでしょう」
「わかりました。私に学がないと、リゼからに恥をかかせてしまうことになりますものね。がんばります」

 平民のラーラが勉強する機会なんて他にない。
 ラーラを信じてこれだけ目をかけてくれるのだから、応えられるよう努力しようと心に誓う。

「あと、万一にそなえてダンスの練習もしましょうか。舞踏会で誘われる可能性はゼロではありませんもの」
「ダンス!?」


 読み書きの勉強だけでなく、ダンスまで。貴族のアンネリーゼを補佐するためには覚えるべきことがたくさんだ。

 夕食はラーラを歓迎するためと言って、料理人の腕がふるわれた。

 食べながら、アンネリーゼがカップの持ち方からナプキンの使い方を見せて手本になってくれる。
 ラーラは見様見真似でナイフとフォークを持ち、ムニエルやキッシュに舌鼓をうった。
 食べながら調味料の配合や焼き加減を考察してしまう。宿のメニューに追加したいと考えるのは職業病というやつだ。
 レシピを知りたいと言って、料理人に笑われてしまった。

 食事のあとは自室でベッドに飛び込んだ。
 弾力があってふかふか。布団からは太陽の匂いがして、生家を思い出した。
 貴族でも干した布団の香りは同じ。なんだか嬉しい。

 寝転がったまま両手を上げて、手を握ったり開いたりする。
 ナイフとフォークを使った食事なんてしたことがない。普段使わない位置の筋肉を酷使したから、手がギシギシいっていた。

「ほんとうに、来たんだ。通訳として、働けるんだ」

 声にしてようやく、じわじわと実感がわいてきた。

 寝て起きたら実家の自室でした、なんてオチじゃないかと心配になったけれど、目覚めてもちゃんとバルテル別邸だった。

 いつもの癖で夜明けとともに起きてしまい、厨房の手伝いをしようかと覗いてみる。

「ラーラさんはラーラさんの仕事があるのだから、気持ちだけ受け取ります」と言われて部屋に戻ることになった。
 そんなつもりはなくても、ラーラが手を出せば料理人とメイドの仕事を奪う形になってしまう。
 善意はときに迷惑になると理解した。

 実家ではみんなで分担していた。足りないときは他の誰かがサポートにまわっていた。
 なんだか寂しい気がしてしまうけれど、料理人が言うとおり。
 ラーラはこれから、アンネリーゼをサポートするために文字を学ぶ。

 多くの言語を話せても読み書きはできない、それではだめだ。

 朝食のあとしばらくして、仕立て屋が来た。
 白髪をアップにしたその女性は、メガネをかけていて、柔らかな笑いじわが印象的だ。
 ロングスカートの裾を持ち上げてお辞儀をする。

「ごきげんよう、アンネリーゼ様。本日は仕事着とドレスの仕立てを希望とうかがっています」
「ご機嫌麗しゅう、マダムテレーゼ。今日はわたくしではなく、こちらのラーラの服をひと通り作って欲しいの。これからわたくしの側で通訳として働いてくれるのよ」
「かしこまりました。ラーラ様、お初にお目にかかります。わたしはテレーゼ。王都で仕立て屋を営んでおります。本日は宜しくお願いいたします」
「こちらこそ、宜しくお願いいたします」

 マダムテレーゼとその補佐の少女がメジャーを持って、ラーラを囲んだ。
 胸囲や腹囲だけでなく、袖丈手首周り足の長さ、とにかく測れるものは余すことなく寸法をとられていく。
 立っているだけなのにかなり体力を消耗した。

「最近流行りのデザインですと、スカートの裾が長くバストラインは体にフィットするものです。よろしいでしょうか」
「お、お任せします。私は社交界の流行がわからないので」

 アンネリーゼは離れたところに座って一部始終を眺め、楽しそうに笑っている。
 助けてと言いたいけれど、これは服を仕立てるのに必ず通る道。

 手のひらまわりも測り、マダムテレーゼは目を細める。
 毎日厨房の手伝いから配膳洗濯掃除をしているから、タコだらけ。
 美容クリームを買うお金なんてないから、タコはそのまんまだ。
 きっと普段マダムテレーゼが採寸する貴族の令嬢たちは、こんなにボロボロの手をしていない。
 ラーラは少しだけ引け目を感じてしまう。

 実家の仕事を嫌だと思わないし、楽しんでいたが、手の綺麗さを較べられれば勝てる要素はない。


「ラーラ様は働き者の良い手をしていますね。体全体の筋肉のつき方もバランスがいいですし、普段から立ち仕事をされている人の体つきです」

「は、はい。十歳の頃から、実家の宿屋で働いていました。筋肉のつき方で、立ち仕事だとわかるものなんですか」

「もちろんですとも。騎士様のように鍛えた方は肩や腕の筋肉が大きくなりますし、研究職の方は細身の方が多い。漁師や農業の方は足腰も鍛えられるので足も筋肉がついている」

「勉強になります。仕立て屋さんにはおとぎ話のような魔法があるのかと思ってしまいました」
「あらあら。魔法使いだなんて、嬉しいですねぇ」

 体つきで職業を当てられたことに驚き、同時に感心する。

 親から子へ、子から孫へと伝聞されていくおとぎ話には、妖精や魔法使いがよく登場する。

 少女を一瞬でドレス姿にしてくれる魔法使い。
 空を飛ぶ光の粉をふりまく妖精。
 アンネリーゼが着ている服は皆マダムテレーゼの仕立てたものだと聞いて、きっとこの人は魔法使いなんだと思った。
 真紅のドレスはアンネリーゼにとてもよく似合っている。


 マダムテレーゼは採寸を終え、最後にラーラに聞く。

「ラーラ様、お好きなお色やデザインはありますか。ご希望の色を取り入れますゆえ」
「青が好きです。毎日海を見て育ったので、落ち着くんです」
「左様でございますか。承りました」

 マダムテレーゼはラーラの要望を手帳に書き留める。そこに、これまで黙っていたアンネリーゼが一言付け足す。

「マダムテレーゼ。ラーラは落ち着いた雰囲気だから、ブラウンも似合うと思いますの。ブラウンの礼服とドレスも一着ずつ仕立ててくださいませ」
「ご要望のままに」


 仕立て屋が帰ってから、ラーラはアンネリーゼに聞く。

「ありがとうございます、リゼ様。私、がんばります」
「期待に応えようと思ってくれるのはありがたいけれど、がんばりすぎは禁物よ。あなたの代わりになれる人なんて居ないのですから」
「はい」

 気負いすぎないように注意されて、ラーラは小さくうなずく。
 アンネリーゼは柱時計を確認して、窓の外を見る。

「もうすぐダンスの講師が来る時間です」「先生は、どんな方なんです? 私、先生とうまくやっていけるでしょうか」

 ラーラの中で、教鞭をパシパシ振る老齢の女性の姿が浮かぶ。
 貴族にダンスを教える講師、間違いなく上流階級で、本人も長年ダンスをしていて、とにかく厳しくてすごい人じゃないかと考えた。
 平民なんかにダンスを教えたくないと言われてしまったらどうしよう。なんて不安もある。
 

「心配しなくても、ラーラと相性がいいはずだから大丈夫よ」

 絶対に大丈夫だと繰り返し言われ、ラーラは覚悟を決めた。



 屋敷の広間で講師を待ち、予定時間より少し早く、扉が開かれた。
 侍女に案内されて入ってきたのは──。

「リゼ。新しく雇った付き人を紹介するって言っていたけど一体…………って、ラーラ!?」
「フィーさん!?」


 見間違うはずもない。講師として現れたのは、フィーだった。


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